魂の一行詩に向かって
永田満徳
『トンカラリン』は菅野隆明氏の第一句集である。全てで四六二句を数え、菅野氏渾身の句集である。どの句にも心が通っていて、読み応えのある句群である。
菅野氏とは句会を友としている関係で、句会の折に心を留めた句があり、旧知にあった気がする。
春羅漢さまざまの貌なつかしき
蝸牛の道のなかばで行き暮れて
目瞑れば闇の花咲く西行忌
「羅漢」に親しみを持ったり、「蝸牛」に心を寄せたり、「西行」に思いを寄せたりしていて、句集という一纏まりで読むと、菅野俳句の真骨頂を味わうことができる。
菅野俳句は郷土に深く根差している。
阿蘇は世界最大級のカルデラや勇壮な五岳、広大な草原など、地球の素顔ともいえるスケールの大きな地である。
大阿蘇の神々目覚む大初日
阿蘇は何よりも神の山である。阿蘇火山の活動は農作物に大きな被害を与えることから、人々は古来より火山を神として敬ってきた。
さらに、阿蘇は伏流水が多く、泉が湧き出ていて名水の宝庫である。
若水の渾渾と阿蘇一の宮
特に南阿蘇方面には多くの湧水が存在し、阿蘇の恵みとして尊ばれている。
奥阿蘇の湧水あまし新豆腐
年今年阿蘇の水湧く水前寺
また、阿蘇は有数の放牧地である。阿蘇の草原に放牧されている牛のほとんどが、子牛を生ませるための雌牛とその子牛である。
春雷や子牛奔れる阿蘇の牧
阿蘇谷の牛小屋守るちやんちやんこ
阿蘇に吹く風も風物詩の一つである。
阿蘇谿の風さらさらと新豆腐
阿蘇谷の風はいづくへ女郎花
かなかなや阿蘇の木木より生るる風
いずれも阿蘇を吹き抜ける風を描いて、心地いい。
阿蘇の野菜といえば高菜が有名であるが、
大阿蘇や青首大根ぐいと引く
という大根もあり、〈大根引く阿蘇に大きな尻向けて〉の句は捨てがたい。
球磨川は、熊本県南部の人吉盆地を貫流し、多くの支流を併せながら八代平野に至り不知火海に注ぐ一級河川で、日本三大急流の一つでもある。
球磨川の水面揺蕩ふ盆の月
球磨川沿いの風景を〈暮易し球磨の渡しの独木舟〉と描いて過不足がない。
球磨川下りではなんといっても美しい自然を眺めながら、大小の早瀬を進むスリルが魅力である。
川下り焼酎に酔ひ舟に酔ひ
鶺鴒や球磨には早瀬かつぱ淵
焼酎は「球磨焼酎」のことである。熊本県南部の人吉・球磨地方に産する焼酎の呼称で、米を原料とし、すっきりとした味わいが特徴である。
このように、阿蘇、そして球磨の句には阿蘇、球磨の風物が余すところなく詠みあげられている。
トンカラリン抜ければ古代秋の蝶
句集の題は末尾の連作である「トンカラリン」から採られている。トンカラリンは熊本県和水町にある古代の隧道型の遺構で、未だに用途は不明である。題そのものが郷土の風物に対する作者の愛情を物語るものである。
ところで、郷土・風土への関心は遍路の句に表現されている信仰心と不可分の関係にある。句集「トンカラリン」の副題は「果てなき遍路みち」となっていて、作者の作句姿勢が如実に現れている。
重き荷の肩に食ひ込む遍路みち
補陀落の海遥かなり遍路みち
など、人生を「遍路」とみている句を抜き出すのはそう難しくない。日常的に〈大寒のひとり経読む仏間かな〉の状態であり、〈隠岐や今御霊鎮まる雲の峰〉という後鳥羽上皇への鎮魂の句など、枚挙に遑がない。
この宗教に対する言及の根源には、余人の伺うことの知れない心の闇の存在があることを忘れてはいけない。
木枯らしの我が影ととも海に入る
この「影」は見たままの影ではない。「木枯らし」はまさしく心象の句である。そう思うのは「影」と類縁の「闇」の語が頻出するからである。
闇の遍路明王鈴をよすがとし
身のうちの修羅とき放つ五月闇
心の闇を凝視した句からは作者の心の底の深さを思い計ることができる。もちろん、〈海鼠腸を舐めつつ酒を呷るかな〉の句にある通り酒を好み、旅にあれば〈みちのくのどぶろく重ね一句なす〉〈熱燗や熊襲の裔の集ふ句座〉というふうに酒は傍らにあるににあるとしても、あくまでも酒は〈どぶろくや背の矜恃つと解けり」と心を解放するものでしかない。
菅野隆明氏の俳句は単なる写生の具でなく、生き方そのものが俳句である。ここに、魂の一行詩を標榜する「河」の同人たるを疑わない。
平成二十九年四月