【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「俳句大学」学長 「火神」主宰 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞受賞

歌代美遥句集『ひらひらと』論

2023年11月10日 16時05分10秒 | 句集序文・跋文

タイトル: ひらひらと

 句集 著者:歌代美遥

出版社:文學の森

出版年月日: 2023.10.29

定価:2,750円

 

歌代美遥句集『ひらひらと』論

― 豊潤なる俳句 ー

                 俳句大学学長 永田満徳

 

『ひらひらと』は歌代美遥氏の第二句集である。私が代表を務める「俳句大学」の講師として、Facebookグループ「俳句大学投句欄初心者教室」の指導をされているとともに、俳句大学九州キャンパスにも参加して頂いている私にとってまことに慶賀すべきことで、心よりお祝い申し上げる。

 第一句集『月の梯子』も素晴らしかったが、この第二句集も美遥俳句の新たな地平を切り開くものとして特筆されるものである。

   ひとひらの花と乗りたる無人駅

 あたかも美遥俳句の特色を言い表したような句である。本句集全体に漂う軽やかさと明るさと華やかさ、そして静けさを象徴している。

「ひとひらの」の句は乗る人も少なく、閑散な「無人駅」だけに「ひとひらの花」が乗り込む美しさや華やかささが浮き立つ。「花」という季語の持つ本意が鮮やかに生かされている。

   琉金の鰭いちにちをひらひらと

 この句は『ひらひらと』という句集の題となった。金魚という小動物への親近性を示すこの句も「ひらひら」の擬態語に「琉金」の生態を描いてあますところがない。「琉金の鰭」に注目し、「いちにち」をただ泳いでいるだけの金魚の姿を描いている。

   退屈を飼ひ慣らしては金魚鉢

 この句では「金魚鉢」という狭い空間の中で泳いでいる金魚を「退屈を飼ひ慣らし」と捉えているところに的確な観察眼がある。

   出目金の泳ぐ真昼の古書の店

「出目金」と「古書の店」との取合せである。「出目金」の穏やかな動きと併せて、お客もまばらな、ものしずかな「古書の店」の佇まいが伺える。

 このような一連の金魚を詠んだ静謐な世界は美遥俳句における的確な写生の目に依拠していて、一つの特色をなすものである。もちろん、美遥俳句には「闇」とか、「影」とか、いくらか暗い句材が無きにしも非ずである。

   地芝居や死なせてくれと闇掴む

   揚花火たちまち闇の落ちてくる

「地芝居」の役者の「闇掴む」仕草にしても、「揚花火」の後の「闇」が「たちまち」に空を覆う瞬間にしても、「闇」の側面をよく捉えている。「地芝居や」の句は「闇掴む」というアマチュアの役者としては大仰な表現におかしみがあり、決して暗くない。美遥俳句の屈託なさが出ていて、好感が持てる。

   日脚伸ぶ齢を持たぬ影法師

「影法師」は「齢を持たぬ」と言う。そう言われてみると妙に納得できる。この句の「影」は作者独特の把握として屹立している。

   影もまた生ある動き曼珠沙華 

「曼珠沙華」はまっすぐに伸びた細い茎の頂の蕊に赤い炎のような花をいくつも輪状に開く。生々しく、簡単には枯れない。「影もまた生ある動き」という措辞は「曼珠沙華」の特徴をよく捉えている。

   肥後椿影を連れつつ落ちにけり

「肥後椿」は花弁が大きく大輪一重咲きで、豪華な花。みずからの「影」もろともに落ちる様は「肥後椿」をよく捉えている。大柄な「肥後椿」の姿を肥後椿そのもので描くことなく、「影」で表現した手腕に拍手を送りたい。

「肥後椿」の句の「連れ」という語彙にも注目される。

   芝居終へ春満月を連れ帰る

「芝居」見物した後で「春満月を連れ帰る」とはなんと豪華なことだろう。粋な描き方に魅力を感じる。

   またひとり花を連れゆく遍路かな

「花を連れゆく」「ひとり」の「遍路」には決して寂しさがない。「花」を道行にすることによって、「遍路」の孤独の華やかさとも言うべきなかに、信仰の深さを物語っている。

「風」は頻出する語彙で、作者の精神の軽やかさを表している。

  まず、挙げなければならないのは歌代美遥氏自身が辞世の句として公言している句である。

   蓮散らす風に生まるる辞世の句

「辞世の句」が仏教では象徴的な花である「蓮」との間に「風」を介在させることによって生み出されるという。ここにこそ、「風」に対する偏愛とともに、宗教的な敬愛が示されている。

  風を聴くかたちして片栗の花

 俯きかげんに咲く「片栗の花」が風に揺れる様を「風を聴くかたち」と見立てているところがいい。見立ての句が成功するかどうかはひとえに観察眼に懸かっている。

   くしやくしやと風に揉まるる枯尾花

「くしやくしや」というオノマトペが効いていて、「枯尾花」に吹く「風」にふさわしい。オノマトペは俳句のような短詩型に有効な表現手段である。「ぱほぱほと鯉の口より春の水」にもオノマトペがうまく使われていて、春の雰囲気がよく伝わってくる。

   日にまみれ風に細るや枯薄 

   枯れいそぐ芒に風のねぢれかな

 枯すすきの二句は「日にまみれ風に細る」といい、「風のねぢれ」といい、独特で、しかも斬新な冬の「風」の捉え方があって、心惹かれる。

   見えぬ風見せて夏蝶流れけり 

   木々増えて涼しき風の奥の院

   天つ日の風を呼び込む古代蓮

「見えぬ風」と「夏蝶」、「木々」と「風の奥の院」、「天つ日の風」と「古代蓮」。いずれも、道具立てとしての「風」が生かされていて、「風」の諸相を味わうことができる。「風」の描写は他の追随を許さない。

   初蝶の風の匂ふや三狐神

「三狐神」は家で祭る田畑の守り神。「初蝶」が運んで来る「風」を「匂ふ」と言ったところに感性のするどさがある。この句は「風」とともに「匂ひ」が組み合わせられているが、次は「匂ふ」という語彙に触れてみる。

   厨から真みどり匂ふ蓬餅

   時雨傘雫の匂ひたたみたり

「匂ふ」「蓬餅」に「真みどり」を見て取る、また「雫」に「匂ひ」を感じる感性には驚くばかりである。

   煌めきの数だけ春の匂ひたつ

「煌めき」に「春」という季節の「匂ひ」を感じ取った句で、「匂ひ」に対する鋭敏な感性が窺える句である。

「煌めきの」の句は「匂ひ」と「煌めき」との取合せであるが、季語の「風光る」を含めた「ひかり」「光」の使用例は多く、光溢れる句集『ひらひらと』の広やかな裾野を形作っている。

   鳶職の太きズボンや風光る 

   三代碑の一字一語や風ひかる 

 季語「風光る」がそれぞれの句材をしっかりと浮彫りにしていて、俳句の真髄を知ることができる。

   春の宴祝杯ごとにひかりけり 

   春風や真鍮のもの皆ひかる 

   菊人形瞳に嘘のひかりあり 

「春の宴」を「ひかり」になぞらえ、「真鍮」に春そのものを象徴化し、「菊人形」の「瞳」を「嘘のひかり」として意外性のある句にしている。

 このように、句集『ひとひらと』を紐解きながら、「闇」「影」から「連れ」、「風」から「匂ふ」、「匂ふ」から「ひかり」と辿ってみると、不思議なもので、言葉の好みというより、句集の色合、さらに人柄さえも垣間見ることができる。

 句集全体から俳句の多彩さ、豊富さが浮かび上がってくる。例えば、「春の野やけものの柄のをんな来る」「梅雨晴や主婦を略して旅路なる」の女性性の客観視、「広がるも流るるも気まま春の鴨」「波を呼び波に沈みて汐まねき」のリフレインや対句による自然法爾的な動物の生態、「へろへろとさびはじめたる花菖蒲」「水の色してとんぼうの生まれけり」の感覚の冴え、「もつれたる話これまで蠅叩」「六道のどの道選ぶ毛虫焼く」の滑稽味など枚挙に遑がない。

 最後に、その他で心惹かれる句を取り上げておきたい。

   涅槃絵をかかげ和尚は留守らしき 

   逃水を追うて捨てたる母の郷 

   蝸牛老いには老いの歩幅かな

     一塊の冬となりたるロダン像

   ジーンズのがばりと乾き春隣

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郭至卿著「凝光初現』

2019年10月10日 21時59分55秒 | 句集序文・跋文
俳句大学国際俳句学部よりお知らせ!

〜二行俳句の個人句集〜

◯華文俳句句集第二
〔華文俳句叢書2〕

書名:『凝光初現』
副標題:華文俳句集

著者:郭至卿 Kuo Chih Ching
発行2019.10

序一 永田満徳 日文

日本の「俳句大学」の国際俳句学部が提唱している「切れ」と「取り合わせ」を取り入れた二行俳句の華文圏初めての個人句集『凝光乍現』が台湾で出版されたことは大変喜ばしいことである。
俳句は日本の伝統的な詩の一つである。今では世界各地でそれぞれの言葉で書かれている国際的な文学形式である。しかし、三行書きにしただけの俳句は形式のみで、俳句の美学を表現しているとは思えない。それは俳句の型と俳句の特色に対する共通認識がないからである。
そこで、日本俳句の大切な美学である「切れ」と「取り合わせ」の二行書きの俳句を提唱し、華文圏での俳句の発展に寄与するため、私は顧問および作者として洪郁芬、郭至卿、趙紹球、吳衛峰と共に2018年12月に台北で《華文俳句選》を出版した。さらに2018年12月4日に創立した「華文俳句社」の顧問になり、華文俳句のさらなる進展を図ってきた。
郭至卿氏が句集『凝光乍現』を出版することは「華文俳句社」の顧問として楽しみである。なぜならば、この句集によって、「切れ一つ」と「取り合わせ」の俳句の美学に対する理解が深まり、絶句(漢詩)、現代詩、短詩、散文詩などの様々なジャンルを持つ華文詩の中で、華文俳句の定着と広まりがより一層華文詩界を豊かにすることが期待されるからである。 
私が初めて郭至卿氏に注目した華文俳句は「女子の銀鈴のような笑い声/春野原」である。郭至卿氏はこの評価によって励まされ、それ以来華文俳句を書き続けて、試行錯誤の中、季語一つで瞬間の感動を書き留める俳句の奥深さがだんだん分かってきたという。
郭至卿氏は本句集に収録されている「詩人の筆は止まらない/春の潮」や「星月夜/探検家の小説を読む」の秀句にも見受けられるように、大変な読書家で、文学的素養と才能は飛び抜けている。例えば、「くまがわ春秋」に取り上げた句を紹介してみよう。
「雷鳴一つ/通信簿の赤字」は雷の時に成績をつける情景であろう。雷の光と通信簿の赤が素晴らしい色の対比を成している。
「杖で立つ老人/北風吹く」は「老人」と「北風」とは直接的には無関係かもしれない。しかし、寒い北風に抗うように、杖一本を突いている老人の凛とした態度が感じ取れる。
「春の光/額縁のなき風景画」は「春光」はここでは「春のまばゆく、柔らかな光」のこと。「額縁なき」という措辞に、見渡す限り広々とした野山の美しい春景色が描き出されている。
「雷鳴一つ」の句は色の「対比」が見事である。また、「杖で立つ老人」は「老人」と「北風」とを即かず離れず取り合わせている。さらに「春の光」の句は俳句の技巧である「写生」が効いている。いずれも、「切れ」と「取り合わせ」を用いていて、日本の俳句に勝るとも劣らない句ばかりである。
最後に心惹かれる句を取り上げておきたい。

窓外に溢れんばかりの藤
恋愛小説

岸辺の老人は釣竿を振る
水温む

春の雨
シリーズの恋愛小説を読む

遠雷
サスペンスの終わり

午後の居眠り
チリリンとアイスクリームワゴン

星月夜
探検家の小説を読む

驚嘆符の台北一〇一ビル
秋の空

秋の海
車椅子で遠方を見る老人

寒日和
救援隊のお知らせ

寒波来る
第二次大戦の記念碑

令和元年七月吉日
永田満徳

日本俳句協会副会長、日本俳句大学学長、俳人

永田満徳氏プロフィール:
日本俳句協会副会長、俳人協会熊本県支部長、俳人協会幹事、「未来図」同人、「火神」編集長。恩師の紹介で俳句を始めて30年、現在に至る。
文学研究では三島由紀夫や夏目漱石の俳句などの論考がある。
句集に『寒祭』(文學の森) 共著に『漱石熊本百句』(創風出版)『新くまもと歳時記』(熊本日日新聞社)。


序一 永田満徳 中文

相同於日本「俳句大學」的國際學部,以提倡「切」與「兩項對照組合」的二行華文俳句個人詩集「凝光初現」的台灣出版是值得慶賀的。
俳句原是日本的傳統詩型之一,現已跨越日文藩籬,在世界各地以不同的語言書寫,儼然成為國際性的文學型式。然而,綜觀國際俳句的實況便可以理解,大部分的國際俳句都寫成三行,卻無表現俳句美學的實質內容。這是因為國際俳句對於俳句的形式與特色沒有達成共識所致。
為了於華文圈提倡俳句的本質「切」與「兩項對照組合」,並推廣俳句,我擔當顧問及作者參與洪郁芬、郭至卿、趙紹球、吳衛峰於2018年12月《華文俳句選》的出版。除此之外,也擔當成立於2018年12月4日的「華文俳句社」的顧問,力圖華文俳句的推廣與發展。
身為「華文俳句社」的顧問,我相當樂見郭至卿出版《凝光初現》俳句集。希望此俳句集的出版能讓讀者更理解「切」與「兩項對照組合」的俳句美學,並期望華文俳句能與古典詩、現代詩、小詩、散文詩等齊聚一堂共同豐富華文詩壇。
第一次認識郭至卿,是藉由她寫的俳句「女孩銀鈴的笑聲/春天的花園」。我給她的評語是「好俳句」。她似乎因此得到激勵,加入書寫俳句的行列。在不斷嚐試的過程,似乎愈來愈能體會俳句使用一個季語來補捉生活瞬間感動的奧妙。
從這本俳句集的內容,如「詩人執筆的手不停啊!/春潮」或是「星月夜/閱讀探險家的小說」等優秀的俳句可窺見,她喜愛閱讀,並有出眾的文學素養和才華。我於此介紹幾首至卿刊登於熊本月刊誌的俳句。
「一聲雷/成績單上的紅字」大概是打雷時登記成績單的景象。雷的光和成績單的紅色形成很棒的色彩對比。
「拄著柺杖的老人 /聽北風 」 乍看之下,「老人」與「北風」似乎沒有直接的關聯。
雖然如此,我們仍然能感受到老人拄著拐杖,彷彿是在對抗寒冷的北風而凛然站立的態度。
「春光/未加框的風景畫」的春光於此處意味著「春天耀眼、柔和的光」。使用措辭「未加框」,清楚描繪了春天一望無垠、日麗風清的山野景觀。
「一聲雷」的色彩對比相當出色。「拄著柺杖的老人」的俳句中,「老人」與「北風」有不即不離、恰到好處的關係。「春光」的俳句使用「寫生」的技巧。這些俳句都使用「切」與「兩樣對照組合」,皆是相較於日本俳句有過之而不及的佳作。
最後於此列舉幾首我心所慕的俳句:

窗外盛開的紫藤
愛情小說

坐岸邊的老人揮釣桿
水亦暖

春雨
閱讀連載的愛情小說

遠方的雷聲
懸疑小說的結局

午後打盹
冰淇淋車的鈴噹聲

星月夜
閱讀探險家的小說

驚嘆號的台北101大樓
秋日高空

秋天的海
輪椅上望向遠方的老人

寒晴
救援隊傳來的消息

寒流至
二次大戰的紀念碑


令和元年七月吉日
永田満徳

日本俳句協會副會長、日本俳句大學校長、俳人
永田満徳先生簡歷:

日本俳句協會副會長、俳人協會熊本縣分部長、日本俳人協會幹事、雜誌《未來圖》同人、雜誌《火神》總編輯。由恩師引領開始創作俳句30年至今。
在文學研究方面,著有對三島由紀夫和夏目漱石俳句的論考。
著有《寒祭》(文學の森),《漱石熊本百句》(合著,創風出版)、《新くまもと歳時記》(合著,熊本日日新聞社)。


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洪郁芬著『渺光乃律』

2019年09月28日 14時07分04秒 | 句集序文・跋文
俳句大学国際俳句学部よりお知らせ!

〜世界発:本格的「二行俳句」発行〜

『渺光乃律』
二行俳句の個人句集(華文俳句叢書1)
洪郁芬著 華文俳句集
発行2019.10

序一 永田満徳 日文

日本の「俳句大学」の国際俳句学部が提唱している「切れ」と「取り合わせ」を取り入れた二行俳句の華文圏初めての個人句集『渺光之律』が台湾で出版されたことは大変喜ばしいことである。
俳句は日本の伝統的な詩の一つである。今では世界各地でそれぞれの言葉で書かれている国際的な文学形式である。しかし、三行書きにしただけの俳句は形式のみで、俳句の美学を表現しているとは思えない。それは俳句の型と俳句の特色に対する共通認識がないからである。
そこで、日本俳句の大切な美学である「切れ」と「取り合わせ」の二行書きの俳句を提唱し、華文圏での俳句の発展に寄与するため、私は顧問および作者として洪郁芬、郭至卿、趙紹球、吳衛峰と共に2018年12月に台北で《華文俳句選》を出版した。さらに2018年12月4日に創立した「華文俳句社」の顧問になり、華文俳句のさらなる進展を図ってきた。
「華文俳句社」の社長である洪郁芬氏が句集『渺光之律』を出版することは「華文俳句社」の顧問として楽しみである。なぜならば、この句集によって、「切れ一つ」と「取り合わせ」の俳句の美学に対する理解が深まり、絶句(漢詩)、現代詩、短詩、散文詩などの様々なジャンルを持つ華文詩の中で、華文俳句の定着と広まりがより一層華文詩界を豊かにすることが期待されるからである。

きちきちを飛ばして進む草千里

掲句は第二回「二百十日」俳句大会に入賞した句である。日本の専門俳人の中で入賞したことは洪氏の日本語能力の高さを示すばかりではなく、俳句においても並々ならぬ力量を持っていることを証明した。
最近では、日本の俳句雑誌「火神」に参加し、積極的に投句している。「火神」65号(平成31年春号)で、今村潤子主宰は「ちつぽけな光の調べ草の露」を選び、「『草の露』の栗粒のような光を『ちつぽけ』といい、更にそれが調べをなしているというところに作者の感性の細やかさがある。」と評している。

囀りや呼ばれて出づる渡し船
硝子瓶蓋をひねれば夏近し
秋うらら合図のやうに開くドア

これらの句は内容の雰囲気といい、季語との取り合わせといい、日本の俳句におさおさ劣らない。洪氏は日本の俳壇でも十分通用できると言っても過言ではない。

恋の果て白蟻の羽黒く落つ
初読の新約聖書愛の文字

洪俳句のみずみずしい青春性が感じられる句で、作者の俳句世界の一面を形作っている。
ところで、「恋の果て」と同様に「たんぽぽの絮草原の果の夢」とあるように、「果て」の文字を使った句がいくつも出てくる。

山道の果ての果てにも桜咲く
初旅や山路の果ての青き海

「果て」の句には「果て」なるものへの嗜好が読み取れる。この「果て」への嗜好が「向こう」、あるいは「あの世」への志向へと繋がっていると言ってよい。

うろこ雲向こうに地球あるやうな
もつれ合ふあの世とこの世冬の靄

この二句からも窺われるのは、洪氏の独特な精神世界、つまり俳句世界が描き出されていることである。この宗教的とでも言える彼岸意識は洪俳句により深みを与えていて、洪俳句の特色をなすものである。
最後に共鳴句を挙げておきたい。

あの庭と同じ落花のしきりなり
ブランコの高みで捕らふ幼き日
全力の軽やかさなり胡蝶飛ぶ
皿を割る子供の喧嘩大暑かな

令和元年七月吉日
永田満徳
日本俳句協会副会長、日本俳句大学学長、俳人

永田満徳氏プロフィール:
日本俳句協会副会長、俳人協会熊本県支部長、俳人協会幹事、「未来図」同人、「火神」編集長。恩師の紹介で俳句を始めて30年、現在に至る。
文学研究では三島由紀夫や夏目漱石の俳句などの論考がある。
句集に『寒祭』(文學の森) 共著に『漱石熊本百句』(創風出版)『新くまもと歳時記』(熊本日日新聞社)。

書名:渺光之律
副標題:華文俳句集

Tune of the Tiny Light
Chinese Haiku Anthology

洪郁芬
Yuhfen Hong

序一 永田満徳 中文

相同於日本「俳句大學」的國際學部,以提倡「切」與「兩項對照組合」的二行華文俳句個人詩集「渺光之律」的台灣出版是值得慶賀的。
俳句原是日本的傳統詩型之一,現已跨越日文藩籬,在世界各地以不同的語言書寫,儼然成為國際性的文學型式。然而,綜觀國際俳句的實況便可以理解,大部分的國際俳句都寫成三行,卻無表現俳句美學的實質內容。這是因為國際俳句對於俳句的形式與特色沒有達成共識所致。
為了於華文圈提倡俳句的本質「切」與「兩項對照組合」,並推廣俳句,我擔當顧問及作者參與洪郁芬、郭至卿、趙紹球、吳衛峰於2018年12月《華文俳句選》的出版。除此之外,也擔當成立於2018年12月4日的「華文俳句社」的顧問,力圖華文俳句的推廣與發展。
身為「華文俳句社」的顧問,我相當樂見華文俳句社社長洪郁芬出版《渺光之律》俳句集。希望此俳句集的出版能讓讀者更理解「切」與「兩項對照組合」的俳句美學,並期望華文俳句能與古典詩、現代詩、小詩、散文詩等齊聚一堂共同豐富華文詩壇。
踢飛著蚱蜢前進
草千里
這是洪郁芬入選日本第二回「二百十日」俳句大会的俳句。能於專業的日本俳人間領獎,不只證明她日文能力之高,也說明了她具有不同凡響的俳句藝術。
近來洪郁芬刊登日本「火神」俳句雜誌,並於「火神」65号(平成31年春号)被火神主宰今村潤子評選「渺光之律╲草露」。今村氏如此評道:「將草露粟米般的光以『渺』來形容,並看見渺光中包含了音律。由此可見作者獨特的觀察力與細膩的情感。」
鳥囀
喚來行舟渡輪

扭開玻璃瓶鋁蓋
臨夏

秋日麗
門示意即開

以上這幾首俳句,無論是在內容,或是在季語的兩項對照組合使用上,完全不亞於日本正規俳句。我敢斷言,洪郁芬完全符合能在日本俳句界發展的條件。

愛之盡
白蟻的黑翅飄落

歲初讀新約聖經
愛的文字

這幾首俳句使我們感受洪郁芬花樣年華般的青春,是構成她俳句的一個特色。除了愛之「盡」外,「蒲公英棉絮╲夢裡草原的盡頭」等,句集裡出現多次的「盡頭」,如:

山路盡頭之盡頭
櫻花開

回望山路盡頭蔚藍的海
歲之行始

對於「盡頭」的喜好和追求,也可以說相通於對「那方」或「彼方」,甚至是對於「結束後的世界」有濃厚的興趣和傾向。

魚鱗雲
地球彷彿那方

糾纏的來世今生
冬靄

從這兩首俳句,我們可窺見洪郁芬獨特的精神世界,藉由她的俳句表達。宗教信仰或是對於來世的觀感,也可說是她俳句的一個特色。
最後列舉幾首我心所慕的俳句:

庭戶如我
落花無數

鞦韆的高點捕獲
童年

盡全力的輕巧
蝴蝶飛

孩童爭吵摔碗
大暑

令和元年七月吉日
  永田満徳
日本俳句協會副會長、日本俳句大學校長、俳人

永田満徳先生簡歷:

日本俳句協會副會長、俳人協會熊本縣分部長、日本俳人協會幹事、雜誌《未來圖》同人、雜誌《火神》總編輯。由恩師引領開始創作俳句30年至今。
在文學研究方面,著有對三島由紀夫和夏目漱石俳句的論考。
著有《寒祭》(文學の森),《漱石熊本百句》(合著,創風出版)、《新くまもと歳時記》(合著,熊本日日新聞社)。
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牛村蘇山句集『喰ふ喰ふ喰ふ』序文

2018年09月19日 00時00分00秒 | 句集序文・跋文
牛村蘇山句集『喰ふ喰ふ喰ふ』序文
    
                          永田 満徳
牛村蘇山氏が第一句集を上梓された。句会に、吟行に句友として接してきた私にとっても真に慶賀すべきことで、心よりお祝い申し上げる。七十歳を境にして句集を纏められて、一つの節目となったこの句集には蘇山俳句の全てが表現されている。

喰ふ喰ふ喰ふ空空空や小春風

句集の題名となった句である。「喰ふ喰ふ喰ふ」は人間のみならず、生きとし生けるものはまず「食べなくては生きてゆけない」(後記)という信念が籠った措辞で、「空空空」は色即是空の空である。「喰ふ」「空」は同音で繋がり、広大で深遠な世界を詠んで、俳句という短詩型の醍醐味を示す句である。
 巻頭句二句から骨太な俳句が並ぶ。

  告知ありへしやげてさうらふ昼蛙
  ぺちやくちやと後の世のこと土雛

 前者は輪禍にあった蛙がこの世を呪詛するすざましさ、後者は冥界に赴く雛がこの世に未練を残すことのない潔さが詠み込まれている。
 この諧謔的表現は蘇山俳句に生かされ、句集全体の特色をなすものであり、蘇山俳句の出現は新たに俳句の世界の地平を開くものである。
冒頭の二句に続く二句をみても、蘇山俳句の自在性は無類である。

青饅やさばさばさばとお暇を
六角の穴六角の意志地蜂飛ぶ

小料理屋を辞する場面にしても、蜂の巣立ちの場面にしても、擬態語、押韻などの俳句の技法が縦横に生かされている。

二月二十六日ゴム鉄砲が食卓に
東京は軟骨となりホワイトデー

 続く二句もまた蘇山俳句の特徴がみられる。二・二六事件とゴム鉄砲、あるいは軟弱な東京とホワイトデーとの取り合わせはみごとで、発想の融通無碍さが際立つ。
 「東京は」の句は現代の俳句への告発と受け取れないことはない。従って、広範な知識に裏打ちされたアイロニカルな視線で切り取られた蘇山俳句は現代俳句への挑戦でもある。
 蘇山氏が日本経済新聞の記者であったことは蘇山俳句を考えるとき極めて重要である。新聞記者の資質は何と言っても、世に対する絶えざる関心である。

  野遊びに人の顔してゐたりけり
  人間が一枚になる春真昼

「人間」への注視は新聞記者としての関心度の深さを表している。この二句の「人」「人間」には多重な人間が含まれていて、読み手によって多くの読みを可能にするものである。
早稲田大学を出て、日本経済新聞社に入った蘇山氏は、後記によると、その熊本支局長として熊本に来る直前の東京本社時代、激務稼業といわれる編集部門のデスクをしていて、明け方に家に帰って、コツンコツンの脳みそをほぐすのが酒と句集を読むことであり、中村草田男集がいつも手元にあったという。

人界へホッピーの泡冬ふかむ

軽佻浮薄な人間世界への関心には人間探求派の中村草田男との接点を垣間見ることができる。
 人あるいは人の世への注視は風刺という形で詠まれて、蘇山俳句の独擅場と言っていいほどである。

切り抜きの痴話やひとひら春の雪

 新聞の社会面には人間の諸相が取り上げられて、現代社会を映す鏡と言っていい。掲句は愚かであり、それゆえ人間の真実の姿が出ている「痴話」にひとひらの「春の雪」を取り合せることによって無限の人間理解を示している。

語尾上げて俱楽部といふや春の蠅
  七癖をどうのかうのと四月馬鹿
  ぴかぴかのお墓売ります花いちご

「語尾上げて」は定年後も帰属意識を持ち続けている人物への揶揄であることが「春の蠅」との取り合わせで示されている。「七癖を」は人物評をとやかく話題にすることの愚を「四月馬鹿」という季語を持ってくることによって指摘している。「ぴかぴかの」は死後も人の価値が墓の値段で決まるかのような商売に対しての捻りがなんと効いていることか。
「株」を素材にしている句が多く、仕事柄経済書から離れたことは一度もないという経済記者としての面目躍如である。

株価下がる風船ビルを越えて行く
  青饅や根ほり葉ほりと株のこと
厠にて株の云々寒の雨

日本経済新聞社では経済取材一筋、企業取材や市場取材に明け暮れ、企業社会の日本的な「和」のおだやかな世界もおぞましい暗部も多く見てきたという。蘇山氏の複眼的な視点は記者という仕事によって養われたものであろう。

  春の夢ここらでガニ股直さんと
  麦秋や足の裏なるわが履歴
  百円ショップこの身いかほどちちろ虫

物の両面を見る態度が自己に向かうとき、「春の夢」が自分の「ガニ股」であり、「わが履歴」が手相ではなく「足の裏」であり、「百円ショップ」並みのわが「身」であるという表現となる。自嘲というにはユーモラスすぎて、俳諧味が横溢していると言わなければならない。自分を笑うだけの心の余裕が窺える。自己をこれだけ笑えるのは人間洞察が深いからである。
ここで注目したいのは親鸞思想に傾倒していることである。愛読書『歎異抄』の「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし」の言葉に蘇山氏の人間理解の淵源がある。人間は業=行為と縁=条件が整えば、なんでもする、なんでもしでかすという認識は鋭い。蘇山氏は他人のなした罪を自分とは無関係の他人事のように眺め、自分を棚に上げて鋭く批判する人に対して、「行為」と「条件」という環境が整ったならば自分は果たして罪を犯さないと言えるかどうかと考える。

黒百合やあしたはきつと嘘をつく

自他の悪を知ればこそ、「あしたはきつと嘘をつく」と言えるのである。
 蘇山氏は無類の人好きで、酒席の場には必ず数人の仲間がいる。人間の内奥の真実を知れば知るほど、人間の存在が愛おしいのである。

鶏鍋や駄洒落軽口茶利冗句

呑み食いしゃべる飲食の場からも数々の秀句が生み出されている。

ぐい呑みや夜な夜な春のかくれんぼ
ほろり呑む酢海鼠ほろりほろりかな

 日が暮れるか暮れないかの頃から酒の虫が騒ぎ出し、飲みに出る様を「かくれんぼ」とは言い得て妙である。そして、「酢海鼠」を肴に「ほろり」と呑む酒に至福の時を過ごす。ここに、日常生活を楽しむ蘇山氏の姿が浮き彫りにされている。
句集を審らかに閲してみると、その多彩さに驚かされる。視点の面白さ、滑稽味など枚挙に遑がない。その一つ一つに触れることは限りがないので、最後に心惹かれる句を取り上げておきたい。

出自など聞いてどうする古雛
蚯蚓くしやくしや本人証明迫らるる
淫の字のなにやらやさし谷崎忌
炙りたやあの満月の裏表
このたびは駄じやれですまぬぞ鮟鱇よ
 

平成三十年六月吉日
                              永田満徳
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日永田渓葉句集『蝋梅』序文

2018年06月19日 06時35分56秒 | 句集序文・跋文
日永田渓葉句集『蝋梅』序文
                              永田 満徳
日永田渓葉氏が第一句を刊行された。句会に、吟行に句友として接してきた私にとっても真に慶賀すべきことで、心よりお祝い申し上げる。七十歳を境にして句集を纏まられて、一つの節目となったこの句集には渓葉俳句の全てが表現されている。

蠟梅を透かして過去の滲み来る

「蠟梅」は句集の題となった句である。あたかも句集全体を言い表したような句である。「過去の滲み来る」に、これまでの来し方を振り返り、「過去」のある部分がことさらながら思い起こされる感慨を詠ったものである。
この過去への遡及は、「天空の風を友とし沢胡桃」という空間把握とともに、渓葉俳句に於ける時空感覚に依拠していて、一つの特色をなすものである。

四百年生死を謡ふ大桜
千年も桜を見んと峠越ゆ

生あるものの悠久さに対する賛仰の眼差しが根底にある。「四百年」「千年」という数詞に見られる気宇雄大な気風を良しとしたい。
生そのものへの注視は身近な生き物である犬への無限な温かい視線となっている。

あちこちに犬の穴あり長旱
春の野へ縺れる走り犬笑ふ
老犬の伏目がちなる庭菫
大寒の老犬の眼の澄み渡る

「あちこちに」「犬笑ふ」「伏目がち」「澄み渡る」などはいずれも犬の仕種を注意深く観察していなければならない措辞である。愛犬家という言葉以上に、生きとし生きるものを慈しむ精神の発露と捉えることができる。

降り積もる落葉の布団犬の墓
春泥や犬に越さるる齢来る

犬と雖も家族同然に思う視線が一たび自己に向かうと、「身の内にひとりを満たし暑き夜」の句に見られるように、内省の深さは追随を許さぬものである。日永田氏に接した人は人を責めることのない、その柔和な表情に心癒される。
 幾多の苦労を重ねて来たことを思わせる句もある。

家族鍋昔のことは口にせず
野分俟つ我が身を誹る娘ゐて

家庭内の出来事も「昔」こととして自分のうちに潜ませ、「娘」に反抗されても我慢して耐える姿に古武士の面影を見るのは私だけではないだろう。
その家族もやがて癒しの元であることも否定できない。

酒つぐ子肩揉む子居て夏座敷
口あけて昼寝の子供原爆忌
石橋の妻の手を引き花菖蒲

「酒つぐ子肩揉む子」の存在に相好を崩している様子が目に浮かぶし、「昼寝の子」に対する平穏を祈る気持ちや「石橋の妻」への優しい気遣いは読むものに感動を呼ぶ。
ところで、「梅雨なれば下駄を引き出す散歩道」にある「下駄」履きを好み、出来るだけ自然に同化しようとする考えは自然保護活動に参加する行為と軌を一にするものである。自然へ親近性は季節とともに暮らす俳人としての資質を備えられていることを証明している。

来迎の曙光を入れて遠秋嶺
氷点下ものみな曙光宿しけり
曙や娘孕みて蕗の薹
霜踏みて曙光の向こう見えぬもの

「曙光」の語が頻出するが、曙の光が意味するものが自然への畏敬の念と希望であるからである。
 句集を審らかに閲してみると、その多彩さに驚かされる。こよなく愛されている酒では「二駅を揺られ新酒の蔵に入る」の「二駅」の微笑ましさ、「まぶしさや障子に春の力あり」「春雷の中に得体の知れぬもの」の句の感覚の冴え、「目借時お客にあらぬ問ひをかけ」「あたふたメールを返し愁思かな」の滑稽味など枚挙に暇がない。
 その他で心惹かれる句を取り上げておきたい。

日短や待ち会ふ女の髪の揺る
秋澄や塾のチョークは響きをり
両の手を葉のかたちにて蓬摘む
別れ時知れば二人の夕焼かな
恋猫や月は地球に落ちさうに

俳人協会幹事 永田満徳
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