ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

専門知は、もういらないのか トム・ニコルズ 高里ひろ・訳 無知礼賛がはびこるアメリカ社会を痛打する警世の書

2020年09月05日 | 読書日記
専門知は、もういらないのか トム・ニコルズ 高里ひろ・訳 トランプ時代のアメリカ社会の問題を明快に分析



 アメリカはトランプ支持か反トランプかで国が真っ二つに分かれてしまった。筆者は近年のアメリカ社会の構造的変化を豊富な例証によって描き出す。アメリカ海軍大学校教授で、国家安全保障の専門家。アメリカを代表する知識人だといえる。だが、今のアメリカでは知識人は「非民主的なエリート」の烙印を押され、その発言が排斥されることも多い。本書のもとになった論考は筆者が個人ブログで書いていたが、それをウェブマガジンの編集者が注目し、本にするよう勧めたという。

 はしがきで、「専門知はいらなくなったわけではないが、窮地に陥っている」と書く。「問題なのは、わたしたちがものを知らないのを誇らしく思っていることだ。アメリカ人は、無知であること、とくに公共政策に関する無知を、まさに美徳だと考えるところまで来ている」(強調は筆者)。

 「人々は専門知について健全な疑いを持つのではなく、積極的にそれに憤慨し、多くの人々は、専門家が専門家であるという理由だけで、間違っているとみなす。人々は『エッグヘッド』ーー最近また流行り始めた知識人を揶揄する蔑称ーーには黙っていろと唸り、医師には自分に必要な薬を指示し、教師には子供がテストで書いた間違った答えを正解だと言い張る」。筆者の激しい怒りが伝わってくる。この論旨に医療専門家、ジャーナリスト、弁護士、教育者、政策アナリスト、科学者、学者、軍事専門家が匿名で協力してくれた。「わたしは、本書によって同胞の市民たちが、誰もが頼りにする専門家をよりよく理解し、利用できるようになることを願っている。何よりも、この本が、専門家とそうでない人々のあいだに走る亀裂に橋をかけることを願っている」。

 序論の扉にアイザック・アシモフの言葉が掲げられている。「合衆国には無知崇拝が存在するし、これまでもずっと存在していた。反知性主義の系統は、民主主義とは『わたしの無知にはあなたの知識と同じ価値がある』という意味だという誤った認識を栄養にして、わが国の政治的文化的生活の中を蛇行しながら連綿と続いてきた」。

 冒頭で「エイズ否認主義者」グループが紹介されている。彼らはエイズがエイズウイルス(HIV)によって引き起こされることを認めなかった。この主張に飛びついたのが南アフリカのムベキ大統領で、「エイズはウイルスが原因ではなく、栄養不足や不健康が原因だとする考えに飛びつき、南アフリカでのHIV感染拡大をくいとめる薬その他の支援の申し出を断った」。2000年代半ば、政府は姿勢を軟化させたが、ハーヴァード大医師の推定によれば、「ムベキのエイズ否認主義によって三〇万人以上が死亡し、感染が予防できたはずの三万五〇〇〇人の赤ん坊がHIV陽性で生まれた」。

 「多くのアメリカ人はこういった無知をあざ笑うだろう」と言いつつ、教授はアメリカ人の無知を指弾する。2014 年、ロシアがウクライナに侵攻したとき、ワシントン・ポストが、アメリカが軍事介入すべきかどうか世論調査を行った。アメリカもロシアも核大国だ。不用意に介入すれば、核戦争の危険さえある。だが、このときウクライナの場所を地図上できちんと示せたのは六人に一人。地理的な知識が不足しているのはよくあるが、「それよりも気になるのは、そうした知識の欠如にもかかわらず、回答者がこの問題についてかなり強硬な意見を述べていることだ。じつはそれは控えめな表現で、回答者はたんに強硬な意見を述べていただけではなく、ウクライナについての知識の欠如と正比例するかたちで、同国への軍事介入を指示する割合が高くなった」。

 「今は危険な時代だ。これほど多くの人々が、これほど大量の知識へのアクセスをもち、それなのに何も学ぼうとしない時代はかつてなかった。アメリカをはじめとする先進国では、他のことでは理性的な人々が知的活動の成果を軽視し、専門家の助言を聞く耳を持たなくなっている。ますます多くの一般の人々が基本的知識を欠き、そのうえ証拠に基づくという根本的な原則を拒否し、論理的議論の方法を学ぼうとしない」「これはあってあたりまえの懐疑的な態度とは違う。現在、目の前で起きているのは、専門知という理想そのものの死ではないかというのが、わたしの懸念だ。グーグルに煽られ、ウィキペディア頼りになり、ブログにどっぷり漬かった社会で、専門家と素人、教師と生徒、知識がある者と好奇心がある者のあいだの垣根が崩れつつある」「だが実際の専門家が専門知を主張すると、アメリカ国民の一部を激怒させることになる。その人たちはすかさず、そんな主張は誤った『権威のアピール』であり、忌むべき『エリート主義』の明らかな証拠であり、学歴や経歴を利用して『本物の』民主主義に不可欠の対話を封じるものだと言うはずだ。今のアメリカ人の考えでは、政治制度において平等な権利をもつということは、どんなことについても、ある人の意見が他の人の意見と平等に認められることだということになる」。
 
 実に明快なメッセージだ。現状を憂慮するだけでなく、専門家としての責任や義務をきちんと果たしたいということだ。評者も筆者のメッセージに強く共感した。アメリカの状況が、日本でもそのまま通用することにも驚かされる。

 第一章は「専門家と市民」だ。冒頭の小見出しに「説明したがり屋の国」とある。「説明したがり屋にはひとつ共通点がある。普通の人なのに、自分では情報の宝庫だと思っていることだ。自分が専門家より博識で、大学教授より広い知識をもち、だまされやすい大衆より見識があると思っている説明したがり屋は、帝国主義の歴史からワクチンの危険性まで、あらゆることについてよろこんで教えてくれる」「そういう人たちをほほえましいと思えるのは、彼らが、専門家の見解を尊重し信頼している国の中では例外的な変わり者だからだ。しかし、ここ二、三〇年のあいだに事情が変わった。公共の場で、知識不足な人々によるゆるやかな集まりがますます存在感を増している。そうした人々の多くは学校教育を軽蔑し、経験を軽視する独習者だ。(中略)知の領域におけるある種の『グレシャムの法則』が勢いを増している」。

 「評論家やアナリストがやんわりと『情報不足な有権者』と呼ぶ騒々しい口論は、そこらじゅうで起きている。しかし議題が科学であれ政策であれ、そうした口論にはひとつ気懸りな共通点が存在する。それは、どの意見も真実として扱われるべきだとする、批判を受けつけない独りよがりな態度だ。アメリカ人は今や、『あなたは間違っている』という言葉と『あなたは馬鹿だ』という言葉の区別がつかなくなっている。異を唱えることは無礼、相手の間違いを正すことは侮辱ということだ。あらゆる意見は、それがどれほどとっぴだったり馬鹿馬鹿しかったりしても、すべて検討に値すると認めないのは狭量だということになる」。

 筆者は専門家についても定義する。「専門家とは、ある分野について一般の人々よりはるかに深い知識をもち、人々がその分野における助言や教育や解決策を必要とするとき、頼りにする人間だということになる」「民主主義社会において自分は専門家だという主張が人々をいらだたせるのは、専門家であることは必然的に排他的であるからだ。長年ある学問分野を研究したり、ある職業に従事したりするということは、他の分野や職業をあきらめることであり、また他の人々も自分と同様にそれぞれの分野や職業を、きちんとわかってやっていると信用することでもある」。

 第二章は「なぜ会話は、こんなに疲れるようになったのか」。「二一世紀の会話は疲れるし、頭にくることも多い。それは専門家と一般の人々のあいだの会話だけでなく、誰と誰が話しても同じだ。昔は専門家に過大な敬意が払われていたとすれば、現在は誰に対しても敬意が欠けている」「最初にもっとも不快な可能性に向き合うことにしよう。ひょっとしたら、専門家と一般の人々へのあいだで話が通じないのは、たんに一般の人々の頭が悪いせいなのかもしれない、という可能性だ。教育を受けたエリートと大衆のあいだの知的ギャップがあまりにも大きくなったせいで、両者は互いに軽蔑し合う以外の話ができなくなっているのではないか。会話や議論が上手くいかないのは、ともすれば片方ーーもしくは双方ーーが馬鹿だからなのではないか」。ずいぶん大胆な議論だ。筆者は必ずしも知的ギャップが広がっているわけではないとしつつも踏み込む。「実際にはあまり優秀ではないのに、自分は優秀だと思い込んでいる人間がいるという問題は残る。誰でも経験があるはずだが、パーティや会食の場で、いちばんものごとを知らない人物が座の中心になり、おのれの知性に絶対の自信をもって、自信満々に次から次へと間違いと誤解を述べたてるということがある」。

 「自分のほとんど知らないテーマについて、まったく根拠のない自信をもって滔々と述べるということは実際に起きていて、ようやく科学によってその現象が解明された」「一九九九年の画期的な研究においてそれを特定したコーネル大学のディヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーにちなんで、『ダニング・クルーガー効果』と呼ばれている」「要するに、聡明でない人ほど、自分は聡明だという自信を強くもっているということだ」「『彼らは間違った結論に至ったりよくない選択をしたりするだけでなく、無能力のせいでそのことを理解することもできない』」。身もふたもない結論のようにも思えるが、そうした部類の人がいるのも事実だろう。「ダニングによれば、人は誰でも自分を過大評価するものだが、能力の劣る人間ほどその傾向が強い」「困ったことに、自信がないときに話をでっちあげる人々を教育したり、知識を授けたりすることは不可能だ」「研究では、(中略)人々は自分がまったく知らないことでも、それについて平気で話すということが証明された」。

 次に紹介されるのが最近、ネットなどで注目されている「確証バイアス」だ。「自分の考えを裏付ける情報を探したり、自分が好む説明を強化する事実だけを選択したり、すでに自分が真実だと思っていることに反するデータを黙殺したりする傾向を指す。誰にでもあり、あなたもわたしも、誰かと何か議論したことのある人間は一人残らず、そういうことをして相手を怒らせたことがあるはずだ」。

 第三章は「高等教育」。筆者は現在の高等教育の現状にかなり批判的だ。「現在では、中等以上の教育機関への進学は多くの人間がする経験になっている。高等教育へのアクセス増大の結果、『大学』という言葉そのものが意味を失った」「中等以上の教育機関への大量進学によって、教育の商品化がますます進んでいる。現在、ほとんどの大学において学生たちは、学生というよりも『客』として扱われている。(中略)大学は今や、教育機関および教職員から教育を受ける課程の契約としてではなく、あたかも数年にわたる休暇旅行として売り出されている」。

 第四章は「ちょっとググってみますねーー無制限の情報が我われを愚かにする」。「専門知の死についてプロや専門家に質問すると、ほとんどの人がすぐにその犯人を指摘する。インターネットだ。どの分野でもかつては専門家に質問しなければならなかったようなことが、ブラウザの検索窓に言葉を入れるだけで、数秒で答えが手に入る」「しかしながら、(中略)インターネットは専門知に対する最大の脅威ではない。インターネットは、あたかも深い知識への近道のようなものを提供することによって、専門家と一般の人々のあいだのコミュニケーションの崩壊を加速した。人々はネットが無制限に供給する事実によってもたらされる専門知の錯覚にひたることで、知的に何かを成しとげた気になる」

 「インターネットのユーザーがネット上で行う議論に関する法則や表現のなかにはおもしろいものがたくさんある。どんな議論でもナチドイツが引き合いに出される傾向にあることから、『インターネット上での議論が長引けば長引くほど、ヒトラーやナチを引き合いに出すことが多くなる』という『ゴドウィンの法則』が生まれた」。
筆者はスタージョンの法則を紹介する。これは伝説的なSF作家のシオドア・スタージョンが、批評家がアメリカのSFの質を嘲笑したのに腹を立て、「あらゆるものの九〇パーセントはクズだ」と言い放ったことからきている。「インターネットに無数に存在する、たわごとの詰まったゴミ箱のようなウェブサイトは、スタージョンの法則の悪夢だ。(中略)インターネットが我々の生活を変える偉大な成果であることは疑いがない。かつてなかったほど多くの人々が、情報へのより大きなアクセスを手に入れた。しかしそれには負の側面もあり、人々の情報収集の仕方や専門家への反応に重要で奥深い影響を及ぼしている」「もっとも目につく問題は、ネット上には何を載せてもいいという自由が、公共の広場を間違った情報や生半可な思考でいっぱいにしてしまっているということだ。(中略)どこかのブロガーの無益な考えや変人の陰謀論から、グループや政府による手の込んだ偽情報まで、そのほとんどは悪臭を放っている」。
 
 「オンライン百科事典ウィキペディアを支持する人々はとりわけ、文献や情報を厳しく吟味する専門家ではなく、そうした種類の集合知にこそ未来があると考えている」「残念ながら、現実はそう上手くはいかないし、ウィキペディアはインターネットによる専門知の追い出しの限界を示す好例だ。(中略)多くの善意の人々がウィキぺディアの編集者として時間を割いているが、たとえばその一部は企業や有名人PR会社の社員であり、多くの人が閲覧する百科事典の記事の内容について明らかに利害関心があるはずだ」。

 「ツイッター、フェイスブック、レディット、その他のサイトが、知的な話し合いの場になることもある。だがたいていは、意見交換よりも、断定、確信、誤解、侮辱の一斉射撃になる」「残念ながら、誰でも意見を言えるようになるということは、誰もが意見を言うということであり、(中略)多くの新聞雑誌がオンラインのコメント欄を閉じているのはそれが原因だ」。

 第五章は「『新しい』ニュージャーナリズムはびこる」。「わたしは三〇年近く、学部生や大学院生に教える授業の最初にはいつも、他に何をしてもいいから、毎日バランスのとれたニュースを摂取するように指示している。主要紙を追いかけ、少なくともふたつのテレビ局を視聴し、少なくともひとつは自分と常に意見の異なる雑誌を購読しなさいと」「それが上手くいっているかどうかは疑わしい。わたしの学生たちが他のアメリカ人と同じなら、自分と同じ意見の情報源を追いかけているはずだ」。

 筆者はニュースの消費者(一般人)にいくつかアドバイスをしてくれる。「わたしはニュースを受けとる際の態度として、四つのことを読者に提案したい。より謙虚になること、バランスよく摂取すること、冷笑主義を抑えること、情報源を選ぶこと」「ニュースの賢い消費者になるためのいちばんの方法は、定期的にニュースを消費することだ」。

 第六章は「専門家が間違うとき」。ここでは評者もよく知る話が紹介されている。ライナス・ポーリングはノーベル化学賞を二度も受賞したアメリカの科学者だが、ビタミンC健康法を推奨したことで知られている。一九六〇年代にビタミンCを推奨量の五〇倍摂取すれば二五年長生きすると言われ、それを実行した。すべての実験で、効果は証明されなかったが、彼は断じてそれを認めなかった。その後、ビタミンの大量摂取はがんや心臓発作のリスクを高めることがわかり、下火になった。

 最終章は「結論ーー専門家と民主主義」と題されている。冒頭に紹介されているのはイギリスがEUから離脱するかどうかをめぐるブレグジットだ。「論争の際、EU離脱派は専門家ーーそのほとんどはブレグジットをひどい考えだと警告していたーーを、一般の有権者の敵と見なした」「専門家への非難攻撃は、多数のイギリス有権者の政治的無知と、圧倒的に離脱に反対していた知識人エリートへの本能的な反感につけこむ戦略の一環だった。投票から数日のうちに離脱派は自分たちの主張の多くが誇張もしくは事実に反していたと認めた」。

 2016年の大統領選挙の共和党大会で、「候補者のドナルド・トランプは専門家に対する攻撃をしかけた。(中略)わたしが前から言いたかったことはこういうことです……専門家はだめだということです。人は『ドナルド・トランプには外交顧問が必要だ』と言います。だがわたしが顧問をもたなかったとしましょう。それは現状より悪いことでしょうか?」「トランプの専門家に対する嘲笑は、昔からアメリカ人が抱いている、専門家や知識人は一般の人々の生活に口を出し、しかもそれが下手くそだという確信に上手く働きかけた」「悪いことに、有権者はトランプが無知だったり間違ったりしても気にしないだけではなく、彼の無知や間違いを見分けることができない可能性が高い。(ダニング=クルーガー効果を発見した)ダニングは、自分たちが描写したような力学が有権者たちに働いており、それは二〇一六年の大統領選挙の奇妙な特質を理解するうえでもっとも肝心なことかもしれないと考えている」「トランプの支持者たちは、トランプがとんでもなく無知な発言をしたときに、大目に見ているのではなく、ダニングが言うように、『彼らはそうした失言を間違いだと気づいていない』」

 「普通のアメリカ人は知識人や専門職といった階級を好ましく思うことはないが、それでも最近までは、知識それ自体を悪い者として嘲ることはなかった。現在の現象を『反合理主義』と呼ぶのは寛大すぎるかもしれない。むしろ反進化と言ってもいいもので、確立した知識から遠ざかり、口承でーー現在はネットでーー伝えられる民俗的知恵や通説へと後退している」。

 「西側世界およびアメリカ合衆国で活気のある知的かつ科学的な文化を創出するためには、民主主義と寛容が前提となる。そうした美徳がなければ、知識と進歩はイデオロギー・宗教・ポピュリストによる攻撃の餌食となるおそれがある。そうした誘惑に屈した国々は、大量弾圧、文化的および物資的貧困、敗戦など、いくつものひどい不幸に見舞われている」「わたしはまだアメリカの制度を信頼しているし、合衆国市民は自己陶酔と孤立から抜け出し、市民としての責任を担えるはずだと信じている」「専門家は常に、おのれは民主主義社会と共和政府の主人ではなく僕であるということを肝に銘じておかなければならない。一方、主人となるべき市民は、みずから学ぶのはもちろんのこと、自分の国の運営に関わり続ける公徳心のようなものを身につける必要がある」。

 これが本書の結論だ。評者は全面的に支持する。トランプ政権誕生以来、アメリカには失望させられることばかりだったが、大いに救われた気持ちになった。評者がアメリカにいた四半世紀前、科学記者としての一番の仕事はエイズ関連の取材だった。そのころウイルスが発見され、有効な治療法も開発され、エイズは死ぬ病気ではなくなった。これは専門家の偉大な勝利だ。その当時、国立衛生研の感染症研究所長だったファウチ博士が今も新型コロナウイルス対策の先頭に立っているのを知って驚いた。小柄な老紳士で、ときにホワイトハウスの記者会見に同席し、大統領と意見を異にしてメディアに注目されている。博士のような専門家が健在のアメリカは世界が信頼できるアメリカで、トランプのアメリカは混迷と不安のアメリカだ。本書を読むとそのふたつが同居している理由がよくわかる。アメリカ駐在当時、南部では公立高校で進化論すら教えない州があるのに、なぜノーベル賞学者を輩出するのか不思議でならなかった。その謎の一端が解けた気がする。アメリカでの専門家と市民の不和の現実とその理由を知るにはまたとない好著だ。翻訳も丁寧で読みやすい。