「日本資本主義の大転換」 セバスチャン・ルシュヴァリエ
フランスの若手経済学者による日本経済分析の書。科学記者だった評者の出る幕でないことは承知しているが、新聞書評などで好意的に取り上げられていたので手に取ってみた。
昨年、「21世紀の資本」で、欧米はじめ、日本でも大きな話題になったトマ・ピケティ教授の後輩にあたる人らしい。もとはフランス語で書かれ、それを筆者自身が英語化したものを日本語に翻訳したという。英語版からの翻訳になったのは筆者からの強い要請だったと後書きにある。英語版の方が後から出ているので、内容がかなり手直しされているらしい。フランス語版は2011年の出版。
1970年代から80年代の日本の経済成長は世界の垂涎の的だった。評者が米国に勤務した90年代初めはバブルのはじける直前で、ややかげりが出ていたが、経済担当記者にとっては日米経済摩擦が最大の取材テーマだった。自動車のビッグ3の本拠地デトロイトで、日本人ではないアジア系の人が日本人と間違えられて殴り殺されるという悲劇も起きている。たまにデトロイトなど中西部に取材に出かける機会もあったが、街には生気がなく、一つの明かりもなく真っ暗になったホテルの駐車場を人影を気にしながら小走りに歩いたことを覚えている。
日本版の前書きで、筆者は「アベノミクス」の失敗を断言している。その理由として①経済政策とナショナリズムが調和しない、②家庭と仕事の両立という構造的な問題の解決が表面的改革からは期待できない、と指摘している。経済政策とナショナリズムが調和しないというのはややわかりにくい表現だが、ナショナリスト的な発想からは規制緩和を中心とした大胆な経済政策は進められないということだろうか? 評者もアベノミクスの将来にはきわめて悲観的だが、筆者が鋭く指摘するようにかけ声だけではまったく何もできないと思うからだ。一億総活躍相や女性活躍相をつくっただけで、事態が改善するほど現実は甘くない。
筆者はアベノミクスの将来に悲観的な理由として、日本資本主義の現段階に照応した新しい社会的和解を用意していないからだ、と結論づけている。社会的和解というのも少し理解しにくいが、その理由として、①いかなる成長モデルを用意するのか、②中国が製造業の超大国として台頭する中で脱産業化にどう対応するか、③グローバリゼーションの中で日本がどんな位置を占めるのか、④いかなる福祉レジーム(政策や制度のこと)を採用するのかという問いに政治がきちんと答えられていないこと、を理由にあげている。
評者にとってはこのうち4番目の問いを目新しく感じた。福祉レジームという言葉は耳慣れないが、筆者自身の言い換えによると高度成長期を中心とした日本の約30年間の新自由主義的政策の悲惨な社会的影響といえる格差拡大(不平等拡大)を是正するような新たな福祉システムを見つけ出すということらしい。筆者によると、OECD加盟国で、若者が日本以上に将来に悲観的なのはフランスだけだという。
「不平等社会(格差社会)日本」は筆者が日本の経済や社会を分析するうえでの通奏低音ともなっている。この表現は社会学者の佐藤俊樹氏が2000年に言い出したのが最初らしい。2006年のOECDの調査では日本の賃金格差はOECD平均を上回り、80年代半ばから2000年までに絶対的貧困の状態にいる人が5%増えたが、これほど貧困の増加を経験したのも日本だけという。筆者はジェンダーの違いによる格差、同一ジェンダー内の格差にも鋭い目を向ける。家父長的な賃金労働関係が支配的な中で、不平等が拡大すればその最初の「被害者」は女性だと思われるが、実際にはそうした事実は確認されていない。それは男女間にみられる不平等がほぼ一定なのに対し、女性の間で不平等が増大しているからだという。
筆者はこの現実について、日本ではより多くの女性が家庭生活を犠牲にしてもキャリアを求めるようになり、他方、家庭を持つ女性が選べるのは多くの場合非正規雇用しかないことから生じているからだという。2005年頃から海外研究者を交えたいくつかの研究でこうした傾向がはっきりしてきているという。筆者はこうした研究をもとに、女性は家庭を築き、パートタイム労働に甘んじるか、キャリアを追究し、家庭を築く可能性を狭めるかという相互排斥的(二律背反的)な選択を迫られているという。こうした研究によると、日本の資本主義がとくに女性に対し、キャリアと家庭を両立させる環境を提供できないことが出生率の低下、人口の減少、その結果として高齢化社会の進行をもたらしているのだという。
筆者の厳しい追及は教育システムにもおよぶ。日本で2000年以降に実施されたさまざまな教育改革がいかに教育格差につながったかを先行する研究を引用する形で詳述している。評者が感心したのは筆者が欧米や日本の先行研究をよく消化し、論点をすばやく整理し、問題点を具体的に指摘する手際の良さである。外国人研究者の場合、日本語の資料や文献(日本語の新聞など)に接すること自体が障害になることが多いが、筆者はそれをスイスイ読み解いている。略歴を見ると東大など日本の大学での研究歴があるようで、言葉に不自由を感じないのかもしれないが、だとするとそれも大変な能力だと思う。
企業の在り方から教育、福祉システムまでを自在縦横に論ずる筆者の能力はたいしたものだが、評者にとってもっとも興味深かったのはテクノロジーやイノベーションについて論じた「シリコンバレー・モデルが日本にとって唯一の道か」という章だった。
筆者は「テクノロジーに関する議論は、控えめにいっても。逆説的である」と書き出す。「1980年代末、全世界は、次にどのようなイノベーションが生じるかを予測しようと、日本に注目していた。ミクロのレベルにおいて、当時ソニーのような企業が、社会の福祉や組織に直接的影響を与えるような次世代の技術革命をひきおこすであろうと考えられていた。(中略)そしてまさにこの領域において、日本は期待を裏切ることになる。(中略)ソニーこそが、アップル社のiPhoneやiPadのような製品を生み出すであろうと考えられていたが、そうではなかった。まるで日本企業において蓄積されてきたイノベーション能力は、市場における革新的商品へと翻訳できないかのようであった」。
筆者はさらにその後、二重のテクノロジー革命、すなわち情報通信技術とバイオ・テクノロジー革命が出現したが、日本はこれを主導できなかった、と指摘する。
シリコンバレー・モデルというのは一般的に個別の起業家やスタートアップ企業(特定の技術や商品を持って急成長を遂げる新興企業)の役割、企業と大学間の密接な連携、ベンチャー・キャピタルに依存した資金の調達といわれるという。
これに対し、古典的な日本のイノベーションシステムはこの対極にあるという。通説では日本やドイツのような「調整型の資本主義」はシリコンバレー・モデルにはうまく適応できないという。ここから日本やドイツはシリコンバレー・モデルを目指すべきだという結論が導かれてしまいがちだが、これはちょっと性急すぎる結論かもしれない。筆者は具体的な形を示すわけではないが、日本はこれまで進めてきたような古典的なシステム(大企業による支配、民間ベースの研究開発、大学の役割の低さ、発明者にとって不利な知的財産権が特徴)とも、シリコンバレー・モデルとも、ヨーロッパ・モデルとも異なる新しい道を模索すべきだと示唆している。
この議論を読んで、思い出したのが今から30年以上前の80年代初め、世界的に注目された第5世代コンピュータの開発計画だった。もうご存じない方が多いと思うが、当時の日本は高度成長の絶頂期で、貿易黒字が大きくふくらみ、日米経済摩擦が最大になった時代だった。
そのころ海外では日本の産業政策の総本山だった通産省の名前がとどろき、「Notorious MITI」(悪名高い通産省)と名指され、強く警戒されていた。そんな中、IBMスパイ事件の起きた82年にスタートしたのが第5世代コンピューター開発計画だ。新世代コンピュータ開発機構(ICOT)という新たな官民合同の組織を作り、通産省電子技術総合研究所(電総研)のコンピュータ技術者だった淵一博氏を中心に日本のコンピュータ・メーカーが多数のよりすぐりの人材を派遣して、人工知能コンピュータ開発にあたった。
発足前年の81年秋には新宿のホテルで大々的な国際会議が開かれた。世界からコンピュータや人工知能の研究者が招待された。折から米国では「5th Generation Computer(第5世代コンピューター)」という本がベストセラーになり、同時に、日本の技術が世界を席巻する日本脅威論の典型としても広く読まれた。30年以上も前のことだが、国際会議の会場の異様ともいえるような熱気は今も忘れることができない。評者もICOTのオフィスを訪ね、淵氏や主要メンバーにインタビューし、第5世代コンピュータ時代が到来するという派手な記事を何度も書いた記憶がある。
結局、このプロジェクトはさしたる成果を生み出せないまま、事実上挫折した。91年には推論マシンと呼ばれる並列コンピュータが試作されたがプロジェクトそのものはその翌年の92年に終了した。総予算は570億円。淵氏は優秀な技術者で、教祖的な取り上げ方をしたメディアもあったが、評者は日本の技術者には珍しい視野の広さと行動力に好感を持った。欧米のメディアでも一時は時代の寵児ともてはやされたが、プロジェクト終了後はあまり注目されないまま、2006年に亡くなっている。
思えばこの第5世代コンピュータ計画が日本での旧来型イノベーションモデルの典型的「失敗例(?)」として記憶されているのかもしれない。
しかし、この計画が欧米の研究者に与えたインパクトは大きかった。このころ、取材で米国に出張したことがあるが、この分野では著名な研究者からも「ICOTは何をしているか、新たな進展はあったか。淵は何を目指しているか」としつこいほどの質問攻めにあった。この話を淵さんにすると顔をほころばせた。日本は欧米の成果にただ乗りし、大きな利益をあげていると厳しい批判のあった時代に、コンピュータや人工知能の世界で、純日本発のプロジェクトが世界的な注目を集めることが本当にうれしかったのだと思う。
そうした状況も踏まえ、少しひいたところで考えて見ると、海外の若手の研究者が日本の経済や社会に注目して懸命に分析してくれるのは日本人の一人として大変ありがたいことだと思う。ルシュヴァリエ氏は内外の研究成果を網羅したうえで、個々のテーマについてきわめて明快で的確な分析をしている。そのどこまでが当たっているのか、正しいかの評価は残念ながら門外漢の評者の手には余る。だが、この本は日本経済や社会分析から見た世界の研究の現状を知る上でもきわめて有用だと思う。日本に関する研究者が英文で発信している論文のリストも巻末に詳しく挙げてあるので、関心のある分野については原著にあたってさらに検討や研究を進めることも可能だ。
本来的には啓蒙的な学術書で、決して読みやすいとは言えないが、内容が精選されていることは間違いない。評者もこの本を手がかりに、日本型イノベーションモデルの今後の姿についてもう一度考えて見たいと思った。スローガン頼みのアベノミクスに疑問を持ち、日本経済や社会の発展がどうあるべきかを真剣に勉強したい人に強く勧めたい一冊だ。翻訳も比較的読みやすい。
フランスの若手経済学者による日本経済分析の書。科学記者だった評者の出る幕でないことは承知しているが、新聞書評などで好意的に取り上げられていたので手に取ってみた。
昨年、「21世紀の資本」で、欧米はじめ、日本でも大きな話題になったトマ・ピケティ教授の後輩にあたる人らしい。もとはフランス語で書かれ、それを筆者自身が英語化したものを日本語に翻訳したという。英語版からの翻訳になったのは筆者からの強い要請だったと後書きにある。英語版の方が後から出ているので、内容がかなり手直しされているらしい。フランス語版は2011年の出版。
1970年代から80年代の日本の経済成長は世界の垂涎の的だった。評者が米国に勤務した90年代初めはバブルのはじける直前で、ややかげりが出ていたが、経済担当記者にとっては日米経済摩擦が最大の取材テーマだった。自動車のビッグ3の本拠地デトロイトで、日本人ではないアジア系の人が日本人と間違えられて殴り殺されるという悲劇も起きている。たまにデトロイトなど中西部に取材に出かける機会もあったが、街には生気がなく、一つの明かりもなく真っ暗になったホテルの駐車場を人影を気にしながら小走りに歩いたことを覚えている。
日本版の前書きで、筆者は「アベノミクス」の失敗を断言している。その理由として①経済政策とナショナリズムが調和しない、②家庭と仕事の両立という構造的な問題の解決が表面的改革からは期待できない、と指摘している。経済政策とナショナリズムが調和しないというのはややわかりにくい表現だが、ナショナリスト的な発想からは規制緩和を中心とした大胆な経済政策は進められないということだろうか? 評者もアベノミクスの将来にはきわめて悲観的だが、筆者が鋭く指摘するようにかけ声だけではまったく何もできないと思うからだ。一億総活躍相や女性活躍相をつくっただけで、事態が改善するほど現実は甘くない。
筆者はアベノミクスの将来に悲観的な理由として、日本資本主義の現段階に照応した新しい社会的和解を用意していないからだ、と結論づけている。社会的和解というのも少し理解しにくいが、その理由として、①いかなる成長モデルを用意するのか、②中国が製造業の超大国として台頭する中で脱産業化にどう対応するか、③グローバリゼーションの中で日本がどんな位置を占めるのか、④いかなる福祉レジーム(政策や制度のこと)を採用するのかという問いに政治がきちんと答えられていないこと、を理由にあげている。
評者にとってはこのうち4番目の問いを目新しく感じた。福祉レジームという言葉は耳慣れないが、筆者自身の言い換えによると高度成長期を中心とした日本の約30年間の新自由主義的政策の悲惨な社会的影響といえる格差拡大(不平等拡大)を是正するような新たな福祉システムを見つけ出すということらしい。筆者によると、OECD加盟国で、若者が日本以上に将来に悲観的なのはフランスだけだという。
「不平等社会(格差社会)日本」は筆者が日本の経済や社会を分析するうえでの通奏低音ともなっている。この表現は社会学者の佐藤俊樹氏が2000年に言い出したのが最初らしい。2006年のOECDの調査では日本の賃金格差はOECD平均を上回り、80年代半ばから2000年までに絶対的貧困の状態にいる人が5%増えたが、これほど貧困の増加を経験したのも日本だけという。筆者はジェンダーの違いによる格差、同一ジェンダー内の格差にも鋭い目を向ける。家父長的な賃金労働関係が支配的な中で、不平等が拡大すればその最初の「被害者」は女性だと思われるが、実際にはそうした事実は確認されていない。それは男女間にみられる不平等がほぼ一定なのに対し、女性の間で不平等が増大しているからだという。
筆者はこの現実について、日本ではより多くの女性が家庭生活を犠牲にしてもキャリアを求めるようになり、他方、家庭を持つ女性が選べるのは多くの場合非正規雇用しかないことから生じているからだという。2005年頃から海外研究者を交えたいくつかの研究でこうした傾向がはっきりしてきているという。筆者はこうした研究をもとに、女性は家庭を築き、パートタイム労働に甘んじるか、キャリアを追究し、家庭を築く可能性を狭めるかという相互排斥的(二律背反的)な選択を迫られているという。こうした研究によると、日本の資本主義がとくに女性に対し、キャリアと家庭を両立させる環境を提供できないことが出生率の低下、人口の減少、その結果として高齢化社会の進行をもたらしているのだという。
筆者の厳しい追及は教育システムにもおよぶ。日本で2000年以降に実施されたさまざまな教育改革がいかに教育格差につながったかを先行する研究を引用する形で詳述している。評者が感心したのは筆者が欧米や日本の先行研究をよく消化し、論点をすばやく整理し、問題点を具体的に指摘する手際の良さである。外国人研究者の場合、日本語の資料や文献(日本語の新聞など)に接すること自体が障害になることが多いが、筆者はそれをスイスイ読み解いている。略歴を見ると東大など日本の大学での研究歴があるようで、言葉に不自由を感じないのかもしれないが、だとするとそれも大変な能力だと思う。
企業の在り方から教育、福祉システムまでを自在縦横に論ずる筆者の能力はたいしたものだが、評者にとってもっとも興味深かったのはテクノロジーやイノベーションについて論じた「シリコンバレー・モデルが日本にとって唯一の道か」という章だった。
筆者は「テクノロジーに関する議論は、控えめにいっても。逆説的である」と書き出す。「1980年代末、全世界は、次にどのようなイノベーションが生じるかを予測しようと、日本に注目していた。ミクロのレベルにおいて、当時ソニーのような企業が、社会の福祉や組織に直接的影響を与えるような次世代の技術革命をひきおこすであろうと考えられていた。(中略)そしてまさにこの領域において、日本は期待を裏切ることになる。(中略)ソニーこそが、アップル社のiPhoneやiPadのような製品を生み出すであろうと考えられていたが、そうではなかった。まるで日本企業において蓄積されてきたイノベーション能力は、市場における革新的商品へと翻訳できないかのようであった」。
筆者はさらにその後、二重のテクノロジー革命、すなわち情報通信技術とバイオ・テクノロジー革命が出現したが、日本はこれを主導できなかった、と指摘する。
シリコンバレー・モデルというのは一般的に個別の起業家やスタートアップ企業(特定の技術や商品を持って急成長を遂げる新興企業)の役割、企業と大学間の密接な連携、ベンチャー・キャピタルに依存した資金の調達といわれるという。
これに対し、古典的な日本のイノベーションシステムはこの対極にあるという。通説では日本やドイツのような「調整型の資本主義」はシリコンバレー・モデルにはうまく適応できないという。ここから日本やドイツはシリコンバレー・モデルを目指すべきだという結論が導かれてしまいがちだが、これはちょっと性急すぎる結論かもしれない。筆者は具体的な形を示すわけではないが、日本はこれまで進めてきたような古典的なシステム(大企業による支配、民間ベースの研究開発、大学の役割の低さ、発明者にとって不利な知的財産権が特徴)とも、シリコンバレー・モデルとも、ヨーロッパ・モデルとも異なる新しい道を模索すべきだと示唆している。
この議論を読んで、思い出したのが今から30年以上前の80年代初め、世界的に注目された第5世代コンピュータの開発計画だった。もうご存じない方が多いと思うが、当時の日本は高度成長の絶頂期で、貿易黒字が大きくふくらみ、日米経済摩擦が最大になった時代だった。
そのころ海外では日本の産業政策の総本山だった通産省の名前がとどろき、「Notorious MITI」(悪名高い通産省)と名指され、強く警戒されていた。そんな中、IBMスパイ事件の起きた82年にスタートしたのが第5世代コンピューター開発計画だ。新世代コンピュータ開発機構(ICOT)という新たな官民合同の組織を作り、通産省電子技術総合研究所(電総研)のコンピュータ技術者だった淵一博氏を中心に日本のコンピュータ・メーカーが多数のよりすぐりの人材を派遣して、人工知能コンピュータ開発にあたった。
発足前年の81年秋には新宿のホテルで大々的な国際会議が開かれた。世界からコンピュータや人工知能の研究者が招待された。折から米国では「5th Generation Computer(第5世代コンピューター)」という本がベストセラーになり、同時に、日本の技術が世界を席巻する日本脅威論の典型としても広く読まれた。30年以上も前のことだが、国際会議の会場の異様ともいえるような熱気は今も忘れることができない。評者もICOTのオフィスを訪ね、淵氏や主要メンバーにインタビューし、第5世代コンピュータ時代が到来するという派手な記事を何度も書いた記憶がある。
結局、このプロジェクトはさしたる成果を生み出せないまま、事実上挫折した。91年には推論マシンと呼ばれる並列コンピュータが試作されたがプロジェクトそのものはその翌年の92年に終了した。総予算は570億円。淵氏は優秀な技術者で、教祖的な取り上げ方をしたメディアもあったが、評者は日本の技術者には珍しい視野の広さと行動力に好感を持った。欧米のメディアでも一時は時代の寵児ともてはやされたが、プロジェクト終了後はあまり注目されないまま、2006年に亡くなっている。
思えばこの第5世代コンピュータ計画が日本での旧来型イノベーションモデルの典型的「失敗例(?)」として記憶されているのかもしれない。
しかし、この計画が欧米の研究者に与えたインパクトは大きかった。このころ、取材で米国に出張したことがあるが、この分野では著名な研究者からも「ICOTは何をしているか、新たな進展はあったか。淵は何を目指しているか」としつこいほどの質問攻めにあった。この話を淵さんにすると顔をほころばせた。日本は欧米の成果にただ乗りし、大きな利益をあげていると厳しい批判のあった時代に、コンピュータや人工知能の世界で、純日本発のプロジェクトが世界的な注目を集めることが本当にうれしかったのだと思う。
そうした状況も踏まえ、少しひいたところで考えて見ると、海外の若手の研究者が日本の経済や社会に注目して懸命に分析してくれるのは日本人の一人として大変ありがたいことだと思う。ルシュヴァリエ氏は内外の研究成果を網羅したうえで、個々のテーマについてきわめて明快で的確な分析をしている。そのどこまでが当たっているのか、正しいかの評価は残念ながら門外漢の評者の手には余る。だが、この本は日本経済や社会分析から見た世界の研究の現状を知る上でもきわめて有用だと思う。日本に関する研究者が英文で発信している論文のリストも巻末に詳しく挙げてあるので、関心のある分野については原著にあたってさらに検討や研究を進めることも可能だ。
本来的には啓蒙的な学術書で、決して読みやすいとは言えないが、内容が精選されていることは間違いない。評者もこの本を手がかりに、日本型イノベーションモデルの今後の姿についてもう一度考えて見たいと思った。スローガン頼みのアベノミクスに疑問を持ち、日本経済や社会の発展がどうあるべきかを真剣に勉強したい人に強く勧めたい一冊だ。翻訳も比較的読みやすい。