ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

ハダカの東京都庁 澤 章 豊洲市場告発本で天下り先をクビになった元都庁官僚の証言

2021年09月29日 | 読書日記
ハダカの東京都庁 澤 章 反小池知事とされ再就職を棒に振った元都庁官僚の告発


  面白い表紙だ。西新宿にある超高層ビルの都庁を背景にポーズを決めているのは小池百合子都知事だろう。正義の騎士を気取ってか鎧のスカートと甲冑を身に着けている。その剣幕に逃げ惑うのは都庁の幹部職員たちだろう。

 著者の澤章氏は元東京都職員。枢要ポストである総務局人事課長や知事本局計画調整部長、中央卸売市場次長や選挙管理委員会事務局長などを歴任した。定年退職後、東京都環境公社理事長に天下ったものの、2020年3月、築地市場の豊洲への移転の顛末を書いた「築地と豊洲 『市場移転問題』という名のブラックボックスを開封する」という告発本を出したことで理事長を解任された。まえがきによると、「この本によって自らの暗部をえぐりだされた小池百合子知事は激怒した。実際、都庁では発禁本のような扱いを受けた」。

 評者は長年の都民だが、それほど都政に関心を持ったことはない。人気投票のような都知事選に投票に行き、その結果をテレビの速報で知る程度だ。当否に一喜一憂することもない。ただ歴代都知事の名前は知っている。マンモス自治体の東京都は職員が4万7000人もいるとか。巨大な都庁庁舎で執務するのはその一部らしい。

 まえがきによると、筆者は告発本の出版直後の2020年7月初旬、突然、都庁に呼び出された。「幹部人事を取り仕切る副知事から『おまえは常識がない』と告げられたのである。正直、呆れた。都庁も狭量になったものだと憐れみさえ感じた。都庁村の掟を破った不届き者は村八分にされて当然ということらしい。加えて、小池都知事の行動原理の一つである『裏切者は絶対に許さない』という、あの氷のように冷たい姿勢が適用された結果でもあった」。

 その意味で本書は小池知事に対する憤怒や告発の書である。言いたいことは山ほどあるだろうが、「悪態をついても始まらないので未練なく辞めた」。その代わり告発本や暴露本として本書を執筆したのだろう。ただ書かれている内容はそれほど赤裸々なものではない。役所だけでなくおそらくどこの組織にでもあるような類のことだ。その意味で、本書は読者の期待に十分応えているとはいいがたい。ただ評者は都庁についてほとんど知らないので、結構、興味深く読ませてもらった。

 巨大組織だけあって都庁の外郭団体は数多い。政策連携団体と事業協力団体に分かれているが、前者は33、後者も33ある。「身近なところでは、世界6大マラソンにまで成長した東京マラソンを運営する東京マラソン財団、恩賜上野動物園などを管理する東京動物園協会、変わったところでは、はとバスや東京臨海高速鉄道(いわゆる、りんかい線)、多摩都市モノレールなども含まれる。こうした数多くの団体に都庁の仕事の一部を委託し実働部隊として活用することで、巨大な都庁ホールディングスが形成されている」。こうした外郭組織には局長や枢要部長の経験者が天下る。

 さらに副知事経験者には別格の天下りポストが割り振られる。「副知事経験者の指定席の代表格は、東京都競馬と東京臨海ホールディングスである。前者は、地方競馬の雄・大井競馬場を特別区競馬組合に、伊勢崎オートレース場を伊勢崎市に賃貸する隠れた優良企業であり、東京サマーランドの経営もしている」。後者は関連5社を傘下におさめる臨海副都心のまとめ役だ、これほど大きな企業体なら、「利権」も相当なものだろう。

 天下りが可能な枢要ポストに昇進するには内部の昇進競争を勝ち抜かねばならない。都庁の場合、主任試験と管理職試験の二つの試験がある。いずれも筆記試験と論文でふるいにかけられる。さらに管理職試験には面接が加わる。「第一関門である主任試験をパスしなければ、係長にも上がれずに一般職員のままで役人人生が終わってしまうのだ。主任試験の次は管理職試験だ。これには2種類あり、以前はAがエリートコース、Bがたたきあげコースと位置づけられていたが、現在ではその区別は薄れている。管理職試験をパスしなければ管理職には登用されないが、試験の人気は高いとはいえない。「都庁では年々、管理職への業務上の負担が増大しており、職責と処遇の間にアンバランスが生じ、とてもじゃないが割に合わないと感じている職員も少なからずいる」「こうした傾向は小池都政になって以降、確実に強まっている。ワーク・ライフ・バランスを強調する小池知事だが、その実態は真逆である。知事サイドからの生煮えの指示と矢の催促に、管理職たちは疲弊しきっている」。評者は反小池というほどでもないが、テレビで見る彼女の偽善的な姿や質問をはぐらかす態度に、本書の指摘は大部分が事実だろうと感じている。

 都庁だけでなく、官僚の出世レース、出世競争はきわめて激しい。上級ポストにつけば退職後も有利な天下り先が得られるという実利があるが、それだけでは説明できない何かがある。評者も一時期中央省庁の担当記者をしたが、人事の季節になると、幹部職員は一様に落ち着かなくなる。懇意になった幹部から人事権者である事務次官のハラをひそかに探ってくれないかといった依頼(?)が来て、驚いたこともある。今は内閣人事局が幹部人事を仕切るので、かなり様変わりしたのだろう。それだけ官邸の威光が強くなって、衆目、優秀な人材と認められながらも官邸サイドに快く思われず、冷や飯を食わされている人も少なくないのだろう。

 都の人事課長を務めただけに、人事の話には熱が入る。筆者が快く思わないのは抜擢人事だ。「目立ちたがり知事は、人事でも目立ちたがろうとするので厄介である。抜擢人事は、発表直後こそ耳目を集めて拍手喝采を浴びるが、その後の経緯をたどると、必ずと言っていいほど失敗する。知事以外にも人事部自らが人事異動の目玉として抜擢を仕掛けることがたまにある。それでも必ず失敗する」。失敗の理由は二つ。「まず、引き上げられた人物に相応の能力が備わっていないからだ」。もうひとつが「人間集団が持つ無意識の嫉妬感情である。民間企業であれば、嫉妬渦巻く中でも業績を上げれば誰も否定できないが、公務員の場合、仕事の出来不出来に明確な物差しがないため、足を引っ張ろうと思えばいくらでもできてしまうのである」。

 次の話題は「記者会見場の人間模様」だ。「知事の定例記者会見は原則週1回、第一本庁舎6階の会見場で行われる。小池知事は毎週金曜午後2時スタートを旨としている。ネット中継を通じて誰もがリアルタイムで視聴できる」。都庁記者クラブは新聞社を中心とする「有楽クラブ」とテレビ局などで構成される「鍛冶橋クラブ」が合併した。「近年はネット系の新興メディアが存在感を示している」「ネットメディアは小池知事のお気に入りである。既存のメディアは知事に批判的なところが多い。それを嫌ってあえてネットメディアにすり寄ったのだ。ネットメディアも存在感を増したいがゆえに、権力者におもねる態度を隠そうとしない」。

 「会見場で小池知事が懇意の記者しか指名しないことは業界筋ならずとも有名な話である。会見が始まると、担当職員から知事にこっそり手書きのペーパーが渡される。そこには記者席のどこに、どの社の誰が座っているかが記されている。知事はこのペーパーを手元に置き、自分が贔屓にする記者を指名する。(中略)誰がどこの記者なのかを把握した上で、完全に計算ずくで指名しているのである。だから、批判的な記事を書く記者は最初からマークされ、たとえ手を挙げても質問する機会を与えられることはほとんどない。(中略)昵懇の記者は毎回のように質問を許され、そのたびに知事から微笑みを返される」。都庁に限らず、こうしたやらせ会見は結構多いと思うが、その内情を書いた記事をあまり目にしないのはどうしたことなのだろう。

 都庁クラブには各社とも若手の記者を配置することが多い。若い女性記者も目立つ。「知事は機会を見つけて不慣れな女性記者たちに声をかけ味方に引き入れた。報道番組のMCあがりの知事にとっては朝飯前、自らが女性であることを武器に女性の味方を演出する典型例である」。評者も何年か前、某公共放送のローカルニュースで、女性アナが知事へのインタビューの際、「私もこれを着けています」と知事が着けるシンボルバッジを示したのには仰天した。報道の中立性や客観性は死語になったのだろうか?

 筆者は石原知事の2期目の4年間(2003年ー07年)、知事のスピーチライターをしていた。これは都庁では俗に「のりと」担当と呼ばれる。石原氏は小説家だから、言葉にうるさいはずだ。「私は就任早々、過去の作品を読みあさり、本人になり切ることから始めた。ある程度、信頼を得ると、知事執務室の裏口から単身入室して知事と1対1で文面の調整を行うことも許された」。本書が全体として石原氏に手ぬるく、小池氏に手厳しいと読めるのもそうした経緯があるのかもしれない。一橋大出身の石原氏は澤氏が後輩(一橋大経済学部卒)と知って重用したのかもしれない。これももちろん本書では触れられていない。「慣れるまでは地獄、慣れれば天国の4年間だったが、石原知事からは『君は石原慎太郎よりも慎太郎らしいな』とのお褒めの言葉をいただいて有頂天になった。しかし、後でよく聞けば、歴代のりと担当課長は全員、知事から同じことを言われたというではないか」。

 筆者は都議会との関係も熟知している。公明党が4年に一度の都議選を国政選挙並みに重視していることはよく知られているが、国会も含め、行政と議会との関係はなかなか微妙なところがある。「ある会派の古参議員はこんなことを口癖のように言っていたのを鮮明に記憶している。『知事は4年か、せいぜい8年でいなくなるんだよ。だが、都政は永遠だ。都民のために働かなければならない』」。だが、筆者はその真意はこうだという。「だからこそ、すぐにいなくなる知事に左右されてはいけないんだ。我々とともに都政を推進していこうではないか」。さらに、本当の真意は「人気投票のような選挙で選ばれた知事にあまり振り回されるのはどうかと思うよ。地元にしっかり根付き、街の人たちの声を常に吸いあげている我々こそが本当の民意なのだから、君たちもそこのところを見誤ってはいけない」。

 筆者は一時、ある都立病院の医事課長をしていたことがある。本来はレセプト請求や患者サービスにかかる医療事務の責任者だが、裏ミッションは都議からの入院依頼のさばきだ。「この手の入院依頼は特定の会派によるものではない。与党野党問わずどの会派からも、年中行事のように持ち込まれるのである。コロナ禍の東京で、まさか同じようなことが繰り返されていないだろうが、個人的な現世利益のために都議会議員がいるのではないことだけは再確認しておきたい」。コロナ禍で病床がひっ迫する今は、事態はさらに深刻だろう。評者も科学部のデスクや部長だったとき、社内からかなり無理な入院依頼をされ、窮したことがある。

 親切な筆者は都庁のトリビアや都庁だけで通じる業界用語の解説もしてくれる。面白いと思ったのは入社や入省の代わりに使われる「入都」という言葉。同期入都は「入都〇年組」と呼ばれる。外部ではまったく使われないのはGやVという隠語。Gはガバナー(Governor)の頭文字だから都知事、Vは副を意味するViceの頭文字で副知事を意味する。SSというのはスペシャル・セクレタリーで知事の特別秘書。副知事は議会の同意が必要だが、SSは同意が不要。「知事の友達筋がつくことが常で、過去を見ても筋悪の人物が多かったように感じる」。

 巻末付録の「歴代都知事の斜め切り寸評」が面白かった。
鈴木俊一(1979年4月~95年4月 4期)
 86年入都の筆者には「雲の上の人」。「現職の都庁幹部職員にとってもほぼ歴史上の人物と化しているはずだが、歴代都知事の中で、なぜか今でも高い評価を受けている。これはひとえに、実務派で堅実な仕事ぶりや、温厚な人柄によるところが大きい」。

青島幸男(1995年4月~99年4月 1期)
 「思いがけなく都知事になってしまった人である。そのことは当の本人が一番痛切に感じていたはずである」。青島都政4年目のある日、居酒屋のテレビに彼の顔が映し出された。「知事選に出馬いたさぬことといたしました」「全身から力が抜けた。一瞬は裏切られたとさえ感じた。それでもなお、歴代知事の中で最も人柄がよかったことだけは確かである」。

石原慎太郎(1999年4月~2012年10月 4期)
 「どれをとってもサラブレッド感満載のこの人物を、評論家江藤淳が『無意識過剰』と評したエピソードは有名である。(中略)私の印象はちょっと違っている。『マッチョを演じ続けることを自らに課した神経質な小心者』といったところだ」「石原都政の後世に誇れる業績とは何かと問われたらどうこたえるか。ディーゼル車の排ガス規制? 東京マラソンの開催? 私なら、羽田空港の国際化と三環状道路の整備の二つを挙げる。最大の悪政は、言うまでもない。新銀行東京の創設である。(中略)赤字補填に400億円もの公的資金がつぎこまれた事実を忘れることはできない」。

猪瀬直樹(2012年12月〜2013年12月 1期)
 「都知事だったのはわずか1年に過ぎないが、ずいぶん長い間、都庁が振り回されたように感じるのは、彼が石原知事に見出されて副知事を5年近くやっていたからである」「しかし、都庁のような巨大な組織の頂点に立つべき人物だとは到底思えない。怒鳴る、すぐ切れる、人を見下す、ふんぞり返る。(中略)ひとたび行政という名の実務の世界に入れば、わがま放題やり放題というわけにはいかないのである」。

舛添要一(2014年2月〜2016年6月 1期)
 「舛添氏が都知事に就任した当初、都庁には安堵の空気が流れた。やっとまともな知事が来た。これで仕事ができる。(中略)ところが数か月も経たないうちに雰囲気は再び変わる。(中略)舛添知事のそばにいたある都庁幹部職員は、舛添知事を『頭の良い猪瀬直樹』と評していた。(中略)一匹狼的な国会議員としての立ち振る舞いが、そのまま自治体の長になっても通用するとは限らない典型例とも言えよう」。

小池百合子(2016年8月~ 現在2期目)
 「まず、小池知事の本性を見てしまった者として、なぜ未だに都民の人気を保っているのかが理解できないのだ。市場移転問題の最中、いくら小池知事の悪行を妻に愚痴っても、『あらそうなの? でも案外、頑張ってるじゃない』とつれなくされた経験がある」「これは小池知事独特のイメージ操作に依るところが大きい。彼女の本質は『テレビのレポーター』であり、『報道番組のメインキャスター』である。(中略)駆け出しの頃、世に見出された時から不変の、彼女の天職と言ってもいい。この技術とノウハウが政治家・小池百合子を男社会の中で際立たせてきたのだ」「言い換えれば、カメラが回っていない時の顔は別人なのである。だからみんなコロッとだまされる」「もう一つ、小池知事には特異な能力がある。これまで彼女が政界で生き延びられたのは、地雷を察知する嗅覚に優れ、決して地雷を踏まなかったからである」。

 小池評の最後は「七つの大罪」だ。⓵粛清人事と情実人事を操る恐怖政治、②「女の敵は女」を地で行くジェンダー操作、③密告を奨励し職員を分断する「ご意見箱」の設置、④日常的に繰り返される情報操作、⑤都財政の貯金を使い果たした隠れ浪費、⑥都市基盤整備に関心がないのは決定的にダメ、⑦この世を敵か味方かの二つに分ける思考パターンが不幸を招く。

 「情報操作」というのは「小池知事の会見や発言はよほど眉に唾して受け取らないと、コロッとだまされる。例えば軽症のコロナ感染者のためのホテル借り上げに関して、小池知事があたかも十分な部屋数を確保したかのように発表した数字は、実際には6掛けでしか使用できなかった。それも2度までも平気な顔をして水増しの数字を公言した。情報操作の常習者と言ってもいい」「一方で、自分を批判する者には容赦ない。TV局だろうが、タレントだろうが、抗議文を送りつけ、謝罪を要求してくる」。

 メディアのからくりを熟知するだけに大手メディアにもきわめて手ごわい相手のようだ。メディアの記者もサラリーマンだから脅しに弱い。たとえば社長や局長あてに知事名義の抗議文が送られてくれば無視することはできない。いくら正しい報道をしていると確信していても腰がひける。本書の最後には「以上、七つのポイントだけでも、稀代のポピュリストの一断面をご理解いただけたのではないだろうか」とある。

 完全に同意するわけではないが、大筋では正しいと感じる。情けないのは巨大な都庁でこうした批判をする幹部や職員がほとんどいないことだ。都庁クラブやその周辺のメディアも見て見ぬふりをしているのだろうか。それこそが民主主義の危機だと思うのだが……。筆者が筆の限りを尽くして批判する当の小池知事は最近、少しおとなしくなっているようだ。今は出番ではないと感じているのか、それとも後ろ盾とみられる自民党の二階幹事長が実権を奪われたことの影響だろうか? 小池信者にはとても勧められないが、知事の言動に不信感や不満を抱いている人には、考えるヒントが詰まっていそうだ。都庁村を村八分にされた筆者には今後も書き続けてもらいたい。筆者は最近、You Tube(都庁watchTV)も始めたようだ。こちらも見てみたい。




















 

 

 




 


生物はなぜ死ぬのか 小林武彦 われわれは次の世代のために死んでいく

2021年09月07日 | 読書日記
生物はなぜ死ぬのか 小林武彦 生物学から見た個体死の意味



 著者は東大定量生命科学研究所教授。基礎生物学研究所や国立遺伝学研究所などに在籍していたので分子遺伝学の専門家だろう。まえがきに、「宇宙的な視野の広さを持ってみると、地球には2つのものしかありません。それは『生きているもの』とそれ以外です」「歳を重ねるにつれて体力は少しずつ衰え、20代の頃のように飛んだり跳ねたり、羽目を外したりはできなくなります。(中略)知り合いが亡くなったりすると、寂しさに加えて、『自分の番が近づいているな』と心細くなったりもします」「そこで、こんな疑問が頭をよぎります。なぜ、私たちは死ななければならないのでしょうか?」(太字は原文)1963年生まれの著者は評者より一回り以上も若い。少し早い気もするが時にそういう気分になるのだろうか。読み終えると、生物学の最新知見をわかりやすく紹介しつつ、生物や生命を論じた本であることがわかる。大人になれば、生き物にはみな寿命がある、いずれ死ぬと知っているが、だれもが死への恐怖はある。というわけで、人生の最晩年になれば違うかもしれないが、なぜ死ぬのかを真剣に考えた人はそう多くはないだろう。

 評者は、タイトルと、新書としてかなり売れているというので読み始めた。帯に「最先端サイエンスの果てに見えたのは現代人を救う”新たな死生観”だった」とある。魅力的な惹句だし、最先端のサイエンスが要領よく紹介されているが、新たな死生観が紹介されているとまでは思えなかった。

 内容は5章仕立て。第1章は「そもそも生物はなぜ誕生したのか」。これは基本的に既知の話だ。138億年前に「ビッグバン」と呼ばれる大爆発から宇宙が誕生し、「50億年前に大きな星の爆発でガスやちりが渦を巻き、重力が一番強い中心に太陽が、その周りにいくつかの惑星が生まれ、46億年前に地球を含む太陽系ができました。そして現在もなお、宇宙は膨張し続けています。この膨張する宇宙をたとえて言うならば、富士山の山頂から大きな岩を転がして(ビッグバンに相当)、それが転がる過程でくだけ散りながら小石となり、さらには砂となり(膨張する宇宙に相当)、まだゆっくり転がり続けている状態です。そして、そのゆっくり広がる過程で小さな砂の粒に生えたコケのようなものが、私たち地球の生き物になります」。著者はこうした比喩が好きなようだ。天文学から次は物理学の話に移る。「天文学も物理学も化学も、生物学以外の自然科学はすべてビッグバンから始まった自然現象の研究で、根っこは同じです。生物学だけは、今のところ地球ができてからの話なので、かなり新参者の学問ということになりますね」。

 「地球で生命が誕生したのには、いくつかの理由が考えられますが、私が一番大事だったと思うのは、太陽との程よい距離です。水や生物の材料となる有機物が凍ることなく、しかも燃えるほど熱すぎない。この程よい温度が重要だったと思われます」。恒星との程よい距離はハビタブルゾーン(生存可能領域)と呼ばれている。「太陽系の惑星の距離と温度」の図が入っていて、太陽から地球までの距離を1とすると、水星は0.4で表面温度はー170~430度、金星は0.7で480度、火星は1.5でー45度、木星は5でー120度となっている。地球の平均温度は25度で、太陽系では地球以外に生命が存在する可能性は低い。ただ太陽系の外には2020年4月にNASAが発見した「ケプラー1649C」という惑星がある。地球から約300光年離れた恒星の周りを回る惑星で、「この惑星が恒星から受ける光の量は、地球が太陽から受け取る量の75%程度あり、氷ではなく液体の水が存在する可能性があります」。

 ここまでは知っている人も少なくないだろう。だが、生命誕生にまつわるRNA(リボ核酸)とDNA(デオキシリボ核酸)の成り立ちからは話が少し難しくなる。生き物の中で一番シンプルな構造を持つのは細菌だ。サイズは数マイクロ㍍(1マイクロ㍍は1000分の1ミリ)。この細菌より小さいのがウイルス。ウイルスは遺伝物質(DNAやRNA)とそれを取り囲むタンパク質の殻からなる数十ナノ㍍(1ナノ㍍は100万分の1ミリ)の大きさ。ここではコロナウイルスを例に説明が進む。コロナウイルスは「100ナノ㍍(1万分の1ミリ)の球状で、スパイクと呼ばれるトゲが生えた膜に遺伝物質であるRNAが入っています(ちなみにこの膜は脂質でできていてアルコールに溶けやすいので、アルコール消毒がよく効くのです)」「ウイルスは、自己を複製するということでは、『生物的』ですが、細胞の外では増えることができず、なおかつエネルギーの消費も生産もしないという点では『物質的』です」。

 生命が誕生する偶然の比喩も面白い。「生命が地球に誕生する確率を表すのにこんなたとえがあります。『25メートルプールにバラバラに分解した腕時計の部品を沈め、ぐるぐるかき混ぜていたら自然に腕時計が完成し、しかも動き出す確率に等しい』ーーそのくらい低い確率ですが、ゼロではなかったのです。化学反応が頻発する可能性に満ちた原始の地球で、何億年という長い時間をかけて、低い確率、というか偶然、というか奇跡、が積み重なりました。そして何よりも、生産性と保存性の高いものが生き残る『正のスパイラル』が、限られた空間で常に起こり続けることで、偶然が必然となり、生命が誕生したのです」。

 天文学者のフランシス・ドレイクが1960年代に行った地球外生命探査計画が紹介されている。彼は地球外生命体が電波を使っていると考えて電波望遠鏡を使って探査を試みた。ドレイクの試算では「銀河系には約1000億個の恒星があり、その中で予想される惑星の数、生命が発生する確率、文明を持つ確率、通信を行う確率、その文明が持続される期間などを加味して計算すると、電波を使えるような知的生命体の存在する惑星は銀河系に10個程度とはじき出されました」。

 第2章は「そもそも生物はなぜ絶滅するのか」。「最初はたった1つの細胞が、偶然、地球に誕生したと思われます。なぜ2つの細胞ではなく1つなのか。それは偶然が重なってやっとできた生命なので、2つが独立に誕生する確率はもっと桁違いに低いだろうと考えられるからです」。誕生した細胞は「変化」と「選択」を経て多様な細胞になっていく。ここで著者はその一方で起きている生き物が大量に死んで消えてなくなる「絶滅」に焦点を当てる。「死んだ生物は分解され、回り回って新しい生物の材料となります。(中略)新しい生物が生まれることと古い生物が死ぬことが起こって、新しい種ができる『進化』が加速するのです」。

 「生命の誕生から28億年後、つまり今から10億年前に多細胞生物が誕生して、その後レゴブロックのブロックの数が増えるように細胞数が増え、多細胞生物の多様化がどんどん進んでいきました」。ここで著者は疑問を呈する。「そもそも、進化の途中段階の生き物の中には、なぜいまだに生きているものがあるのでしょうか」「おそらく大部分の過去の生物は絶滅しましたが、中にはたまたま、『選択』を受けずに生き延びたものがいたと考えられます。いわゆる進化の袋小路に入ってしまったのです。例えばシーラカンスがそれに当たります」。

 「実は現在、地球は生物の大量絶滅時代に突入しています。私たち人間も含まれる哺乳類だけ見ても、ここ数百年で80種が絶滅しています。2019年の5月に生物多様性と生態系の現状を科学的に評価する国際組織IBPES(イブペス)が、今後の予測を報告書にまとめました。それによると、地球に存在する推定800万種の動植物のうち、少なくとも100万種は数十年以内に絶滅の可能性があるそうです。そのペースは、これまでの地球史上最高レベルです」。この議論がどう進むのかみていると、ここで止まってしまう。現代の絶滅の原因にはあまり触れたくないのだろうか。

 大量絶滅は過去に5回起きている。約6650万年前の白亜紀に起きた大量絶滅は恐竜など生物種の約70%が滅び、人類の祖先である哺乳類が興隆する契機となった。これはメキシコ・ユカタン半島沖に巨大隕石が落ち、気候大変動が起きたことが原因と考えられている。それより以前の古生代末期のヘルム紀(約2億5100万年前)には生物種の約95%が絶滅する大量絶滅が起きた。「6650万年前の中生代までは隅っこに追いやられていた哺乳類ですが、恐竜が絶滅してくれたおかげで、食料と生きる空間を急速に拡大しました」(下線部は強調)。

 「霊長類はアフリカで誕生したと考えられていますが、大きく2つのグループに分かれていました。(中略)現在のアマゾン流域に移り棲んだ霊長類のグループは、密林の中で進化しましたが、結果的には木の上という隔離された空間で、大きな変化はありませんでした。これに対して、アフリカに残った霊長類は、地球規模の気候の変動、砂漠の拡大により森林が減少し、木から下りざるを得ない状況に追い込まれました。(中略)地上には肉食獣がうようよしており、木から下りたサルはいい標的となってしまいます。(中略)しかし幸運なことに、ここでも逃げ足が速いか隠れるのがうまい『賢いサル』が多少なりとも生き残ることができました。この『油断したら襲われる状態』が数百万年続き、生き残った個体がヒトへと進化したのです」「別の言い方をすれば、多様な個体が多様な集団を作り、多くが絶滅する中でたまたま生き延びた集団があったというわけです」。

 第3章は「そもそも生物はどのように死ぬのか」。「生き物を『進化が作ったもの』と捉えることがまず大切です。その説明として、生命の誕生と多様性の獲得に、個体の死や種の絶滅といった『死』がいかに重要だったかをお話ししてきました。つまりここから言えることは、『死』も進化が作った生物の仕組みの一部だということです」(下線部は強調)「生き物の死に方には大きく分けて2つあります。一つは食べられたり、病気をしたり、飢えたりして死んでしまう『アクシデント』による死です。(中略)もう一つの死に方は、『寿命』によるものです。こちらは、遺伝的にプログラムされており、種によってその長さが違います」「一般的に自然界では、大型の動物は『寿命死』が多く、小型は『アクシデント死』によるものが多いのです」。

 次の話が興味深かった。「サケはなぜわざわざ大変な思いをして川の最上流まで遡って産卵するのでしょうか。(中略)最上流の浅いところは、卵や稚魚を食べる捕食者(魚)が比較的少なく、河口よりも安全だからです」。評者は茨城県の県北地域にいたとき、秋になると小さな川にサケが産卵のため、懸命に遡上してくるのを見た。地元の漁協が捕獲し、卵を受精させて翌年、稚魚を放流する。数年後、ごく少数の個体が川に帰ってくる。生命の不思議さと尊さを実感した。

 著者は動物の系統樹をもとに動物の死に方を解説する。地上に存在する生物種で名前がついているものだけで約180万種、その半分以上の97万種は昆虫だ。「昆虫の死に方は、『食べられて死ぬタイプ』と『寿命を全うするタイプ』の2通りあります」「成虫になった昆虫の仕事は、他の生き物同様、生殖です」「多くの昆虫は、交尾の後、役割がすんだと言わんばかりにバタバタと死んでいきます」。

 脊椎動物のはじめに登場するのはネズミだ。「ハツカネズミは生後わずか2カ月で成長・成熟し、名前の通り20日間の妊娠期間で4~5匹の赤ちゃんを出産します。このペースで年に何度も出産します」。野生のハツカネズミの多くは食べられて一生を終える。野生で生きられるのは数ケ月からせいぜい1年だ。長生きに関わる抗がん作用や抗老化の遺伝子はもともと持っていない。

 ただネズミの仲間でも長寿のネズミがいる。ハダカデバネズミはアフリカの乾燥した地域にアリの巣のような穴を掘りめぐらしてその中で一生を過ごす珍しいネズミだ。無毛で出っ歯なことからこの名前がついた。ネズミとしては長寿で、寿命は約30年。深い穴の中で100匹以上が集団生活を送るので、低酸素状態で生きられることが長寿の秘密らしい。体温も32度と低く、体温を維持するためのエネルギーも少ない省エネ体質だ。エネルギーを生み出すときに生じる活性酸素が少ないので、老化も進みにくい。「DNAが酸化されると遺伝情報が変化しやすくなり、がんの原因となりますが、そのリスクが減ります。興味深いことに、実際にハダカデバネズミは全くがんになりません」。

 加えてハダカデバネズミは真社会性という珍しい性質を持つ。これはミツバチやアリの世界で知られる女王を中心とした分業体制のことだ。「100匹程度の集団生活をしているが、その中で一匹の女王ネズミのみが子供を産みます。(中略)ハダカデバネズミの女王以外のメスは、女王が発するフェロモンによって排卵が止まり、子供が一時的に産めなくなっています」「女王以外の個体は、それぞれ仕事を分業しています。例えば、護衛係、食料調達係、子育て係、布団係などなど、です。布団係はゴロゴロして子供のネズミを温め、体温の低下を防ぎます。(中略)真社会性の大切なことは、これらの分業により、仕事が効率化し、1匹当たりの労働量が減少することです。(中略)こうした労働時間の短縮と分業によるストレスの軽減が、寿命の延長に重要だったと思われます」「肝心の死に方ですが、これがまた不思議で、若齢個体と老齢個体でその死亡率にほとんど差がありません。つまり年をとって元気のない個体がいないのです。何が原因で死ぬのかはわかっていませんが、死ぬ直前までピンピンしています」。

 第4章は「そもそもヒトはどのように死ぬのか」。2019年の日本人の平均寿命は女87.45歳、男81.41歳。だが2500年前の旧石器-縄文時代は13~15歳だった。「幼少期を生き延びられたヒトは出産・子育てをして30代、40代までは生きました。現在よりも多産で多死のこの状態が、結果的に多様性を生み出し、のちの人類の大躍進につながった可能性もあります」。弥生時代に入ると稲作が始まる。集団生活に移行し、平均寿命は20歳と少し延びた。

 時代は下って、戦後の平均寿命の延びに寄与したのは乳幼児死亡率の低下だ。これは栄養状態が良くなったのと公衆衛生の改善が原因だ。著者は平均寿命が著しく延びたのに最長の寿命はあまり変化していないことに注目する。「2020年に100歳以上の日本人の数が8万人を突破し、毎年急速に増え続けていますが、115歳を超えた日本人はこれまでたったの11名、全世界でも50名にも満たないのです。このような統計をもとに分析すると、ヒトの最大寿命は115歳くらいが限度だろうと言われています」。著者は現代人は老化で死ぬと考える。「老化が死を引き起こすというのは、生き物の中でも特にヒトに特徴的ですが、『進化が生き物を作った』とすれば、老化もまた、ヒトが長い歴史の中で、『生きるために獲得してきたもの』と言えるのです」。

 最終章の第5章は「そもそも生物はなぜ死ぬのか」。「少し残酷な感じがしますが、多くの生き物は、食われるか、食えなくなって餓死します」「寿命で死ぬ場合も基本的には同じで、子孫を残していれば自分の分身が生きていることになり、やはり『命の総量』はあまり変わっていません。(中略)つまり生き物にとっての『死』は、子供を産むことと同じくらい自然な、しかも必然的なものなのです」。

 だが、ヒトは少し複雑だ。「死に対する恐れは非常に強く、特に身内の死には大変なショックを受けます」「死に対してショックを受けるのは、言うまでもなく、ヒトが強い感情を持つ生き物であるためです」。ここで著者はヒトが死を先延ばしにしようとする試みとしてアンチエイジングを取り上げる。最新の研究は酵母、線虫、ハエなどを使っていると紹介したうえ、「多くの生物では、栄養の摂取量が少し減ると寿命が延びます」という。これは「食餌制限効果」または「カロリー制限効果」と呼ばれる。酵母の場合、餌に含まれる糖分の割合(通常2%)を4分の1に減らすと寿命が約30%延びる。これはサルでも実験され、病気と死亡リスクが下がった。「理由の一つとして、代謝の低下が考えられています」。代謝によってDNAやタンパク質を酸化する活性酸素も発生するが、食餌制限によって活性酸素が減り、寿命の延長に貢献していると考えられている。本書には最新の研究成果が紹介されているので、興味のある方は読んでいただきたい。ここでまたハダカデバネズミが登場する。このネズミはハツカネズミのの約10倍寿命がある。ヒトはハダカデバネズミを真似ることはできるのだろうか? 出産の特性を真似るのは不可能だが、「生涯現役」といった働き方やみんなが昼寝するなどストレスの少ないゆとりある生活は真似ができそうだ。

  最後に著者はヒトの未来の姿として、AIとヒトとの共存の道を探る。「私たちは、たくさん勉強しても、死んでゼロになります。そのため、文化や文明の継承、つまり教育に時間をかけ、次世代を育てます。一世代ごとにリセットされるわけです。死なないAIにはそれもなく、無限にバージョンアップを繰り返します」「それではヒトがAIに頼りすぎずに、人らしく試行錯誤を繰り返して楽しく生きていくにはどうすればいいのでしょうか? その答えは、私たち自身にあると思います。つまり私たち『人』とはどういう存在なのか、ヒトが人である理由をしっかりと理解することが、その解決策になるでしょう」。

 少し突き放された感じだが、一人一人が考えるしかないのだろう。生物学の本と思いつつ読み進めたが、最後にAIとの共存がでてきて面食らった。ただAIの出現や発展はそれほどわれわれに大きなインパクトを与えるものだろう。著者の語り口はよどみなく、難題もかみ砕いて説明する姿勢に好感を覚えた。ただ人間の活動が地球環境や生態に及ぼす負の側面はもう少し踏み込んでもよかったのではないだろうか。やや優等生的な印象があるが、多くの人に読まれるべき好著だ と思う。