性の進化史 松田洋一 いまヒトの染色体で何が起きているのか。進化生物学の懇切なテキスト
新潮選書なので、啓蒙的な解説書だと思って読み始めたが、かなり教科書的な内容だった。おそらく大学の教養課程レベル。高校で生物を学んでいないと理解するのは難しそうだ。だが、親切な筆者は専門用語も含め、かんでふくめるように解説してくれるので、少し難解な内容も何となく読み進んでしまう。
筆者は1955年生まれの名古屋大学大学院生命農学研究科教授。北大理学部の付属動物染色体研究施設長も務めた染色体進化の専門家だ。大学で1年生の遺伝学の講義を担当していて、理科系の学生でも、「DNA、遺伝子、ゲノム(注:DNAの遺伝情報すべて)、染色体は知っているけれどもその関係がよくわからない、明確にイメージできないという多くの学生にでくわします。特に、染色体に対する大学生の知識と理解は高学年になっても不足しているようです」と述べる。この講義の経験をもとに、テキストとなることを意識して書かれたものだろう。
Y染色体が退化していると警告する論文が2002年2月、英科学誌ネイチャーに掲載された。「性の未来」と題したもので、「『ヒトのY染色体は退化の一途をたどり、やがてY染色体は消失してしまう』という衝撃的な内容でした。Y染色体とは男性だけが持つ、まさしく男性を作る染色体ですから、Y染色体が消えるということは、すなわちこの世から男性が消えてしまうことを意味します」。
論文を発表したのはオーストラリア国立大学のジェニファー・グレイブス博士。性染色体進化研究の世界的権威だ。ヒトのX染色体には現在、1500個くらいの遺伝子が存在しているが、Y染色体にあるのはわずか50個程度。哺乳類の共通祖先が誕生したときにはY染色体にもX染色体と同数の遺伝子があったと考えられるので、「かつてのY染色体に存在したほとんどの遺伝子は傷つき、そして修復されることなく壊れ、その働きが失われていったと考えられています」。遺伝子が失われた速度を計算すると100万年に5個程度、このままでは約1000万年後、すべての遺伝子が消失してしまうという。グレイブス博士は「ヒトのY染色体中の遺伝子がすべて消えるのは500~600万年後と見積りました」。当然ながら、この論文は大きな衝撃を与えた。筆者もそうした論文が発表されたことはかすかに記憶しているが、日本でその後、大きな反響を呼ぶことはなかったと思う。
その少し前、精子数の減少が世界中のメディアに大きく取り上げられていた。デンマーク・コペンハーゲン大学の研究者は1938年から91年にかけて男性の精子数を調べた世界中の61の研究を分析、1992年に、1940年から90年までの50年間に、平均的な精子の総数が3億8400万から1億8200万にまで減少したと発表した。これは記事にしたおぼろげな記憶がある。ただ精子の数は個人差や地域差が大きく、条件をそろえるのが難しいため、全体的には減少傾向にはあるものの、その原因ははっきりしないという趣旨の論文だったような気がする。
精子数についての研究はその後も続き、最近ではイスラエルやアメリカなどの国際研究チームが北米、ヨーロッパとオーストラリア、ニュージーランドでは1973年から2011年にかけて精子数が50%以上低下しているという研究結果をまとめ、2017年に専門誌に発表している。
世界的な精子数の減少傾向とその原因については今も議論が続く。さまざまな食品添加物、農薬などの化学物質、喫煙、電磁波が影響しているという指摘もあるそうだ。いずれも明確な科学的裏付けはなく、まだ結論は出ていない。日本国内でも環境ホルモンと呼ばれる「内分泌かく乱物質」が原因ではないか、とメディアをにぎわせた時代もあった。だが、筆者は「それを裏付ける疫学的なデータはまだほとんど得られていません。また、西欧諸国、つまり高所得の国々で強い傾向がみられることから、肥満やストレス、様々な生活要因が関係している可能性も考えられます」と述べる。
本書の特徴は、性染色体を中心に性の進化に関する最新の研究やトピックス、それをめぐるさまざまな議論をバランスよく紹介していることだ。筆者はグレイブス博士とも旧知のようで、人の良さそうなおばさん風のグレイブス博士と立派な口髭とあご髭をたくわえた筆者とのツーショットが掲載されていてほほえましい。
ヒトの性染色体の話だと思って読んでいると、突然、ゴリラやチンパンジーなど他の動物も出てくる。たとえば婚姻形態。ヒトは一夫一妻制だが、ゴリラはハーレム型複婚(一夫多妻制)、チンパンジーは乱婚制と動物の種によって大きく異なる。
乱婚のチンパンジーはメスが不特定のオスと性交するため、「雌は体内に複数の雄の精子を受け入れることになります。つまり、精子が雌の体内で混じり合い、ひとつの卵子に到達するための精子間競争が起こることになるのです。そのため、チンパンジーの雄が自分の遺伝子を次世代に残すためには、運動能力の高い精子を大量につくり、頻繁に交尾をして雌の体内に自分の精子を送り込む必要があるのです」。
その結果、強くて運動能力のある精子を作り出すため、チンパンジーの睾丸のサイズはゴリラの約4倍あるという、体重比では15倍。チンパンジーの雄はゴリラよりはるかに性的能力が高い。このくだりでは「ヒトの精巣重量の体重比はゴリラよりも数倍も高く、1回の射精あたりの精子数もゴリラの5倍近くになることがわかっています。このことは、乱婚による配偶システムを持つ社会がかつてヒトにも存在した名残である可能性も否定できないことを示しています」と脱線する。こうした情報量の多さ(あるいはささやかな脱線)も本書の特徴のひとつである。
本書には図や写真が多く登場し、内容の理解を助けるが、染色体の写真を見るとX染色体に比べてY染色体があまりに小さいのに驚く。Y染色体の大きさはXの3分の1くらいだろうか。
評者は長年、科学記者をしていたが、この分野の進展にまったく無知だったことに気づかされて驚いた。ヒトの性決定遺伝子が1990年に発見され、SRYと名付けられたことはかろうじて知っていたが、それ以降は知らない。1991年にはこの遺伝子を雌のマウスの受精卵に注入して、精巣を持つ雌のマウスを作り出すことに成功し、SRYが性決定遺伝子であることが証明された。
本書は最新研究の紹介だけでなく、初学者が生物学を勉強するときの手引きとなるよう生物学の発展過程にも詳しく触れている。メンデルの法則と呼ばれる遺伝の基本法則はオーストリアの修道僧メンデルが1865年に発表したが、1900年に別の研究者によって再発見されるまで完全に忘れられていた。こうした、この分野に関心を持つ人の手がかりになりそうな研究の歴史が散りばめられている。章末には「二重らせん構造」など重要用語の説明もあって親切だ。
性染色体にまつわるエピソードは実に豊富だ。「性染色体と遺伝」の第4章では、ヨーロッパ王室と血友病の関係について紹介されている。血友病が男性に多いことは常識だろう。特定の血液凝固因子が作れず、血液が凝固しにくくなる病気だが、患者はほとんどが男性で、女性患者は1%ほど。これはこの凝固因子がX染色体上にあるため、男性がこの因子を受け継ぐと必ず発症するが、女性はX染色体が2つあるので、一方に問題があっても発症せず、保因者のままとなる。
よく知られている例は、英王室から婚姻を通じて血友病の遺伝子がプロシア、ロシア、スペイン王室に持ち込まれた例で、その発端となった保因者はヴィクトリア女王だったとされる。女王には4人の王子と5人の王女がいて王子の1人は発症、さらに保因者となっていた孫娘がロシアのニコライ2世と結婚したことで、生まれた王子も発症した。これがアレクセイ皇太子だ。ニコライ2世一家は2月革命でとらえられ、翌1918年、移送中に赤軍によって銃殺される。埋められた遺体は、1978年に発見され、1994年からDNA鑑定が行われた。性別鑑定、親子鑑定とともに、ミトコンドリアという母系から伝わる遺伝子を使った母系鑑定も行なわれ、最終的にすべての遺骨の身元が特定された。殺害から80年後の1998年7月、皇帝一家の遺骨はサンクトペテルブルクにあるロマノフ家の墓地に埋葬された。当時のエリツィン大統領も出席し、国葬が営まれたという。本書で鑑定の経緯が詳しく記されているのはむろん、世界史をひもとくことではなく、DNA鑑定の威力について述べるためだ。ヨーロッパ王室に広がった血友病だが、現在の英王室に遺伝因子は存在しないという。
第5章では染色体異常をとりあげている。染色体異常というと21番染色体が3本あることで起きるダウン症がよく知られている。ダウン症は高齢出産に多いが、これは1本余分な染色体のほとんどが母親から来ている(約93%)ことに起因しているからだ。出産時の母体年齢とダウン症の発生率の変化のグラフがつけられている。20歳では1925分の1の発生率、30歳では885分の1だが、35歳では365分の1、40歳では110分の1と急増する。「卵子のもとになる原始卵胞はすでに胎児期に形成されていますので、20歳で排卵される卵子は20年、40歳で排卵される細胞は40年のエイジング(加齢)を経た細胞ということになります」。
21番染色体の異常だけがヒトの染色体異常ではない。ダウン症の説明の前には「妊娠胎児と新生児に関するこれまでの臨床調査によれば、ヒトの胎児の流産率は約15%にものぼり、流産胎児の約半数は染色体異常を持っていることがわかっています。そして、子宮に着床した胎児が持つ染色体異常の頻度は8%にもおよびます。そのうち7.5%が流産という形で出生前に失われるため、それを差し引いた約0.5%の胎児が、染色体異常を持った新生児として誕生することとなります」。
記述はあくまで客観的だ。科学的なデータを説明するだけで、判断を押し付けたり、誘導しないのも本書の特徴だ。データを把握、理解したうえで、それぞれの判断をという立場なのだろう。
第6章から10章は性決定様式と性染色体の進化について。筆者の研究に近い分野だ。それだけ記述に熱が入るが、内容はかなり専門的だ。「難しいと思われた方は、結びの第11章、12章に進んでいただいてもけっっこうです」とやさしいが、何とか食らいついていく。
第6章は「『性』はどのようにして決まるのか」。ここでは性を決定する仕組みについての内外の研究が紹介される。「哺乳類の場合、雌が基本形(デフォルト=本来のプログラム)であり、雄化する仕組みが働かなければ、雌になることがわかっています。雄と雌の違いはY染色体上のたったひとつの雄性(精巣)決定遺伝子であるSRYの有無によって決まります」。男性優位社会と言うが、デフォルトは女性なのだ。
6章から10章では日本人の研究も詳しく紹介されている。第7章「性染色体の進化過程」の冒頭にはアメリカで活躍した世界的な進化生物学者・大野乾(すすむ)博士(2000年没)の写真も掲げられている。博士は「性染色体はもともと常染色体に由来し、一方の染色体が退化あるいは矮小化して異型の性染色体に分化したと考えました」。この仮説はその後、正しいことが証明された。
「哺乳類のX染色体は、ゲノム全体の5%くらいを占めるといわれています。この特徴は、X染色体を持つ哺乳類のほとんどの種において共通にみられ、この共通性は、このことを見つけた故・大野乾博士の名にちなんで、『Ohnoの法則』と呼ばれています。(中略)ヒト、マウス、ネコ、ウマなど多くの哺乳類でX染色体に連鎖する遺伝子を比較すると、哺乳類のX染色体は種の違いを超えて遺伝的に同じであることがわかっています」。同じ哺乳類の共通の祖先から進化していった結果だろう。こうした研究から、哺乳類の祖先が鳥類や爬虫類の祖先と別れたのは約3億2000万年前、SRY遺伝子が出現したのは約1億7000万年前から1億3000万年前と考えられている。
第9章の「性染色体のミステリー」では三毛猫がなぜ雌ばかりなのかの理由が遺伝子レベルから明かされる。簡単に説明するのは難しいので、興味のある方は、本書を読んでいただきたい。
第10章「進化の大きな分かれ道」では哺乳類がいかに胎盤を獲得したかが説明される。「他の脊椎動物には見られず、哺乳類だけが持つ特徴の一つに胎盤(子宮の内壁にでき、赤ちゃんに栄養を送る器官)があります」。恐竜全盛時代、「細々と生き延びてきたネズミのような小さな哺乳類の祖先は、その生き残り戦略の一つとして、胎盤を獲得することに成功しました。彼らは胎盤を持つことによって子供を体内にかかえ、いつでも安全な場所に移動することで、(中略)恐竜の全盛時代を生き延びることができたと考えられています」。
胎盤を生み出す遺伝子の研究で、胎盤を作るのには父親から受け継いだ遺伝子の働きが重要で、母親から受け継いだ遺伝子は胎児を形成するのに重要だということがわかってきた。つまり、哺乳類には父親と母親の両方の遺伝子が不可欠で、両者の遺伝子が互いの機能を補い合ってバランスよく働くというわけだ。これはゲノムインプリンティング(ゲノム刷り込み)という哺乳類特有の遺伝子発現調整機構という。こうした仕組みがあるため、哺乳類の場合は両性の存在が必須になる。
こうしたことから、「精子の関与なしに卵子だけで発生して個体をつくりあげる、いわゆる単為発生は哺乳類では起こらないことになります。一方、鳥類や爬虫類は、このゲノムインプリンティングの機構をもたないため、単為発生ができることになるわけです」。ゲノムインプリンティングというのもまったく聞いたことがなかった。
「こうしたDNAの塩基配列の変化をともなわない個体発生の多様な生命現象と、その遺伝子発現制御のメカニズムを探求する研究分野を『エピジェネティクス』(後成遺伝学)と呼んでいます。各種生物のゲノムの解読が進んだ2000年代以降、新たな研究分野として注目されるようになりました」。ゲノム解読が進んだことで誕生したまったく新しい研究分野のようだ。
さて、筆者はグレイブス博士が提起したY染色体の退化や消滅についてはどう考えているのだろうか。「わたしはグレイブス博士の説には少々疑問を持っています。哺乳類が長い進化の過程で獲得し維持してきた性決定様式が、そう簡単に崩壊し消滅してしまうとは考えられないからです」。安心していいかどうかはわからないが、筆者の考えていることは何となく理解できる気もする。
最終章は「生殖補助医療と人類の未来」。ここでは生殖補助医療の進歩で、従来なら絶対不妊とされた無精子症の人でも子供をもつ展望が生まれたこと、逆にそうした遺伝子の脆弱性が次世代に伝えられていく危険性について述べられている。万能細胞と呼ばれるES細胞やiPS細胞を利用した研究や医療の可能性についても紹介されている。さらにゲノム編集と呼ばれる新技術が登場し、ヒトへの応用が無秩序に適用される危険性への強い懸念も表明されている。
ゲノム編集の技術はクリスパーCAS9と呼ばれ、このブログでも紹介した(「クリスパー」2018年2月21日)が、開発者の懸念が現実になるようなヒトへの応用が中国で実施されたと発表された。生命倫理をめぐる本書の記述は物足りないが、教科書的に網羅した新分野や技術の紹介なので、仕方がないのかもしれない。
よくこれだけの内容を260頁あまりに詰め込んだものだ。急進展しているこの分野の研究、あるいはそれを理解するための基礎知識を得るためには絶好の一冊だ。途中、理解が難しいところも何箇所か登場するが、筆者が勧めるように適宜、読み飛ばしていけばいいのだろう。評者も最低限の生物学は学んだし、科学記者として一定の取材経験はあるが、この分野がこれほど急速に発展していることは知らなかった。初学者に理解しやすいよう興味深いトピックスを紹介し、読者を最後まで引っ張っていく筆者の努力には感謝したい。ただ高校レベルの生物学の知識は前提にしているので、あまり難しいようなら教科書か別の啓蒙書を先に読むほうがいいかもしれない。最後になるが、本書は2018年の毎日出版文化賞(自然科学部門)を受賞している。