日永田渓葉句集『蝋梅』序文
永田 満徳
日永田渓葉氏が第一句を刊行された。句会に、吟行に句友として接してきた私にとっても真に慶賀すべきことで、心よりお祝い申し上げる。七十歳を境にして句集を纏まられて、一つの節目となったこの句集には渓葉俳句の全てが表現されている。
蠟梅を透かして過去の滲み来る
「蠟梅」は句集の題となった句である。あたかも句集全体を言い表したような句である。「過去の滲み来る」に、これまでの来し方を振り返り、「過去」のある部分がことさらながら思い起こされる感慨を詠ったものである。
この過去への遡及は、「天空の風を友とし沢胡桃」という空間把握とともに、渓葉俳句に於ける時空感覚に依拠していて、一つの特色をなすものである。
四百年生死を謡ふ大桜
千年も桜を見んと峠越ゆ
生あるものの悠久さに対する賛仰の眼差しが根底にある。「四百年」「千年」という数詞に見られる気宇雄大な気風を良しとしたい。
生そのものへの注視は身近な生き物である犬への無限な温かい視線となっている。
あちこちに犬の穴あり長旱
春の野へ縺れる走り犬笑ふ
老犬の伏目がちなる庭菫
大寒の老犬の眼の澄み渡る
「あちこちに」「犬笑ふ」「伏目がち」「澄み渡る」などはいずれも犬の仕種を注意深く観察していなければならない措辞である。愛犬家という言葉以上に、生きとし生きるものを慈しむ精神の発露と捉えることができる。
降り積もる落葉の布団犬の墓
春泥や犬に越さるる齢来る
犬と雖も家族同然に思う視線が一たび自己に向かうと、「身の内にひとりを満たし暑き夜」の句に見られるように、内省の深さは追随を許さぬものである。日永田氏に接した人は人を責めることのない、その柔和な表情に心癒される。
幾多の苦労を重ねて来たことを思わせる句もある。
家族鍋昔のことは口にせず
野分俟つ我が身を誹る娘ゐて
家庭内の出来事も「昔」こととして自分のうちに潜ませ、「娘」に反抗されても我慢して耐える姿に古武士の面影を見るのは私だけではないだろう。
その家族もやがて癒しの元であることも否定できない。
酒つぐ子肩揉む子居て夏座敷
口あけて昼寝の子供原爆忌
石橋の妻の手を引き花菖蒲
「酒つぐ子肩揉む子」の存在に相好を崩している様子が目に浮かぶし、「昼寝の子」に対する平穏を祈る気持ちや「石橋の妻」への優しい気遣いは読むものに感動を呼ぶ。
ところで、「梅雨なれば下駄を引き出す散歩道」にある「下駄」履きを好み、出来るだけ自然に同化しようとする考えは自然保護活動に参加する行為と軌を一にするものである。自然へ親近性は季節とともに暮らす俳人としての資質を備えられていることを証明している。
来迎の曙光を入れて遠秋嶺
氷点下ものみな曙光宿しけり
曙や娘孕みて蕗の薹
霜踏みて曙光の向こう見えぬもの
「曙光」の語が頻出するが、曙の光が意味するものが自然への畏敬の念と希望であるからである。
句集を審らかに閲してみると、その多彩さに驚かされる。こよなく愛されている酒では「二駅を揺られ新酒の蔵に入る」の「二駅」の微笑ましさ、「まぶしさや障子に春の力あり」「春雷の中に得体の知れぬもの」の句の感覚の冴え、「目借時お客にあらぬ問ひをかけ」「あたふたメールを返し愁思かな」の滑稽味など枚挙に暇がない。
その他で心惹かれる句を取り上げておきたい。
日短や待ち会ふ女の髪の揺る
秋澄や塾のチョークは響きをり
両の手を葉のかたちにて蓬摘む
別れ時知れば二人の夕焼かな
恋猫や月は地球に落ちさうに
俳人協会幹事 永田満徳
永田 満徳
日永田渓葉氏が第一句を刊行された。句会に、吟行に句友として接してきた私にとっても真に慶賀すべきことで、心よりお祝い申し上げる。七十歳を境にして句集を纏まられて、一つの節目となったこの句集には渓葉俳句の全てが表現されている。
蠟梅を透かして過去の滲み来る
「蠟梅」は句集の題となった句である。あたかも句集全体を言い表したような句である。「過去の滲み来る」に、これまでの来し方を振り返り、「過去」のある部分がことさらながら思い起こされる感慨を詠ったものである。
この過去への遡及は、「天空の風を友とし沢胡桃」という空間把握とともに、渓葉俳句に於ける時空感覚に依拠していて、一つの特色をなすものである。
四百年生死を謡ふ大桜
千年も桜を見んと峠越ゆ
生あるものの悠久さに対する賛仰の眼差しが根底にある。「四百年」「千年」という数詞に見られる気宇雄大な気風を良しとしたい。
生そのものへの注視は身近な生き物である犬への無限な温かい視線となっている。
あちこちに犬の穴あり長旱
春の野へ縺れる走り犬笑ふ
老犬の伏目がちなる庭菫
大寒の老犬の眼の澄み渡る
「あちこちに」「犬笑ふ」「伏目がち」「澄み渡る」などはいずれも犬の仕種を注意深く観察していなければならない措辞である。愛犬家という言葉以上に、生きとし生きるものを慈しむ精神の発露と捉えることができる。
降り積もる落葉の布団犬の墓
春泥や犬に越さるる齢来る
犬と雖も家族同然に思う視線が一たび自己に向かうと、「身の内にひとりを満たし暑き夜」の句に見られるように、内省の深さは追随を許さぬものである。日永田氏に接した人は人を責めることのない、その柔和な表情に心癒される。
幾多の苦労を重ねて来たことを思わせる句もある。
家族鍋昔のことは口にせず
野分俟つ我が身を誹る娘ゐて
家庭内の出来事も「昔」こととして自分のうちに潜ませ、「娘」に反抗されても我慢して耐える姿に古武士の面影を見るのは私だけではないだろう。
その家族もやがて癒しの元であることも否定できない。
酒つぐ子肩揉む子居て夏座敷
口あけて昼寝の子供原爆忌
石橋の妻の手を引き花菖蒲
「酒つぐ子肩揉む子」の存在に相好を崩している様子が目に浮かぶし、「昼寝の子」に対する平穏を祈る気持ちや「石橋の妻」への優しい気遣いは読むものに感動を呼ぶ。
ところで、「梅雨なれば下駄を引き出す散歩道」にある「下駄」履きを好み、出来るだけ自然に同化しようとする考えは自然保護活動に参加する行為と軌を一にするものである。自然へ親近性は季節とともに暮らす俳人としての資質を備えられていることを証明している。
来迎の曙光を入れて遠秋嶺
氷点下ものみな曙光宿しけり
曙や娘孕みて蕗の薹
霜踏みて曙光の向こう見えぬもの
「曙光」の語が頻出するが、曙の光が意味するものが自然への畏敬の念と希望であるからである。
句集を審らかに閲してみると、その多彩さに驚かされる。こよなく愛されている酒では「二駅を揺られ新酒の蔵に入る」の「二駅」の微笑ましさ、「まぶしさや障子に春の力あり」「春雷の中に得体の知れぬもの」の句の感覚の冴え、「目借時お客にあらぬ問ひをかけ」「あたふたメールを返し愁思かな」の滑稽味など枚挙に暇がない。
その他で心惹かれる句を取り上げておきたい。
日短や待ち会ふ女の髪の揺る
秋澄や塾のチョークは響きをり
両の手を葉のかたちにて蓬摘む
別れ時知れば二人の夕焼かな
恋猫や月は地球に落ちさうに
俳人協会幹事 永田満徳
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