ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

新型コロナからいのちを守れ! 西浦博、聞き手 川端裕人 理論疫学者が本音で語ったコロナ問題の真実 

2021年02月26日 | 読書日記
新型コロナからいのちを守れ! 西浦博、聞き手・川端裕人 コロナ制圧に向けた「8割おじさん」の奮闘


 新型コロナの厚生労働省クラスター対策班で理論疫学者として奮闘。感染を大きく減らすには人と人との接触を8割減らすことが重要だと説いて有名になった京大医学研究科西浦博教授の著書だ。サイエンス作家川端裕人氏が聞き手。西浦氏は数理モデルを使った感染症分析の第一人者だ。冒頭で、「2020年初頭からの半年がこのような激動の日々になるとは、一切想像していませんでした。(中略)ある日気付いたら、戦時状態のような緊張と責任に満ちた環境に放り込まれ、寝る間を惜しんで働くことになり、専門家会議に協力してデータ分析をして会見に出たところ、一時的にキムタクよりも露出が多い状態になってしまいました」と述懐する。新橋のビジネスホテルに泊まり込み、霞が関の厚労省まで歩くと「先生、頑張れよ」とサラリーマンから励まされた。その後、緊急事態宣言が出て社会経済活動に制限が課され、厳しい批判も受けた。殺害予告を受けて警官の護衛付きで歩いたこともある。

 1977年生まれ。宮崎医大を卒業後、感染症疫学の重要性を痛感。数理的な応用モデルの使い手や指導ができる研究者が日本にいないため、イギリスのインペリアル・カレッジ・ロンドンで学位を取得。博士研究員時代にはドイツのチュービンゲン医系計量生物学研究所やオランダのユトレヒト大学で研鑽を重ねた。香港大などを経て16年に北大教授。新型コロナで多忙をきわめるなか、2020年8月、研究室ごと京大に移籍した。聞き手の川端氏は科学系ノンフィクション作家。2007年に上梓した感染症疫学小説執筆のため専門家を探していて西浦氏を紹介された。川端氏が詳しく話を聞いてまとめ、それだけではわかりにくい部分を川端氏がコラムで補足する。第1章は「はじまりの時」。2019年の大みそか。西浦氏は福岡県の妻の実家から猛烈なスピードでメールを打っていた。相手は国立感染症研究所の鈴木基・感染症疫学センター長。「話題になっていたのは、新興感染症の流行だった。中国・武漢の生鮮市場で新しい感染症が発生しているという。それも重症の肺炎を起こすウイルス性感染症で、未知のウイルスによるものらしい。(中略)この日、中国の武漢市衛生健康委員会がメディアに発表し、それをWHOの現地事務所が確認して報告したことから、世界が知るところとなった」「1月10日ごろにもなると、日本でも、疑い例とされる患者が、国立感染症研究所に隣接する国立国際医療研究センター病院に続々と診察を受けにやってきた」。1月16日、日本で最初の症例が確定された。「この時点で武漢にいるとされた感染者は41人のみ。一方、海外で診断されて報告された感染者はタイと日本に1人ずつ。武漢に41人しか感染者がいない状態で、海外にランダムに人が出て行ったとして、2人がすでに感染して見つかるというのは常識的に考えてもありえない」。

 こうした状況でも「空間的逆計算」という手法を使うと「中国とタイ、日本との間を行き来する人たちの数のデータから考えて、今、武漢にはどの程度の感染者がいないと説明がつかないか、誤差の範囲も含めて推定できる」。推定では846人と出た。「ヒト・ヒト感染が起こって、流行が拡大している感染症が武漢にあるーーそういうことが、この時点で確実になってきた」「本当に流行になって、日本にも感染者が訪れるのは間違いなさそうです。北大の西浦研から、何人かの手練(てだれ)を出して。感染研に張り付かせてもらえませんか」。鈴木氏の依頼に、西浦氏は3人の大学院生とともに上京。西浦研は2015年の韓国でのMERS(中東呼吸器症候群)や16年のコンゴ民主共和国でのエボラ出血熱の流行時にも数理モデル構築に取り組んだ。

 2月16日には加藤厚労相(当時)と面会しレクチャーする。感染症法に基づく個人情報に触れるためにも必要な手続きだった。2月17日からはダイヤモンド・プリンセス部屋と呼ばれる厚労省の小会議室で仕事をする。北大の4人を含め、12~13人のメンバー。ダイヤモンド・プリンセス号は2月3日に横浜に帰港、5日に陽性者10人が発見され、3711人の乗客・乗員全員が14日間の隔離を受ける。結局、感染者は712人、死者は13人となったが、下船後の2次感染はなかった。西浦氏は自ら東京にある運行会社を訪れ、乗員居室も含めた船内の詳細な見取り図を入手、感染をシミュレーションした。厚労相と会う機会も増えた。「下船時の検査では陰性でも、下船時に発症する人は何人くらいいるだろうか」と聞かれ、その場でカシャカシャ計算する場面もあった。時には大臣から直接の連絡も。「2月5日以降、実効再生産数がしっかり減って、新規感染が減っていますと伝えた時は、純粋に喜ばれていました」。数理モデルが実際に役立つことを評価され、氏は率直に喜んだ。

 2月22日には感染研の脇田隆字所長、鈴木基センター長、東北大学の押谷仁教授を交えた緊急対応センターが立ち上がったが、個人的に大変なことが起きる。北海道にいた妻が感染者の濃厚接触者とわかり、発熱して咳も出た。PCR検査では陰性だったが、感染が疑われた。子ども3人はまだ小さい。肉親の助けで乗り切ったが、押谷氏が心配し、妻に直接電話してくれた。西浦氏は庶民派の熱血漢で、研究室の誰かが健闘すると「餃子の王将」で食事する儀式があった。だが、コロナ下ではテイクアウトで我慢した。夜中まで仕事し餃子を食べて寝る西浦氏は、ロングステイできる宿を借りて自炊し、早朝に散歩を欠かさない健康生活の押谷氏に何度も生活態度をたしなめられた。研究者の人柄がにじみ出るエピソードが豊富なのは本書の大きな魅力だ。

 第2章は「クラスターを追え!」。2月4日から11日の「さっぽろ雪まつり」で海外から多くの観光客が訪れた北海道では、札幌から道内全域に感染が広がり、2月28日には道独自の緊急事態宣言を出す。ここで「押谷仮説」が誕生する。札幌から感染が始まり、それが道内各地に放射状に広がっていくが、クラスター対策班が追っかけても、間をつなぐ感染者は見えない。押谷氏は「間をつなぐ感染者が見えていないのは、軽症で済んだだろう若者が札幌にいっぱいいて、それぞれの地域に広がったんじゃないか」と考えた。これを受けて、尾身茂氏が3月2日、「若者など軽症の人が気づかないうちに高齢者など重症化するリスクの高い人に感染を広める可能性があります」と若者の行動自粛を呼びかけた。

 北海道での感染は下火になるが、東京、大阪など大都市圏での感染者は増え続ける。2月26日には安倍首相が大規模イベントの中止や延期の要請に踏み切る。海外からの入国は制限されたが、イギリス、フランスといった市中感染が広がる国からの入国者は待機要請だけで、感染者の入国が相次いでいた。3月27日までこの状況は続く。このころから専門家の間でも意見の違いが目立つようになる。節目になったのは3月19日の専門家会議。大規模イベントの自粛要請を解除する手はずで、西浦氏はもう少しがんばった方がいいと自粛要請延長を画策して厚労省から嫌がられた。「専門家には決定権限はありません。リスク評価として『ここは守らなければ』という範囲を必死にやる。あとは政策判断側に委ねるしかないので、リスク評価結果が政策に反映されない時にはぐっと唇を噛んで耐えることが必要です」。

 西浦氏が行ったシミュレーション結果とその発表をめぐっても省内で悶着が起きた。必要病床数のシミュレーション、とくにICUが足りなくなるという結果をめぐっては課長、局長から「都道府県が混乱する」と強い発表自粛要請があった。審議官からは「西浦を止めろ」と尾身氏に直接電話があったそうだが、それを止めてくれたと尾身氏に感謝する。西浦氏はこうした自分の経験に基づいて、「今までの厚労省でのシナリオ分析は、常に父権主義的(パターナリスティック)な発想でやってきたということです。被害想定として何人重症化して死ぬみたいな話が出たとしても、それは密室で共有されて対策が決まるだけで、厚労省から地方に通知を打つときには、もう科学的概念の説明もなく、ただ冷たい事務連絡通知になっています。『これが想定だからこれだけの数のベッドを用意せよ』ときわめて行政的な上から目線のメッセージです」「厚労省側から地方に打つ通知の中では、仮に大変な流行にはなることがわかっていても、地方が手の届く範囲で設定するべき、ということなんです」「僕は厳しいシナリオを伝えた上でコミュニケーションしなければと強く感じていて、それを主張しました。現に武漢や北イタリアでは医療崩壊が起こったのですから。その現実と向き合って、それだけは避ける策を皆で考えないといけない。リスク・インフォームド・ディシジョンといって、きちんとしたリスクの認識の下に意思決定してもらう」。厚労省は各部局が地方自治体への通知や通達を連発し、受け取る側もその内容を把握できない状況がこれまでから強く批判されてきた。西浦氏は、役所や官僚の「発想の大転換」が不可欠だと強調する。

 大変困難な状況だが、メディアが味方してくれるわけでもない。NHKの「クローズアップ現代+」に出演、「みんなが行動を変えて対策すれば、大規模流行は防げる」と力説した。だが、番組ではその部分がばっさり削られた。「恐らく科学部は僕の意見に慎重になったんですね。強く言ってきているけれども、はたしてそのまま流していいものかと」。クラスター対策への風当たりも次第に強くなってくる。

 このころ、毎週末にはコロナ専門家「有志の会」が開かれていた。港区にある東大医科研の武藤香織教授(公共政策研究)がセミナー室を提供し、専門家会議の全員やクラスター対策班メンバー、コロナ患者を受け入れている病院の医師や科学コミュニケーションの専門家など20人ほどが集まって肩書や立場に関係なく何時間も議論を交わした。「有志の会」はメディア向け勉強会も何度か開催している。

 だが、大都市圏では感染者が急増し、4月7日には緊急事態宣言が出される。この直前、シミュレーションで必要な病床数を予測、東京都と大阪府に西浦氏らが直接説明に訪れた。大阪では大きな摩擦が起きる。「市長と府知事は、大阪から全国に散らばるということではなく、県境をまたぐ移動をとにかく止めないといけないと受け止めて、中でも、兵庫県だけをターゲットにしました」。その結果、兵庫との関係が険悪になったのは大きく報道された。同行した担当者が厚労省幹部から厳しく注意された。大阪府が公表した内容は「フォーマルには通知ですらなく、メモとして渡したものなんですが、こちらには連絡なく公開されることになりました。やっぱりコミュニケーションは難しかったということです」。西浦氏自身も府との間で調整役を担っていた阪大教授から叱責された。こうした経緯を通じて氏も問題の難しさや影響の大きさを痛感する。

 都の対応は大阪とは異なった。非公開のデータを提供し、再分析を依頼されたり、都知事と直接会ったりする機会もあった。「夜間の外出自粛要請を含めて都民に呼びかけることは一つのオプションです」と伝えると、都知事は「よくぞ言ってくれました」と賛同しつつ、「知事や周りの人から『先生がこれを発表してくれますか?』と何度も聞かれるんです」。これを大臣に伝えると、「西浦さんの口からは言わないで」と口止めされた。西浦氏が言うと厚労省を代表して発言しているように伝わる、そうなると厚労省の責任になるということのようだった。このあと厚労省と都の間でバトルが始まる。「最終的には、3月30日の記者会見で知事が言うことになりました。バー、あるいは接待を伴うキャバレーやクラブ、というふうな言及をしてくれて」「当たり前のように使われている『夜の街』や『夜間の接待を伴う飲食業』という言葉も、この時から使われ始めました」。これも西浦氏たちが考え出した表現だ。

 このあたりの動きは、それぞれの立場や打算が激しくぶつかり合って実に生々しい。緊急事態宣言が出る前の週、その調整の最後の頃、コロナ担当の西村経済再生相から接触削減目標の相談があった。「一日当たりの新規感染者数が50人から100人規模になっていたんですけど、それを10人から20人ぐらいまで下げるにはどうすればいいのかというのをシミュレーションしました。(中略)1カ月で下げるには、8割ぐらい接触が落ちていないといけないと分かりました。その時に、西村大臣からは、大臣室で即座に、『これはきついね』と言われました」。産業別などの細かいデータを計算し直すが結果は変わらない。8割という削減目標は有識者会議前日に、内閣官房のだれかが勝手に7割と書き換えていた。西村大臣と尾身氏、押谷氏らは毎日面会して説明したが、理解は得られなかった。「最低7割、極力8割」と安倍首相が発表したのは尾身氏が首相と会見場で手打ちして決まったという。「政府側は8割のみでは呑まないことをすでに決めていたので、尾身先生から『こういう表現ではどうか』と呼び掛けてもらったのです」。このあたりは、医学者ながら政治をよく知る尾身氏のしたたかさが興味深い。このあと西浦氏は死亡想定に関する大騒動に巻き込まれる。「対策を全くとらなければ、国内で約85万人が重症化し、その半分が死亡する恐れがある」という想定が独り歩きしたのだ。想定そのものはすでに厚労省で内部調整されていたが、死者42万人という衝撃的な想定に「官邸からは『公式見解ではない』とのコメントが出て、メディアでは『西浦の乱』『クーデター』とまで呼ばれた」。川端氏は関連コラムで、「この表現は、メディアがセンセーショナルに政府批判を展開する風潮に巻き込まれた形だ」と受け止める。被害想定が外れたという批判には、「今回の問題はむしろ『最悪の被害想定』を共有するという発想そのものが理解されなかったことにあるように見える。日本ではこういった情報提供がこれまでなされてこなかったので、慣れの問題も大きい」と分析する。西浦氏は「イギリスにあるような科学顧問制度みたいなものがあれば、政府に任命された信頼できる主席科学顧問が、科学コミュニケーターやクライシス・コミュニケーションの専門家に助けられながら、国民にメッセージを発する仕組みが考えられます」と述べている。

 第3章の「緊急事態と科学コミュニケーション」では「政治家が責任を取りたがらない」ことへの不満が噴出する。「本音を言うと、本当は政権に専門家の役割を支持する言葉の一つも言ってほしいわけです。専門家の科学的アドバイスをもとに、政府が責任をもって要請しているんだ、と」。NHKスペシャルに出演したとき、西浦氏が疫学的な説明をしたあと、中小企業が窮状に陥っていると日商会頭が話し、補償問題について問われた西村担当相は「西浦先生をはじめ専門家の判断で今後を決定していただく」と専門家に責任転嫁するような言い方を繰り返した。

 こうした中で紹介された尾身氏のエピソードが興味深かった。内閣官房まで2人で歩く時、「西浦さん、あんたは太りすぎてきたね。私は今朝も200回、竹刀を素振りしてきたよ」「押谷先生や僕の願いを、のらりくらりとかなえてくれるような役割を、これまでも果たしてくださっています。政治家と話す時の落としどころの探り方は”尾身方式”みたいなものがあって、『極力8割』をめぐる攻防も、尾身先生の真骨頂といえるところです」と絶賛する。政治家とのやりとりを心得た医学者なのだろう。

 6月以降、西浦氏は再び研究チームとしての活動を本格化させた。そんな中で特に優先すべきだと考えていることが4つある。①「夜間の繁華街」の制御だけで流行は止められるのか、②予防接種の優先順位、③一般社会での本格的な流行が起きた時にはどうなるのか、④ファクターXはあるのか、だ。ファクターXは京大の山中伸弥教授が、なぜ日本は欧米に比べ、感染者、死者ともに少ないのか、未知の要因をファクターXと呼んでいる。

 最後に中央公論2020年12月号に掲載された西浦氏と川端氏の対談が収録されている。京大に移るのは2019年中に決まっていて、「将来のために質の高い次世代のリーダーとなりうる専門家を育成する」ことが目標という。川端氏はここで西浦氏に質問する。「ただでさえ薄い感染症疫学の人材の中で、数理モデルのアプローチをリアルタイムでできるのは西浦さんだけ」。その結果、「西浦さん以外に西浦さんの分析をチェックできる専門家がいなかった」。西浦氏は「海外でも同様にグラグラしていました。著名な専門家たちが集まったアメリカでさえ、意見が揺れていた。(中略)でも、僕以外の手練れがいないことによる科学コミュニケーションの混乱は真摯に受け止めないといけないことです」と応じている。

 あとがきで川端氏は本書の目的を「流行の終息がまだ見えない中、最前線で感染症制御に奔走して『第一波』を乗り切った科学者が、その間、目の当たりにし、考え続けたことを共有する、ということにつきる。(中略)父権主義的な対策の決定ではなく、情報を公開した上での意思決定支援に向かおうとする模索の記録でもある」と書く。新型コロナ感染拡大のなか、激動の中心にいた当事者による貴重な記録だ。その奮闘や混乱がこうした形で記録されること自体意義深い。一連の対応を検証するうえで第一級の資料だ。コロナ問題に関心を持つ人すべてが読むべきだ。評者は、数学が得意な若者が本書に触発され感染症疫学の分野に進んでくれることを望みたい。







 
















日本習合論 内田 樹 神仏分離と神仏習合からたどるユニークな日本文明論

2021年02月10日 | 読書日記
日本習合論 内田 樹 武道家の思想家が深く考察する日本の民主主義と社会



 筆者は武道家にして思想家。神戸女学院大学教授を退職後は自宅を「凱風館」と名付け、合気道の道場にしている。「日本辺境論」や「街場の教育論」などで知られる。日本習合論とは意表をつくタイトルだが、「神仏習合や神仏分離など「『習合』という一つの概念を手がかりにして、宗教から民主主義まで、日本文化の諸相を論じようというわけですから。こういう大風呂敷話、僕は大好きなんです」。そういえば日本辺境論も「辺境」という概念を手がかりに、日本文化の諸相を論じたものだった。「日本はユーラシア大陸の東の端です。もうこれより先には海しかない。だから大陸・半島・南方から到来してきた制度文物はここに貯蔵される。捨てられないでいると、それがどんどん倉庫に積み上げられる。すると、いつの間にか『ハイブリッド』ができる」。コーヒー牛乳やカレー蕎麦もそうやってできたものだという。

 「養老孟司先生によると、日本列島には三次にわたって別の土地からの集団移住があったそうですが、この三つの集団のすべてのDNAが現代日本人には残っているそうです。ということは、かつて外見も違う、言葉も通じない、生活文化も違う異族同士が遭遇したときに、彼らは殲滅でも、奴隷化でも、逃亡でもなく、『混ざる』ことを選んだということです。(中略)たまたま混ざったら、なんとか折り合いがついて、どちらも死なずに済んだ、それが成功体験として記憶され、種族の生存戦略として採択された……ということではないかと僕は想像しております」。

 日本文化の特徴が「雑種」だということは1956年に加藤周一が指摘している。「加藤の雑種文化論の根本的テーゼは、『英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれば、日本の文化は雑種の文化の典型ではないかということだ』という一言に集約されます」。ただしこれは、「西欧の圧倒的な文化的優位の下で自信を失って、毒性の強い劣等感に苦しんでいた敗戦直後の日本人に向けて『自信をなくすな』と叱咤することを主意としたものです」。

 加藤は、「およそ何事につけても劣等感から出発してほんとうの問題を捉えることはできないのである。ほんとうの問題は、文化の雑種性そのものに積極的な意味をみとめ、それをそのまま生かしてゆくときにどういう可能性があるかということであろう」(加藤周一、『雑種文化 日本の小さな希望』、1974年)と論じた。筆者はこの言葉に全面的に賛同し、「僕が本書に書こうと思ったのは、ここで加藤が論じていないことです」と宣言する。「僕の『習合論』は『神仏習合は雑種文化の典型的な事例である』という仮説から出発するものです」(強調はすべて筆者)。

 千年以上続いた日本の神仏習合がなぜ、なぜ明治初期の一本の神祇官布告で消滅したのだろうか。この問いは、数年前、スイスのラジオ局のインタビューに応じたさい、答えられなかった質問だという。「仏教が渡来してしばらくして神仏習合は始まりました。だから、すでに千年以上の歴史がある。それが明治政府の政治的決定によって否定された。(中略)でも、人々がそれをぼんやり指を咥えて眺めていたのがわからない。どうして、何かしなかったのか?」「千年以上にわたって栄えた『雑種文化』が、『純粋な日本の宗教』という政治的観念を創り出そうとした人々によって廃絶された。変ですよ、これは」「もし加藤周一の言うように、雑種や習合が日本文化の本態であるのだとしたら、どうして人々はそんなに簡単に本態を棄てることができたのか?」「神仏習合という日本文化のリアルが、国家神道という日本文化についてのフィクションに負けたのはなぜか?」。

 ここまで読んで、評者は「なかなか難しい話になるな」と思った。神仏習合や神仏分離について一応の知識はある。奈良・薬師寺の国宝の五重塔が二足三文で売り払われそうになったり、阿修羅像までもが痛めつけられたりしたことも知っている。由緒ある寺の仏像が丸裸にされ、手足がもがれて放置された写真も見た。だが、それらは再び貴重な寺宝や文化財として復権し、強制的に還俗させられた僧侶も寺に戻った。激しい嵐が吹き荒れたと受け止めただけで、深く考えたことはなかった。

 第一章は「動的な調和と粘ついた共感」。筆者は多数派が正しいわけではないと強調する。「選挙で多数派を制したからといって、『正しい政策を公約に掲げた』ということにはならないし、敗けたからといって『間違った政策を公約に掲げた』ということにもならない。でも、ここ十年ほどの日本の政局を見ていると、少数派の政治家たちのうちに『いつまで経っても政権が取れないのは、自分たちが掲げている政策が間違っているからではないか?』と反省することが『現実的』と考え出す人が増えたように感じます」「いったいいつから少数派であることが『悪いこと』で、多数派であることが『よいこと』になったんですか。少数派であるというのは、ただその時点では過半数の人の理解同意を得ることができなかった知見を語っているというだけのことです」「今の人は孤立する力、長い留保に耐える力がいささか足りないのではないかと思います。『少数派であっても平気』という気構えを持つ人が必要です。もちろん、少数派ですから、そんなに頭数は要りません。全体の五パーセントくらい。できれば七パーセントくらいが『少数派でも平気』という強いマインドを持ってくれていると、あとの九〇パーセント以上がひと塊になっていても、集団の健全さは担保される。メインストリームに対して揺るがずに異議申し立てをする一定数の少数派は絶対にいないと困る。多数派が高転びしたときに、システムを復元するのはつねに少数派だからです。組織の復元力(レジリエンス)を担保するのは少数派です」。

 「それを証明しているのがアメリカという国です。アメリカがいまも世界最強国であり続けていられるのは。国内につねに強力なカウンターを抱え込んでいたからです」「米ソ東西冷戦で最終的にアメリカが勝利したのは、アメリカ国内には時の権力者を鋭く批判する強力なカウンター・カルチャーが存在したけれども、ソ連にはそれに類するものがなかったからだと僕は思っています」「中国もそうです。いまは中国に勢いがあります。けれども、国内に力強いカウンターが存在しない。メインストリームである中国共産党の一党支配体制が不調になったときに、国を復元するための備えがない。(中略)そうなる前に『リスクヘッジ』という発想ができる指導者が出てくるといいのですが」。曲折があるにせよ、歴史の大きな流れはそうだろう。アメリカでは国内外を騒がせたトランプ政権がようやく下野したが、ロシアや中国の強権的な指導者が長く続くとは思いたくない。

 第二章では「習合というシステム」について語られる。「共感や理解を急ぐことはない。この本で言いたいのは第一にそのことです。僕が『習合』という言葉に託しているのは『異物との共生』です。そのことのたいせつさが見失われているのではないか、異物を排した純粋状態や、静止的な調和をあまりに人々は求めすぎているのではないか。そんな気がします。それが社会が生き生きとしたものであることを妨げている」「いくつかの構成要素が協働しているけれど、一体化してはいない。(中略)そういうシステムのことを『習合的』と僕は呼びたいと思います」。

 第三章では「神仏分離と神仏習合」を論じる。明治初期、全国を吹き荒れた廃仏毀釈について詳しく説明される。ただ廃仏毀釈は地域によって、激しさが大きく異なった。その地域を支配した知事によるところも大きかった。「元長州藩士で(京都)府知事になった槙村正直は徹底的な廃仏毀釈論者でした」「京都市内では仏教の習慣はすべて廃止ということで、五山の送り火も地蔵盆も盂蘭盆も盆踊りも、すべて禁止されました。今の人は信じられないかもしれませんけれど、京都から仏教色が一掃された時代がつい百五十年前にあったんです」。廃仏毀釈に対して組織的な抵抗をしたのは浄土真宗だけだった。「そのときの真宗サイドの護教のロジックも、『キリスト教と戦うなら、仏教徒こそがその先陣に立つにふさわしい』というものでした」と今から見れば、拍子抜けするようなものだった。

 過激化した廃仏毀釈も「行政単位が組み替えられて、行政官が替わると、政策のありようも一変した」「そうなると、また仏教が盛り返す。またお寺に住職が戻ってきて、仏像や仏具を廃棄した人たちがまた知らぬ顔で寺院の檀家になって戻ってくる。このあたりの変わり身の早さにも驚かされます」「果たして、この面従腹背的な態度を『生活者の知恵』と見立てるべきなのか、それとも許し難い無原則と見るべきなのか」。筆者は「たぶん、『神さま仏さまの世界の問題』なんだから自分たちには関係ないと思っていたので、『おや、いつの間にか〈神さま仏さまの世界で話がついたらしい〉と思ったんでしょう』。そうでもなければ、民衆のこの変わり身の早さは説明がつきません」と受け流す。そうかもしれないが、それだけではすまないのかもしれない。評者には、改めて考察すべき重い問題という気もするのだが。

 筆者は農業に深くこだわっている。現代の資本主義社会では、農業は重要といいつつ、それほど重視されていない。経済学者の宇沢弘文氏は社会的共通資本という概念を提唱したが、その代表として農業を位置づけていた。社会的共通資本は「それなしには人間が集団的に生きてゆけない資源のことだ」。宇沢氏は自著で、「日本の農業人口は全人口の20パーセントから25パーセントが適正数だ」と述べている。だが、「今の日本の農業就業者数は170万人、人口の1.3パーセントです」。宇沢氏が言うのはあくまで農村人口で、農業を専業とする人口ではない。「農村」が安定して存在するには農村に関わる人がこれくらい存在している必要があるということなのだろう。

 評者が一番興味深く読んだのは、第七章の「日本的民主主義の可能性」だ。戦前、戦中の軍部の暴走と十五年戦争、壊滅的敗北について、「見方によれば、大日本帝国は民主的に運営される可能性もあったが、軍部の突出によってその可能性を失った。そして敗戦によって民主的に運営される国に生まれ変わった」「これが司馬遼太郎のいわゆる『司馬史観』です。近代日本を三分割して、明治維新から大正の終わりまでを第一期、昭和のはじめから敗戦までを第二期、戦後を第三期と区切って、敗戦までの二十年を『異胎』『魔の季節』としてよりのける。そして、その前後を『デモクラシーを志向していたこと』を共通項にしてつなぐのです。ある時期の日本を『あれは日本ではない』と言って、取り除いてしまうのですから、歴史観としてはずいぶん恣意的な気がしますけれど、司馬史観は実に多くの日本人によって支持されました」。

 筆者は司馬史観に批判的な立場だが、その一方、「僕はその心情のうちには掬(きく)すべきものがあると思います。そして、たしかにこれから先日本の固有のデモクラシーというものを僕たちが建設しなければならないのだとしたら、それは大正末年で途絶してしまった日本のデモクラシーに『つなぐ』という司馬遼太郎のアイディア以外に有効なものを僕は思いつかないのです」と一定の評価をする。実はこの考え方は、1948年に憲法が施行されて間もなく、文部省が編んだ「民主主義の教科書」という副読本に反映されていた。「戦後日本を大日本帝国の民主主義的な部分の選択的な後継者として承認するというのが『民主主義』の執筆戦略でした。これは司馬遼太郎の『魔の時代』を『のけて』という発想にかなり近いものだったと思います」。

 だが、この論理にどうしても同意できなかったのが天皇機関説で知られる憲法学者の美濃部達吉だった。日本国憲法には「上諭」という文書が先行している。そこには天皇の名で、「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢、及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」と書かれていた。美濃部は当時枢密顧問官だったが、「この二つの政体(注:大日本帝国と日本国)の間には断絶があり、一貫性がない。けれども、その事実を明晰かつ論理的に指摘しうる主体、二つの政体をつねに冷静に俯瞰していた主体が存在するならば、その主体の揺るぎなく一貫する批評的視点は架橋者としての役割を担い得るのではないか、美濃部はそんなふうに考えたのではないかと思います」。ここはかなり難しい。

 美濃部は「第一条 日本帝国ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇之ヲ統治ス」という第一条から始まるべきだと考えていた。これについては評論家の加藤典洋も「美濃部は、少なくともここでは、国の基礎である憲法を欺瞞の具にだけはしてはならないという立場に立っている。その意味は、不如意があれば不如意が、ねじれがあればねじれがそのまま映る歪みのない鏡で、憲法はあらねばならない。ということである」「われわれは戦争に負けた。その負けいくさの国に、負けた現状のまま憲法が必要だとしたら、第一条はこうなる。負けた人間が、負けたという事実を自分に隠蔽したらおしまいだ。美濃部はきわめて簡潔な態度を、ここに示しているというべきなのである」(加藤典洋、「敗戦後論」、2005年)。これは非常に重要なポイントだ。改憲にせよ、護憲にせよ、このあたりのねじれをあいまいなままに議論を続けているのが、戦後日本の現実だ。

 この章で考えさせられた事実がもう一つ。「東京裁判のときに、小磯国昭元総理大臣は自分は満州事変にも、日華事変にも、三国同盟にも、対米開戦にも、すべて反対してきたと供述しました。これを怪しんだ検察官がそうなら、「(どうして)これらの非常に重要な事項の指導者の一人とみずからなってしまったのでしょうか」と問うた。小磯被告は、「われわれ日本人の行き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定せられました以上、われわれはその国策に従って努力するというのがわれわれに課せられた従来の慣習であり、また尊重せらるる行き方であります」(丸山真男、「現代政治の思想と行動」、1964年、強調は丸山)。丸山は「ここで『現実』というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出され行くものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起って来たものと考えられていることである」と説明している。

 「丸山はこれを大日本帝国戦争指導部が罹患していた一種の病と診立てていますが、これは非民主的な政体においては誰でも口にすることではないかと僕は思います。非民主的政体においては、総理大臣として政策決定の中枢にいた人間でさえもが、国策の決定に自分は関与していないと思っている。小磯は嘘や言い逃れではなくて、本気でそう感じていたのだと思います。だから、戦時の総理大臣でありながら、戦争責任の引き受けをきっぱりと拒絶できる」。恐るべき無責任だが、国際軍事法廷に立たされた被告の証言である。

 「民主主義と非民主主義の違いは、極論すればこの一点にしかないと僕は思っています。国策が決定され、実施され、成功したときには『私が決めさせた』と言い出し、失敗したときには『私は反対した』と言い張るような人物を組織的に生みだすのが非民主制です。(中略)非民主主義的な政体では誰でもそうなる。そのようなありようを僕は『復元力がない』と言っているのです」「独裁制では、極端に言えば、賢者は独裁者ひとりでいい。賢い独裁者以外は全員、上の指示に従うだけの幼児で構わない。逆に、民主制では、誰の指示がなくても、自律的にシステムのための最適解を見出して、それを実行できる人をできるだけ多く要求する。民主制は市民の成熟から大きな利益を得るシステムであり、非民主性はそうではない。だから、長期的に見ると、民主制を維持しているほうが『大人』がたくさん生まれる。民主制が『長期的に見ると、他の政体よりまし』なのは、そういう理由によるのだと僕は思います」。

 あとがきに、「読み返してみてわかりましたけれど、この本を書いた動機というのは、『恐怖心』だったように思います。『話を簡単にしたがる人たち』『異物を排除して原初の清浄状態に戻せばすべては解決すると信じている人たち』の数がここ十年ほどだんだんと増えてきているような気がします」とある。筆者はメディアのインタビューを受けることが多いが、「最後の質問ですが、われわれはこれから具体的にどうしたらよいとお考えですか? 一言でお願いします」と聞かれることがよくある。「でも、悪いけど、そんなの『自分で考えてくれ』としか言いようがありません」「僕が知っている『すごく頭のいい人たち』にはある共通性があります。それは『どんな変な話でも一応聴く』ということです」「それができるのは『頭がでかい』からです。多少変てこなものを詰め込んでも、スペースに余裕がある」「『選択と集中』の逆です」「『話を簡単にするのは止めましょう』。それがこの本を通じて僕が提言したいことです」。

 ウーンとうなってしまう。読み終わって「内田樹」ワールドにはまってしまったことを実感する。だが、読後感は実に爽やかだ。終始、一人称で書かれているのも気持ちがいい。読者は、時間をかけて問題をゆっくり頭の中で転がしてみる必要がありそうだ。本書を読んで、感想を一言でいうことはできない。だが、おそらくそれが重要なのだ。時間のない人は第七章「日本の民主主義の可能性」だけでも読むといいと思う。ひごろあまり深く考えていない問題を考えるヒントやきっかけを与えてくれる。




















 



 





新型コロナの科学 黒木登志夫 新型コロナ感染症解説の決定版

2021年02月03日 | 読書日記
新型コロナの科学 黒木登志夫 新型コロナ感染症を科学的にわかりやすく解説



 筆者は東北大加齢医学研究所や東大医科学研究所の教授を長く務めた、がん遺伝子研究の専門家。「知的文章とプレゼンテーション」「研究不正」など自然科学に関する啓蒙書も多い。評者は現役の科学記者時代、「がん細胞の誕生」(1983年)や「がん遺伝子の発見」(1996年)を読んだ。科学的に正確で、門外漢にもわかりやすく書かれていて勉強になった。2020年12月25日初版だが1月20日には再版されている。

 京大iPS細胞研究所長で、2012年のノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥氏の序文がついている。黒木氏には「iPS細胞」という著書もある。山中氏は新型コロナ感染症に強い関心を持ち、欧米や世界の他の地域に比べ、東アジアで感染者や死者が大幅に少ないのは未知の「ファクターX」があるのではないかと指摘して注目された。昨年春には「新型コロナウイルス情報発信」というホームページを立ち上げた。本書に序文を寄せ、黒木氏について「私が尊敬するがん研究者であり、サイエンスライターです」と高く評価したうえ、「二十数年前、研究の壁に突き当たり、自信を無くしていた時、黒木先生のご著書『がん遺伝子の発見ーーがん解明の同時代史』に心が躍り、研究を続けることができました」と称えている。

 「はじめに」で著者の立場が明らかにされる。「もともと私はがんの基礎研究者であった。しかし、結核の研究所と伝染病研究所で長く研究をしていたこともあり、感染症に関心を持っていた。(中略)医学を学んだ一人として、そして感染症に親近感を持つ一人として、当然新型コロナにも関心を持つようになった」。

 「私はメディアの発表する棒グラフに満足できなかった(今でも棒グラフしか出てこない)。対数に変換するだけで、見えなかった事実が浮かび上がってくるのに、何故もっと分析をしないのだろう。数字の動きは一本の線になり、線は数式で表されるはずである。数式になれば、メカニズムの解析もできるし、予測もできる」。その分析結果を知人たちに送ったところ、旧知の山中氏から自分のサイトに転載したいというメールが届き、本書の序文に発展した。

 「コロナウイルスと肺炎だけの問題ではない。免疫、ワクチン、薬の開発、検査など、問題は医学全体に広がる。(中略)パンデミックとなれば、問題は日本だけではない。世界の感染状況にも広く目を配らなければならない。政府の対コロナ政策は、医学対策と同じくらい、あるいはそれ以上に重要である。政策となると、その正当性を評価し、厳しく批判する視点ももたねばならない。正直、これだけ広い問題、それもオンゴーイングの問題を、短期間に一人で書くのは大変であった」。

 まったくその通りだ。科学ジャーナリズムに長く身をおいたものの一人として、新型コロナの報道には強い関心を持っているが、報道がはなはだ不十分という指摘にはまったく同感だ。日々の報道は感染者や死者数が中心で、棒グラフの世界にすぎず、感染の傾向や分析、問題点もほとんど指摘されていない。命や日々の暮らしを左右する大問題だけに、もう少し何とかならないのか不満に思う人が多いはずだ。

 本書は過去のパンデミックの全体像を概観する序章を含め、14章で構成されている。「人類はパンデミックから生き残った」という序章は過去のパンデミックとしてペスト、スペイン風邪、SARSの世界的流行を概観する。筆者は東西の文学作品にも通じている。ペストでは、14世紀のヨーロッパでの流行で、フィレンツェを逃れた男女の物語「デカメロン」が紹介される。17世紀の物理学の巨人ニュートンも学位をとったばかりのイギリス・ケンブリッジの大学が閉鎖されたため、生まれ故郷の田舎に疎開し、思索を深めたという。カミュの「ペスト」は流行におののく1940年代のアルジェが舞台になっている。

 第一次世界大戦当時、世界に猛威をふるったスペイン風邪は日本でも65万人の死者が出た。芥川龍之介も感染した。1918年11月の手紙。「僕は今スペイン風邪で寝ています。うつるといけないから来ちゃだめです。熱があって咳が出てはなはだ苦しい」。病状は重く、辞世の句まで書いた。翌年2月には再感染する。19年5月、芥川は菊池寛とともに長崎に旅し、当地の病院に勤務していた斎藤茂吉と出会ったが、茂吉も数か月後、スペイン風邪に感染する。重篤な症状で、温泉療養を経て10か月後にようやく職場復帰した。スペイン風邪は当時の患者の組織片から遺伝子が解読され、病気そのものが再現されているそうだ。

 2003年に流行したSARS、2012年から流行が始まったMERSは新型コロナウイルスの兄弟分で、ともに世界的な流行には至らなかったものの、致死率の高い恐ろしい病気だ。SARSは中国・広東省の市場で売られていたハクビシンがよく似たウイルスを持っていたことからコウモリ、ハクビシンという経路が想定されているが、中国は当初、細菌の一種クラミジアが原因と主張していた。「新型コロナウイルスと比べると、SARSの症状は急激かつ劇症である」「急激な進行、そして高い致死率が、結局SARSウイルスの収束を早める結果となった。SARSの患者は、コロナ感染者のように動き回って感染を広めることはできず、死に至る。ホストがつぎつぎに死ぬと、ウイルスは生きる場を失い、自らも消え去るほかにない」「SARSに比べると、新型コロナウイルスははるかにずる賢い。軽症者が80%を占め、しかも、感染しても症状のないときにウイルスをまき散らす。致死率はSARSのほぼ半分。新型コロナウイルスは、SARSと違って、自ら姿を消すことはないであろう」。科学的知見に裏付けられた解説は非常にわかりやすい。この章を読むだけで感染症の知識が大きく増える。

 第3章は「新型コロナ感染症を知る」。最初に登場するのが感染ルートだ。「感染の大元は口と鼻である。感染者の口と鼻から出た飛沫が飛び散り、さらにエアロゾルとなって、人に感染させる。(中略)マスクと手洗いが必要なのは、災いの元に蓋をし、広げるのを防ぐためである」「新型コロナ感染の最も重要なルートは、感染者の唾からの感染である。唾の元、唾液にはウイルスがたくさん含まれている。(中略)飛沫は、遠くまで飛ぶことはなく、ほとんどが2メートル以内に落下する。CDC(アメリカ疾病対策センター)がソーシャル・ディスタンスとして6フィート(1.8メートル)の間隔を推奨したのは、このデータからである」。

 「感染したが症状の出る前、本人も周囲の人も感染していると気づかないときに、感染するようだったら防ぎようがない。そのような困ったことが、新型コロナウイルスで起こることがわかったのは、1月末、ヨーロッパ最初の感染事例の分析からであった」「オックスフォード大学の分析によると、46%が発症前の無症状感染者から、38%が症状のある感染者から、10%が最後まで無症状の感染者から、6%はその他のルートからの感染であると推定している」。

 この事実は新型コロナ対策が非常に難しいことを示す。「街のどこに感染者がいるか分からず、自分も感染しているかも分からない。このような状況の中では、すべての人がマスクをして自らを守り、他にうつさないよう心がけるほかない」「感染者、症状のある人のみを検査対象としたのでは、感染原を同定できない。健康と思われる人を含め、すべての人を検査しなければならない」「それでも、感染は防げない。パンデミックは避けられない。このことが確認されたのは5月初めである」

 「ヨーロッパからの報告によると、417人の中軽症患者の85.6%が嗅覚異常を、88.0%が味覚異常を訴えたという。11.8%の患者では、他の症状よりも前に、嗅味覚障害が現れている。44%の患者では、この異常は早期に回復した」。筆者はユーモアのある人だ。本書は随所にコラムがあるが、「コロナ感染を自己診断するメニュー」まで登場する。焦げたトーストやカレーライスなど香りが強いものばかりだ。自己診断に役立つということなのだろうか。

 第3章は「感染を数学で考える」。「医学部卒業生の中には、司法試験に合格する人、文学で名をはせる人は時折いるが、数理の世界に入る人はそれほど多くない。私の経験でいえば、医学部とは数学のできる学生を入学させて、暗記教育により数学的才能を潰して卒業させるところである。(中略)西浦博(注:京大教授、理論疫学)はその貴重な例外であった」。

 評者がうれしかったのはイタリアの物理学者パオロ・ジョルダーノ(2020年8月13日、「コロナの時代の僕ら」参照)が引用されていることだ。最小限の数式を使いながら、感染に関する数学が紹介される。一人の感染者が何人にうつすかを示す再生産数も登場する。有効再生産数を調べることのできるサイトも紹介されている。ジョルダーノが紹介したSIRモデルにも触れ、西浦氏の仕事も紹介されている。

 第4章は「すべては武漢から始まった」。石正麗という武漢ウイルス研究所の女性研究者が洞窟のコウモリからSARSウイルスに似たウイルスを発見した仕事を紹介している。ただ、このウイルスに関連した実験が十分な安全レベルの研究施設で実施されなかったと明らかにされたことに強い驚きを示している。

 第6章は「日本の新型コロナ」。ここでは2020年10月に発表された民間臨調の報告書から多くのデータが引用されている。このプロジェクトには評者も関わっていた。ダイヤモンド・プリンセス号の集団感染については、「ニュースを見ながらどうしてこんなにPCR検査が少ないのか理解できないでいたが、それは厚労省が乗客、乗員全員の検査に反対したためであることなど知る由もなかった。その結果、2週間にわたり、限られた数の検査をし、そのたびに数十人ずつ陽性者を発表することになった。(中略)実際には2月5日に乗客が自室監禁になってからは感染は収まり始めていた」「最終的には感染者712人、死亡者14人であった。感染率19.8%、致死率2.0%。日本全体をクルーズ船と考えると、2530万人が感染し、50万人が死ぬことになる」。筆者は乗客の一人、小柳剛氏の体験記を引用する。「それを読むと、その後半年以上にわたる日本のコロナ対策の縮図を見る思いがする。リスクコミュニケーションが全くなく、PCR検査は下船4日前に1回あっただけ、下船後14日間外出自粛を要請しておきながら公共交通による帰宅しか用意しない、などなど」。評者も船に缶詰めになっていた乗客が下船後、公共交通機関を使って帰宅するしかないと知り、愕然とした。

 この章には日本を襲った第一波、第二波の感染の広がりやウイルスの変異についてもまとめられている。最初、日本で検出されたのは中国で発生したウイルスだったが、3月に入ると、ヨーロッパで変異し、広がっていた感染力の強いウイルスが持ち込まれた。「春休みのヨーロッパ休暇から帰ってきた学生や旅行者たちが日本にヨーロッパタイプのウイルスを持ち込んだ。(中略)その頃に海外渡航自粛要請を出していればヨーロッパ型ウイルスの侵入は防げたであろう」。ここでは人種による遺伝的な違いなど「ファクターX」も取り上げられている。東北大学の大隅典子氏は「血液凝固を抑えるワルファリンという薬に対する感受性をファクターXの一つに挙げている。東アジア系の人は、この薬に対する感受性が高いという」。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人から受け継いだ遺伝子が関係しているのではないかという見方も出ている。「スペイン、イタリアの重症患者で発見された3番染色体の重症化リスク領域が、ネアンデルタール人とヒトとの交配によって、現在のヒトに受け継がれてきたものであることがわかった(2016年1月7日付、「ネアンデルタール人は私たちと交配した」)。論文によると、この遺伝子を持つ人は、人工呼吸器を使うリスクが3倍高いという」。この遺伝子の保有者は地域によって異なる。「南アジアでは30%、ヨーロッパでは8%、アメリカでは4%、日本を含む東アジアでは非常に少ない」。

 第7章は「日本はいかに対応したか」。いわゆる日本モデルの検証だ。CDCのような感染対策の司令塔がないことや、2009年の新型インフルエンザ対策報告書が出されていながら、その内容が実現されなかったことなどを批判している。「私の単純な理解では、感染症対策の3本柱は次の三項目である。①感染原の同定、②感染者の同定、③感染者の隔離(必要があれば)」「新型コロナウイルスによる感染を証明するためには、PCR検査によってウイルスゲノムを検出するほかなく、したがって、PCR検査なくしてコロナ対策はありえない。日本のコロナ対策の最大の問題は、PCR検査を制限したことである。民間臨調の表現を借りれば、PCR検査は『日本モデル』の『アキレス腱』であった」「日本は新型コロナ検査をおろそかにしている国とみなされ、コロナ対策で存在感のない国になってしまった。ドイツ在住の小説家、多和田葉子は、それまでアジアと言えば、中国と日本であったのが、コロナ問題では台湾と韓国が評価を上げたという」。

 「何故こんなに少ないのだろうか。私だけでなく、私の周囲の医学関係者は、例外なく、その理由を理解できないでいた。(中略)驚いたことに、PCR検査が少ないのは、専門家会議と厚労省の確固たる方針であったのだ」「症状のはっきりした患者と濃厚接触者にPCR検査を行うという方針である。症状がない人は健康であり、病気でもない人に検査をするのは、健康保険の方針に反するからである」。ここでも民間臨調報告書の補足資料の「内部秘密文書」が引用されている。この文書では「PCR検査の感度と特異度が100%でないことを強調し、検査を広げた場合、偽陽性者が増え、医療が崩壊するという内容であった」「PCR検査を広げると医療崩壊になるという論理は、本末転倒である。感染者を見つけることが。新型コロナ対策の基本である感染者が出ることを恐れ放置したら、感染が感染を呼び、感染者の『倍返し』となって医療が崩壊する。それに、偽陽性者の問題は、再検査や抗原検査などを組み合わせることで、確認すればよい」「最大の問題は、厚労省が政治的に動いて、国民の目が届かないところで、自分たちの主張を通そうとする態度である」。まったく同感だ。

 このすぐ後に日本の対応への評価が出てくる。ベスト10 は、①国民②三密とクラスター対策③医療従事者④保健所職員⑤介護施設⑥専門家の発言⑦中央・地方自治体の担当者⑧ゲノム解析⑨在外邦人救出便⓾新型コロナ対応・民間臨時調査会だった。一方、ワースト10は、①PCR検査②厚労省③一斉休校④アベノマスク⑤首相側近内閣府官僚⑥感染予防対策の遅れ⑦分科会専門家⑧スピード感の欠如⑨情報不足⓾リスクコミュニケーションとなっている。

 第9章から11章は新型コロナの診断、治療、感染予防についてだ。感染予防ではワクチンや集団免疫のほか、BCG接種も挙げられている。「コロナが猛威をふるっている国、アメリカとカナダ、イタリアは、BCGを接種したことがないという共通点がある」という指摘がある。「ヨーロッパの多くの国は、過去にBCGを接種していたが、1990年代前後に接種をやめている」。BCG非接種国は感染、死亡が多いという指摘もある。だが、筆者は冷静だ。「国別の比較研究は、非常に興味深いが、医学的証拠としての価値は低い。比較記述するだけの『記述疫学』から、仮説を証明する『分析疫学』に進んで、はじめて信頼できるデータになる」。BCGと新型コロナの関係についてはすでにヨーロッパで研究が始まっているという。

 第12章は「新型コロナと戦う医療現場」。5月末時点で、70人以上の院内感染者を出した東京・上野の永寿総合病院の例が紹介されている。院内感染と懸命に戦った看護師の手記も紹介され、医療従事者が極限的な状況のなかでコロナと戦ったことがよくわかる。科学的、医学的な内容が主体だが、コロナと戦う広範な人々の対応に目配りしているところはさすがというほかない。岐阜大学学長を務めた経験から病院経営についても言及がある。コロナと関連する問題をこれだけ幅広く網羅したのは本書が初めてだろう。患者の視点では、「保健所に134回電話して、やっとPCR検査」という若い女性新聞記者の手記もコラムとして掲載されている。

 最終章の第13章は「そして共生の未来へ」だ。「ここまで来てしまったら、コロナは簡単に収まるはずがない。収まったと思っても、どこかに隠れているウイルスが、いつ顔を出すか分からない。今世紀も、来世紀も、新型コロナウイルスは生き続ける。われわれも、コロナと共に生き続けるほかはない」。ここではコロナ臨調の前身ともいえる10年前の民間事故調の教訓が引用されている。それは「同じ危機は、二度と同じように起きない」「同じ危機は、二度と同じようにやってこない」だった。

 「おわりに」に筆者の本音が集約されている。「本書を書きながら感じたのは、新型コロナウイルスは何と頭がよく、そして残酷なウイルスなんだろうということであった」。執筆に与えられた時間はわずか4か月余りだった。「腰に悪いと知りつつも、毎日朝から夜遅くまで、コンピュータに向かい、インターネットで調べ、エクセルで計算し、パワーポイントで図を書き、ワードで文章を書く毎日だった。この間、コロナにも感染せず、熱中症にもならず、完成まで生き延びられたのは幸いであった」。1936年生まれの筆者は84歳だ。高齢の研究者が内外の膨大な資料や文献を渉猟し、執筆したのには本当に頭が下がる、しかも科学的に最新の事実を論文をもとに大変わかりやすく書いている。政府の対応への批判は手厳しいが、それは当然だろう。一方で、医療現場など当事者の努力にきちんと触れて称賛している。今、まさに動いている複雑きわまりない問題を的確にまとめた筆者の努力に惜しみない拍手を送りたい。一方で、大手メディアがこの問題で、十分に貢献できていないことを少し情けなく思った。すべての人に勧められる新型コロナの必読書だ。多くの人に読まれ、正しい知識が広がることを期待したい。