古賀誠 憲法九条は世界遺産 自民党重鎮の良心の叫びを聞きたい
古賀誠という政治家についてはよく知らない。2000年から翌年にかけて自民党幹事長を務めたが、日本遺族会会長を長く務めていた(02年から12年)ということの方が印象に残っている。本書を読むと、第二次大戦中に父親を亡くし、その後、母親と赤貧の生活を送り、それが生涯を通じた非戦の誓い、ひいては憲法九条を守るという強い信念につながったことがよくわかる。全体で94ページの小冊子。本書を知ったのは立花隆氏が、雑誌の書評欄に紹介していたからだ。ゆっくり読んでも30~40分で読み終えるが、その熱い思いは多くの人を感動させる。表紙は誠少年が自転車で行商に出る母親を見送る場面だろう。挿絵はやさしくほのぼのとしている。氏は2012年に政界を引退している。
冒頭に2018年の夏、講演のために神戸を訪れたとあり、本書はこの講演をもとにしている。兵庫県南部は1995年1月17日の阪神大震災(兵庫県南部地震)で、6400人を超える犠牲者が出た。氏は震災記念行事の講演で神戸を訪れた。評者は阪神大震災当時、ワシントンにいた。当日朝、CNNテレビの報道で甚大な被害が出たことを知った。崩れ落ちた阪神高速の高架橋で宙づりになった車、高速の頑丈な橋脚が軒並み倒れた悲惨な光景が今も思い浮かぶ。その年の春に帰国し、神戸を訪ねたが、多くのビルが傾いたままだった。古賀氏の講演の4年前、自民党の野中広務氏(元幹事長)が震災関連の講演会で神戸を訪れている。党人政治家同士で野中氏とは非常に親しかったようだ。野中氏は2018年1月、92歳で亡くなっている。
自民党政治家として氏は安倍政権の政権運営をおおむね評価する。だが、1000兆円を超える政府債務には警鐘を鳴らす。「借金をずっとこれからも増やし、次の世代に引き継ぐということは、できませんしやってはいけないことです。結果としてそうした将来に対する責任、これを私たちは念頭におく必要があります」。
古賀氏は1940(昭和15)年、福岡県の南にある瀬高町(現・みやま市)で生まれた。農村部だが農家ではなく、父親は小さな乾物店を営んでいた。氏が2歳のとき、33歳の父親は2度目の出征でフィリピン戦線に送られ、帰らぬ人となった。幼かった少年は父親のことを何一つ覚えていない。きょうだいは姉一人。そこからが苦難の始まりだった。「食べていくのに一番手っ取り早いのが、隣近所を歩いて行商に出るということでした。母親は、私が物心ついたときから行商に出ていました」「その行商も、売れない場合のことを覚悟しなければいけないから、生物(なまもの)ではなくて乾物類、(中略)日持ちがよくて日用品になるものを扱うのです」。自転車の荷台にいっぱいの品物を積んで売り歩く毎日だった。「少年時代を思い起こしますと、母親が寝ていた姿を見たことはありません。朝は四時か五時に起きて、(中略)夜も私や姉が寝て、それから床に就くわけです」。
氏が国会議員になって経済的に安定し、「もう外に出るのはいいじゃないの」と言ったところ、『自分は自分で生活をする』と言って聞き入れてくれませんでした」「母親から学んだのは、その生きざまです。『自分は自分でできることの範囲内で生きていくのだ。他人にご迷惑をかけない』というものでした」。足腰が弱ってからは自宅前に小さな乾物店を開いて、「最後まで小さな店で座って店番をしていました」。
「『貧乏の経験は必要だ』とよく言いますが、経験したものしかそのつらさはわかりません。『なぜ日本の国は戦争をしたのだろうか』『なぜこういうつらい思いをする母親の背中を見なければいけないのだろうか』。それが私の思いです」「私がなぜ政治家の道を選んだのかというと、母親だけがそういう目に遭っているのではなかったからです。目の前に何百万という未亡人がいる。あの戦争の犠牲者がいる。もっと目を広げて見れば、亡くなった方のご兄弟、ご姉妹もいるし、なによりも子どもを亡くした父母がいるということでした」「このいっぱいいる人たちに何かをしようと思った時に、やはり政治が大事かなと思ったのです」。
高校を卒業すると母親は、「住み込みでまず人間修行をしなさい」と大阪の問屋に送り出した。1年間の丁稚奉公を経て、2年遅れで大学に進学する。高校の先生も政治家への道を実現するには、「国会議員の秘書として、書生として、お母さんに金銭的な迷惑をかけずに政治の勉強をする道を選んだらどうか」と勧めてくれた。飛び込んだのは地元参議院議員の事務所。そこで住み込みの書生生活がスタートする。「今、残念ながらそういう道を歩んで政治家になる人は少なく、祖父も父も政治家で、そのあとを継いだという世襲が多い。私は政治家の世襲というのはあまり感心することではないと、いつも冷ややかに見ている一人であります」。学生時代の4年間を書生として働き、卒業後は秘書として12年間を過ごした。1979年の総選挙に無所属で立候補し落選するが次点と健闘する。その7か月後の衆参同日選挙では見事当選し、39歳の若さで国会議員となる。
この選挙で、「一番学んだことは、貧乏で寝る暇もないような苦労をしたのは、私の母親一人ではなかったことです。私の応援をしていただいたあのおばさんも、隣の奥さんも、聞いてみると全員戦争未亡人だというじゃないですか」「そして私は、あの選挙を通じて、ご恩返しをしなければと思いました。(中略)何がご恩返しになるかは明らかです。多くの方との交わりの中で、こういう戦争未亡人を再び生み出さない平和な国をつくりあげていくことが政治だろうと肝に命ずることです」。
「私は『憲法九条は世界遺産だ』と申し上げています。(中略)あの大東亜戦争に対する国民の反省と平和への決意を込めて、憲法九条はつくられています。憲法九条一項、二項によって、日本の国は戦争を放棄する、再び戦争を行わないと、世界の国々へ平和を発信しているのです。これこそ世界遺産だと私は言っているのです」「平和憲法は、日本の国が再びああいう戦争を起こしてはいけないということと同時に、世界の国々に与えた戦争の傷跡に対するお詫びをも世界の国々に対して発信をしているのです」「日本がアジアの国に対して与えた損害というのは、いまでも影響が残っています。中国にとってみれば、南京事件というのは現実のこととして残っている。(中略)韓国についても残っている問題がたくさんあります」「それらに対して『お詫びを申し上げる』と言うと、『そんなことは必要ないよ』と言う国会議員もたくさんいます。戦後生まれの人たちの中には『そんなの、冗談じゃねえよ』と言う人もいる。けれども、そういう過去の過ちへの反省は、あの平和憲法の中にも含まれていて、だからこそ九条を維持し続けるというぐらいの誠実さと謙虚さが、この国には必要なのです」。
自衛隊の海外派遣に道を開くPKO法案は1992年に成立したが、氏は「自衛隊が戦争をすることにつながる」として採決を棄権した。「野中先生も言っておられましたけれども、やはり針の穴であっても一つ開いたら、ゆくゆくはおかしいところにいってしまうのです。後藤田正晴先生も仰っていたように、戦争にかかわる風穴は小さな穴でもあけたらとんでもないことになってしまう危険性があるのです」。中曽根内閣の官房長官当時、イラクへの掃海艇派遣に強く反対した後藤田氏も2005年に亡くなった。
「案の定、PKO法案が成立して約20年が経ち、次にはイラクに自衛隊を出すための新しい法案が国会に出されました。その国会での小泉純一郎さんの答弁を聞くと、自衛隊が派遣されているところは戦闘地域じゃないのだなんてバカげたことを言っていた」「いくら歯止めをかけたつもりでも、一つ穴が空くと、運用が広がっていくのです」「私たち戦争を知っている世代は、少なくなりました。(中略)一番私が怖く、一番危機感を持っているのは『昭和』が遠くなっていくということであります」
自民党内では異端的な意見とも思えるが、古賀氏は意に介さない。「政治家の役割はたくさんあるけれども、もっとも大事なのは憲法についてつねに学習と研究、勉強を怠らないことです。自民党というのは憲法改正を党是としているわけですが、そうであればなおのこと、憲法についてのより深めた研究や勉強は当然しなければなりません」「けれども憲法九条については一切改正してはダメだというのが私の政治活動の原点です。ここは曲げられません。九条一項、二項だけは一字一句変えないというのが、私の政治家としての信念であり、理念であり、哲学なんです」。
古賀氏は宏池会という派閥に属していた。宏池会は宮沢喜一、大平正芳といった派閥の代表者たちも護憲派で、今もその系譜を受け継いでいる。「自民党の中で戦争を知っている世代、戦争を経験して戦後を生きてきた人たちが政権の中枢にあるときは、憲法問題についての議論は起きてきませんでした。しかし、そういう人たちがいなくなったときに、平和憲法を変えるという大きな議論が起きてくるのが心配だというのが、先輩たちの遺訓です」。
古賀氏は安倍内閣による集団的自衛権の解釈変更に強い危機感を持つ。「集団的自衛権の行使は憲法違反だ、日本は専守防衛でやっていくのだというのが、戦後の内閣がずっと維持し、国民も支持してきたことなのに、閣議だけでこの見直しを決めてしまった。(中略)取り返しのつかない禍根を残した決め方だったと私は思っています」。若い国会議員からは「古賀さんの言うのは非現実的で、とてもじゃないけども、それで日本の国の安全平和は大丈夫なのか」「北朝鮮が毎日のように。ミサイルや核兵器の実験をしているじゃないですか」と強い疑問を投げかけられる。
それに対し、氏は「あなたが言うようなことを、みんなが言うような国にしてはいけない。国民にそのような、平和を本当に貫くことができるかという疑問を持っていただかないためにも、この九条は頑として守り抜かねばならない。この平和憲法九条は国民の決意であり覚悟なんです。(中略)日本の国は世界遺産のようなすばらしい平和憲法を持ったんだから、この九条を守るのがわれわれの責務であり使命であり命題です」と強く反論する。
氏は遺族会会長になった翌年、父親が亡くなったフィリピンのレイテ島を訪ねている。野中氏に背中を押されてのことだった。「2003年2月9日、野中先生と一緒に、フィリピンのレイテの、父親の部隊が亡くなった戦地を訪ねました。そこはジャングルでした」。簡単な祭壇をつくって慰霊していたところ、突然のスコールに見舞われた。「野中先生が私に『ほら、来てよかったろうが、息子がやっと迎えに来てくれた。親父がこんなに喜んでくれたじゃないか。涙雨だ。さぁ親父の魂を持って帰ろう』と言って慰めてくれました」。
氏は敗戦に至る最後の1年を「しっかりとふりかえる必要がある」と指摘する。日本海軍は「マリアナ沖海戦(注:1944年6月)の敗北によって、日本は絶対国防圏であった、グアム・サイパン・テニアン、この三つの島を連合軍に奪われました。この島からだと敵機は日本の本土に直接来襲できるのです」「『これだけの戦況の中でまだ戦争をするのか。日本の国民のためにやめてくれ』と連合軍は言いましたが、時の首相の東條英機さんが内閣を総辞職し、戦争を続けるという決断をしたため、その後1年、1945年8月15日まであの悲惨な戦いは続いたのです」「戦争が始まって、マリアナ海戦までに尊い命を失った日本の兵士は100万人。海戦から終戦を迎えるまでの1年2か月で失った尊い命は210万人です。政治の貧困そのものでしょう。一軍人の暴走だと言いますが、一軍人による暴走を止めることができなかった政治の責任はどこにあるのか。まさに政治の貧困の象徴があの1年2か月の戦いです」。
これにはまったく同感だ。勝ち目のない戦いをずるずる続けたことで兵士だけでなく、本土空襲や沖縄の地上戦、広島と長崎への原爆投下で民間人にもおびただしい犠牲が出た。
ワシントンにいたとき、ちょうど第二次大戦終結50年の節目に遭遇し、アメリカ各地でさまざまな取材をした。長崎への原爆投下機ボックスカーの機長に会ったほか、広島への投下機エノラゲイの乗員にも会った。アメリカから見た戦争の正しさに疑問を持つ人はいなかったが、民間人の多大な犠牲には耐えがたい思いでいることが伝わってきた。テニアン島の飛行場からエノラゲイが原爆を積んで出発したのを見送った物理学者にもインタビューした。彼は島で原爆の組み立てや積み込み作業に立ち会っていた。エノラゲイが飛び立つのを見て、これが「日本の都市に落ちたらどうなるのだろうか」と、同僚と涙したという。
次章の「靖国神社のA級戦犯は分祀を」にも強く共感した。氏は国会議員になって一度だけ母親を東京へ呼んだ。「一回きりの親孝行だから、なんでものぞみをかなえてやりたいと思い母に聞くと、母は『靖国神社に参りたい』の一言でした」「私は母親の手をひいて靖国神社に行きました。しかし、靖国神社に昇殿参拝できるように準備をしていたのに、母親はなんと『社頭』でいいというのです」。氏が昇殿して供養をしようと勧めたところ、「なんの学識もない母親がぽつりとひと言。『ここは赤紙を出した東條さんも一緒やろ』と言いました」「『みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会』の会長も私はしましたが、それ以来一切昇殿参拝はやめ、社頭参拝に留めています。確かに母親の気持ちは痛いほど分かります。そして、それは母親の気持ちだけでなく、多くの戦没者、英霊の皆さんたちを持つ肉親の気持ちだと思いました」。
氏はA級戦犯を靖国神社から分祀する運動をしているが、進んでいない。「それはつまるところ、あなたはA級戦犯を認めるのか、認めないのかという議論、東京裁判が正しいか、正しくないのかという議論になってしまうからです。そもそも、A級戦犯は犯罪者ではないという日本の国内議論が世界で通るわけがない。(中略)A級戦犯を靖国に祀ったことにより、サンフランシスコ講和条約が反故にされてしまっていると私は思います」「サンフランシスコ講和条約は東京裁判の結果を受け入れて結んだのであって、その結果日本は国際社会の仲間入りができました。そして、サンフランシスコ講和条約が成立して初めて、民主主義を土台にして日本の戦後政治が始まっているのです」「ですから、中国や韓国がA級戦犯の合祀を批判するのは内政干渉でも何でもない。日本は中国に対しても韓国に対しても『内政干渉をするな』と言える道理がないというのが私の意見です」。
評者にはA級戦合祀の過程に関する証言がとくに興味深かった。「1966年、厚生省は法務死と認められたご英霊の祭神名標を、靖国神社に送付しました。70年には靖国神社の崇敬者総代会で合祀が決まりました。しかし、当時の筑波藤麿という第五代宮司は、きわめて天皇陛下に近い、宮内庁寄りの宮司で、一四人柱の昭和殉難者、すなわちA級戦犯の人を合祀するといろんな問題が生じてくる危険性が高く、不安があるので、靖国神社宮司預かりとして靖国神社の祭神には入れていませんでした」「1978年、筑波宮司が亡くなったあと、第六代宮司に松平永芳さんが就任して、最初の秋の例大祭の前の日に、夜中ひそかに一四祭神名標を入れたというのです。(中略)その翌年の1979年、共同・朝日両新聞がスクープして、遺族会は大騒動になりました。何の議論も、遺族会への何の相談もなかった。合祀した松平第六代宮司が何を考えていたのか、なぜ配慮ができなかったのか。私は靖国神社に行き、宮司と大激論をしました」「戦後我々日本人は自らこの戦争を総括することを放棄してしまった。誰かが責任をとらねばならぬことは当然でしょう。それは誰かと言えば衆目の一致するところA級戦犯でしょう」と憤激する。
「靖国の杜に眠っている英霊の御霊は、多くの国民の皆さんのわだかまりのない(中略)お参りを待ち望んでいるのです。とりわけ天皇陛下のご参拝を待ち望んでいるのです」。氏はA級戦犯の合祀が、天皇が靖国神社に参拝できなくなった原因とみている。戦地巡礼を、責務として南洋はるかの孤島まで慰霊の旅を続けた上皇も一度も靖国神社には参拝していない。昭和天皇もA級戦犯合祀後は一度も靖国神社を訪ねることはなかった。古賀氏のような遺族にとって、天皇や皇室関係者の靖国神社参拝は悲願なのだ。
評者はこうした遺族の思いをよく理解しているわけではない。だが、1942年6月、海軍下士官として乗務した輸送艦がフィリピン沖で撃沈され、ただ一人の弟を失った父は上京するたび、靖国神社に参拝していた。弟の無念を弔いたい気持ちが強かったのだろう。
氏は自民党政治家としては珍しく、共産党の「しんぶん赤旗」のインタビューにも登場したことがある。「九条を大事だと考える人々は、立場の違いを超えて協力し合う必要があります」「自民党を支持している人も共産党を支持している人も、平和について言うならばみんな一緒です。『冗談じゃない、戦争いやだよ、俺の子どもは殺させたくない』とみんな思っているのです。保守だから革新だからという垣根をつくっても意味のないことなのです」。勇気ある発言を続ける氏に大きな拍手を送りたい。と同時に、いかに政治があるいは世論がこうした声に耳を傾けていないかと思うと愕然とする。
評者は今月初め、近くの名画館でドキュメンタリー映画「東京裁判」のリマスター版が上映されていたので見に行った。途中、休憩をはさんで5時間近い長編だったが、まったく退屈しなかった。映画に登場する人物や当時、起きていたことには一定の知識があった。だが裁判に登場するA級戦犯の実際の姿を見るとやはり感慨があった。起訴された28人のうち7人は絞首刑を言い渡されるが、そのひとりひとりが凡庸すぎる人物に思えてならなかった。当時の日本はどうして彼らに無謀な戦争の遂行を託す運命になったのだろうか、と不思議に思った。映画で感銘を受けたのは若きアメリカ人弁護士が日本人戦犯の弁護に熱弁をふるい、「人道に対する罪で被告を裁くなら、広島、長崎に原爆を投下し、多くの民間人を殺戮したあなたがたにその資格はあるのか」と厳しく問う場面だった。GHQ統治下で、原爆投下の非人道性が報道できなかった当時、公開の法廷でそうした論陣を張ることには大変な勇気がいったはずだ。日本人が言えないことをアメリカ人弁護士が鋭く追及する。歴史の真実を知ることの大事さを改めて思い知った。本書に関心を持つ方は、本書を読み、「東京裁判」のフィルムを見ると、現代史について改めてさまざまな思いをすることになるはずだ。