ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

性の進化史 松田洋一 染色体を中心に生物の性の進化の歩みをたどる

2019年01月27日 | 読書日記

性の進化史 松田洋一 いまヒトの染色体で何が起きているのか。進化生物学の懇切なテキスト

 新潮選書なので、啓蒙的な解説書だと思って読み始めたが、かなり教科書的な内容だった。おそらく大学の教養課程レベル。高校で生物を学んでいないと理解するのは難しそうだ。だが、親切な筆者は専門用語も含め、かんでふくめるように解説してくれるので、少し難解な内容も何となく読み進んでしまう。

 筆者は1955年生まれの名古屋大学大学院生命農学研究科教授。北大理学部の付属動物染色体研究施設長も務めた染色体進化の専門家だ。大学で1年生の遺伝学の講義を担当していて、理科系の学生でも、「DNA、遺伝子、ゲノム(注:DNAの遺伝情報すべて)、染色体は知っているけれどもその関係がよくわからない、明確にイメージできないという多くの学生にでくわします。特に、染色体に対する大学生の知識と理解は高学年になっても不足しているようです」と述べる。この講義の経験をもとに、テキストとなることを意識して書かれたものだろう。

 それにしても性染色体の研究が近年、これほど大きく進んでいるとは知らなかった。本書のキーワードは副題にある「いまヒトの染色体で何が起きているのか」。染色体の中でも性染色体のひとつY染色体を中心に話が進んでいく。雌雄(メスとオス)がいる個体ではXとYという性染色体が存在する。このうちY染色体は男性となることを決める性染色体だ。ヒトの染色体は全部で46本あるが、44本は22の対になっているので残る2本が性染色体となる。男性の場合、XYの組み合わせで、女性はXXの組み合わせ。Y染色体があることで男性性が獲得されるわけだ。

 Y染色体が退化していると警告する論文が2002年2月、英科学誌ネイチャーに掲載された。「性の未来」と題したもので、「『ヒトのY染色体は退化の一途をたどり、やがてY染色体は消失してしまう』という衝撃的な内容でした。Y染色体とは男性だけが持つ、まさしく男性を作る染色体ですから、Y染色体が消えるということは、すなわちこの世から男性が消えてしまうことを意味します」。

 論文を発表したのはオーストラリア国立大学のジェニファー・グレイブス博士。性染色体進化研究の世界的権威だ。ヒトのX染色体には現在、1500個くらいの遺伝子が存在しているが、Y染色体にあるのはわずか50個程度。哺乳類の共通祖先が誕生したときにはY染色体にもX染色体と同数の遺伝子があったと考えられるので、「かつてのY染色体に存在したほとんどの遺伝子は傷つき、そして修復されることなく壊れ、その働きが失われていったと考えられています」。遺伝子が失われた速度を計算すると100万年に5個程度、このままでは約1000万年後、すべての遺伝子が消失してしまうという。グレイブス博士は「ヒトのY染色体中の遺伝子がすべて消えるのは500~600万年後と見積りました」。当然ながら、この論文は大きな衝撃を与えた。筆者もそうした論文が発表されたことはかすかに記憶しているが、日本でその後、大きな反響を呼ぶことはなかったと思う。

 その少し前、精子数の減少が世界中のメディアに大きく取り上げられていた。デンマーク・コペンハーゲン大学の研究者は1938年から91年にかけて男性の精子数を調べた世界中の61の研究を分析、1992年に、1940年から90年までの50年間に、平均的な精子の総数が3億8400万から1億8200万にまで減少したと発表した。これは記事にしたおぼろげな記憶がある。ただ精子の数は個人差や地域差が大きく、条件をそろえるのが難しいため、全体的には減少傾向にはあるものの、その原因ははっきりしないという趣旨の論文だったような気がする。

 精子数についての研究はその後も続き、最近ではイスラエルやアメリカなどの国際研究チームが北米、ヨーロッパとオーストラリア、ニュージーランドでは1973年から2011年にかけて精子数が50%以上低下しているという研究結果をまとめ、2017年に専門誌に発表している。

 世界的な精子数の減少傾向とその原因については今も議論が続く。さまざまな食品添加物、農薬などの化学物質、喫煙、電磁波が影響しているという指摘もあるそうだ。いずれも明確な科学的裏付けはなく、まだ結論は出ていない。日本国内でも環境ホルモンと呼ばれる「内分泌かく乱物質」が原因ではないか、とメディアをにぎわせた時代もあった。だが、筆者は「それを裏付ける疫学的なデータはまだほとんど得られていません。また、西欧諸国、つまり高所得の国々で強い傾向がみられることから、肥満やストレス、様々な生活要因が関係している可能性も考えられます」と述べる。

 本書の特徴は、性染色体を中心に性の進化に関する最新の研究やトピックス、それをめぐるさまざまな議論をバランスよく紹介していることだ。筆者はグレイブス博士とも旧知のようで、人の良さそうなおばさん風のグレイブス博士と立派な口髭とあご髭をたくわえた筆者とのツーショットが掲載されていてほほえましい。

 ヒトの性染色体の話だと思って読んでいると、突然、ゴリラやチンパンジーなど他の動物も出てくる。たとえば婚姻形態。ヒトは一夫一妻制だが、ゴリラはハーレム型複婚(一夫多妻制)、チンパンジーは乱婚制と動物の種によって大きく異なる。

 乱婚のチンパンジーはメスが不特定のオスと性交するため、「雌は体内に複数の雄の精子を受け入れることになります。つまり、精子が雌の体内で混じり合い、ひとつの卵子に到達するための精子間競争が起こることになるのです。そのため、チンパンジーの雄が自分の遺伝子を次世代に残すためには、運動能力の高い精子を大量につくり、頻繁に交尾をして雌の体内に自分の精子を送り込む必要があるのです」。

 その結果、強くて運動能力のある精子を作り出すため、チンパンジーの睾丸のサイズはゴリラの約4倍あるという、体重比では15倍。チンパンジーの雄はゴリラよりはるかに性的能力が高い。このくだりでは「ヒトの精巣重量の体重比はゴリラよりも数倍も高く、1回の射精あたりの精子数もゴリラの5倍近くになることがわかっています。このことは、乱婚による配偶システムを持つ社会がかつてヒトにも存在した名残である可能性も否定できないことを示しています」と脱線する。こうした情報量の多さ(あるいはささやかな脱線)も本書の特徴のひとつである。

 本書には図や写真が多く登場し、内容の理解を助けるが、染色体の写真を見るとX染色体に比べてY染色体があまりに小さいのに驚く。Y染色体の大きさはXの3分の1くらいだろうか。

 評者は長年、科学記者をしていたが、この分野の進展にまったく無知だったことに気づかされて驚いた。ヒトの性決定遺伝子が1990年に発見され、SRYと名付けられたことはかろうじて知っていたが、それ以降は知らない。1991年にはこの遺伝子を雌のマウスの受精卵に注入して、精巣を持つ雌のマウスを作り出すことに成功し、SRYが性決定遺伝子であることが証明された。

 本書は最新研究の紹介だけでなく、初学者が生物学を勉強するときの手引きとなるよう生物学の発展過程にも詳しく触れている。メンデルの法則と呼ばれる遺伝の基本法則はオーストリアの修道僧メンデルが1865年に発表したが、1900年に別の研究者によって再発見されるまで完全に忘れられていた。こうした、この分野に関心を持つ人の手がかりになりそうな研究の歴史が散りばめられている。章末には「二重らせん構造」など重要用語の説明もあって親切だ。

 性染色体にまつわるエピソードは実に豊富だ。「性染色体と遺伝」の第4章では、ヨーロッパ王室と血友病の関係について紹介されている。血友病が男性に多いことは常識だろう。特定の血液凝固因子が作れず、血液が凝固しにくくなる病気だが、患者はほとんどが男性で、女性患者は1%ほど。これはこの凝固因子がX染色体上にあるため、男性がこの因子を受け継ぐと必ず発症するが、女性はX染色体が2つあるので、一方に問題があっても発症せず、保因者のままとなる。

 よく知られている例は、英王室から婚姻を通じて血友病の遺伝子がプロシア、ロシア、スペイン王室に持ち込まれた例で、その発端となった保因者はヴィクトリア女王だったとされる。女王には4人の王子と5人の王女がいて王子の1人は発症、さらに保因者となっていた孫娘がロシアのニコライ2世と結婚したことで、生まれた王子も発症した。これがアレクセイ皇太子だ。ニコライ2世一家は2月革命でとらえられ、翌1918年、移送中に赤軍によって銃殺される。埋められた遺体は、1978年に発見され、1994年からDNA鑑定が行われた。性別鑑定、親子鑑定とともに、ミトコンドリアという母系から伝わる遺伝子を使った母系鑑定も行なわれ、最終的にすべての遺骨の身元が特定された。殺害から80年後の1998年7月、皇帝一家の遺骨はサンクトペテルブルクにあるロマノフ家の墓地に埋葬された。当時のエリツィン大統領も出席し、国葬が営まれたという。本書で鑑定の経緯が詳しく記されているのはむろん、世界史をひもとくことではなく、DNA鑑定の威力について述べるためだ。ヨーロッパ王室に広がった血友病だが、現在の英王室に遺伝因子は存在しないという。

 第5章では染色体異常をとりあげている。染色体異常というと21番染色体が3本あることで起きるダウン症がよく知られている。ダウン症は高齢出産に多いが、これは1本余分な染色体のほとんどが母親から来ている(約93%)ことに起因しているからだ。出産時の母体年齢とダウン症の発生率の変化のグラフがつけられている。20歳では1925分の1の発生率、30歳では885分の1だが、35歳では365分の1、40歳では110分の1と急増する。「卵子のもとになる原始卵胞はすでに胎児期に形成されていますので、20歳で排卵される卵子は20年、40歳で排卵される細胞は40年のエイジング(加齢)を経た細胞ということになります」。

 21番染色体の異常だけがヒトの染色体異常ではない。ダウン症の説明の前には「妊娠胎児と新生児に関するこれまでの臨床調査によれば、ヒトの胎児の流産率は約15%にものぼり、流産胎児の約半数は染色体異常を持っていることがわかっています。そして、子宮に着床した胎児が持つ染色体異常の頻度は8%にもおよびます。そのうち7.5%が流産という形で出生前に失われるため、それを差し引いた約0.5%の胎児が、染色体異常を持った新生児として誕生することとなります」。

 記述はあくまで客観的だ。科学的なデータを説明するだけで、判断を押し付けたり、誘導しないのも本書の特徴だ。データを把握、理解したうえで、それぞれの判断をという立場なのだろう。

 第6章から10章は性決定様式と性染色体の進化について。筆者の研究に近い分野だ。それだけ記述に熱が入るが、内容はかなり専門的だ。「難しいと思われた方は、結びの第11章、12章に進んでいただいてもけっっこうです」とやさしいが、何とか食らいついていく。

 第6章は「『性』はどのようにして決まるのか」。ここでは性を決定する仕組みについての内外の研究が紹介される。「哺乳類の場合、雌が基本形(デフォルト=本来のプログラム)であり、雄化する仕組みが働かなければ、雌になることがわかっています。雄と雌の違いはY染色体上のたったひとつの雄性(精巣)決定遺伝子であるSRYの有無によって決まります」。男性優位社会と言うが、デフォルトは女性なのだ。

 6章から10章では日本人の研究も詳しく紹介されている。第7章「性染色体の進化過程」の冒頭にはアメリカで活躍した世界的な進化生物学者・大野乾(すすむ)博士(2000年没)の写真も掲げられている。博士は「性染色体はもともと常染色体に由来し、一方の染色体が退化あるいは矮小化して異型の性染色体に分化したと考えました」。この仮説はその後、正しいことが証明された。

 「哺乳類のX染色体は、ゲノム全体の5%くらいを占めるといわれています。この特徴は、X染色体を持つ哺乳類のほとんどの種において共通にみられ、この共通性は、このことを見つけた故・大野乾博士の名にちなんで、『Ohnoの法則』と呼ばれています。(中略)ヒト、マウス、ネコ、ウマなど多くの哺乳類でX染色体に連鎖する遺伝子を比較すると、哺乳類のX染色体は種の違いを超えて遺伝的に同じであることがわかっています」。同じ哺乳類の共通の祖先から進化していった結果だろう。こうした研究から、哺乳類の祖先が鳥類や爬虫類の祖先と別れたのは約3億2000万年前、SRY遺伝子が出現したのは約1億7000万年前から1億3000万年前と考えられている。

 第9章の「性染色体のミステリー」では三毛猫がなぜ雌ばかりなのかの理由が遺伝子レベルから明かされる。簡単に説明するのは難しいので、興味のある方は、本書を読んでいただきたい。

 第10章「進化の大きな分かれ道」では哺乳類がいかに胎盤を獲得したかが説明される。「他の脊椎動物には見られず、哺乳類だけが持つ特徴の一つに胎盤(子宮の内壁にでき、赤ちゃんに栄養を送る器官)があります」。恐竜全盛時代、「細々と生き延びてきたネズミのような小さな哺乳類の祖先は、その生き残り戦略の一つとして、胎盤を獲得することに成功しました。彼らは胎盤を持つことによって子供を体内にかかえ、いつでも安全な場所に移動することで、(中略)恐竜の全盛時代を生き延びることができたと考えられています」。

  胎盤を生み出す遺伝子の研究で、胎盤を作るのには父親から受け継いだ遺伝子の働きが重要で、母親から受け継いだ遺伝子は胎児を形成するのに重要だということがわかってきた。つまり、哺乳類には父親と母親の両方の遺伝子が不可欠で、両者の遺伝子が互いの機能を補い合ってバランスよく働くというわけだ。これはゲノムインプリンティング(ゲノム刷り込み)という哺乳類特有の遺伝子発現調整機構という。こうした仕組みがあるため、哺乳類の場合は両性の存在が必須になる。

 こうしたことから、「精子の関与なしに卵子だけで発生して個体をつくりあげる、いわゆる単為発生は哺乳類では起こらないことになります。一方、鳥類や爬虫類は、このゲノムインプリンティングの機構をもたないため、単為発生ができることになるわけです」。ゲノムインプリンティングというのもまったく聞いたことがなかった。

 「こうしたDNAの塩基配列の変化をともなわない個体発生の多様な生命現象と、その遺伝子発現制御のメカニズムを探求する研究分野を『エピジェネティクス』(後成遺伝学)と呼んでいます。各種生物のゲノムの解読が進んだ2000年代以降、新たな研究分野として注目されるようになりました」。ゲノム解読が進んだことで誕生したまったく新しい研究分野のようだ。

 さて、筆者はグレイブス博士が提起したY染色体の退化や消滅についてはどう考えているのだろうか。「わたしはグレイブス博士の説には少々疑問を持っています。哺乳類が長い進化の過程で獲得し維持してきた性決定様式が、そう簡単に崩壊し消滅してしまうとは考えられないからです」。安心していいかどうかはわからないが、筆者の考えていることは何となく理解できる気もする。

 最終章は「生殖補助医療と人類の未来」。ここでは生殖補助医療の進歩で、従来なら絶対不妊とされた無精子症の人でも子供をもつ展望が生まれたこと、逆にそうした遺伝子の脆弱性が次世代に伝えられていく危険性について述べられている。万能細胞と呼ばれるES細胞やiPS細胞を利用した研究や医療の可能性についても紹介されている。さらにゲノム編集と呼ばれる新技術が登場し、ヒトへの応用が無秩序に適用される危険性への強い懸念も表明されている。

 ゲノム編集の技術はクリスパーCAS9と呼ばれ、このブログでも紹介した(「クリスパー」2018年2月21日)が、開発者の懸念が現実になるようなヒトへの応用が中国で実施されたと発表された。生命倫理をめぐる本書の記述は物足りないが、教科書的に網羅した新分野や技術の紹介なので、仕方がないのかもしれない。

 よくこれだけの内容を260頁あまりに詰め込んだものだ。急進展しているこの分野の研究、あるいはそれを理解するための基礎知識を得るためには絶好の一冊だ。途中、理解が難しいところも何箇所か登場するが、筆者が勧めるように適宜、読み飛ばしていけばいいのだろう。評者も最低限の生物学は学んだし、科学記者として一定の取材経験はあるが、この分野がこれほど急速に発展していることは知らなかった。初学者に理解しやすいよう興味深いトピックスを紹介し、読者を最後まで引っ張っていく筆者の努力には感謝したい。ただ高校レベルの生物学の知識は前提にしているので、あまり難しいようなら教科書か別の啓蒙書を先に読むほうがいいかもしれない。最後になるが、本書は2018年の毎日出版文化賞(自然科学部門)を受賞している。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の最も美しい赤レンガの名建築 全国の赤レンガ建築を美しい写真で紹介

2019年01月16日 | 読書日記

日本の最も美しい赤レンガの名建築 歴史的建物研究会著 北海道から九州まで赤レンガ建築を網羅したガイドブック

 

 表紙は2003年に重要文化財に指定された東京駅丸の内駅舎。「大正3(1914)年の開業以来、関東大震災や戦災に見舞われながらも壊滅的な破壊を受けることはなかった」。戦後間もなく、再建されたが、創建当時の姿ではなかったため、2007年から復元工事が始まり、2012年に完成した。皇居方向にある丸ビル側から見ると、全長335メートル、高さ35メートルの優美な姿を眺めることができる。評者も東京駅を訪れるたび、その美しさに感嘆する。

 正面は皇室専用で、出入口として利用できるのは北口と南口。北口には東京ステーションギャラリーがあり、美術展が開かれている。中に入ると創建当時の赤レンガを直に見ることもできる。

 日本初の鉄道は新橋ー横浜間で明治5(1872)年開業。明治22(1889)年には東海道線(新橋ー神戸)間が、明治24(1891)年には東北線(上野ー青森)が開業した。そのスピードに驚くが、中央停車場となる東京駅の完成は鉄道開業から40年以上も遅れていたことになる。「駅舎は行幸(ぎょうこう)通りにより皇居と直結され、皇室の専用口も設けられるなど、『国家の中心駅』『天皇の駅』としての色が打ち出された。この当時栄えていた日本橋、京橋に通じる八重洲側に出入口を設けなかったことに国の意志が表れている。ちなみに八重洲側に出入口が設けられたのは開業から15年後の昭和4(1929)年のことである」。

 単なる美しい写真集ではなく、建築専門の出版社から出され、建築や建築史の専門家が編集しているだけあって、歴史にも詳しい。門外漢が「驚くような」トリビアに満ちていることも本書の魅力のひとつだろう。

 東京駅の設計は「日本近代建築の父」といわれる辰野金吾。お雇い外国人のイギリス人建築家ジョサイア・コンドルに学んだ後、イギリスに留学。帰国後は工部大学校(東大工学部の前身)教授となって数多くの建築を設計したほか、後進の指導にもあたった。日本銀行本店や京都支店など公共建築のほか、奈良ホテルなど民間の建築も手がけている。そういえば南海電鉄浜寺公園駅駅舎(大阪府堺市)も彼の作品だという。

 冒頭に「煉瓦建築・人物伝」という人物紹介があり、辰野のほか、明治建築界三大巨匠として、旧横浜正金銀行(現・神奈川県立博物館)を設計した妻木頼黄(つまきよりなか)や、三大巨匠ではないが、大工から独学で建築を勉強し、長崎・五島列島などに多くの教会堂を建てた鉄川与助の事績が紹介されている。「5分でわかる煉瓦建築物の見方」や、煉瓦の積み方についての簡単な解説もついていて知識が広がる。煉瓦の積み方にイギリス積み、フランス積み、アメリカ積み、ドイツ積みといった違いがあることはまったく知らなかった。

 赤レンガ建築物の紹介は地域別になっていてわかりやすい。北海道から九州まで全部で75カ所。初めは関東編。東京が10カ所、神奈川が3カ所など全部で20カ所だ。

 冒頭に登場するのが東京駅丸の内駅舎。2番目が丸の内南口にある三菱一号館美術館。三菱が政府から丸の内一帯の払い下げを受け、お雇い外国人だったコンドルを顧問に設計させた建物だ。コンドルは有名な鹿鳴館の設計にも当たっている。三菱一号館は明治27(1894)年に竣工したが、昭和43(1968)年、老朽化を理由に解体されてしまった。だが、丸の内一帯の再開発に伴い、当時の図面などをもとに2010年に復元された。創建当初はオフィスビルだったが、生まれ変わった現在は美術館。主要部はともかく、図面が残っていない細部はコンドルが設計した別の建築作品をもとに復元されたという。展示室は現代の感覚からするとやや狭く感じるが、当時のオフィスはこうだったのかと思うと納得できる。復元建築物の紹介はこの三菱一号館だけだ。

 3番目は霞が関にある法務省旧本館。ここは江戸時代、米沢藩上杉家の上屋敷だったところだ。現在は法務総合研究所などとして使われている。

 4番目は池袋駅に近い立教大学本館・礼拝堂などが登場する。大正期の煉瓦建築群で米国聖公会の寄付で大正8(1919)年に落成した。写真を見ると蔦が絡まって、独特の雰囲気のある素晴らしい建物だ。科学記者だった評者は取材でいろいろな大学のキャンパスを訪れているが、残念ながら立教には行ったことがない。池袋駅から徒歩圏なので、一度訪ねてみたいものだ。

 5番目は東京芸術大学赤レンガ1・2号館。6番目は東京国立近代美術館工芸館。いずれも訪れたことがある。工芸館は近代美術館の分館という扱いなので何度も訪ねている。北の丸公園にあり、旧近衛師団司令部があったところだ。

 ここまではほとんどが知っているが、次の旧三河島汚水処分場施設は場所の見当もつかない。わが国初の近代汚水処理場で、20年前までは現役だったそうだ。現在は三河島水再生センターと名前を変えている。桜の名所だそうで、桜の季節に行くといいのかもしれない。「近代下水処理場の代表的遺構」として重要文化財に指定されているそうだ。

 このあたりから知らない建物ばかりになる。10番目に登場するガスミュージアムは東京瓦斯旧本郷出張所などの建物が東京西郊の小平市に移築されたものだ。明治末期に建てられた美しい建物なので機会があれば行ってみたいものだ。

 東京編の最後には「東京煉瓦散歩」という都内のレンガ建築の紹介がある。駒込にある六義園の煉瓦塀や慶應義塾大学の図書館旧館などが紹介されている。JR高架下という紹介もあって、「新橋ー有楽町」「有楽町ー東京」、神田、秋葉原周辺など高架下の煉瓦構造が簡単に紹介されている。そういえば幾度かこのあたりを歩いて、古い煉瓦構造がそのまま残っているのに気づいて懐かしい気がした。

 神奈川県は横浜赤レンガ倉庫など3カ所。赤レンガ倉庫や横浜市開港記念会館には行ったことがあるが、横須賀市の猿島砲台跡は知らない。東京湾にあるので三笠桟橋から10分ほど船に乗らないと行けないようだ。

 関東編で行かないといけない、と思ったのは群馬県富岡市にある旧富岡製糸場。2014年に世界文化遺産に登録されて一躍有名になったが、広い構内にはいくつもの建物がある。世界遺産に登録された年、繰糸所(そうししょ)と西置繭所(にしおきまゆしょ)、東置繭所の3棟が国宝に指定されたそうだ。繰糸所は全長140メートルの縦長の建物。2つの置繭所も同じ長さの建物で、全体がコの字形に配置されている。完成は明治5(1872)年というから日本の近代化の歩みそのものだ。当時のお雇いフランス人一家が暮らした首長館、やはりフランス人が暮らした検査人館、日本人の工女に技術を教えるためにフランスから招いた女性の住まいの女工館も残っているそうだ。フランス人の工女4人はいずれも任期を待たずに帰国してしまい、せっかくの女工館はすぐに空き家になってしまったそうだ。富岡製糸場を建物の歴史から振り返ることはまったく思いつかなかった。

 中部編では、幕末に鉄製の大砲を鋳造した静岡県伊豆の国市の韮山反射炉も紹介されている。ここも訪れたことがある。高さ15.7メートルの立派な施設だった。

 近畿編のトップは京都国立博物館の明治古都館。明治28(1895)年に竣工した赤煉瓦の美しい建物だ。設計は片山東熊。辰野、妻木と並ぶ明治の3大建築家の1人だ。現在は国宝に指定されている赤坂迎賓館(旧東宮御所)、奈良国立博物館なら仏像館(旧本館)。東京国立博物館表慶館などの設計で知られる。京博は正門や袖塀もきれいな煉瓦作りだが、すべて片山の設計になる。評者は京都で学生時代を過ごしたので、京博の建物はひときわ懐かしく感じる。

 この建物にもエピソードがある。最初は3階建ての予定だったが、明治24(1891)年の濃尾地震で煉瓦造り2階建ての建物に被害が多かったため、平屋建てに変更されたという。

 関東大震災では当時の東京で唯一の高層建築物だった浅草の通称「十二階」(凌雲閣)に大きな被害が出たため、震災以後は煉瓦作りの高層建築物は見られなくなった。赤煉瓦建築の優美さと耐震性の両立は難しかったようだ。

 京都では同志社大学キャンパスに赤煉瓦の美しい建物が多く残っている。隣接する同志社女子大ジェームズ館も含め、多くは文化財に指定されているが、そのまま利用されている。

 評者がとりわけ懐かしかったのは南禅寺の境内にある水路閤。琵琶湖から京都に水を引く琵琶湖疏水分線の水路橋だ。南禅寺はいつも多くの観光客でにぎわっているので、境内の水路閣を目にした人も多いはずだ。明治23(1890)年に完成した琵琶湖疏水も赤煉瓦構造物の代表として詳しく紹介されている。

 大阪の代表的な赤煉瓦建築といえば誰もが思い浮かべるのが中之島にある大阪市中央公会堂。日本初の設計コンペ方式で岡田信一郎の原案に決まり、大正7(1918)年に竣工した。この公会堂が1人の民間人の寄付でできたことは広く知られているが、その影に不幸な歴史があることは知らなかった。「義侠の相場師」と呼ばれた岩本栄之助は渡米して、彼の地の大富豪が慈善事業や公共事業への寄付を惜しまないことを知って感激、明治の末に100万円(現在の数十億円)を大阪市に寄付し、これが建設の原資となった。ところが岩本は寄付の後、第一次大戦の高騰相場で莫大な損失を出し、大正5(1916)年、拳銃自殺して39歳の若さで世を去る。公会堂が完成するのはその2年後のことである。

 評者がかねてから行ってみたいと思っているのは広島県江田島市にある海上自衛隊第一術科学校・幹部候補生学校庁舎(旧海軍兵学校生徒館)。海軍兵学校は最初、東京・築地にあったが明治21(1888)年、江田島に移転。生徒館は同26(1893)年に建設された。広島宇品港から船とバスを乗り継ぐので、アクセスはあまり良くないが機会があれば是非、訪ねてみたいものだ。

 赤煉瓦の建物を地域別に見ると、九州の建物にはほとんど行っていないのが残念だ。佐賀県唐津市の旧唐津銀行本店は唐津市出身の辰野金吾が愛弟子に設計させた建物だという。

 長崎県では長崎造船所資料館と長崎の赤煉瓦教会群が紹介されている。教会群は、平戸市の田平(たびら)教会、佐世保市黒島にある黒島教会、五島列島の堂崎教会や青砂ケ浦教会など。このうちのいくつかは大工出身の建築家・鉄川与助の設計・施工になるもので、一部は2018年に世界文化遺産に指定されたキリシタン禁教期の貴重な遺産にも含まれている。

 五島列島や黒島など交通不便な場所が多いので、評者も訪ねることができたのはわずかだ。だが、岬の最果てにある小さな教会を訪れると、教会が地域の信仰の象徴であることを知って深い感銘を受けた。東シナ海に面した静謐な墓地にある、十字架を形どった墓のいくつかが大戦の出征兵士のものだったことを知って、歴史の厳しい現実を思い知ったこともあった。

 各地に残る赤煉瓦建築は明治以降の日本近代化の150年を象徴するものだ。赤煉瓦建築の優美さに触れるとともに、急速な近代化が忘れてきたもの、残して来たものなどに思いを致すのもいい機会かもしれない。本書は赤煉瓦建築の美しい写真集としてだけでなく、日本がイダテンのように駆け抜けてきた近現代の貴重な足跡や証言としてみることもできるはずだ。紹介された建物にはすべて簡単な地図と連絡先、アクセスの案内がついている。ガイドブックとしても親切で、よくできた構成だと思う。筆者の赤煉瓦建築物への深い愛情と尊敬が伝わってきて、感心した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦争の日本古代史 白村江の戦いとは何だったのか、朝鮮半島との負の交流の検証

2019年01月14日 | 読書日記

戦争の日本古代史 倉本一宏 好太王碑にさかのぼる日本と朝鮮半島の負の歴史を考える試み

 倉本氏の名前は「日本史の論点」(2018年11月27日付けで紹介)を読んで初めて知った。京都にある国際日本文化研究センター(日文研)の教授。古代史は邪馬台国論争に明け暮れるなど古い学問だと思いこんでいたが、まったく誤りと知って不勉強を恥じた。

 本書は2017年5月の発行。評者が書店で手にとった時点ですでに7刷り。好評を得たようで、「内戦の日本古代史」という続編も出ている(評者は未見)。サブタイトルが「好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」とある。

 いずれも評者が、遠い高校生時代の日本史教科書で取り上げられていたテーマだ。たまたま昨年末に韓国を旅行したこともあって、読みたくなった。表紙に「白村江 史上最大の『敗戦』」とある。もちろん白村江(はくそんこう)の戦いで、大和朝廷軍が唐、新羅連合軍に大敗したことは知っていた。やや大げさな表現だと思ったが、読んでみてなるほどとうなづいた。折からさまざまな問題で日韓の摩擦が絶えないが、その淵源はこの時代から始まっているというのが筆者の基本的な立場だ。

 「はじめに」で筆者の認識が明らかにされる。「日本列島の場合、中国大陸や朝鮮半島から『ほどよい距離の島国』であったがため、大陸や半島における戦国時代の動乱の影響を受けずにいられた。外国勢力から見ても、わざわざ海を渡って日本列島を侵略するほどの熱意は生まなかったであろう」。

 「大和盆地南東部に統一政権(倭王権)が誕生したのは三世紀中葉から後半のこととされる。そして国内で鉄が生産できるようになる六世紀までのあいだ、朝鮮半島南部の加椰(かや)地方の鉄をめぐって、倭国は朝鮮諸国と深く関わることになる」。

 大和朝廷の朝鮮半島とのかかわりが鉄の入手が主目的だったことは初めて知った。「四世紀後半に朝鮮半島南西部の百済(ひゃくさい)から出兵要請を受けた倭国は、四世紀末から五世紀初頭にかけて半島に出兵し、半島北部の高句麗(こうくり)と戦い、大敗を喫した」。

 「七世紀後半、中国の唐と新羅(しんら)の連合軍によって滅ぼされた百済を復興するため、朝鮮半島に大軍を派遣した。白村江において唐・新羅連合軍と戦ったが、おそらくは日本史上最大の敗戦となった。この敗戦を契機として、倭国ははじめての国家の形成へと向かった」。

 「ここまでは倭国の時代の話である。大宝元年(701)に日本という国号に替え、律令国家が成立してからは、我が国はほとんど対外戦争を行っていない」。八世紀後半、藤原仲麻呂(恵美押勝)が新羅侵攻を計画したが、実行には移されなかった。平安時代に入ると「積極的孤立主義」の立場で、海外の紛争には巻き込まれなかった。十一世紀前半、刀伊(とい=東女真族)が北部九州に侵攻し、多くの日本人を殺害・拉致した(刀伊の入寇)が、「これを国家間の対外戦争とみなすことはできない」。

 「古代の日本(および倭国)において海外で実際に戦争をおこなったのは四世紀末から五世紀初頭にかけての対高句麗戦、七世紀後半の白村江の戦の二回しかなく、その後も十六世紀末の秀吉の半島侵攻のみであって、(海外勢力の侵攻を撃退した蒙古襲来も、ここでは対外戦争に含めない)、前近代の日本(および倭国)は対外戦争の経験がきわめて少なかったのである」。日清戦争(1894年)以来、戦火が絶えなかった約50年間とは様相を異にしていたようだ。

 「ただし重要なのは、近代日本のアジア侵略は、その淵源が古代以来の倭国や日本にあったということである。長い歴史を通じて蓄積された帝国観念、そして対朝鮮観と敵国視が、一定の歴史条件によって噴出した事態こそ、秀吉の『唐(から)入り』であり、近代のアジア侵略だったのである」。

 これが本書の強い問題意識である。「近代日本のアジア侵略」の源を古代にまでさかのぼるのは、評者には独自の視点であるように思える。「倭王権の成立以来の古代における朝鮮諸国との関わり方、そして中国や朝鮮諸国の日本(および倭国)との関わり方こそ、後世の対アジア関係に大きな影響を与えたことを、我々は考え直す必要があるのである。近代のことを考える際には、近代や近世のことだけを考えたのでは不十分であり、古代以来の蓄積を考える必要がある」。

 高句麗の好太王碑は1880年ころに清の農民によって発見された。1884年には陸軍の情報将校が拓本を持ち帰り、日本でも知られるようになった。高句麗の好太王(413年死去)の事績を414年に子の長寿王が碑を建てて顕彰したものだ。この中に400年から404年にかけて高句麗が百済と通じた倭と戦って、大敗させたという記述がある。倭敗戦の原因を倭が重装歩兵中心だったのに、高句麗軍は組織的な騎兵を動員して圧倒したという説がある。これ以降、倭では乗用の馬が飼育されるようになっていったことが古墳の副葬品からも裏付けられるという。

 その後の五世紀は倭の五王の時代である。五王は当時の中国王朝に幾度も朝貢している。中国の皇帝から朝鮮半島南部の軍事指揮権を得るのが目的だったという見方があるそうだ。この地域は鉄の産地で、国内で産出しない鉄を入手するにはこの地域の支配権が必要だったわけだ。

 一方、中国では589年に隋が全土を統一する。大和朝廷は五王の時代以来、交流が途絶えていた中国に遣隋使を派遣する。隋は四度にわたる高句麗征討の失敗で滅亡し、中国大陸では唐が建国される。全土の統一は628年である。唐帝国の成立で朝鮮半島情勢は一変する。当時、朝鮮半島には高句麗、新羅、百済が並立し、争っていた。まず新羅が唐に使節を派遣、味方につけようとした。

 660年、唐は百済討伐の大軍を出発させる。呼応して新羅も討伐に加わる。唐軍は海上から新羅軍は陸上から、百済に攻め入り、百済は滅亡する。王都は陥落し、国王とその一族、貴族は唐に連行された。だが、残党による反乱は続き、友好国だった倭に救援の要請が行われる。

 斉明天皇は中大兄皇子、大海人皇子らとともに難波津を出発する。額田女王の有名な「熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば」の歌が万葉集に残るのはこのときの船出である。だが、斉明は福岡の行宮で死去し、中大兄が全軍の指揮をとる。

 第一次救援軍は物資補給と倭にいた百済の残兵を輸送するのが目的で、主だった交戦はなかったらしい。だが、すぐに第二次救援軍(新羅侵攻軍)が組織される。663年3月のことである。日本書紀には二万七千の兵を送ったとある。だが、援軍を頼んだ百済は内紛に揺れていた。倭と敵対する唐の軍議では陸の城と海上から二手の攻撃をかけることが決まった。その海上が白村江である。

 8月には第三次救援軍も組織される。駿河の地方豪族を中心にした一万人だったという。第三次軍は唐・新羅の水軍との交戦を想定した部隊だったようだ。白村江の戦いは8月27日から28日にかけて戦われた。27日に先頭部隊が唐軍と交戦したが敗退。翌28日に本隊が到着したが、壊滅した。本書は旧唐書や新羅本記を引用するが、惨敗だったようだ。

 旧唐書によると、倭軍は四回の無謀な突撃を行ったようだ。筆者は「前日(27日)の失敗を反省することなく、船隊を整えないまま、戦列を構えた唐軍に向かって我先にと突撃し、唐軍に左右から挟撃されて包囲されることとなった。倭国の船は方向転換することもできなかった」と記述している。

 白村江の敗因については「小出しに兵を送るという戦略の欠陥、豪族軍と国造軍の寄せ集めに過ぎないという軍事編成の未熟さ、いたずらに突撃を繰り返すという作戦の愚かさ、そして百済復興軍の内部分裂などが指摘されている」。それに加えて、筆者は「かつて五世紀初頭に高句麗に惨敗したという記憶の忘却を挙げたい」と指摘する。「相手が強敵であり、これまでと同じやり方で戦争をおこなったのでは敗北するという、当たり前の認識を、無意識か意識的かはともかく、倭国の指導者は忘れていたのである。自己に都合のいい経験だけを記憶し、都合の悪い経験は忘却するという、人間が誰しも陥りがちな思考回路に、今回もまんまと嵌まってしまったということになる」。

 千五百年近く前の大敗からこうした教訓を導き出すことには驚いたが、それも歴史家の大事な仕事なのだろう。評者には白村江の敗戦と先の大戦での大敗が二重写しになって見える。「戦力の逐次投入」などは日本軍の失敗を詳しく分析した名著「失敗の本質」で詳しく、解説されている。

 歴史家の筆者は、あくまで冷静に白村江の戦いの目的について考察する。対外的には石母田正氏が指摘するように、「『東夷の小帝国』、つまり中華帝国から独立し、朝鮮諸国を下位に置き、蕃国を支配する小帝国を作りたいという願望が、古くから倭国の支配者には存在し、中大兄と鎌足もそれにのっとったということなのだろう」。

 だが、筆者はさらに国内的、対内的な目的を検討する。第一の可能性は「現在から見れば無謀な戦争だったけれども、当時の情勢としては本気で勝つ目算もあったという可能性、また実際に勝つ可能性もあった、ということを考えるべきであろう」。援軍を求めて、百済から伝わってくる情報は正確でなく、十分な戦況が把握できなかった可能性は高い。

 第二の可能性は、「もしかしたら負けるかもしれない、だけれども朝鮮半島に出兵して、戦争に参加するのだ、と中大兄が考えていた可能性を考えてみたい」。筆者は中大兄を明敏な指導者だったとみている。

 「さらに第三の可能性として、たとえ倭国の敗北が国内の誰の目にも自明なほどの敗北を喫したとしても、『大唐帝国に対して敢然と立ち向かった偉大な中大兄皇子』という図式を、倭国内で主張することは可能である」。この見方に立つと、対外的な危機をあおることで、国内の体制を固めたいという目的には好都合だったはずだと筆者は分析する。

 実際に、「中大兄たちの思惑通り、白村江の戦における敗北によって豪族の勢力は大幅に削減され、庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成をはじめとして、中央権力はかなりの程度まで、地方に浸透していったのである」。

 評者には「白村江と壬申の乱」という筆者の考察が興味深かった。天智天皇(中大兄皇子)の死後、息子の大友皇子と弟の大海人皇子との間で壬申の乱が勃発する。このさい大海人が頼ったのは東国(美濃や伊勢)の軍勢で、大友は西国の軍勢に依拠したと考えられている。しかし、白村江からわずか九年後、西国勢は疲弊しきっており、決戦となった瀬田川の戦いで大友軍は敗戦を喫し、西国に逃れる途中、大友皇子は京都・大山崎で果てたという。

 筆者は大海人(天武天皇)の勝利に関して、当時の北東アジアは直接的な戦争の危機は去っていたのに、「この国際情勢の変化に対応した新しい種類の国家の建設をめざすことなく、あいかわらず軍国体制用の律令国家を建設してしまったということは、まことに残念でならない」と書く。

 歴史に疎い評者は共感するとまではいかないが、歴史とはそうした節目で大きく変わっていくものだろう、と感じた。白村江の戦に関する記述は全体の四分の一を占めて読み応えがある。これは本書を読んで初めて知ったが、七世紀の北東アジアの命運を決める大決戦の場所がいまだに確定していないそうだ。いくつか比定地があり、筆者は今は干潟になっている場所で大海戦が行われたと推定しているが、確証は得られていない。評者はしかし、筆者が白村江周辺を走り回って実地踏査する姿勢に強い好感を持った。歴史学者といっても古文書を読み漁るだけでは十分ではない。

 筆者は藤原道長が権勢をふるった時代の「刀伊の入寇」にしても、おびただしい人的、経済的被害を受けた対馬や壹岐の旧跡を詳しく実地踏査している。こうした裏付けなくしては歴史が古文書の上の絵空事になってしまう。現場を知るのは歴史家としての大事な心構えだと思う。

 本書には古代だけでなく、近世の秀吉の朝鮮出兵についても記述がある。いわゆる文禄・慶長の役である。文禄の役(1592年)には総勢十六万の軍勢が海を渡った。韓国では壬辰倭乱(じんしんわらん)と呼ばれている。慶長の役(1597年)は総勢十四万で再侵攻が始まった。丁酉再乱(ていゆうさいらん)である。秀吉の死去で軍勢は撤退するが、この朝鮮侵攻が東アジアに与えた影響は甚大だった。明は朝鮮の要請に従って援軍を出して参戦したが、「明はこの援軍によって財政危機に陥り、十七世紀前半の女真族の侵攻と相まって、王朝倒壊へとつながっていった。豊臣政権が一気に弱体化したことは言うまでもない」。

 歴史家としての実地調査などで幾度となく、韓国を訪れている筆者は「この六年間の戦闘によって、朝鮮半島が甚大な損害を蒙ったことは、言うまでもない。日本に対する憎悪と警戒の認識は、今日に至るまで長く民族の脳裡に刻み込まれることになったのである」と書く。

 評者も昨年末、韓国を訪ねて、その残念な現実を目の当たりにした。慶州というのは韓国南東部の新羅時代の古都だが、世界文化遺産に指定されている仏国寺という古刹も壬申倭乱で焼き払われた。今は再建されているが、古代からの伽藍が異国軍によって焼き打ちにされた痛みや憤激は耐え難いものだったはずだ。やはり世界遺産に指定されているソウルの昌徳宮も同じ憂き目に遭っている。韓国人ガイドの説明は淡々としたものだったが、史跡の説明(日本語や英語)を読むと、壬辰倭乱や丁酉再乱のことがきちんと記されている。日本で言えば京都や奈良の代表的な古社寺や御所が焼き討ちにされたのと同じことだ。1910年の日韓併合(日本による植民地化)と並んで、朝鮮半島の人たちに忘れることのできない屈辱と大きな痛みを与えることになった。従軍慰安婦、徴用工問題など、今に至る日韓の深く険しい溝を考えると、なんとも言えない沈んだ気分になる。

 筆者は「前近代の日本の歴史において、対外戦争がきわめて少なかったこと、にもかかわらず古代の歴史のなかで、朝鮮ひいては外国に対する小帝国意識と敵国観が醸成されていき、それが日本人のDNAに植え付けられてしまっていたことを確認してきた。これらの史実に対する屈折した記憶の呼び出しと再生産こそ、近代日本の奥底に流れるものだったのである」と記す。一方、「朝鮮諸国の方は外国から侵略を受ける経験ばかりで、国外に侵攻した経験は、(『元寇』をのぞいて)歴史上、まったくない。このような国に対して、『蕃国』扱いをし、のみならず何度も武力侵攻をおこなったということが、彼の国の国民性や対日本観に大きく影響したことは、言うまでもなかろう」と述べている。

 古代史の本ながら、現代に通じる諸問題を深く考えさせる一冊だ。歴史好きだけでなく、朝鮮半島との長く不幸な関わりを知る上でも、必読書になるような気がする。倉本氏の新著「内戦の日本古代史」も早く読まなくてはいけない。

 最後に、蛇足で恐縮だが、昨年末、韓国を訪ねて、韓国料理が意外に口に合うことを発見して驚いた。中にはやや辛いものもあるが、われわれがおいしいと思う料理にいくつも遭遇した。食わず嫌いではだめ、ということを肝に銘じた。