ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

古賀誠 憲法九条は世界遺産 元日本遺族会会長の体験に裏付けられた非戦の誓い

2019年12月28日 | 読書日記
古賀誠 憲法九条は世界遺産 自民党重鎮の良心の叫びを聞きたい

 古賀誠という政治家についてはよく知らない。2000年から翌年にかけて自民党幹事長を務めたが、日本遺族会会長を長く務めていた(02年から12年)ということの方が印象に残っている。本書を読むと、第二次大戦中に父親を亡くし、その後、母親と赤貧の生活を送り、それが生涯を通じた非戦の誓い、ひいては憲法九条を守るという強い信念につながったことがよくわかる。全体で94ページの小冊子。本書を知ったのは立花隆氏が、雑誌の書評欄に紹介していたからだ。ゆっくり読んでも30~40分で読み終えるが、その熱い思いは多くの人を感動させる。表紙は誠少年が自転車で行商に出る母親を見送る場面だろう。挿絵はやさしくほのぼのとしている。氏は2012年に政界を引退している。

 冒頭に2018年の夏、講演のために神戸を訪れたとあり、本書はこの講演をもとにしている。兵庫県南部は1995年1月17日の阪神大震災(兵庫県南部地震)で、6400人を超える犠牲者が出た。氏は震災記念行事の講演で神戸を訪れた。評者は阪神大震災当時、ワシントンにいた。当日朝、CNNテレビの報道で甚大な被害が出たことを知った。崩れ落ちた阪神高速の高架橋で宙づりになった車、高速の頑丈な橋脚が軒並み倒れた悲惨な光景が今も思い浮かぶ。その年の春に帰国し、神戸を訪ねたが、多くのビルが傾いたままだった。古賀氏の講演の4年前、自民党の野中広務氏(元幹事長)が震災関連の講演会で神戸を訪れている。党人政治家同士で野中氏とは非常に親しかったようだ。野中氏は2018年1月、92歳で亡くなっている。

 自民党政治家として氏は安倍政権の政権運営をおおむね評価する。だが、1000兆円を超える政府債務には警鐘を鳴らす。「借金をずっとこれからも増やし、次の世代に引き継ぐということは、できませんしやってはいけないことです。結果としてそうした将来に対する責任、これを私たちは念頭におく必要があります」。

 古賀氏は1940(昭和15)年、福岡県の南にある瀬高町(現・みやま市)で生まれた。農村部だが農家ではなく、父親は小さな乾物店を営んでいた。氏が2歳のとき、33歳の父親は2度目の出征でフィリピン戦線に送られ、帰らぬ人となった。幼かった少年は父親のことを何一つ覚えていない。きょうだいは姉一人。そこからが苦難の始まりだった。「食べていくのに一番手っ取り早いのが、隣近所を歩いて行商に出るということでした。母親は、私が物心ついたときから行商に出ていました」「その行商も、売れない場合のことを覚悟しなければいけないから、生物(なまもの)ではなくて乾物類、(中略)日持ちがよくて日用品になるものを扱うのです」。自転車の荷台にいっぱいの品物を積んで売り歩く毎日だった。「少年時代を思い起こしますと、母親が寝ていた姿を見たことはありません。朝は四時か五時に起きて、(中略)夜も私や姉が寝て、それから床に就くわけです」。

 氏が国会議員になって経済的に安定し、「もう外に出るのはいいじゃないの」と言ったところ、『自分は自分で生活をする』と言って聞き入れてくれませんでした」「母親から学んだのは、その生きざまです。『自分は自分でできることの範囲内で生きていくのだ。他人にご迷惑をかけない』というものでした」。足腰が弱ってからは自宅前に小さな乾物店を開いて、「最後まで小さな店で座って店番をしていました」。

 「『貧乏の経験は必要だ』とよく言いますが、経験したものしかそのつらさはわかりません。『なぜ日本の国は戦争をしたのだろうか』『なぜこういうつらい思いをする母親の背中を見なければいけないのだろうか』。それが私の思いです」「私がなぜ政治家の道を選んだのかというと、母親だけがそういう目に遭っているのではなかったからです。目の前に何百万という未亡人がいる。あの戦争の犠牲者がいる。もっと目を広げて見れば、亡くなった方のご兄弟、ご姉妹もいるし、なによりも子どもを亡くした父母がいるということでした」「このいっぱいいる人たちに何かをしようと思った時に、やはり政治が大事かなと思ったのです」。

 高校を卒業すると母親は、「住み込みでまず人間修行をしなさい」と大阪の問屋に送り出した。1年間の丁稚奉公を経て、2年遅れで大学に進学する。高校の先生も政治家への道を実現するには、「国会議員の秘書として、書生として、お母さんに金銭的な迷惑をかけずに政治の勉強をする道を選んだらどうか」と勧めてくれた。飛び込んだのは地元参議院議員の事務所。そこで住み込みの書生生活がスタートする。「今、残念ながらそういう道を歩んで政治家になる人は少なく、祖父も父も政治家で、そのあとを継いだという世襲が多い。私は政治家の世襲というのはあまり感心することではないと、いつも冷ややかに見ている一人であります」。学生時代の4年間を書生として働き、卒業後は秘書として12年間を過ごした。1979年の総選挙に無所属で立候補し落選するが次点と健闘する。その7か月後の衆参同日選挙では見事当選し、39歳の若さで国会議員となる。

 この選挙で、「一番学んだことは、貧乏で寝る暇もないような苦労をしたのは、私の母親一人ではなかったことです。私の応援をしていただいたあのおばさんも、隣の奥さんも、聞いてみると全員戦争未亡人だというじゃないですか」「そして私は、あの選挙を通じて、ご恩返しをしなければと思いました。(中略)何がご恩返しになるかは明らかです。多くの方との交わりの中で、こういう戦争未亡人を再び生み出さない平和な国をつくりあげていくことが政治だろうと肝に命ずることです」。

 「私は『憲法九条は世界遺産だ』と申し上げています。(中略)あの大東亜戦争に対する国民の反省と平和への決意を込めて、憲法九条はつくられています。憲法九条一項、二項によって、日本の国は戦争を放棄する、再び戦争を行わないと、世界の国々へ平和を発信しているのです。これこそ世界遺産だと私は言っているのです」「平和憲法は、日本の国が再びああいう戦争を起こしてはいけないということと同時に、世界の国々に与えた戦争の傷跡に対するお詫びをも世界の国々に対して発信をしているのです」「日本がアジアの国に対して与えた損害というのは、いまでも影響が残っています。中国にとってみれば、南京事件というのは現実のこととして残っている。(中略)韓国についても残っている問題がたくさんあります」「それらに対して『お詫びを申し上げる』と言うと、『そんなことは必要ないよ』と言う国会議員もたくさんいます。戦後生まれの人たちの中には『そんなの、冗談じゃねえよ』と言う人もいる。けれども、そういう過去の過ちへの反省は、あの平和憲法の中にも含まれていて、だからこそ九条を維持し続けるというぐらいの誠実さと謙虚さが、この国には必要なのです」。

 自衛隊の海外派遣に道を開くPKO法案は1992年に成立したが、氏は「自衛隊が戦争をすることにつながる」として採決を棄権した。「野中先生も言っておられましたけれども、やはり針の穴であっても一つ開いたら、ゆくゆくはおかしいところにいってしまうのです。後藤田正晴先生も仰っていたように、戦争にかかわる風穴は小さな穴でもあけたらとんでもないことになってしまう危険性があるのです」。中曽根内閣の官房長官当時、イラクへの掃海艇派遣に強く反対した後藤田氏も2005年に亡くなった。

 「案の定、PKO法案が成立して約20年が経ち、次にはイラクに自衛隊を出すための新しい法案が国会に出されました。その国会での小泉純一郎さんの答弁を聞くと、自衛隊が派遣されているところは戦闘地域じゃないのだなんてバカげたことを言っていた」「いくら歯止めをかけたつもりでも、一つ穴が空くと、運用が広がっていくのです」「私たち戦争を知っている世代は、少なくなりました。(中略)一番私が怖く、一番危機感を持っているのは『昭和』が遠くなっていくということであります」

 自民党内では異端的な意見とも思えるが、古賀氏は意に介さない。「政治家の役割はたくさんあるけれども、もっとも大事なのは憲法についてつねに学習と研究、勉強を怠らないことです。自民党というのは憲法改正を党是としているわけですが、そうであればなおのこと、憲法についてのより深めた研究や勉強は当然しなければなりません」「けれども憲法九条については一切改正してはダメだというのが私の政治活動の原点です。ここは曲げられません。九条一項、二項だけは一字一句変えないというのが、私の政治家としての信念であり、理念であり、哲学なんです」。

 古賀氏は宏池会という派閥に属していた。宏池会は宮沢喜一、大平正芳といった派閥の代表者たちも護憲派で、今もその系譜を受け継いでいる。「自民党の中で戦争を知っている世代、戦争を経験して戦後を生きてきた人たちが政権の中枢にあるときは、憲法問題についての議論は起きてきませんでした。しかし、そういう人たちがいなくなったときに、平和憲法を変えるという大きな議論が起きてくるのが心配だというのが、先輩たちの遺訓です」。

 古賀氏は安倍内閣による集団的自衛権の解釈変更に強い危機感を持つ。「集団的自衛権の行使は憲法違反だ、日本は専守防衛でやっていくのだというのが、戦後の内閣がずっと維持し、国民も支持してきたことなのに、閣議だけでこの見直しを決めてしまった。(中略)取り返しのつかない禍根を残した決め方だったと私は思っています」。若い国会議員からは「古賀さんの言うのは非現実的で、とてもじゃないけども、それで日本の国の安全平和は大丈夫なのか」「北朝鮮が毎日のように。ミサイルや核兵器の実験をしているじゃないですか」と強い疑問を投げかけられる。

 それに対し、氏は「あなたが言うようなことを、みんなが言うような国にしてはいけない。国民にそのような、平和を本当に貫くことができるかという疑問を持っていただかないためにも、この九条は頑として守り抜かねばならない。この平和憲法九条は国民の決意であり覚悟なんです。(中略)日本の国は世界遺産のようなすばらしい平和憲法を持ったんだから、この九条を守るのがわれわれの責務であり使命であり命題です」と強く反論する。

 氏は遺族会会長になった翌年、父親が亡くなったフィリピンのレイテ島を訪ねている。野中氏に背中を押されてのことだった。「2003年2月9日、野中先生と一緒に、フィリピンのレイテの、父親の部隊が亡くなった戦地を訪ねました。そこはジャングルでした」。簡単な祭壇をつくって慰霊していたところ、突然のスコールに見舞われた。「野中先生が私に『ほら、来てよかったろうが、息子がやっと迎えに来てくれた。親父がこんなに喜んでくれたじゃないか。涙雨だ。さぁ親父の魂を持って帰ろう』と言って慰めてくれました」。

 氏は敗戦に至る最後の1年を「しっかりとふりかえる必要がある」と指摘する。日本海軍は「マリアナ沖海戦(注:1944年6月)の敗北によって、日本は絶対国防圏であった、グアム・サイパン・テニアン、この三つの島を連合軍に奪われました。この島からだと敵機は日本の本土に直接来襲できるのです」「『これだけの戦況の中でまだ戦争をするのか。日本の国民のためにやめてくれ』と連合軍は言いましたが、時の首相の東條英機さんが内閣を総辞職し、戦争を続けるという決断をしたため、その後1年、1945年8月15日まであの悲惨な戦いは続いたのです」「戦争が始まって、マリアナ海戦までに尊い命を失った日本の兵士は100万人。海戦から終戦を迎えるまでの1年2か月で失った尊い命は210万人です。政治の貧困そのものでしょう。一軍人の暴走だと言いますが、一軍人による暴走を止めることができなかった政治の責任はどこにあるのか。まさに政治の貧困の象徴があの1年2か月の戦いです」。

 これにはまったく同感だ。勝ち目のない戦いをずるずる続けたことで兵士だけでなく、本土空襲や沖縄の地上戦、広島と長崎への原爆投下で民間人にもおびただしい犠牲が出た。

 ワシントンにいたとき、ちょうど第二次大戦終結50年の節目に遭遇し、アメリカ各地でさまざまな取材をした。長崎への原爆投下機ボックスカーの機長に会ったほか、広島への投下機エノラゲイの乗員にも会った。アメリカから見た戦争の正しさに疑問を持つ人はいなかったが、民間人の多大な犠牲には耐えがたい思いでいることが伝わってきた。テニアン島の飛行場からエノラゲイが原爆を積んで出発したのを見送った物理学者にもインタビューした。彼は島で原爆の組み立てや積み込み作業に立ち会っていた。エノラゲイが飛び立つのを見て、これが「日本の都市に落ちたらどうなるのだろうか」と、同僚と涙したという。

 次章の「靖国神社のA級戦犯は分祀を」にも強く共感した。氏は国会議員になって一度だけ母親を東京へ呼んだ。「一回きりの親孝行だから、なんでものぞみをかなえてやりたいと思い母に聞くと、母は『靖国神社に参りたい』の一言でした」「私は母親の手をひいて靖国神社に行きました。しかし、靖国神社に昇殿参拝できるように準備をしていたのに、母親はなんと『社頭』でいいというのです」。氏が昇殿して供養をしようと勧めたところ、「なんの学識もない母親がぽつりとひと言。『ここは赤紙を出した東條さんも一緒やろ』と言いました」「『みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会』の会長も私はしましたが、それ以来一切昇殿参拝はやめ、社頭参拝に留めています。確かに母親の気持ちは痛いほど分かります。そして、それは母親の気持ちだけでなく、多くの戦没者、英霊の皆さんたちを持つ肉親の気持ちだと思いました」。

 氏はA級戦犯を靖国神社から分祀する運動をしているが、進んでいない。「それはつまるところ、あなたはA級戦犯を認めるのか、認めないのかという議論、東京裁判が正しいか、正しくないのかという議論になってしまうからです。そもそも、A級戦犯は犯罪者ではないという日本の国内議論が世界で通るわけがない。(中略)A級戦犯を靖国に祀ったことにより、サンフランシスコ講和条約が反故にされてしまっていると私は思います」「サンフランシスコ講和条約は東京裁判の結果を受け入れて結んだのであって、その結果日本は国際社会の仲間入りができました。そして、サンフランシスコ講和条約が成立して初めて、民主主義を土台にして日本の戦後政治が始まっているのです」「ですから、中国や韓国がA級戦犯の合祀を批判するのは内政干渉でも何でもない。日本は中国に対しても韓国に対しても『内政干渉をするな』と言える道理がないというのが私の意見です」。

 評者にはA級戦合祀の過程に関する証言がとくに興味深かった。「1966年、厚生省は法務死と認められたご英霊の祭神名標を、靖国神社に送付しました。70年には靖国神社の崇敬者総代会で合祀が決まりました。しかし、当時の筑波藤麿という第五代宮司は、きわめて天皇陛下に近い、宮内庁寄りの宮司で、一四人柱の昭和殉難者、すなわちA級戦犯の人を合祀するといろんな問題が生じてくる危険性が高く、不安があるので、靖国神社宮司預かりとして靖国神社の祭神には入れていませんでした」「1978年、筑波宮司が亡くなったあと、第六代宮司に松平永芳さんが就任して、最初の秋の例大祭の前の日に、夜中ひそかに一四祭神名標を入れたというのです。(中略)その翌年の1979年、共同・朝日両新聞がスクープして、遺族会は大騒動になりました。何の議論も、遺族会への何の相談もなかった。合祀した松平第六代宮司が何を考えていたのか、なぜ配慮ができなかったのか。私は靖国神社に行き、宮司と大激論をしました」「戦後我々日本人は自らこの戦争を総括することを放棄してしまった。誰かが責任をとらねばならぬことは当然でしょう。それは誰かと言えば衆目の一致するところA級戦犯でしょう」と憤激する。

 「靖国の杜に眠っている英霊の御霊は、多くの国民の皆さんのわだかまりのない(中略)お参りを待ち望んでいるのです。とりわけ天皇陛下のご参拝を待ち望んでいるのです」。氏はA級戦犯の合祀が、天皇が靖国神社に参拝できなくなった原因とみている。戦地巡礼を、責務として南洋はるかの孤島まで慰霊の旅を続けた上皇も一度も靖国神社には参拝していない。昭和天皇もA級戦犯合祀後は一度も靖国神社を訪ねることはなかった。古賀氏のような遺族にとって、天皇や皇室関係者の靖国神社参拝は悲願なのだ。

 評者はこうした遺族の思いをよく理解しているわけではない。だが、1942年6月、海軍下士官として乗務した輸送艦がフィリピン沖で撃沈され、ただ一人の弟を失った父は上京するたび、靖国神社に参拝していた。弟の無念を弔いたい気持ちが強かったのだろう。

 氏は自民党政治家としては珍しく、共産党の「しんぶん赤旗」のインタビューにも登場したことがある。「九条を大事だと考える人々は、立場の違いを超えて協力し合う必要があります」「自民党を支持している人も共産党を支持している人も、平和について言うならばみんな一緒です。『冗談じゃない、戦争いやだよ、俺の子どもは殺させたくない』とみんな思っているのです。保守だから革新だからという垣根をつくっても意味のないことなのです」。勇気ある発言を続ける氏に大きな拍手を送りたい。と同時に、いかに政治があるいは世論がこうした声に耳を傾けていないかと思うと愕然とする。

 評者は今月初め、近くの名画館でドキュメンタリー映画「東京裁判」のリマスター版が上映されていたので見に行った。途中、休憩をはさんで5時間近い長編だったが、まったく退屈しなかった。映画に登場する人物や当時、起きていたことには一定の知識があった。だが裁判に登場するA級戦犯の実際の姿を見るとやはり感慨があった。起訴された28人のうち7人は絞首刑を言い渡されるが、そのひとりひとりが凡庸すぎる人物に思えてならなかった。当時の日本はどうして彼らに無謀な戦争の遂行を託す運命になったのだろうか、と不思議に思った。映画で感銘を受けたのは若きアメリカ人弁護士が日本人戦犯の弁護に熱弁をふるい、「人道に対する罪で被告を裁くなら、広島、長崎に原爆を投下し、多くの民間人を殺戮したあなたがたにその資格はあるのか」と厳しく問う場面だった。GHQ統治下で、原爆投下の非人道性が報道できなかった当時、公開の法廷でそうした論陣を張ることには大変な勇気がいったはずだ。日本人が言えないことをアメリカ人弁護士が鋭く追及する。歴史の真実を知ることの大事さを改めて思い知った。本書に関心を持つ方は、本書を読み、「東京裁判」のフィルムを見ると、現代史について改めてさまざまな思いをすることになるはずだ。














 







 
 

 

 

 


危機と人類 ジャレド・ダイアモンド 小川敏子、川上純子訳 知の巨人が説く現代史からの貴重な教訓、日本への提言も

2019年12月15日 | 読書日記
危機と人類 ジャレド・ダイアモンド 小川敏子、川上純子訳 近代日本、フィンランド、チリなど7カ国の歴史から何を学ぶべきか


 「知の巨人」と呼ばれるカリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)教授ジャレド・ダイアモンド博士の新著。博士はハーバード大で生物学、ケンブリッジ大で生理学をおさめ、82歳のいまもUCLA地理学教授を務める。「銃・病原菌・鉄」をはじめ、日本でも多くの読者を獲得している。博学、博識はもちろん、時代や国家、大陸の東西を自在に行き来し、事象の本質や変化を鋭くつかむ柔軟な発想と視野の広さに圧倒される。

 書き出しは1942年11月に起きたボストン大火(死者492人)から。1937年、ボストンに生まれた博士は5歳で大火に遭遇した。当時、ボストンにいた人には忘れることのできない記憶だ。日本なら阪神大震災や東日本大震災に匹敵するのだろう。博士はハーバード大教授で医師だっただった父からその模様を聞いた。「ボストン市内の医療関係者は、火事の直接の死者や負傷者ばかりでなく、心の傷を訴える患者の多さにも圧倒された」「被害者家族と生存者は、人生の危機に直面した。(中略)大切な人が亡くなったのに自分は生きているということに、良心の呵責を感じた」。これは巨大な個人的危機だが、筆者はこれと国家の危機とを対比させる。

 国家の危機の代表として取りあげられるのは日本、インドネシア、オーストラリア、フィンランド、ドイツ、アメリカ、チリの7カ国。アメリカは当然だろうが、日本が詳しく取り上げられていたのは意外だった。博士は何度も日本を訪問し、妻の親せき二人が日本人と結婚していて日本の事情にも通じているという。本書のために、それぞれの国に関する高さ1・5㍍もの資料を集めたという。幕末から明治期の日本が取り上げられたのは「選択的変化」の代表的な成功例として。別の章で、第二次大戦の敗戦と復興、現在の日本が抱える困難な課題を取り上げ、成功と課題を対比させる。

 第2部の「国家--明らかになった危機」の最初にフィンランドが登場する。フィンランドの危機は1939年11月30日、ソ連による攻撃ではじまった。この侵略に抗戦する「冬戦争」で支援する国は皆無だった。潜在的同盟国から見殺しにされ、甚大な被害を被ったが、ソ連に対して独立を維持することに成功した。当時の人口は、ソ連の40分の1。博士はその20年後、フィンランドに滞在する。当時のフィンランドは、「自由民主主義を掲げる豊かな小国でありながら、保守的独裁者が支配する隣の貧しい大国・ソ連の機嫌を損ねないためなら何でもする、という外交政策を採用したのだ。歴史的背景を理解しない外国人の多くは恥ずべき外交政策とみなし、それを『フィンランド化』と呼んで非難した」「冬戦争を戦った老兵は、他国からの支援を完全に断たれるという苦い経験からフィンランド人が学んだ教訓について、礼儀正しく私に説明してくれた。その夏の私にとって、もっとも心動かされた時間だった」。

 フィンランドの成り立ちには説明が必要だが、ここでは冬戦争直前から。当時、ヨーロッパはスターリン率いるソ連とヒトラー率いるナチスドイツのふたつの脅威にさらされていた。1939年8月、互いに宣伝合戦を繰り広げ、罵りあっていた両国は突然、独ソ不可侵条約に調印する。「フィンランド人は、この協定には公表されていない密約があり、ドイツとソ連で勢力範囲を配分し、フィンランドがソ連支配下に置かれることをドイツ側は承認しているのではないか、と疑った」。

 ドイツはその直後、電撃的にポーランドに侵攻する。「当然のことながら、スターリンは可能な限りソ連の国境線を西方へ(評者注:フィンランド側へ)移動させておき、力を強めつつあるドイツの脅威を未然に防ぎたいと考えていた」。冬戦争直前、ソ連は国境を接するバルト3国とフィンランドにソ連の軍事基地を建設するなど難題をつきつけた。バルト3国はやむなく要求をのんだが、フィンランドは最終的にこれを拒否した。ソ連は人口1億7000万、フィンランドは370万の小国。ソ連は兵員50万人を投入したが、フィンランドは全軍をあげても12万人。数千両の戦車や爆撃機など重装備を誇るソ連軍に対し、フィンランドの戦車はゼロ。弾薬が不足し、「兵士たちは(中略)ソ連兵が至近距離に来るまで撃つなといわれていた」。友人のフィンランド人は、「私たちはフィンランドの勝利ではなく、ソ連の勝利を遅らせて、できるだけ苦しめて犠牲を最大化することを目標にしていた」「50代の男女や10代の少年も徴兵された」。他国の支援はなかった。隣国スウェーデンはソ連との戦争に巻き込まれることを恐れたし、ソ連と敵対していたドイツも独ソ不可侵条約を盾に介入しなかった。アメリカは孤立主義が足かせで身動きできなかった。冬戦争とそれに続いて行われた継続戦争で、フィンランドでは約10万人が亡くなり、8万人の子どもが戦火を避けてスウェーデンなどに疎開した。ソ連との休戦協定では多額の賠償金が課せられ、「戦犯」の処罰まで求められた。フィンランドは、事後法までつくって政府指導者を禁固刑に処した。

 凶暴なソ連と折り合いをつけ、独立を守るために指導者が編み出したのが、「フィンランド化」と呼ばれる「ソ連の思考を理解し、(中略)フィンランドが約束を守り、合意を実行する姿勢を示すことでソ連の信頼を得て、それを維持」するという対ソ超友好路線だった。「フィンランドの綱渡り外交は、ソ連から国の独立を守り、経済発展を遂げるというふたつの目標を実現した」。だが、その代償は大きかった。政府もメディアもソ連批判を控え、ソ連のハンガリーやチェコスロバキア侵攻時にも沈黙を守った。

 人口が600万人になったフィンランドは教育にとくに力を入れている。「(教員の)社会的地位は高く、給与も高く、全員が大学院の学位を持っており、教授法についても大きな裁量が認められている」「フィンランドでは男性を最大限に活用するだけでなく、女性も最大限に活用している。女性参政権が認められたのは世界で二番目」。フィンランドでは最近、34歳という世界最年少女性首相の誕生が話題になった。

 博士はフィンランドから学ぶべき教訓として、「国家指導者が果たす役割と争いの後の和解」をあげる。「第二次世界大戦中から戦後にかけて、軍と政界の指導者の巧みな舵取りはフィンランドを大きく利した」。またフィンランド首相で後の大統領とその後継者は、「二人ともロシア語が流暢であったが、それに加えて巧みな交渉術を発揮し、弱者の立場からスターリンの信頼を獲得し、それを維持し続けた」。

 次に「近代日本の起源」が登場する。LAには小さな日本人街があり、UCLAには日本からの留学生も多い。博士の周囲にいる日本人や日系人たちは、「日本と欧米の社会には大きな類似点と大きな相違点が共存しているという。彼らが挙げた相違点のいくつかを、重要度は気にせずに挙げてみよう。謝罪する(あるいはしない)こと、日本語の読み書きが難しいこと、黙って苦難を耐え忍ぶこと、(中略)徹底した礼儀正しさ、(中略)あからさまな女性蔑視的ふるまい、(中略)人と違うと周囲から浮いてしまうこと、女性の地位……」「これらの相違点は昔から日本が受け継いできたものと、近代日本が受けた西洋の影響との共存で生じている。この混成は1853年7月8日に突発的に生じた危機(ペリー来航)とともにはじまり、1868年の明治維新以降加速した。明治維新は、日本が半世紀にわたって選択的変化を繰り返す一大事業だった。明治日本は、他国を手本として選択的な国家レベルの変化を起こした国として、世界でも稀な好例だ。(中略)日本は、他に類をみないほど公正な自国評価をし、有効な対処法がみつかるまで忍耐強く試行錯誤を続けた。日本がフィンランドと違うのは、はるかに包括的に選択的変革をおこなったことと、地政学的な制約がなく、大きな行動の自由があったことだ」。ソ連と長い国境を接するフィンランドと違い、日本は四囲を海で囲まれ、アメリカや西欧列強から離れた位置にいる。日本と似た島国のイギリスも海に囲まれるが大陸との海峡は狭い。

 ペリー来航から幕末に至る幕府や諸藩の動き、明治維新による政治や社会、経済改革の記述は詳細だ。「明治時代初期、日本の大部分が、変革の対象とされた。(中略)相反する提案が入り乱れるなか、明治政府の指導者たちは基本的な大原則を二つ採用した。第一の原則は、現実主義である。(中略)第二の原則は、明治政府の最終目標を、西洋列強に強要された不平等条約の改正とするということである。そのためには、国力を養い、さらに西洋式の憲法や法律を備えた。正当な文明国であると西洋列強に認めさせなければならない。(中略)第三の原則は、外国の手本をそのまま導入するのではなく、日本の状況と価値観にもっとも適合性の高いものを手本としつつ、日本向けに調整する、というものだった」。

 こうした選択的受容の成功について、「視察や留学によって海外で経験を積んだ日本人の多くが、明治日本を牽引する政財官のリーダーとなった」ことをあげる。「明治時代の改革は2種類の『観客』に向けておこなわれた。国内の日本人と、海外の西洋人だ。もちろん明治時代の改革は、日本が自国のためにおこなったものだ。(中略)その一方で、これらの改革は西洋人が重視する諸制度を導入し、西洋列強から日本を同等な文明国として丁重に扱ってもらえるようにするという狙いもあった」。

 だが、礼賛だけでは終わらない。「明治日本の軍備増強と領土拡大は、成功に次ぐ成功をおさめた。それは、現実的かつ注意深く、確度の高い情報にもとづいて公正な自国評価がおこなわれ、日本と対象国との相対的な国力差を見極めていたからだ」「この成功した明治時代の拡大政策を、1945年8月14日の日本の状況と比較してみよう。このとき日本は、中国、アメリカ、イギリス、ロシア、オーストラリア、ニュージーランドと同時に戦線を構えていた。対戦相手としては最悪の組み合わせだ」。

 博士は明治期日本と破滅的な戦争に踏み切った1930年代、40年代の指導者の違いに言及する。「明治日本の指導者と、1930年代、40年代の日本の指導者では、公正な自国評価をおこなうための知識や能力に違いがあったのである。明治時代には軍幹部を含む多くの日本の指導者が海外に派遣された経験があった。そうして中国やアメリカ、ドイツ、ロシアの現状や陸海軍の実力を詳細に直接知ることができ、日本と各国の国力差を公正に評価できた。彼らは成功を確信した場合にだけ、攻撃をしかけた。対照的だったのは1930年代に中国大陸に展開していた日本陸軍だ。大陸の将校たちは若く急進的だったし、海外経験もなかった。そして、東京の大本営にいた経験のある指導者層の命令を聞き入れなかった」「勝算が絶望的にないにもかかわらず日本が第二次世界大戦をはじめた理由の一部(あくまで一部)は1930年代の若い軍幹部に現実的かつ慎重で公正な自国評価をおこなうのに必要な知識と経験が欠けていたことだ。そしてそれが日本に破滅的な結末をもたらしたのである」。

 戦後のドイツが日本と対比される。大陸国のドイツは隣国に囲まれ、日本と地理的条件がまったく異なる。ドイツでは戦後、ブラントが指導者として登場した。彼は東ドイツをはじめ東側諸国を承認し、ポーランドやロシアと条約を締結し、ポツダム協定による領土喪失を受け入れ、西ドイツがそれまで20年間続けてきた外交政策を覆した。1970年12月、現職首相としてワルシャワ・ゲットーを訪れた。「ポーランドの群衆の前でブラントはみずから進んでひざまずき、ナチスドイツによる犠牲者数百万人を追悼し、ヒトラーの独裁と第二次世界大戦に対する赦しを求めた。ドイツ人への不信感を抱き続けていたポーランド人ですら、ブラントの行為が計算ずくではなく心の底からの真摯なものであると理解できた」。この事実がドイツはユダヤ人や周辺諸国に真摯な謝罪をしたのに、日本はいまだに謝罪しないという批判につながっている。

 第3部「国家と世界--進行中の危機」には現代日本のさまざまな危機が登場する。最初に人的資本の強みがあげられる。「日本の人口は1億2000万人を上回り、健康で教育が行き届いている。(中略)多くのアメリカ人の成功の機会を制約している社会経済的格差は、日本では大きく抑制されている」。強みの最後には日本の地理的環境を挙げる。「温暖な気候、熱帯性農業病害虫がいないこと、夏の生育期に集中する降雨、肥沃な火山性土の組み合わせが、高い農業生産性をもたらす。このことは、(中略)先進工業国中もっとも高い平均人口密度を支える日本の国力に貢献している」。

 ここからが課題だ。まずGDP約2.5倍に達する国債残高。「これほどの負債がありながら、日本の政府がずっと前に崩壊、あるいはデフォルトしなかったのはなぜか?」「低金利にもかかわらず、債務が大きく高齢者が多いため、歳出の大部分は国際元利払い、社会保障費にあてられている。そのため、教育や研究開発、インフラ整備など、税収増を促す経済の成長エンジンに投資できたはずの歳出が削られている。(中略)結局のところ現役世代の税金が国債利払いに使われ、直接的・間接的に国債を保有する日本の高齢者への実質的な支払いになっていて、世代間の利害対立をつくりだして」いると批判する。

 ほとんどの日本人が問題として認めるのが、「女性の役割、少子化、人口減少、高齢化」だ。憲法で男女平等が保障されていながら、「現実には、日本の女性は平等を阻む数多くの社会的障壁に直面している。(中略)日本におけるこれらの障壁ーーさらに保健、教育、労働、政治における男女格差ーーは韓国を除く他の富裕な先進国のどこよりも手強い」「日本の現首相である安倍晋三は保守派であり、以前は女性問題に関心をみせていなかった。しかし最近は路線を変更し、母親が仕事に戻りやすくする方法を見出したいと明言している。といっても、安倍に突然女性の生き方への関心が芽生えたわけではなく、人口減にともなう労働人口減が原因だろうと多くの人が思っている」。

 低い出生率と晩婚化にも触れつつ、「人口減少は日本にとって『問題』なのか」と反問する。北欧諸国などを例に、「人口が減れば、日本は困窮するのではなく非常に裕福になるだろうと私は思う。なぜなら、必要とされる国内外の資源が減るからだ」。人口減少はチャンスとしてとらえるべきだ、という逆転の発想には評者も考えさせられた。

 その次が高齢化だ。「少子化、高齢化が進み、社会保障費が増えている国は日本だけではない。同じ問題は先進諸国全体で起こっており、日本ではそれが極端なレベルになっているだけだ」「その答えは、日本が他に抱えている2つの大問題のうちの第一の問題。しかも日本では問題として広く捉えられていない問題に関連している。それは、移民の不在である」。博士は地方創生担当大臣だった石破茂の「日本人が外国に行って(移民として)やってきたのに、外国人が日本に来るのはだめだというのは、おかしいと思う」という発言も紹介し、「誤解がないようにしたいのだが、私は移民に対する日本人の抵抗は『間違っている』とか変えるべきだといっているのではない。どの国であれ移民は問題をはらむが、同時に利益ももたらす。それぞれの国が移民政策を決めるにあたり、利益と困難を秤にかける。(中略)日本のジレンマとは、他国が移民によって緩和してきたことが広く知られているいくつもの問題に苦しみながら、移民に頼らずにそれを解決する方法をみつけられずにいる、ということだ」。

 もう一つ大きな問題がある。「第二次世界大戦前と大戦中に、日本はアジア諸国、とりわけ中国と朝鮮半島に対して非道なおこないをした。(中略)その結果、今日の中国および韓国には反日感情が蔓延している。中国人や韓国人からみれば、日本は戦時中の残虐行為について適切に認識することも謝罪することも遺憾の意を表明することもしていない」。博士はUCLAにいる日本人学生が日本史の授業では、「第二次世界大戦についてほとんど時間を割かない」「侵略者としての日本についてはほとんど、あるいはまったく触れないし、何百万人もの外国人や数百万人の日本の兵士と民間人の死についての責任よりもむしろ被害者としての日本(原爆によって十数万人が殺されたこと)を強調して」いる、と聞いている。これを厳しく批判し、重要なのは、「自国の最近の歴史がもたらしたものへの対応について、日本とドイツの対照的な手法を比較すること。そしてドイツの手法がかつての敵国をおおむね納得させているのに対して、日本の手法は主要な犠牲者である中国と韓国を納得させそこねているのはなぜだろうかと問う」と述べる。和解のための具体策も提言する。たとえば「日本中にある博物館や記念碑や元捕虜収容所に、戦時中の日本軍の残虐行為を示す写真や詳しい説明を展示」すること、「戦争の犠牲者としての日本よりも、戦時中に日本の残虐行為の犠牲となった非日本人を描くことにもっと力を入れ」てはどうだろうか、とまで提案する。

 博士はその一方で、明るい希望もあるという。黒船来航や壊滅的な敗戦による衝撃に比べれば、「(これらは)大したものではない。これらのトラウマから日本がみごとに回復したことを思えば、今日、もう一度日本が時代に合わなくなった価値観を捨て、意味のあるものだけを維持し、新しい時代状況に合わせて新しい価値観を取り入れること、つまり基本的価値観を選択的に再評価することは可能だという希望を私は持っている」。

 日本は上巻の第3章「近代日本の起源」と下巻の第8章「日本を待ち受けるもの」に登場する。合わせて80頁ほどだ。評者は、博士の丁寧な分析と、日本に対する厳しくも愛情あふれた批判や提言に感銘を受けた。とくに課題はできるだけ多くの日本人に読んでほしい。巷にあふれる日本礼賛論に浮かれている場合ではないからだ。博士の分析や提言のすべてに賛同する必要はないだろうが、問題の指摘には真摯に対応し、熟考する必要がある。

 博士は本書の各国に対する分析を「自然実験」と考え、国家的危機比較研究プロジェクトの第一段階と位置づけ、歴史から学ぶことの重要性を強調する(本ブログ「歴史は実験できるのか」(ジャレド・ダイアモンド編、2019年4月8日付が関連)。本書で述べた国家的危機の歴史から、各国が危機対応に役立った行動として、「自国が危機のさなかにあると認識すること。他国を責め、犠牲者としての立場に引きこもるのではなく、変化する責任を受け入れること」「自国が直面している問題と似た問題をすでに解決した、手本となる他国を見出すこと。忍耐力を発揮し、最初の解決策がうまくいかなくてもつづけていくつか試す必要があるかもしれないと認識すること」「そして、公正な自国評価をおこなうこと」などを挙げている。

 博士は決して将来を悲観しない。「無知な指導者が跋扈しているのも事実だが、国家指導者のなかには幅広く本を読む人もおり、彼らにとっては過去よりも今のほうが歴史から学びやすい時代である」「過去において危機はしばしば国家に困難をつきつけてきた。(中略)しかし、現在の国家や世界は対応策を求めて暗闇を手探りする必要はない。過去にうまくいった変化、いかなかった変化を知っておくことは、私たちの導き手になるからだ」と述べる。

 評者は日本だけでなく、世界で本書が多くの読者を獲得することを切望する。現代のさまざまな問題を考えるうえで必読書の一冊になる。翻訳はこなれていて読みやすい。原著は「大変動(UPHEAVAL)」がメーンタイトルで、日本語版にもこうした語感がほしいところだ。