【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

火神主宰 俳句大学学長 Haïku Column代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

第3号【木下順二①】

2014年04月23日 04時20分36秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

総合文化誌【KUMAMOTO】
NPO法人 くまもと文化振興会

2013年6月15日発行

〈はじめての木下順二①〉

明治の熊本・青春の記念

永田 満徳

木下順二の代表作「風浪」は明治初期の熊本を舞台にしている。この「風浪」によって、明治初期の熊本がいかに先進性を持ち、活気に満ち溢れていた土地であったかがよくわかる戯曲である。「風浪」の基本モチーフを揚げるとしたら、単行本として初めて発行された未来社版「風浪」(一九五三・二月)の「あとがき」の言葉である。一つは「戯曲というものを書こうと思いたった時、最初に熊本が、明治の熊本がぼくに浮かんだことは、きわめて自然であった」というところの〈明治の熊本〉という言葉であり、もう一つは冒頭の有名な「『風浪』二九三枚は、いうならばぼくの青春の記念である」というところの〈青春の記念〉という言葉である。

    一 明治の熊本

 木下順二が〈明治の熊本〉という時、まず玉名郡伊倉の大総庄屋で、幕末から明治にかけて生きた曾祖父木下初太郎の存在である。正確に言えば、初太郎の残していた「初太郎日記」である。順二が曾祖父の大部の日記を読みながら、原形「風浪」の材料をあつめることは自分と〈明治の熊本〉との結び付きをより深くした。「初太郎日記」を「一切の感情と意見を排して約六十年間静かに書き継いでいるその全体が、ここにいう筆記者の主体を示している」と評価して、「肥後の田舎の典型的な一人の総庄屋」でありながら、表現者としての〈主体〉を貫いた曾祖父に対して敬意を抱いている。曾祖父初太郎の存在は順二にとって劇作家としての血脈の源流であって、その流れの親近感のなかで〈熊本の明治〉を知るよすがとなったということになるだろう。
しかし、順二にはこの曾祖父初太郎のみならず、〈明治の熊本〉が手触りできる存在としてはむしろ竹崎茶堂がいた。この茶堂は初太郎の弟で、木下家では明治初期に活躍した親族である。順二が「風浪」の山田蚕軒の家族構成に「大いにお陰を蒙った」(「本郷」)と述べている徳富蘆花の「竹崎順子」に照らしてみても、竹崎茶堂が蚕軒のモデルにふさわしい人物であった。
「風浪」の成立に大きく働いたのは、順二が最初に戯曲を書こうと思ったとき、身の回りに竹崎茶堂というモデルがいて、そのモデルに肉付けする資料として「初太郎日記」が手元にあったということである。そして、曾祖父たちの存在に触発されて書き始めようとした順二にとって、〈明治の熊本〉が人物・事件・土地のいずれにおいても戯曲の素材に事欠かないところであった。
 まず人物としては特に竹崎茶堂に象徴されるように、実学党の政策は明治六年頃になると中央政府の意図を乗り越えるものであった。もちろん、その急激な政策を快く思わなかった中央政府から派遣された県令によってわずか三年で挫折し、茶堂は熊本近郊に退くことになるにしても、その実学党の政策のもとに建てられた洋学校に招かれたジェーンズは当時の青年に対してすぐれて感化力のある魅力的な人物であった。現にその洋学校のグループのなかからは、例えば林原敬三郎のモデル海老名弾正・田村伝三郎のモデル徳富蘇峰らのまったく新しい明治の青年が生み出され、日本の近代化に大きな役割を果たすことになる。一方には、保守主義的傾向の中でも得意な存在で、神がかりの復古・攘夷主義に固執する敬神党(神風連)の集団があり、また同じく保守的傾向を持つ学校党も敬神党ほど守旧的ではないけれど、かつては藩支配権力を独占し、実学党政権下では鳴りを潜めている集団が存在していた。明治の〈熊本〉が全国的に見ても、あまりにも新旧の典型を示していて驚くばかりであるが、きわめて保守的で、ラディカルな人物を輩出し、明治初期の三者三様の人間模様が展開されていたことは重要である。その意味で、多彩で個性豊かなこれらの人物たちを戯曲の中に取り込もうとした順二の着眼点のすばらしさには今更ながら頭が下がる思いである。
また、事件については、熊本では明治九年の二つの事件、いわゆる熊本バンド事件、神風連(敬神党)の乱と呼称される事件が相次いで起こっている。熊本バンド事件は、洋学校の生徒三十余名が「奉教趣意書」を読み上げ署名したキリスト教入信宣言で、日本プロテスタントの夜明けといわれる事件であった。神風連の乱は神官大田黒伴雄を首領とする一七〇余名が手に刀剣と槍のみで挙兵した明治維新後の復古的攘夷派の象徴的な士族反乱で、〈神秘的秘密結社〉(蘇峰)の乱ともいうべきという評価があるだけに特殊な事件であった。これらの事件もまた同じ熊本に出現したあまりにも的な現象であって、いずれも当時の日本全体を揺り動かしたものとして知られている。さらに、明治期の最大事件である西南の役は、熊本では学校党と民権党は相反する思想であったにもかかわらず、実学党をのぞく士族のほとんどが参加した戦争で、明治政府の「有司専制」体制を武力的反抗によって打倒できると考えた一連の士族反乱の典型と言っていい。「風浪」では暗示されるだけにとどまるが、しかし佐山の行動に決定的な影響を与えることになる点では、「風浪」で扱われる事件の一つに挙げていい。つまり、明治初期の世相の典型であり、日本の維新期の縮図であったこれらの事件は、第三幕では熊本バンド事件、第四幕では神風連の乱、第五幕では西南戦争というように描き分けられているが、順二がこの三つの事件にうまく関わらせて「風浪」を展開していることに気づくだろう。
 最後に土地としては、「風浪」の私塾をモデルにしている竹崎茶堂の私塾「日新堂」があった場所に注目したい。この私塾は茶堂が官を辞して開設した私学校で、新式の教授法を実施して、新時代の人物養成を志したことで有名である。この私塾は本来「本山村」にあったが、順二はこの本山という土地について、西南戦争当時「一つの時代の終りと次の時代の始まりを鮮かに示している点において、本山村は一つの典型であった」(「『城下の人』の思想」)という認識を示している。この認識は茶堂の私塾「日新堂」もまた時代の〈典型〉であるという意味をも物語っている。ただ問題なのは、「風浪」では本山でなくて、竹崎茶堂の墓所のある独鈷山のイメージの反映との説もある花岡山に設定されている点である。この点に関して考えられるのは、花岡山が熊本バンド事件の現場であり、本山より洋学校に近く、西南の役の折には西郷軍がこの花岡山を占領し、熊本城に大砲を打ち込んだという軍略上重要なところであったことである。なお、「風浪」の第二幕は江津湖の場面であるが、この江津湖は順二著「本郷」において、青春の忘れられない場所として紹介されている。ということは、本山にしても、江津湖にしても、時代の典型として、あるいは作者自身の原風景として「風浪」の舞台設定に使われたといえる。
 このように、〈明治〉という近代日本の青春時代を縦軸にして、〈熊本〉という、当時としては先駆的であり、反動的であるところの典型であった人物と土地と事件を横軸として切り結んだ地点に、「風浪」の舞台設定がなされたといってよい。その意味で言えば、順二が戯曲の最初の舞台を〈熊本の明治〉にしようと思ったのも、「最初の戯曲であるこの『風浪』を、ぼくは郷土熊本の人にささげたい」(「あとがき」前掲書 )といささか思い入れ強く言ったのも、なしとはしない。「風浪」がそれほど〈熊本〉という風土と切っても切れない作品であるからである。

    二 青春の記念

 「過去を扱うにせよ現代を描くにせよ、私はその世界に自分がいると思えるまでに素材を調べあげ、その中に自分がいるというを手掛りに戯曲の世界を作りあげて来たという気がする」(「あの過ぎ去った日々」)という文章によっても、〈現実に自分がいる〉こと、〈自分がいるという実感〉に重きを置いていることに注目したい。実はこの〈実感〉主義というべきものと「方言」の使用とは密接に関わっているのである。「熊本弁を、相当自然主義的な手法で、というのは実際の熊本弁を模写するに近いやり方で思い切り使ってみた」(「熊本弁」)と述べているように、順二が最初の長編戯曲に〈熊本弁〉を持ち込んだのは、単に舞台が熊本であったということだけでなく、〈身を置〉くという〈自然主義的〉〈実感主義〉のかたちで〈リアル〉な世界を描こうとしたからである。この〈自然主義的〉〈実感主義〉は、「自分の書くドラマの世界が、ぼく自身にとって他人事であってはならない、自分自身が生きるという問題とかかわってドラマが書かれなければならない」(「わが文学の風景」)という木下順二のドラマ観の根幹を成すものである。
「風浪」という作品はいかに〈生きる〉べきかを追い求めた青春群像の劇である。最終稿と第二稿の比較によっても、佐山の西郷軍への参加が意志にしろ、行為にしろ、積極的に改稿されていることがからわかるように、佐山が〈悩む〉青年から行動する、つまりより積極的に〈生きる〉青年へと変容している。
思うに、「明治というものを本質的には悲惨な時代だったというふうに規定する人が多いけれど、(中略)むしろあの中では、自分の中のエネルギーが解放された時代と考えて、日本の封建制では見られなかったエネルギーを、はじめてそこで発揮したのではないか。(中略)明治の解放されたエネルギーは評価しなければならない」(「演劇の本質」)という文章からは、明治が〈生きる〉ことに満ちあふれた時代で、その〈生きる〉こと自体のエネルギーに魅力を感じている作者の眼差しが感じられる。「まさに青春の名を以て呼ばるべきそれらの日々を、無為に似た平穏のうちに過ごしたことへの悔恨は、今にして押えがたい」(「あとがき」前掲書)という文章を参考にして言えば、この〈青春〉への強い〈悔恨〉があったからこそ、明治期の青年たちの〈生きる〉ことに対する〈エネルギー〉に嫉妬に近い感情を持ったにちがいない。〈青春の記念〉という言葉は、改稿に改稿を重ねながら、みずからの青春のやり直しを「風浪」を書くことによって行い、未来社版による単行本化という一応の達成をみた満足感のなかで、三十九歳という位置から紡ぎ出された言葉である。

    三 明治のエネルギー

熊本近代文学館に、平成十六年十二月、木下順二自ら資料を整理し、寄贈したものの中に、「風浪」資料がきちんと整理されて、「風浪」創作ノートと書かれた箱がある。B5ノートサイズで三冊あり、いずれも「風浪」取材の資料で、カメラ好きであった順二らしい、写真付き資料である。この資料は一九五三(昭和28)年8月21日から24日にかけてのものである。驚くべきことは、8月24日の「近沢氏邸」と書いてあるノートの方で、「風浪」の建物がこれまで考えられてきた竹崎茶堂の「日新堂」ではなく、「近沢侃氏邸」であることがわかった。幸い、近沢侃氏邸は現存していて、現在の徳富旧邸・大江義塾跡である。徳富旧邸(大江義塾跡)は昭和三十七年に熊本市に寄贈されて、徳富記念園(大江義塾跡)として公開されている。「風浪」のト書きは第一稿の第二幕では「實學黨の長老木崎蠶堂が、しっかりした木組のただっ廣い士族屋敷を奉還金で買い取って、ここの高みに引き直したこの家の二十に餘る部屋部屋」とあり、確かに竹崎茶堂の「日新堂」がモデルのようであるが、第三稿の第一幕では「蚕軒山田嘉次郎の屋敷。しっかりした木組の農家を蚕軒が買いとって建て増しした不恰好なである」と書き改めてあり、「藁」葺きの「近沢侃氏邸」がモデルになっている。
「近沢侃氏邸」に舞台変更したのは初演舞台を作るためには具体的なイメージが必要であったからである。つまり、一九五三(昭和28)年九月の「ぶどうの会第九回勉強会」の上演台本(第二稿)のために「全体に手を加えて」(「あとがき」『木下順二作品集Ⅳ』)書き改めたのである。その改稿が一九五四(昭和29)年一月に理論社から刊行された第三稿(最終稿・決定稿)の「風浪」であるということである。
この調査に同行した大江氏によると、順二が「舞台の屋敷を大江義塾のようにしたい」と言ったという。第三稿に「藁家」と書いてあるのは、たまたま徳富旧邸(大江義塾跡)が「藁」葺きの建物であったというばかりでないのである。順二自身が明治の「熊本の雰囲気」を「非常に感覚的にナショナルだし士族的ですね。或いは豪農層的といっていゝのかもしれないけれども」(「対談 熊本バンドをどうとらえるか」)というときの「士族」は文中の「豪農層」と同じく下層の士族の謂いである。この「藁家」に象徴される「豪農層」「下層の士族」に自己解放の「明治のエネルギー」を見て、積極的に押し出そうとして描き直したのである。
                   (ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)


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第6号【蓮田善明】

2014年04月23日 01時42分15秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」


NPO法人 くまもと文化振興会
2014年3月15日発行

《はじめての蓮田善明》

〈末期の眼〉の作家
                        
永田満徳
  
はじめに

蓮田善明。この文学者のことを、どれだけの人が真の姿を理解できるだろうか。文学に明るい人でも、戦時中の超ナショナリストというレッテルのもとで理解しているのではないか。本当の理解者は蓮田を師と仰ぎ、蓮田の死をなぞって自決したノーベル賞候補作家三島由紀夫くらいであろう。一定の見方からは本当の作家像を捉えられないのも事実である。あの異常ですらあった戦時下の雰囲気の中に蓮田の文章を置いてみるとき、国文学の精髄を啓発しようとする一途な姿勢に〈信仰告白〉にも似た純真な美しさを読み取ることができる。

一 いかに「死ぬ」かという問題

明治三十七年七月二十八日に熊本県の元鹿本郡植木町の金蓮寺住職の三男として生まれ、熊本県立中学済々黌に入学した頃から文学に親しむこととなる。弱冠十七歳の時、回覧雑誌に「人は死ぬものである」という題の詩を発表して、早くも「死」の問題を直視し、その解決に苦慮している。
「人生とは何ぞや」 よりも「如何に生くべきか」の問題である。「如何に生くべきか」の解決は「如何に死すべきか」を解決し得る所に生るゝ結果である。                 「護謨樹」26号(大9・9)
「如何に生くべきか」と「如何に死すべきか」の二律背反する課題は本質的に表裏一体のものである。いかに「死ぬ」かという問題を除外しては、いかに「生きる」かという問題はありえなかった。それは、蓮田が生きなければならなかった戦時体制という特殊な時代が強いた人間の存在様式の一つであった。

二 死ぬことが文化

蓮田は、十五年戦争のさなかに二度召集を受けて出兵し、二度目の時終戦を迎えるが、ついに日本の土を踏むことはなかった。初めて戦場へ赴くとき、「日本人はまだ戦ひに行くことの美しさを知らない」と言って微笑んだというが、その戦争の体験後書かれた小説『有心』や書簡などを見れば、戦場はむしろ生の充実を確かめさせ、しかも文学と関わることのできる〈時と処〉を与えてくれる場所であった。
戦争の惨劇を知っている戦後の人間にとっては推測しがたいこのような戦争観を理解するには、塹壕の中から寄せられたいくつかの短章(「詩のための雑感」『文芸文化』昭14・6月号)にあたってみることである。

○命令は既に「死ね」との道である。死ねと命ずるものは又己を「花」たらしめるものである。唯一片の花たれ――何たる厳粛ぞ。何たる詩ぞ。
○弾丸に当る。眼くらみて足歩み、斃れんとして足下に一土塊、一草葉を見る、或は天空に一片の雲を見ん。此の土塊、草、雲、即ちそれ自ら詩である。究極の冷厳、自然そのもの。
○「死ね」の声きく彼方こそ詩である。

この短章には、戦場であればこそ、蓮田特有の「死」と「芸術」の課題を不即不離の関係でつかむことのできた証しが示されている。それは、後の画期的な論文『大津皇子論』の「此の詩人は今日死ぬことが自分の文化であると知つてゐる」という宣言に結実する。この論文で注目したいのは、日常化された臨戦体制下の「死」を「芸術」と定義づけて、〈死〉への道を自分に課していることである。くしくも三島由紀夫の「死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることのできない」(『蓮田善明とその死』序文)と述べている言葉に代表される呪縛的な魅力を持っていた。
この〈死は文化だ〉とする思想の確立によって、蓮田はあの青少年期に苦慮していた「死」の課題を「芸術」と結びつけることによってもののみごとに解決してみせた。そして、国文学研究を通して探りあてたこの思想は、第一次応召時に書かれた『陣中日記』『陣中詩集』に生かされている。

三 〈末期の眼〉による作品

ただここで説明を要するのは、〈死は文化だ〉という決意そのものが実際の作品を書く場合、どういう態度を導くことになったかということである。〈死もて文化を書く〉ことを片時も忘れずに戦場を駆けずり回っている蓮田のまぶたには恐らく、

弾丸に当る。眼くらみて足歩み、斃れんとして足下に一土塊、一草葉を見る、或は天空に一片の雲を見ん。此の土塊、草、雲、即ちそれ自ら詩である。

という、いわゆる今際の際に宿るとされる〈末期の眼〉を通してみられる瞬間の映像が「詩」として夢見られていたにちがいない。つまり、「死」=「芸術」の等式は、この〈末期の眼〉の獲得によって初めて具体的な文学作品を生み出すことができるようになる。例えば、

独りねておのれと見れば
ともしびにわが身を照らし
いのちなるかも
足かげを壁にうつして
虫けらの蟲の音をきく

『陣中詩集』の「偶詩」というこの作品には、昼間のあいだに研ぎ澄まされて鋭くなった〈いのち〉に対する自覚=末期の眼が表現されている。この意識を抜きにしては、蓮田の兵舎での孤独感を理解することができないし、「夜光時計」「こほろぎ」、「病院にて」の蝋燭の跡などに寄せる蓮田の繊細な愛着心の表れを読み取ることもできないだろう。また、『陣中日記』の場合、日を置かず〈遺書〉に等しい気持ちで書き込まれていることから、末期の眼という視界に捉えられるもののすべてを描き尽くそうとしたとみていい。
このように見てくると、蓮田の代表作『陣中日記』『陣中詩集』は、「死」こそ「芸術」だと覚悟したものの〈末期の眼〉を通してみた〈陣中〉=戦場のルポルタージュであった。全生命力をかけた末期の眼による稀有な作品を残した作家である。

おわりに

蓮田善明は、昭和二十年八月十九日、敗戦を中隊長(中尉)として迎えての四日後、応召先のマレー半島ジョホールバルで、ピストルを顳に当てて自裁を遂げる。その時、痙攣する左手に握り締めていたものは、「日本のため、やむにやまれず、奸賊を斬り皇国日本の捨石となる」という文面の遺歌を書いた一枚の葉書だったといわれる。まさしく憂国の士としての自決だった。これは蓮田の自決が「生」と「死」の相克を完結したものと思われる。そういう意味で、三島由紀夫が『私の遍歴時代』の中で「蓮田氏はのちに、敗戦と共に自決によつてその思想を貫き通した」と指摘しているのは至言である。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)


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