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めいすいの写真日記

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犬吠埼ホテルと料理

2014-05-10 | 旅の写真

「絶景の宿」がキャッチフレーズの犬吠埼ホテルに宿泊しました。ホテルは2人一室、2組で宿泊しましたが、オーシャンビューが出来、
和室の二部屋はゆったりとしていました。男性用露天風呂から太平洋と犬吠埼の灯台が見えました

このホテル、玄関横でペンギンが歓迎と見送りをしてくれます。近くの犬吠埼マリンパークから出張してくるらしい。

ここからは、日の出をよく見ることが出来ます。この日の日の出の時間は午前4時39分。ホテルの庭から撮影しました。
しかし、晴れてはいたのですが水平線には少し雲がかかっていました。
どこから日の出があるかを調べておいて、海岸に出て犬吠埼の灯台を入れて撮ればもっと良い写真が撮れたと思います。
犬吠埼は、場所によっては180度以上の展望があり、地球が丸く見えると言われています。ホテルの屋上も午前4時から開放されていました。

夕食はレストランの個室で取りました。
手前から、白魚と青菜のおひたし。江戸前にぎり寿司。お造り三種盛り(刺身)、右 金目鯛幽庵焼き、鶏肉と野菜、左 鰯のつみれ鍋

小芋、厚揚げ、椎茸、蓮根、茄子の煮物

この日のハイライト、伊勢エビの鬼殻焼き

同じく、アワビのバター焼き

茶碗蒸し

桜エビ御飯、アサリの味噌汁、香の物

デザートは、西瓜とケーキ

従業員はとても親切で雰囲気はとても良く、料理は美味しく食べられて、とても満足のいくホテルでした。


犬吠埼マリンパークのイルカのショーなど

2014-05-09 | 旅の写真

イルカのショー。さすがにイルカは能力が高く。様々な芸を見せてくれる。ジャンプ力も半端でない。
ショーの前に客席の前まで水が飛ぶので、くれぐれも注意と繰り返し言われます。

この水槽には2匹のアザラシがいて、いろいろな芸を見せてくれた。もう1匹は右上にチラリ。

私の住む志木市の荒川に以前、アザラシが何日か姿を見せてことがあります。
新聞やテレビに取れ上げられてフィーバーとなり、市では「あらちゃん」というゆるキャラまで作りました。

フンボルトペンギン。このペンギンは南米のチリなどに生息し、暑さに対しては耐久性を持っている。その代わり他のペンギンと異なり、
寒冷地には弱い。

一日に2回、食事をする。1匹に鰯を5、6匹与えているようだ。

すぐそばに、ペンギンとにわとりの玉子が並べてあった。すこし、ペンギンの方が大きい。
ただ、にわとりの卵は食べる気はするけれど、ペンギンの卵というと気は進みませんね。


中禅寺金谷ホテル(2)

2013-11-07 | 旅の写真

和食の朝食は、御膳で運ばれてきました。最近のホテルはビュッヘ形式がほとんどですが、こうした方法も落ち着いて食事ができるので

良いものだと思いました。

女房は洋食を頼みました。周りを見ると洋食の人の方が多い、日本人も朝食は家庭でも洋食派が多いのでは?と思いました。

私の食事している席から見たテラス。扉を開けて、外に出ようとしたら「済みませんが、止めて下さい」とホテルの人に言われました。

猿が、匂いをかぎつけて飛び込んでくることがあるようです。そのような気配はまるで感じませんでしたが・・・。

 もう10年も前に来たときは、中禅寺湖の湖尻周辺の商店街やいろは坂で、猿が多数姿を見せ悪さをしていましたが

今回は一匹も見ませんでした。


中禅寺金谷ホテル(1)

2013-11-06 | 旅の写真

 赤城の山麓のOさんのログハウスを訪れた後、足を伸ばして紅葉の美しい中禅寺湖を訪れることにしました。

 その日は、「中禅寺金谷ホテル」に泊まることにしました。

  「日光金谷ホテル」は今年、創業140周年を迎えるたそうです。

庭は、ちょうど紅葉の時期を迎えていました。

夕食はホテルのレストランで取りました。

紅葉が広がっている外の様子も見えて、雰囲気はとても良く感じられました。

まずは、鮭とアワビのオードブル

そして、コーン・ポタージュスープ。ワインは、この地のもの。

魚料理は、シマアジのポアレ。

このホテル独特の「大正コロッケット」。パン粉をつけてあげるコロッケとはひと味違いました。

野菜サラダ。

「季節のデザート」、フルーツとババロアとアイスクリーム

そしてコーヒー。

部屋に戻るとライトアップされた庭の紅葉が見えました。


わたらせ渓谷鉄道 足尾駅

2013-11-03 | 旅の写真

 赤城山麓のOさんのログハウスを訪れた後、日光、中禅寺湖のホテルに向かいました。

 国道122号線を北上するのですが、何故かカーナビが122号線の足尾バイパスを通らずに、道の狭い旧道を通りました。

ふと見ると、時代をタイムスリップしたような駅が見えてきました。わたらせ渓谷鉄道足尾駅でした。

わたらせ渓谷鉄道は栃木県桐生市を起点とし間藤まで、17駅44Kmの第三セクターの経営する鉄道です。

ほとんどが無人駅で、朝の通勤時にボランティアの駅員がいるようです。

歳が分かってしまいますが、昭和20年代から30年代にかけて、全国どこの駅もこのような形でした。

 

無人駅なので、改札からホームに出てみました。きれいに整備された線路が、ローカル線の感じを良く醸し出していました。

ネットで調べてみると、なかなか雰囲気のある列車が走っているようです。土日や行楽日には、トロッコ列車が走ることもあるとのこと。

 


甲州市 「ぶどうの丘」、「マンズワインの甲州工場」

2013-09-25 | 旅の写真

二日目は、清里高原から甲州市、勝沼に。ちょうどブドウの季節でもあります。

清泉寮での朝食はバイキングでしたが、私は和食。北杜市産の新米のご飯、味噌汁、しらすおろし、海苔と納豆、煮物、漬け物など

必要にして十分で美味しく食べられました。フレンチトースト、ベーコン、ウィンナーがあるのは洋食も混在ということ。

レストランのテラスから見た風景。コーヒーを飲みながら見る景色は気分がゆったりとします。

 ぶどうの丘

十時に清里高原を出発し、中央道を戻り、ブドウで有名な勝沼へ。まず甲州市立の「ぶどうの丘」に行きました。

ここの本館には、周辺で取れるワインが数多く売られており、地下にはワイン倉もあります。

ブドウの房を肩に持った裸婦像の噴水。感じが出ています。

ぶどうの丘と言うだけあって、ほぼ360度に景色が眺められます。広がる畑は、ほとんどがブドウの畑です。

さすがブドウで知られる甲州市勝沼。行く先々で「ぶどう狩り」の旗がたなびいていました。

当初は葡萄狩をするつもりでしたが、結局、買って帰ったのは、銘菓「月の雫」と桃とマンズワイン(赤、白、ローゼ)でした。

ぶどうの丘の一角にある、ほうとうの店 「思蓮(おもれ)」

食べる前は、あまり期待していませんでしたが、ここのほうとうは、私が今まで食べたほうとうの中ではベストといっていいほど。

ここの「ほうとう」には、赤ブドウの皮などに含まれる強力なボリフェノールの一種、レスベラトロールを生地に練り込んであります。

このため、麺は薄紫色をしています。このため、健康・長寿の元になるということです。効果はフランス人の長寿で証明済み。

しかし、それ以前にコシもあり、食べて美味しいのが素晴らしい「味噌ほうとう」になっていました。。

南瓜も新しく、里芋、人参、インゲン、ナメコなどの野菜も新鮮で歯ごたえがありました。

 マンズワイナリー

次に、ぶどうの丘の近くにあるマンズワイン甲州工場を訪ねました。

帰り際に、「マンズワインの甲州工場」立ち寄りました。工場見学は平日13時ということもあって、私と女房二人。

30分のコースを丁寧に45分かけて工場内を案内してくれました。

多くのタンクが立ち並び、コンビナートの工場のような雰囲気も。地下には、ワイン樽も数や多く貯蔵されていした。

コルクを採るこるく樫の木が植えられていました。日本では大きくならないとか。

コルクは樹皮から採るということを初めて知りました。そのためには巨木でなければなりません。

樹皮を剥いでしまうと枯れてしまうのかと思ったのですが、何年かするとまた樹皮が出てくるようです。

工場内に植えられていた白ブドウの一種シャルドネ。我が家では酎ハイ「氷結シャルドネ」をよく飲みます。

シャルドネはよく知られたブドウの品種ということを今回初めて知りました。

 


初秋の清里高原

2013-09-24 | 旅の写真

9月23日、24日と山梨県に行きました。

1日目の目的地は清里高原、中央地構帯(フォッサマグナ)からわき出す豊かな温泉地としても知られています。

コスモスがとてもきれいに咲いていました。ところで、後ろの山々の中央にはかすかに富士が見えていました。この写真では見えない?

こちらの写真でも?右手にうっすら写っているのですが・・・・。現地でも周りの人が、「見える? あっ、見えた見えた!」などと言っていました。

ところで、中央の山は金峰山、そして左に甲武信岳が見えます。

反対側には八ヶ岳連峰の主峰 「赤岳」 が見えます。手前は清里高原では一番有名な「清泉寮」の売店。

人気のジャージー牛乳から作ったソフトクリーム。十数人の列が出来ていたので並んで買いました。

「清泉寮」新館の入口。

山梨県なので、まずは地元の赤ワイン、そして地ビール・タッチダウン。

タッチダウンというビールは、この清泉寮の創始者・ポールラッシュが日本で最初にアメリカンフットボールを紹介したことに因んで名付けられました。

前菜は地元の野菜など、右の茶碗蒸しのようなもの(洋風茶碗蒸し フラン?)は、私には、極上の味でした。

日本酒は地酒の「七賢」を頼みました。

メインの料理は、鱒を湯葉で来るんだもの、中にはキノコなど、そしてインゲン。そして、そば粉入りの麦ご飯にとろろ(右上)

デザートはチョコレートムース、モンブラン、白いプリン。お皿の上はチーズケーキとシュークリーム。

バイキング形式になっていて、小さいのでついつい沢山持ってきてしまいました。ちょっと写真にするのが恥ずかしい。


伊勢・志摩の旅・・・伊勢神宮・内宮

2013-02-27 | 旅の写真

伊勢神宮・外宮を参拝した後は、内宮へ。

外宮に比べてはるかに参拝者は多く、10倍以上と言っていいでしょう。
入口前の広場にはたくさんの観光バスが並んでいました。

その広場にあった説明板。祀られているのは天照大神(あまてらすおおみかみ)。
外宮とは祀られている神様が違うので人気も違うのだと分かりました。

宇治橋鳥居は伊勢神宮の表玄関。その奥、五十鈴川にかかる木造の宇治橋は長さ101.8m。

正宮に続く参道と左右には神苑。玉砂利を踏みしめて歩きます。

五十鈴川御手洗場から見た上流の五十鈴川。清流ですが、あまりに水が澄んでいるので「お金を投げ入れないで下さい」との立て看板があるにもかかわらず、お金がたくさん投げ入れられていました。
本当場御手洗場のなので手を清めて口をすすぐ場所なのですがねー。

この清流五十鈴川の下流には、五十鈴川の水を導き入れた水田があり、伊勢神宮のお供え用の米を作っているとのことである。

2000年もの歴史を持つ伊勢神宮。参道の樹木である楠も歴史を感じさせてくれます。

正宮。階段下でしか写真は撮らせてもらえません。

こちらは荒祭宮天照大御神の荒御魂を祀っている別宮。この別宮には、鳥居はありません。

なお、現在立て替え中の社殿に、装束神宝を新調してご神体を移す式年遷宮「遷御(せんぎょ)」の儀は、内宮は10月2日午後8時
暗闇の中で行われます。

伊勢神宮の門前町である「おはらい横町」。多くの人たちで賑わいます。石畳の道に切り妻の昔ながらの家々が立ち並ぶのはなかなかの壮観。
なんといっても有名なのは「赤福」の本店。ご近所と職場のお土産にいくつか買って帰りました。
参拝する人とって有名な「伊勢うどん」があります。今回は時間が無く食べられなかった少々残念。


伊勢・志摩の旅・・・伊勢神宮・外宮

2013-02-24 | 旅の写真

 「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなく て涙こぼるる」西行法師。

 伊勢神宮を訪れる人の多くは、西行法師の思いが率直な気持ちであることが多いのではないでしょうか。
かくいう私もその中の一人です。
 今年は20年に一度の「式年遷宮」と呼ばれる神様のお引っ越しの年。このための工事が要所、要所でおこなれていました。
まずは外宮を訪ねました。

 外宮は豊受大御神(とようけのおおみかみ・・・食物・穀物を司る神)を祀り、豊受大神宮とも呼ばれます。
 

第一鳥居。周辺の森が歴史を感じさせます。鳥居は、真ん中から入らず、少しどちらかによって入るのが基本だそうです。
外宮は左側通行というので、左寄りから入ると言うことでしょう。一礼して入ります。

せんぐう館。遷宮のための資料館。1300年にわたって続けられ、今回62回を迎える式年遷宮の記念館。平成24年4月開館。

正宮(しょうぐう)

内宮の正宮と規模や造りは、ほぼ変わりませんが、鰹木が内宮より1本少なく、千木が外削(先端が垂直に切られている)になっているとのこと。

多賀宮。豊受大御神の荒御霊を祀っている。

土宮。大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀る別宮。

風宮。風の神を祀る別宮。

北側御門口。中央に「左側通行」の立て看板がありました。

現在立て替え中の社殿に、装束神宝を新調してご神体を移す式年遷宮「遷御(せんぎょ)」の儀は、外宮は10月5日午後8時
暗闇の中で行われます。


伊勢・志摩の味覚・・・鳥羽「かず美」

2013-02-18 | 旅の写真

大阪・堺市に泊り、祝い事を済ませた後は車で伊勢に向かいました。宿泊地は鳥羽で「かず美」という旅館。伊勢では「しめ縄」は
年中つけておくのだとか。
大阪から鳥羽に向かう途中、東名高速が渋滞して、到着が7時半過ぎになってしまいましたが、料理はしっかりと用意しておいてくれました。

◆ 夕食

前菜類。柔らかい酢蛸が美味でした。

伊勢エビ、アワビ、鯛、ハマチなどのお造り。

ハマグリ、サザエ、カキの焼き物。

カキフライ。

寿司。

◆ 朝食

 
茶碗蒸しと干物などの朝食。
 
 
上は湯豆腐の鍋、昨日の伊勢海老を使った味噌汁。
 
夕食も、朝食も伊勢・志摩の味覚を味わうことが出来ました。

「かず美」という旅館は、るるぶ「伊勢・志摩」を見てインターネットで予約したのですが、写真の通り料理はまずまずでしたが、
鳥羽駅から車で30分ほどと山道を奥まで入らなくてはならず交通が不便、温泉など旅館の造りが設備が古いなど値段の割には少々、
期待外れでした。女将さんと従業員がとても親切なのが救いでしたが・・・・。


八ッ場ダム 第1橋梁と橋上からの風景

2012-09-26 | 旅の写真

  八ッ場ダムが出来上がると水没してしまう群馬県長野原町付近では、道路やJR吾妻線の付け替え、
温泉街・住宅の移転など、周辺施設の整備が進んでいます。
 まだ、八ッ場ダム本体の工事には着手していませんが、全体工事費の7割以上がこうした施設整備
に使われ執行済みとのことです。
 この日はあいにくの雨模様でしたが、うすい雨雲がかかり幻想的な風景を見ることが出来ました。

  地域防災センター「やんば館」から見た、完成し交通解放されている第1号橋梁(仮称)。
 
橋長590m、有効幅員(車道7.0m、歩道3.0m×2)。

こちらは第2橋梁から見た、下流側で建設中の第1橋梁。

同じく第2橋梁から上流側に見える丸岩。中国の桂林の風景を思い出しました。

 第2橋梁直下の風景。右側は吾妻川の流れ。中央は刈り入れを待つ稲田。
 左上は、1枚目の写真を撮った地域防災センター「やんば館」。この風景はダムが完成すると水没します。 


軽井沢 万平ホテル

2012-08-23 | 旅の写真

少しでも酷暑の夏を避けようと、軽井沢に8月21日から22日まで家族4人で出かけました。
家からは車。関越自動車道、上信越自動車道経由で2時間ほどで到着しました。

泊まったホテルは軽井沢の老舗の「万平ホテル」

旧軽井沢の商店街から万平ホテルに向かう道は木立に囲まれた通りとなっています。
街灯がないので夜は真っ暗になってしまうようです。

玄関を入ってすぐのところにあるカフェ、午後3時頃のティータイムは混雑します。

ここの名物はジョン・レノンがリクエストしたというロイヤルミルクティー。ケーキが来るまで待っていたら、生クリーム
が溶けてしまいました。左はブルーベリー・ケーキ。

一階の資料室には、ジョンレノンがここのホテルに長期滞在していた時に、よく弾いていたというアップライト・ピアノが。
レノンは、このピアノが欲しいと言ったとか。

また、夏は軽井沢芸術祭が行われていて、若き才能ある音楽家たちが軽井沢に集い、教会、美術館、宿泊施設
で無料のコンサートが開催されています。そして21日は、運良く万平ホテルのロビーでのコンサートがありました。
演奏者は重岡菜穂子(Vn)さんで、曲目はバッハ作曲「無伴奏バイオリンソナタ第1番」
私のウォークマンにはヘンリク・シェリングの「無伴奏バイオリンソナタとパルティータ(全曲)」
が入っていて、ウォーキングの時など良く聞いています。
しかも没頭の部分なのでので親しみを持っていますが、彼女の美しいバイオリンの響きには大きな感銘を受けました。

夕食は外のレストランに出かけていきましたが、朝食はホテル内の「京料理 熊魚庵(ゆうぎょあん)」でとりました。

京料理らしい自然食が多く並べられた朝食で美味しく食べられました。

帰ってきた翌日23日の日本経済新聞の文化欄に、万平ホテルが「日本のモダンホテル10選」
の3番目として掲載されていました。これには、ちょっとびっくりしました。


プリトヴィツェ湖群国立公園・・・クロアチア・スロべニア・ヴォスニアヘルツェゴビナの旅(7)

2012-08-21 | 旅の写真

 クロアチアの世界遺産(自然遺産)プリトヴィツェ湖群国立公園内は、16個の湖と90以上の滝が点在します。カルスト地形によりダムで区切られた、
いくつもの湖はミネラル や有機物によりエメラルド色など変化に富んだ美しい景観をなしています。
 海抜640mのプロシュチャンス湖からコナラ川に流れ出るまでの標高差は 150m。階段状になったところを流れ落ちる滝は躍動感にあふれ、
見る人の心を奪います。この日は好天に恵まれてプリトヴィツェ湖群国立公園の素晴らしい さを存分に味わうことが出来ました。

 


ドブロヴニクの街・・・クロアチア・スロべニア・ヴォスニアヘルツェゴビナの旅(6)

2012-08-17 | 旅の写真

  ドブロヴニクは地中海の東部と西部との要衝にあり、古くから海洋国家、ラグーサ共和国として栄えていました。
14世紀から15世紀に城壁都市として発展し、16世紀から17世紀には共和国として繁栄を極めました。
 今もクロアチアの南ダルマチア地方の中心都市となっています。
 紺碧のアドリア海に面し、堅固な城砦に囲まれた美しい街並は「アドリア海の真珠」と呼ばれ、多くの観光客が訪れます。
1979年、旧市街は世界遺産(文化遺産)に登録されました。

ケーブルカーから見たドブロヴニクの旧市街。アドリア海の紺碧の海が拡がります。

 旧市街の西側にある、ピレ門。数世紀にわたり正面入口として用いられていました。今も、旧市街の入口のメインゲートになっています。
 現在のようなルネッサンス様式の半円形の塔が出来たのは1537年です。
 かつては門の前の木製の跳ね橋が日没後は鎖で巻き上げられて、門は固く閉ざされました。

 門から旧市街に入ると、メインストリートであるブラツァ通りに出ます。左手手前は救世主教会、左手奥は聖フランシスコ会修道院の建物。
 遠方の塔はルジャ、鐘のついた時計塔で、その前はルジャ広場。

 右手にはオノフリオの大噴水。ナポリのオノフリカ・デッラ・カヴァが造ったことから名前がついたようです。
 1438年に、12Km離れた水源から水を引いて設けられました。
 1667年の大地震で崩壊し、彫刻の多くがなくなったようですが、蛇口の頭部だけは残ったとのことです。
 清潔ですが、硬水なので、おなかを壊すおそれがあるので飲まない方がいいとガイドさん。今になってみれば、飲めば良かったと思います。

 赤いベレー帽をかぶったお兄さんが「SOUVENIRS HEART OF DUBROVNIK 2012」として小さなハートのペンダントを1ユーロで売って
いたので、私も買って首からかけて歩くことにしました。 

次に歩いたのはプラツァ通りの一本北側のブリェコ通り。プリェコ通りは、レストランがずらりと並んでいます。
時間はまだ10時を回ったところですが、お昼時には、満員になるようです。

プリェコ通りとブラツァ通りとを結ぶ狭い道にもレストランの机といすが並べられ、活況を呈していました。
道の上には、洗濯物が干されていて、そこには人が住んでいて生活をしているのだという親しみを感じます。

 ブラツァ通りの東側の終点に出てきました。そこは、ルジャ広場と呼ばれるこの街の中心。

 この広場の北面に立つスポンザ宮殿。かつては税関や保税倉庫として使われていました。
 現在は、公文書館として使われています。

  この宮殿の中で、1991年の内戦で破壊されるドブロヴニクの街の様子を撮影したビデオを見ました。
 旧ユーゴ軍が浴びせた砲弾は5000発、旧市街はほとんど破壊され、多くの市民が犠牲になりました。
 このため、世界危機遺産に登録されました。
 しかし、多くの市民の努力により、戦争の傷跡は復旧され、1998年に危機遺産の指定が解除されました。

 ルシャ広場の南面の聖ヴラホ教会。ドブロヴニクの守護聖人ヴラホを祀る教会、ドーム屋根を持つバロック様式になっています。
 毎年2月3日は守護聖人ヴラホを讃える祭りが、全市を挙げて行われます。

城砦の歩道を一周することにしました。10時45分に出発。出入り口は3カ所。私たちは北東側から入場しました。
この歩道は基本的に反時計回りの一方通行になっています。

城砦の歩道から見たルジャ広場付近。手前は鐘のついた塔ルジャと聖ブラホ教会。奥に聖母被昇天大聖堂。

さらに進んだところにある城砦の北西の角の ミンチェスタ要塞。城砦の中で最も高所にある要塞です。上まで登ることが出来その眺めは良好です。
この要塞は海抜37メートルで、海と陸の双方から街を守る役割を果てしていました。

この付近の城砦の歩道からは、フランシスコ会修道院の建物が見えます。

また、ピレ門やその先にロヴリイェナツ要塞も見えます。

さらに海側の城砦の方に向かうと、城壁は堅固に、そしてより高く造られています。右に飛び出ているのが聖ピーターの砦で、休憩所があります。

 

 城壁の歩道の一周巡り(約1時間10分)を経て、再びブラツァ通り、ルジャ広場前に戻ってきました。
 フランシスコ会修道院 の鐘楼がシンボリックに見えます。
 オノフリオの大噴水の前に集合し、再びピレ門から外へ出て、ドブロヴニクの旧市街の観光は終わりました。


スタリ・モスト(石橋)・・・クロアチア・スロべニア・ヴォスニアヘルツェゴビナの旅(4)

2012-07-31 | 旅の写真

ボスニア・ヘルツェゴビナという国

15世紀後半から19世紀後半まで、ボスニア・ヘルツェゴビナは、オスマントルコの支配を受けました。スロベニアとクロア チアは
オーストリア・ハンガリー帝国、ハプスブルク家の支配でした。産業や文化振興に力を尽くしたハプスブルグ家と農業の振興のみだった
オスマントルコと の違いが、その後に大きく影響しているようです。
このため、ヴォスニア・ヘルツェゴピナの経済は、スロベニア、クロアチアに比べると失業率は高く、平均所得も少ない。
農業もボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年~1933年)後は、農地や羊の放牧地に地雷が埋まっているため、
多くが使用できないようです。鉱物資源は豊富とのこと。

◇ モスタル (Moster ) の街

                     聖ペーター教会の鐘楼
「そろそろ、モスタルに着きますよ。あの鐘楼はモスタルの教会のものです」とのガイドさんの話があり、
バスの中から撮りました。
パスから降りて、この教会の前を通りましたが、新しかったので紛争以降に建設されたものでしょう。 

紛争後20年近く経ち、モスタルの町の復興が進んだようですが、こうした建物がまだ所々に残るのは、
戦闘の激しさを物語っています。目抜き通りの大きなスーパーは破壊されたままで、廃屋になっていました。

 正午過ぎで、気温は35度を超えていました。焼け付くような道路に物乞いの幼い少女が座っていたりしたので、
この立葵の花がもの悲しげに見えました。

 モスタルは、トレヴァ川の両岸の台地に発達した、人口ではボスニア・ヘルツェゴビナの5番目の都市。
 15世紀中頃にオスマン帝国の支配化に置かれて、軍事上の要衝となりました。
 街の中心の頑丈な石橋スタリ・モストは1566年トルコ人によって架けられ、両岸の人々の生活に欠かせない橋として
親しまれてきました。モスタルとは橋の意味。スロヴェニアやクロアチアとはガラリと雰囲気が変わり、オリエンタルな街並が
橋の両側に続きます。
 1993年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でスタリ・モストは砲撃によって破壊され、落橋しましたが、ユネスコや民間からの
援助により、2004年、往時の姿に復元されました。


 2005年、スタリ・モストと周辺の建物群世界遺産に登録されました。


 上の写真はスタリ・モストまで続く土産物店、イスラム風の手芸品などが並びます。私はここで、1ユーロでフェズ(帽子)を
買いました。 

スタリ・モストの橋のたもとから撮したもの。
この橋には、年1回飛び込みの競技会があります。何年か前にNHK特集で、この飛び込み競技会の技術向上への悩み
と紛争後の人種問題への若者の心の葛藤を描いた番組があり、興味を持って見ていたので、この橋には親しみがありました

スタリ・モストの上の様子、幅員は4.5m、長さは29m。夏の乾燥期は水面からの高さは21m。
30ユーロ集まると飛び込む人がこの日もいました。一番右側の裸の人。

 スタリ・モストの上からはネトレヴァ川の下流の渓谷美を一望できます。水は澄んで美しい。

また、スタリ・モストの上からは、1619年完成のコスキ・メフメド・パシャ・モスクも見えます。
モスクは12mの正方形をしています。
反対にもすくのテラスやミナレットの上からスタリ・モストを見るのは、絶景ポイントのようです。

早速、買ったフェズをかぶりました。「よく似合う、現地人のようですね。」とは、ツァーの人たちの言葉。こちらは、橋を渡った左岸側の商店街。

 上流に向かい、土産物店の中を数百メートル歩いて行くと、スタリ・モスト撮影のの絶景ポイントがありました。

 詳しくは「めいすいの海外旅日記 スロベニア、クロアチア・ボスニア・ヘルツェゴビナ 第4日」をご覧下さい。