ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

資本主義と闘った男 佐々木実 水俣病患者や成田闘争に共感した行動派経済学者・宇沢弘文の評伝

2020年01月20日 | 読書日記
資本主義と闘った男 佐々木実 宇沢弘文とは何者だったのか、親しい間柄だった筆者渾身の力作



 宇沢弘文といえば水俣病や成田闘争などに共感し、患者や活動家と積極的に交流したリベラルな経済学者という印象が強い。立派なあごひげがトレードマークだが、表紙の写真は異なる。筆者は大阪大経済学部を出て日経新聞に入るがすぐに退社、その後はフリーで活動している。前著、「市場と権力 『改革』に憑かれた経済学者の肖像」は、小泉政権で経済再生担当相などを務めた竹中平蔵氏の経済学者を超えた特異な活動を描き上げ、大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞した。宇沢とはササックン、ウザワ先生と呼び合う親しい間柄だった。

 本書は宇沢に私淑する筆者が、2014年9月、86歳で亡くなる前から、家族の協力を得て、アメリカの大学在籍時の友人や同僚にまで取材した労作だ。経済学の知識に乏しい評者は、学問の流れ以外の人柄や行動原理を中心に取り上げたい。

 宇沢は1928(昭和3)年、現在の鳥取県米子市で生まれた。入り婿だった父は小学校教師。世界恐慌前夜だったが、3歳のころ、父は家屋敷を売り払って東京に移る。氏は180センチを超える偉丈夫だが、これは父親譲り。府立一中から一高に進学するが戦時下で勤労動員の毎日。東京の実家が空襲に遭い、中国山地にある親せきの寺に身を寄せた。寺では経典を読み漁ったが、托鉢に出たこともある。

 戦後、一高に戻った氏はラグビー部に所属した。当時の一高は全寮制で、寮の部屋はクラブごとに割り当てられ、ラグビー仲間とは終生の友情をはぐくんだ。数学に抜群の才能があり、東大理学部数学科に進学する。当時の数学科は共産党の影響が強く、ここでマルクス主義の洗礼を受ける。といっても党員になったわけではない。勉強会では年下の友人から「宇沢さん程度のマルクス主義経済学の理解ではとても共産党の入党試験は受からないと言われた」。宇沢はこの友人の名前を明かさなかったが、筆者は理学部物理学科の上田建二郎(後の共産党委員長不破哲三)と突き止める。上田は1学年下だった。

 数学科に進学した宇沢は弥永昌吉、末綱恕一の両教授に指導を受ける。二人とも高名な数学者だ。大学院では「給費をもらいながら研究できる特別研究生に選ばれた」。だが、このころからマルクス経済学の習得に精を出すようになる。当時、下宿を一緒にしていた学生に突然、「マルクスは20数歳で経済学を始めたのだから、自分もこれから経済を勉強する」と宣言した。筆者は「医者が人の病を癒すなら、自分は経済学者となって戦争で荒廃してしまった社会の病を癒そう。それが宇沢の初志だった」と書く。だが、恩師たちは落胆した。

 宇沢は大学院をやめるさい、「工員として働かせてほしい」と町工場を訪ね歩いた。「経済学を学ぶには労働者となり、労働組合を結成しなければならない。そう思い込んでいた」。この試みは頓挫するが、筆者はこれにも上田建二郎の影響をみる。上田は卒業後、鉄鋼労連に就職した。その後共産党指導者としての道を歩んだ。

 大学院をやめるのに大反対した末綱教授も、行き先がないとわかると自分が所長を務めたことのある文部省所管の統計数理研究所を紹介してくれた。だが、統計数理研に経済学の専門家はおらず、独学で学ぶしかない。当時の東大経済学部は大内兵衛や有沢広巳などマルクス主義系有力学者の牙城。宇沢は非マルクス系の研究者を紹介されて勉強会に入る。このころ、アメリカの経済学界では数学の知見が猛烈な勢いで導入されていた。「当時、高度に数学化が進んでいた分野が、一般均衡理論の研究だった」。宇沢は論文を読み、「経済学に高度な数学が使用されていることにショックを受けた」。マル経の勉強会では経済学の理論と数学のロジックは相いれないものとされたが、ここでは「とり上げた論文は体裁もまるで数学の論文で、(中略)いきなり経済学に対する考えを根本から揺さぶられた」。

 このころ、経済学の数学化を推し進めるアメリカ学界のリーダー、ケネス・アローの論文と出会う。アローは当時、スタンフォード大で、30過ぎの少壮の経済学者として活躍していた。宇沢の籍はまだ統計数理研にあったが、1年で退職する。上司のセクハラを批判すると所内に波紋が広がり、身をひかざるを得なくなった。ここでも見かねた弥永教授が朝日生命を紹介してくれた。生命保険会社は数学とは親和性が高い。高名な学者が心配するのはよほど才能を見込まれたからだろう。だが、朝日生命の勤務も2年で終わる。会社の経営状態を詳しく知る立場にいた宇沢は、会社の経営陣と労組幹部が結託して賃上げ交渉を乗り切っていることを暴露し、非難を受けた。だが、このころ宇沢が論文をアローに送っておいたところ、リサーチ・アソシエイト(研究助手)としてスタンフォードに招請されることになった。

 筆者は2014年10月、スタンフォード大に93歳のアローを訪ねている。この3年後、アローも亡くなった。取材は2日がかりだったというから、宇沢への強い思いがわかる。「20世紀を代表する理論経済学者」というのが学界の評価だ。「宇沢が渡米した1956年、アローは弱冠35歳で計量経済学会の会長を務めていた」。ノーベル経済学賞は1969年に始まるが、アローは51歳の72年に受賞、これは今も最年少記録だ。

 恩師について、宇沢はこんな感想を語っている。「アローの経済学の原点には(中略)貧しい人とか、あるいは虐げられた人、あるいは経済的に不遇な人たちに対する同感というもの。それがアローの経済学の出発点だと思うのです」。これが宇沢の原点でもあるのだろう。英語にも苦労した。アローは宇沢が「自分のオブリゲーション(義務)は何かとたずねるので、『そうだね、1年にひとつかふたつの論文を仕上げることかな』と話した」が、宇沢は週にひとつの論文と勘違いしたことがあったそうだ。だが、これにはウラがある。筆者は宇沢から別のエピソードを聞いている。スタンフォードに行ってほどなく、アローから呼び出された。宇沢が学会誌に発表した論文が、日本人の別の筆者の論文とそっくりだという。だが、この論文は宇沢が日本の研究会で発表した論文を頼まれて解説したものだった。必死に釈明したが、「身の潔白を証明してみせるしかないと思い詰め、朝早くから夜遅くまで研究室にこもり、論文執筆に没頭する」「わずか数カ月で20本を越える論文を書き上げていたという」。

 アロー同様、アメリカの経済学界で宇沢を引き立てたのは4歳年長のロバート・ソローだ。筆者はソローにニューヨークで会っている。ソローも87年にノーベル賞を受賞した。ソローの話では、ポール・サミュエルソンも宇沢を高く評価していた。サミュエルソンはアメリカ人として初めて第2回ノーベル経済学賞を1970年に受賞した。筆者は宇沢の資料からサミュエルソンが1957年に宇沢に送った手紙を発見する。それはサミュエルソンに送った論文のお礼で、宇沢の論文をサミュエルソンの未発表の論文とともに同じ学会誌に発表しないかという誘い。これはその翌年、実現した。

 宇沢はフルブライト留学生として渡米し、カリフォルニア大バークレー校にいた浩子と知り合い、1957年12月、教会で挙式する。英語に堪能な浩子の「献身的なアシスト」で、宇沢はアメリカでも充実した暮らしを送ることができるようになった。

 「アメリカの経済学界に宇沢が確乎たる地位を確立したのは、英国の経済学術誌(中略)に『経済成長の2部門モデルについて』(1961年10月号)を発表したときである」。宇沢2部門モデルと呼ばれるようになった分析モデルだ。宇沢は1964年、シカゴ大学からの招請を受け、シカゴ大教授として移籍する。これはスタンフォード大で大きな波紋を生じた。シカゴ大はシカゴ学派として学界に重きをなしているが、その顔となっていたのはミルトン・フリードマン。スタンフォードとは学風が異なっていた。フリードマンは1964年の大統領選で、民主党の現職ジョンソンに挑んだ共和党の超保守派ゴールドウォーターの経済顧問をしていた。ここで宇沢はジョージ・アカロフとジョセフ・スティグリッツという二人のノーベル賞学者を指導する。アカロフの妻は最近まで連邦準備制度理事会議長を務めていたジャネット・イエレンだ。筆者はアカロフとスティグリッツにも会った。アカロフは、「いままで出会った人のなかで誰よりも意志の力が強い人」、スティグリッツは「ヒロは不平等にとても強い関心をもっていましたね。いまでこそ、誰もがこの問題に関心を向けるけれども、彼は当時から深刻に捉えていたのです」と語った。筆者はスティグリッツからシカゴ時代、宇沢が天皇についてたびたび言及していたことを聞いている。昭和天皇には戦争責任があるという話をしていた。宇沢がスティグリッツらを指導していた1965年夏ごろはベトナム戦争が泥沼化していた。「宇沢はアメリカのベトナムに対する軍事介入を、かつての日本への中国侵略と重ね合わせていた。昭和天皇の戦争責任を問うことで、ジョンソン大統領の戦争責任を問うていたのである」。シカゴ大で反戦運動が本格化する前から、ささやかな反戦運動を始めていたという。

 だが、宇沢のシカゴ生活は長く続かなかった。64年4月に移籍したが、68年4月には東大に戻る。わずか4年、しかもそのうち1年はケンブリッジ大に滞在した。突然の帰国については家族にもきちんとした説明をしていない。シカゴやスタンフォードの同僚は帰国に強く反対していた。サミュエルソンも「国際的名声の頂点にあるときに、シカゴ大学の地位を放棄した」と評した。妻の浩子によると、立場の異なるフリードマンも強く翻意を促していた。

 東大に戻ったのは1968年、40歳のとき。折から東大で始まっていた学園紛争が激化する。シカゴ大で正教授だった宇沢は東大に助教授で戻る。翌年、教授に昇格するが、待遇面でも格段の差があった。「研究資金などをふくめると、研究者としての予算は15分の1までに減った」。学園紛争では学生に同情的だったが、シカゴの時とは様子が違った。安田講堂の攻防戦から1週間後、シカゴ大の同僚に送った手紙では「最悪の事態が起きるのを避けるため、この数日間は大学に泊まり込んでいました。わたしたち少数派の努力も虚しく、東京大学のみならず、日本の高等教育は危機的状況に陥ってしまいました」と書く。シカゴ大やスタンフォード大から強い招請があったが、それはすべて断った。

 アメリカで絶頂期にあった宇沢だが、本心は別のところにあった。東大での初期の勉強会の学生の一人、経済学者の岩井克人は「先生の分析手法は新古典派経済学ですが、本当にやりたかったのは市場万能主義の新古典派批判です」と書いている。ゼミの後の新宿・歌舞伎町での飲み会などで、宇沢はアルコールとともにそうした心情を吐露していたようだ。

 宇沢はこのころから、公害問題に強い関心を寄せる。1969年11月、日経新聞に「社会資本の経済学を考える」という論説を発表した。ここでは、「大気、河川の汚染など公害の問題は、経済成長の過程が必然的に生み出す現代社会の宿痾である。わが国でも、最近、経済活動の高度化にともなって、産業、自動車になどによるさまざまな公害が、国民の日々の生活をおびやかし健康をむしばみ、生命の危険すら身近なものになりつつある。しかも、私的利潤の追求を目的とする現在の経済社会では、公害による損失は、被害者の負担に転嫁される場合が多く、社会的評価を試みることも容易ではない」と書いた。

 1976年10月には都留重人が立ち上げた公害研究委員会の季刊誌「公害研究」同人になる。このころから公害問題に関心を持つ研究者との接点が増える。熊本大で水俣病を研究していた原田正純や東大の宇井純ら。彼らは大学で冷遇されていた。

 本書には宇沢と親しかった作家の安岡章太郎のエッセイで、興味深い話が紹介されている。「外国にいた頃、英語で論文を書くぶんには、いくらでも書けたのですがね、日本へ帰ってきて日本語で書こうとすると、サッパリ書けない。これは私のやってきた経済学の発想というかオリジンが、英語をつかって、英語で思考する人たちのなかから生まれてきたからで、私が日本語で論文を書こうとして書けないのは、要するに私の発想のオリジンが私自身のなかにはないからだと思わざるをえない」。二人は朝日ジャーナルの書評委員会で知り合い、意気投合したらしい。

 宇沢は72年4月、宇井が始めた公開自主講座「公害原論」の講師として登場する。東大教授が講師をしたのは宇沢が初めて。名著「自動車の社会的費用」が岩波新書として出版されたのは1974年6月。ベストセラーになって大きな社会的反響を呼んだ。

 「経済成長を追い求める政策からの転換を促す」ため、政治家に接近することもいとわなかった。1973年には自民党の有力政治家、宮沢喜一とエコノミストで対談している。宮沢は池田、佐藤内閣で経済企画庁長官を務めた。宇沢は「政府の最も重要な役割は、一人一人の国民が(中略)基本的権利を享受し、基本的な生活がたえず保証されるような制度をデザインしていくことになるわけです。その場合、企業行動は自由ではあるけれども、拡大する基本的権利を侵害しないという点でのみ自由であることが前提です」と語っている。

 宇沢は、「一時完全に経済学と別れた時期が、10年ぐらいある」と話していた。筆者はこの沈黙を探る。理論経済学者としては英語で発信した論文が指標になる。88年にケンブリッジ大学出版から出た精選論文集には19本が収録されている。もっとも多いのは60年代で13本、50年代、70年代は3本ずつで80年代はない。この間、宇沢は日本語の論文や社会的発言は多かったが、英語での発信には熱心でなかった。その原因を探るため、筆者は日米での宇沢の活動をよく知る青木昌彦に出会う。青木は10歳若く、長くスタンフォード大教授として活躍した。宇沢は日本に帰って、経済学の話をほとんどしなくなったという。「だからぼくが自分の研究について彼に話したこともないんですよ。彼のほうでも聞こうともしないし」。

 宇沢は55歳のとき文化功労者に選ばれ、宮中での茶会に招待された。そこで昭和天皇と対面する。このときの宇沢の感想が文章で残る。「私の順番が回ってきたとき、私は完全にあがってしまっていた。(中略)一生懸命になってしゃべった。支離滅裂だということは自分でも気が付いていた」。宇沢をさえぎって、天皇はこう言った。「君! 君は、経済、経済というけど、人間の心が大事だと言いたいのだね」。この言葉は「まさに晴天霹靂の驚き」だった。

 最後に、宇沢と成田闘争とのかかわりあいについて。三里塚では代執行をめぐって悲劇が起きた。1971年9月の第二次代執行では反対派と機動隊が激突、3人の警官が死亡する事件が起きた。反対派の若者が自殺する痛ましいできごともあった。だが、時間の経過ともに着地点を探る動きが反対派の中にも強まったことで、80年代末には公開シンポジウムを開き、学識経験者を仲介役に立てて現実的な落としどころを探る構想が動き出した。労働経済学の隅谷三喜男らはすぐに決まったが、反対同盟側の学識経験者選びは難航した。結局、宇沢にお鉢が回る。宇沢は熟考したすえ、引き受ける。「成田闘争の平和的解決ということは不可能に近いと思われたのですが、この人たちと一緒に行動するより他に道はないというのが、諦めに似た気持だったのです」。筆者はベトナム反戦運動にかかわりながら、帰国したシカゴ大時代の後悔があったのではないかと想像する。

 こうした場で、宇沢が徹底したリアリストだったのに驚く。筆者は「個人的信条とは相容れない政治的振る舞いも躊躇しなかった」と書く。仲人を務めた弟子を通じ、自民党重鎮の知遇を得て、そこから後藤田正晴の紹介を受けている。その重鎮が内務省で後藤田の先輩だった。成田問題に関わるあいだ宇沢は絶えず、後藤田に支援をあおぎ、後藤田もそれに応えた。3警官が死んだのは後藤田が警察庁長官の時だった。公開シンポジウムは91年11月から93年5月まで15回行われた。最終回で、土地の強制収用を行わない、第2期工事などを白紙に戻す、空港問題の解決を話し合う新たな場を設けることを結論として提示することになった。これは反対同盟側の条件だったが、問題は閣議決定に持ち込めるかどうかだった。

 宇沢はシンポジウムの進捗を後藤田に詳しく報告していたが、ある日、後藤田から呼び出される。当時、後藤田は宮沢内閣の副総理兼法務大臣。大臣室を訪れると、後藤田は総理が外遊中であることを説明し、『宇沢君、きょうは俺が総理だよ。君の案にOKを出す』と笑みを浮かべながらいった」「反対同盟側、政府側がともに隅谷調査団の結論を受け入れたことで、両者の『戦争状態』は終わった」。

 最終章は「未完の思想Liberalism」と題される。哲学者の鶴見俊輔は日本のプラグマティストとして福沢諭吉と石橋湛山を高く評価した。鶴見と親しかった宇沢もこの二人を評価している。最晩年に起きたリーマンショック。宇沢は経済学者の堕落に激しく憤った。経済学者が高額の報酬や講演料を受け取り、金融恐慌の発生に手をかしていた。宇沢の教え子のスティグリッツは金融界と経済学者の癒着を激しく批判したが、宇沢はスティグリッツ以上に憤った。スティグリッツはこう答える。「ヒロが成し遂げた功績にふさわしい注目を集めなかった理由は、意外に単純です。つまり、『危機など決して起こるはずがない』と信じ込んでいる楽観的な経済学者たちの輪の中に、ヒロが決して入ろうとしなかったからなのですよ」。

 終章の最終節は「青い鳥をさがして」と名付けられている。「2014年9月18日。長い闘病を終え、宇沢弘文は静かに息を息をひきとった」。筆者は訃報が流れた日、宇沢家を弔問に訪れた。そこで筆者は宇沢が答えなかったある質問を思い出す。「経済理論をやるのであれば、日本に戻らず、やはり本場アメリカで活動していたほうがよかったのではなかったのですか」。そう尋ねると「しばらく考えたすえ、宇沢は結局何もいわず微笑んだだけだった」。浩子夫人に「帰国してから宇沢先生は変わりましたか」と聞くと、「宇沢はひとりぼっちでした」という返答がかえってきた。筆者はその言葉が腑に落ちたと書く。

 本書はエピソードが満載だが、長いひげの教授が西東京市にある自宅から大学の本郷まで毎日、20キロを走っていたとは知らなかった。青梅マラソンを完走したときの写真も口絵になっている。自動車の効用を厳しく批判した宇沢は車に乗ることも好きではなかったようだ。筆者はなぜ、宇沢がノーベル経済学賞を取れなかったかにこだわり、アメリカの取材では多くの受賞者にそれを尋ねている。全員がもらうべきでしたと一致したが、宇沢自身はシカゴ大を辞した段階でわかっていたはずだ。経済学の流れについては難しいところが少なくないが、宇沢弘文という経済学者がどういう人物かは評者もよく理解できた。86年の生涯を全力で生き抜いた実直で稀有な研究者の物語として読む価値は大きい。





 

 

 

 




 




 

 






























 

林彪事件と習近平 古谷浩一 1971年に起きた林彪事件の真相と中国共産党の権力闘争の本質

2020年01月07日 | 読書日記
林彪事件と習近平 古谷浩一 中国共産党ナンバー2はなぜ死ななければならなかったのか


 1971年9月13日未明に起きた林彪事件。中国共産党ナンバー2だった林彪が軍用機でソ連に逃亡しようとしてモンゴルに墜落、林彪とその妻など9人全員が死亡した。おりしも中国は文化大革命の嵐が荒れ狂い、国内は大混乱に陥っていた。事件は極秘とされ、概要の発表は約9か月後。しかし、半世紀近く経った今も真相が明らかになったとは言えない。本書は朝日新聞中国総局長を務めた新聞記者が事件発生から40年以上を経てモンゴルや中国の現場を訪ね、関連文書を入手して事件を読み解いた労作だ。筆者は中国共産党の強権政治が林彪事件を生み、それが現在の習近平体制にもつながっているとみている。

 評者も林彪事件のことは記憶している。だが、なぜ今、調べ歩いたのだろうという気もした。文化大革命の混乱では1000万人を超える人が死んだといわれる。その反省から、中国では集団指導体制がとられたはずだ。改革開放政策を立案する一方、1989年の天安門事件を弾圧した鄧小平の後、鄧に指名された江沢民、胡錦涛は集団指導の体制で政治運営した。しかし、2012年に国家主席に就任した習近平は2017年に党規約を改正、任期制限を撤廃して権力を集中する。現在の中国は習近平が政敵を腐敗容疑などで次々に摘発、習一強体制を固めた。筆者はそこに半世紀近く前の林彪事件に通じる中国共産党の体質をみる。

 中国では林彪事件のことを9.13事件と呼ぶ。当時の林彪は日中戦争や国共内戦で活躍した将軍とたたえられ、1966年8月には党副主席に、そして69年8月の党大会では毛沢東の後継者に認定された。このころ実権派として糾弾された国家主席の劉少奇が失脚している。だが、林彪と毛沢東との蜜月は長く続かず、林彪が空席だった国家主席のポスト廃止に同意しなかったことから、毛沢東に野心を疑われる。

 公式発表によると、林彪は「毛沢東天才論」を主張し、毛の祀り上げを画策したが、猜疑心の強い毛に逆に警戒された。林彪とその側近に粛清の手が及びそうになると、林彪の息子で空軍作戦部副部長だった林立果が、その年の8月から9月にかけて南方視察中の毛の専用列車を爆破する暗殺計画を立てる。だが、内通で計画を知った毛は予定を変更、上海から北京に戻ったため計画は頓挫した。林彪は妻や長男などごく少数の側近とともに北京近くの空軍基地から軍用機でソ連に逃亡しようとしたが、モンゴルに墜落、全員が死亡した。

 墜落地点はモンゴルの首都ウランバートルから東に行った大平原。軍用機はイギリスのトライデント型で、レーダー探知を避けるためか、モンゴル国境を約3000メートルの低空飛行で超えた。軍用機がなぜ墜落したかは今も謎で、ミサイル撃墜説や機内での混乱などいくつもの推測が出ている。筆者は林彪事件の真相を探るため、墜落地点を訪ねただけでなく、墜落を目撃した当時11歳の少年、墜落翌々日に中国側責任者として、現地入りした中国大使を案内したモンゴル側の要人にも会って、詳しく取材している。

 墜落地点に入った中国大使は「墜落機は軍用機ではない。民間機が誤ってモンゴル領内に入ったのだ」と主張した。衝撃で炎上したため、9人の遺体は激しく焼け焦げていた。筆者は当時、モンゴル外務省の次官だった人物にも会っている。この人物は事件のあった翌14日早朝、ソ連の駐モンゴル代理大使と会った。この段階で、ソ連側はすでに墜落の事実を把握していた。当時のソ連はモンゴルの最大の友好国で、近くの東シベリアには軍の大部隊も駐留していた。林彪機がソ連への亡命を目指し、連絡をとっていた可能性がありそうだ。

 モンゴル側は墜落の事実をソ連への通告から3時間後に中国側に通告した。中国は駐モンゴル大使自身が現場を訪ねたが、これも本国からの指示だった。この段階では遺体の返還要求はなかった。「中国大使の心配は明らかに、機内にどんな機密文書が残されていたかということで、乗っていた人間については関心がないようだった」「中国側が遺体の返還を求めてきたのは、許(中国大使)が墜落現場に入った翌日の16日。現場近くで遺体を埋葬した後だった」。モンゴルとソ連はこの要求に応じていない。

 筆者による取材で、いくつかの事実が判明した。ひとつはソ連側がフライトレコーダーなどの入った墜落機のブラックボックスを持ち帰ったこと。さらに本国から急遽、帰国しての報告を命じられた大使館員は列車で帰国したが、北京に着くとすぐ人民大会堂に案内され、深夜の報告会に出席させられた。聴取にあたったのは首相の周恩来はじめ、外相代理だった姫鵬飛などそうそうたる顔ぶれ。周恩来は林彪が中国軍の機密文書を持ち出し、それがモンゴルを通じてソ連側にわたることを極度に恐れていた。深夜の報告会については館員の回想録が残されている。「孫(帰国した館員)の報告書は周恩来から直接、毛沢東の手に渡ったとされる」「しかし、周恩来や中国外務省の幹部たちは墜落機に乗っていたのが誰だったかを孫に明かさなかった。それが毛沢東の後継者である林彪だったと孫が知るのはそこからさらに12日後の10月3日、党幹部向けの内部文書によってだった」。

 墜落地点の大平原は一帯が焼け焦げ、機体や部品が散乱していた。モンゴル政府は機体損傷の様子から、墜落機は不時着を決意し、高度を下げて着陸を試みたが、減速に失敗して地上に激突し炎上したとみている。全員が死亡したほか、フライトレコーダーもソ連が持ち帰り、その内容が明かされないため、それ以上はわからない。

 評者には墜落現場での目撃者や当時の記録探しの過程が興味深かった。モンゴル側はあまり秘密保持にこだわっていないようだが、中国では事件の真相は今もトップシークレットだ。人民大会堂で聴取を受けた当時の館員の回想録が残っていたのには驚いた。

 トライデント機はもともと商用機なので数十人は乗れた。あわただしく北京近くの軍用空港を出発し、機内には林彪と関係者のほか、機長が一人乗務しただけだった。この機材は本来、機長と副操縦士の2人乗務で、筆者は生き延びた副操縦士に会うことにも成功した。副操縦士らは行先を告げられないまま空港に待機していた。翌日に出発の予定だったのが、日付が変わった直後、副操縦士や通信士らを載せないままエンジンが始動し、あわただしく離陸した。このとき、空港に陸軍の兵士がトラックで到着し、「飛行機を止めろ」と命じたが離陸した後だった。追手を避けるための緊急の飛行だったようだ。周恩来は北京の軍司令官に専用機と交信するよう命じたが、交信できなかった。司令官は空軍機を飛ばして飛行を阻止すべきか聞いたが、周は、「毛主席は言った。(中略)『阻止するな。行かせてやれ』と。それに、林彪は副主席だ。撃ち落としたら人民にどう説明するというんだ」と話したという。

 筆者が墜落現場を訪ねてわかった事実がある。当時、モンゴル内務省幹部だった人物によると、「事件から約1カ月後、ソ連の専門家からなる調査団が遺体をここ(埋葬地)から掘り出して、9体のうち2体の頭部などをモスクワに運んだ」。林彪はソ連で頭部の治療を受けたことがあり、人定のための検分だった。遺体は掘り起こされ、ウランバートルで火葬された。

 中国指導部が対外的に林彪事件を認めたのは1972年6月、毛沢東がセイロンの首相と会談したときだ。このとき、「毛は林彪の名前を挙げて事件を認めた。この情報が他国の外交関係者にも伝わり、西側諸国の間でもはっきりと確認されることになった」「当時の国際情勢を振り返ってみると、中国共産党の序列第二位・林彪による最高指導者・毛沢東の暗殺未遂事件とその後の動きを対外的に知られたくなかったという、中国側の事情が浮かび上がる」
「林彪事件からほぼ1か月後の1971年10月、キッシンジャー米大統領補佐官が訪中。翌年の72年2月にはニクソン米大統領が電撃訪中し、世界を驚かせる」。日中国交正常化も72年9月のことだった。

 筆者はモンゴル政府関係者から「極秘」と銘打たれたソ連・モンゴルの中間調査報告書を見せてもらう。それには「9人全員の死因はいずれも、生前に受けた致命的な傷害による」とし、死因は墜落による衝撃が原因と示唆している。また中国空軍の調査チームは報告書で、「墜落現場は、着陸のために選ばれた場所とみられる」「翼から着陸のためのフラップが下げられている」と不時着態勢に入ったものの、速度が速すぎたために墜落したとみている。空中爆発説は完全に排除できるという。

 林彪事件は中国共産党の大きな暗部として、いまだに真相や全容が明らかにされていない。1960年代半ばからの文化大革命や天安門事件など、中国には秘められた巨大な暗部が少なくない。現在も続く新疆ウィグル自治区での100万人を超えるウイグル族の強制収容もそのひとつだろう。林彪事件に関する詳しい説明の後、筆者は「今、習近平がやっていること」というタイトルで、中国の現在をルポする。

 「中国は変わったなと思う。習近平体制になってから、中国社会は急速にモラルを失っている」。新聞記者らしく、いくつものインタビューをもとに構成する。匿名を条件に話を聞いた老学者は、「文革によって、中国人は信じるものを失ってしまった。信じるものがなければ、道徳はなくなる。本当の意味で国を愛する気持ちもない。金だけがすべてだ」と話した。「どの段階で、文革は誤りだと気づきましたか」と聞くと、「林彪事件だ。昨日まで毛主席の後継者と言われていた人物が、ソ連に亡命しようとしたという。何かがおかしい。あれでもう毛沢東のことも、共産党のことも、何の疑いもなく、崇拝することはできなくなった」と答えた。

 作家の魯迅は日本に学んだとき、医学から文学の道に転じることを決意した。彼の作品は現代中国でも強く支持されている。「もし、今も魯迅が生きていたなら、何を思うだろうか」「中国の友人にそんな話をすると、過去に同じような質問を、毛沢東が受けたことがあると教えてくれた」「出席者からの問いに対し、毛沢東は、あっけらかんとした調子で、答えたという。『(魯迅が生きていれば)牢獄に入れられ、そこで書き続けているか、あるいは何も言わなくなっているかだな』」。1957年、上海で開かれた文芸関係者らの座談会での発言という。

 筆者は共産党幹部の立場で文革を経験した天津社会科学院名誉院長の王輝氏にインタビューする。氏は文革当時、天津市の革命委員会弁公室主任などの要職を歴任し、文革終結後に職務を一時停止されるが、82年に復権した。氏は造反派や紅衛兵に何度も捕まったという。「社会は混乱し、あらゆる規範を失っていました。恐怖でした。文革の初期、批判を受けた党幹部の自殺が最も多かったのです。私は文革弁公室の副主任として毎日、誰々が川に飛び込んだといった報告を受け続けました」「文革後も基本的には文革のやり方が続きました。文革中、多くの幹部が批判され、それに連なる人々がみな失脚しました。文革が終わると今度は、文革で失脚しなかった幹部が、みな引きずり下ろされました。現在の政治闘争においても、こうした点はいまだに文革の影響を受けています」「現在、中国が抱える問題はすべて文革がもたらしたものだという見方もあります」「共産主義の理想を信じる気持ちがなくなりました。人々は自信をなくし、残ったのは拝金主義と享楽主義でした」。

 筆者は湖北省にある林彪の生家を訪ねるがそのさい偶然、林彪の甥に会った。林彪の兄の長男で、取材当時は69歳。武漢の大手国有企業を定年退職し、現在は北京に住んでいる。甥は林彪事件当時、空軍の軍人だったが、事件から1か月後、突然、党籍を奪われ、7年間にわたって拘禁される。林彪と親しい関係だったわけではなく、事件の12年前に会ったのが直近だったという。「林彪事件とは何だったのでしょう」と聞くと、甥はこう答えた。「林彪事件というのは政治問題なんだ。革命後、いったいどれだけの人が死んだと思うんだ。何人が冤罪で死んだか。これは林彪が個人的に何か問題を起こしたなどという問題ではないんだ」。

 終章は「よみがえる文化大革命」だ。「文化大革命が起きた毛沢東時代を想起させるような習近平の強権政治に対して、党内では不満もくすぶる。だが、権力を集中させる習近平の統治スタイルは、中国の幅広い層でかなりの支持を得ているのも事実だ」「第一の理由として挙げられるのは、いまや共産党は存亡の淵に立たされており、自らの生き残りをかけて、強い最高指導者を求めている、ということだ」「歴史的に見ても、中国の人々は強い指導者を好む傾向にあると言ってもいいかもしれない。中でも、近現代を代表する強い指導者が、毛沢東である」。

 筆者は毛沢東を崇拝し、集団生活する若者のグループを取材している。北京から車で3時間ほどの河北省の農場で、約50人の若者が自給自足の生活を送っている。参加者の多くは20代だが、既婚者もいる。彼らは経済発展の陰で拡大している社会格差や厳しい言論統制、人権軽視などの問題を「欧米由来の民主主義によってではなく、共産主義や毛沢東思想によって解決すべきだ」と考えている。彼らは取材の1年ほど前、中国で毛沢東思想の村として有名な「南街村」に向かった。そこでは市場経済ではなく、集団所有を推進し、村が農地を所有・管理し、村人たちはそこで農作業をし、収入を得る仕組みだ。ところが現実は大違いだった。若者たちはインスタントラーメン工場で働いたが一日12時間労働で残業代はゼロ。しかも厳しいノルマが課せられていた。村で実際に働いているのは村外から来た出稼ぎ労働者ばかりで、村の幹部たちはみな、裕福な生活をしていた。若者たちはいっせいに会社を辞め、残業代の支払いを求めて提訴したが敗訴してしまう。そんな苦い経験にもかかわらず、毛沢東思想を捨ててはいない。共産主義を素朴に信じる純粋な若者なのだろう。

 こうした若者にはブレーンも存在する。毛沢東主義者を代表する左派知識人で、中国航空航天大学の韓徳強副教授だ。彼は中国には毛沢東のような偉大な領袖が必要と考えている。「疑いないようのない事実として、中国にはそうした領袖が欠けていた。だから今、習近平が登場したのだ。私はこれをとてもうれしく思う」「(習近平の支持率調査をするとすれば)プーチン大統領よりは間違いなく高い。90パーセントを超えていることは確かだ」。発言の中身より、中国でこうした取材が可能だということに驚いた。いくつもの難題があるだろうが、中国語が堪能で、必要な支援があれば、一定の取材は可能なのかもしれない。

 だが、筆者は中国共産党の将来について、明るい見方はとっていない。1950年代、毛沢東は萎縮していた知識人に自由な発言を呼びかけた。「百花斉放・百家争鳴」運動だ。この中で、「何を言っても罪にならない方針が示されると、堰を切ったように中国共産党への批判が続出した。しかし、そうした批判を口にした知識人は、次々と迫害を受けた。もしかすると習近平は、この歴史にならって、権力闘争を通じて、側近たちの忠誠心を試しているのではないか。そうした穿った見方もある」。評者には、身の毛がよだつような恐ろしい話に思える。

 終章の終わりには、「かつてレーニンは『すべての国の共産党は、党組織の人的構成の定期的な粛清が行われなければならない』とした(1920年のコミンテルンで決まった加入条件)という。「民主的な党内人事の仕組みを持たない共産党は、組織を維持し、規律を保つために何らかの粛清を行わなければならない。そして規律維持あるいは腐敗摘発を名目とする粛清は、往々にして権力闘争の具にされてしまう。共産党のDNAとも言い得る『負の連鎖』が、こうして起きる。まさに林彪事件はその象徴である。習近平体制となった今も、こうした事件を生む構造自体は何一つ変わっていない」。

 まったく救いのない結論だ。一冊を読み終えて筆者のモンゴルや中国各地での精力的な取材に感心するとともに、アメリカで特派員を経験した評者はアメリカの科学担当で助かった、と心底から思った。だが、中国という巨大な隣国は、メディアの取材対象としても、貿易やさまざまな交流の対象としても、ますます大きな存在になっていくはずだ。中国にさまざまな関心を持つ人々に是非、一読を勧めたい。巻末の主要参考文献はほとんどが中国語だ。その国を知るにはまず言葉を学ばなければならないということがよくわかる。21世紀は中国の時代なのかもしれないが、この巨象を相手にするのがいかに大変なことか、その片鱗をうかがうことができる。だが、こうした中国共産党批判の書を出して、新聞記者生活に影響は出ないのだろうか。中国通の日本人や日本在住の中国人が中国に入った途端、拘束される事件が相次ぐだけに、余計なことが気になった。