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中川輝光の眼

アトリエから見えてくる情景
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竹田青嗣著「陽水の快楽」の紹介

2010-07-03 | 本の紹介

竹田青嗣著「陽水の快楽」の紹介

この本は、古書店でふと手にしたものです。「家にあるかもしれない」と思いつつ、旅先ということもあり、気まぐれに購入した。帰りの電車で読み返してみる、次第に「あの時」が読みかえってくる、不思議なものです。わたしは、大学を出てすぐに「教師」になった。しかしながら、その「立場」に馴染めなく1年で辞めた。それからの数年間は、旅の中でした、内実ともに「放浪時代」といっていいものでした。「団塊(この呼称は好きでないがよく使われる)の世代」が共有している時代背景(色濃い挫折感)があり、社会人としてのスタートラインもそこを起点としている。わたしの友人の友人(あの頃の人脈はただひたすら広いものでした)に「小坂修平(哲学)」がいて、その友人が若き「竹田青嗣」でした。竹田青嗣さんの歌唱力はセミプロ、とりわけ井上陽水が好きで・・・だから「陽水の快楽」は、自ずと生まれるべくして生まれた本です。わたしたちの世代に、井上陽水フアンが多いのには理由があるのです。わたしたちの世代特有の感性のなかに、挫折感の後に来る「しらけた雰囲気(情感)」が住み着いていて、井上陽水の歌がその部分に共鳴するからではないかと・・・行き場のない「中途半端な気持ち」がいまだに続いているのではないかと。この世代の多くは、次第に一線から退く・・・参議院選挙でがんばっている幾人かもこの世代ですが、疲れの色は隠せない・・・。この世の課題は多く、解消は遠い、夢はまだ先の先です。

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山田正紀著「幻象機械」の紹介

2010-06-16 | 本の紹介

山田正紀著「幻象機械」の紹介

山田正紀さんは、SF作家です。わたしは「SFもの」が好きで(子どもの頃から)、本屋へ立ち寄ると、まずこういった本が並んでいる書棚のほうへ行く。気になる書名や著者の本をぱらぱらめくり、その中からとりあえず数冊を買う。すぐに読むことはない、制作(仕事)の合間に、これらの本を手にとり、ページをめくることで気分を変える。それから、一呼吸おいてゆっくり読み始めるのがわたしのスタイルです。この「幻象機械」は、書名に惹かれたと言っていい。「無中枢システムの植物コンピューター」何のことかわからない、こういった文章がページをめくるなかにしおりのように目に止まる。わたしたち画家は、言葉に触発されていくつかのイメージが現われては消えることがある。ほんとうに見ているのか見えているのかわからない世界に、わたしたちは生活しているといっていいのです。現代人は、コンピューターというTVを超える情報端末を操作している(溢れるほどの情報のなかにいる)。しかしながら、その実態は定かではない。山田正紀さんが捉えた人は「石川啄木」、日本人特有の思考経路に一種の「偏向」が加えられる。石川啄木の周辺に現われては消える「存在」、その不確かさが、筋書きを次第に予測し得ない方向へ向かわせる。読み進むうちに、蜘蛛の巣に絡み囚られ、強迫観念が増すにつれ、ある結末(予感)が明確になっていく・・・わたしたち画家の創作行為を見透かすようで、恐ろしく刺激的・・・な本です。

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ケネス・クラーク著「芸術と文明」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の紹介

2010-05-30 | 本の紹介

ケネス・クラーク著「芸術と文明」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の紹介

わたしたち絵描きは、作品を介して周辺の人たちと交流してきました。そのなかで、視野を広めたり、さらに探求したりしてきました、生きた学習(体験)といったところですか。しかし現実には、「美術館や博物館」「画集を含めて書物」「TVや映画」など好奇心を満たしてくれるさまざまな(雑多といっていいかもしれないが)周辺媒介から得てきたものも多いのです。これからの時代、さらに情報環境を広げる媒介は「インターネット」かもしれません。こういった情報の洪水の中で、何を選択肢の「中心」に置いたらいいか、多くの人々にとっては迷うところです。わたしたち絵を描いたり、デザインなどに携わっている、美術系の人間に共通しているのは『眼』かもしれません。中心軸としての『眼』は、あまりぶれないのです。わたしの『眼』は、見てきた積み重ね(要素)で構成されているといっていいが、周辺媒介からの影響も少なくない。形成している要素、なかでも美術史家ケネス・クラークの存在は大きいと思われます。ケネス・クラーク著「芸術と文明」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は繰り返し読んでいますし、BBCが制作した「芸術と文明」(ケネス・クラーク編集・NHK放映)にも大いに感銘したものです。美術史家ケネス・クラークは著書・TVを通して、人類が何をしてきたのか、何をしてはいけないのかをわたしたちに明確に示しています。美しいものと醜いものとは、必ずしも識別できないことはないのです、だから時代を見誤らないためにも、しかっりとした『眼』をわたしたちは持つ必要があるのです。

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針生一郎著「わが愛憎の画家たち」の紹介

2010-05-27 | 本の紹介

針生一郎著「わが愛憎の画家たち」の紹介

福井県芦原温泉駅の近くに、「金津創作の森」(針生一郎さんが館長をしていました)があり、わたしのアトリエからそう遠くもなく、時折行くこともありました。環境のいい場所にあるのですが、人が訪れることの少ない美術館(創作することが主なのか?)です。針生一郎さんの「わが愛憎の画家たち」のなかに、横山操(日本画家)さんのことが書かれています。この横山操さんが多摩美大を訳あり退官した頃に、「第一回東京展」が開催されました。「日展」(官主催)に批判的な画家たちの展覧会で、横山操さんが軸を担っていました。金沢美大を出た頃のわたしも賛同出品しました(今は懐かしい想い出です)が、当然のことながら針生一郎さんも参加していました。異色参加者も多く、サロンのような雰囲気が漂っていました。横山操さんは、残念なことに体調を崩し、この数年後には亡くなります。同時期、わたしも「東京展」に出品することはなくなりました。この時期が、日本の美術界の「ひとつの節目」だったのかもしれません。

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矢口高雄著『ボクの学校・先生は山と川』の紹介

2010-05-24 | 本の紹介

矢口高雄著『ボクの学校・先生は山と川』の紹介

矢口高雄さんは、「釣りキチ三平」「マタギ」などで知られた漫画家です。そのエッセイをまとめたのが『ボクの学校は山と川』『ボクの先生は山と川』の2冊です。『ボクの学校は山と川』には、秋田の自然、山や川での遊び(小中学生の頃)のことなどが書かれています。『ボクの先生は山と川』には、家族のことやその生活(山里の暮らし)について書かれています。ここでの体験が、矢口高雄さんの漫画にそのまま反映されています。わたしは、ひとつの制作を終えると、気分転換に街に出たり、旅に出たりするのですが、その時間すら取れないときには、絵本・漫画や推理小説などをぱらぱらめくることも、気分を軽くする効果があるのです。アトリエから十数分も歩けば日本海に、以前はよくそこまで散歩がてら出かけたのですが、侵食がひどくほんらいの姿ではもうない。わたしたちの想い出の中にある「情景」は、すでに幻のように薄れ、手に触れるほどの「実態」はない。矢口高雄さんの『ボクの学校は山と川』『ボクの先生は山と川』の世界は、幻のように美しい。

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「関西こころの旅路」に見る田原総一郎さんと琵琶湖の情景

2010-05-20 | 本の紹介

「関西こころの旅路」に見る田原総一郎さんと琵琶湖の情景

昨日、「官房機密費」についての「中日新聞・こちら特報部」記事を紹介しました。その記事の見出しに、野中広務元官房長官さんが「唯一受け取らない人」と名指しした人が「田原総一郎さん」です。官房機密費の一部が「メディア操作」に使われていたことにわたしは驚き呆れましたが、受け取らない人として田原総一郎さんの名が明記されていることにも、驚いたのです。わたしはこの記事から、ひとつのエッセイ(旅行記)を思い起こしたのです。それが、この一冊「関西こころの旅路」です。この本は旅行(旅)にまつわるエッセイを集めたもので、田原総一郎さんも「琵琶湖の情景」について書いています。琵琶湖の情景と人生の節目(断片)を重ね合わせるかのように書いています。田原総一郎さん自身の父・母・友人のことを書いているのですが、戦後の状況(精神の節目)を印象深く感情を抑えるように描いている。わたしの記憶に、鮮明なイメージとして残っていたのです。わたしは琵琶湖周辺をよくスケッチに行っていたこともあるせいか、田原総一郎さんがTVで見かける都度、この文章が頭をよぎったものです。田原総一郎さんに「ジャーナリストとしての原点」があるとすれば、おそらくここではないかと、勝手に思い込んだほどです。一時期、田原総一郎さんの不可解な発言に戸惑ったときにも・・・。日本には、気骨のあるジャーナリストが育たないのでは・・・と思った時にも。わたしは、もう一度田原総一郎さんに期待したいと思っています。

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草森紳一著「衣裳を垂れて天下治まる」から

2010-04-16 | 本の紹介

草森紳一著「衣裳を垂れて天下治まる」から

草森紳一さんの本は、内容もユニークでいいのですが、どの本もついつい装丁(外観・デザイン)に惹かれて購入してしまう。「衣裳を垂れて天下治まる」もそうでした、箱も(表裏)表紙も山口はるみさんの装丁、感触、とてもいいのです。ついでに、ほんの少し内容に触れておきましょう、多くは女性が身に着ける「衣裳(文化)」について書かれている、偏見についても、それとなく。そのなかに、「ジッパー(チャック)」について書かれている、さらに「ジッパーの音」についても。唐突に、「鬼太郎夜話(水木しげる著)」のガマ令嬢を引き合いに出している。ねずみ男が、このガマ令嬢のジッパー音に惹かれるのである、鬼太郎は「口にチャックがついている女なんて化物じゃねえか、全く気がしれねえや」などといっている。草森紳一さんの関心事はねずみ男のほうにあり、水木しげるという類まれな発想のほうにあるのです、そこがなんともいいのです。

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伊藤悟さんの「ひょっこりひょうたん島・熱中ノート」

2010-04-11 | 本の紹介

伊藤悟さんの「ひょっこりひょうたん島・熱中ノート」

1964年からNHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」の台本を、共同で手掛けた井上ひさしさんが亡くなった。そこで、一冊の本を紹介します。伊藤悟さんが少年(小学5年生~)の頃に、「ひょっこりひょうたん島」を見て記録した「ひょっこりひょうたん島・熱中ノート」です。40冊のノートには、一ページ一ページすきまなくイラスト入りの会話が書かれています(ビデオのない時代です)。NHKが後に、人形劇「ひょっこりひょうたん島」のリメイクをするきっかけにもなりました。もちろん、そのリメイク版の脚本を手掛けたのが、井上ひさしさんでした。むろん、そのリメイク版も楽しいものになりました、お話として秀逸でした(経緯も含めて)。

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寺山修司著「赤糸で縫いとじられた物語」から

2010-03-20 | 本の紹介

寺山修司著「赤糸で縫いとじられた物語」から

寺山修司が好きで、多くの本を読んできました。「赤糸で縫いとじられた物語」をこのブログで紹介するのは2度目になると思いますが、その短編の中から「イエスタデイ」を少し紹介します。小さな島に住む少年、鳥と会話ができる少年のお話です。少年には恋人いて、「あ」で始まり「い」で終わる短い歌を聴かせてくれます。少年と少女と小鳥の楽しい日々は、永くは続きませんでした。ある日、少女が島を去ることになります。事件は、そんなときに起こるのです。寺山修司のつくる物語はどれも視覚的で、わたしには映画を見たときのように、瞼の裏に残るのです。

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バシュラール著『燭の焔』の紹介

2010-02-21 | 本の紹介

バシュラール著『蠟燭の焔』の紹介

わたしの絵画制作に、最も影響を与える人を問われることがあります。わたしは、「バシュラール」と答えます、画家ではないのです。絵は自己表現の手段であり、わたしの『混迷の時間』と言っていいのです。わたしにとって楽しい時間帯は、本を読んでいる時です。だから影響は、多くの場合『本』から受けるのです。なかでも、バシュラールは学生の頃から繰り返し読んでいます。『蠟燭の焔』も、その一冊です。わたしは、美しい風景の中に一人いる時、周囲の樹木や草花すべてが蠟燭の焔に見えて仕方がなかった。まさしくバシュラールの影響です。ポプラの木もカエデの木も、地中の水を大量に吸い上げている、大きな噴水です。落語に蝋燭を人の寿命に例えた話がありますが、同様のイメージです。バシュラールは科学者の眼をもった哲学者と言っていい、そこに詩情が加わる、豊かなイメージが『書物』から湧いてくるのです。ここ数日で、わたしは3人の「通夜」に行ってきました。ボランティア演劇で施設訪問をしていた従兄、よくチャンバラをしていた小中学時代の友人、アトリエの隣に住んでいた優しいおばあさん、わたしの周辺にいた人たちを亡くした。しばらく絵を描く意欲が薄れ、わたしはバシュラールの『蠟燭の焔』を読んでいました。

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