【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

火神主宰 俳句大学学長 Haïku Column代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

第4回「中村青史賞」を受賞して

2024年08月01日 00時15分06秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

令和6年度 第4回「中村青史賞」を受賞して

                       永田満徳

このたび、令和6年度第4回「中村青史賞」を頂き、身の引き締まる思いです。選考頂いた「くまもと文化振興会」の理事の方々に心よりお礼申し上げます。

「くまもと文化振興会」の顧問である中村青史先生は2019年に徳富兄弟、夏目漱石、小泉八雲ら熊本ゆかりの文学者についての様々な顕彰活動が認められ、「熊日賞」を受賞されました。それをもとに、 2020 年に創設されたのが「中村青史賞」です。「中村青史賞」はその年に熊本の文化芸術面において貢献した者へ贈られています。

中村青史先生との出会いはかれこれ40年ほど前、大学出たてのころです。「熊本歴史科学研究会」の永野守人氏の家に呼ばれて行ったときに初めてお目にかかりました。その席で、中村先生に「文学研究を続けたい」と思いを述べたところ、「熊本には誰でも入れる『熊本近代文学研究会』があり、代表の首藤基澄先生に紹介しよう」となりました。

「熊本近代文学研究会」は月一の研究発表と機関誌「方位」の寄稿という車の両輪で行われていました。私はそこで、夏目漱石や木下順二、小泉八雲などを研究発表したり、寄稿したりしました。熊本の文学者を扱った単行本『熊本の文学』(審美社)では三好達治、蓮田善明、三島由紀夫を担当しました。熊本カルチャーセンターの「熊本の文学」講座の12講座やその他の講話の基になったもので、貴重な財産となっています。

また、首藤基澄先生には俳句を勧められ、現在、首藤先生が創立された俳誌「火神」主宰や俳人協会幹事、俳人協会熊本県支部長を任され、第二句集『肥後の城』(文学の森 令和3年9月)では熊本の風土を詠み込んだものとして、第15回「文學の森大賞」(令和5年)を頂くまでになりました。

それもこれも、中村青史先生の紹介がなければ今日の私の熊本ゆかりの文学研究はないと思っています。

中村青史先生は熊本出身の文学者の顕彰の会を数多く立ち上げて来られました。中村先生の傍にいると、熊本の文学がじかに感じられて、中村先生から推挙、または勧誘頂いた熊本の文学顕彰会にはすべて加入しました。

中村青史先生は「熊本文化懇話会(文学)」の会員や「熊本アイルランド協会」の理事の推挙の理由を「若い君が頑張れ」とおっしゃって励まされました。私を育てようというお気持に感謝の言葉もありません。「徳永直の会」「熊本・蘆花の会」は中村先生が会長を退かれる際に相談があり、知り合いを紹介したり、仲介を務めたりしました。私をそれほど信任して頂いたことに胸が熱くなる思いでした。

このように、中村青史先生に愛弟子のように育てて頂いた私にとって、中村先生の冠のある賞を頂き、大きな喜びです。中村先生のご遺志を引き継いで、熊本文学の研究・顕彰に努めていくことが中村先生の御恩に報いることであると思っています。

今後は、「中村青史賞」の受賞を励みに、熊本の文学研究・顕彰はもとより、俳句創作においては、夏目漱石の言葉とされる「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」に倣い、連想はもとより、オノマトペ・擬人法・同化などを駆使して、ますます多様な表現に挑戦して行くつもりです。そうすることによって、漱石俳句を継承し、並びに正岡子規の新派俳句を熊本にもたらした夏目漱石の顕彰に努めたいと思っています。

(ながた みつのり/俳誌「火神」主宰 熊本近代文学研究会会員)

 

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俳句のレトリックとは何か ~漱石俳句と『肥後の城』のレトリック~

2024年06月15日 16時42分13秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

総合文化誌KUMAMOTO 第47号

NPO法人 くまもと文化振興会 2024年6月20日発行

 

俳句のレトリックとは何か

~漱石俳句と『肥後の城』のレトリック~

 

           「火神」主宰 俳句大学学長 永田満徳

 

はじめに

第十五回「文學の森大賞」の第一次選考委員の望月周が「心の表現に適う修辞を自覚的に探りながら、郷土・熊本への熱情を多彩な詩に昇華しており、強い印象を残す。」と述べて、永田満徳の第二句集『肥後の城』(文學の森、2021年)における「修辞」(レトリック)の効果を高く評価している。

私は「文學の森大賞」受賞の言葉(月刊「俳句界」2023年5月号)に、「夏目漱石の言葉とされる『俳句はレトリックの煎じ詰めたもの』に倣い、連想はもとより、オノマトペ・擬人法・同化などを駆使して、多様な表現を試みました。」と書いているだけに、望月周の選考評は我が意を得たりでうれしかった。

「レトリック」という語は修辞学、あるいは修辞法、修辞技法などと訳される。〈文彩〉、または単に〈彩〉。言葉の効果的な使い方や表現技法で、説得力や感情的な効果を高めるために使用される。比喩、擬人など、さまざまな技法がある。

 

1.漱石の俳句観 

熊本時代の漱石は俳人であった。

明治32年1月、〔子規へ送りたる句稿 その31〕の最後に、「冀くは大兄病中煙霞万分の一を慰するに足らんか」と書いている。つまり、漱石俳句全体の四割に当たる、熊本時代の千句余りの俳句は、病魔に襲われている子規の苦痛を添削によって軽減しようと配慮したのである。

夏目漱石の俳句観を端的に示すのは、寺田寅彦が「夏目漱石先生の追憶」(昭和7年12月)のなかで、漱石の言として残っている言葉である。

○ 俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。

○ 扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。

そもそも、漱石のレトリックへの斟酌は俳句だけではない。修辞学者の佐藤信夫が漱石の文学作品においても、「並はずれた修辞的表現者だった」、「徹頭徹尾修辞的に書く、という散文は、漱石以後、《継承》されることがなかった」(『わざとらしさのレトリック 言述のすがた』(講談社学術文庫)とまで言い切っているほどである。

もともと、俳句の根本的なものは「写生」である。写生とは西洋画家中村不折に教わった正岡子規が俳句に応用したものである。写生が意味を持つのは、子規が長編時評「明治二十九年の俳句界」で説いているように、「非情の草木」や「無心の山河」には「美を感ぜしむる」ものがあるからである。

それに対して、漱石の写生観を「自然を写す文章」(『漱石全集』第25巻)に当たってみると、「自然を写す――即ち叙事といふものは、なにもそんなに精細に微細に写す必要はあるまいとおもふ。」「一部一厘もちがはずに自然を写すといふ事は不可能の事ではあるし、又なし得たところが、別に大した価値のある事でもあるまい。」といい、写生に必ずしも重きを置いてはいない。むしろ「自然にしろ、事物にしろ、之を描写するに、その連想にまかせ得るだけの中心点を捉へ得ればそれで足りるのであつて、細精でも面白くなければ何にもならんとおもふ。」と述べ、「連想にまかせ得るだけの中心点を捉へ」ることを推奨している。「中心点」といい、「集注点」といい、「俳句のレトリック」を「扇のかなめのような集注点を指摘し描写」するものだという俳句観と同じである。ここでおもしろいのは、師の正岡子規に異を唱えるように、いくら写生に徹して「細精でも面白くなければ何にもならん」と言っていることである。

「自然を写す文章」は写生文についての言及ではあるが、俳句もまた、「自然を写す」のに「細精」であるよりも、「面白く」詠むべきだという考えを披歴していると言ってよい。

その点で注目すべきは、正岡子規が「明治二十九年の俳句界」のなかで、漱石の俳句を「活動」と二字で評価して、「意匠極めて斬新なる者、奇想天外より来たりし者多し。」と述べていることである。首藤基澄は「子規と漱石――写生と連想――」(『近代文学と熊本』、和泉書院)のなかで、「活動」と評したことに対して、「具象から抽象まで、連想法によって自在な世界構築が試みられようとしていたとみていい。その時、対象や方法を限定することなくいかようにも『活動』できる幅があった」と述べている。

明治30年2月の〔子規へ送りたる句稿二十三〕(『漱石全集』第17巻・岩波書店)をみると、「俳句のレトリック」をこれでもかこれでもかと使っている。番号は掲載順で、私が都合のいいように、「俳句のレトリック」を使った句だけを抜き出した訳ではないことを断っておく。

  1066 ○○ 人に死し鶴に生れて冴返る    空想

  1067    隻手(せきしゅ)此比(ひ)良目(らめ)生捕る汐干よな   見立て

  1068    恐らくば東風(こち)に風ひくべき薄着 

  1069 ○○ 寒山か拾得か蜂に螫(さ)されしは   連想 

  1070 ○○ ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり 比喩

  1071 ○○ 落ちさまに虻を伏せたる椿哉(かな)   擬人化

  1072    貪りて鶯続け様に鳴く      擬人化

  1073  ○ のら猫の山寺に来て恋をしつ   擬人化

  1074 ○○ ぶつぶつと大な田螺(たにし)の不平哉   オノマトペ・擬人化

子規の添削・評は句頭の○である。子規が漱石の句を高く評価しているのはいずれも「俳句のレトリック」を用いた「空想」「連想」「比喩」「擬人化」「オノマトペ」である。子規は子規で、夏目漱石の俳句の特色、あるいは魅力が「俳句のレトリック」の応用にあることを的確に掴んでいるのである。ここに漱石の俳句を「活動」と評した所以があると言わなければならない。

 

2.漱石俳句のレトリック

かつて、「夏目漱石『草枕』」(「『仕方がない』日本人をめぐって―近代日本の文学と思想」2010.9・南方新社))において、『草枕』の叙述の仕方と筋の展開には「俳句のレトリック」の応用があることを指摘した。漱石が「余が『草枕』」という文章の中で自己解説した『草枕』が「俳句的小説」であることを裏付けたのである。

※夏目漱石の『草枕』論 参照)

その『草枕』論を書く準備段階で、夏目漱石の熊本時代の俳句を調べてみて分かったことは、「写生」「季語」「取り合せ」「省略」という俳句の基本的なレトリックはむろんのこと、「デフォルメ」「連想」「擬人化」「同化」などに及び、あらゆる「俳句のレトリック」を使っていることである。

その際に参考にしたのは、漱石俳句に対して門下生と呼ばれる寺田寅彦・松根豊次郎・小宮豊隆が標語している「漱石俳句研究」(一九二五年七月、岩波書店)である。

比喩=あるものを別のものに喩える          

  日当りや熟柿の如き心地あり 漱石 

 熟柿になつた事でもあるような心持のある所が面白い(小宮蓬里雨)

擬人化=人間でないものを人間に擬える         

  叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな 漱石

 此処では木魚を或意味で人格化している(蓬里雨)

連想=季語の内包する美的イメージを表す    

  寒山か拾得か蜂に螫されしは 漱石

 絵の表情から蜂に螫されたといふ架空の事実を連想した。(寺田寅日子)

空想=現実にありそうにもないことを想像する  

  無人島の天子とならば涼しかろ 漱石

 思ひ切つた空想を描いた句。(寅日子)

デフォルメ=対象を強調する          

  夕立や犇く市の十萬家 漱石

 十萬家といふ言ひ現はし方かの白髪三千丈の様ないささか誇大な形容(松根東洋城)

オノマトペ=音や声、動作などを音声化して示す 擬音語、擬声語、擬態語の3種類

  ぶつぶつと大いなる田螺の不平かな 漱石 大いなる→大な 〔句稿二十三〕

 先生の所謂修辞法の高頂点を示す(寅日子)

このように、私のみならず、漱石の門下生がどう標語しているかを例示することによって、漱石がどれだけ「俳句のレトリック」に習熟していたかということを示しておきたい。

 

3.『肥後の城』の俳句レトリック

私は代表を務める「俳句大学」で、インターネットの「俳句大学ネット句会」、あるいはFacebookの「俳句大学投句欄」における、講師による「一日一句鑑賞」、会員による「一日一句互選」や週ごとの「席題で一句」「テーマで一句」「動画で一句」、特別企画の「写真で一句」などに投句し、講師として選句も担当してきた。そこで、私が提出する兼題には必ずオノマトペを出すことにしているので、当然、『肥後の城』においてはオノマトペを使った俳句が多くなる。

今村潤子は、「特集 永田満徳句集『肥後の城』」(「火神」75号)のなかで、

  春昼やぬるんぬるんと鯉の群

  しやりしやりと音まで食らふ西瓜かな

  湯たんぽやぽたんぽたんと音ひびく

を取り上げて、「擬声語、擬態語が大変旨く表現されている。このようなオノマトペを使った句は他にもあるが、そこに作者の詩人としての感性が匂ってくる。」と述べている。

また、金田佳子は、「自在なオノマトペ」(「火神」75号)と題した文章で、『肥後の城』における「オノマトペ」が「気になった」こととして、

 一章 城下町  なし

 二章 肥後の城 ぽたり、だりだり、ごろんごろん、とろり

 三章 花の城  どさり、ぬるんぬるん、ひたひた、ぼこぼこ、しゃりしゃり、ぱっくり、ぱんぱん       

 四章 大阿蘇  とんとん、ぐらぐらぐんぐん、もぞもぞ、ゆったり、じっくり、ぽたんぽたん              

などを抜き出し、「オノマトペが印象鮮明、途端に句が生き生きとし、動詞や形容詞、形容動詞で説明されるよりずっと体感する」と述べて、オノマトペのよさを指摘している。ちなみに、オノマトペを使った句を例示すると、「さみだれの音だりだりとわが書斎」「寒風にぼこぼこの顔してゐたり」「もぞもぞとなんの痛みか長崎忌」などである。

 『肥後の城』第四章の「大阿蘇」のなかの、

  ぐらぐらとどんどんとゆく亀の子よ

という句の場合、一句の中に「ぐらぐら」と「どんどん」というオノマトペを使うことによって、「左右に揺れながら一心に進んで行く」といった内容の長い文章を五七五の短い表現にできる。

オノマトペは世界一短い定型詩である俳句にとって非常に効果的であると考えてよい。

続いて、比喩は、譬えとも言うが、何かを表現したり伝えたりする際に、あえて他の事柄にたとえて表現する技法のことである。今村潤子は同じく「特集 永田満徳句集『肥後の城」(前述)において、

春の雷小言のやうに鳴り始む

  ストーブを消して他人のごとき部屋

  熱帯夜溺るるごとく寝返りす

を取り上げて、「一句目は、春の雷は夏の雷と違ってごろごろと弱く鳴っている。その様を『小言のやうに』譬えた所、二句目は『ストーブを消し』た部屋を『他人のごとき』と譬えた所に作者ならではの独自性がある。三句目は寝苦しい熱帯夜に輾転反側している様を『溺れるように』と譬えた所に、熱帯夜が唯ならぬものであることが感受できる。」と述べて、「譬えが句の中で精彩を放っている」       と指摘している。

比喩は当たり前の表現をおもしろくしたり、分かりにくいものでも分かりやすくしたりする利点がある。

更に、擬人化について触れると、『肥後の城』の第一章の「城下町」だけでも多く取り出せる。

  いがぐりの落ちてやんちやに散らばりぬ

「いがぐり」があちらこちらの散らばって落ちている様を詠んだもので、人間以外の「いがぐり」を「やんちや」坊主という人間に見立てた句である。

  さつきまでつぶやきゐたるはたた神 

極月の貌を奪ひて貨車通る     

  どんどの火灰になるまで息づけり

擬人化は意外性のある句を作ることのできる魅力的な手法であるとともに、わかりやすさ、納得しやすさという点で修辞法の代表といえる。

最後に象徴であるが、象徴は抽象的な思想・観念をわかりやすく、別の具体的な事物によって理解しやすい形で表現する方法で、近年、特に注目している「俳句のレトリック」である。

   かたつむりなにがなんでもゆくつもり

「かたつむり」がどこまでも進んでいく様子を表現している。自分のペースで進み続けることで、どんなに遠くても目的地に到達する「かたつむり」を「独立独歩」の象徴として読み取ることができる。

あめんぼのながれながれてもどりけり 

  こんなにもおにぎり丸し春の地震  

「あめんぼ」の句にしても、「おにぎり」の句にしても、「あめんぼ」が「不屈」、あるいは「おにぎり」が「真心」といった具合に、物と人間の深奥とを重層的に表現していると言うことができる。

物そのものを詠むのが俳句の骨法であるが、具体的でありながら抽象的な概念を詠み込むことができる象徴化という表現技法は「俳句のレトリック」の極北である。

『肥後の城』全体を通してみても、オノマトペに限らず、その他のレトリックの句にも好意的な評価が多かった。

 

4.俳句のレトリックの可能性 

「俳句のレトリック」に対する評価は必ずしも肯定意見ばかりではない。俳句に限らず、レトリックは一般的に評判が悪い。表現上の小技にすぎないと軽んじ、遠ざける傾向がある。特に俳句においては、古くは松尾芭蕉が高山伝右衛門宛ての書簡で作句五か条の一つとして「一句細工に仕立て候事、不用に候事(細工をしないこと)。」を記し、近年は高浜虚子の客観写生、すなわち写実的描写を重視してきたことの影響もあるのだろう。見たままをそのまま句にするのが写生であるから、当然と言えば当然である。確かに、オノマトペを含むレトリックは、例えば、擬人化の発想というのは、どうしても似たり寄ったりになりがちで、ありふれた発想、表現になることが多く、月並みに陥りやすいという欠点がある。擬人法を安易に使うと、気取った作意が透けて見え、陳腐で、薄っぺらな句になってしまうものである。

しかし、金子兜太は俳句という定型の音律形式がオノマトペを使いこなすのに格好のものであると述べている。また、漱石の「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」という言葉に触発されて俳句を始めた首藤基澄は句集『魄飛(はこび)雨(あめ)』(北溟社)の「あとがき」において、「片仮名語・擬音(態)語・方言・俗語・仮構・片言など、現在(いま)を生きる一人の人間の世界を少しでも浮かび上がらせるものであれば、それはそれでいいのではないか。」と言い、俳句表現の幅を広げるためには擬音(態)語・仮構も必要との考えをしている。

「俳句のレトリック」は言葉の力を最大限に引き出すための表現手法として重要な役割を果たす。レトリックは俳句という短詩型にとって有効な表現手段である。俳句は究極的には「レトリック」の固まりと言ってよい。作者の意図、感動を正しく読者に伝え、共感を得るために、もっと積極的に取り入れてよいのではないか。

 

終わりに

正岡子規没後、高浜虚子を中心とする「ホトトギス派」と、河東碧梧桐を中心とする「新傾向俳句」に分かれる。「新傾向俳句」が五七五調や季題にとらわれない新しい句作を提唱したのに対し、「ホトトギス派」は五七五の定型調や季題といった伝統を守り、客観写生を深めることを主張した。その後、大正、昭和初期には客観写生派の「ホトトギス派」が俳壇の主流となり、今日に至っている。

しかし、その一方で、熊本にて運座(句会)を開き、正岡子規の新派俳句を熊本にもたらした漱石俳句の継承者は全国的にみてもいない。そこで、私は漱石の俳句を俳句の「技巧派」と名付けて、漱石派の後継者を自認することを表明したい。

(令和5年度第1回湧水講演(令和5年年10月14日 熊本県立図書館3F大研修室)より文字起こしたものである。





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追悼 中村青史先生 ~愛弟子のように~

2023年12月15日 23時11分53秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

総合文化雑誌「KUMAMOTO」45号
NPO法人 くまもと文化振興会(2023年12月15日発行)

追悼 中村青史先生

                          ~愛弟子のように~                                                                                                                            永田満徳 

 中村青史先生との出会いはかれこれ40年ほど前、大学出たてのころである。学校の同僚で、「熊本歴史科学研究会」の永野守人先生の家に呼ばれて行ったときに初めてお目にかかった。その席で、中村先生に「大学を卒業しても、さらに文学研究を続けたい」と思いを正直に述べたところ、「熊本には誰でも入れる『熊本近代文学研究会』があり、代表の首藤基澄先生に紹介しよう」となった。
 向井ゆき子さんによれば、「頼まれた以上は最後まで永田くんの面倒を見る」とおっしゃっておられたという。中村先生に私を「頼む」と言われたのは永野守人先生ではないかと思われる。永野先生には新任のころ、親身になってお世話を頂いたからである。

 「熊本近代文学研究会」は月一の研究発表と機関誌「方位」の寄稿という車の両輪で行われて、現在に至っている。私が研究発表と寄稿した文学者は夏目漱石や木下順二、小泉八雲などがある。「熊本近代文学研究会」では『熊本の文学』と題する熊本の文学者を扱った単行本を発行するようになり、私も『熊本の文学』(審美社)のⅠでは三好達治、Ⅱでは蓮田善明、Ⅲでは三島由紀夫を担当した。熊本カルチャーセンターの「熊本の文学」講座やその他の講話の基になったもので、貴重な財産となっている。
 また、首藤基澄先生には俳句を勧められ、現在、首藤先生が創立された俳誌「火神」主宰、俳人協会幹事、俳人協会熊本県支部長を任され、第二句集『肥後の城』(文学の森 令和3年9月)では熊本の風土を詠み込んだものとして「文學の森大賞」を頂くまでになった。
 それもこれも、中村青史先生の紹介がなければ今日の私はないと思っている。

 中村青史先生は熊本出身の文学者の顕彰の会を数多く立ち上げて来られた。中村先生の傍にいると、熊本の文学がじかに感じられて、おもしろく、いつしか中村先生のような郷土の文学を研究する者になりたいと思うようになった。
 中村青史先生から推挙、または勧誘頂いた熊本の文学顕彰会は以下の通りである。なお、役職は現在のものである。
 「熊本文化懇話会(文学)」会員
 「熊本アイルランド協会」理事
 「熊本八雲会」監事
 「徳永直の会」広報
 「熊本近代文学研究会」会員
 「くまもと漱石倶楽部」会員
 「草枕ファン倶楽部」会員
 「熊本・蘆花の会」会員
 中村青史先生は「熊本アイルランド協会」の理事の推挙の理由を「若い君が頑張れ」とおっしゃって励まされた。私を育てようというお気持に身の引き締まる思いであった。特に、「徳永直の会」「熊本・蘆花の会」は中村先生が会長を退かれる際に相談があり、知り合いを紹介したり、仲介を務めたりした。私をそれほど信任して頂いたことに感謝している。

 私は様々な企画をするのが好きで、中村青史先生に文学の講師や果てはバスガイドをお願いしても、一度も否定されることはなく、何をやっても「いけいけどんどん」というタイプの先生で、思い通りの催しが開催できた。その気さくさに中村先生の器の大きさを覚え、ますます中村先生を慕うようになった。
 その主な例としては、まず、「九州地区高等学校国語教育研究大会熊本大会」が開催されたとき、私は「草枕の里」探訪と銘打ったバスツアーを担当した。中村青史先生に恐る恐るバスガイドをお願いしたら、快く引き受けて頂いた。中村先生の知識はもちろんのこと、バスの窓外を指差しながら、前田家ゆかりのだれそれが住んでいたとか、現地の息遣いが分かるような案内のため参加者に大変好評であった。中村先生を紹介した私は鼻が高かった。
 また、平成26年6月、「熊本県高等学校国語教育研究会(K5)」主催の一泊二日の文学研修「K5文学散歩in旭志」を事務局長として企画した。『窮死した歌人の肖像 宗不旱の生涯』(形文社. 2013.12)を執筆されたばかりの中村青史先生を講師としてお招きした。「四季の里旭志」のログハウスの一泊目の懇親会の折、「熊本近代文学研究会」のことに触れたら、「まあだ、やっとっとか?なんでおれに連絡せんとか」とおっしゃったので、驚いて、「先生のお歳ごろは、研究会を卒業しなはって参加ばされんと思っとりました」と言ったところ、「この研究会の発起人はおれじゃなかか!」とえらい剣幕だった。そこで、「えっ、先生は参加ばされる気いがあんなさっとですね」と言ったところ、「そりゃ、そうたい。ただな、研究会の後に呑まにゃ、参加せんぞ」ということで、飲み会をすることになった。早速、8月の「熊本近代文学研究会」が終わったあと、「中村青史先生出版祝賀会(暑気払いの会)」を計画した。これまで以上の参加者があり、面目を施した。

 私は文化総合誌「KUMAMOTO」の「はじめての文学」シリーズの執筆を依頼されたとき、中村青史先生に1号から23号までの原稿に目を通して頂き、その都度、適切な添削をして頂いた。
 その一例を示すと、「『はじめての三島由紀夫③』三島由紀夫のペンネームの誕生」(「KUMAMOTO」No.18.2017.3.15)の場合はいつものように画廊喫茶「南風堂」においで頂き、添削をお願いした。
 三島由紀夫の本名は平岡公威。一六歳の時、「三島由紀夫」という筆名、つまりペンネームを使い始めたのである。
というところを
 三島由紀夫の本名は平岡公威。一六歳の時から「三島由紀夫」という筆名、つまりペンネームを使っていたことになる。
と修正して頂き、文意がはっきりとして、しっかりとしたものになり、さすがと思い、賛嘆したものであった。

 中村青史先生の語録のうちで特に印象に残っているのは、
 明治維新の志士はいかに生き残るかが大事であって、生き残った者が維新後の時代を作ったのだ。永田くんも、とにかく長生きしろ!
という言葉で、中村先生自身がこの言葉通りの生き方をされている。
 いつまでもお元気で郷土の文学顕彰にご尽力されるとばかり思っていた。熊本文学の語り部を失い、熊本の文学顕彰においては大きな損失であるが、中村先生のご遺志を引き継いで、熊本文学の顕彰に努めていくことが中村先生の御恩に報いることである。
 その具体策として、私自身で言えば、俳句創作において、夏目漱石の言葉とされる「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」に倣い、連想はもとより、オノマトペ・擬人法・同化などを駆使して、多様な表現を試みている。そうすることによって、漱石俳句を継承し、並びに正岡子規の新派俳句を熊本にもたらした漱石の顕彰に努めたいと思っている。

 8月22日の午後6時からの中村青史先生の通夜に参列した。私は中村先生の直接の教え子ではないにも拘らず、愛弟子のように可愛がって頂いたので、奥様に
  中村先生には大変可愛がっていただきました。
と申し上げると、
  主人はいつも永田さんのことは気にかけていました。つい最近、永田くんは俳句で頑張っているぞとうれしそうに言っていましたよ。
とすぐお応え頂いた。その言葉をお聞きして、胸が熱くなった。
 そのあと、おだやかで、安らかなお顔をされていた中村青史先生に
  可愛がって頂きありがとうございます
とお声掛けしたところで込み上げてくる涙を抑えることが出来なかった。

 中村青史先生、安らかにお眠りにください。

(ながた みつのり/俳誌「火神」主宰 熊本近代文学研究会会員)

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今こそ、インターネットを使った俳句を

2021年03月12日 18時44分00秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2021年3月15日発行

特集「2021年、今年こそは」
〜今こそ、インターネットを使った俳句を〜


永田満徳

俳諧連歌が成立した室町時代末期より、俳諧の発句を芸術の域に高めた芭蕉による蕉風俳諧、正岡子規による近代俳句改革を経て、今日、俳句の歴史はおよそ五百年を閲(けみ)している。そして、今や、俳句は、世界に開かれたインターネット時代を迎えて大きな転換期を迎えている。

七年前、私が学長を務める俳句大学はネット時代を見据えて、俳句の可能性を探ることを目標の一つに掲げて創立された。ネットの長所としては、県を越え、国を越えて、個人が自らの俳句を発表できるということだろう。Zoomを使ったリアルタイムなネット句会も魅力である。これは、新たな「座」(句座)の創出である。

折しも、コロナ感染症を回避するために、情報通信技術を使ったテレワークという柔軟な働き方が推奨されている。俳句大学は、SNS交流サイトFaceBook やインターネット、夏雲システム(オンライン)を使った俳句活動を行っている。コロナ禍の影響は少なく、むしろ、より積極的に、より活発に活動している。

具体的には、俳句大学ではインターネットの「俳句大学ネット句会」、あるいは、 Facebookグループ「俳句大学投句欄」における、①講師による「一日一句鑑賞」、②会員による「一日一句相互選」や③「週末は席題で一句」、④「連休は写真で一句」や、Facebookグループ「俳句大学初心者教室」など、ネット時代の俳句の可能性を探る活動を積極的に行っている。令和二年八月発行の機関誌「俳句大学」第四号は、その俳句大学が運営するネット句会、Facebookグループの活動は無論のこと、国際俳句交流のFacebookグループ「「Haiku Column」、中国圏の二行俳句のFacebookグループ「華文俳句」などを掲載し、俳句大学の取り組みの全貌を明らかにすることを目的に編集し、200ページに近い俳句誌になった。

一昨年、俳句大学を基盤として、ネットに特化した「日本俳句協会(japan-haiku-association)」が設立された。すでにインターネットの普及によって海外でのHAIKU作家との交流も格段に増えてきた。主にSNSを介したリアルタイムな交流も盛んになってきており、日本の俳句への関心も非常に高くなっていることから、今一度、芸術性のある芭蕉の俳諧精神に立ち返ることが必要である。日本俳句協会という新しい「場」は、世界に通用する俳句(HAIKU)における芸術性の確立に向けて、国際俳句交流協会をはじめ、既存の俳句協会と互いに協力し合うことによって世界俳句の発展に貢献していくことを目指している。

さて、俳句大学国際俳句学部では、六年前にSNSの国際俳句交流の場を提供するFacebookグループ「Haiku Column」を立ち上げ、私は代表として、また、向瀬美音氏は主宰として「Haiku Column」を管理している。現在、参加メンバーは2300人を越え、1日の投句数も200句に及ぶ。瞬時に交流できるFacebookという国際情報ネットワークの恩恵を受けているのも特色である。

国籍もフランス、イタリア、イギリス、ルーマニア、ハンガリー、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、アメリカ、インドネシア、中国、台湾と多様である。使われている言語は三ヶ国語で、フランス語、イタリア語は向瀬氏、英語は中野千秋氏が担当している。人種、国籍を問わず投句を受け入れていることから、人道的なグループということで人気があり、HAIKUによる国際文化交流が国際平和に繋がっていることを痛感する毎日である。

これらの国際俳句の試みは、機関誌『HAIKU』のVol.1からVol.6で紹介され、一昨年八月一日に朔出版から出版されたVol.5では、世界中から一五〇人が参加して、総ページ数は五五〇ページを超える。

二〇一七年四月に「俳句ユネスコ無形文化遺産協議会」が設立された。この運動によって、俳句が広く認知されていくことは俳句の国際化にとってよいことである。しかし、この運動を推進するに当たって、「何をもって、『俳句』とするか、そのコンセプトの共有に危惧を抱く」(西村和子『角川俳句年鑑』巻頭提言・二〇一八年版)という意見は重要である。俳句大学の〔Haiku Column〕ではHAIKUとは「切れ」による詩的創造による短詩型文芸であるとして、「切れ」が明確になる二行書きのHAIKUの普及に努力してきた。現在、三行書きのHAIKUが多いが、「切れ」の本質に立ち返る契機として二行書きのHAIKUの重要性は大きいと考えている。

日本の俳句の翻訳の場合であるが、はやくも俳句の構造上による〈二行書き〉の問題を取り上げていたのは角川源義である。角川源義は『俳句年鑑昭和四十九年版』(昭和四十八年十二月)において、「俳句の翻訳はほとんど三行詩として行われている。これは俳句の約束や構造に大変反している」として、「私は二行詩として訳することを提案する」と述べ、「俳句の構造上、必ずと云ってよいほど句切れがある。切字がある。これを尊重して二行詩に訳してもらいたい」とまで言い、「切字の表現は二行詩にすることで解決する」と結論付けている。角川源義が「切れ」(切字)による二行書き(二行詩)を提言していることは無視できない。俳句の本質である「切れ」と、俳句大学が提唱する「取合せ」は、二行書きにして初めて明確に表現できるのである。

日々の「Haiku Column」の二行書きのHAIKUの投句を見ても、日本人が発想しない「切れ」と「取合せ」を発見するたびに、俳句の国際交流が「俳句(HAIKU)」の解放と新しい現代俳句の展開に重要であることが痛感される。

今年は一層、インターネットの積極的活用によって、国内の俳句活動を始として、海外の俳人との交流を深め、真の「俳句(Haiku)」の在り方を探り、ウィズ コロナ、ポスト コロナ社会を見据えた国際俳句文化の更なる発展に寄与していきたいと考えている。

(ながた みつのり/日本俳句協会副会長・俳人協会熊本県支部長)

                      

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(HAIKU)国際俳句について

2020年03月25日 22時15分27秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」
総合文化雑誌「KUMAMOTO」30号
NPO法人 くまもと文化振興会
2020年3月15日発行
 

ラウンドテーブル「華文俳句の可能性」

(中国語圏における俳句の受容と実践に関する比較文学研究)

     俳句大学学長 華文俳句社顧問 永田満徳

令和元年12月14日(土)、熊本市中央区の熊本大学「くすの木会館レセプションルーム」において、表記のテーマで講演及びパネルディスカッションが開催した。なお、本ラウンドテーブルは科学研究費補助金「中国語圏における俳句の受容と実践に関する比較文学的研究」(研究代表者・呉衛峰)の助成を受けている。

 

第一部では、永田満徳が「世界共通の俳句の型について」と題する講演を行い、俳句の世界共通型の推進と展開について、次にように自説を展開した。

俳句大学国際俳句学部では、四年前に国際俳句交流のFacebookグループ「Haiku Column」を立ち上げ、私は代表として、また、向瀬美音氏は主宰として「Haiku Column」を管理している。

現在、参加メンバーは2100人を越え、1日の投句数も200句に及ぶ。瞬時に交流できるFacebookという国際情報ネットワークの恩恵を受けているのも特色である。国籍もフランス、イタリア、イギリス、ルーマニア、ハンガリー、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、アメリア、インドネシア、中国、台湾と多様である。使われている言語は三ヶ国語で、フランス語、イタリア語は向瀬氏、英語は中野千秋氏が翻訳を担当している。

人種、国籍を問わず投句を受け入れていることから、その「人道主義的」スタンスが広く支持されており、HAIKUによる国際文化交流が国際平和に繋がることを痛感する毎日である。世界中がインターネットで結ばれ、ネットにより瞬時に俳句の交流を行うことができる時代に即応した、新しい国際俳句の基準作りが急務と感じている。

(Ⅰ) 国際俳句改革の必要性

現今の国際俳句は、俳句実作者の立場からすると、俳句の型と本質から外れているように思われる。そうなった原因を踏まえて、いくつか提言を試みたい。

第一に、国際俳句というと、三行書きにしただけの三行詩(散文詩)的なHAIKUが標準になっていることがあげられる。HAIKUは三行書きなりという定型意識が強い。それは俳句の型と俳句の特性に対する共通認識が形成されていないからである。何よりも問題なのは、三行書きのHAIKUは広がりに乏しく、どうしても「三段切れ」になりやすく、冗長になりやすいという点である。

そこで、俳句の本質でありかつ型である「切れ」と「取合せ」を取り入れた「二行俳句」を提唱したい。

まず、「切れ」であるが、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水のおと」を句切れなしの「古池に蛙飛び込む水のおと」にすると、平板で、幼稚で散文的な表現になる。ところが、「古池や蛙飛び込む水のおと」だと、「切れ」によって、暗示・連想の効果が働き、複雑で、韻文的な表現になる。「切れ」は散文化を防ぎ、韻文化を促すのである。

続いて、「取合せ」の例として芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天河」を挙げると、「荒海」と「天河」という二物の「取合せ」で読みの幅が広がり、複雑で、韻文的な表現になる。芭蕉自身が「発句は畢竟取合物とおもひ侍るべし」(森川許六『俳諧問答』)と述べているように、「取合せ」は俳句の本質に関わる問題である。

「切れ」のある「取合せ」の二行俳句の一例を挙げてみる。

Castronovo Maria カストロノバ マリア(イタリア)

  •  

Aurora boreale ―

La coda di una balena tra cielo e mare

北のオーロラ

空と海の間の鯨の尾        向瀬美音訳   

掲句は天上のオーロラと海面の鯨との「取合せ」によって、天体ショーを繰り広げるオーロラのもと、鯨が尾を揚げて沈む北極圏の広大な情景が描き出されている。「切れ」と「取合せ」は、このように二行書きにして初めて、明確に表現できるのである。

第二として、HAIKUの基準が曖昧であることがあげられる。

世界に通用する「HAIKU」とは何かを明確にするために、「Haiku Column」において、「切れ」と「取合せ」を基本とした「7つの俳句の規則」を提示した。

①「切れ」           ⑤「具体的な物に託す」

②「取合せ」          ⑥「省略」

③「季語」           ⑦「用言は少なくする」

④「今、この瞬間を切り取る」

「Haiku Column」では、最初、説明的で観念的な句が多かったが、「7つの規則」を提示して以来、形容詞、動詞などが減り、具体的なものに託した表現を基調とし、省略された俳句が多くなっている。

第三に問題とすべきは、季語は日本独特なもので、季節のない国の人々が、季語のあるHAIKUを創ることは困難だという常識である。

これに対しては、国際俳句においても「KIGO(季語)」を取り入れることを提案したい。向瀬氏は、厳選した450の英語、フランス語のKIGOを自ら編集し、これらのKIGOにAnikó Papp氏のKIGOの説明を添えた「HAIKU」を「Haiku Column」上で募集している。

季語を使った「魔法の取合せ」として、一行目に季語、二行目に季語と関係のない言葉、逆に言えば、一行目に季語と関係のない言葉、二行目に季語という、二通りの作り方を提示している。この型は「切れ」と「取合せ」がはっきりし、二行俳句が作りやすい。

この取り組みによって、季節のない国からもKIGOのあるHAIKUが多く投句されてきており、俳句は「KIGOの詩」という認識が世界で広まっている。向瀬氏が2020年3月1日に『国際歳時記』の第一弾として、575句の例句を揃えた本格的な季語集『春』を刊行する予定であることも特筆しておきたい。

最後に、第四として、原句に忠実なあまり、原句の良さを損なってしまいがちな和訳の問題がある。

向瀬氏は日本語訳の改善に着手している。「7つの規則」と「KIGO」の提供により、フランス語を例に言えば、最大で15シラブル以内のHAIKUが増えてきていて、15シラブル前後のHAIKなら量的にもほとんど日本の俳句に近く、五七五の十七音に簡単に和訳できる。

Jeanine Chalmeton ジャニン シャルメトン [フランス]

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de bon matin le lever du jour printanier

le chat s'étire

春暁やゆつくりと伸びをする猫    向瀬美音訳

この句のように、表現、内容ともに日本の俳句に匹敵するHAIKUが出てきている。

Evangelina エヴァンジェリナ [インドネシア]

  •   

first dusting of snow

each image relates to a memory from my past

   初雪や過去の記憶を呼び覚ます     向瀬美音訳

五七五の十七音の和訳は、HAIKUをただ単に日本の俳句の五七五の17音に当てはめただけではなく、HAIKUの真価を再現するものであり、国際俳句の定型化に一歩近づくための有効な手立てであることを強調しておきたい。日本語訳の改善の試みによって、「Haiku Column」の国際俳句改革は一つの大きな到達点に辿り着いたという感が強い。

ただ、五七五の十七音に近づけようとするあまり、原句の内容から逸脱してしまってはならず、あくまでも原句を忠実に生かす和訳でなくてはならない。日本の俳句を外国語に翻訳した好例として、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水のおと」のラフカディオ・ハーン訳「Old pond / frogs jumped in / sound of water」の簡潔な表現の良さを挙げておこう。

これらの新しい国際俳句の試みは、機関誌『HAIKU』(朔出版)の1号から5号で紹介され、今年8月1日に出版された5号では、世界中から150人が参加して、総ページ数は550ページを超える。

(Ⅱ) 今後の課題と展望

課題1 二行俳句の推進

三行俳句でも「切れ」と「取合せ」が存在する句もあるので、二行に拘りすぎなくてよいようだが、「二行俳句」は、「切れ」と「取合せ」を明確に唱導し、浸透させるためのスローガンであり、標語であるので、形式だけの三行書きはたやすく容認するわけにいかない。

課題2 「Haiku Column」の運営スタッフの負担の軽減

冊子の刊行等には、作業面でも、資金面でも、特に向瀬氏の個人負担が重く、運営を継続していくには限度がある。他団体、例えば国際俳句交流協会などとの連携や協力を求めることも考えている。

(Ⅲ) 今後の展望

1 広報活動

広報活動を強めるために、今後とも機関誌『HAIKU』の発行を続けていきたい。また、『俳句界』『俳句四季』などの総合俳句誌への連載も重要な広報活動である。

2 「華文俳句」の活動

華文俳句は、俳句大学と同じ理念に基づいて、今までの字数を重んじる定型の中国語の俳句(漢俳)、そして俳句的現代詩との区別化をはかり、「切れ一つ」と「取合せ」の二行書きの俳句を華文圏に提唱することを目指している。2018年には「華文俳句社」はFacebookグループを立ち上げ、日本の「Haiku Column」とは独立・連動して活動している。出版活動もさかんで、《華文俳句選》や個人句集を次々に刊行し、今年1月からは月刊『俳句界』に華文俳句の秀句を連載している。

これらの活動によって、二行俳句に対する理解が深まり、さまざまなジャンルを持つ華文詩の中で華文俳句が広まり、定着することで、華文詩界を一層豊かにすることが期待される。

以上の永田の講演に対して、コメンテーターとしての立場から、熊本大学大学院教授の西槇偉氏は「俳人であり、俳句をよく知るお立場から、国際俳句の現状に対して物申す永田氏のお話を大変興味深く聞かせていただいた。国際俳句では、三行書きの定型が出来上がっているようだが、作品は往々にして情報が多すぎたり、三段切れとなったり、俳句本来の表現とはかけ離れたものとなっている。そこで、氏は二行書き、七つの規則を提唱する。その根拠も述べられ、説得的である。氏の主張に、これまでの漢俳の問題点に注目していた呉衛峰氏は共鳴し、共同で華文俳句の革新を進めることになったことで、今日の研究会開催となったわけだ。永田氏の指導により、国際俳句に新風が吹き込まれたように見受けられ、俳句については初心者ながら喜ばしく思う次第である。疑問に感じる点もあるが、後半のパネルディスカッションのほうで申し上げたい」と述べた。

また、永田の講演に対して、東京大学名誉教授、元日本比較文学会会長の井上健氏は講評として、「晩年のゲーテが提唱した世界文学(Weltliteratur)の理念は、昨今、トランスナショナルな文学の在り方を語る枠組みとして復権し、文学が「中心」から「周辺」に伝搬し、いかに変容するかが、あらためて問い直されるに至っている。永田氏のご講演を拝聴して、そうした世界文学理念の実現と理論的捉え直しが、国際俳句の試みを通じて、実践的かつ双方向的に、きわめてアクティヴに展開されていることに驚嘆した。永田氏の提示する国際俳句改革の方向性はまた、翻訳研究(Translation Studies)における等価性(equivalence)の議論、言語や形式の変換を越えて、いかにオリジナルの本質や価値が伝わりうるかという命題に、見事に重なり合う。二行俳句の提唱は、エズラ・パウンドをはじめとするモダニスト詩人たちの、多様なHAIKU詩実験を想起させるものである」と述べた。

 

第二部では、「華文二行俳句の展開」と題してパネルディスカッションが行われた。全体司会を東北公益文科大学教授である呉衛峰氏が行い、現在の華文詩界における現状や、「華文二行俳句とは何か」というテーマで、華文二行俳句の可能性について分析、解説された。

まず、呉衛峰氏が「華文二行俳句とは何か」を題に、呉論文「中国語は俳句の可能性――華文二行俳句の実験を中心に」(『東北公益文科大学総合研究論集』第35号、2018年12月)に触れつつ、華文俳句が成立する経緯を説明した。

華文二行俳句の実践は2017年の秋頃に、某Facebook台湾現代詩社において、俳句との共催で始められた。呉は詩社側の現場代表として、同コンテスト審査員をつとめる永田先生の指導のもとで、洪郁芬氏のお手伝いで、2018年の春にかけて計三回のコンテストに携わった。

主催側はコンテスト開催当時、「西洋文学の影響下で発展してきた華文現代詩と比較して、俳句は独特な美学を持っているので、華文俳句の創作は現代の華人詩人たちに、現代詩の創作と同時に、世界と人生に対して異なる観照の視点と表現の方法をもたらしてくれる」というコンセンサスを提示した。

三回のコンテストの参加者はかなりの人数に上ったが、多数のメンバーを抱える某詩社の性格上、二回目と三回目は参加者の入れ替わりが激しく、華文二行俳句の理念がここで定着できないことを悟り、2018年の暮れ、主要開催メンバーが独立した「華文俳句社」を作るという考えに至った。

以上の説明をして、呉氏は「華文二行俳句の主張には、川本皓嗣先生が俳句の基本構造を「基底部」と「干渉部」と分ける俳句理論(『日本詩学の伝統――七と五の詩学』、1991年12月)、台湾俳人の故黄霊芝氏による「湾俳」の実験、そしてなによりも永田先生が俳句大学で推進している「国際二行俳句」の実践に負うところが大きい。また、華文俳句の「二行」の実践は、漢俳など「三行を書けば俳句」という安易な考え方と一線を画し、区別化を図るための戦略でもある。今後も、華文俳句の質の向上に伴い、型をふくめて、様々な意味での模索をしてまいりたい」と述べた。

次に、台彎華文俳句社主宰の洪郁芬氏が「華文俳句社における華文二行俳句の実践」という実際的な活動報告をなされた。 

Facebookグループ「華文俳句社」の設立メンバーは呉衛峰教授、マレーシア詩人超紹球氏、台湾詩人郭至卿氏と、洪郁芬氏の四人である。加入者数は次第に増え続け、現在は123人に達している。しかし、積極的に発言している人数は、35人程度で、まだまだ個人出版した人も少なく、今後活動を活発化させていきたい。活動としては、中華「流派」詩刊、香港圓桌誌刊、台湾「創世記」詩刊などの投稿欄に華文俳句を投句し、今年一月からは日本の月刊『俳句界』に華文俳句の秀句を連載している。

華文二行俳句は、永田氏の世界俳句の在り方としての、「切れ」と「取合せ」を取り入れた「二行俳句」と連動し、六つのルールを設けている。

①俳句にタイトルはない。二行に書く。  ④今を詠む。瞬間を切り取る。

②一行目と二行目の間に「切れ」がある。 ⑤具体的な物を詠む。

③一句の俳句に季語一つを提唱 する   ⑥語数は少なく。(簡潔に)

ということで、例としては

  拄著柺杖的老人          杖で立つ老人 

   聽到 北風        北風吹く

    郭至卿                   郭至卿 

   玄關丟下的書包        玄関に放り投げたランドセル

   暑假開始              夏休みの始まり

    盧佳璟                盧佳璟 

などの句がある。

未来への展望としては、今年には華文俳句叢書の第三段として『歳時記』を出版する予定で、例文の募集を行っている。他にも華文俳句社員の個人句集の出版も進めたい。

最後に、西槇偉氏は「二行詩としての「華文俳句」の試み――『華文俳句選』を読む」と題して、同書の書評を行なった。氏は現代漢俳の選集より秀作を数首選び、一例として趙朴初氏による漢俳「看尽杜鵑花/不因隔海怨天涯/東西都是家」と、その読み下し式の逐語訳「看尽す杜鵑つつじの花/海を隔つるに因って天涯を怨まず/東西都すべ是て家なり」および俳句訳「和上いまつつじを看尽くしておはす」のように、漢俳とそれに付された和訳とを比較することにより、俳句の表現が漢俳の定型では表しがたいことを確かめた。さらに、これまでの漢俳に対して、『華文俳句選』は別天地を切り拓くものとして、西槇氏は洪郁芬氏の「相擁和相撞/鐵路的小蓬草:寄せ合ひぶつかり合ふ/鉄道草」、趙紹球氏の「無星夜/花瓣撲向酒杯:星無き夜/酒グラスに飛び込む花びら」、呉衛峰氏の「手夠不到閙鐘/春暁:目覚まし時計に手が届かない/春のあけぼの」、永田満徳氏の「犀牛角/來頂撞人世的春天罷!:犀の角/この世の春を突いてみよ」などを評釈し、二行による華文俳句の可能性を評価した。

 

 全体討論では、西槇氏が続いて、パネルディスカッションで、華文俳句の形式と内容に疑問を投げかけた。

①二行の華文俳句を詩たらしめるには、今後は如何なる努力が必要か。

②季語が定着していない華文文学に、季語を取り入れた俳句が根付くだろうか。

 季節感の表現が季語に凝縮され、俳句はそのような文化の伝統によって培われてきたといえよう。しかし、「季語」という言葉自体が和製漢語であり、季語を網羅して作品も併せて編纂された「歳時記」も日本で発達したアンソロジーである。よって、華文俳句を根付かせるためには、華文俳句の作例も収録した季語辞典――「華文歳時記」が必要不可欠であろう。この点について、すでに華文俳句社主宰の洪氏が編纂を始めており、その完成が待たれる。上記2点について、呉氏、洪氏、永田との間で、活発な論議が交わされた。

この後、会場からは世界俳句の在り方、現代詩との関係など、多くの意見や提案がなされた。十分な時間がとれなかったのは残念であるが、参加者は世界俳句の現状や中国語圏での華文二行俳句の取り組みについて理解を深めることができ、また多くの実践を重ねながら、世界俳句の振興を指向する取り組みに感動した。

 

最後に、挨拶に立った西槇氏は「かつて、夏目漱石が俳句の創作に熱中した熊本の地で、国際俳句の現在と未来を討議する研究会が開かれたことの意義は大きい」と強調し、参会者への謝辞を述べた。

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