ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

10万個の子宮 村中璃子 「子宮頸がんワクチン禍」への女性医師による勇気ある告発

2018年06月29日 | 読書日記

10万個の子宮 村中璃子 何が「子宮頸がんワクチン禍」の真の原因なのか

 刺激的なタイトルの本だ。サブタイトルは「あの激しいけいれんは子宮頸がんワクチンの副反応なのか」とあり、それが本書の内容を言いつくしているようだ。

 著者は医師、ジャーナリスト。一橋大社会学部を卒業、修士課程終了後、北大医学部を卒業して医師になった。マニラにあるWHO(世界保健機関)西太平洋地域事務局でも勤務した経験があり、英語が堪能で国際感覚もある医師なのだろう。

 子宮頸がんは若い女性を中心に年間約3000人の命を奪い、約1万人の子宮が手術で摘出される病気だ。女性にとっては乳がんと並んで、恐ろしいがんの代表だ。近年の研究でヒト・パピローマ・ウイルス(HPV)への感染によって発症することがわかった。ウイルス感染が原因ならワクチンが作れるはずと、何種類かあるHPVのいくつかに対応するがん予防ワクチンが開発され、世界的に接種が進んでいる。日本でも2013年4月、思春期の女性が定期接種の対象となった。表題の「10万個の子宮」は毎年1万の子宮が手術で摘出され、それがあと10年は続くという推定からとられている。

 HPVは一種の性行為感染症なので、性行為が始まる前の思春期に接種しておけば免疫ができ、子宮頸がんが予防できる。現在のワクチンだと発症率を3割以下にできるという(欧米の最新のワクチンだと1割)。ところがワクチン接種に対して猛烈な反対運動が起き、接種が原因で原因不明の全身のけいれんなどの副反応(副作用)が起きているという患者団体の告発で、厚労省は2013年6月、定期接種対象としてからわずか2ヶ月後、「積極的な接種勧奨の一時差し控え」を決定した。

 評者は見ていないが、テレビニュースなどでは全身をはげしくけいれんさせたり、記者会見に車椅子で臨む少女たちの衝撃的な映像が繰り返し流されたという。テレビだけでなく、新聞でも記者会見の様子が詳しく報じられていたことは記憶している。

 だが、不思議なことにこれほど子宮頸がんワクチンの副反応が問題にされ、接種率が1%程度に急減したのは日本だけのことだという。

 本書を読むまで、評者が知っていたのはほぼこれだけだった。厚労省がこの問題で研究班をつくり、調査を進めたことも報道では知っていたが、「接種は中止すべき」とか「再開すべき」という明確な結論が出たという報道を見た記憶もない。現代の医学界では「一種のタブー」になってしまったこの問題に、真正面から取り組んだのが本書だ。

 筆者が取材を開始し、その成果を「Wedge」という月刊誌に「子宮頸がんワクチン再開できず日本が世界に広げる薬害騒動」として発表、議論を巻き起こしたのは2015年10月。この記事はウェブ版では「あの激しいけいれんは本当に子宮頸がんワクチンの副反応なのか」というタイトルで発表された。

 「科学的根拠に乏しいオルタナティブファクト(注:正統的でない事実)やフェイクニュースが、専門的な知識を持たない人たちの『不安』に寄り添うように広がっている、筆者は医師として、守れる命や助かるはずの命をいたずらに奪う言説を見過ごすことができない。書き手として、広く『真実』を伝えなければならない」という強い使命感が取材や執筆の動機になったという。

 だが、反ワクチン論者からの抗議はきわめて激しいものだった。抗議は筆者の見解を掲載するメディアにも及ぶ。「トラブルを避けたいメディアからは距離を置かれるようになり、記事を発表する機会は失われていった」。その中で、筆者を励ましてくれたのは2017年11月、イギリスの科学誌「ネイチャー」などが主催するジョン・マドックス賞を受賞したことだった。

 ジョン・マドックス氏は22年にわたり、ネイチャー編集長を務め、科学誌としての声価を大きく高めた人だ。お目にかかったことはないが、名前は評者もよく知っている。この賞は「困難や敵意に遭いながらも、公共の利益のためサイエンスを世に広めた人物に与えられる」ものだという。

 審査委員会は「子宮頸がんワクチンをめぐるパブリックな議論の中に、一般人が理解可能な形でサイエンスを持ち込み、この問題が日本人女性の健康だけでなく、世界の公衆衛生にとって深刻な問題であることを明るみにしたことを評価する。その努力は、個人攻撃が行われ、言論を封じるために法的手段が用いられ、メディアが萎縮する中でも続けられた」という講評をしたという。本書にはマドックス賞発表のウェブ画像が掲載され、筆者がほほえむ写真が添えられている。

 本書は「子宮頸がんワクチン禍」に対する筆者の粘り強い取材、執筆とそれに対する「迫害」の物語である。

 2016年7月、子宮頸がんのワクチン禍を訴える市民団体は国を相手取り、被害に対する国家賠償を求める民事訴訟を起こした。筆者によると、これはこの問題での世界初の国家賠償請求訴訟だという。

 この問題で取材、執筆を続けてきた筆者自身も厚労省研究班で班長を務めた信州大元医学部長の池田修一氏から名誉毀損による損害賠償請求の訴訟を起こされている。国家賠償、個人の名誉毀損という二つの民事裁判が継続中の「子宮頸がんワクチン禍」とはいったいどういったものなのだろうか。(弁護士ドットコムによると記事を掲載したWedge誌と当時の編集長も訴えられている)

 「全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会(被害者の会)」ら患者団体とそれを支援する団体が作成した「被害報告集」には「繰り返し起きる手足や全身のけいれん、『自分の意思と無関係に起きる』という不随意運動、歩けない、階段が上れない、時計が読めない、計算ができない」といった「特に神経疾患を思わせる症状の記述はどれも強烈だ」という。そうした患者の映像や記述を「『ワクチンのせいだ』と思って読めば、読者は絶句し、ワクチンへの恐怖心を募らせるに違いない」。

 本書によると、2015年9月17日、専門家らによる厚生労働省の予防接種・ワクチン分科会副反応検討部会が開かれ、子宮頸がんワクチンについて1年2カ月ぶりに議論した。「この時も『ワクチンによる重篤な副反応の多くは心的なものが引き起こす身体の症状」との見解は覆さなかったが、『積極的な接種勧奨の一時差し控え』という奇妙な判断も継続するとした」。つまりワクチンと身体的な症状とのはっきりした因果関係を認めるのは難しいが、接種には強い異論があるので、それに配慮し接種の勧奨は見合わせるという、いわば玉虫色の結論だろう。

 筆者は専門医を訪ねて意見を聴いてまわる。実名は出ていないが、筆者が取材した多くの医師はこうした症状について、「偽発作」や身体的な異常はないのに起きる身体の症状「身体表現性障害」とみているようだ。ワクチン禍で起きたとされる患者の多くは「さまざまな検査でも異常が見つかっていない」という。筆者は「医者が患者にワクチンや薬の説明をする場合には必ず『どんな薬にも必ず副反応はありますが』という前置きをしなければならない。そのため、どんな身体表現性障害を疑う例であっても、『やっぱり子宮頸がんワクチンのせいではないんですか?』と患者が納得しない場合、医師は黙るしかないのだ」という。

 「状況をさらに難しくさせたのは、新しい病名までつけて子宮頸がんワクチンの危険性を訴える医師たちが登場したことだ」とも指摘する。2014年にHANS「子宮頸がんワクチン関連神経免疫特異症候群」という新たな病名を提唱したのは東京医大医学総合研究所の西岡久寿樹氏。氏は一般社団法人日本線維筋痛症学会の理事長でもある。「HANSを主張する医師は片手で数えるほどだ」が、日本小児科学会の元会長や日本自律神経学会の元理事長など有力医師も含まれているという。

 西岡氏によれば、HANSは「ワクチン接種で狂った免疫系が引き起こす自己免疫による『脳障害』」という。「診断の基準となる検査所見も科学的エビデンス(証拠)もないが、『多彩な臨床症状からそうとしか考えられない』」と主張する。「世界の医学界が科学的エビデンスに基づく医療を原則とする中、この議論を鵜呑みにする専門家は少ない」「しかも、HANSの特徴は『接種から経過した時間は問わない』ことだといい、(中略)『一度なってもまたなる』」「『症状が出ては消え、新しい症状が出てくる』」『数多くの症状があり、それが出たり入ったりする』ことが特徴」だという。

 医師ではない門外漢に理解出来ないことはもちろんだが、専門家でもこうしたあいまいな診断基準には首をひねる人が多いことだろう。

 筆者の取材に、日本小児科学会のある理事の医師は「患者さんたちは本当に気の毒だと思います。けれど、HANSはワクチンを打った後に起きたというだけで、接種からどんなに時間が経っていても、脈絡のないすべての症状をひっくるめてひとつの病気だというんでしょ? それなら便秘でも発熱でも、ワクチンを打った後で起きたら何でもHANSだということになってしまう。しかも、エビデンスはないけどワクチンのせいだと言われたら、ただ黙っているしかないですよ。ワクチンのせいではないことを証明する『悪魔の証明』はできませんからね」と話したという。

 専門家の間でも、きちんとした議論が成立しない状況ははなはだ残念だ。

 その中で、注目される動きがあった。名古屋市が市内の中3から大学3年相当の若い女性約7万人を対象に行なった大がかりな「子宮頸がん予防接種調査」だ。名古屋市立大の公衆衛生学研究室が調査を担当し、接種群と非摂接種群に分け、それぞれ25項目からなる質問を行った。回答率は全体で43.4%。この種の調査としてはかなり高い数字だ。

 2015年12月に速報(中間解析)が発表された。「年齢で補正した調査結果は、月経不順、関節や体の痛み、光過敏、簡単な計算ができない、簡単な漢字が書けない、身体が自分の意思に反して動くなど、メディアでも繰り返し報道されてきた症状が、ワクチン接種群に多く発生しているわけではなく、『むしろ15症状で少ない』という驚きの内容だった」という。

 河村たかし市長はこの調査結果について、「結果は『症状とワクチン接種との関連性は認められない』というものだが、ワクチンとの因果関係を疑って症状に悩む人がいることは重く受け止め、年明けから相談窓口も設置し、『最終報告は1月中を目途に出す』とした」と述べたという。

 ところが、2016年6月18日午前0時に「『事件』が起きた」。ウェブ上に公開されていた調査結果の速報が、市のウェブサイトから削除されてしまったのだ。中間解析の公表直後の記者会見で、患者支援団体である薬害オンブズパーソン会議は「明らかに不自然な結果で、被害実態をとらえる解析もなされていない」と強く批判していたという。

 筆者は中間解析結果や情報開示請求して入手した最終解析結果をもとに、「名古屋市の大規模調査は、子宮頸がんワクチンが、日本人の間で『薬害』というレベルの副反応を引き起こしている可能性がないことを科学的・疫学的に証明している。薬害を主張する団体の要望に添った解析を行っても、薬害は立証されていない」と結論づけている。

 長年、科学記者をしてきた評者にとって、強い自戒を込めて読まざるを得なかったのは第3章の「子宮頸がんワクチン問題の社会学」だ。

 ここではメディアが「子宮頸がんワクチン」に関する情報をありのままに伝えていない実情が厳しく批判されている。

 2015年9月、厚労省は厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会副反応検討部会での調査結果をもとに、「これまでに子宮頸がんワクチンを接種した人は約338万人。そのうち副反応の疑いがあったが回復したことが確認できているのは1739名、症状が残っている患者は186名である」と発表した。厚労省の結核感染症課長が、「『追跡できた人の9割は治っている』と発言したのを、メディアは『1割は治っていない』とその部分だけつまんで謳った。本文を読めばきちんと書いてある記事もあるが、タイトルだけ見ればまるで全ワクチン接種者の約1割が今でも副反応に苦しんでいるように聞こえる。しかし、ワクチンを接種した人は約338万人であるから、実際の未回復者はこれを分母にとって、『338万分の186』、『すなわち約0.005%』だ。子宮頸がんワクチン問題に限ったことではないが、物差しとなる情報を読者に与えず、一見論理的に見える数字を示して、誤った印象を与える報道があとを絶たない」。

 この会見の内容を具体的に知らないので、コメントは控えたいが、メディアの報道でそうした批判を受ける傾向は確かにある。医療関係の報道で、「安全」というより、「危険」という方が大きく扱われることは事実だし、「患者やその家族の発言は丁寧に扱うべきだ」という強い合意があるのも事実だ。しかし、それは事実関係を曲げてもとか、患者にバイアスのかかった記事を書くことでは決してない。だが、医療や医学の取材経験が少ない記者が、何が問題なのか、何が本質なのかを見極めないまま、センセーショナルな記事を書いてミスリードしてしまうことも少なくない。

 筆者は「被害者の会」を支援する人たちの中にはメディアが医療記事をつくる過程を熟知し、時には担当の筆者や部局に圧力を加えるような場合もあると指摘する。今回の場合がそうだとは言えないが、評者の経験でも、記事を書いた当事者やその責任者だけでなく、その上部組織に、圧力をかけるような対応をしてくる人や組織も残念ながらあった。メディアもかなりのところ、「事なかれ主義」に陥っているので、「この記事はまったく何の問題もないですよ」と説明しても、一見理解しにくい問題では、「当事者がこう言っているのだから納得させないと」とか「訂正しないと大変なことになるんじゃないか」と及び腰になり、その対応に窮したことも幾度かある。メディアの構造を熟知していれば、どこが弱点かを突くのは簡単なことだ。だが、それでメディアが動かされるのでは、あまりに情けない。

 「子宮頸がんワクチンは、現在、世界約130カ国で承認され、71カ国で女子に定期接種、11カ国で男子も定期接種となっている(2017年3月31日現在、WHOによる)。男子にも接種するのは子宮頸がんワクチンは、肛門がんや咽頭がん、陰茎がんなど男性に多いがんも予防し、女性の多くが男性のパートナーから感染するからである。国内でも子宮頸がんワクチンの安全性に関するデータが蓄積する中、なぜ日本政府だけが接種再開の判断を何年も保留し、守れる病気から国民を守るという世界の常識に抗いつ続けるのか」。

 「新聞は両論併記を原則とする。(中略)しかし、メディアは両論併記の狭い枠からもっと自由であってもよい。報じるべき情報と報じるべきではない情報をサイエンスとファクトに基づく評価をして社会に伝えるのがメディア本来の責務である」。

 筆者の鋭い舌鋒はアカデミア(注:医学界)にも向けられる。「守秘義務や患者への配慮、研究の自由などを理由に、アカデミアはHANSという概念との正面対決を避けてきた。学会で接種再開を求める声明を出しては、自分たちのウェブサイトにそれを掲載することはしている。しかし、そのインパクトは極めて限定的」だという。

 「日本小児科学会や日本産科婦人科学会は、2013年6月の積極的接種勧奨停止の決定直後から接種再開の声明や要望書を何度となく出していた。2016年4月になると、しびれを切らした同2学会を含む17の主要学術団体が『これ以上の勧奨の中止は極めて憂慮すべき事態』とする見解を発表した」。しかし、この声明には患者を支援する「薬害オンブズパーソン会議」が「科学的に不正確な記載がある」として声明の取り消しを求め、その記者会見はよく報道されたという。これに対し、筆者は17団体を束ねる医師たちに、「声明は取り消さない」という趣旨の会見をするよう求めたが、「話の通じない人たちと話をする必要はない」「自分は表に出たくない」という消極論が出て、会見は開かれなかったという。

 第3章の最後に、評者に興味深い記述があったので紹介したい。開沼博氏は福島原発の風評被害問題などで、地についた言説を発表している若手の社会学者だが、Wedgeでの筆者との対談(2016年5月号)で不安を利用して活動する「支援者」の存在について次のように発言している。

 「これはトラウマを抱えた自主避難者などの不安当事者側ではなく支援者側に責任がある問題です。支援者といっても、事態を悪化させている、かぎかっこ付きの『支援者』です。NPO、法律家、自称ジャーナリスト、自称専門家など多様な主体で構成され、共通点は勉強していないことです」「言説を分析すると、放射線に関する知識をほとんど持っていない。にもかかわらず、『危ない福島』を前提にしながら、不安には寄り添わなければならない。自分たちは正義だと自己正当化する。原子力ムラならぬ、『不安寄り添いムラ』が形成されています」。

 開沼氏のはっきりした発言に、筆者も強く共感しているように思える。

 この発言を受けて筆者はこうしめくくる。「子宮頸がんワクチン接種後の少女の中には『心因性=情動に装飾された身体症状』という診断を受け入れることができず、ワクチンのせいだと不安を募らせて症状を悪化させるケースも多い。そんな少女たちは、大多数の『まっとうな医師』よりも、薬害だと断じ、一緒に戦ってくれる医師や弁護士、自称ジャーナリストなどのカギカッコ付き『支援者』が自分を救ってくれるものと信じる結果につながる。一方、ワクチン不安を抱えた少女は『薬害を見つけた』と主張することで利得を得る『支援者』にとって、欠くことのできない存在となっている」。

 あとがきでは子宮頸がんワクチン禍に対するWHOの見解が引用されている。

 「2017年7月14日、WHOの諮問委員会GACVSは、子宮頸がんワクチンの安全性に関する新たな声明を出し、日本の現状への懸念を示した。WHOが声明で日本への懸念を示したのはこれで3度めとなる。声明は『ワクチンを適切に導入した国では若い女性の前がん病変が約50%減少したのとは対照的に』という文章に続いて日本の名前を挙げ、『1995年から2005年で3.4%増加した日本の子宮頸がんの死亡率は2005年から2015年には5.9%増加し、増加傾向は今後15歳から44歳で顕著となるだろう』と具体的な数字を挙げた」という。

 子宮頸がんについて科学的な議論が自由にできないという現在の状況はきわめて憂慮すべきことだ。ワクチンが科学的に一定の有効性を持つことは世界的に認められている。ワクチンに副反応があり、ときにそれが重篤なものになるというのであれば、それを科学的に検討し、検証することが急務だ。日本ではワクチン接種の勧奨が中止され、接種率はきわめて低いが、諸外国では接種が今も続いている。副反応の重大なリスクがあるのなら、諸外国での接種についてもリスク喚起するなど適切な情報提供をしなければならない。それは単なる症例報告ではなく、科学的なエビデンスをもとにした説得力のある報告でなければならない。また、WHOの批判には日本政府も誠意ある見解を示して対応する必要がある。科学や医学の世界で、「日本特殊論」に陥ることだけは絶対に避けなければならない。

 村中氏の舌鋒はきわめて鋭く、読んでいてときにたじたじとなってしまう。科学的なデータが多く引用され、必ずしも読みやすいと言えない部分もあるが、論理は終始一貫してぶれがない。

 筆者は月刊Wedgeでこの問題に関する主要な記事を書いてきたそうだが、子宮頸がん問題での国家賠償の提訴直前、出稿した記事が突然ボツになった経験もあるという。

 筆者は言う。「子宮頸がんワクチン問題は医療問題ではない。子宮頸がんワクチン問題は日本社会の縮図だ。この問題を語る語彙は、思春期、性、母子関係、自己実現、妊娠出産、痛み、死といった女性のライフサイクル全般に関わるものはもとより、市民権と社会運動、権力と名誉と金、メディア・政治・アカデミアの機能不全、代替医療と宗教、科学と法廷といった社会全般を語る言葉であり、真実を幻へといざなう負の引力を帯びている」。

 本書の記述の詳細について、評者にその当否を評価する十分な情報や知識がないのは残念だ。だが筆者が記述する外形的事実だけをみても、この問題があるべき姿で議論されていないことは疑いない。科学的、医学的な問題について、まっとうな議論を排除したり封殺したりするのは根本的に間違ったやり方だ。

 評者は克明な事実を挙げて問題を明らかにしようとする村中医師の姿勢と勇気を強く支持する。出版についても曲折があったようだ。出版を決断した平凡社の判断も強く支持したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私の履歴書 猪熊弦一郎 ふるさとに愛された幸福な画家 

2018年06月19日 | 読書日記

私の履歴書 猪熊弦一郎 パリとニューヨークで活躍、故郷・丸亀に全作品を寄贈したアーティスト

 猪熊弦一郎という画家をご存知だろうか。評者もあまり知らないでいた。1902年に生まれ、93年に亡くなっている。香川県出身で丸亀市のJR丸亀駅前に丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(写真全景・上左、右は展示室内)がある。設計は親交のあった建築家の谷口吉生。

 猪熊には身近な作品が多い。三越デパートのピンクの包み紙は猪熊のデザイン。JR上野駅正面改札口にも猪熊の手になる大きな壁画が飾られている。小説新潮の表紙を創刊の昭和23(1948)年以来、40年近く書き続けるなど、それとは知らずに見ているものも多いようだ。

 以前から行きたい、と思っていた。今年は四国旅行を計画、高松市にあるイサム・ノグチ庭園美術館とともに訪ねることができた。

 「私の履歴書」は日経新聞文化面の目玉企画。執筆者は経済人が多いが、たまにアート系が登場する。1979年1月の連載というから、40年近く前になる。評者が日本海側の街を警察や県庁担当として走り回っていたころだ。美術館で記念にと買ったが、実に面白かった。猪熊が半生を振り返ったものを美術館が小冊子にした。年表を入れても132頁だが、読みごたえがある。

 ピンクの帯に入った「絵には勇気がいる」というのは書き出しの言葉。「『絵には勇気がいる』というとみんなが笑う。でもこれはほんとうのことだ。絵描きに限らず芸術家は、いつも、何かいままでになかったものがつくれないかと模索し続けている。それにはまず『常識』というものと闘わなければならない。(中略)ほんの一握りしかいないが、真摯なアーチストにとっては、常識は敵である。未知なる自分の世界をひらくためには、常識を超えなければならない」。

 「私は四国の讃岐の田舎に生まれ、東京で絵を勉強し、パリに渡り、戦後は二十年ほどニューヨークで暮らした。郷里の四国が巡礼のふるさとであることを思えば、私のこれまでの道中もお遍路さんのそれに似ているかもしれない。一つ一つの札所を巡っていろんな人に会ってきた。思いつくままにあげても、黒田清輝、岡田三郎助、藤島武二、藤田嗣治氏といった人々や、パリではマチス、ピカソ、ニューヨークではサルバドル・ダリ、(中略)ジャスパー・ジョーンズ、アンディ・ウォホール(後略)」。

 19世紀後半から20世紀前半にアートの世界で活躍した綺羅星のような名前が並んでいる。

 明治35(1902)年、高松市で教師の家庭に生まれた猪熊は父の転勤に伴って県内を転々とした。印象的なエピソードがある。

 丸亀での小学1年のとき、蛍狩りに誘われて近所の川に遊びに行った。ゲタを流され、追いかけていると深みにはまってしまう。必死にもがいていると、近くの人に助けられた。ほうほうの体で自宅に帰ると、父親が「それはいけない。助けてくれた人を探さなければ」と小さな猪熊の手を引き、菓子箱を下げて、川の近くの民家を一軒一軒訪ね歩いた。

 「するとアメ湯売りのおじさんがその人だと長い探索行の末にわかった。おじさんは確かに私の片方の小さな下駄をチョコンと入り口のたたきの隅にとってくれていた」。

 父親は律儀で礼儀正しい人だった。母親を14歳で亡くした猪熊は、その後、父一人子一人の生活を送る。折り目正しい性格は父から受け継いだものだろう。

 小さいころから画才を発揮していた。丸亀中(現・丸亀高)を卒業した猪熊は絵描きになるために上京、東京美術学校(東京芸大)を受験した。

 岡田三郎助主宰の本郷洋画研究所に通った。試験の日、猪熊は大ぽかをする。試験時間を間違えてしまった。2日間で書くデッサンを何とか1日で終えたが不合格。一浪してようやく合格する。同級には小磯良平、荻須高徳らそうそうたる顔ぶれがいた。

 帰国したばかりの黒田清輝が新入生を前に、「今日こうして五十人ほどの人が入学したが、この中で芸術家になれるヤツは一人あるかいないかだ。芸術というものは、先生が手をとって川を渡してくれるようなものではない。自分で川に橋をかけ、自分で向こう岸に渡らなくてはいけない」と言われたのが心に残った。

 美術学校では藤島武二の教室を選んだ。藤島は週に2度、学校に姿を見せ、モデルのデッサンをしていると、絵を見て、「お前は、デッサンが、悪い」と一言だけ発する。全員にそう言い終えると、教授室に戻った。

 「そこで私は自分なりに、デッサンとは何なのだろうかと考えるようになった。私はそれまでデッサンとは正確に物を描くことだと思っていた。ところが先生は別のことを言おうとしておられるように思えた。そして、物を本当に理解したかしなかったかということの答えがデッサンそのものではないかと思い当たった。物がわかっていないということを先生は『デッサンが、悪い』という言葉で表現されたのではないだろうか」。

 小さい頃から画才を認められ、神童と言われるような生徒ばかりが集まるところだから通用するのかもしれない。親虎が子虎を谷に突き落とす故事を彷彿とさせるような厳しい指導である。

 「しだいに絵の方の腕も上がって、油彩で裸婦の全身を描くようになったある日、なかなか絵を直してくれたことのない藤島先生が、私のパレットを『ちょっと貸せ』といって手にとった。そして、(二つの絵の具を)ぐじゃぐじゃとまぜあわせて私の一番いやな色を作ると、実にきれいに写実に描き上げた絵をサッサッとタッチも荒く描き変えてしまった。私には大きな驚きと悦びであった。私はその上に筆を加えるどころではなく、そっと持ち帰り大事にしまっておいた。その時、先生は、私に最初の偉大な勇気を与えてくださったのだと思う」。

 「胸を悪くしたこともあり、学校でこれ以上勉強しなくてもいいという気持ちがしだいに芽生えてきて、思い切って学校を中退した」。すぐに一目惚れで出会った文子夫人と結婚する。大正15(1926)年のことだ。1936年には志を同じくする小磯良平らと新制作派協会を結成、昭和13(1938)年、船で妻とパリに向かう。その年、猪熊は南部ニースのホテルをアトリエにしていたマチスを訪ねる。マチスは当時、数えで69歳。画家として一番あぶらのった時期だったようだ。知人に頼まれ、絵を譲ってもらうためだったが、猪熊は何度か絵を見てもらうチャンスを得る。

 絵を見せたある日、「『お前はピカソが好きだろう』と言われた。私は『ピカソは尊敬している画家の一人で、大好きです』と答えた。すると続いて『お前の絵はうますぎる』であった。のっぴきならない発言だった。つまり『自分の絵になっていない』ということなのだ。私は本当に恥ずかしくなってしまった。マチスにしろ、ホアン・ミロにしろ、ピカソにしろ、まるで子供に返ったような純なそして自分自身の世界を作っている」「この言葉は私の一生を通じて、すべてのことに最も大きな教訓になっている」。

 パリの画廊でピカソ展を見ているとき、ピカソが入ってくるのにも出会った。

 「私のパリ時代は、ピカソやマチスに会えたことが最大の収穫だった。そうした存在は周囲の人を往々にして『スパーク』させる。それぞれが持っている才能が爆発するための点火剤になるのだ」。

 だが当時のフランスにはナチスドイツが迫っていた。猪熊はパリ在住で美術学校の先輩、藤田嗣治の勧めでスペインとパリの中間にある田舎の村に避難する。この村で猪熊夫妻は藤田夫妻と40日間くらい生活をともにする。

 「藤田さんは、奥さんによく尽くす。まるでイプセンの『人形の家』の夫のように奥さんを可愛がる。ほとんど仕事らしいこともさせず、美しいベッドに寝かせて、自分で台所仕事や洗濯をする藤田さんは、それが楽しくてならないようであった。藤田さんは実に器用だった。パリではミシンをかけて着物も縫うし、額縁等も自分でさっさと作った。それは世界のどこでも見当たらないような藤田さん独特のものだった」。

 「絵を描いたり、夫婦げんかをしたり、藤田さんの私生活を私たちはいやというほどみてきた。彼は二間続きの隣の部屋で夜仕事をする。ところが間のドアを閉め切ってしまうと怒るのだ。開け放ったまま私たち夫婦は寝る。少しでもギィーなどとベッドがきしんだりすると、耳ざとく聞きつけた藤田さんが『ゲンちゃん、いま何してるんだい』などと好奇の顔をのぞかせる。(中略)いつも藤田のおやじさんは、猛烈な好奇心とチャメッ気を至る所で発揮した」。

 パリ郊外にドイツ兵が侵入し、上空にドイツ機が飛ぶようになると藤田は一足先に帰国した。猪熊はそれでもパリにい続けたが、「『夫婦者は絶対にパリから待避しろ』という通達が日本人の間に出るに及んで、私たちも帰国する決心がついた」「昭和15年春、私たちは最後の日本への避難船『白山丸』を、マルセイユで待った」

 だが、帰国した日本も太平洋戦争開戦直前の戦時下だった。すぐに軍部から従軍の命令が来た。師の藤島に相談に行くと、「行ったほうがよかろう」と従軍を勧められた。

 戦後、進駐軍に接収され、今はアメリカから無期限貸与の形で日本に戻っている戦争画は、東京国立近代美術館で公開されたものは大部分見ているはずだが、中に猪熊作品があることは気がつかなかった。猪熊は1度目は中国に、2度めはサイゴンに派遣され、そこからフィリピンへ送られた。フィリピンには画家のほか、石坂洋次郎ら作家もいた。コレヒドールの陥落を待って町に入り、死臭や硝煙漂う街をスケッチした。「オートバイがぐしゃぐしゃになってひっくり返り、タイヤがころがり、自動車がペチャンコになっている光景を記録画のテーマとして選んだ。機械的なものが死滅した中を、一人の日本兵が突撃していくという構図であった」。

 日本兵のモデルとして義弟を描いた。義弟の片岡進は美術学校の彫刻科に入ったが学徒出陣で戦死している。この作品は「硝煙の道」というタイトルで昭和18年に完成した。

 日本に戻るとすぐビルマに行く命令が猪熊と小磯良平に下った。猪熊は泰緬鉄道の建設現場を描くことになった。

 「泰緬鉄道の完成を待たず、三々五々、タイ方面から道なき道を、びしょびしょにぬれた日本の兵士たちが、銃を逆さにかつぎボロくずのような力ない姿で歩いて来るのを目にした時は、涙の出るほど戦争の悲惨を味わった」。

 これは「泰緬鉄道建設」という大作になった。このころ猪熊は腎臓に激しい痛みを感じていたが、「わざわざ現地へ出かけてものした絵だから死んでも完成させねばとがんばった。しまいにははいずりながら描き続け、最後に自分の署名をし終わって、倒れた」。

 千葉医大(千葉大医学部)に入院し、手術を受けた。荻須、小磯、藤田ら従軍画家仲間が手術室の廊下で待った。途中、藤田が「『オレがゲンちゃんの手術に立ち会う』といって手術室にはいった。私の腹を開けた途端におやじさんはあっけなくのびてしまったそうだ」

 「入院生活は半年余も続いたが、藤田さんが三日にあげず、見舞って下さった。時には隣のあいているベッドに横になっていろいろ私たちを笑わせながらなぐさめて下さった。(中略)その間に藤田さんはひんぱんに私に漫画入りの手紙をくれた。それが実に面白い。私の手術の場面では、腎臓を私がとり出してバンザイしている。その周囲で先生方が全員気絶してのびているという図柄」。

 藤田ファンの評者としては茶目っ気たっぷりの漫画を是非、見てみたいが、だれが持っているのだろう。猪熊あてなので、猪熊美術館が所蔵しているのだろうか。猪熊の戦争画もぜひ、見てみたい。こちらは昨年、東京国立近代美術館から猪熊美術館に貸し出され、一時展示されていたという。

 少年時代やパリ、戦中時代の記述は詳しいが、なぜか戦後は大幅に省略されている。洋画界の重鎮だった藤田は戦後の日本画壇での戦争責任追求の動きに嫌気がさし、パリに旅立ってしまう。二度と日本に戻ることはなく、レオナール・フジタというフランス人として生涯を終えた。

 パリ時代、戦中時代の藤田との交友を詳しく記した猪熊も、唐突に藤田への言及を止める。猪熊もまた戦争責任追及の矢面に立たされたり、愉快ではないことが続いたりしたのだろうか。昭和30(1955)年10月、猪熊は「ニューヨークに立ち寄ってパリへ出かけます」と親しい人だけに告げて日本を後にする。

 「ところが、最初に訪れたニューヨークという街に、私たちはガチッとつかまってしまった。そのまま腰を落ち着けること20年、ニューヨークは私の第二の都となってしまった」。

 着いて半年後、ニューヨークの画廊で初の個展が開かれた。画廊主が急用でいなくなるハプニングがあったが、当時ジャパン・ソサエティ(日本協会)に関わっていたジョン・D・ロックフェラー夫妻が展覧会のホストをしてくれた。猪熊は才能や努力はもちろんだが、強運の人でもあったようだ。ニューヨークでロックフェラーといえば、アート系のパトロンとしてもきわめて著名で、ニューヨーク近代美術館(MOMA)などにも大きな影響力を持っている。

 アッパーイーストと言われる95丁目に住まいを持ち、後に23丁目にアトリエを持った。渡米から10年後、義父の危篤の知らせでいったん帰国、その4年後にも個展のために帰国したが、ニューヨークに戻る送別会の席上、脳血栓で倒れた。応急措置で命をとりとめたが、ニューヨークは引き払うことになった。

 「私は、病気にさえならなければ、もっとアメリカにいただろう。だが、アメリカ人になる気持ちはなかった」。

 私の履歴書は79年に連載され、書かれているのはそのころまでだが、猪熊はその後も制作活動を続ける。91年にはふるさとの丸亀市に猪熊弦一郎現代美術館が開館し、名誉市民証が贈られる。子どものいなかった猪熊は所蔵していた全作品を美術館に寄贈している。1993年5月17日死去、90歳だった。最愛の文子夫人は88年に先立っている。

 猪熊作品をまとめて見たのは今回が初めてだが、誰にも好かれる明るい性格の人だったのだと思う。具象から抽象へと時代によって画風もかなり大きく変わったが、美術館に展示されている作品を見ると、晩年になっても天真爛漫さと遊び心を忘れない人だったように見える。

 丸亀や讃岐との関わりは上京するまでの比較的短い期間だったが、生まれ育った讃岐のことは終生忘れなかったようだ。ふるさとも立派な美術館を建て、猪熊の期待に応えた。美術館が開館した91年は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が信じられていた時代だった。その後、日本は長いデフレのトンネルに突入、いまだに出口が見えない。その間に世界第2の経済大国は中国に変わった。

 猪熊はどちらかといえば、日本の良き時代に生きた画家だったように思う。高度成長期、自治体立の美術館が目白押しになったが、今は自治体にそうした元気はない。ふるさとに愛され、ふるさとを愛した画家。純粋な画家の魂と作品がふるさとで愛され、輝き続けていることを喜びたい。「私の履歴書」は美術館の編集・発行なので美術館でしか買えないのかもしれないが、同時代を生きたさまざまな画家との交流や当時の社会を知る上で貴重だ。機会があれば、是非一読を勧めたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


世界を変えた50人の女性科学者たち レイチェル・イグノトフスキー 男性優位の科学界に立ち向かった勇気ある女性たち

2018年06月11日 | 読書日記

世界を変えた50人の女性科学者たち レイチェル・イグノトフスキー 野中モモ訳 科学の世界でも厚かった男性優位社会の壁と立ち向かった女性たち

 素敵な表紙の本だ。4月20日の初版で、話題になっているようなので近所の書店で探してみると、児童書の伝記コーナーに並んでいたのでちょっとびっくり。レジでそう伝えると、「子どもも読める本ですので」というはぐらかしたような答えだった。

 もちろん、もとは若い人向けに書かれたのだろうが、127ページというボリュームの割には中味が濃い。一人の科学者について見開きのページ構成で、左ページはその人をイメージした大きなイラストと簡単な注釈、その人に関連する言葉、右ページは簡潔な業績紹介からなっている。

 著者についてはまったく知らなかった。著者紹介によるとアメリカの女性イラストレーター。美術学校の出身で、イラストは専門でも、科学の専門家ではないようなので、こちらにも少しびっくり。「レイチェルは歴史と科学に創作意欲を刺激され、イラストレーションは学びをわくわくするものにできる強力なツールであると信じている」と紹介されている。初めての本で、写真もまだ若い。アメリカにはいろいろな才能を持った人がいるのだと感心させられる。

 科学のバックグラウンドを持った人ではないので、巻末の参考資料をみると50人は最近の比較的近いテーマの著作や百科事典、アメリカ自然史博物館のウェブサイトなどを参考にしたようだ。

 何人知っている人がいるだろうと思って読み始めたが、かろうじて名前を聞いたことがある人を含め、ちょうど10人。だが、ある程度の業績まで知っているのは6人ほど。長年、科学記者をやってきたので不明を恥じるしかない。

 最初に登場するのはエジプトのアレクサンドリアで、4世紀後半から5世紀に天文学者、数学者、哲学者として活躍したヒュパティア。最も古い時代の女性数学者だという。父親もよく知られた学者で、娘にもしっかりした教養を身につけさせたという。ヒュパティアは数学の能力で父親を凌駕するようになり、幾何学や整数論の発展に貢献したという。プラトン主義哲学にも通じ、アレクサンドリア最古の女性教師と言われている。だが彼女は「多神教」的な教育を行っていると目をつけられ、415年前後にキリスト教過激派の暴徒に殺害されたという。本書に紹介されている科学者はやはり親が教育熱心だった人が多い。生まれ育つ環境は重要だとつくづく思い知らされる。

 次はそこから一気に飛んで1647年にドイツで生まれた科学イラストレーター、昆虫学者のマリア・ジビーラ・メーリアン。1679年に科学的なイラスト付きの蝶や蛾の変態についての本を出版した。夫とは離婚し、母親と二人の娘を連れてオランダに渡り、その後、52歳で南アフリカの熱帯雨林に入った。マラリアにかかりながらも「スリナム昆虫変態図譜」を書き上げ、1705年に出版し、ヨーロッパ中で大評判になったという。

 評者が知っている科学者で、最初に登場するのは数学者のエイダ・ラヴレス。1815年にイギリスで生まれ、コンピューター科学の先駆者として知られるチャールズ・バベッジの「階差機関」に魅せられ、今で言うプログラムを書いた。これは史上初のコンピューター・プログラムとみなされている。実を言うと評者がこの女性の名前を知ったのは、アメリカ国防総省が新たに開発したコンピューター言語にエイダという名前を付けたからだ。本書によると、エイダの父親は詩人のバイロン。ただバイロンは破天荒な性格で、エイダの母は娘が生まれるとすぐにバイロンの元を去ったという。エイダも自分のことを詩的な科学者と紹介しているように、詩の著作もある。10月の第2火曜は「エイダ・ラヴレスの日」として今も祝われているそうだ。

 性染色体を発見した遺伝学者のネッティー・スティーヴンズは1861年生まれのアメリカ人。苦学して41歳で学位を取った。20世紀初めにはまだ性を決定する仕組みは突き止められていなかったが、彼女は蝶などの生殖器官の研究から、オスの昆虫はXYの染色体を、メスの昆虫はXXの染色体を持っていることを初めて見つけた。研究は1905年に出版され、科学界を驚かせたが、1912年に死去。その後、この分野では1933年にノーベル医学・生理学賞が出ている。受賞者のトーマス・モーガンは「彼女の業績は決して忘れられることはないでしょう」と讃えたという。

 おなじみのマリー・キュリー(キュリー夫人)は10番目に登場する。ポーランドのワルシャワ生まれ。放射性物質の発見で、1903年に女性として初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した。その後、1911年に化学賞も受賞している。別々の科学分野で2つのノーベル賞を受賞したのは彼女だけという。だが、研究による長年の放射線被ばくが原因で1934年に亡くなっている。夫のピエールもノーベル賞を受賞、娘のイレーヌも受賞したノーベル賞一家としても有名だ。「私は前進の道のりはすばやく進めはしないし楽でもないと教えられてきました」という言葉が紹介されている。

 バーバラ・マクリントックは1902年生まれのアメリカの細胞遺伝学者。ボクシングと自転車と野球が大好きだったという。ミズーリ大学ではいつもズボンをはき、学生たちと遅くまで研究室で仕事をしていたので、厄介者視されていたという。この大学では自分の研究者としての未来はないと悟った彼女は民間のコールド・スプリング・ハーバー研究所に移り、そこでトウモロコシの遺伝子の研究を続けた。トランスポゾンと呼ばれるジャンプする遺伝子を発見し、1951年に発表したが最初はだれも信じなかったという。発見から20年後にようやく認められ、83年にノーベル賞を受賞した。彼女の業績は遺伝学における最大級の発見とされている。評者もマクリントックの受賞ははっきりと覚えている。遺伝子が染色体の別の部分にジャンプしたり、発現したり、しなかったりするというので、生命は実に不思議な存在だな、と感心した。評者はもともと生物学にはあまり詳しくないが当時の職場の同僚が生物学専攻の人で、いろいろ教えてもらい、ありがたかった。

 このあたりから業績を知る人が少し増えてくる。その次に登場する1907年生まれのアメリカ人、レイチェル・カーソンもそのひとり。DDTなど農薬の環境への影響を告発した「沈黙の春」は1962年に出版されて大ベストセラーになり、世界的な環境保護運動の高まりに大きな影響を与えた。彼女は家庭の事情で博士課程への進学をあきらめ、アメリカ連邦漁業局の二人目の女性職員になった。「沈黙の春」は連邦政府に環境保護局(EPA)が生まれる契機になったことでも知られている。1964年に亡くなったが1980年になって大統領自由勲章が授与されている。環境を汚染するいわゆる公害企業の誹謗、中傷とも激しく闘った人だった。

 著者はアメリカ人なので、アメリカの事情に詳しい。キャサリン・ジョンソンという1918年生まれのアフリカ系アメリカ人が数学の能力を認められ、NASA(アメリカ航空宇宙局)の計算手として採用され、1961年の有人宇宙飛行計画マーキュリー計画で打ち上げ可能時間帯の計算をしたり、69年のアポロ計画では月飛行経路を計算するチームに入り、コンピューターの計算結果をチェックする任務を担っていたりしたことも知らなかった。もちろん現在ではこうした計算はすべてプログラム化されているが、最初の段階では人間による詳しい検証が必要だった。2015年には97歳で、大統領自由勲章を授与されている。

 彼女の言葉。「(他の女性たちは)質問したり、さらに先の課題に挑んだりはしませんでした。私は質問しました。『なぜですか』と」。

 1920年、ロンドンに生まれたロザリンド・フランクリンは「栄光を盗まれた孤高の化学者」として紹介されている。DNAが二重らせん構造をしていることは20世紀生物学の最大の発見で、その後の生物学の世紀ともいうべき新時代を切り開いた。

 だが、発見の栄誉はフランシス・クリック、ジェームズ・ワトソンという二人の男性科学者の手に帰し、二人は1962年にノーベル賞を受賞している。しかし、その栄誉が少なくとも彼女と分かち合うべきものだったことは今や定説になっている。というのも、二重らせんの決定的な証拠といえるX線写真を撮影したのは彼女だったからだ。写真は二人が盗み見て、しかも、論文は彼女の名前抜きで発表された。手柄を横取りされた彼女は別の研究所に移って研究を続けたが、放射線被ばくが原因とみられるがんで、58年に37歳の若さで亡くなっている。ワトソンは著書「二重らせん」でデータを盗み見たことは認めながら、彼女を「難しい人間で、暗い」と批判し、大きな論議を呼んだ。忘れられた彼女の業績をたたえる何冊もの本が書かれている。

 著者はこうした経緯を紹介したうえで、「ロザリンドはノーベル賞を受賞して然るべきだった女性として記憶されています。私たちは、彼女の画期的な研究の物語を知っていて、その素晴らしい偉業を讃えることができるのです」と最大級の賛辞を送っている。

 ロザリンド・フランクリンの言葉。「科学と日常生活は分かちがたいものですし、分けてはいけません」。

 あと二人だけ紹介しておこう。1934年、イングランド生まれのジェーン・グドール。幼い頃から動物のことに興味津々でアフリカに行きたいと願っていたが、お金がなく、ドキュメンタリーの制作アシスタントやウェイトレスをして貯金し、自費でケニアに向かった。そこで高名な人類学者のルイス・リーキーと出会い、その知識に感心したリーキーに秘書として雇われた。

 タンザニアの森でチンパンジーの群れと生活し、最初は人間を警戒していたチンパンジーも次第に受け入れてくれるようになった。チンパンジーが小枝を道具として使うことやチンパンジーの世界にも複雑なヒエラルキーがあることを初めて発見した。チンパンジーの生育環境を守るためのグドール研究所を立ち上げ、環境保護活動にも熱心で大きな成果を上げている。

 「ターザン」の本がきっかけでアフリカに行ってみたいという夢をふくらませたという。初めてチンパンジーと一緒に過ごした際には母親も連れて行ったというから到底、凡人には真似ができない。親のいないチンパンジーを自分の子どもとして育てるオスのチンパンジーの存在の発見など、研究はチンパンジー社会を通じて人間社会や人間を再発見する取り組みでもあるとも言えそうだ。

 50人目に登場するのは1977年、イランに生まれた数学者のマリアム・ミルザハニ。国際数学オリンピックで金メダルを獲得。ハーバード大に進学し、双曲幾何学の分野で大きな成果を上げた。2014年には女性として初めてフィールズ賞を受賞している。フィールズ賞は4年に一度の国際数学者会議の席上、表彰され、数学のノーベル賞といわれる。4年に一度しか受賞機会がなく、40歳以下という厳しい制限があるのでノーベル賞よりも受賞が難しいといわれる。2014年の数学者会議はソウルで開催され、朴槿恵大統領が賞を授与し、女性大統領が女性数学者に賞を贈ったと話題になった。活躍を期待されたミルザハニは2017年秋、40歳で乳がんのため死去している。

 本書を読んで気づくことがあった。21世紀に入って日本人のノーベル賞受賞ラッシュが続くがその直前の1980年代や90年代、日本人科学者がなかなか受賞できない時代が続いた。そのころ、ストックホルムでの受賞者発表を受け、日本の新聞向けに関連記事を書くため、専門家に取材していると、その話なら〇〇大のXXさんがとても詳しいですよということがよくあった。当たってみると、「受賞者の〇〇先生は、実験でずいぶんお手伝いしました」とか、「実はぼくも結構、貢献したんです」という話に出くわした。

 あとでゆっくり取材してみると、研究のリーダーはアメリカ人教授だが、実験は日本人留学生に任せきりだったとか、3人までが受賞するノーベル賞に4人目、5人目の枠があればきっと日本人の誰かが入っていたといった話をずいぶん聞かされた。

 女性であるという理由で(それだけではないのかもしれないが)二重らせん発見という歴史的栄誉からしりぞけられたロザリンド・フランクリンの「悲劇」だけでなく、欧米の男性優位社会では白人男性でないという理由で、発見の栄誉を自分のものにできない研究者が少なくないこともわかった。今から30年ほど前、脳死移植の取材で、アメリカのある大学を取材したとき、移植外科に留学して、実際に手術しているのは日本人とトルコ人ばかりと聞いたこともあった(なぜかそうだった、日本は脳死移植解禁の直前で、その技術を学びに留学する若手医師が多かった。多くは無給だったと思う)。

 ジェンダーであれ、人種であれ、あるいは別の指標であれ、恣意的な差別や区別、栄誉から除外される対象になることは少なくない。これは決して著者が意図する読み方ではないだろうが、本書からそうした事実を汲み上げていくことも可能かもしれないと思う。

 また逆に、研究の世界でも女性であることを(とくに若さを)武器に、男性優位社会に立ち向かおうとするケースも少なくない。研究リーダーの自殺という悲劇をもたらしたSTAP細胞事件も、研究が捏造だったかどうかは別として、不十分であいまいな研究成果のまま、若い女性研究者が功名心や名誉欲にかられて大々的な発表に踏み切ったことは間違いない。

 単に科学の世界だけでなく、さまざまな分野でこうしたバイアスがかかっていることが少なくない。ネットで調べると、本書の著者は「WOMEN IN SPORTS」という続編も出版しているようだ。いずれ翻訳されるに違いない。どういったスポーツウーマンが登場するのか楽しみだ。

 ただ科学の世界でも確実に変化は訪れていると思う。このブログでも今年2月21日付けで紹介したが、「クリスパー」という最新の遺伝子編集技術を開発したカリフォルニア大バークレー校のジェニファー・ダウドナ教授、フランス人で共同研究者のエマニュエル・シャルパンティエ博士の二人の女性科学者は近いうちのノーベル賞受賞が確実視されている。優秀でのびのびと働く女性研究者が増えていることは間違いない。ダウドナ教授は研究が及ぼすネガティブな影響についても積極的に社会に発信しており、立派だと思う。

 だが、評者が少し残念に思ったのは収録された50人中、アジア系は中国人の3人しかいなかったことだ(いずれの人も知らない。ついでながら中東、アフリカ、インドもゼロ=「まだまだいる女性科学者」14人のうちに2人のインド人が紹介されてはいるが)。参考資料を見ると、「Notable Women of China」(中国の重要な女性)という2000年にNYで出版された本が種本のひとつになっている。おそらくそこから選んだのだろう。日本では見過ごされがちだが、欧米社会への英語での発信はとても大事だ。日本でもそのうち「Notable Women of Japan」を出さないといけない。科学論文同様、英語で発信しない限り、存在すら認めてくれないのは本当に残念なのだが。その一方で、だれを推薦すべきかというのも意外に難問だ。日本人でノーベル賞を受賞した女性科学者はまだいないので、自他ともに認める候補者を選ぶというのはなかなか難しい。