牛村蘇山句集『喰ふ喰ふ喰ふ』序文
永田 満徳
牛村蘇山氏が第一句集を上梓された。句会に、吟行に句友として接してきた私にとっても真に慶賀すべきことで、心よりお祝い申し上げる。七十歳を境にして句集を纏められて、一つの節目となったこの句集には蘇山俳句の全てが表現されている。
喰ふ喰ふ喰ふ空空空や小春風
句集の題名となった句である。「喰ふ喰ふ喰ふ」は人間のみならず、生きとし生けるものはまず「食べなくては生きてゆけない」(後記)という信念が籠った措辞で、「空空空」は色即是空の空である。「喰ふ」「空」は同音で繋がり、広大で深遠な世界を詠んで、俳句という短詩型の醍醐味を示す句である。
巻頭句二句から骨太な俳句が並ぶ。
告知ありへしやげてさうらふ昼蛙
ぺちやくちやと後の世のこと土雛
前者は輪禍にあった蛙がこの世を呪詛するすざましさ、後者は冥界に赴く雛がこの世に未練を残すことのない潔さが詠み込まれている。
この諧謔的表現は蘇山俳句に生かされ、句集全体の特色をなすものであり、蘇山俳句の出現は新たに俳句の世界の地平を開くものである。
冒頭の二句に続く二句をみても、蘇山俳句の自在性は無類である。
青饅やさばさばさばとお暇を
六角の穴六角の意志地蜂飛ぶ
小料理屋を辞する場面にしても、蜂の巣立ちの場面にしても、擬態語、押韻などの俳句の技法が縦横に生かされている。
二月二十六日ゴム鉄砲が食卓に
東京は軟骨となりホワイトデー
続く二句もまた蘇山俳句の特徴がみられる。二・二六事件とゴム鉄砲、あるいは軟弱な東京とホワイトデーとの取り合わせはみごとで、発想の融通無碍さが際立つ。
「東京は」の句は現代の俳句への告発と受け取れないことはない。従って、広範な知識に裏打ちされたアイロニカルな視線で切り取られた蘇山俳句は現代俳句への挑戦でもある。
蘇山氏が日本経済新聞の記者であったことは蘇山俳句を考えるとき極めて重要である。新聞記者の資質は何と言っても、世に対する絶えざる関心である。
野遊びに人の顔してゐたりけり
人間が一枚になる春真昼
「人間」への注視は新聞記者としての関心度の深さを表している。この二句の「人」「人間」には多重な人間が含まれていて、読み手によって多くの読みを可能にするものである。
早稲田大学を出て、日本経済新聞社に入った蘇山氏は、後記によると、その熊本支局長として熊本に来る直前の東京本社時代、激務稼業といわれる編集部門のデスクをしていて、明け方に家に帰って、コツンコツンの脳みそをほぐすのが酒と句集を読むことであり、中村草田男集がいつも手元にあったという。
人界へホッピーの泡冬ふかむ
軽佻浮薄な人間世界への関心には人間探求派の中村草田男との接点を垣間見ることができる。
人あるいは人の世への注視は風刺という形で詠まれて、蘇山俳句の独擅場と言っていいほどである。
切り抜きの痴話やひとひら春の雪
新聞の社会面には人間の諸相が取り上げられて、現代社会を映す鏡と言っていい。掲句は愚かであり、それゆえ人間の真実の姿が出ている「痴話」にひとひらの「春の雪」を取り合せることによって無限の人間理解を示している。
語尾上げて俱楽部といふや春の蠅
七癖をどうのかうのと四月馬鹿
ぴかぴかのお墓売ります花いちご
「語尾上げて」は定年後も帰属意識を持ち続けている人物への揶揄であることが「春の蠅」との取り合わせで示されている。「七癖を」は人物評をとやかく話題にすることの愚を「四月馬鹿」という季語を持ってくることによって指摘している。「ぴかぴかの」は死後も人の価値が墓の値段で決まるかのような商売に対しての捻りがなんと効いていることか。
「株」を素材にしている句が多く、仕事柄経済書から離れたことは一度もないという経済記者としての面目躍如である。
株価下がる風船ビルを越えて行く
青饅や根ほり葉ほりと株のこと
厠にて株の云々寒の雨
日本経済新聞社では経済取材一筋、企業取材や市場取材に明け暮れ、企業社会の日本的な「和」のおだやかな世界もおぞましい暗部も多く見てきたという。蘇山氏の複眼的な視点は記者という仕事によって養われたものであろう。
春の夢ここらでガニ股直さんと
麦秋や足の裏なるわが履歴
百円ショップこの身いかほどちちろ虫
物の両面を見る態度が自己に向かうとき、「春の夢」が自分の「ガニ股」であり、「わが履歴」が手相ではなく「足の裏」であり、「百円ショップ」並みのわが「身」であるという表現となる。自嘲というにはユーモラスすぎて、俳諧味が横溢していると言わなければならない。自分を笑うだけの心の余裕が窺える。自己をこれだけ笑えるのは人間洞察が深いからである。
ここで注目したいのは親鸞思想に傾倒していることである。愛読書『歎異抄』の「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし」の言葉に蘇山氏の人間理解の淵源がある。人間は業=行為と縁=条件が整えば、なんでもする、なんでもしでかすという認識は鋭い。蘇山氏は他人のなした罪を自分とは無関係の他人事のように眺め、自分を棚に上げて鋭く批判する人に対して、「行為」と「条件」という環境が整ったならば自分は果たして罪を犯さないと言えるかどうかと考える。
黒百合やあしたはきつと嘘をつく
自他の悪を知ればこそ、「あしたはきつと嘘をつく」と言えるのである。
蘇山氏は無類の人好きで、酒席の場には必ず数人の仲間がいる。人間の内奥の真実を知れば知るほど、人間の存在が愛おしいのである。
鶏鍋や駄洒落軽口茶利冗句
呑み食いしゃべる飲食の場からも数々の秀句が生み出されている。
ぐい呑みや夜な夜な春のかくれんぼ
ほろり呑む酢海鼠ほろりほろりかな
日が暮れるか暮れないかの頃から酒の虫が騒ぎ出し、飲みに出る様を「かくれんぼ」とは言い得て妙である。そして、「酢海鼠」を肴に「ほろり」と呑む酒に至福の時を過ごす。ここに、日常生活を楽しむ蘇山氏の姿が浮き彫りにされている。
句集を審らかに閲してみると、その多彩さに驚かされる。視点の面白さ、滑稽味など枚挙に遑がない。その一つ一つに触れることは限りがないので、最後に心惹かれる句を取り上げておきたい。
出自など聞いてどうする古雛
蚯蚓くしやくしや本人証明迫らるる
淫の字のなにやらやさし谷崎忌
炙りたやあの満月の裏表
このたびは駄じやれですまぬぞ鮟鱇よ
平成三十年六月吉日
永田満徳
永田 満徳
牛村蘇山氏が第一句集を上梓された。句会に、吟行に句友として接してきた私にとっても真に慶賀すべきことで、心よりお祝い申し上げる。七十歳を境にして句集を纏められて、一つの節目となったこの句集には蘇山俳句の全てが表現されている。
喰ふ喰ふ喰ふ空空空や小春風
句集の題名となった句である。「喰ふ喰ふ喰ふ」は人間のみならず、生きとし生けるものはまず「食べなくては生きてゆけない」(後記)という信念が籠った措辞で、「空空空」は色即是空の空である。「喰ふ」「空」は同音で繋がり、広大で深遠な世界を詠んで、俳句という短詩型の醍醐味を示す句である。
巻頭句二句から骨太な俳句が並ぶ。
告知ありへしやげてさうらふ昼蛙
ぺちやくちやと後の世のこと土雛
前者は輪禍にあった蛙がこの世を呪詛するすざましさ、後者は冥界に赴く雛がこの世に未練を残すことのない潔さが詠み込まれている。
この諧謔的表現は蘇山俳句に生かされ、句集全体の特色をなすものであり、蘇山俳句の出現は新たに俳句の世界の地平を開くものである。
冒頭の二句に続く二句をみても、蘇山俳句の自在性は無類である。
青饅やさばさばさばとお暇を
六角の穴六角の意志地蜂飛ぶ
小料理屋を辞する場面にしても、蜂の巣立ちの場面にしても、擬態語、押韻などの俳句の技法が縦横に生かされている。
二月二十六日ゴム鉄砲が食卓に
東京は軟骨となりホワイトデー
続く二句もまた蘇山俳句の特徴がみられる。二・二六事件とゴム鉄砲、あるいは軟弱な東京とホワイトデーとの取り合わせはみごとで、発想の融通無碍さが際立つ。
「東京は」の句は現代の俳句への告発と受け取れないことはない。従って、広範な知識に裏打ちされたアイロニカルな視線で切り取られた蘇山俳句は現代俳句への挑戦でもある。
蘇山氏が日本経済新聞の記者であったことは蘇山俳句を考えるとき極めて重要である。新聞記者の資質は何と言っても、世に対する絶えざる関心である。
野遊びに人の顔してゐたりけり
人間が一枚になる春真昼
「人間」への注視は新聞記者としての関心度の深さを表している。この二句の「人」「人間」には多重な人間が含まれていて、読み手によって多くの読みを可能にするものである。
早稲田大学を出て、日本経済新聞社に入った蘇山氏は、後記によると、その熊本支局長として熊本に来る直前の東京本社時代、激務稼業といわれる編集部門のデスクをしていて、明け方に家に帰って、コツンコツンの脳みそをほぐすのが酒と句集を読むことであり、中村草田男集がいつも手元にあったという。
人界へホッピーの泡冬ふかむ
軽佻浮薄な人間世界への関心には人間探求派の中村草田男との接点を垣間見ることができる。
人あるいは人の世への注視は風刺という形で詠まれて、蘇山俳句の独擅場と言っていいほどである。
切り抜きの痴話やひとひら春の雪
新聞の社会面には人間の諸相が取り上げられて、現代社会を映す鏡と言っていい。掲句は愚かであり、それゆえ人間の真実の姿が出ている「痴話」にひとひらの「春の雪」を取り合せることによって無限の人間理解を示している。
語尾上げて俱楽部といふや春の蠅
七癖をどうのかうのと四月馬鹿
ぴかぴかのお墓売ります花いちご
「語尾上げて」は定年後も帰属意識を持ち続けている人物への揶揄であることが「春の蠅」との取り合わせで示されている。「七癖を」は人物評をとやかく話題にすることの愚を「四月馬鹿」という季語を持ってくることによって指摘している。「ぴかぴかの」は死後も人の価値が墓の値段で決まるかのような商売に対しての捻りがなんと効いていることか。
「株」を素材にしている句が多く、仕事柄経済書から離れたことは一度もないという経済記者としての面目躍如である。
株価下がる風船ビルを越えて行く
青饅や根ほり葉ほりと株のこと
厠にて株の云々寒の雨
日本経済新聞社では経済取材一筋、企業取材や市場取材に明け暮れ、企業社会の日本的な「和」のおだやかな世界もおぞましい暗部も多く見てきたという。蘇山氏の複眼的な視点は記者という仕事によって養われたものであろう。
春の夢ここらでガニ股直さんと
麦秋や足の裏なるわが履歴
百円ショップこの身いかほどちちろ虫
物の両面を見る態度が自己に向かうとき、「春の夢」が自分の「ガニ股」であり、「わが履歴」が手相ではなく「足の裏」であり、「百円ショップ」並みのわが「身」であるという表現となる。自嘲というにはユーモラスすぎて、俳諧味が横溢していると言わなければならない。自分を笑うだけの心の余裕が窺える。自己をこれだけ笑えるのは人間洞察が深いからである。
ここで注目したいのは親鸞思想に傾倒していることである。愛読書『歎異抄』の「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし」の言葉に蘇山氏の人間理解の淵源がある。人間は業=行為と縁=条件が整えば、なんでもする、なんでもしでかすという認識は鋭い。蘇山氏は他人のなした罪を自分とは無関係の他人事のように眺め、自分を棚に上げて鋭く批判する人に対して、「行為」と「条件」という環境が整ったならば自分は果たして罪を犯さないと言えるかどうかと考える。
黒百合やあしたはきつと嘘をつく
自他の悪を知ればこそ、「あしたはきつと嘘をつく」と言えるのである。
蘇山氏は無類の人好きで、酒席の場には必ず数人の仲間がいる。人間の内奥の真実を知れば知るほど、人間の存在が愛おしいのである。
鶏鍋や駄洒落軽口茶利冗句
呑み食いしゃべる飲食の場からも数々の秀句が生み出されている。
ぐい呑みや夜な夜な春のかくれんぼ
ほろり呑む酢海鼠ほろりほろりかな
日が暮れるか暮れないかの頃から酒の虫が騒ぎ出し、飲みに出る様を「かくれんぼ」とは言い得て妙である。そして、「酢海鼠」を肴に「ほろり」と呑む酒に至福の時を過ごす。ここに、日常生活を楽しむ蘇山氏の姿が浮き彫りにされている。
句集を審らかに閲してみると、その多彩さに驚かされる。視点の面白さ、滑稽味など枚挙に遑がない。その一つ一つに触れることは限りがないので、最後に心惹かれる句を取り上げておきたい。
出自など聞いてどうする古雛
蚯蚓くしやくしや本人証明迫らるる
淫の字のなにやらやさし谷崎忌
炙りたやあの満月の裏表
このたびは駄じやれですまぬぞ鮟鱇よ
平成三十年六月吉日
永田満徳
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