旅行先の紫陽花・1
旅行先の紫陽花2
(森に潜む先住民族)
茂みに身を潜めてこちらを窺(うかが)う
蒲の穂
懐かしくてシャッターを切った。
子どもの頃、蒲の根っこを掘って(と言うより引っ張り出して) 食べた。
この穂がついたままの株をずずっと引きずり出し、根を洗う。
見た目はサトウキビか細いレンコンのようだけれどずっと軟らかい。
サトウキビのように皮を剥くとサツマイモの尻尾の方みたいに繊維質で、
白いほくほくしたした内部が現れる。これを食べる。
蒸した長芋みたいだったのを覚えている。
子どもの頃は、他愛無い山歩きで遭遇する宝だった。
あの頃は美味しいと思った。
今食べたら、どんな味だろう?
あの時と同じように、美味しいと思うだろうか?
私は性的なものを藤色の眼鏡で見ている…の追記
前の『私は性的なものを藤色の眼鏡で見ている』の絵
タイトルを見た人は多分「は?」と思われたでしょうね。
この言葉が組み立てられた時、私の思考が何に働いていたか…。
また、この言葉を見た人が何を想像し思考したかも私自身は興味があります。
(教えてくれる人がいればいいのですけど…。)
ここから先は、具体的に説明を求められても私自身の細胞或いは脳神経が
そういう風に処理していることなので、説明が難しいです。
そういう訳で無理に理解して頂く必要はありません。
水の上に滲んだ、角度を変えなければ見えないような薄い油膜だと思って、
興味のある人はお付き合い下さい。
(要するに、気にすれば気になるし、気にしなければ気にならないということかな?)
今まで私は人間の性別は4種類だと思っていました。
(って、この時点でもはや引きますね。)
1.女性に異性愛(恋愛感情)を持つ、男性の体を持った男性。
(これが世の中で一般的に男性と識別される男性)
2.男性に異性愛(恋愛感情)を持つ、女性の体を持った女性。
(これが世の中で一般的に女性と識別される女性)
3.男性に異性愛(恋愛感情)を持つ、男性の体を持った男性。
(一般的にオカマさんとかニューハーフ、近頃はオネエマンと言われる方々。)
4.女性に異性愛(恋愛感情)を持つ、女性の体を持った女性。
(一般的にオナベさんといわれる方と、レスビアン嗜好の方。)
突然又何を言い出すかと言う感じですが、つい最近気がついたんです。
4種類じゃなく6種類だということに。
3番と4番には更に2種類ずつ存在すると言う事に。
どういうことかといいますと、こういうことです。
3.
(1)男性に異性愛(恋愛感情)を持つ、
女性の体になりたい、男性の体を持った男性。(男の肉体に女の精神です。)
(2)男性に異性愛(恋愛感情)を持つ、
男性の体が好きで、本人も男性の体で満足している男性。
(1)の場合は恋愛感情を除けば、好意的に女性と接する事ができます。
寧ろ女性の集団の中に身を置く事に安心感さえ抱きます。
(2)の場合は女性そのものが嗜好外であり、嫌悪すら抱く場合が少なくない。
つまり女性の存在そのものが受け入れられない、要は女性拒絶型です。
つまり(1)と(2)のタイプは全く別で、男と女と言う分類と同じ位安易に一纏めにしてはいけないのです。
そう考えると4のケースに於いても同様な事が言えます。
4.
(1)女性に異性愛(恋愛感情)を持つ、
男性の体になりたい、女性の体を持った女性。(女の肉体に男の精神です。)
(2)女性に異性愛(恋愛感情)を持つ、
女性の体が好きで、本人も女性の体で満足している女性。
(1)の場合は恋愛感情を除いて、仲間意識の基で男性と行動を共にしたいと切望し
ています。寧ろ男性の集団の中に身を置き、一人の男性として扱われたいと
望んでいます。
(2)の場合は男性そのものが嗜好外であり、嫌悪すら抱く場合が少なくない。
つまり男性の存在そのものが受け入れられない、要は男性拒絶型です。
思春期の頃の興味と一緒に混在する生身の男性への嫌悪感など(白馬に乗った王子様、宝塚の男役、少女漫画の男子への憧れ)は、この意識の成長期に現れる発芽のような現象で、通常は日常生活での異性とのふれあいの中で一般的な形に移行していくのだと思いますが、たまたま方向を変えずに成長する因子が、脳や遺伝子に組み込まれてしまうというか、所持してしまうのでしょうか。
本人の選択できないところで起こるのだから仕方ありません。
時々『女は男が好きだろう』とか世の中『所詮男と女』とか下世話な価値観でものを言う、云十年も人生を生きてきて尚頭がカチカチの、頭の中には性欲しかないのかと思われるような、つまらない人間と遭遇します。
その人間に、尊敬に値するものを見出そうと思うのですが、やたら自信満々にそういうことを口にする姿が、だんだんとくだらなく思えてきます。
あまりに低俗だとついカチンとくることもあります。
私は、男だからとか女だからとかの眼鏡で人を見ているつもりがなくて、常に一人の人間としての魅力を見ようと意識しています。そのつもりです。(勿論、恋愛感情と言うものに連動していくこともありますが、極端なことを言えば、『男』というだけで、イヤもう少し条件を付けて『いい男』というだけで、目にハートマークが現れることは決してありません。)
そして、『男』或いは『女』と初めから識別した目で見るのではなく、人間同士としての付き合いがしたいと思うのです。
よく、色眼鏡で見るっていう比喩があるけれど、こういう性的なことを私はどんな色で見てるかなと、ふと考えました。
赤じゃない、黄色じゃない、緑じゃない、青じゃない、って消去法でいったら、人間として優しく平和に理解し合いたい思いが藤色に落ち着いたのでした。
でも、どんな見方で何色で見るかはその人それぞれの価値観によって変わるものだから、ある見方の人からすれば、私みたいな考え方の人間はそれこそ人として未熟者で低レベルに見えるかもしれません。
ただ他の人たちは何色で見て、また何色で見えているかは気になるところです。
心象画マイ・バイオグラフ(2008・6・29~7・5)
土曜日(7月5日)
ここ何日か地味に振り回されていて、ああ、もういいや、って思った。
もともとは、干渉するのもされるのも嫌いだし、コミュニケーションの相手にはそういう自分を了解してもらっていて相手もそうだったりするから、私にとっては自然なことなのだけれど、まれに望まぬ一方的な好意によって、必要以上に干渉と束縛の目にあったりする。あまり物事に波風を立てたくない性格なせいか、反発してその後の気まずい時間を受け入れられるだけタフではないので、ついつい我慢を抱えながら相手の要求を受け入れてしまう。(勿論出来る範囲でではあるけれど。)
でも、ぼちぼち、多少隙間があってもいいから、鉄の扉とは言わないから、木の扉が欲しい。
子どもの頃、押入れや段ボール箱や隠れ家が好きだった。そして今も、何だか、それ、欲しいと思う。
蝸牛症候群…snail syndromeと名付けた。