ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

ハダカデバネズミのひみつ 岡ノ谷一夫・監修 低酸素でも生きられる長寿命の不思議なネズミ

2023年02月22日 | 読書日記
ハダカデバネズミのひみつ 岡ノ谷一夫・監修 アフリカ生まれの極め付きのかわいい珍獣



 ハダカデバネズミという珍しい生き物のことを知ったのは「生物はなぜ死ぬのか」という新書を読んだときだ(本ブログ2021年9月7日付けで紹介)。アフリカの乾燥地帯の地下に生きる長寿命で、低酸素でも生きられる不思議なネズミとして紹介されていた。その時は奇妙なネズミがいるなと思っただけだったが、一冊丸ごとデバネズミに関する本があるというので、早速読んでみた。監修は生物心理学者で東大大学院総合文化研究科教授の岡ノ谷一夫氏。デバネズミに関する内外の論文を読み込んだライター立花律子さんの原稿を出版社の編集者がまとめ、それを岡ノ谷氏が監修するという体裁だ。デバネズミ愛にあふれた人たちの努力が結集した一冊というべきだろう。

 デバネズミが生息しているのは東アフリカのケニア、エチオピア、ソマリアのサバンナ(草原)地域。といっても地上ではなく、地下に堀りめぐらしたトンネルの中が住みかだ。地上にはライオンやアフリカゾウ、キリン、サイなど大型の哺乳類が行き交う自然豊かな地域だ。その草原の地下に、平均して80匹、多い時には300匹が群れをつくっている。体長は10センチ足らず。体重は30~80グラムとかなり小さい。地下で暮らすのは天敵から身を守るのと、エサになる地下植物や植物の根やイモがとれるからだ。1980年代に行われた追跡調査によるとトンネルの全長は10キロにも及ぶという。乾燥した硬い土を生存のために「掘って・掘って・掘りまくる」。そのためにシャベル代わりになる大きな出っ歯が生えている。デバネズミはヘビが天敵だというが、狭いトンネルは侵入しにくいし、侵入されても反撃しやすい。トンネルの中は約7%という低酸素状態だが、デバネズミは酸欠に耐えられる強靭な生命力を持っている。地上の酸素濃度は約21%で、18%以下になると人間は酸欠死してしまう。

 デバネズミは、哺乳類齧歯目のヤマアラシ亜目デバネズミ科デバネズミ属に分類される。齧歯目は哺乳類の約半数を占め、2000~3000種を擁して繫栄しているが、ネズミ、リス、ヤマアラシの3つの亜目に分類されている。ヤマアラシ亜目のデバネズミは種としてはネズミよりもヤマアラシに近いのだろう。

 デバネズミ科には15種が知られていて、その祖先は2500万前からアフリカ大陸に生息していたらしい。ハダカデバネズミの化石も700万年から1万年前の地層から発見されている。「デバネズミ科に分類される種に共通するのは地下生活を送ることと、出っ歯化した門歯を有すること、行動生態は種により単独性と群居性とに分かれます」。デバネズミは哺乳類にはきわめて珍しい真社会性を持つことで注目されている。真社会性が知られているのは哺乳類ではハダカデバネズミとダマランドデバネズミだけ。しかも体毛がほぼないのはハダカデバネズミだけだ。真社会性というのは聞きなれないが、ハチやアリのように女王を頂点にした役割分担のある社会集団を形成する動物のことだ。ハチやアリは無脊椎動物で、脊椎動物で真社会性が知られているのはハダカデバネズミの種類だけ。この事実は1981年、アメリカの科学誌サイエンスに発表され、学界にセンセーションを巻き起こした。その後、急速に研究が進展したが、それまではまったく手つかずの分野だった。

 デバネズミの群れは「女王」1匹と1~3匹の「王」で構成され、女王と王が繁殖を担う。それ以外の群れの数十匹は繁殖にはかかわらず、小型の個体は穴掘り、食料調達、子育てなどの「雑用係」(働きデパ)を担当する。大型の個体は巣を防衛する兵隊だ。出っ歯は上だけでなく、下からも生えていて2本が一対になっている。特徴的な歯は口(口唇)の外側。「つまり門歯は口唇に収められることなく常に外に飛び出した状態というわけで、常に出っ歯が目に入るのはそのためです。(中略)ちなみにデバの口腔には左右3対、計12本の臼歯が並んでいます」。目は直径1ミリ程度と小さく、地下にいるために退化し、ほとんど視力はない。だが、彼らはかなり素早く真っ暗なトンネルの中を走り回ることができる。これは体の要所に生えた感覚毛と呼ばれるセンサーの情報と仲間との音声を通じたコミュニケーションによるものだ。ほとんど無毛の皮膚はシワシワに覆われている。これも暗いトンネルをかなりのスピードで移動するので、木の根など障害物にひっかかっても皮膚が破れにくい構造だという。無毛だとノミやダニなど寄生虫がつきにくい利点もある。真社会性で注目されるデバネズミだが、固定した役割分担だけでなく、あえて群れから旅立つ個体があることも知られている。これは種の保存を目的とした「遺伝子の拡散を目指す」ための行動なのかもしれない。

 それでは地下での生活はどうなのだろうか。巣穴に入るのは直径2.5センチ程度の細いトンネル。これが地下50センチほどの深さにある直径4、5センチのメインのトンネルとつながっている。その太いトンネルはメンバーの居室、トイレ、細いトンネルの中で方向転換をするための小部屋につながっている。「女王は妊娠・出産を行う唯一の雌で、ほとんどの場合コロニー内でいちばん体が大きく強い個体です。その子どもたちは成長すると雑用係や兵隊となり、女王を率いるコロニーを盛り立てるべく働きます」「雑用係がふとんと化して温める巣の中心に陣取り、同じく雑用係たちが運んでくる餌を食べて子を産み、授乳、子育てと並行して巣穴をパトロールして回り、雑用係がさぼっていると威嚇します」。妊娠期間は同サイズのねずみより長く、約80日。一度に10~20匹を出産する。野生下では食べ物の豊富な雨季に出産するが、飼育下では最大年4回出産することも。オスの王はコロニーに1~3匹存在する。「最初は丸々としたオスが王になると徐々にやせ衰えていくという観察事例が数多く報告されています」「女王には交尾を要求する鳴き声があり、王はこれを聞くと女王にマウントして交尾しなければなりません」。王と言ってもなかなかストレスがあるようだ。

 「女王の産んだすべての子どもたちはオス・メスともに生後1か月ほどで離乳し、何かに組み込まれたプログラムのようなものに突き動かされるように働きはじめます」。体格のいい個体が兵隊になり、兵隊は他のコロニーから来た個体が侵入してきたときは出っ歯を駆使して戦うが、天敵のへびが侵入してきたときはまっさきに向かっていく。戦わずに身を挺する「捨て身戦法」でコロニーを救う。群れのために身を犠牲にする厳しい役割だ。

 雑用係の大事な役目は気温が下がったときなど、文字通りの「肉ふとん」(写真下)と化して女王の産んだ子どもたちを温めることだ。デバネズミは毛のない変温動物なので、こうしないと生まれたばかりの弱い赤ちゃんを守ることができない。肉ふとんはデバネズミの特徴のひとつとして知られるようになった。幾重にも積み重なるふとんの下は息が詰まりそうだがが、「低酸素・高二酸化炭素耐性」なのでまったく平気らしい。



 次に紹介されているデバネズミクイズが面白かった。デバネズミは普通のネズミの10倍近い約30年も生きるといわれている。その個体が若いか、そうでないかを見分ける方法がある。個体の体色の変化で、「背中側が黒っぽく、腹側にかけて徐々に白くなっているのが若い個体。6歳くらいになると背中側も白っぽくなっていく」。「歳をとるにつれ、皮膚はさらに薄く白く、見た目はよりシワシワに」「兵隊になるか雑用係になるかは生まれたときには決まっていない」「ハダカデバネズミは生後1カ月ほどで離乳しますが、実はそこでいったん全員が雑用係に、その後、体の大きさや巣内の役割分担状況により、一部が兵隊化していくのです」。

 狭いトンネルの中で進行方向の違う2匹が出くわしたら、どうなるのだろうか? これは弱肉強食のおきて通り、「大きな個体が小さな個体の上を通る」。ちなみにふとん係は「かなりの個体を乗せた状態でも、苦しむどころか熟睡できるのだとか」。さすがというほかはない。

 その次の章が「ハダカデバネズミの研究のあゆみ」だ。実はハダカデバネズミは19世紀にドイツの探検家によって一度「発見」されていた。博物学者のエドゥアルト・リッペルがエチオピアで調査し、1842年に記録を出している。1830年に調査していた。現地ではその存在は知られていたが、行動や生態など詳細は不明だった。学名はこのとき付けられている。リッペルは風貌のうかがえる博物画とともに報告したが、彼自身は毛のないネズミを「病気や老衰で毛が抜けた個体か、逆に鳥のヒナのように毛が生えそろう前の若い個体と考えていた」ようだ。

 真社会性の発見は20世紀後半になってからだ。ジェニファー・デービスというケニア・ナイロビ大の女性研究者がハダカデバネズミが大きな規模の群れをつくり、協力して地下生活を送っていることを発見した。彼女はその後、南アのケープタウン大学に移ってデバネズミの飼育研究に取り組む。一方、アメリカ・ミシガン州立大学教授の進化生物学者リチャード・アレクサンダーは真社会性の研究をし、シロアリの研究から、仮に真社会性の哺乳類がいるとすれば、地下に住むネズミの仲間で、「熱帯乾燥地帯の硬い土壌の地下に、捕食者が侵入することができないトンネルを掘って生息している」「食性は生息地近くでとることのできる植物の根など」という仮説を立てていた。アメリカ・北アリゾナ大で彼が講義したとき偶然、ジャービスの研究を知る人がいて、アレキサンダーに彼女の研究の内容を伝えた。二人は手紙で連絡をとりあい、アレクサンダーもアフリカを訪問して、1981年のサイエンスでの論文発表につながった。ナイロビ大で学位を取得したジャービスはケープタウン大の動物学教授となって、世界のハダカデバネズミ研究をリードしたが、世界各地の研究者のサポートにも努めた。岡ノ谷氏は千葉大助教授時代に、ハダカデバネズミの研究に取り組んでいたが、研究室のネズミの大部分はジャービス氏から提供されたものだった。その後の研究で、デバネズミは17種類の鳴き声を使い分けていることが知られるようになった。トンネルで仲間と会った時のあいさつや、仲間同士の小競り合いの騒がしい声、外敵と会った時の声、女王や王の交尾、排尿の際の声など多様な声が識別されている。これほど多様な声を識別するネズミはほかに知られていない。音が聞こえる範囲は65ヘルツから13キロヘルツで、人間にも聞こえる音域だ。ハダカデバネズミは長寿動物としても有名だ。普通のネズミの10倍の約30年も生きるという。生理学的な研究ではヒアルロン酸の分泌量が多いことがわかっている。ヒアルロン酸は細胞の結合が主な役割で、ヒアルロン酸が多いことが皮膚の弾力性を増し、トンネルで暮らす適性を高めているという。またヒアルロン酸は細胞の数の制御にも関係していて、細胞が無限に増殖するがん化を防ぐ役割をしているとも考えられている。

 日本ではハダカデバネズミの細胞から、iPS細胞がつくられている。2016年5月に北大遺伝子研究所と慶応大生理学研究室のグループがiPS細胞の作製に成功している。2017年にはアメリカ・イリノイ大のグループが、ハダカデバネズミはまったくの無酸素状態でも18分間も耐えられることを明らかにした。もちろんほかのネズミはすぐに死んでしまう。無酸素状態になると、一種の仮死状態に陥って生命を維持する能力があるらしい。こうした能力を持つ哺乳類は知られていない。

 本書はデバネズミ研究に取り組む研究者の様子も詳しく紹介していて、それがなかなか興味深い。そもそも日本でデバネズミ飼育が始まったのは1998年7月だ。埼玉県こども動物自然公園の飼育員だった日橋一昭氏が1987年、アメリカ・シンシナティ動物園の昆虫館でデバネズミを目にし、不思議な生き物に魅了された。その後、10年がかりでようやくニューヨークの野生生物保全協会(ブロンクス動物園)から10匹を迎えることができた。監修者の岡ノ谷氏は1999年10月から手探りで研究用の飼育を始めた。その後、ジャービス教授の好意で30匹を譲り受け、幾多の困難を乗り越えて飼育に成功した。岡ノ谷研究室はその後、理研へ移動したが、順次個体数は増え、2008年には約100匹になった。その後、岡ノ谷研究室が研究テーマを変更し、デバネズミの飼育研究をやめたため、今は熊本大学生命科学研究部老化・健康長寿学講座の三浦恭子准教授の研究室(通称・くまだいデバ研)が日本で飼育研究をする唯一の研究室となっている。三浦氏は京大iPS研究所でノーベル医学賞受賞者の山中伸弥教授に師事していた。本書は2020年8月の発行だが、その時点でデバネズミは600匹に増えている。三浦氏は京大iPS研にいた当時、アリやハチのような分業制集団生活、長寿、がん化耐性といった特徴を持つデバネズミに魅せられ、自分の研究テーマとして選んだ。最初に、理研から東大に移動した岡ノ谷氏から約30匹を譲り受け、熊大に正式に「デバ研」を立ち上げたのは2017年だった。デバネズミ飼育のノウハウは、埼玉県こども動物自然公園や、デバを飼育する上野動物園の協力を得たという。本書には三浦氏のロングインタビューが掲載されている。「デバはいろいろな行動があり、とにかく見ていて飽きないです。つぶらな目を閉じてリラックスして寝ながらキリキリと歯ぎしりしている姿は萌えます。他の研究室の研究者も時々、癒されに(?)眺めに来ることもありますね」と話している。デバネズミの本格的な研究はまだ始まったばかりだ。「ハダカデバネズミは比較的研究の歴史が浅く、まだ研究者人口も限られている、新しい分野です。老化耐性・がん化耐性・低酸素耐性・特異な社会性などのオモロイ現象のメカニズムは現在のところまだ多くが不明で、まさに研究の種の宝庫です」と大きな期待を寄せる。本書にはリーダーの三浦氏のほか、飼育担当の技術員、研究室の助教や博士研究員などへのアンケートも載っている。みんなデバ愛にあふれる人ばかりだ。

 巻末にはどこでデバに会えるかも掲載されている。札幌市の円山動物園、埼玉県こども動物自然公園(東松山市)、上野動物園小獣館、静岡県河津町の体感型動物園iZOOの4施設だ。いずれも常設展示されている。

 ひとつの珍しい動物をその生態、研究の歴史から研究者まで丸ごと紹介している本は見たことがない。登場する人々もデバ愛にあふれる人ばかりで読んでいて楽しい。遠いアフリカからやってきたデバたちには日本で楽しい時間を過ごしてほしい。本書を読んで、評者もデバファンになった。こんど、上野動物園に出かけたときには是非、出会ってみたい。自然にそういう気持ちにさせる一冊だ。一冊に仕上げた関係者に感謝するとともに、こうした奇特な書物を上梓した出版社(エクスナレッジ)にも感謝したい。カラー写真満載の本書を1400円(税別)で出して引き合うのか心配だが、建築関係の雑誌や専門書の出版社なので、大丈夫なのだろう。出版は文化だということを実感させる。表紙や本文中にに、ふんだんに紹介されているハダカデバネズミのかわいい写真はすべて「くまだいデバ研」の提供になるものだ。

















世界インフレの謎 渡辺 努 世界的なインフレはなぜ起き、日本のデフレはこれからどうなるのか

2023年02月16日 | 読書日記
世界インフレの謎 渡辺 努 物価理論の専門家が世界的なインフレを考察する


 著者は東大教授の経済学者で物価理論の専門家だ。ビッグデータを使って経済活動を分析するベンチャー企業の創業者でもある。啓蒙的な経済学書も何冊かある。日銀勤務や一橋大経済研究所教授などを経て母校に戻った。

 第1章「なぜ世界はインフレになったのか」。「世界がインフレに見舞われるというのは、実に久しぶりの出来事です。インフレ、つまり物価が上がり、経済活動や私たちの生活にダメージを与えてしまうことは、局所的にはこれまでも各地で起こっていました。ですが、米欧の主要な先進国で軒並み8~9%もの高い水準の物価上昇が起こるということは、近年あまりなかった事態です」「世界が低インフレになったきっかけは2008年に起こったリーマンショックです。(中略)リーマン・ブラザーズという世界最大級の金融機関が突如として経営破綻をしてしまい、それをきっかけとして世界的な株価下落、金融不安、そして不況が発生したのです」。当時のことはよく覚えている。評者は北関東の中都市で記者をしていて、地方経済が見る間に縮んでいくのを目撃した。遠いアメリカの金融機関の破綻がなぜ遠く離れた日本に甚大な影響を与えるのか、だれも理解できなかった。

 リーマンショック後に襲来した世界的な低インフレの要因は3つあるという。1つ目はグローバリゼーション。「企業は少しでも安く生産できる場所を求めて生産拠点をグローバルに移動させていきます」。2つ目は少子高齢化だ。少子高齢化が進むと、将来の働き手が減るので将来所得の減少を予想して貯蓄を増やし、現在の消費を減らす傾向が強まる。3つ目は技術革新が頭打ちになり、生産性の伸びが停滞していることだ。その結果、GDPの伸びも低く、低インフレの状態となるという。

 ところが2020年代に入って、物価が急に上がり始めた。22年夏の米欧のインフレ率は前年比8~9%という高い数字だ。各国の専門家によるインフレ予測値も21年後半からは大きく上昇し始めた。この原因として挙げられたのが22年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻と新型コロナ・パンデミックの広がりだ。だが、著者はこれは二つとも間違いだとみる。ロシアによる侵攻の物価への影響は1.5%程度、新型コロナはすぐにワクチンが開発され、パンデミック収束が見通せるようになってきた段階でもインフレ傾向は続いている。その原因のひとつに、著者は各国の中央銀行が頼みにした「フィリップス曲線」(下図)が頼りにならなくなったことがあるという。フィリップス曲線は1958年にイギリスの経済学者が見出した失業率とインフレ率の関係だ。失業率(横軸)が高いとインフレ率(縦軸)が低く、逆に失業率が低いとインフレ率が高いという関係が見出された。ところが、21年前半の米国で見ても、失業率が横ばいなのにインフレ率が高くなり、曲線からはみだす現象が出現した。



 「現在のインフレは、経済全体の需要が、供給を大きく上回っているという不均衡によるものです。パンデミックを境に、世界経済は、低インフレ下の需要不足というモードから、供給不足というまったく逆のモードへと、大きく反転しました」。供給が少なすぎることが原因のインフレに、中央銀行は対応できるのだろうか。著者は少なすぎる供給に、中央銀行は直接の対応ができないと論じる。「米欧の中央銀行は『少ない供給』という根本的な問題はいったん棚上げにして、それと平仄がとれるように、利上げにより『少ない需要』へと誘導しようとしているのです」「こんなことになってしまうのは、中央銀行が『少ない供給』に直接対処できないからです。供給を増やす手立てがあればこんなことにはなりません」。

 これは世界的な問題だが、日本はさらに事情が複雑だ。「1990年代半ば以降、日本は四半世紀にわたって、物価が上がらないどころか下がっていくという、『慢性デフレ』に苦しめられ続けてきました」。日銀による異次元緩和政策はその脱却のための努力だった。だが、「異次元緩和開始から10年近く経っても安定的なデフレ脱却が果たされない中、『急性インフレ』という別の物価問題が日本を襲ってきたことになります。海外からインフレの波が押し寄せ、その余波によって物価が上昇しはじめたのです。(中略)そしていまや日本は、『急性インフレ』と『慢性デフレ』が同時進行する、世界でも稀有な国となりました」。そういえば、90年代半ば、ある講演会で、演者が「日本は戦後、はじめてデフレの時代に突入しました」と話すのを聞いて驚いた記憶がある。デフレはそれ以来、四半世紀以上も続いている。

 第2章は「ウイルスはいかにして世界経済と経済学者を翻弄したか」。パンデミックによる経済の影響について2020年当時、経済学者やエコノミストの間で、さまざまな議論が交わされた。だが、そのころインフレが始まると考えたのは著者も含め、ほとんどいなかった。多くの研究者がまず思い浮かべたのは2008年に起きたリーマンショックだった。著者はしかし、コロナのパンデミックとリーマンショックとはまったく性質が異なるという。一つ目はリーマンショックが人災で、米国の住宅市場でバブルがはじけたことが事の発端になった。一方、パンデミックは新型コロナによる感染症が原因で、ある種の「天災」ともいえる。「天災はモノやサービスを提供するための機械や設備を破壊します。同時にモノやサービスを生み出す労働者にもダメージを与えます。企業が人を雇い機械を使ってモノやサービスを作り出すことを『供給』と言いますが、天災はこの供給にダメージを与えるのです。つまり、パンデミックは経済に対する『供給ショック』であり、『需要ショック』であったリーマンショックとは、正反対のものです」。

 著者は100年前に起きたスペイン風邪に注目する。1918年から20年にかけて世界で5億人が感染し、世界人口の2%が死亡した。スペイン風邪によるパンデミックは働き盛りに大きなダメージを与えた。働き手が減少し、生産力を低下させた。「供給の停滞と、感染の収束にともなう需要増が重なって起こるのは物価上昇です。こうして、世界に激しいインフレが襲い掛かってきたのです」。

 だが、2021年の段階でも、IMF(国際通貨基金)は「パンデミックによる『健康被害』が、GDPの落ち込みなどの『経済被害』を生んでいる」と考えていた。著者は当時からこれに強い疑問を持っていた。IMFの考え方が正しければ、人口100万人あたりの死者数など健康被害と経済被害との間には一定の相関が見られるはずだ。だが、そうではなかった。日本のような死者の少ない国と死者が非常に多い米英との明白な差が見られなかった。著者は、政府がロックダウンを強制的に実施した米英と、日本の「緊急事態宣言」のような要請レベルの国との違いも調べた。こちらも明白な差はなかった。デンマーク(ロックダウン実施)とスウェーデン(実施せず)という北欧の隣国の比較でも大きな違いは見られなかった。「政府の介入は経済に大きな影響を及ぼさなかった」と結論づける。

 何が影響を与えたかを突き止めようとする中で、著者は「情報と恐怖」が人々の行動に影響を与えたことに思い当たる。スマホの位置データをもとに緊急事態宣言の人々の行動への影響を調査する。たとえば、東京都では2020年4月7日の緊急事態宣言発出で外出は半減したが、そうした行動変容のうち、「介入効果で説明できるのは4分の1で、残りの4分の3は情報効果によるものだった」。介入効果は宣言の発出効果で、残りはさまざまな情報をもとに人々が「ステイホーム」しようと判断した情報効果だという。これは米国の研究者が分析した米国のデータでもほぼ同じ結果が得られた。ロックダウンした米国と要請レベルの日本がほぼ同じだったということになる。著者は社会実験という言葉を使っていないが、パンデミックが期せずして壮大な社会実験を行ったことになる。

 それでは2020年以降、世界的なインフレを引き起こしている原因は何なのか。ひとつはモノとサービスの価格差。モノとサービスの価格は同時に上がるが、モノの上がり方のほうが著しい。これはサービスの方が価格硬直性が高いと考えると説明がつく。モノが上がると需要のシフトが起き、需要の減少からサービス価格は下がるはずだが、サービス価格は人件費が大部分なので急には下がらない。「上がるほうはしっかり上がり、下がるほうはさほど下がらないので、全体として物価が上昇するーーこうして、米欧のインフレは引き起こされているのです」。行動変容は消費者に限らない。労働者にも大きな行動変容が起きている。欧米では大離職と呼ばれる現象がみられる。パンデミックを機に退職を早めたり、離職後、職場に戻らないというケースだ。これはソーシャルディスタンスの重要性が力説されたコロナ「後遺症」とみることもできる。同時にグローバリゼーションの見直しも急激に進み始めている。ウクライナ侵攻では地政学的な供給網の寸断によるリスクも意識されている。著者はこうした行動変容が同時に起きたことで各国で激しいインフレが起きたとみている。

 それでは世界的なインフレやわれわれに重大な影響を与える日本の経済は今後どうなるのだろうか。著者はIMFが発表した世界各国のインフレ率の表を提示する。一部は予想だが、22年の日本のインフレ率は前年比0.984%で、192カ国中の最下位。米国は7.68%、英国は7.41%、ドイツは5.46%で、各国の中央銀行がインフレ目標率とする2%を大きく超えている。ヨーロッパは日本とはやや事情が異なるが、韓国も3.95%で日本より高い。「このデータを見る限り、2022年現在の日本のインフレは、物価高が喫緊の課題であるとメディアが謳うのとは裏腹に、少なくとも他国との比較においては圧倒的に低いインフレ率であり、危険な水準とは言い難い状況にあることがわかります。むしろ、日本が世界各国から『取り残されている』、異様な状態にあると私はみています」。

 こうした発想をもとに、著者はデフレを可視化することを思いつく。これは消費者物価指数の算出に使われる600品目のそれぞれに、前年同月からどれだけ上がったか、下がったかをグラフに描くやり方だ。複雑なやり方のようには思えないが、過去に例がなく、著者の名前から「渡辺チャート」(下図)と呼ばれている。2022年6月の数字をもとにチャートをつくると、都市ガスや電気代の値上がりが激しいが、「もうひとつの注目点は、横軸(前年比のインフレ率)のゼロ%の近辺に鋭角的にそびえたつピークです。これは多くの品目がインフレ率ゼロの近辺に集中していることを意味しています。正確に計算すると、私たちが日常的の購入するモノ・サービスのうち約4割がゼロ近辺にあることがわかります。言い換えれば、日本の企業の約4割は昨年と同じ値札をつけているということです。われわれはこれを日本企業の『価格据え置き慣行』と呼んでいます」。



 この現象は1990年代後半から観察されるようになった。欧米では見られず、日本に特異的な傾向だ。輸入品を中心にした急性インフレと慢性デフレとが共存する日本の病理は米国などより深い、と著者はみている。この原因を調べるため、著者は米、英、カナダ、ドイツ、日本の5カ国で消費者にアンケート調査を実施している。「今後1年で物価はどうなると思いますか」と聞くと、日本以外では「かなり上がる」が30~40%にのぼった。ところが日本では10%未満と少ない。次の設問で、「行きつけのスーパーマーケットでいつも購入している商品を買おうとしたときに、価格が10%上がっていたらどうしますか?」と尋ねると、日本では6割弱が「他の店に行く」と答えた。他国では「いつもの店で値上げされた商品を買い続ける」が大勢を占めた。著者は日本の消費者の「値上げ嫌い」と企業の「価格据え置き慣行」の強さを指摘する。「日本の消費者が値上げ嫌いなのは、もともとそういう国民性だからというわけではありません。インフレ予想が低いからなのです。なぜ日本人のインフレ予想が低いのかと言えば、それは長期にわたってゼロ近辺のインフレを経験してきたからです」「『値上げ嫌い』は消費者だけでなく、日本の企業の行動も大きく変えました。値上げをしたら日本の消費者は他店に逃げてしまう。(中略)そのため日本の企業は、原価が多少上がってもそれを価格に転嫁することをしません。渡辺チャートでゼロ%のところにピークがそびえたつ異様な光景、つまり企業の『価格据え置き慣行』は、このようにして生まれたのです」。

 だが、値上げ嫌いにも最近は変化がみられ始めたという。2022年5月の調査では、同じ質問で、物価が「かなり上がる」という予想が増え、「ほとんど変わらない」が減った。それと呼応して、「行きつけの店での10%の値上げ」に、「他店に行く」は21年の57%から44%に減少し、「いつもの店で値上げされた商品を買い続ける」が56%を占めた。「値上げ嫌い」は少しづつ変化してきている、と著者は見ている。

 「低すぎるインフレ予想・値上げ嫌い・価格据え置き慣行、という日本のノルムを構成するいくつかの要素に、いずれも変化の兆しが現れているということになります。安倍政権からずっと試みられていながら果たされなかったことが、少しずつではありますが実現しつつあると私は見ています」。これはコロナウイルスというパンデミックが日本にもたらしたチャンスだと著者は考えている。「人間(政策)が果たせなかったことをウイルスにやってもらうというのは、虫がいいというか、情けないというか、複雑な思いがします。ですが、(中略)与えられたチャンスはしっかり活かすべきなのではないかと、私は考えています」。

 第4章の章末に「『安いニッポン』現象」というコラムが載っている。外食チェーンの大戸屋で人気メニューの「チキンかあさん煮定食」は東京では税込み860円、ところがニューヨークで同じメニューを頼むと24ドルする。ディズニーランドの入場料も日本は7900円から9400円だが、米国のフロリダでは約1万9000円、パリも約1万5000円もする。2013年にはデフレ脱却を目指した日銀の異次元緩和が始まった。「金融緩和により円安を起こし、それを起点として日本のモノ価格を上昇させるというものでした。その目論見どおり円はたしかに安くなりました(1ドル78円から123円に下落)。しかし、モノ価格のほうは、わずかに上がりはしたものの、期待されていた上昇幅には遠く及びませんでした。長らく凍りついていたモノ価格の『解凍』とはならず、その結果、日本のモノが割安になったのです」。

 第5章は「世界はインフレとどう闘うのか」。世界の中央銀行は供給不足によるインフレ対策として利上げを実施している。だが、供給不足に対して直接効果のある対策ではない。供給不足をもたらしたのがパンデミックの後遺症であることは明らかだが、著者はこの治療は不可能で、してはならないと言い切る。「人々の消費トレンドを変えたり、労働者を現場に連れ戻したり、グローバル化を再加速することは、中央銀行にはなし得ない」と断じる。「人々の行動変容は、誰かに命じられたわけではなく、自分で選択したものです。(中略)人々が自分の意志で、よりよく生きようとするためにとる行動そのものを、『治療』したり否定したりすることはできません」。

 その代わりに著者は賃金・物価上昇の好循環を起こすべきだと提唱する。現在は賃金が凍結されているが、賃金解凍スパイラルでは、「労働者は生計費の補填のために相応の賃上げを要求する」→→「企業は人件費の増分を価格に転嫁する」→→「企業は毎年2%で価格を引き上げる」→→「生活者の生計費は毎年2%」上昇する」という好循環のシナリオが実現する。「この一連の過程でもっとも難しいのは、『2%のインフレ』を関係者に共有し、それと整合的な行動をとらせるところです」「ここは政府の出番です。すべての労働者と経営者に対して、『2%のインフレ』を周知徹底し、それと整合的な行動をとるよう働きかけるのです」。異次元緩和初期には似たような政策がとられたが、循環の向きが逆だったと指摘する。企業は2%の値上げを実施するが、なぜ企業が値上げを実施するかは不問にされ、値上げによって企業の収益に余剰が生まれたので、賃上げでそれを労働者に還元するというものだった。値上げで生まれた余剰が労働者に滴り落ちることから、トリクルダウン理論とも呼ばれた。

 これに対し、時計回りのスパイラルは好結果を生むと著者は考える。賃上げの原資は価格転嫁から生まれる。人件費の増分を価格に転嫁でき、そこで賃上げの原資を確保できる。ところが、反時計回りの場合は企業利益の「余剰」が原資で、それを労働者に渡しても経営に支障はないという発想だ。著者はこの循環は「かなり無理のある話」と批判する。著者が提唱する「賃金解凍」の鍵は3つ。最初は「物価は上がるという予想が人々の間で共有され、生活を守るための賃上げは正当であるという理解が社会に広まるか否か」。これまでは「物価は不変という予想が根強かったため、賃上げが正当だとは認識されていなかったように思われます。物価が上がらないのだから賃金も据え置きで仕方がないという理解が一般的だったと言えるでしょう。(中略)こうした中、賃上げを求める声も徐々に増えてきました。状況は改善の方向にあります」「第2の鍵は、『賃上げにともなう人件費の増加分を価格に転嫁できる』と企業が考えるか否かです。(中略)それには、さまざまな業種のさまざまな企業で働く労働者等から一斉に賃上げ要望が出るような工夫が必要です」「第3の鍵は、労働需給の逼迫が日本でも起こるかです。賃金解凍がいったん始まってしまえば、物価が毎年安定的に上昇し、それによって賃金も上がるというのが世の中では当たり前のことになります。しかし、そういう『当たり前』の確立は一筋縄ではいきません。ジャンプスタートのようなものが必要で、それは労働需給の逼迫です」「世界インフレは、新型コロナウイルスの出現そのものではなく、その出現に対して人類が社会的、経済的な行動を変化させたことによってもたらされたことを、おわかりいただけたと思います」「行動を変えること自体を否定したり、止めようとしたりすべきではありません。むしろ、行動変容を手掛かりとして、私たちの社会と経済をよりよいものに変えていく、そうした変革の原動力として活用すべきです」。

 これはまったく評者の手に余る問題だが、著者の主張には大いに共感した。データの扱いや推論も丁寧で、多くの人に読まれるべき書物だ。経済学の知識が乏しいからといって、経済に関心を持たないことは許されない、と反省した。