道草日記^^(難病克服日記)

関節リウマチ、SLE。。。病気の名前は忘れて元気な私に戻ろう(^^♪

慢性腎臓病からの生還-1

2023-07-13 10:12:48 | 日記
こんにちは^^




慢性腎臓病からの

生還した方のお話です。



慢性腎臓病は自分で治せる❣❣

凄い❣❣



ちょっと感動してます^^



長いですが。。。

必読かと^^v



よければお読み下さい❤





~以下、シェアさせて頂きますね~



慢性腎臓病からの生還


日本人の8分の1が 慢性腎臓病なのだ と云われている。

そして日本では 32万人が人工透析を受けているそうだ。

その医療費、1兆6000億円。

日本は 世界最大の人工透析大国だ。


「まず、最初に話しておかないといけませんが、、、

腎臓病に効く特効薬と云うものはありません。

現在の医学ではそう云う薬はまだ開発されていない。

世界中 どこを探しても腎臓病の特効薬は存在していません。」



神戸大学の教授室で、

日本1の腎臓病の権威 だと云われている教授は、

そんな風に話し始めた。



「しかし、諦める必要は ありません。いいですか?」



「人間の細胞は常に入れ替わっています。

ひとつの細胞が古くなって機能しなくなると 分解される。

しかし、直ぐに新しい細胞が生まれて古い細胞と入れ替わる。

そうやって、人間の全ての細胞は 日々新しい細胞に更新されて行きます。」


「腎臓も同じで、腎臓と云う臓器全体が新しい細胞に

生まれ変わるまでには かなり時間が掛かるが、

それでも2~3年で腎臓の全ての細胞が新品に

入れ替わります。」



「いいですか?腎臓が新しい細胞に生まれ変わる、

と云う事は慢性腎臓病も存在しなくなる。

慢性腎臓病が治る と云う事です。」



「しかし、何もしないで じっとしていれば

治ると云う訳ではありません。」



「君は中3の時に急性腎炎になってからの8年間、

減塩して運動を控えてきた。そうですね?

2~3年で腎臓が新品になるんだったら、

もう治っていてもオカシクない、

そう思うかも知れないが、そんな簡単に治る訳ではありません。」


「最近、腎臓の調子が良かったので 働き始めた。

しかし、数ヶ月すると 具合が悪くなって 腎臓病が再発した。」


「病院で見てもらった所、医師に(この程度なら大丈夫。

働いても問題ありません)と云われて職場に戻ったが、

2日働いただけで すぐにまた具合が悪くなった。

 再び病院に行くと 今度は大量の尿蛋白が検出された。

その結果を見た医師は首を傾げて、(分かりませんね)と匙を投げてしまった。

それで 此処に来た。そう云う事ですね?」


「いいですか、腎臓と云う臓器は身体が疲れると

負担が大きくなって 機能が低下し尿蛋白が下りる様になります。」


「疲れると腎臓が弱る。しかし、

人間は動かずに生きては行けない。

ではどうすればいいのか?」


身体を鍛えて、疲れない身体を作る。

それしか 方法はありません。

例えば、10の強度の運動をするのに

10の筋肉だと100%疲れてしまう。

しかし筋肉を鍛えて20の筋肉にすれば、

同じ10の運動をしても疲れは50%になってダメージは半分になる。

もっと筋肉を鍛えて50まで上げれば、

10程度の運動では全く疲れない様になる。そう云う事です。」


「疲れない身体になれば、腎臓に負担が掛からなくなり、

尿中に蛋白が出る事も無くなる。」


「そこで、身体を鍛える為のリハビリが必要になります。


ただ その前に君に言って置かなくてはならないのだが、、、

このリハビリは君が自分でやる必要がある

医師に相談しながらやるよりも、自分だけでやった方が良い。」


「まず、街の薬局で(アルブスティックス)と云う

尿蛋白の検査薬を買いなさい。

これは薄いプラスチックのスティックの先に

検査紙が付いていて、

それにオシッコをかけるだけで検査が出来る。

素人でも簡単に出来る。」



「薬を買ったら、とりあえずは尿検査をして、

完全に蛋白がゼロになる迄待って、

蛋白がゼロになってから、歩く とか走るとか、

ん?自転車?それは良いね、

自転車ならリハビリに最適だ。」


「検査して尿蛋白がゼロになったら、

運動を始める。運動した後、

家に戻ったらすぐに尿検査をする。

多分大量に尿蛋白が下りているだろう。

その後は安静にして疲れを取る。」



「この時、完全に疲れが取れるまで休む事が

一番大事だ。

完全に疲れが取れて尿検査で尿蛋白がゼロになる迄待って、

ゼロになってからまた運動をする。」


心配しなくても 大丈夫だ。

どんなに尿蛋白が大量に下りても、

ちゃんと休めば必ず尿蛋白はゼロになる。


「こう云う具合にリハビリを続けて行くと

次第に筋肉が鍛えられて体力がつく。

体力が付くと多少の運動をしても疲れる事がなくなる。

すると 腎臓にも負担が掛からなくなり、

尿検査をしても蛋白が下りなくなって、

日常生活を普通に送れる様になる。」


その状態を何年か続けて行けば、

その間に腎臓を構成する細胞が全て入れ替わる。

上手く行けば、慢性腎臓病は完治する。



「どうだ?やれそうか?そうか。頑張りなさい。」



俺が23歳の時の話しだ。

俺は今、70歳だから 47年前の夏 だ。

教授室の開けっ放しの窓の外で

蝉が鳴き続けていた。



俺が慢性腎臓病で途方に暮れていた時

母親が働いていた昆布屋さんの同僚が

日本1の腎臓病の権威 が知り合いにいると

云うのを聞いて 紹介をして貰って、この日、

俺と母親は最寄り駅からバスに乗って

六甲山麓の中腹にある神戸大学の

古びた校舎を訪ねたのだった。


教授室に案内されて、俺と母親が部屋で待っていると、

数分後に教授が現れた。

教授は部屋に入るなり、挨拶もそこそこに、

俺の病状について尋ねて来た。
  
     
俺が自身の症状を 余す事無く話し終える迄

じっくりと、時々質問を交えて聞いてくれた。


教授は俺の症状を聞き取り、理解した上で

上記の説明、そして 医者に頼らず自分で

リハビリをどうやれば良いかを、教えてくれた。


教授と面会して、最初に驚いたのは

その まずは患者の話を聞く と云う姿勢だった。


それは、此処に来る前に診てもらった

市民病院の若い医師とはまるで違うものだった。


市民病院の若い医師は、まず尿検査をさせて

 次に聴診器を胸に当てて診た。

それから 尿検査の結果を見て、

その結果だけから診断を下した。

俺の話しは半分も聞かず、聞き流していた。


それに比べて、日本1の腎臓病の権威と

云われているこの教授は、聴診器を出す事も無く

尿検査をさせる訳でも無く、

ただ話しをじっくりと長い時間をかけて聞いた上で、

想像も出来なかった解決法を教えてくれた。


『日本にも、こんな凄い先生がいたんだ!』


それが 正直な感想だった。

あの若い医師はビジネスで、

この教授は医術。


この二人は、違う世界にいるようだった。


次の日、三ノ宮に出掛けて ドラッグストアで

アルブスティックスを買った。

100本入りで 確か1600円だった。

1回当たり16円で尿検査が出来る。

何回でも検査し放題だ、と思った。


その足で俺はドラッグストアのすぐ近くにある

ビルの  地下に続いている階段を降りてジャズ喫茶に入った。

店の扉を開けると、中は白い靄(もや)がかかった様に

タバコの煙が充満していた。


席に座り、俺もタバコの火を着ける。

アニタ オディが歌う(ア ナイティンゲール 

シング イン バークレイ スクエア)を聞きながら

ブラックコーヒーを飲んだ。

俺は 白い靄(もや)の かかった世界の中にいた


『さて、検査薬は手に入れたが、、、

これから先、、、どうなって  行くんだろう?』


『ホンマに運動なんかして大丈夫なんやろか? 

これから先、まともに生きて行こうと思ったら、

やるしかない   か。でも、ヤバいよな。』


家に戻ると、さっそく尿検査をした
結果は3番目の黄緑色レベル(30)だった。


検査薬は 検出量によって5つのレベルに表示されていた。

レベル(ゼロ)が薄い黄色で、検出量が増えるに

連れて色が黄色、黄緑、緑、青緑と変化して行く。


薄い黄    黄色    黄緑    緑     青緑
ゼロ、    15、    30、  100、250、


の5段階になっている


夜にもう1度検査したら、

2番目の黄色(15)に下がっていた。


『やっぱり、動かないで居ると検出量は

下がって行くんだ。やっぱり そうだったんだ。』


次の日の朝は(ゼロ)と(15)の間、

え?もう ほとんど(ゼロ)になった?

こんなに簡単に尿蛋白が消えるんだ!


『あ!そうか。そやから病院は(朝1番のオシッコ)を

持って来いと云うんや』

朝1番のオシッコは、夜に眠った事で疲れが取れているから 

尿蛋白は消えている。

しかし、歩いたりして疲れると、蛋白が出て来る、、、そう云う事か。


昼食を食べる前に検査して、

昼食を食べたら どう変化するか、

を調べる為に昼食後にもう1回検査した。

どっちも、(ゼロ)のような(15)のような、、、


結局、(ゼロ)がどんな感じの色になるのかを

知っている訳ではないので、いくら検査紙をじっと見た所で、

何とも言えないんだが、、、


多分、俺はリハビリを始める事が怖かった。

だから、いつまでも蛋白はまだ(ゼロ)になっていない、

そう思う事でリハビリの開始を先伸ばしにしていた様な気がする。


あの教授は信頼出来る人だと思ったし、

教授の理論とリハビリには、正に 

目から鱗(うろこ)、そんな凄い手があったんだと、

驚いたし、納得もした。


しかし、心のどこかでは正直な所  半信半疑でもあった。


『本当に運動をしても大丈夫なのか?』

8年間も減塩して、運動を控えて来たのだ。


結局、検査薬を買ってから3日目の昼過ぎに、

清水の舞台から飛び降りる様な気持ちで、

リハビリに踏み切った。


ここで治さなければ、死んだも同然の生活が続くだけなんだから、、、

やる しかない。



リハビリ  初日

自宅から大通りに出て南に向かい、

東尻池の交差点で右折して国道2号線を西へ走る。

しかし、、、まだ1kmも走っていないのに、脚が重くなって来た。

必死になってペダルを押し込もうとするが、

ペダルが重すぎて スピードが出せない。

止まってしまいそうになりながら、ふらふら 走っていると、

歩道を歩いている歩行者に次々と抜かれて行った、、、

とうとう走れなくなって 自転車から降り、

自転車に寄り掛かる様にして 足を引摺りながら ゆっくりと歩く。


コンクリートで固められた 幅が10メートル程の川、

新湊川をまたぐ橋 までなんとか たどり着いた。

国道を渡って川沿いの公園に自転車を止めて、

ブランコにへたり込む様に座った。


疲れ過ぎていて、ブランコに座っているのも難しかった。

ブランコから落ちそうになるので、ブランコの鎖に

しがみつく様にしてふらつく上半身を支えた。


30分ほど休憩してから、川沿いの近道を通って、

自転車を杖代わりに 足をひくつかせながら 

一歩づつ足を持ち上げる様に 歩いて自宅に戻った。

全行程約2㎞。

体力の限界を超えていた。


家に戻ると、そのまま ガクガクする足で歩いて

トイレに直行し、尿検査をした。


俺はオシッコをかけた検査紙をじっと見た。

検査紙を入れているプラスチックのケースに張ってある

 尿蛋白量を識別する為の色見本 とオシッコをかけた

検査紙を何度も見比べる。


『これは、、、どう云う 事だ?』


ケースと検査紙を持ったまま天井の電球に近付けて、見比べる。

次に明かり取りの窓に持って行き、太陽光の色合いで、見比べる。

最後に、トイレを出て台所の蛍光灯の下に行って

ケースの色見本と検査紙を見比べた。


どう見てもオカシイ。どう見ても、

検査紙の色は暗いレンガの様な 土留め(どどめ)色だ。

、、、、、、。苦いものが込み上げて来た。

どう考えても、最悪のレベル(250) の青緑色

を遥かに飛び抜けたレベルだとしか、考えられない。


愕然とした。ここまでぐじゃぐじゃの濃厚だと云う事は、、、

レベルで云えば(1000)を遥かに超えているかも知れない。


『ヤッテしまった、、、もう、駄目かも知れない。

ゲームオーバーかも、、、』


『こんな酷い状態から、本当に回復するんやろか?  

  いや、まだ死んだ訳じゃあ無い。』

鉛の様に重い足取りで、悄然と寝床に向かった

寝床に横になった途端、身体が水を吸った海綿の様に重たくなり、

目を閉じると 宇宙の果ての果て、底の底まで、

永遠に墜落し続けるように、、、、、

あ、この感じ、前に 同じ事があった、、、


思い出した!京都だ。

あの時は、京都の室町に下宿していた、、、


当時の俺は、治る見込みの無い慢性腎臓病と

云う病気に絶望していた。

幾ら長生きしたとしても、30歳までには死ぬだろう 

と本気で思い込んでいた。


『もう、こんな状態で生きていても仕様が無い。

死んでやる。』


ある日 そんな風に思って、半分 自殺するつもりで、

京都の街を走った事があった。

自転車で思いくそ 滅茶苦茶走って死んでやろうと思ったのだ。


(自転車は、高校時代の友人が神戸から京都まで

自転車をこいで、俺の下宿を探しだし届けてくれた代物だ。

お前 腎臓病やから自転車あった方が楽やろ、

そう言って、俺に譲ってくれた。

その元気だった友人は 20年前に天国に旅立った。

皮肉な事に あの頃死にかけていた俺の方は

70歳になった今でも元気に生きている)


室町から御所の北側を走り、河原町通を九条まで南下して

九条通りを西に、西大路から北上して平野神社で

東に曲がって下宿に戻った。

旧平安京を一周した事になる。


無茶苦茶 飛ばしてやる、とは思ったが 

幾ら頑張っても 自転車はなかなか進まなかった。

九条通りに入った頃には、小学生の自転車にピュンピュン抜かれて、、、

西大路から先は喘いで、足がぶるぶる震え出したが、、、

死んでしまう事もなく、結局 平安京を一周出来てしまった。


室町の下宿にたどり着き、ウナギの寝床の様な町屋の 、

奥庭に面した 天井裏の3畳の部屋に戻った。

倒れて寝てしまう前に何か腹に入れておこうと、

食パン1枚と細い魚肉ソーセージ1本、キャベツの葉っぱ1枚を、

無理矢理 口の中に押し込んだ。

すぐに寝ようとしたが、あまりにも疲れすぎていて、

頭の中が強張ってしまっている様で眠れない。

それで、ホワイトウィスキーをキャップ半分

ほど口に含んで、 飲み込んだ       途端に 、

アルコールが身体中にあっと云う間に染み込んで、

ぐらんぐらんと世界が廻り始めた。


布団に倒れ込んだ俺の身体は、鉛の様に重く、

水を吸った海綿の様に 強烈な重力に押し潰されて、

ビクッとも動けなくなった。

余りに重過ぎて、指1本さえ持ち上げらない。


(これが  金縛りか?) と思った瞬間、

俺の意識は暗い無限の宇宙空間の果ての果てまで 

ぐるぐると廻りながら墜落して行った、、、


気が付くと 俺は下宿の部屋の天井の近くに浮かんでいた。

部屋の床に、布団に寝ている若い男、、、

天窓から差し込む月光が、白い四角形の光の

模様となって 男の顔を照らしている。


『俺は 幽体離脱 しているのか、、、

すると、下で寝ている若い男は、 俺?か?』


俺が目覚めたのが何日後なのか?

記憶に無い。

しかし、この軽い自殺未遂 と幽体離脱した日の

1週間ほど後、突然 母親が下宿に現れて

俺は京都の下宿から強制退去と なった。

これは 下宿の女主人が、

下宿人が何日も下に降りて来ないで、

降りて来たら目の周りの隈が真っ黒な顔で 

ふらふらと歩いているので 心配になって、

神戸の実家に電話をかけた  かららしい。

この女主人は、女優の高峰三枝子 似の京女らしい 

 はんなり としたおばあちゃんだった。


『そうか、俺は2年前に京都で 死のうと

思ってやった事を、今日は生きる為に、病気を治す為にやったのか、、、

まぁ、2年前に死ねなかったんだから、今度も大丈夫だろう、、、』



話は戻って


失神する様に眠りに落ちて、目を開けたら 

既に次の日の昼過ぎになっていた。

直ぐに尿検査をすると、レベル(250)だった。

微妙な所だ。

あれだけ ぐじゃぐじゃの どどめ色で、

レベル(1000)以上ありそうな所から

色見本の内で、最悪のレベル(250)の青緑色になった。

色見本の想定を完全に外れてしまった色から

色見本の想定内の色に入って来た。

一応、蛋白検出量は減っているが、

丸々24時間も寝たのにレベル(250)にしか

下がっていないのかと云う 気持ちもある。

しかし、死にそうな気配が無いのは確かだ。

その後 昼飯を食べて、寝床に戻ると24時間寝た後

だと云うのに、あっという間に再び 眠りに落ちた。


晩御飯時に起こされると、取り敢えずは

トイレに行って尿検査をする。

レベル(250)と(100)の間、(150)位だろうか。

良かった。順調に回復している、、、


寝る前に もう1回尿検査をしたが、

レベル(150)と ほとんど変わっていなかった。

やっぱり、眠る事が大事なようだ。


3日目の朝、レベル(100)と(30)の間、感じとしては(70)位だ。

かなり回復して来た感じで、今日も寝床で横になっていたが、

さすがに寝てしまう事はなかった。

もう身体が睡眠を必要としていない様だ。


4日目の朝、一気にレベル(15)まで下がっていた。

5日目の朝、とうとうレベル(ゼロ)になった。

念のため、この日も安静にして過ごす。



リハビリ  2回目

初回のリハビリから6日目、

昼飯を食べてから2回目のリハビリをスタートした。


自転車をこぎ始めたが、妙にぎこちなくて 

空回りしている様な感じで ふらついたり した。

どうやら、5日間も安静にしていたので、

身体が固くなっているみたいだった。


そんなこんなで、やっと自転車のこぎ方が安定して来た頃、

気が付くと初回のリハビリで 足が動かなくなった

ポイント 新湊川の橋をいつの間にか超えていた。


『超えた?あれ?どうなってるんだ?』


なんで走れているのか 訳が分からないが、

足はまだ動いている。

時速10Km近いスピードで走っている、、、

走れている自分を不思議に思いながら、

国道2号線を西に何となく 走っている内に 、

神戸の西の繁華街 六間道(ろっけんみち)商店街まで来てしまった。

さすがに、これ以上 先に進むと 足が止まってしまった時、

歩いて帰れなくなる。

そう判断して、国道を渡って六間道を北に進み、

国鉄 新長田駅の高架の下を潜って北側の道を通って家に戻る事にした。

途中、俺の出身校である神楽小学校と大橋中学校の間を通り 

実家に帰り着いた。

1度も自転車を降りる事無く、

初回の2倍以上の距離、5㎞ぐらいを走りきった。


なんとなく、狐につまされた様な気分だった

自転車を降りても、初回の様に身体がガクガク

する様な事も無かった。

たった1回走っただけで、体力が付いた?

信じられない思いだった。


尿検査の結果は、レベル(250)である

青緑色よりも少し暗い色だった。

初回の あの恐怖のどどめ色がレベル(1000)位なら、

今回は(300)位と蛋白の検出量が半分以下になった感じだ。


とはいえ、まだ検出量の色見本の内で

最悪レベルの(250)を超えている。

それでも、なんとか色見本の範囲内に近付いては来た。


寝床に潜り込むと、すぐに眠りに落ちた。

悪夢は見なかったし、金縛りもなかった。


目を覚ますと、家族が晩御飯を食べていた。

5時間ほど寝たらしい。

起き出してトイレに行って尿検査をする。


検査紙は、レベル(100)に近くなっていた。

何度も確かめたが、間違いない。


リハビリの初回は、走った後24時間眠って

レベル(1000)からレベル(250)だった。


2回目の今日は、走った後 5時間眠って、

レベル(300)からレベル(100)になった。


ちょっと 目の前が明るくなった気がした。

行ける かも知れない。


次の日の朝、尿検査はレベル(30)だった。

3日目の朝、尿検査がレベル(ゼロ)になった。




リハビリ、三回目

3回目のトライアルは 2回目の4日後になった。

この日は、少しだが疲れが残っている様な気がしたので、

やり過ぎないように、急に距離を伸ばしたり しない様にしよう。

2回目と同じ六間道(ろっけんみち)商店街まで走った所で、

今回は六間道を南に入って南側回りで帰る事にした。

大正筋商店街にぶつかった所で左折、

大正筋にある2軒の映画館では東映の任侠映画と

日活ロマンポルノをやっていた。

途中で、片想いだった彼女の家の前を通って帰った。

残念ながら、思いがけずバッタリ再会する、

なんて事はなかったが、、、


リハビリ3回目直後の尿検査は、

レベル(250)とレベル(100)の間、レベル(150)位だった。



リハビリ初回から

レベル(1000)→(300)→(150)

順調に蛋白検出量は半減している。


この日も 検査した後、寝床に横になったが、

この日はそれほど疲れ無かったのか、一向に眠れなかった。

夜の尿検査では、レベル(100)に近い所まで下がっていた。


2日目の尿検査では、レベル(30)とレベル(15)の間にまで下がった。

3日目の朝の尿検査ではレベル(ゼロ)。


この時点で 俺は、あの教授が言っていた事に完全に納得していた。


検査薬を買い、自分で何時でも何回でも検査が出来れば、

自分の腎臓が(今)どんな状態であるのかを手に取るように知る事が出来る。

このリハビリではそれが1番重要であって必要なのだ。

つまり、医師は必要では無いのだ。

毎回 リハビリをする度に、距離が伸びて、

運動直後の 尿蛋白検出量が少なくなって、

運動後から 、蛋白検出量が(ゼロ)になるまでに

かかる時間も短くなって行った。



<つづく>


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 美味しくキュウリ | トップ | 慢性腎臓病からの生還-2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事