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ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

戦争の日本古代史 白村江の戦いとは何だったのか、朝鮮半島との負の交流の検証

2019年01月14日 | 読書日記

戦争の日本古代史 倉本一宏 好太王碑にさかのぼる日本と朝鮮半島の負の歴史を考える試み

 倉本氏の名前は「日本史の論点」(2018年11月27日付けで紹介)を読んで初めて知った。京都にある国際日本文化研究センター(日文研)の教授。古代史は邪馬台国論争に明け暮れるなど古い学問だと思いこんでいたが、まったく誤りと知って不勉強を恥じた。

 本書は2017年5月の発行。評者が書店で手にとった時点ですでに7刷り。好評を得たようで、「内戦の日本古代史」という続編も出ている(評者は未見)。サブタイトルが「好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」とある。

 いずれも評者が、遠い高校生時代の日本史教科書で取り上げられていたテーマだ。たまたま昨年末に韓国を旅行したこともあって、読みたくなった。表紙に「白村江 史上最大の『敗戦』」とある。もちろん白村江(はくそんこう)の戦いで、大和朝廷軍が唐、新羅連合軍に大敗したことは知っていた。やや大げさな表現だと思ったが、読んでみてなるほどとうなづいた。折からさまざまな問題で日韓の摩擦が絶えないが、その淵源はこの時代から始まっているというのが筆者の基本的な立場だ。

 「はじめに」で筆者の認識が明らかにされる。「日本列島の場合、中国大陸や朝鮮半島から『ほどよい距離の島国』であったがため、大陸や半島における戦国時代の動乱の影響を受けずにいられた。外国勢力から見ても、わざわざ海を渡って日本列島を侵略するほどの熱意は生まなかったであろう」。

 「大和盆地南東部に統一政権(倭王権)が誕生したのは三世紀中葉から後半のこととされる。そして国内で鉄が生産できるようになる六世紀までのあいだ、朝鮮半島南部の加椰(かや)地方の鉄をめぐって、倭国は朝鮮諸国と深く関わることになる」。

 大和朝廷の朝鮮半島とのかかわりが鉄の入手が主目的だったことは初めて知った。「四世紀後半に朝鮮半島南西部の百済(ひゃくさい)から出兵要請を受けた倭国は、四世紀末から五世紀初頭にかけて半島に出兵し、半島北部の高句麗(こうくり)と戦い、大敗を喫した」。

 「七世紀後半、中国の唐と新羅(しんら)の連合軍によって滅ぼされた百済を復興するため、朝鮮半島に大軍を派遣した。白村江において唐・新羅連合軍と戦ったが、おそらくは日本史上最大の敗戦となった。この敗戦を契機として、倭国ははじめての国家の形成へと向かった」。

 「ここまでは倭国の時代の話である。大宝元年(701)に日本という国号に替え、律令国家が成立してからは、我が国はほとんど対外戦争を行っていない」。八世紀後半、藤原仲麻呂(恵美押勝)が新羅侵攻を計画したが、実行には移されなかった。平安時代に入ると「積極的孤立主義」の立場で、海外の紛争には巻き込まれなかった。十一世紀前半、刀伊(とい=東女真族)が北部九州に侵攻し、多くの日本人を殺害・拉致した(刀伊の入寇)が、「これを国家間の対外戦争とみなすことはできない」。

 「古代の日本(および倭国)において海外で実際に戦争をおこなったのは四世紀末から五世紀初頭にかけての対高句麗戦、七世紀後半の白村江の戦の二回しかなく、その後も十六世紀末の秀吉の半島侵攻のみであって、(海外勢力の侵攻を撃退した蒙古襲来も、ここでは対外戦争に含めない)、前近代の日本(および倭国)は対外戦争の経験がきわめて少なかったのである」。日清戦争(1894年)以来、戦火が絶えなかった約50年間とは様相を異にしていたようだ。

 「ただし重要なのは、近代日本のアジア侵略は、その淵源が古代以来の倭国や日本にあったということである。長い歴史を通じて蓄積された帝国観念、そして対朝鮮観と敵国視が、一定の歴史条件によって噴出した事態こそ、秀吉の『唐(から)入り』であり、近代のアジア侵略だったのである」。

 これが本書の強い問題意識である。「近代日本のアジア侵略」の源を古代にまでさかのぼるのは、評者には独自の視点であるように思える。「倭王権の成立以来の古代における朝鮮諸国との関わり方、そして中国や朝鮮諸国の日本(および倭国)との関わり方こそ、後世の対アジア関係に大きな影響を与えたことを、我々は考え直す必要があるのである。近代のことを考える際には、近代や近世のことだけを考えたのでは不十分であり、古代以来の蓄積を考える必要がある」。

 高句麗の好太王碑は1880年ころに清の農民によって発見された。1884年には陸軍の情報将校が拓本を持ち帰り、日本でも知られるようになった。高句麗の好太王(413年死去)の事績を414年に子の長寿王が碑を建てて顕彰したものだ。この中に400年から404年にかけて高句麗が百済と通じた倭と戦って、大敗させたという記述がある。倭敗戦の原因を倭が重装歩兵中心だったのに、高句麗軍は組織的な騎兵を動員して圧倒したという説がある。これ以降、倭では乗用の馬が飼育されるようになっていったことが古墳の副葬品からも裏付けられるという。

 その後の五世紀は倭の五王の時代である。五王は当時の中国王朝に幾度も朝貢している。中国の皇帝から朝鮮半島南部の軍事指揮権を得るのが目的だったという見方があるそうだ。この地域は鉄の産地で、国内で産出しない鉄を入手するにはこの地域の支配権が必要だったわけだ。

 一方、中国では589年に隋が全土を統一する。大和朝廷は五王の時代以来、交流が途絶えていた中国に遣隋使を派遣する。隋は四度にわたる高句麗征討の失敗で滅亡し、中国大陸では唐が建国される。全土の統一は628年である。唐帝国の成立で朝鮮半島情勢は一変する。当時、朝鮮半島には高句麗、新羅、百済が並立し、争っていた。まず新羅が唐に使節を派遣、味方につけようとした。

 660年、唐は百済討伐の大軍を出発させる。呼応して新羅も討伐に加わる。唐軍は海上から新羅軍は陸上から、百済に攻め入り、百済は滅亡する。王都は陥落し、国王とその一族、貴族は唐に連行された。だが、残党による反乱は続き、友好国だった倭に救援の要請が行われる。

 斉明天皇は中大兄皇子、大海人皇子らとともに難波津を出発する。額田女王の有名な「熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば」の歌が万葉集に残るのはこのときの船出である。だが、斉明は福岡の行宮で死去し、中大兄が全軍の指揮をとる。

 第一次救援軍は物資補給と倭にいた百済の残兵を輸送するのが目的で、主だった交戦はなかったらしい。だが、すぐに第二次救援軍(新羅侵攻軍)が組織される。663年3月のことである。日本書紀には二万七千の兵を送ったとある。だが、援軍を頼んだ百済は内紛に揺れていた。倭と敵対する唐の軍議では陸の城と海上から二手の攻撃をかけることが決まった。その海上が白村江である。

 8月には第三次救援軍も組織される。駿河の地方豪族を中心にした一万人だったという。第三次軍は唐・新羅の水軍との交戦を想定した部隊だったようだ。白村江の戦いは8月27日から28日にかけて戦われた。27日に先頭部隊が唐軍と交戦したが敗退。翌28日に本隊が到着したが、壊滅した。本書は旧唐書や新羅本記を引用するが、惨敗だったようだ。

 旧唐書によると、倭軍は四回の無謀な突撃を行ったようだ。筆者は「前日(27日)の失敗を反省することなく、船隊を整えないまま、戦列を構えた唐軍に向かって我先にと突撃し、唐軍に左右から挟撃されて包囲されることとなった。倭国の船は方向転換することもできなかった」と記述している。

 白村江の敗因については「小出しに兵を送るという戦略の欠陥、豪族軍と国造軍の寄せ集めに過ぎないという軍事編成の未熟さ、いたずらに突撃を繰り返すという作戦の愚かさ、そして百済復興軍の内部分裂などが指摘されている」。それに加えて、筆者は「かつて五世紀初頭に高句麗に惨敗したという記憶の忘却を挙げたい」と指摘する。「相手が強敵であり、これまでと同じやり方で戦争をおこなったのでは敗北するという、当たり前の認識を、無意識か意識的かはともかく、倭国の指導者は忘れていたのである。自己に都合のいい経験だけを記憶し、都合の悪い経験は忘却するという、人間が誰しも陥りがちな思考回路に、今回もまんまと嵌まってしまったということになる」。

 千五百年近く前の大敗からこうした教訓を導き出すことには驚いたが、それも歴史家の大事な仕事なのだろう。評者には白村江の敗戦と先の大戦での大敗が二重写しになって見える。「戦力の逐次投入」などは日本軍の失敗を詳しく分析した名著「失敗の本質」で詳しく、解説されている。

 歴史家の筆者は、あくまで冷静に白村江の戦いの目的について考察する。対外的には石母田正氏が指摘するように、「『東夷の小帝国』、つまり中華帝国から独立し、朝鮮諸国を下位に置き、蕃国を支配する小帝国を作りたいという願望が、古くから倭国の支配者には存在し、中大兄と鎌足もそれにのっとったということなのだろう」。

 だが、筆者はさらに国内的、対内的な目的を検討する。第一の可能性は「現在から見れば無謀な戦争だったけれども、当時の情勢としては本気で勝つ目算もあったという可能性、また実際に勝つ可能性もあった、ということを考えるべきであろう」。援軍を求めて、百済から伝わってくる情報は正確でなく、十分な戦況が把握できなかった可能性は高い。

 第二の可能性は、「もしかしたら負けるかもしれない、だけれども朝鮮半島に出兵して、戦争に参加するのだ、と中大兄が考えていた可能性を考えてみたい」。筆者は中大兄を明敏な指導者だったとみている。

 「さらに第三の可能性として、たとえ倭国の敗北が国内の誰の目にも自明なほどの敗北を喫したとしても、『大唐帝国に対して敢然と立ち向かった偉大な中大兄皇子』という図式を、倭国内で主張することは可能である」。この見方に立つと、対外的な危機をあおることで、国内の体制を固めたいという目的には好都合だったはずだと筆者は分析する。

 実際に、「中大兄たちの思惑通り、白村江の戦における敗北によって豪族の勢力は大幅に削減され、庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成をはじめとして、中央権力はかなりの程度まで、地方に浸透していったのである」。

 評者には「白村江と壬申の乱」という筆者の考察が興味深かった。天智天皇(中大兄皇子)の死後、息子の大友皇子と弟の大海人皇子との間で壬申の乱が勃発する。このさい大海人が頼ったのは東国(美濃や伊勢)の軍勢で、大友は西国の軍勢に依拠したと考えられている。しかし、白村江からわずか九年後、西国勢は疲弊しきっており、決戦となった瀬田川の戦いで大友軍は敗戦を喫し、西国に逃れる途中、大友皇子は京都・大山崎で果てたという。

 筆者は大海人(天武天皇)の勝利に関して、当時の北東アジアは直接的な戦争の危機は去っていたのに、「この国際情勢の変化に対応した新しい種類の国家の建設をめざすことなく、あいかわらず軍国体制用の律令国家を建設してしまったということは、まことに残念でならない」と書く。

 歴史に疎い評者は共感するとまではいかないが、歴史とはそうした節目で大きく変わっていくものだろう、と感じた。白村江の戦に関する記述は全体の四分の一を占めて読み応えがある。これは本書を読んで初めて知ったが、七世紀の北東アジアの命運を決める大決戦の場所がいまだに確定していないそうだ。いくつか比定地があり、筆者は今は干潟になっている場所で大海戦が行われたと推定しているが、確証は得られていない。評者はしかし、筆者が白村江周辺を走り回って実地踏査する姿勢に強い好感を持った。歴史学者といっても古文書を読み漁るだけでは十分ではない。

 筆者は藤原道長が権勢をふるった時代の「刀伊の入寇」にしても、おびただしい人的、経済的被害を受けた対馬や壹岐の旧跡を詳しく実地踏査している。こうした裏付けなくしては歴史が古文書の上の絵空事になってしまう。現場を知るのは歴史家としての大事な心構えだと思う。

 本書には古代だけでなく、近世の秀吉の朝鮮出兵についても記述がある。いわゆる文禄・慶長の役である。文禄の役(1592年)には総勢十六万の軍勢が海を渡った。韓国では壬辰倭乱(じんしんわらん)と呼ばれている。慶長の役(1597年)は総勢十四万で再侵攻が始まった。丁酉再乱(ていゆうさいらん)である。秀吉の死去で軍勢は撤退するが、この朝鮮侵攻が東アジアに与えた影響は甚大だった。明は朝鮮の要請に従って援軍を出して参戦したが、「明はこの援軍によって財政危機に陥り、十七世紀前半の女真族の侵攻と相まって、王朝倒壊へとつながっていった。豊臣政権が一気に弱体化したことは言うまでもない」。

 歴史家としての実地調査などで幾度となく、韓国を訪れている筆者は「この六年間の戦闘によって、朝鮮半島が甚大な損害を蒙ったことは、言うまでもない。日本に対する憎悪と警戒の認識は、今日に至るまで長く民族の脳裡に刻み込まれることになったのである」と書く。

 評者も昨年末、韓国を訪ねて、その残念な現実を目の当たりにした。慶州というのは韓国南東部の新羅時代の古都だが、世界文化遺産に指定されている仏国寺という古刹も壬申倭乱で焼き払われた。今は再建されているが、古代からの伽藍が異国軍によって焼き打ちにされた痛みや憤激は耐え難いものだったはずだ。やはり世界遺産に指定されているソウルの昌徳宮も同じ憂き目に遭っている。韓国人ガイドの説明は淡々としたものだったが、史跡の説明(日本語や英語)を読むと、壬辰倭乱や丁酉再乱のことがきちんと記されている。日本で言えば京都や奈良の代表的な古社寺や御所が焼き討ちにされたのと同じことだ。1910年の日韓併合(日本による植民地化)と並んで、朝鮮半島の人たちに忘れることのできない屈辱と大きな痛みを与えることになった。従軍慰安婦、徴用工問題など、今に至る日韓の深く険しい溝を考えると、なんとも言えない沈んだ気分になる。

 筆者は「前近代の日本の歴史において、対外戦争がきわめて少なかったこと、にもかかわらず古代の歴史のなかで、朝鮮ひいては外国に対する小帝国意識と敵国観が醸成されていき、それが日本人のDNAに植え付けられてしまっていたことを確認してきた。これらの史実に対する屈折した記憶の呼び出しと再生産こそ、近代日本の奥底に流れるものだったのである」と記す。一方、「朝鮮諸国の方は外国から侵略を受ける経験ばかりで、国外に侵攻した経験は、(『元寇』をのぞいて)歴史上、まったくない。このような国に対して、『蕃国』扱いをし、のみならず何度も武力侵攻をおこなったということが、彼の国の国民性や対日本観に大きく影響したことは、言うまでもなかろう」と述べている。

 古代史の本ながら、現代に通じる諸問題を深く考えさせる一冊だ。歴史好きだけでなく、朝鮮半島との長く不幸な関わりを知る上でも、必読書になるような気がする。倉本氏の新著「内戦の日本古代史」も早く読まなくてはいけない。

 最後に、蛇足で恐縮だが、昨年末、韓国を訪ねて、韓国料理が意外に口に合うことを発見して驚いた。中にはやや辛いものもあるが、われわれがおいしいと思う料理にいくつも遭遇した。食わず嫌いではだめ、ということを肝に銘じた。