ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

「日本資本主義の大転換」 フランスの若手経済学者による日本経済分析

2016年05月28日 | 読書日記
「日本資本主義の大転換」 セバスチャン・ルシュヴァリエ



 フランスの若手経済学者による日本経済分析の書。科学記者だった評者の出る幕でないことは承知しているが、新聞書評などで好意的に取り上げられていたので手に取ってみた。

 昨年、「21世紀の資本」で、欧米はじめ、日本でも大きな話題になったトマ・ピケティ教授の後輩にあたる人らしい。もとはフランス語で書かれ、それを筆者自身が英語化したものを日本語に翻訳したという。英語版からの翻訳になったのは筆者からの強い要請だったと後書きにある。英語版の方が後から出ているので、内容がかなり手直しされているらしい。フランス語版は2011年の出版。

 1970年代から80年代の日本の経済成長は世界の垂涎の的だった。評者が米国に勤務した90年代初めはバブルのはじける直前で、ややかげりが出ていたが、経済担当記者にとっては日米経済摩擦が最大の取材テーマだった。自動車のビッグ3の本拠地デトロイトで、日本人ではないアジア系の人が日本人と間違えられて殴り殺されるという悲劇も起きている。たまにデトロイトなど中西部に取材に出かける機会もあったが、街には生気がなく、一つの明かりもなく真っ暗になったホテルの駐車場を人影を気にしながら小走りに歩いたことを覚えている。

 日本版の前書きで、筆者は「アベノミクス」の失敗を断言している。その理由として①経済政策とナショナリズムが調和しない、②家庭と仕事の両立という構造的な問題の解決が表面的改革からは期待できない、と指摘している。経済政策とナショナリズムが調和しないというのはややわかりにくい表現だが、ナショナリスト的な発想からは規制緩和を中心とした大胆な経済政策は進められないということだろうか? 評者もアベノミクスの将来にはきわめて悲観的だが、筆者が鋭く指摘するようにかけ声だけではまったく何もできないと思うからだ。一億総活躍相や女性活躍相をつくっただけで、事態が改善するほど現実は甘くない。

 筆者はアベノミクスの将来に悲観的な理由として、日本資本主義の現段階に照応した新しい社会的和解を用意していないからだ、と結論づけている。社会的和解というのも少し理解しにくいが、その理由として、①いかなる成長モデルを用意するのか、②中国が製造業の超大国として台頭する中で脱産業化にどう対応するか、③グローバリゼーションの中で日本がどんな位置を占めるのか、④いかなる福祉レジーム(政策や制度のこと)を採用するのかという問いに政治がきちんと答えられていないこと、を理由にあげている。

 評者にとってはこのうち4番目の問いを目新しく感じた。福祉レジームという言葉は耳慣れないが、筆者自身の言い換えによると高度成長期を中心とした日本の約30年間の新自由主義的政策の悲惨な社会的影響といえる格差拡大(不平等拡大)を是正するような新たな福祉システムを見つけ出すということらしい。筆者によると、OECD加盟国で、若者が日本以上に将来に悲観的なのはフランスだけだという。

 「不平等社会(格差社会)日本」は筆者が日本の経済や社会を分析するうえでの通奏低音ともなっている。この表現は社会学者の佐藤俊樹氏が2000年に言い出したのが最初らしい。2006年のOECDの調査では日本の賃金格差はOECD平均を上回り、80年代半ばから2000年までに絶対的貧困の状態にいる人が5%増えたが、これほど貧困の増加を経験したのも日本だけという。筆者はジェンダーの違いによる格差、同一ジェンダー内の格差にも鋭い目を向ける。家父長的な賃金労働関係が支配的な中で、不平等が拡大すればその最初の「被害者」は女性だと思われるが、実際にはそうした事実は確認されていない。それは男女間にみられる不平等がほぼ一定なのに対し、女性の間で不平等が増大しているからだという。

 筆者はこの現実について、日本ではより多くの女性が家庭生活を犠牲にしてもキャリアを求めるようになり、他方、家庭を持つ女性が選べるのは多くの場合非正規雇用しかないことから生じているからだという。2005年頃から海外研究者を交えたいくつかの研究でこうした傾向がはっきりしてきているという。筆者はこうした研究をもとに、女性は家庭を築き、パートタイム労働に甘んじるか、キャリアを追究し、家庭を築く可能性を狭めるかという相互排斥的(二律背反的)な選択を迫られているという。こうした研究によると、日本の資本主義がとくに女性に対し、キャリアと家庭を両立させる環境を提供できないことが出生率の低下、人口の減少、その結果として高齢化社会の進行をもたらしているのだという。

 筆者の厳しい追及は教育システムにもおよぶ。日本で2000年以降に実施されたさまざまな教育改革がいかに教育格差につながったかを先行する研究を引用する形で詳述している。評者が感心したのは筆者が欧米や日本の先行研究をよく消化し、論点をすばやく整理し、問題点を具体的に指摘する手際の良さである。外国人研究者の場合、日本語の資料や文献(日本語の新聞など)に接すること自体が障害になることが多いが、筆者はそれをスイスイ読み解いている。略歴を見ると東大など日本の大学での研究歴があるようで、言葉に不自由を感じないのかもしれないが、だとするとそれも大変な能力だと思う。

 企業の在り方から教育、福祉システムまでを自在縦横に論ずる筆者の能力はたいしたものだが、評者にとってもっとも興味深かったのはテクノロジーやイノベーションについて論じた「シリコンバレー・モデルが日本にとって唯一の道か」という章だった。

 筆者は「テクノロジーに関する議論は、控えめにいっても。逆説的である」と書き出す。「1980年代末、全世界は、次にどのようなイノベーションが生じるかを予測しようと、日本に注目していた。ミクロのレベルにおいて、当時ソニーのような企業が、社会の福祉や組織に直接的影響を与えるような次世代の技術革命をひきおこすであろうと考えられていた。(中略)そしてまさにこの領域において、日本は期待を裏切ることになる。(中略)ソニーこそが、アップル社のiPhoneやiPadのような製品を生み出すであろうと考えられていたが、そうではなかった。まるで日本企業において蓄積されてきたイノベーション能力は、市場における革新的商品へと翻訳できないかのようであった」。

 筆者はさらにその後、二重のテクノロジー革命、すなわち情報通信技術とバイオ・テクノロジー革命が出現したが、日本はこれを主導できなかった、と指摘する。

 シリコンバレー・モデルというのは一般的に個別の起業家やスタートアップ企業(特定の技術や商品を持って急成長を遂げる新興企業)の役割、企業と大学間の密接な連携、ベンチャー・キャピタルに依存した資金の調達といわれるという。

 これに対し、古典的な日本のイノベーションシステムはこの対極にあるという。通説では日本やドイツのような「調整型の資本主義」はシリコンバレー・モデルにはうまく適応できないという。ここから日本やドイツはシリコンバレー・モデルを目指すべきだという結論が導かれてしまいがちだが、これはちょっと性急すぎる結論かもしれない。筆者は具体的な形を示すわけではないが、日本はこれまで進めてきたような古典的なシステム(大企業による支配、民間ベースの研究開発、大学の役割の低さ、発明者にとって不利な知的財産権が特徴)とも、シリコンバレー・モデルとも、ヨーロッパ・モデルとも異なる新しい道を模索すべきだと示唆している。

 この議論を読んで、思い出したのが今から30年以上前の80年代初め、世界的に注目された第5世代コンピュータの開発計画だった。もうご存じない方が多いと思うが、当時の日本は高度成長の絶頂期で、貿易黒字が大きくふくらみ、日米経済摩擦が最大になった時代だった。

 そのころ海外では日本の産業政策の総本山だった通産省の名前がとどろき、「Notorious MITI」(悪名高い通産省)と名指され、強く警戒されていた。そんな中、IBMスパイ事件の起きた82年にスタートしたのが第5世代コンピューター開発計画だ。新世代コンピュータ開発機構(ICOT)という新たな官民合同の組織を作り、通産省電子技術総合研究所(電総研)のコンピュータ技術者だった淵一博氏を中心に日本のコンピュータ・メーカーが多数のよりすぐりの人材を派遣して、人工知能コンピュータ開発にあたった。

 発足前年の81年秋には新宿のホテルで大々的な国際会議が開かれた。世界からコンピュータや人工知能の研究者が招待された。折から米国では「5th Generation Computer(第5世代コンピューター)」という本がベストセラーになり、同時に、日本の技術が世界を席巻する日本脅威論の典型としても広く読まれた。30年以上も前のことだが、国際会議の会場の異様ともいえるような熱気は今も忘れることができない。評者もICOTのオフィスを訪ね、淵氏や主要メンバーにインタビューし、第5世代コンピュータ時代が到来するという派手な記事を何度も書いた記憶がある。

 結局、このプロジェクトはさしたる成果を生み出せないまま、事実上挫折した。91年には推論マシンと呼ばれる並列コンピュータが試作されたがプロジェクトそのものはその翌年の92年に終了した。総予算は570億円。淵氏は優秀な技術者で、教祖的な取り上げ方をしたメディアもあったが、評者は日本の技術者には珍しい視野の広さと行動力に好感を持った。欧米のメディアでも一時は時代の寵児ともてはやされたが、プロジェクト終了後はあまり注目されないまま、2006年に亡くなっている。

 思えばこの第5世代コンピュータ計画が日本での旧来型イノベーションモデルの典型的「失敗例(?)」として記憶されているのかもしれない。

 しかし、この計画が欧米の研究者に与えたインパクトは大きかった。このころ、取材で米国に出張したことがあるが、この分野では著名な研究者からも「ICOTは何をしているか、新たな進展はあったか。淵は何を目指しているか」としつこいほどの質問攻めにあった。この話を淵さんにすると顔をほころばせた。日本は欧米の成果にただ乗りし、大きな利益をあげていると厳しい批判のあった時代に、コンピュータや人工知能の世界で、純日本発のプロジェクトが世界的な注目を集めることが本当にうれしかったのだと思う。

 そうした状況も踏まえ、少しひいたところで考えて見ると、海外の若手の研究者が日本の経済や社会に注目して懸命に分析してくれるのは日本人の一人として大変ありがたいことだと思う。ルシュヴァリエ氏は内外の研究成果を網羅したうえで、個々のテーマについてきわめて明快で的確な分析をしている。そのどこまでが当たっているのか、正しいかの評価は残念ながら門外漢の評者の手には余る。だが、この本は日本経済や社会分析から見た世界の研究の現状を知る上でもきわめて有用だと思う。日本に関する研究者が英文で発信している論文のリストも巻末に詳しく挙げてあるので、関心のある分野については原著にあたってさらに検討や研究を進めることも可能だ。

 本来的には啓蒙的な学術書で、決して読みやすいとは言えないが、内容が精選されていることは間違いない。評者もこの本を手がかりに、日本型イノベーションモデルの今後の姿についてもう一度考えて見たいと思った。スローガン頼みのアベノミクスに疑問を持ち、日本経済や社会の発展がどうあるべきかを真剣に勉強したい人に強く勧めたい一冊だ。翻訳も比較的読みやすい。




 

 

 

「竹中工務店 四百年の夢」展と「宮大工と歩く奈良の古寺」に悠久の歴史を思う

2016年05月20日 | 読書日記
「竹中工務店 四百年の夢」展(世田谷美術館)、「宮大工と歩く奈良の古寺」(小川三夫、文春新書)




 世田谷美術館で開催中の「竹中工務店 四百年の夢」展を見に、久しぶりに砧公園へ行った。5月の好天の日で、広い芝生広場で遊ぶ子どもたちの姿が目立った。愛犬を散歩させる人の姿もあって、公園はのどかな雰囲気に包まれていた。

 この展覧会が気になったのは、公立美術館が大手企業の歩みを振り返る企画がおもしろいし、珍しいと思ったからだ。戦国時代に織田家の普請奉行を務めた竹中藤兵衛正高というご先祖が名古屋で工匠の看板を掲げたのが1610年のこと。これが竹中工務店の事実上の始まりらしい。名古屋を中心に寺社仏閣の建築に携わり、20世紀初め、関西に進出して洋風建築を手がけるようになったという。

 余談ながら建築会社には信じられないような歴史を持つところがある。聖徳太子が発願した四天王寺の創建に携わった大阪の金剛組は飛鳥時代の576年創業で、やはり多くの宮大工をかかえるそうだ。イギリス・エコノミスト誌は2004年に「世界最長寿企業」と太鼓判を押している(野村進、「千年、働いてきました」角川oneテーマ21新書)。とはいえ、関ヶ原の戦いから10年後の江戸初期創業で、現在も建築大手として存在感を示す竹中も相当な古さに違いない。

 古い建築会社の歩みを振り返る展覧会と言っても美術館に実際の建築物を持ってくることはできない。写真や図面、縮小モデルなどが展示の中心になる。19世紀前半の幕末に建った三重県所在のお寺の本堂の写真などが最初に出てくる。京都にある東福寺の方丈(1890年)、藤沢市にある遊行寺の本堂(1893年)も手がけた。寺社建築では相当の実績のように思える。20世紀に入って関西に本拠を移すと大阪の堂島ビルヂング(1923年)、宝塚市の宝塚大劇場(1924年)、長崎県の雲仙観光ホテル(1935年)など近代建築に果敢に挑んでいく。戦後、GHQ本部が置かれた明治生命館(1934年)とその後の改修(2005年)も竹中の手になるという。

 建築から見た近現代史だなと思って見ていると本当にそんな気がした。展示室には20㍍以上もある横長の年表が展示してあったが、日本の近現代史の主要イベントと竹中が手がけたさまざまな建築物や構造物の竣工時期が完全に同期していることがよくわかる。

 たとえば南極・昭和基地にある観測用施設(1958年)、東京タワー(正式名称は日本電波塔、1958年)、名古屋大学豊田講堂(1960年)、今年開場50年を迎えた国立劇場(1966年)、大阪で開かれた万国博の各国パビリオン(1970年)、東京ドーム(1988年)、新国立劇場(1997年)、横浜赤レンガ倉庫の保存再生(2002年)、大阪にある日本一の高さのあべのハルカス(2014年)などなど。今はアジアのハブ空港になっているシンガポールのチャンギ国際空港ターミナルビル(1981年)もあった。竹中は大阪が本拠だが、建築物は全国に散在している。年表に掲載されていないものも無数にあるはずなので、東京や大阪など大都市に住む限り、至る所で竹中の手になる建築物を見たり、利用したりしていることになる。

 とくに大阪の中心部である中之島地区は竹中が手がけたビルが数多く、そうした街の風景を油絵で描いた佐伯祐三や小出楢重の絵も出展されている。建築物が所有者や設計者の意図を越えて、街の印象を形作ってきたのだと痛感させられる。

 そういえば近現代史を企業の歩みから振り返る発想自体、これまではあまりなかったなと感じた。建築以外の世界でも流通、商社、銀行、鉄道など、われわれの生活は日々、さまざまな企業の活動に支えられて成り立っている。通常はそれをほとんど意識しないし、その歩みを検証する機会は滅多にない。それも、われわれが企業活動の公的な部分より、私的部分にこだわりすぎてしまっているからなのかもしれない。

 展覧会には竹中が神戸市につくった竹中大工道具館の工具も展示されている。ここには時代ごとの大工道具なども復元しているらしい。ユニークな博物館なので、今度、関西に行く機会があった時はのぞいてみたい。

 美術館のミュージアムショップでは展示に合わせた書籍が販売されていた。その中で、目を引いたのが「宮大工と歩く 奈良の古寺」。奥付を見ると2010年の発行で、2015年に5刷を重ねている。筆者の小川三夫氏は1947年生まれの宮大工。栃木県出身ながら、高校の修学旅行で法隆寺の五重塔を見て感激、宮大工として著名な西岡常一氏に入門して内弟子になったという。奈良の法輪寺三重塔、薬師寺金堂、薬師寺西塔の再建では棟梁として総指揮をとった西岡氏のもとで副棟梁を務めた。

 小川氏は宮大工らしく、古寺などの建築物を見ると、その美術的、建築史的な評価より、当時の大工がどうやって建てたのか、どういう木材が使われたかの方が気になるという。

 この本で初めて知ったが、法隆寺を建てたとき、のこぎりはいっさい使われていないそうだ。柱ものこぎりでひくのではなく、木にくさびを打って割り、その表面を削って平らにしたという。柱の表面を平らにする台かんなも室町時代ごろできたもので、それまでは代わりにノミなどを使ったという。竹中大工道具館にはそうした工具が復元展示されているという。

 これは本当に驚きだった。法隆寺の五重塔や金堂などの建物は多少の差はあれ、現在もあるような木工用工具を使って建てられたと思い込んでいた。法隆寺にせよ、薬師寺にせよ古社寺の建物は複雑な木組みから出来上がっているが、木材を加工するのにのこぎりさえ使っていないというのは、まさに目から鱗が落ちる思いだった。

 法隆寺が建てられた約1300年前の道具と言えば木を伐採する斧(おの)、丸太や角材にする「はつり斧」、穴を空ける鑿(のみ)、柄を取り替えれば鑿にもなる手斧(ちょうな)、仕上げ用の槍かんな程度と推定されている。法隆寺は数百年ごとに解体修理する大改修をしているが、それでも65%の木材は創建当時のものだという。

 木は伐採された後も生きる。再建された薬師寺西塔は木材の総重量が318㌧、屋根が91㌧、壁が71㌧、塔の上に乗る相輪が3㌧もある。大きな加重がかかるので、木は収縮する。それをどれくらいちぢんでいいかを計算し、建てるという。鉄筋コンクリートの構造物とはまったく違う世界だ。塔を建てる場合には加重でどれくらい木が収縮するかを事前に考慮に入れ、心柱の長さも決めておくという。
 
 小川氏は木材確保の重要性も説く。法隆寺の五重塔を今、作るとなると1850石もの優良なヒノキが必要になる。一石というのは30㌢X30㌢X3㍍の木材。尺貫法でいうと1尺、1尺、10尺となる。これだけの木材を確保するのには樹齢200年、直径60㌢くらいの木が350本も必要だという。今の日本でそれだけの木材が確保できるのかと心配になってしまう。

 木材事情が非常に逼迫しているのは間違いないが、1300年前の奈良時代には木材が潤沢だったかというと決してそうでもなかったらしい。遷都が行われるたびに、都にある主要な建物は解体され、川にいかだを組んで次の都の近くまで運んで再利用したという。瓦まで再利用したらしい。今で言うリサイクルだが、そうでもしないと十分な木材は入手できなかったのだろう。鉄筋コンクリートの大きなビルや構造物もいったん解体すると、膨大な産業廃棄物化してしまう現代から見ると考えさせられる問題だ。

 古社寺にせよ現代の建築物や構造物にせよ、外から見るだけでなく、どう建てるかと考えながら、建てる側の視点で見るとまったく違うものが見えてくる快感が味わえる一冊だ。

 タイトルに「宮大工と歩く 奈良の古寺」とあるように法隆寺はじめ、東大寺、薬師寺、唐招提寺、興福寺など奈良市内の古寺を中心に、奈良県内の12古寺の親切なガイドブックになっている。奈良の古寺は何度も訪れているが、ともに国宝の十輪院(奈良市)と長弓寺(生駒市)には行ったことがない。いずれ是非、訪ねてみたいものだ。新書なので、数時間で読み終えられる手軽な分量だ。聞き書きなので、文章も読みやすい。関心をお持ちの方には是非一読を勧めたい。

 最初に紹介した竹中工務店展も展示は地味だが、見終わって得られるものはずいぶん多い。時間があれば世田谷美術館まで足を伸ばし、竹中工務店の歴史から日本の近現代を振り返ることも有益だろう。展覧会は6月19日まで。

  

 

 

「シャープ崩壊」 名門企業の悲しい末路、俯瞰的な分析に乏しいのはやや残念

2016年05月18日 | 読書日記
「シャープ崩壊」 日本経済新聞社編



 日本経済新聞大阪経済部の電機業界担当記者のチームがシャープ問題をタイミングよくまとめた。奥付を見ると2016年2月17日発行だが、そのあとも台湾のホンハイ精密工業による買収がすったもんだの末に決まり、新社長にホンハイのナンバー2が内定するなど激しい動きがあった。

 東京勤務が長かった評者にはシャープと聞くと、JR市ケ谷駅前にあった東京支社が懐かしい。エレクトロニクスや新技術担当だったころ、年2、3回くらい東京支社の新製品発表会に出席した。新技術をめぐる紙面企画の取材で訪ねたこともある。

 ソニーほど新製品の話題性はなく、松下電器(パナソニック)ほど広報の売り込みは激しくなかったが、地道に息長く新製品開発を続ける家電メーカーという印象だった。パソコンの新製品が華やかだった時代にはメビウスという機種が人気を集めていた。機能よりもネーミングのおもしろさにひかれた記憶がある。

 「シャープ崩壊」はそうした地道な家電メーカーが液晶にかけた一本足打法で、身の丈に合わない巨額の投資を続けた結果、国内や世界の市場の動向を見誤り、新興の韓国、台湾勢の興隆になすすべもなく、敗れていった悲しい物語である。

 取材班はその主因を人事抗争に求める。序章のタイトルは「人事抗争の悲劇」と名付けられている。絶対権力にとりつかれて破滅するシェイクスピアの「リチャード3世」を引用、シェイクスピアの悲劇をシャープにダブらせる。そういえばシェイクスピアは今年、死後400年のセレモニーがイギリス各地で行われたという記事をいくつか読んだ。タイトルはやや大げさな気もしたが、連日、夜討ち朝駆けを繰り返した取材班の記者たちにはシェイクスピアがよみがえったのだろうか?

 シャープの創業者早川徳次氏が関東大震災の東京で被災、大阪に移って起業し、シャープペンシルや鉱石ラジオというヒット商品を発明、いちやく注目されたことは知っていた。だが、社史はまったく知らない。中興の祖といわれる2代目社長の佐伯旭氏の名を聞いたことがある程度。しかし、その2代目の次女の娘婿の兄が3代目、長女の娘婿が4代目社長になるなど姻戚による事実上の世襲的経営をしていたとは知らなかった。「シャープ崩壊」は巻頭に「主要人物紹介」と「人物相関図」を載せ、人事抗争を図式化して紹介している。シャープの経営が大きく揺らいだのは第4代・町田勝彦社長の亀山工場、第5代・片山幹雄社長の堺工場への過剰な投資が原因というのは定説だが、世襲的な経営につきものの社内の激しい人事抗争が会社を内部からむしばんでいたことは容易に推察される。それも「1社長、1工場」というように自分の代で身の丈を超える投資を続けていれば、いずれ破綻が訪れることは目に見えていただろう。

 シャープというと思い出すのは液晶技術開発にかけた執念にも似た意欲である。評者が工学部を卒業し、いったんメーカーに入ったのは70年代初めだが、このころシャープは液晶電卓の開発に成功し、73年には商品化している。その当時、東京・晴海の国際展示場で開かれたビジネスショーに液晶電卓を出品したシャープのブースには幾重にも人だかりができていた。値段は1桁が1万円、8桁電卓で8万円くらいしたような気がする。当時の初任給の倍くらいで、「この値段で本当に売れるのか?」と疑問に思ったことを思い出す。今は千円もしないから、この間の技術革新や量産効果はまことに目覚ましい。

 液晶テレビもそうだ。70年代初めにはブラウン管テレビしかなく、液晶を使った薄型テレビができるなんて夢にも思わなかった。シャープは88年に液晶テレビの先駆けともいえる14㌅液晶モニターを世界に先駆けて発売している。液晶テレビ・アクオスが発売されたのは2001年、テレビCMの「亀山品質」で有名な亀山第一工場が稼働したのは2004年、2年後には第2工場も稼働している。社長が片山氏に交代した2年後には堺市で大型の液晶パネル工場が稼働した。しかし、その後、すぐに液晶への巨額投資は完全に裏目に出て2012年には台湾のホンハイ精密工業が堺工場を共同運営することになり、経営陣も引責辞任した。

 その後の蹉跌、転落にいたる長い迷走ぶりはご存知の通りである。「シャープ崩壊」は経営陣の内部抗争というキーワードを軸に内部の憎悪、怨念、復讐劇を余すところなく描き出している。

 ただそれでも評者にとってやや納得できない気持ちが残るのは、社内でなぜ、こうした事態が漫然と見過ごされてしまっていたのかという素朴な疑問だ。2012年3月期の売り上げ高は約2兆5000億円、それに対して3760億円の赤字。13年3月期は赤字はさらにふくらんでいる。このままでは企業の存続も危ぶまれる大出血だ。こうした状況に強い危機感を感じなかった社員はいないはずだ。

 シャープは事業ごとには確実に黒字を稼いでいた。現社長の高橋興三氏は複写機事業の出身で、複写機事業をかかえるビジネスソリューション部門は14年3月期で3100億円の売り上げに対し、220億円の黒字。評者がシャープと聞いて思い浮かべるのはカシオとの共通性だ。電子辞書でいえばこの2社が2強。その他にも空気清浄機のプラズマクラスターなどシャープは優れた技術を持っている。液晶以外の部門は液晶事業による膨大な赤字の垂れ流しをどう見ていたのだろうか?

 たまたま手元に文芸春秋6月号があるが、その鼎談書評で「シャープ崩壊」を取り上げていた。おおむね肯定的な評だが、その中で、作家の阿刀田高氏が「単なる”人間ドラマ”にしてしまったら、一番大事なところを見損なう可能性があるとも感じた」と述べ、経営的構造、地域の実態、技術革新などコトの全体を俯瞰した分析があったなら、なおよかったと少し注文をつけている。

 評者はこの意見に全面的に賛成だ。内部抗争が原因なのか、結果なのか、原因であることは間違いないとして圧倒的な主因なのかある程度部分的な原因なのかはもう少し取材や分析をしてからでもよかったのではないか。関西の家電3社のうち、サンヨーはパナソニックに吸収され、松下電器もパナソニックと名前を変えた。松下とともに業界をリードしてきたソニーも未だ再建途上にある。家電業界をめぐる大きな構造変化の中でとらえれば内部抗争はコトの何割かを説明する原因のひとつにすぎないということもありうる。あるいはそうした構造変化が内部抗争に油を注いでしまったのかもしれない。

 その意味で、工学部出身の評者にとっては、経営陣だけでなく、技術者を含めた事情を知る立場にいたはずの幹部社員に、もう少し光をあててほしかった。液晶技術者であれ、非液晶部門の技術者であれ、それ以外の経理や総務の立場であれ、名門企業の社員がこの間の迷走や混迷をどういった気持ちで見つめていたのか。すでに去った人たちも含め、どういう思いでいたかは是非知りたいところだ。

 評者はホンハイの買収によるシャープの再生を強く願っているが、コトの本質の分析なくしてはシャープの社員や元社員は到底、浮かばれないし、同業あるいは異業種の企業の参考にもならないと思う。多忙な新聞記者たちによる労作であることは評価するが、俯瞰的な分析を合わせた続編に改めて強く期待したい。


 

 

 

 

 

 

 

 

「サイロ・エフェクト」 非常に興味深い、でも何か物足りない

2016年05月09日 | 読書日記
「サイロ・エフェクト」 ジリアン・テット(土方奈美訳)文藝春秋



 文化人類学者にしてフィナンシャル・タイムズ(FT)アメリカ版編集長ジリアン・テット氏の話題の書。原著は昨年の発売と同時に欧米のさまざまな書評に好意的に取り上げられた。高度に複雑化した社会に対応するため、組織が縦割りの「サイロ」化し、変化に対応できなくなるのを筆者は「サイロ・エフェクト」と名付けた。サイロは円筒形の穀物倉庫で、文字通り言えば「サイロの影響」だが、なじみやすい言葉で言えば組織の硬直化、視野狭窄化、たこつぼ化ということだと思う。

 テット氏は1993年にFTに入社する前は文化人類学者だった。英ケンブリッジ大の文化人類学専攻の博士課程に在籍し、旧ソ連のタジキスタンの小さな村で結婚にまつわる慣習を通じ、無神論が幅を利かしたはずの旧ソ連で、タジクの小さな村に住む人々がどうやってイスラム教徒としてのアイデンティティを確立しているのかを研究したという。タジクの前はチベットにもいたそうで、非常にタフな女性に違いない。こうした文化人類学のフィールドワークで身につけた「インサイダー兼アウトサイダー」の視点で、現代社会のさまざまな組織が持つ「サイロ化」とその弊害、それを打破しようとする人々を生き生きと描き出したのが本書である。俎上に挙げられた組織や問題はニューヨーク市役所、ソニー、スイス最大の銀行UBS、シカゴ市警察本部、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)など英国を代表する経済専門家が犯した間違い、フェイスブック社、米オハイオ州のクリーブランド・クリニックなど多岐にわたる。

 評者は10年ほど前、ニューヨークに勤務したことがあるので、NY市役所とソニーの章はとくに興味を持った。NYの章にはブルームバーグの特命事項というサブタイトルが付いていて、当時、巨大なたこつぼ化していたニューヨーク市役所とそれを改革しようとしたブルームバーグ市長、先兵として奮闘した若手法律家の活躍に焦点を当てている。その発端になったのは2011年4月、NY市郊外にあるブロンクス区の貧民街で起きた3人焼死の火事。違法建築で迷路のようになった建物で火事が発生、逃げ遅れた若い移民の家族が犠牲になった。ブルームバーグ市長は「この種の火事を未然に防ぐことはできなかったか」とすぐ疑問を発したが、NYでは違法建築に関する苦情が年間約2万件も寄せられるのに検査官はたった200人、監督すべき建物は100万棟、400万戸もあってまったく手がつけられなかった。検査官が苦情の寄せられた建物に行っても違法を発見できるのは約13%だったという。この状況を打破したのは市役所に入ったばかりの検察官出身の若手法律家。市長の特命を受けて、若手でチームを組織し、火災や違法建築の現場を徹底的に調べることで、市役所の消防局、建築部門、財務部門など各部門に別々にファイルされていた資料のデータを有機的に結びつけることに成功した。住宅ローンの不履行、建築基準法違反、建物の築年数、周辺の貧困率など既知のデータを組み合わせることで検査官の違反建築摘発率は従来の5倍以上の70%まで上がったという。今、話題になっているビッグデータの有効利用の典型例とも言えそうだが、チームはこうした手法を全く異なるテーマ(たばこの不正販売の摘発)などにも応用し、大きな成果を上げたという。

 当時のブルームバーグ市長の活躍はめざましかった。経済通信社の創業者で巨額の資産を持ち、市長の給与は年1㌦しか受け取らない(無給ではまずいということで)という慎ましさで多くのNY市民の敬愛を受けた。たまたま評者のオフィスがあったマンハッタンの中心街である朝、爆弾騒ぎがあり、あわててオフィスにかけつけたところ、市長はすでに現場にいて、地元テレビに「もう危険はありません」と答えているのを見て本当に驚いた。もちろんNY市警本部長をかたわらに従えてである。アメリカ人としては小柄な人だが、大きな頼りになる存在のように思えた。

 こうした成果は多くの場合、市長の手柄と見られがちだが、テット氏はそれを現場で実行した人が、部門の強固なサイロを突破したすばらしい功績だと評価している。それは確かにその通りだ。市長が号令したからといって誰かがその意を受け、周囲との軋轢や大きな抵抗を跳ね返さないかぎり、成果は生まれようがない。ただこうした成果を改革派の市長に帰するか、実行役に帰するかは見方よって異なる。

 第2章はソニーのたこつぼ化だ。日本人の一人としてどう書かれているか重大な関心を持って読んだ。冒頭、1999年、ラスベガスで当時の出井伸之社長が華々しく発表したウォークマンの後継機が、何と3つの互換性のない商品だったことをもとに、自由闊達な社風で世界のエレクトロニクス業界を引っ張ってきたソニーが事業部門ごとのたこつぼ化した組織になったと厳しく批判している。

 評者のNY滞在中、マンハッタンの中心、マディソン街にあるソニービルは摩天楼が林立するNYでそれほど目立つ存在ではなかったが、ソニーが米国社会にしっかり根付いていることを強く感じさせた。だがそのビルはもうソニーのものではない。

 ソニー凋落についてはあまた書物が出ているし、本書もそこに焦点を当てているわけではない。ただ評者のささやかな経験からみても、テット氏がソニーの凋落の最大の原因を組織のたこつぼ化と断じているのには違和感を感じる。井深、盛田という二人の創業者を賞賛するのは当然だとしてもそのあと経営を担った東京芸大出身の音楽家大賀典雄氏をまったく評価していないことも釈然としなかった(詳しくは明かせないが、評者はNYで盛田氏や大賀氏をよく知る人からずいぶん率直な話を聞いた経験がある)。何冊かのソニー本を手にとったこともあるが、そのいくつかは経営トップ内の不協和音や大賀氏から経営を引き継いだ出井氏の独断専行に疑問を呈するものだった。経営トップの対立で、プレイステーションを大成功に導いた久多良木健氏がソニーから遠ざけられたことが最大の原因とするものもある(本書は久多良木氏に批判的だ)。

 もちろんこれは評者の得ている知識が狭く、直接、この件で取材しているわけではないので、どこまで当を得ているかはわからない。ただそう感じさせる原因の多くが、ソニー関係の取材が出井氏の後任であるストリンガー氏とその周辺に終始しているからだと思う。

 ストリンガー氏は2005年のCEO就任演説で、「ソニーにはサイロが多すぎる」と言い放ったそうだ。ひょっとするとテット氏自身、そこから「サイロ・エフェクト」という素敵な言葉を思いついたのかもしれない。これはまったくの邪推だがイギリス出身のストリンガー氏とテット氏はかなりよくうまが合ったのではないか。ソニーの章を読むとストリンガー氏から見たソニー像しか描かれていないような気がしてならない。もしテット氏が他の日本人経営陣も熱心に取材していたら、必ずしもサイロ化だけをやり玉にあげていなかったような気もする。

 筆者は第6章で、フェイスブックがソニーのようにならなかった理由として、創業者のザッカーバーグ氏がマイクロソフトやソニーのようにならないため、組織のサイロ化を徹底的に防ごうと意識的に行動していたと賞賛する。ただこれも意地悪く言えば、フェイスブック経営陣から、彼らにとって都合のいい話を聞いてしまったからではないかという気もしてくる。評者はフェイスブックのアカウントは持っているがほとんど使っておらず、数年前だと思うがアンチ・ザッカーバーグの視点から描かれた映画を見て面白いと思ったので、偏見が強すぎるのかもしれない。

 そう思い直して、オハイオ州にある全米でも著名なクリーブランド・クリニックが専門診療科を廃止することで、多大の成果を上げたという第7章を興味を持って読んだ。残念ながら、これも評者の期待に応えるものではなかった。たしかにクリーブランド・クリニックの評判は高い。だが、そのCEOが内科や外科といった個別の診療科を廃し(というより改組し)皮膚科・形成外科センター、消化器疾患センター、心臓・血管センターなど患者本位の27の診療センターを新設したという。実はこうした試みはそれほど新しいものではない。米国の最近の例は不勉強で知らないが、日本でも臓器別や大まかな疾患別にセンターをつくる例は珍しくなく、どちらかと言えば一般的なことだと思う。少し残念なのは、テット氏は優秀な記者だと思うが、自分がそれほど詳しくない分野だとその弱点が出てしまうことだ。米国で代表的な病院と言えば、マサチューセッツ総合病院(ハーバード大付属病院)やジョンズホプキンス大病院、スタンフォード大病院、大学病院以外ならメーヨー・クリニック(翻訳ではマヨ・クリニックと表記されていた)やテキサス・ハート・クリニックなどと比較すればクリーブランド・クリニックの特徴や冒険精神がより一層明らかになり、米国の大病院が抱える今日的な課題も浮き彫りになったと思う。

 少し苦言を呈する結果になったがインサイダー兼アウトサイダーという文化人類学的な手法はいろいろな分野を分析、取材、追究するのに大いに有効だという気がする。巻末にはソースノートとして詳しい出典が挙げてある。これを読み進めば筆者の取材の軌跡が明らかになり、評者の指摘した点の多くは無用ということになってしまうかもしれないが。

 インサイダー兼アウトサイダーという手法がどこまで通用するかは未知数だが、文化人類学者という自分のバックグラウンドを最大限に利用し、高度専門家社会の罠に警鐘を鳴らす筆者の努力と勇気には率直に拍手を送りたい。本書の内容に関心を持つ人だけでなく、こうした手法がどこまで有効かを見極めたい人にも一読を勧めたい。

 
 

 

「研究不正ー科学者の捏造、改竄、盗用」 研究に関心を持つすべての人の必読書

2016年05月03日 | 読書日記
「研究不正ー科学者の捏造、改竄、盗用」(黒木登志夫、中公新書)



 黒木氏は東大医科学研究所の教授を長く務め、その後岐阜大学長をされた医学研究者。発がんの分野で優れた研究業績をあげ、「がん細胞の誕生」(朝日選書、1983年)はかけ出し科学記者時代、ずいぶんお世話になった。今年で80歳を迎えられたというが、80歳の誕生日に「研究不正」の「後書き」を書くという壮健さはうらやましい限りだ。

 書店で「研究不正」というタイトルを見て、読まなければならないなと思った。もちろん、理研のSTAP細胞事件を思い出してのことである。理研発生・再生科学総合研究センター(CDB)の若手女性研究者が「iPS細胞」を超える万能細胞を発見したと2014年1月に大々的に発表し、日本列島を興奮の渦に巻き込んだのは記憶に新しい。しかし、その数日後、ネットで研究の問題点がいくつも指摘され、すぐに図表の改竄や盗用が明らかになった。世界中で行われた追試も成功しなかった。研究リーダーの笹井芳樹氏はこの分野で世界的に評価の高い研究者として知られていたが、半年後、自ら命を絶った。今ではSTAP細胞は別の万能細胞であるES細胞の混入だった、と結論づけられている。関係者にとっては悪夢でしかない「事件」だ。

 黒木氏がSTAP細胞事件に触発されて、「研究不正」に取り組まれたことは後書きにあるとおり。だが、氏は内外の42件もの研究不正を調べることで、個別の事件にどういう動機や背景があるのか、組織や個人的な要因を徹底的に分析し、研究不正を防止するための処方箋まで提案している。なみなみならぬ決意である。

 評者は自然科学や科学技術に関する不正が主な対象だろうと思って読み始めたが、事例11(2000年)では旧石器を次々に「発掘」した「神の手」(ゴッドハンド)と呼ばれる旧石器捏造について詳しく分析している。この事件は疑問を持った毎日新聞が取材班を組織し、「ゴッドハンド」が石器をひそかに埋めたうえで掘り出す現場を押さえたことで、あえなく露見した。

 この事件では評者にも苦い記憶がある。当時は科学部とは別のセクションで原稿を見るデスクをしていたが、地方にいるある記者からこの「ゴッドハンド」を人ものに取り上げたいという強い要請があり、原稿をチェックした。原稿は「神の手」への賞賛一色。一読してこれは使えないなと思い、書き直しを要請したところ、「何を根拠にボツにするのか」と猛反撃してきた。何度かやりとりしたうえ、自分の責任では使わないことにしたが、別のデスクの担当の時に紙面を「飾ってしまった」。毎日のスクープが報じられたのはその数ヶ月後だったと記憶している。毎日の快挙には快哉を叫んだが、評者が最初に関わった記事がその後、取り消されたとは聞いていない。だれかの責任問題に発展することを恐れ、「ほおかむり」してしまったのだろうか。

 純粋な研究不正だけでなく、新聞などメディアの誤報、虚報についての黒木氏の追究の手は緩まない。旧石器捏造発覚では大きな功績を挙げた毎日を始め、朝日、読売の情けない間違い記事が取り上げられている。追究の舌鋒は鋭いが、評者の知る限りは事実関係に間違いはなく、公正な検証だろうと思う。

 STAP細胞事件でも指摘されたことだが、研究の不正とメディアの誤報や虚報にはかなりの共通性がある。第一には研究者(筆者)の力不足(勉強不足)や強い思い込み。二つ目には同僚あるいは上級研究者の指導、監督やチェック不足。とくに記事の場合には書かれた内容に間違いや誇張、誤解や曲解がないかという多角的なチェックが不可欠だ。

 「研究不正」に登場する42件の事件を見ていると、不正は人間の心にひそむ不完全さやいい加減さ、ずるさやねたみ、過剰なまでの功名心などさまざまな邪悪な気持ちの発露だという気がしてくる。
 
 面白かったのが分野別に見ると数学には圧倒的に不正が少ないという指摘である。黒木氏が知り合いの数学者に質したところ、①数学は正しいか、間違っているかの2者択一で、捏造が入り込む余地がない、②数学はロジックに支えられている、それが「現象」に支えられている医学生物学との大きな違い、③論文の審査は審査員が理解するまで終わらない、審査に1年、出版に2年かかるのが普通、という返答があったそうである。

 評者の経験でもこれは合点できた。ワシントンにいた当時、数学の世紀の難題と言われたフェルマーの最終定理が解けたというニュースが世界をかけめぐった。評者もこの数学者が在籍するプリンストン大を訪ねた。当時、まだ40歳前後だった教授は非常にシャイな方で、取材手続きに広報を訪ねると「教授はカメラがお嫌いなので、預かります」と取り上げられてしまった。おっかなびっくり、教授室を訪ねると、やさしい紳士で、こちらのどんなつまらない質問にも丁寧に応じてもらい、恐縮した。そのとき、「この証明は世界の数学者のうち、何人くらいが理解できるのでしょうか」と聞いたところ、「10人足らずでしょうか」との返答があり、その人たちすべてが正しいと認めない限り、証明されたことにはならないと言われ、妙に納得した記憶がある。

 黒木氏は個別の研究不正だけでなく、なぜこうした不正が跡を絶たないのか詳しく分析している。競争に勝つ誘惑、研究資金への誘惑、出世の誘惑など悪魔のささやきともいうべき、さまざまな誘惑があるが、評者から見てなるほどと思ったのは「ネイチャー、サイエンスの誘惑」である。欧米の一流科学誌に論文を発表したいという誘惑は多くの研究者にとってきわめて強いものがある。
 
 一流科学誌に論文が載れば、国内だけでなく、世界的に知名度が上がるし、研究資金の獲得でも一歩先んじることができる。立場の不安定なポスドクの若手にとっては安定したポジションにつく一番の早道でもある。一方で、一流科学誌同士の競争も激しく、とくにネイチャーとサイエンスは(その2誌だけではないが)インパクトのある論文を先に載せようと優秀な研究者の囲い込み競争をしている。2013年にノーベル医学賞を受賞したカリフォルニア大のシェクマン博士はイギリスの新聞ガーディアンに「ネイチャー、セル、サイエンスはいかに科学をだめにしているか」という原稿を寄稿し、3誌への絶筆宣言をしたという。しかし、シェクマン氏自身がこうした科学誌に論文を発表し、ノーベル賞を受賞したのだから、説得力がないと黒木氏は一刀両断にしている。

 「研究不正」には雑誌ごとの論文撤回率のグラフが掲載されている。こうした研究があることは知らなかったが、その科学誌のレベルを示すインパクト・ファクターと論文撤回率の間には相関関係があり、きれいな直線を引くことができるという。ネイチャーはインパクトも高いが撤回率も高いという。

 論文撤回率の国別データの研究(2004~2014年)もあって、撤回率ワースト3はインド、イラン、韓国。ワースト1のインドの論文撤回率は年間0.034%で、約3000に一つの論文が撤回されている。日本はというと中国に次ぐ5位で撤回率は0.0143%、研究大国のアメリカは0.0081%で6位、ドイツは7位で0.0078%。東アジアを中心にアジアで論文撤回が多いのは研究者のモラルだけでなく、研究体制を含めて深刻に考えるべき問題だと思う。日本に比べて研究者の移動も激しく、相互批判も活発な欧米での論文撤回率が日本の半分程度というのは残念ながら日本では、表に出ない「研究不正」がさらに多いのではないかという疑念を持たざるを得ない。

 黒木氏は事例34に「『私』とがん研究を標的にした毎日新聞」として氏自身が標的になった記事を取り上げている。94年10月の毎日新聞夕刊に一週間後に行われる日本癌学会総会で、黒木氏が癌研究がほとんど役に立たないという「勇気ある発言をする」という誤報だ。すぐに毎日に抗議に行ったところ、相手は折れて、「原稿を書かせるから、そこで信念を書いてほしい」(つまり記事に問題があったことは認めるが、誤報だったという訂正は載せないというごまかし)と提案したという。しかし氏は自分で書くことはせず、2ヶ月ほどのちに4回のインタビュー記事を掲載させ、そこで自分の信念「『がん研究はほとんど役に立たない』と報道されたが、決してそんなことはない」と述べたという。

 黒木氏は「最近の新聞の科学記事はしっかりしていると正直思う。しかし、ストーリーに合わせた記事を作り、自分勝手な社会正義を振りかざす危険性は、ジャーナリズムのなかに内包されている。ジャーナリストも、研究不正から学ぶことは多いはずだ」と書いている。新聞社の科学記者OBとして、氏が指摘される通りだと思う。猛省せざるを得ない。

 間違いなく、研究者に限らず、メディアで報道に携わるものにとっても参考にしなければならない一冊である。とくに若手の研究者や若手のジャーナリストにとっては研究倫理や記者倫理を学ぶ上での必読書だと確信する。個人だけでなく、グループや研究室などで取り上げて、議論すればさらに問題点への理解が深まるのではないだろうか。

 巻末には出典資料リストもあり、興味を持った読者がさらに掘り下げていくことも可能な親切な内容となっている。

 最後に評者の感想をひとつ。42におよぶ事例の当事者のほとんどがイニシャル表記されているが、これは実名でも良かったのではないだろうか。実名を避けた理由として「研究不正者の追究でなく、事例から学ぶことと、書物に名前が載ると(書物の寿命である)20年、30年以上にわたって個人とその家族が不名誉にさらされることは本意ではない」と説明されている。確かにその通りだと思うが、単純ミスや思い違いではない研究不正はそれほど重大な倫理違反ではないかとも思うのだが。

 STAP細胞事件については黒木氏も参考資料として挙げた、毎日新聞科学環境部でこの問題を取材してきた須田桃子氏の「捏造の科学者」(文芸春秋)が詳しい。関心を持つ方には是非、一読を勧めたい。