ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

共感革命 山極寿一 類人猿の生態を通じて考える人類の未来

2024年01月26日 | 読書日記
共感革命 山極寿一 ゴリラ博士が考える人間社会の行く末



 著者は著名な人類学者、霊長類学者。京大総長を二期務めた。現在は総合地球環境学研究所所長。今西錦司、伊谷純一郎ら京大霊長類学の伝統を継ぐ研究者だ。最初はニホンザルの生態を研究したが、伊谷からゴリラの研究を勧められ、そちらに転じた。野生ゴリラはアフリカにしか生息していないので、アフリカでのフィールドワークが長い。人類は約700万年前、チンパンジーとの共通祖先から枝分かれして、独自の進化を遂げた。もともとはアフリカの森林に暮らしていたが、森を出て草原のサバンナに進出した。直立二足歩行によって移動する距離が伸び、サバンナを越え、いつの日かアフリカ大陸を出て、砂漠を越え、海を渡り、今では地上のいたるところに進出し、地球をわがものにしている。

 人類の繁栄は約7万年前の言葉の獲得が大きな起点だったとされる。これが「認知革命」といわれるものだが、著者はその前に「共感革命」があったと考えている。それが本書の表題になっている。「人類は『共感』によって仲間とつながり、大きな集団を形成し、強大な力を手にした。『共感革命』こそが、人類史上最大の革命だったのではないか」。著者はロシアによるウクライナ侵攻など戦争が絶えず、独裁的な政権が次々に誕生する地球の現状を強く憂えている。「人類を進化させたはずの共感が暴走する時代を迎えている」と嘆く。

 著者はゴリラの生態をもとに共感革命を想像する。類人猿にはピルエットという遊びがあるそうだ。ぐるぐる回転することで、「この遊びはサルには見られず、類人猿にしか見られない」。フランスの社会学者ロジェ・カイヨワの分類した四つの遊びの中で、「最も自由な、浮遊感に満たされ冒険的な緊張感に包まれる遊びで、類人猿が人間に進化するにつれてこの遊びは拡大し、ダンスという音楽的な才能と結びついていった」「私は人類が直立二足歩行を始めた理由の一つに、この『踊る身体』の獲得があったと考えている」。

 ほ乳類は四足歩行だが、人類は二足歩行に進化した。「四足で歩行すると手に力がかかり、胸にも圧力がかかって自由な発声ができない。しかし二足で立てば支点が上がり、上半身と下半身が別々に動くので、ぐるぐると回ってダンスを踊れるようになる」「また二足で立つと胸が圧力から解放されて、喉頭が下がり様々な声を出せるようになる。言葉を獲得する以前の、意味を持たない音楽的な声と、音楽的な踊れる身体への変化によって、共鳴する身体ができる。この身体の共鳴こそが人間の共感力の始まりで、そこから音楽的な身体は子守歌となり、やがて言葉へと変化する。人間はそうやって共感力を高めながら、社会の規模を拡大していったのではないか」。

 著者はこの仮説をもとに推論を進める。イギリスの霊長類学者ロビン・ダンバーはサルや類人猿の脳の大きさの研究から、「大きな集団で暮らしている種ほど脳が大きいという事実を発見した。大きな集団で暮らせば、付き合う仲間の数が増える。自分と仲間、あるいは仲間同士の社会的な関係をしっかり覚えているほうが、様々な場面で適切に行動できる。つまり社会の中で他者と交わるために、脳を大きくする必要があったと考えられるのだ」。

 「700万年前から500万年間は、現在のゴリラやチンパンジーと同じくらいの脳の大きさで、集団サイズは10~20人程度だった。その後、脳が大きくなるにつれて適正な集団サイズは大きくなり、現代人の脳の大きさ(約1500cc)だと、150人程度とされている」。興味深い推論だが、根拠が示されていないのが残念だ。

 第2章は「『社交』する人類」で、直立二足歩行のメリットを強調する。「喉頭が下がったことにより、音楽的な能力と踊る能力を獲得した人類は。未だに立って踊る」「踊る際には、一人ではなく、みんなで踊る。それは他者の身体と自分の身体を同調させ、共鳴させることになる。だから踊りは共感力を高める源泉なのだ」「直立二足歩行による世界の拡大は、人類の進化にとって相当大きな出来事だった。直立二足歩行によって自由になった手で食物を安全な場所に持ち帰り、仲間と一緒に食べる。そうすることによって、これまでにはない社会性が芽生えた。自分で獲得したわけではない食物を食べる経験によって、見えないものを欲望できるようになったのだ」「サルや類人猿を観察していると、基本的には食物は見つけた場所でしか食べないし、離れた場所にいる仲間に分配することもない」「市販されている食品を食べるという行為は、現代の私たちからすると当たり前だが、仲間を信じて、仲間がくれたものを食べるまでには、大きな認知の飛躍があったはずだ」。

 人類は180万年ほど前、アフリカ大陸を出た。大陸を出るためにはまず、草原が広がるサバンナを越えなくてはいけない。サバンナにはライオンなど危険な猛獣が多く生息している。人類はそんな危険な場所をくぐり抜けられるほどの防衛力を備えた社会性を持っていたはずだ、と著者は考える。「その社会性とは、共感力を基にしたものだったのだろう。つまり他者と協力する能力だ。その能力は、複数の家族で成立する重層構造の社会を構築する過程で高められたと私は考えている」。

 「人類はサバンナを生き抜くために多産という生存戦略を選択した。草原に進出した初期には幼児がたくさん肉食動物の餌食になった。人類の祖先も餌食になる動物と同じように子どもをたくさんつくって補充したのである。しかし、人類の子どもの成長には時間がかかる。たくさんの子どもを抱えてしまうと、両親だけでは育てられない。そのために、子育ての単位として、一組の家族単体ではなく、複数の家族を含む共同体を形成した。それによって集団規模は大きくならざるを得ず、緊密に付き合う仲間の数によって脳は大きくなったと考えられる」。

 こうして共感力を育ててきた人類だが、戦争のような取り返しのつかない災厄も招いている。著者は「人類の間違いのもとは、言語の獲得と、農耕牧畜による食糧生産と定住にある」とみる。狩猟採集社会では所有の概念が乏しく、自然は全て共有財だった。ところが農耕社会になると、時間の概念が生まれ、土地も肥沃な土地と荒れた土地では価値の差が生じてくる。「さらに、人口が増えれば居住する場所を確保するために、領土を拡張しなくてはならなくなる。領土を拡張しようとする中で、先に目的の土地に人が住んでいる場合は、その集団を押しのけなければならないので、武力が必要になる。そうやって農業社会は、だんだんと首長制をとるようになり、やがて君主制の国家になっていく。そしてここでも格差が生まれてしまう。(中略)その頃から、現代にも通じる悲劇が始まっているのだ」。

 「ダンバーによれば、現代人の脳の大きさは、150人ぐらいの集団サイズに適したものだという。現代人が登場する20~30万年前には、脳はもうこの大きさになっていた」「興味深いことに、現代でも食料生産をせずに自然の恵みだけに頼って暮らしている狩猟採集民の村の平均サイズは150人だという。ということは、7万年前に言葉が登場して、1万年前に農耕牧畜という食糧生産が始まるまでの期間も、人間は150人を単位として狩猟採集生活を送っていたと想像できる。この150人という数は社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)であると私は思う。何かトラブルに陥ったときに相談できる相手の数である」。このあたりの推論は興味深い。

 第二章は「『神殿』から始まった定住」。人類最古の神殿と考えられているのはトルコ南東部で発掘されたギョベクリ・テペだ。1万2000年前ごろの遺跡とされる。小麦の栽培も1万年ほど前に始まったと考えられている。巨石建造物として世界遺産に登録されたギョベクリ・テペは最初の小麦生産地のすぐ近くにある。この付近は人類の文化が始まった「ゼロ・ポイント」と呼ばれている。

 「神殿は神が降りてくる場所であると共に、あの世とこの世を結ぶ入口でもあった。エジプトのピラミッドはそのことを現代に伝えている」。宗教が生まれたのはアルコールによる酩酊作用を利用したものだったかもしれないと指摘し、エジプトのピラミッドの近くで小麦が栽培され、ビールを醸造する高倉が近くで見つかっていることから、大型のピラミッドを作るという苦役はひょっとすると、ビールを飲むという報酬があったのではないか、とも想像する。当時のエジプトに奴隷制はなかったらしいから、苦役の報酬がビールというのはそれほど荒唐無稽ではないのかもしれない。

 第三章は「人類は森の生活を忘れない」。人類の祖先が現れたのは700万年前だが、当時は熱帯雨林の中を小集団で移動していたらしい。これは今のゴリラやチンパンジーと変わらない。このころすでに直立二足歩行を始めていた。人類はなぜ熱帯雨林から出るという選択をしたのだろうか。「人類の祖先もゴリラの祖先もチンパンジーの祖先も、同じ熱帯雨林で暮らしていた。だが、気候変動がたび重なり、生存上の選択をせざるを得なくなったことが一番の理由だろう」「ゴリラは、気候変動で熱帯雨林がどんどん縮小していく中でも森から出ず、小さな森林に閉じこもるか、チンパンジーが生息できないような高い山に住む選択をした。(中略)食料は豊富にあるのだが、フルーツは育ちにくいため、地面に生える草を食べて暮らした。そうやって、ゴリラは新たな食性を身につけたのだ」「チンパンジーは森が狭まる中で、移動距離を延ばす選択をした。断片化した森林を渡り歩き、フルーツを探す方策を講じた」「人類は森の中で、ゴリラやチンパンジーの祖先たちと食物や寝場所をめぐって競合し、だんだん居場所を失っていった 」「人類はサバンナで、新しい食物資源を手に入れ、森に戻らなくて済むようになった。森にいた時代に始めた直立二足歩行が徐々に完成され、長距離を歩けるようになっていったのだ」。

 サバンナに出ても、「人類が海を渡るのは、ずっと後だ。川を渡るのもかなり後で、水をとても恐れていた。チンパンジーやゴリラは未だに川に入らない。腰ぐらいまでなら浸かることはあるが、泳ぐことはない。人類にとっても川はやはり危険で、とくに熱帯雨林の中にある川にはワニが潜んでいる可能性があり、川のそばで暮らすことはあり得なかった。川沿いにある植物は食べていたかもしれないが、魚も貝も食べていなかったのではないか」「海辺に住み始めたのは南アフリカの突端にある、7万5000年前のブロンポス洞窟が最初ではないかといわれている」「川は怖いが、水なしでは生きていけないから、飲みには行ったはずだ」。

 これも意外な気がした。日本では海沿いの貝塚や川沿いに縄文時代の遺跡が多数発見されている。だが、海岸や川沿いに生活し始めたのは比較的最近のことなのかもしれない。アフリカでは水辺にワニだけでなく、どう猛さで知られるカバも生息している。人類には近寄りがたい場所だったはずだ。ゴリラやチンパンジーが水に入らないことも知らなかった。常識を覆す専門知というのはこうしたものなのだろうか。

 ネアンデルタール人の滅亡にも触れられている。3万年ほど前までヨーロッパで生きのびていたことは知られているが、その後、われわれの祖先にとって代わられた。著者は、自然に駆逐されたと考えている。ネアンデルタール人はホモサピエンスのような言葉を持たず、コミュニケーションがうまくとれなかった。言葉がないことで計画性もなかったと考えられている。10数人から30人ほどの小集団で暮らし、閉鎖的で集団間の交流もなかったようだ。ホモサピエンスはオーロックスという、今は絶滅した野生の牛を崖に追い込む狩猟をしていたと考えられているが、計画的に猟をしたホモサピエンスと異なり、「ネアンデルタール人は計画もなしに頑丈な体で立ち向かうしかなく、狩りのたびに犠牲が発生しやすかった」。人口増加率も多産のホモサピエンスのほうに有利で、ネアンデルタール人はヨーロッパの厳しい冬を生き延びられず、滅亡していったと考えられている。狩猟での損耗、寒さへの耐性や人口増加率の差が長い間に滅亡につながっていったという推論は、評者には理解できる。

 第四章は「弱い種族は集団を選択した」。「今から2000万年ほど前の地球は温暖で、アフリカの熱帯雨林は今より大きく広がっていた。そこには多種多様な類人猿が生息し、サル類はほんのわずかしかいなかった。しかし、地球が寒冷化し始めると熱帯雨林が縮小し、類人猿は減ったのだが、かわりにサル類が優勢になる。今のアフリカにおいて、類人猿はたった四種、ヒガシゴリラとニシゴリラ、チンパンジーとボノボしか生き残っていない。しかしサル類は80種以上も生息している。類人猿はサルとの競合に負けたのだ」「理由の一つとして挙げられるのが、胃腸の弱さと繁殖力の低さだ。サルと類人猿は、まったく異なる消化器官を持っている。動物は植物繊維を分解する消化酵素を持っていない。持っているのはバクテリアなどの細菌類だけで、植物を食べる動物たちは、胃や腸にバクテリアを共生させて分解している。サル類も胃や腸に大量のバクテリアを共生させているので、多少の毒素があっても分解できるし、植物繊維も消化できる」「ところが、類人猿は腸にしかバクテリアを共生させず、しかもその量がサルよりも少ない。そうなると同じ葉を大量に食べられないし、未熟果には手を出せない」「現代人も類人猿の胃腸の弱さを継承しており、野生の植物を生でたくさん食べることはない。(中略)我々が普段食する野菜は柔らかいが、そのような野菜を栽培し始めたのも、元々は胃腸の弱さをカバーするためだった」。

 「類人猿がサルに負けたもう一つの理由は、繁殖力の弱さだ。霊長類のメスは授乳している期間は妊娠できない。お乳の産生を促すプロラクチンというホルモンが出て、排卵を抑制するからだ。しかし赤ちゃんがお乳を吸わなくなると、自然にお乳は出なくなり、排卵が回復する」「類人猿の赤ちゃんを見ると、ゴリラは三年から四年の間、お乳を吸う。チンパンジーで五年、オランウータンでは七年ほどになり、この期間は妊娠できない。サルの赤ちゃんは半年から一年で離乳するので、少なくとも二年に一回は子どもを産める計算になる。そうなると、気候変動などで個体数が減ってしまった場合、類人猿はサルと比較して数の回復に時間がかかってしまう。こうして、類人猿が個体数を減らしていく中、サル類が優勢になったのだ」。

 「人類の祖先も、類人猿のように子どもの成長に時間がかかる特徴を受け継いだ。しかし、離乳の時期だけは、サルと同じように早めることに成功した。現代人の赤ちゃんは、一歳前後で離乳してしまうし、はるか昔の人類も離乳は早かった」「しかし離乳時期は早められても、子どもの成長は早められない」「類人猿の子どもは、離乳したときには永久歯が生え、大人と同じ硬いものが食べられる。しかし人間の子どもは六歳ぐらいにならないと永久歯が生えないため、離乳しても華奢な乳歯で硬いものは食べられない。そのため、この時期の子どもには、熟した果実など柔らかいものを食べさせる必要が生じた」。著者は当時の人類が、この不利を、手で食物を運び、分配もできる二足歩行によって解消したと考えている。二足歩行と家族や集団の関係性についての著者の議論は面白い。人間が性を隠す文化を持ったのもここから説明できるという。よく知られていることだが、チンパンジーは乱婚で、メスは一日に何十回も交尾を繰り返す。ゴリラは逆で、「排卵日に合わせてメスが発情し、オスを誘うことで交尾が起きる」。ただゴリラもチンパンジーもみんなが見ている前で交尾するので、人間とはまったく異なる。「人間の場合、家族の性の独立を保持しなければ、家族と複数の家族による共同体という重層構造の社会がつくれなかったのだろう。そしてインセストタブーも生まれた。血縁関係にあるものは性行為をしてはいけないというルールだ」「人間の社会は性を隠すことによって家族を重視し、そこにおける性の独占を確立した。性における平等を共同体で認め合ったのだ」。

 第五章は「『戦争』がなぜ生まれたか」。戦争や争いが絶えない現代だが、著者は「戦争は人類の歴史の中でも、きわめて新しいものだ。現在、人類が狩猟採集生活時代に戦争をしていたという証拠は、見つかっていない」と言う。

 人類最古の戦争は約1万2000年前に起きたと考えられている。「スーダン南部のヌビア砂漠にあるジェベル・サハバで大量の人骨が見つかり、槍などで傷ついた形跡があることから、この頃から戦争があったのではないかといわれている」。この頃、人類はすでに定住生活を始めていた。狩猟採集から農耕牧畜に切り替わろうとした時代だった。このことから著者は人類の歴史の99%以上は「戦争のない世界」だったと考える。「この歴史を見るだけでも、戦争のような行為を人間の本能と考えるのは間違いであると理解できるだろう」と述べる。

 「人間の本性は善であり、共感力を発揮して互いに助け合う社会をつい最近までつくってきたというのが私の考えで、その本質に従えば、もっとその方向性を伸ばせるのではないだろうか。歴史の見方を誤り、戦争を本能だと肯定してしまう人たちもいるが、間違いであることは広く知られるべきだろう」。評者もこの見方に基本的に賛成だ。理想主義に過ぎるという批判もあるだろうが、性悪説に立っても道が開けるわけではない。人間の本性が悪と考える必要はない、善と考えるところからまず出発すべきだろう。

 第六章は「『棲み分け』と多様性」。著者が薫陶を受けた今西錦司の今西進化論や直接の指導教官だった伊谷純一郎、そうした考え方の背景になった西田幾太郎による西田哲学の紹介だ。西洋とは異なる自然観、科学観が述べられている。

 終章は「人間の未来、新しい物語の始まり」と題されている。「人類は三八億年前に登場した生命の一部であり、地球上のあらゆるものと結びついている。有機物だけでなく、無機物とも結びついている。(中略)この生態系は元を辿れば、一つのものだった。それがどんどん分化し、その一部をなしているのが人類なのだ」。

 著者は、最近出会った若者の行動力を讃えたうえで、「私はメタバースやChatGPT、また宇宙移住する話より、そうした若者たちの行動力に人類の新たな夢を見出していきたいと思う」と締めくくっている。読了して、アメリカの自然人類学者ジャレド・ダイアモンドとの発想の共通性を感じた。人類学や霊長類学の目的のひとつは類人猿の生態を通じて人間や人間社会を知ることだろう。共感革命に共感するかどうかは別にして、人間社会の成り立ちに関心がある人に強く勧めたい。






















インド外交の流儀 S・ジャイシャンカル 笠井亮平訳 インド外交の責任者が語る独自の外交戦略

2024年01月13日 | 読書日記
インド外交の流儀 S・ジャイシャンカル 笠井亮平訳 欧米に距離を置くインドの独自外交とはいったい何なのか


 著者は1955年、ニューデリー生まれ、2019年から外相を務める。1977年にインド外務省に入り、日本大使館次席公使(1996‐2000年)、中国大使(2009‐13年)、米国大使(2013‐15年)のあと外務次官を務めた。2019年に発足した第二次モディ政権で外相に就任した。インド外交を語るうえで、これほどの適任者はいないだろう。

 一読して日本を含む世界の歴史や国際関係に精通する博学博識ぶりに驚いたが、評者がインドについてほとんど何も知らないことにもびっくりした。1990年代にワシントンに駐在したとき、インド人記者によく遭遇した。彼らは日本人から見ると強い訛りの英語で自説を滔々とまくしたてる。ただそのころインドに注目している人はほとんどいなかった。ジャパン・アズ・ナンバー・ワンが話題で、日本の方がはるかに注目されていた。それが今や人口で中国を追い抜いて世界一に躍り出て、いずれ日本やドイツを追い抜き、米、中に次ぐ世界3位の経済大国になる可能性もあるとされる。

 そのインドは日本人から見るとはなはだ謎多き国だ。ウクライナ戦争では長年の友好国ロシアの顔を立て、国連では一貫してロシア非難決議に加わらない。西側の経済制裁にも同調せず、ロシア産の安い原油を買いまくる。かと思うと中国とは未だに国境が画定せず、領土紛争を抱え、幾度か戦火を交えている。西隣のパキスタンとは1947年の独立以来、3度にわたって戦火を交えた。両国は相手に対抗するために核開発を進め、すでに実戦配備していると考えられている。周辺国と緊張の絶えないインドには知略に通じた指導者が必要で、著者は外交でそれを担う知将なのだろう。

 本書は8章で構成されている。第1章はアワドの教訓。アワドはガンジス河中流域に18世紀から19世紀半ばに存在した王国だ。インドの巨匠サタジット・レイ監督の作品にはインドの太守二人がチェスに興じている中で、イギリスが豊かなアワド王国をじわじわと支配下に入れていくさまが描かれていた。これを著者は、インドと国境を接する中国がグローバル大国として台頭することへのアナロジーとして警鐘を鳴らす。「理想的なのは、中国の台頭がインドの競争心を刺激する契機となってくれることだ。そこまでいかなくても、少なくとも国際政治の方向性やそれがインドにもたらす意味をめぐって、真剣な論争を巻き起こしてくれるだろう」。

 著者は、中国に対して一貫して厳しい見方を崩さない。「中国の登場をもたらした要因の一つは、同国が他にはない特徴を有していることにある。それ以前にアジアで台頭した別の国(評者注:日本)とは異なり、中国は米欧主導の国際秩序に適合することがきわめて難しい国である。現代における二大大国は、長年にわたり政治的に互いの目的にかなう存在だった。だが、もはやそのような関係ではないというのが、今日の現実なのだ」「こうしたシナリオは、数々の戦略的課題をインドに突きつけている。重要なのは機敏に対処することであり、インドの利益という観点からアプローチする際にはとりわけそうだ。単にそれに対応するだけでなく、実際に活用していくという思考を構築することで、新しいインドをかたち作ることができる。アメリカは今、自国の再構築に取り組むなかで、戦略的設計図にあらためて向き合っている。同国が当面とっているアプローチは、自国第一主義の強化、さらなる孤立化、そして大幅な支出削減というものである。だが、この再構築の実践は容易ではない。なぜなら、過去の戦略的方策がもたらした結果を簡単になかったことにはできないからだ」「今こそインドは、アメリカに関与し、中国をマネージし、ヨーロッパとの関係を深め、ロシアを安心させ、日本にも大きな役割を発揮してもらい、隣国をわが国の陣営に引き込み、近隣地域を拡大し、従来型の友好国を拡充していくときなのだ」。

 第1章はインド外交の決意表明というべきものだ。第2章は「分断の技法--フラット化する世界の中のアメリカ」。2016年の大統領選でのドナルド・トランプの当選など分断が深まるアメリカを素材にしたものだ。「2016年に起きた事態は、その性質からして際立って例外的だった。現代における最強国があれほどまでに大きく方向性を転換するということは誇張のしようもないほど重要な意味を持っている。それを認識しつつも、こうした展開は新しい現象ではないということにも留意するべきだ」「今や外交政策とは、進行中の分断に加え、新たな方向性を加速させたり、その影響をやわらげたり、対抗したりしていく潮流を評価する作業になっていると言える。(中略)だが不安定な世界においても――むしろそのような世界だからこそ――最終目標ははっきりとしている。多数の友好国を獲得し、敵を減らし、善意を増大させ、影響力を強めていく。これは『インドならではの手法』によって達成していかなければならない」。

 本書は各章の扉に世界の偉人が述べた言葉が紹介されている。第3章はゲーテの「自国の過去を受け入れない国には、未来はない」。「最近まで、グローバルな規範や価値観は西洋のパラダイムによって規定されていた。1945年以降の時代において本当の意味で初めて台頭した非西洋の国である中国は、自国の姿勢を示し、主張を作り上げていくなかで、文化的遺産に基盤を置いている。インドも中国の例に倣うべきなのはしごく理にかなっている。実のところ、インドの視点を理解するのに困難を感じるとしたら、それはかなりの部分でインドの思考プロセスに対する無知から来ている。過去の歴史において西洋諸国の多くがインドの社会について十分な関心を払ってこなかったことを考えれば、それは驚くには値しない。『マハーバーラタ』と言えば一般的なインド人の思考に深い影響を及ぼしている叙事詩だが、インドの戦略思想について記されたアメリカの入門書が同書に触れることすらしていないのは、そのことを如実に示している」。マハーバーラタは古代インドで成立した古代インドの叙事詩だ。サンスクリット語で書かれ、紀元前4世紀から紀元4世紀にかけて成立した。ヒンドゥー教の重要な聖典のひとつでもある。

 この章では日本の関ヶ原の戦い、赤穂浪士に関しても言及されている。関ヶ原の戦いは、インドのプラッシーの戦い同様、「より現代に近い世界における運命の決戦で結果を左右したのは、結局のところ裏切りなのだ。ただし、策略が名誉の名のもとに正当化されることもある。日本の『赤穂浪士の』物語はその好例と言えるだろう」との記述もあった。著者の博学博識には脱帽するしかない。「とはいうものの、世界が求めているのはルールの遵守であり、規範の尊重である。日本が真珠湾攻撃を行う直前に、それが道義的にも手続き的にも正当であることを示すべく、正式に宣戦布告しようとしたのはそのためにほかならない。宣戦布告が間に合わなかったことは、ローズヴェルト大統領にとっては政治的支持を取りつけるに当たり、絶大な助けとなった。逸脱や違反を正当化するためにはストーリーが必要であり、それぞれの政治文化が自前の根拠を持っている。近代史において、この作業にもっとも長けていたのはイギリス人だろう」。これはインドを長く占領支配したイギリスへの強い皮肉だろう。

 「わが国でもっとも優れた中国専門家の指摘によれば、偽装を最高レベルの政治的行為にまで高めた国は中国だという。その有効性は『三国志』の中で繰り返し賞賛されており、数々の決定的な戦いの帰趨が軍事力ではなく計略によって決まっている。『兵法三十六計』はこうしたアプローチが一般の中国人の思考に深く浸透していることを示すもう一つの証拠といえる」「対照的にインドの場合は、対外的に示した政策と実際の目的のギャップにすら苦慮してきた。このため、1950年代には中国との間にアジアの連帯というメッセージを発信し続ける一方で国境地域の防衛態勢を整えることが困難になった。パキスタンについて言えば、分離独立によって引き裂かれた人びとのノスタルジアと強迫的な敵国という現実の相克があった」。

 インドというと1947年の独立後は理想主義のもと非同盟外交を主導していた印象が強い。おそらく著者はこれに批判的立場をとっているのだろう。中国はインドのこの立場を利用して、自国の目的実現に有利に振る舞ったと認識しているに違いない。「1971年以来、パキスタンはインドに損害を与えるべく極端な手段に訴えている――自国の体制が支援し育んできた勢力によって蝕まれているにもかかわらず、だ」。これはパキスタンがテロリストの温床になり、インドばかりかパキスタンの存在自身も脅かしているという認識があるからだ。これに続いては、「対話そのものが解決策だという無邪気な期待を脇に置くことも重要だ。パキスタンが通常の貿易やコネクティビティの推進に応じようとしない姿勢は、同国の本当の意図が何なのかを如実に示している。こうした姿勢に対し現状で実践しうる対応は、イメージを悪化させることを別にすれば、今後もそれを継続していくためのコストを高くすることだ」。

 第3章の表題は「クリシュナの選択」。クリシュナはヒンドゥー教における神の一人で、高い人気を集めている。彼の選択がマハーバーラタでの決定的なファクターになっている。「『マハーバーラタ』は倫理を説く物語であると同時に、力をめぐる物語でもある。この二つの重要な要素を調和させているのはクリシュナの選択なのである。インド人はより大きな貢献をなさんとしているが、激動する世界に向き合っていくなかで自らの伝統に依拠する必要がある」。

 第4章は「インドのドグマーー歴史由来の躊躇をいかに乗り越えるか」。第5章は「官僚と大衆--世論と西洋」。第6章は「ニムゾ・インディアン・ディフェンスーー中国の台頭をどうマネージするか」。第6章は書き出しからしてやや不穏だ。「インドと中国が協力して事に当たることができるかどうかが、『アジアの世紀』を決定づけることになる。一方で、両国の協力が困難であれば、逆にアジアの世紀が実現する可能性は低くなりうる。こうした可能性と試練のコンビネーションを踏まえると、両者の関係は疑いなく今の時代の中でもっとも重要な関係の一つだと言える。世界は中国の目を瞠るべき台頭を歓迎するだろう。だが、インドは国境を接する隣国としてこの国に相対しているという現実がある。中国は長きにわたりインドの戦略的判断のなかで重要なファクターであったが、今日ではその存在はさらに重みを増している。印中はいずれも文明を生み出した国で、近代国家になるための過程も似通っていたが、その道のりは摩擦なしにというわけにはいかなかった」。

 「1950年代は間違いなく印中の蜜月期であり、両国の指導者が一緒になって撮影された写真はそれを明確に伝えている。もちろん、それは両国のなかで外交的により孤立していた中国のほうに、より大きな利益をもたらすものだった。全体としては、国境をめぐる見解の相違が拡大していたにもかかわらず、インドはこのフェーズにおいて中国を本心から信じていた。だが水面下では、両国が国民国家への移行を進めていくなかで、潜在的な対立が高まりつつあった」「インドの視点から言うと、この時代の政治・軍事的事態が中国に対する全体的な不信につながった。それは今でも国民の認識に色濃く影響を残しており、この国境紛争の記憶は、新たな問題が起こるたびに想起されるのである」。

 評者がこの章で見過ごせなかったのは、パキスタンへの核兵器技術の支援が、中国から行われたと指摘している点だ。「その流れで(印中の)均衡関係が定着するのを容認する代わりに、中国は異例の政策を採用した。同国が行ったのは、現代において一国が他国に与え得る『究極の贈り物』と形容するのがふさわしいものだった」「この時点では核兵器開発の支援は、アメリカからイギリスへ、ソ連から中国へ(ただし途中で停止)、フランスからイスラエルへ行われただけだった」と述べる。北朝鮮の核開発がパキスタンによって実現したとされることを考えると、中国のパキスタンへの支援は核保有国拡大に直結した可能性が高い。隣国のパキスタンに核開発の手助けをしたとされる中国に対する不信はインド政府だけでなく、国民の間にも抜きがたいものがあるはずだ。

 第7章は「遅れてやってきた運命--インド、日本、そしてアジアにおけるバランス」。「現在のアジアをかたち作る主な要素としては、次のようなものが挙げられる。アメリカの動向、中国の強大さ、ロシアの重み、ASEANの連帯、中東の不安定さ、そしてインドの台頭だ。過小評価されている要素があるとすれば、それは日本のプレゼンスにほかならない。日本の戦略的撤退とインドの分離独立は、アジア大陸のパワーバランスをゆがめることになった」「アジアで大きく異なるシナリオを生み出しうる、現時点では評価不可能な出来事が二つある。一つは将来に向けた日本の姿勢で、戦略的計算の中に巨大な技術力を持った経済大国が復帰しつつある。もう一つは朝鮮半島の流動性で、以前からの推測を覆す可能性を秘めている」。

 「問題は、単に力をどう評価するかだけではなく、考え方をめぐるものである。各国の安全保障問題への対処となると、インドも日本も歴史的には互いの役割に注目することはなかった。とはいうものの、両国はその時々の重要な問題に対して同じような考え方をしているし、過去数年においてはとくにそうである」。著者は日本外交の歴史に強い関心があるようで、20世紀初めに成立した日英同盟について詳述している。「拡張するロシア帝国と近い位置にある二つの帝国として、イギリスと日本は1860年代から1920年代にかけて、利益が一致することを理解していた。(中略)当初日本はイギリス帝国にとって敏感な問題に関わらないよう慎重な姿勢をとっており、逆に同じような問題について自国に申し入れがあったときには必ず拒否した。日本がアジアの革命運動にとって拠点となったのは、こうした共通の基盤が失われてからだった」。

 「長年にわたり、中国はさまざまなかたちでインドと日本の注目を集めてきたかもしれない。だが、印日はとくに困難な関係にある別の隣国によって、さらに身動きがとれなくなっていた。一方ではパキスタン、もう一方では北朝鮮という存在があったのだ。結果として、インドと日本は調和しながらも遠く離れたかたちで共存し、それぞれが自国の関心事に集中することになった。いずれの側も、問題解決を試みるなかで、相手を役に立つ存在とは見なしていなかった」「インドの視点から言えば、日本との緊密な関係は多くのベネフィットをもたらしてくれる。まず、インドは独立以来、南アジアという『箱』に閉じ込められていたが、日本はそこから脱却させてくれる存在なのだ。(中略)東アジアでの活動を促し、インド洋でもプレゼンスを維持することで釣り合いをとってくれるパートナーがいてこそ、『インド太平洋構想』が現実のものになるのだ」「アジアの思考における日本の顕著かつ強化された存在感は、新たに加わった能力だけでなく、より大きな快適さをもたらすという点でも重要だ。両国は民主主義、寛容性、多元主義、開放的な社会に対するコミットメントを共有している。この紐帯は、両国共通の伝統によっても強化されている」。

 この章は主要な部分がインドと日本の関係について割かれている。中国やアメリカに警戒を怠らない著者がインドと日本の関係を強調するのは当然かもしれないが、その強調ぶりに評者はやや意外な感じを受けた。それは中国の台頭に日々、隣国として直面する地政学的な事情がきわめて大きいのだろう。ロシアとの伝統的な友好国であるインドにとって、アメリカの同盟国である日本と接近することで、アメリカや西欧の安心感を得たり、経済的な利益を享受することにもつながっていくのだろう。

 第8章は「パシフィック・インディアンーー海洋世界の再登場」。ここでも20世紀に入ってからのさまざまな攻防が紹介されている。太平洋戦争に関しては「1942年以降、対日戦で中国が抗戦を継続できたのは、英米連合のもとでインドから大規模な物資補給があったからだった」。

 最後がエピローグだ。「『インドならではの手法』とは、単なる傍観者ではなく、形成者ないし決定者を意味し、現在においてはとくにそうだと言える。これは気候変動やコネクティビティをめぐる議論ですでに見て取ることができる。インドは正当かつ公正な大国であり、グローバル・サウスの旗手としてのポジションを確かなものにしていく必要がある。(中略)そして最後に、文明的な特質であれ現在の成果であれ、『インドならではの手法』は自信の高まりを背景に、そのブランドをアピールしていくことになるだろう」と締めくくられている。

 著者の博識と多面的な発想の柔軟さに驚いた。訳者はインド政治や外交の専門家で岐阜女子大学南アジア研究センター特別客員准教授。丁寧な訳注に助けられ、訳者あとがきもずいぶん参考になった。インドがロシアのウクライナ侵攻で、「国連のロシア非難決議案に棄権票を投じるのはなぜか」、欧米の経済制裁に同調しないのはなぜかなどの「疑問は、本書を読めばきっと氷解するはずだ」と書かれている。評者はそのスタンスがある程度理解できるような気がしたが、疑問は氷解はしていない。本書でもロシアとインドとの緊密な関係はそれほど詳しく説明されていない。訳者によると、「1970年代初頭に形成されたアメリカ・中国・パキスタンの連合に対抗すべく、インドはソ連をもっとも重要な連携相手と位置づけて関与の度合いを高めていった」と指摘されている。当時の複雑な国際関係の力学の中で、インドとロシアとの蜜月関係が始まったということだろうか? いずれにせよ、さまざまな事象に目を配り、柔軟に思考することの重要性をあらためて認識した。その意味で、本書はインドやインド外交理解のための必読書だ。国際政治に関心のある人に是非、読んでもらいたい。