ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

ウクライナ戦争 小泉 悠 ロシア軍事研究の第一人者が戦争の背景を詳しく解説

2023年01月30日 | 読書日記
ウクライナ戦争 小泉 悠 プーチンの狙いは? 21世紀に起きた古典的な戦争



 小泉悠氏の著書について書くのは、これで5冊目。2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻は一年近くになる。戦争ではなく、「特別軍事作戦」というロシアの言い方は変わらないが、両国が真正面からぶつかりあい、多くのウクライナ市民を犠牲にしている凄絶な戦争だ。春になれば東部ドンバス地方で、本格的な地上戦が開始されると見こし、ウクライナの強い要求に、ドイツがレオパルト2、アメリカがエイブラムス、イギリスがチャレンジャー2という主力戦車の供与に踏み切った。戦況がますます激化することは避けられない。そうしたなか、2023年のG7議長国である日本は岸田首相が早い時期のキーウ訪問に前向きと伝えられる。本書は日々揺れ動くウクライナ戦争をロシア軍事研究の第一人者が戦争の背景を含め、最新の知見をもとに解説している。発売を知り、アマゾンに申し込んだが、あっという間に売り切れていた。22年12月10日の発売だが、1月下旬に届いたのは4刷り。その人気に驚いた。帯には「数多くのメディアに出演し、抜群の人気と信頼を誇る軍事研究者が、世界を一変させた歴史的事件の全貌を伝える書下ろし」とある。

 著者は今回の戦争を第二次ロシア・ウクライナ戦争と呼んでいる。「2014年に発生したロシアによるクリミア半島の強制『併合』と東部ドンバス地方での紛争が第一次ロシア・ウクライナ戦争であったという位置付けである」。

 第一章は「2021年春の軍事的危機」。第一節は「バイデン政権成立後の米露関係」。「今回の事態に直接繋がる展開は、2021年春頃に生じた。同年初頭以降、ロシア軍が『演習』の名目でウクライナ国境周辺に集結し始めた」。その数は10万人前後とされる。この中には西部軍管区や中央軍管区といったウクライナから離れたロシア軍の主力部隊が含まれていたため、緊張は一挙に高まった。これに対応してウクライナ側も部隊を増強し始める。だが、4月22日、ロシアのショイグ国防相が突然、部隊に駐屯地に戻るよう命じたことで、緊張の糸は途切れる。

 2021年春の「ロシア側の緊張演出」について、著者は米国の政権交代を意識したものではないかと推測している。2020年の大統領選でトランプが敗北したことに、ロシアは少なからぬ懸念を抱いていた。「2016年の選挙戦中から、トランプはウクライナに対して冷淡だった。ウクライナ問題でより大きな影響を受けるのは我々よりも欧州ではないか。なぜドイツはもっとウクライナ問題に真剣に取り組まないのか。なぜウクライナの周辺諸国が対処しないのか」など。「これがロシアにとっても極めて都合の良い政治的主張であったことは言うまでもない」。トランプ自身、ロシアにひどく甘い態度を取り続けていた。ところが、バイデンの態度はまったく異なっていた。彼は2014年のクリミア併合当時、副大統領で当時からロシアに厳しい姿勢を見せていた。著者は、「このようにしてみると、ロシアが演出した2021年春の軍事的危機は、バイデン政権に対して『ウクライナに肩入れするな』というメッセージであったという解釈が成り立ちそうである」。

 2021年6月にはバイデンとプーチンの初めての対面での会談が実現している。これは4月の軍事的危機のさいに、米側が打診したものとされる。9月にはバイデンとウクライナ大統領ゼレンスキーとの会談も行われている。ここでバイデンはウクライナのNATO加盟に言質を与えず、武器援助のささやかな増額を発表しただけで、ウクライナ側をかなり失望させた。

 このころのゼレンスキーの政治的基盤は強いものではなかった。大統領当選当初はロシアとの対話を模索していた。本書は「コメディアンvsスパイ」と二人の対照的な出自を対比している。プーチンが秘密警察のKGB出身というのは広く知られている。「結論から言えば、第二次ロシア・ウクライナ戦争の開戦に至るまでの期間、終始主導権を握ったのはプーチンの側であった」。このころ、ゼレンスキーの政敵と目された元ウクライナ大統領府長官のメドヴェチュークがウクライナ政界に復帰し、力をつけ始めていた。彼はプーチンと親しく頻繁に出会っていたと言われる。一方で、ゼレンスキーはプーチンとの接触を望んだものの、その希望はかなえられなかった。国内での支持率低下に悩むゼレンスキーは口実を設けてメドヴェチュークの排除に乗り出す。彼が実質的な所有者である親露派テレビ局3局をロシアのプロパガンダを流しているという理由で閉鎖し、資産凍結など一連の制裁措置を取ったうえで、最終的に、彼は国家反逆罪で起訴された。こうしたことから、「ロシアの軍事的圧力がメドヴェチューク弾圧に対する政治的報復であった可能性は少なくないであろう」。こうした複雑な背景は本書で初めて知った。ロシアやウクライナ・メディアの現地報道に通暁した著者ならではの分析だと思う。

 2021年9月~2022年2月21日までが第二章の「開戦前夜」だ。撤退命令が出されたあとも、ロシア軍はウクライナ周辺に10万人近い兵力が集結していた。米国の情報機関は21年10月、バイデン大統領に「ロシアが本気でウクライナ侵攻を考えている」と報告している。これは衛星画像、通信傍受、人的情報源、資金の流れを総合的に判断したうえでの結論だったという。

 12月には米露外相会談がストックホルムで行われた。ブリンケン国務長官はこの会談後、「ロシアがウクライナを侵略すれば『インパクトの大きな』経済制裁に直面するだろうと警告している。外相会談の翌日、ワシントン・ポストは「2022年早々にもロシア軍が17万5000人の兵力でウクライナに侵攻する可能性がある」と報じている。著者は、これが米政権によるリークで、一種の情報攻勢だったと見ている。
    
 このころ、2021年7月12日に公表されたプーチン論文が改めて注目されていた。約8000ワードに及ぶ長大なもので、「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」と名づけられている。大部分が歴史観に関するもので、「ロシア人とウクライナ人(そしてベラルーシ人)は9世紀に興った古代ルーシの後継民族なのであって、そもそも分かちがたいものである」と述べている。こうした歴史観はロシアではかなり一般的だが、「いかにもロシア人中心主義的な歴史観を国家の長であるプーチンが論文として公表する、しかも大統領府の公式サイトに署名入りで発表するというのは、ナショナリズムを満足させるための内輪のお喋りとはわけが違う。(中略)これは一体どういうことなのか――当時の筆者を悩ませたのは、この点であった」。一国の最高指導者が隣国をないがしろにする言説を発表すること自体が極めて異常だ。その異常さが隣国の侵略に直結していく。著者は「この時点で侵攻は既定路線になっていた可能性が高い」とみている。

 2022年に入ると、兵力増強の動きはますます激しくなった。バイデンが述べたところによると、「この時点でウクライナ周辺に集結したロシア軍の兵力はおよそ15万人とされ、治安部隊や親露派武装勢力も合わせると16万9000人から19万人程度であったという」。ロシアが侵攻準備を完了した可能性は非常に高かった。これは筆者が契約している米民間企業の衛星画像からも確認できた。このころ著者は、開戦とそれがぎりぎりのところで回避されるのではないかという二つの判断の中で迷い続けていた。「軍事屋」としての著者は「開戦」に「ロシア屋」としての著者は「ぎりぎりでの回避」に傾いていた。日々、悪化する状況に頭を悩ませていたことがわかる。

 戦争が始まったのは2022年2月24日午前5時。この直前、プーチンは2つのビデオ演説を公開している。現在のウクライナはソ連時代に人工的に作られた、ロシアはウクライナを独立国家として承認したが、現在のウクライナ政府は西側の手先、彼らは非常に腐敗し、ネオネチ思想に毒され、ロシア系住民のアイデンティティを否定している、ウクライナは核兵器を開発しようとし、NATOはウクライナに軍事プレゼンスを展開しようとしている、といった一方的な内容だった。

 侵攻は米国が事前に予想していた通りに展開した。開戦と同時にウクライナの北部、東部、南部へと侵攻し、軍事施設を各種のミサイルで攻撃した。と同時に激しいサイバー攻撃を仕掛けた。もうひとつウクライナ指導部の無力化を図るという見通しも正しかった。開戦と同時に、首都キーウから30キロのアントノウ空港に空挺部隊を送り込み、空港制圧を図った。空挺部隊や後続部隊はキーウの議会と官庁を占拠し、臨時議会を招集し、傀儡政権を樹立する計画だった。これは逮捕されたロシアのスパイの証言で裏付けられている。いわゆる「斬首作戦」だ。それと同時にロシアが張り巡らせたネットワークを通じ、内通者の手引きを通じてロシア軍が電撃的にウクライナ全土を占領し、支配する計画だったとみられる。著者は、「『特別軍事作戦』の意味するところとは、『軍隊は投入されるが、激しい戦闘を伴わない軍事作戦』といったものであったのではないかと思われる」と推測している。

 だが、「一見周到なロシアの戦略は、結果的に計画倒れに終わった」。とはいえ、完全に目論見が外れたわけでもなかった。一部の自治体ではロシア軍が侵攻すると、無血で占領地を差し出したり、地元の検察機関が占領に抵抗する首長を拘束する例もあった。チョルノビーリ(チェルノブイリ)原発は警備責任者が開戦と同時に姿を消し、ほぼ無抵抗でロシア軍に占拠されている。「攻め寄せてくるロシア軍を迎え撃ったのはウクライナ軍や内務省国家親衛軍といった軍事組織で、こちらからは顕著な寝返りや逃亡の話はあまり聞かれない」。

 ロシアにとって誤算だったのはキーウの攻略に手間取ったことだ。空港を占拠しようとした空挺部隊は激しい反撃を受け、いったん制圧に成功したものの、夜には取り返された。最終的には部隊の増派で制圧したが、ウクライナ側は滑走路を破壊し、後続の輸送機が着陸できないようにした。軍事専門家の著者はロシア側の作戦に首を傾げ、ウクライナの戦力や戦意をみくびる「高慢と偏見」があったのではないかと見ている。同時にゼレンスキーがキーウから逃げずに、戦時の最高司令官として冷静に振る舞ったことが国民の抗戦意欲をかきたてたという。スマホの自撮り映像を駆使し、「有事のリーダーはこうあってほしいと皆が思う通りに彼は振る舞ってみせた」。

 西側の専門家は、通常の戦争となれば、ウクライナ軍がNATOの支援を受けたとしてもロシア軍に対し、組織的な抵抗を行うことは難しいとみていた。だが、ウクライナ軍はキーウ、チェルニヒウ、スムィ、ハルキウといった拠点を開戦から1カ月後の時点まで守り切った。こうした諸都市に侵攻しようとしたのはロシア軍の主力部隊で、著者は「まさに驚嘆すべき粘りというほかない」と感心する。この理由について、①旧ソ連で第二位の軍事力を持つウクライナ軍は決して弱体ではなかった、②日本の約1.6倍の面積のウクライナは広大で、ウクライナは開戦と同時に、川のダムを決壊させ、300以上の橋を破壊して、戦車などロシア軍の重火器の進軍を妨げた。第3には米国や西側が供与した携行型対戦車ミサイル・ジャヴェリンが大きな威力を発揮した。キーウ北方の戦闘ではロシアの戦車師団が待ち伏せ攻撃を受け、師団長まで戦死する甚大な被害を出した。ウクライナの善戦を背景に、3月下旬ごろから西側の武器支援も拡大し始めた。

 このころロシア軍が撤退したあとのキーウ近郊ブチャで明らかになった惨劇が世界に衝撃を与える。拷問された遺体、性的暴行を受けた女性の遺体などが多数発見され、集団墓地も見つかった。ロシア側はブチャの虐殺を「挑発」と呼び、全面否定しているが、「ロシア側の主張には全く信憑性がないことは明らか」。このくだりで、著者は日本の一部の親ロシア派の論調について、「ロシアにもウクライナにも同程度に非がある、と論じるならば、それは客観性を装った悪しき相対主義でしかないのではないか」と猛烈に批判する(太字は強調)。評者もまったく同感だ。もともとロシア寄りの政治家がロシア擁護の発言を繰り返す。これはまったく見当はずれで、自らの利権のためにロシア寄り発言をしているとみられるのは当然だろう。

 22年8月からは戦争が転機を迎える。このころプーチンは戦況の悪化に軍への不信を強める。ゲラシモフ参謀総長の失脚説が流れるのもこのころだ。情報機関との軋轢も深まっていく。FSB(ロシア連邦保安庁)は多数のスパイをウクライナに送り込んでいたが、機能していなかった。しかも彼らはプーチンに楽観的な予想ばかり上げていたらしく、大量に罷免されたり逮捕されたりという情報が西側で伝えられている。

 米国もようやく重い腰を上げて、ウクライナが切望していた高機動ロケット砲システム(HIMARS)の供与に踏み切る。射程の短いミサイルしか供与されなかったが、ウクライナ軍はロシア軍の弾薬や燃料の集積所などを破壊し、大きな戦果をあげた。だが、HIMARSも当初供与されたのは4両で、あまりに少ない数だった。「西側の対ウクライナ援助を思いとどまらせていたのは、(中略)ウクライナへの援助を戦争行為とみなしたロシアが戦争をNATO加盟国まで拡大させるとか、核戦争に踏み切る可能性であった。『ウクライナが勝てるだけの支援』と『第三次世界大戦の回避』という二つの相反する要求の間で、西側は板挟みになっていたのである」。このころからは現在進行している戦争に近づいてくる。著者は「2022年の夏以降、ウクライナが戦争の主導権を握り始めた」とみている。主導権をやや曖昧な言葉と言いつつ、「いつ、どこで、どのように戦うのかを決定する力」と定義している。ロシアに振り回されていた主導権をウクライナが取り戻し始めた時期というわけだ。

 膠着する戦況に業を煮やしたのか、プーチンはロシア下院の各派代表に、「我々はまだ何一つ本気を出していないと知るべきだ」と発言する。本気が何を意味するかははっきりしないが、著者は暴力の規模や烈度の拡大とみている。「特別軍事作戦」という建前を捨て、公式に戦争を宣言して大動員に踏み切るか、核兵器などの大量破壊兵器の使用に踏み切るということだろう。だが、著者はこれにも、夏以降、ウクライナに主導権を奪われたロシアがなぜ総動員をかけないのか、9月に東部で大損害を受けたロシアが核兵器使用に踏み切れなかったのはなぜか、と疑問を呈する。

 プーチンが総動員を発令できないのは「国民の反発を恐れているから」という見方が強い。西側のロシア専門家によると、プーチン政権初期には「政府が国民の生活を保障する代わりに、国民は政府の方針に異を唱えない」という不可侵協定が存在していた。開戦後も「特別軍事作戦」である以上、戦うのは職業軍人に限定され、一般市民の動員や若者の徴兵は行われないという理解があったようだ。だが、プーチンがいったん「戦時体制」を宣言すれば、不可侵協定は崩壊し、「恐怖と怒りが社会に広がる」。著者は、こうした西側の見方に基本的には賛成している。一方、核兵器使用の可能性についてはどうだろう。「核兵器の使用にプーチンが踏み切れなかった理由は、西側が軍事援助を制限し続けてきたのとほぼ同様の構図で理解できる。つまりひとたび核兵器を使用したが最後、事態がどこまでエスカレートするかは誰にも予想できないということだ」「第二次ロシア・ウクライナ戦争は、大国間の戦略抑止が機能する状況下で行われる。核戦争に及ばない範囲であらゆる能力を駆使する戦争だということになる」。東西の核抑止は現実に効果を上げているというわけだ。

 最終章「この戦争をどう理解するか」では、この戦争の性質について考える。「今回の戦争は『新型戦争』にも『新世代戦争』にも完全には当てはまらないようである」「むしろ、今回の戦争でプーチンが範としていたのは、ソ連やロシアが行ってきた周辺諸国への介入作戦ではなかったか、というのが筆者の考えである」。1968年の「プラハの春」への弾圧や1979年のアフガニスタンへの軍事侵攻では、「政治指導部の無力化(斬首作戦)と通常戦力による電撃的侵攻という共通のパターンがここに見出せよう」。2014年のクリミア侵攻も同様な手法で行われている。スパイ出身のプーチンは、「少数精鋭の工作員や彼らが張り巡らせた内通者ネットワークによって敵国を骨抜きにし、軍隊は戦わずして電撃的な占領劇を演じるーーというようなシナリオ」を夢見たのではないか」。評者も結構的を射た見方ではないかという気がする。

 最後に著者はプーチンの主張を改めて振り返る。ウクライナはネオナチ、核兵器を開発しているといった一方的主張だが、それを裏付ける根拠はない。ウクライナがNATOへの加盟を希望しているのは事実だが、それが差し迫っていたかという点にも疑問を呈する。第二次ロシア・ウクライナ戦争前からドンバスは紛争地域で、加盟は困難だった。しかも第二次ロシア・ウクライナ戦争の開戦以降、スウェーデンとフィンランドが加盟の意向を表明し、6月に加盟が承認されている。ところが、この動きにロシアは形式的非難をしただけで、激しい非難を控えている。こうしたことから、ウクライナとの態度の差には、「『自分の代でルーシ民族の再統一を成し遂げるのだ』といった民族的野望のようなものを想定しないと(中略)プーチンの振る舞いにはうまく説明がつかないように思われる」と述べる。

 確かにプーチンの開戦判断には専門家でも首を傾げざるを得ない深刻な疑問がいくつも存在するようだ。「いずれかの将来にロシアの体制が大きく変わったとき、歴史研究者たちがこの戦争について何を発掘してくるのか。今はそのような日の訪れを待つほかあるまい」。戦争終結はプーチン体制の終焉を待つしかないのだろうか。評者は一日も早い戦争終結とウクライナの平和を強く願う。ただそのあとに来るのはロシア現体制の崩壊と混乱、ウクライナと国際社会によるロシアの戦争責任、戦争犯罪への厳しい追及だろう。長い道のりはまだ始まってさえいない。























 








葬式消滅 島田裕巳 葬式はついになくなるのか? 宗教学者の問い

2023年01月22日 | 読書日記
葬式消滅 島田裕巳 急速に変貌する葬儀の行方は


 身もフタもないタイトルだが、言わんとするところはよくわかる。著者は宗教学者の島田裕巳氏。本ブログでも「戦後日本の宗教史」(2015年9月19日)、「神社崩壊」(2018年9月2日)、「性と宗教」(2022年3月17日)など何度か紹介している。本書の版元はGBという出版社だ。

 はじめに著者の問題意識が書かれている。「もう何年も葬式に参列したことがない。そんな方は少なくないはずです。私も、最近母を亡くしましたが、それまでの数年、葬式に参列したことがありませんでした」「亡くなったことを知るのは、年末の喪中はがきを通してであったりします。本人はとっくに亡くなっているのに、そのことが知り合いには認識されていないのです」。

 「葬式は身内だけで済ませるのが当たりまえ。ことさら急いで死を公表することはない。いつの間にか、そんな社会になってきたのです」。評者もまったく同じ経験をしている。世話になった人に年賀はがきを出したら、家族から「昨年、亡くなりました」といった連絡をもらい、あわてて弔花を送ったことも幾度かある。

 著者が「葬式は、要らない」を幻冬舎新書で出したのが2010年1月30日。今から13年前だ。「その頃、『家族葬』と言う言葉が定着するようになりました。また、『直葬』(ちょくそう)という言葉も聞くようになっていました」。家族葬については、今でもはっきりした定義はないのですが、基本は、家族や親族、あるいは親しい友人、知人だけが参列する規模の小さな葬式のことをさします。費用のあまりかからない葬式というイメージもあります」「直葬は、火葬場に直行し、そこで故人と別れを告げる儀式を行い、それで終わりにするというものです。たいがい、その場には、僧侶は呼ばれません」「共通しているのは、簡素な方向にむかっていることです。葬式の簡略化が進んでいるというわけです」「それは簡略化が進んだ結果ではありますが、葬式というものが日本の社会から消えつつあるのです」「故人をどう見送り、どう弔うのか。今やそのことが問われているのです」。

 簡明直裁な表現だ。評者も時折、葬儀に出席するが、その頻度は以前に比べ、明らかに減った。日常的に連絡を取り合う間柄でないと、「入院しています」とか、時に「亡くなりました」と聞いて、びっくりすることがある。一方で、むかし世話になった人の訃報を聞いても、相手が高齢だと「家族葬にします。参列はご遠慮ください」という連絡をもらうことも間々ある。本人や遺族の意向が最優先なので、尊重しているが寂しさは禁じえない。

 第一章は「葬式が消滅していく」。「葬式とは何なのでしょうか。辞書を引いてみると、葬式とは『死者を葬る儀式、葬儀』とあります。では『葬る』とはどういうことなのでしょうか。やはり辞書を引いてみると、『死体・遺骨を墓所などにおさめる。埋葬する』とあります」「とむらい」という言葉が出ている辞書もあり、「とむらいを引くと、法事や追善が出てきます。これが一般にイメージされる葬式ということになります。法事は、僧侶が導師をつとめる仏教の儀式です。法事には、故人に対して善を追加する役割があるとされ、そこから追善とも呼ばれるのです」「人間と他の動物とが違うところはさまざまにありますが、仲間の遺体を埋葬するかどうかということは重要なポイントのひとつです」「死者を悼んで、その遺体を処理する。葬式の基本はそこにあります」。

 現在の日本の火葬率は99.97パーセントに達している。だが、「戦前の1940年に火葬率はようやく55.7パーセントに達しました。その時点では、火葬の方が土葬より多くなっていたのです。近代の日本社会で火葬が積極的に奨励されたのは、感染症、疫病の流行ということが関係していました。火葬することで、遺体からの感染を防ごうというわけです」。火葬率が90パーセントを超えたのは1980年代だ。そのころまでは土葬がさほど珍しくなかったわけだ。「土葬が広く行われた時代に、葬式のなかでもっとも重要なのは『葬列』の部分でした。遺体を棺に入れて担ぎ、関係者が提灯やさまざまな仏具を持って行列を作り、墓地なり、火葬場なりに運んでいったのです」。葬列といえば、評者にとって印象的だったのは数年前、たまたま観光で訪れたインドネシア・バリ島で見た豪華で派手な葬列だった。木や竹で山車のような高いやぐらを組み、さまざまな飾りや花で派手に彩り、そこに棺を乗せて大勢の車や人々が練り歩く。その明るさ、派手さには度肝を抜かれた。庶民がそんな派手な葬列を組めるとも思えないので、恐らくは地位のある人物の葬列だったのだろう。それは「死」が悲しい、寂しいものではなく、その人物の「往生」を祝い寿ぐ、いわば「祝祭」の気分に包まれているような気がした。バリ島はヒンズー教なので、その慣習にのっとった葬列だったのだろう。

 日本は仏教発祥の地、インドからではなく、中国を経由して仏教を取り入れた。だが、中国の仏教は土着宗教である儒教の影響を強く受けて大きく変容していた。儒教は「孝」の概念を強調するので、子どもは親のために尽くさなければならない。親が亡くなった時には喪に服すことになる。「喪の期間に生活を慎むことで、善を積み、それが先祖の霊を慰めることに通じるというわけです。仏教は、これを取り入れて、追善供養というやり方を編み出しました。追善供養の代表が、故人の命日に行われる年忌法要です。その際には、法事を行い、先祖の供養を任せている菩提寺に布施をします。これによって、亡くなった先祖は極楽往生を果たすことができるとされたのです。こうした考え方が日本にも浸透することで、『葬式仏教』の体制が確立されることとなりました」。法要が繰り返されることで、先祖は極楽往生を果たすことができる。一方で、布施をする子孫は徳を積んだことになり、「寺の方は、安定的な収入源を確保することが可能になりました。先祖も子孫も、そして寺も、これで満足できる。そのような体制が確立されたことで、仏教は庶民の間にも深く浸透していきました」。

 第二章は「なぜ葬式は消滅するのか」。著者は、仏教式の葬式がビジネスとして始まったと考えている。宗教年鑑で、各宗教団体が文化庁に届けている信者数を見ると、バブルの絶頂期にあった1988(昭和63)年、信者の総数は約1億9185万人に達していた。神道系が約9618万人、仏教系は約8667万人だった。ところが宗教年鑑の令和元年版(2019年)では総数は約1億3286万人で、神道系は8009万人、仏教系は4724万人となっている。総数でおよそ5900万人、神道系で1600万人、仏教系で4000万人近くも減った。仏教系が半減しているが、これは日本最大の新宗教、創価学会の会員が大挙して日蓮正宗という宗派から抜けたことが影響している。だが、それを引いても2300万人の減少なので、大幅に減少していることは間違いない。

 著者は、今日の仏教式葬式の原型が曹洞宗の葬式にあるとみている。曹洞宗では修行中の雲水が亡くなった場合、まだ修行中で悟りを開いていないので、いったん正式な僧侶にしなければ、極楽浄土に往生させることはできないと考えられた。修行途中の雲水は在家信者のあり方に近く、それが在家信者の葬式のやり方として踏襲されたという。曹洞宗の葬式では、亡くなると枕経をあげ、通夜でもお経を唱えて、本番の葬式では、僧侶にするための「剃髪」からはじまって、水をふりそそいで清め、戒律を授ける受戒、過去の行いに反省を加える懺悔などを行っていく。「これだけ見ても分かるように曹洞宗の葬式のやり方は相当に複雑で面倒なものです」「これが仏教式の葬式の原型となるもので、「曹洞宗の開拓した葬式のやり方は、他の宗派にも取り入れられていきました」「葬式が、曹洞宗において、禅の修行道場を維持するために金銭を稼ぎ出す手立てとしてはじまったということは重要です。葬式が死者の供養のために行われるようになったのであれば、それは信仰上大きな意味を持ったことになります。ところが、そうではなく、宗派の経営のために導入されたのです。他の宗派がそれを採用したのも、葬式を担うことが、金銭を稼ぎ出す手段としてもっとも有効と判断されたからでしょう。浄土真宗でも日蓮宗でも形式は異なりますが、葬式を担ってきたという点では同じです」。

 第三章は「お弔いが葬儀社依存になった理由」。著者は福岡県でサンレーという名前で葬祭業を営む一条真也さんと葬式をめぐって往復書簡を交わし、対談したことがある。その対談で、日本で最初にセレモニーホールを作ったのが一条さんと知った。1978年に北九州市にできたサンレーの「小倉紫雲閣」だという。その後、他の業者も競ってセレモニーホールを作り、現在は全国で8千を超えているともいわれる。「自宅で亡くなることが少なくなり、また自宅で葬式を行うことが難しくなれば、セレモニーホールを使うしかありません」。昔は人が亡くなると、近所の人たちが「葬式組」として葬式全般をとりしきってくれた。だが、今は地方でもそうしたしきたりはなくなった。いきおい、葬祭業者の手を借りないと葬式もあげられなくなった。

 第五章は「現代の葬式が抱える様々の矛盾」。これは葬式に出席した人の多くが感じる疑問だろう。「セレモニーホールでの葬儀となると、葬祭業者が司会を務め、葬式の進行役となります」。故人や遺族のことを知らない進行役が、「気持ちを込めてお悔やみの言葉を発したとしても、それはどうしても演じているようにしか見えません。事実、演じていることは間違いないのです」。最近では業者が葬式に新しい演出を持ち込むことも増えている。そのひとつがメモリアルビデオだ。評者は葬式でビデオを見たことはないが、業者が作成し、家族の葬式で流されたというビデオを見たことはある。幼い頃からの故人の写真を組み合わせたものだったが、結婚式で一般的に行われている演出が葬式でも行われているのか、と驚いた。

 「仏教式の葬儀は、インドで生まれた仏教が中国に伝えられ、そこで中国化し、それが日本に伝えられることで生まれたものです。その過程は複雑で、必ずしも開祖である釈迦とはかかわりないものです」「仏教の側が、仏教式の葬儀は欠かせないと主張したとき、その根拠を明確にできないので、その主張は説得力を持ちません。そこに根本的な問題があるとも言えるのです」。

 第六章は「余計なものは次々と省かれていく」。「ここまで見てきたところから明らかになるように、葬式は、それを請け負う側、僧侶や葬祭業者の利益のために行われてきたところに、大きな問題があったのです。葬式というものは、仏教界にとっても、葬祭業者にとってもビジネスです。ビジネスであること自体は格別問題のないところです。(中略)しかし、葬式の必要性が説かれるときには、ビジネスである面は隠され、宗教的、あるいは精神的な意義が強調されることがほとんどです。(中略)そこで強調されるのは、葬式は近しい者の死に直面した遺族のこころの癒しになるということです。『グリーフケア』などという外来の言葉が持ち出されることもあります」「葬式をあげることでけじめをつける、故人が亡くなったということを、関係者が一同で確認し、故人の人生を偲び、その霊を慰める。たしかに葬式には、一応のけじめをつけるという意味はありそうです。しかし、これは遺族や関係者にとっての意味であって、亡くなった本人にとってはかかわりのないことです」。こう言い切ってしまうところが宗教学者としての著者の本領なのだろう。

 著者は第七章で、「死生観の変容--死は昔ほど重要ではない」と主張する。確かに年間の死者数は年々増え続けている。2018年には136万2470人、19年には138万1093人が亡くなった。まさに「多死社会」の到来だ。死生観の変容は、「死の高齢化」という環境の変化が大きいとみている。2019年の日本人の平均寿命は男性が81.41歳、女性が87.45歳となっている。「平均寿命は、第二次世界大戦が終わるまで、だいたい40歳代の前半ですから、私たちはその時代に比較して倍の長さの人生を生きられるようになったことになります」。

 「肉体的な死は、いつか訪れます。かなりの高齢であれば、それまでに社会的な死ということを経験しているのです。社会的な死を迎えれば、ほかの人たちとの関係は絶たれますから、この世に存在していながら、すでにあの世に半分足を突っ込んでいる状態になります。社会的な死も、肉体の死と同様に、ほぼ不可逆の出来事で、そこからまた現世に戻るということはないのです」「葬式は、肉体的な死がもたらされた後に行われますが、肉体的な死がさほど重要な意味を持たないものであるなら、葬式をあげることに意義はなくなります。死が重要性を失うことで、葬式に意味を見出せなくなった。意味がないなら盛大な葬式をあげる必要はない。葬式無用の流れは、死生観の変容がもたらした必然的な事態なのです」。

 となれば墓も時代遅れになっていかざるを得ない。最近は無縁墓が増えているという。「墓を造らないということで、最近多く活用されているのが、『納骨堂』に遺骨を納めるというものです」「墓を造らずに、納骨堂に遺骨を納めるという方向には進んできていますが、多くの人たちが自然葬なり、0葬を選択するというところにまでは達していません」。0葬というのは著者が提唱し、推し進めている方式で、火葬された遺骨を引きとらないという選択だ。これも著者の調査によると、「大きく分ければ、西日本では0葬は可能でも、東日本でも難しいというのが現状です」。評者は知らなかったが、東京を含め、東日本の火葬場では「全骨収骨」が原則だ。一方、西日本では「遺骨全体のうち、三分の一、あるいは四分の一しか、遺族に引き渡されません。残りは火葬場の方で引き取り、処分します。したがって西日本の火葬場では、申し出があれば、すべての遺骨を火葬場で処分してくれます。つまり0葬が可能なのです」。なぜこうした違いが生まれたのかは著者も分からないという。どこで地域が分かれるかの調査した人はいるが、「地域の習慣としか言いようがない」そうだ。評者は関西出身で、関西でも東京でも火葬に立ち会ったことがあるが、東西で収骨に差があることは知らなかった。

 最終章は著者が本書を執筆している最中に経験した母親の葬式がもとになっている。93歳で息を引き取ったが、入院を極度に不安がり、最後は自宅での在宅死だった。末期のすい臓がんが見つかって翌月に亡くなった。著者の妹が同居していて最後まで面倒を見ていたが、たまたま著者も見舞いに訪れ、最期に立ち会うことができた。もうひとりの妹は大阪にいるので、臨終の様子はスマホでテレビ中継した。葬儀は知り合いの葬儀社に任せた。亡くなってから火葬するまで、数日間、なきがらは自宅にあった。火葬場で葬式をする直葬だったが、東京での火葬なので0葬ではない。「納骨するときには、菩提寺に法要をお願いすることになるはずです」。

 評者はこのくだりを読んで、これからはこうした葬式が増えるのかもしれない、と思った。評者が子どものころ死んだ祖父母は自宅でのとむらいだった。セレモニーホールと呼ばれる葬儀場が各地にできて以降はそこでの葬式が主流になっていく。今は東京でも大きな寺には葬式ができる式場が併設されているところがある。昨年参列した会社の同僚の葬儀はそうしたパターンだった。現役を退いて間もなく、参会者は多かったが、それは年々減少し、いずれは家族葬に近づいていくのだろう。関西出身の評者は墓が地元にある。菩提寺の墓ではなく、仏教系宗派が運営する民間の霊園を父親が買っていたので、そこに納骨した。年一回の墓参が精いっぱいで、先々、墓をどうしていくかも考えないといけない。亡くなった父親からは墓守を頼まれたが、檀家の寺は関西にあり、葬儀を出し、年忌法要をすませたたあとはほとんど関係がなくなったので、寺には離檀を申し出て了解してもらった。年を重ねるというのはそういうことなのだという気もする。墓の今後についても、「葬式消滅」を参考にさせてもらうことになりそうだ。

 これは日本での葬式を取り上げた本書とは直接関係ない話だが、葬送や葬式、墓をめぐる各国や各宗教、宗派の事情、その変遷についても知りたいと思った。それぞれ伝統的な慣習があるはずだが、高齢化、長寿化が劇的に進んでいる国では、事情はどうなのだろうか。大きく変化しているのか、変化はさほどではないのか。宗教的というよりも社会学的、文化人類学的な関心や興味なのかもしれないが。





 






















世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・カリコ 増田ユリヤ 新型コロナワクチンを開発したハンガリー移民の女性研究者

2023年01月15日 | 読書日記
世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・カリコ 増田ユリヤ 逆境から生まれた新型コロナワクチンの誕生物語


 やや長めのタイトルだが、タイトルだけでその内容がわかる。新型コロナウイルス・ワクチン開発成功の原動力となったmRNA(メッセンジャーRNA)研究者のロングインタビューをもとにした研究の記録だ。出版は2021年10月とコロナ禍まっただなか。カリコ博士はハンガリー移民の研究者だ。現在はドイツにあるバイオベンチャー・ビオンテック社の上級副社長をしている。ビオンテックについては2022年12月15日付けの本ブログ「mRNAワクチンの衝撃」で詳しく紹介した。この本はビオンテックの創業者であるトルコ移民二世の夫婦に焦点をあて、その苦闘と成功をつづった物語だ。「mRNAワクチンの衝撃」にもカリコ博士のことは出ていたが、その紹介ぶりがあまりに淡白なので、カリコ博士について調べるうち、本書に行き合った。著者は27年にわたり、高校で世界史や日本史などを教えながらNHKラジオやテレビのレポーターを務めたジャーナリスト。現在はテレビのニュース番組のコメンテーターとしても活動している。ポプラ新書はポプラ社が出している新書だ。児童書出版社として知られるが、新書のことは知らなかった。

 コロナ禍で、海外での直接取材は困難な時期だった。というわけで、カリコ博士や関係者へのインタビューはすべてリモートで行われている。博士の業績に詳しい京大iPS細胞研究所長(当時)山中伸弥博士へのインタビューもリモートで実施されている。リモートは確かに便利だが、対面に比べると迫力には欠ける。これは旧知の人でもズームで対面すると、やや印象が異なるのと同じだろう。評者は、まったく初対面の人とリモートでインタビューするのはややつらい気がしている。

 カリコ博士の研究をめぐる苦難のエピソードはさまざまなところで紹介されている。たとえばハンガリーでの研究が困難になり、虎の子の車を売った元手を娘のテディベアに潜め、夫とともに3人で逃げるようにしてアメリカに渡った話。その娘がアメリカで成長し、ボート競技の選手となって二度もオリンピックの金メダリストになった話。勤務先のペンシルベニア大で研究費が獲得できず、泣く泣く降格を受け入れざるを得なかった話など。いずれもすさまじい話だが、その逆境にめげず、mRNAの研究をライフワークとして続け、ワクチンや薬として実用化するために不可欠な基礎技術の発見にたどりついた。

 本書の核心はカリコ博士へのロングインタビューで、その生い立ちや苦闘を生々しく聞き出したことと、博士の少女時代を知る恩師の肉声を引き出したところだろう。博士は1955年1月、ハンガリーの首都ブダペストから東南に約100キロほど離れたソルノクという町で生まれ、その近くで高校までを過ごした。精肉店を営んでいた父と会計の仕事をしていた母、姉が一人。かやぶき屋根の一部屋しかない平屋だった。電気や水道もなく水も井戸に汲みに行く生活だったというから、当時としてもかなり貧しかったのだろう。だが、みんな家のことが好きで、「一家はご近所でも評判の家族だったという。みな勤勉で誠実で、謙虚で優しい人たちだったからだ」。清貧の生活に耐え、長い逆境に耐え抜く精神力も、この少女時代に培われたのだろう。父親が豚を解体する際も彼女は目を背けることはなかった。貧しいが自然豊かで家族の愛情に恵まれた故郷での体験が「彼女が科学者を目指す出発点となった」。

 カリコ氏は母国ハンガリーや故郷をとても大切にしている。彼女の才能を見出したのは地元の高校教師だったアルベルト・トート氏。著者はカリコ氏の紹介を得て、彼にリモートインタビューする。最初に書面でのインタビューを申し込んだところ、それならとリモートインタビューが実現したという。愛弟子のことは、何でも話したいということなのだろう。それによると、トート氏がカリコ氏に最初に出会ったのは彼女がまだ幼稚園のころ。父親の営む精肉店が近所だったので、買い物に時々寄り、そのとき見かけていたという。高校時代は教え子が所属する生物学研究サークルの顧問だったが、カリコ氏が名門のセゲド大学に進学してからも家族で研究室を訪ねたりと親交が続いた。トート氏の専門は環境学だ。ハンガリーは北東部にホルトバージという世界遺産に指定された広大な国立公園がある。トート氏がこの調査に当時、大学2年だった彼女を誘ったところ、セゲドから約90キロの道のりをはるばる自転車でやってきたという。泥道だったり、牛が歩いていたりするような草原の道なき道である。さえぎるもののない炎天下の調査にも彼女は文句ひとつ言わず、やり遂げたという。ホルドバージは1973年、ハンガリー初の国立公園に指定され、1999年には世界遺産(文化遺産)に登録された。東ヨーロッパ西部最大の牧草地で、広さは約800平方キロもある。国立公園や世界遺産の指定もトート氏や彼女らの貢献が大きいのだろう。

 ハンガリーというと1956年のハンガリー動乱など旧ソ連の負の影響を受けた国としての印象が強い。セゲド大学もむろん、共産主義政権の強い影響下にあったが、進学した理学部はまだ自由な雰囲気があったという。カリコ氏は成績優秀だったが、ただひとつ遅れを取っていたのは英語の学習だ。授業は英語の専門書で行われたので、英語ができないとお話にならない。カリコ氏自身、「大学に入学して初めて、本格的に英語を学べるようになりました。田舎の学校出身の私は英語を学びたくても思うように学べる環境になかったのです。周囲の学生は都会出身の人も多く、すでに高校で英語を身につけてきた人ばかり。19歳になってようやく学ぶ機会を得た私は、必死に英語の勉強をしました」。

 こうした逸話を読むと、彼女がいかに強い精神力と粘り強い努力、持ち前のひたむきさで道を切り開いてきたかがわかる。彼女はセゲド大学に5年間在籍し、修士課程をおさめた。78年には大学にあるセゲド生物学研究所の博士課程に進む。配属されたのがRNA研究室だった。このころは世界的に分子生物学が生物学研究の主流になっていた。彼女はmRNAの研究にとりかかる。だが、mRNAは存在は知られていたものの、合成することが非常に困難だった。彼女は仲間の研究者とともにRNAフラグメント(断片)を合成し、それを細胞に送り込む研究を担当した。

 だが、そのころハンガリー経済は景気後退の影響で疲弊し、研究活動が進められなくなり、グループは解散を余儀なくされた。海外に移って研究を続ける仲間もいて、彼女も研究所を去る決意をした。ハンガリーの他大学やヨーロッパの名門大学にも連絡をとったが、よい返事は得られなかった。唯一返事があったのがアメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィアにあるテンプル大学。何とかポスドクとして任期付きの研究職をオファーしてくれた。エンジニアの夫と2歳の娘との旅路。だが、当時のハンガリーでは個人が持ちだせる外貨は100ドルまで。車を売って得た1000ドルを娘のテディベアの背中に潜めて出国した。テンプル大学での年俸は1万7000ドル。とてもアメリカで3人で暮らせる金額ではない。研究室の設備もひどく、「一週間で逃げ出したい」と思ったそうだ。だが、「私のモットーは『何もなければ失うものはない』ということ」と思い、何とか踏み止まった。評者もアメリカ滞在中一度もテンプル大学のことを聞かなかったし、フィラデルフィアにあることさえ知らなかった。

 劣悪な環境で懸命に研究を続けるカリコ氏に1988年、吉報が舞い込んだ。医学の名門ジョンズ・ホプキンス大学からのオファーだった。だが、それを知って嫉妬にかられた上司(教授)は露骨な妨害工作を始める。ここに残るか、ハンガリーに帰るかという二者択一を迫り、ジョンズ・ホプキンスに対しても仕事のオファーを取り下げるよう手をまわしていたという。この難局でも、彼女は驚異的な粘りを発揮する。「その上司にも敵がいることがわかったので、その人たちのところに駆け込んで、助けてもらったのです」。ひどい話だが、研究の世界では意外に珍しくないことだ。だが、その後も研究では不遇続きだった。アメリカの医学系基礎研究者はNIH(国立保健研究所)など公的な機関や公的財団の研究グラント(助成金)が確保できないと手ひどい仕打ちを受ける。助成金の申請書を書き続けたものの落ち続けた。95年にはついに大学から降格を言い渡された。「成果を出すことができず、社会的意義のある研究とも思えない」というのが理由だった。

 あれこれ考えてみたが、「すべてはここにある。もっといい実験をすればいいのよ」と思い直し、降格を受け入れた。その2年後、97年に彼女は運命的な出会いをする。ワシントン近郊の国立アレルギー感染症研究所でポスドク期間を過ごし、ペンシルベニア大に赴任したばかりのアンドリュー・ワイズマン氏と出会ったのだ。彼は感染症研究所ではアンソニー・ファウチ所長のもとでエイズウイルスの研究をしていた。研究室のコピー機の順番を待っているときの偶然の出会いだったという。ファウチ氏は22年末までホワイトハウスの新型コロナ対策責任者を務めていたきわめて著名な研究者だ。

 ワイズマン氏との共同研究で、mRNAを使う上で最大の難題が克服できた。人工的につくったmRNAを体内に入れると、mRNAは体の異物と認識され、激しい炎症反応が起きる。だがRNAのうちtRNA(トランスファーRNA)という物質に、ある化学修飾があるときだけは炎症反応が起きないのだ。どうやらこれが身体が異物かどうかを見分ける目印になっているらしい。「2005年、カリコ氏はワイズマン氏とともに、mRNAが人体に引き起こす拒絶反応を抑えるこの画期的な新手法を科学雑誌の『Immunity』に発表した」。tRNAに含まれるウリジンという物質に特定の化学修飾を加える方法だった。2008年にはさらに研究を重ね、ウリジンをシュードウリジンという物質に置き換える方法を発見した。2012年にこの手法を連名で出願した特許が認可された。

 2013年にはまた別の出会いがあった。ドイツのバイオベンチャー・ビオンテックの創業者ウグル・サヒン博士(「mRNAの衝撃」ではウール・シャヒンと表記されている)との出会いだ。カリコ氏の講演を聞きにきていたサヒン氏がカリコ氏に声をかけ、二人はすぐに意気投合した。現在、カリコ氏はビオンテックの上級副社長に就任している。ビオンテックの本社があるマインツでの生活が中心になっているという。

 2020年12月、カリコ氏はペンシルベニア大学でワイズマン氏とともにビオンテックのコロナワクチンを接種した。「普段は感情的にならないカリコ氏も、この時は感極まったそうだ」。接種が終わると、カリコ氏に気づいた病院のスタッフが「このワワクチンの発明者が出てきたぞ」と言って、何人かが拍手を始めた。コリコ氏も思わず涙ぐんだそうだが、新型ウイルスワクチン開発の成功という偉業を成し遂げても、彼女の生きる姿勢や考え方、価値観は変わらないという。

 「真に称えられるべきは、新型コロナウイルスと最前線で向き合っている医療従事者や、こんな時でも仕事を休めないエッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちです。私はただ研究や実験に没頭してきただけ。好きなことを続けてきただけなのです」。あくまで謙虚な姿勢は変わらない。この謙虚さとひたむきさが不遇な時期の長い研究生活を支え続けたのだろう。

 新型コロナウイルスが実用化され、その基礎技術を確立したカリコ博士とアンドルー博士の業績は世界で称賛を受けている。日本国内でも慶応医学賞(カリコ氏の単独受賞)、日本国際賞を受賞したし、ノーベル医学・生理学賞の最有力候補とも目されている。不遇の時期が嘘だったかのような賞賛の嵐になっている。これもまた研究者としての運命なのかもしれない。本書はカリコ氏本人へのインタビューが中心だが、それ以外にもさまざまな秘話が紹介されている。そのひとつがハンガリーにいたとき、彼女が秘密情報機関・国家保安庁のエージエント(スパイ)にされていたという話だ。これは元国家保安庁の幹部が2017年に出版した本にその事実が掲載されているという。この本によると、彼女は1978年10月31日にエージェントに採用され、スパイ活動をするコード名も与えられていたという。この件について、ハンガリーの非政権メディアがカリコ氏に問いあわせ、彼女は書面で回答している。それによると、「1978年にセゲド生物学研究所の研究員助手として働き始めた時、当局から接触があり、エージエント採用を受けずにいられない状況になったのは事実です。当局からは、父が1956年のハンガリー事件に参加したことを『罪深い過去』として持ち出され、もしエージェント採用を受けなければ、私の研究活動をできなくしてやると脅迫されました。父は1957年に執行猶予付きの懲役刑を言い渡され、職場は解雇となり、その後4年間は仕事に就けませんでした。当局のシステムがどのようなものかをそれで知っていたので、恐ろしかった。ですから、採用関連の書類に署名をしました。しかしその後。私自身が誰かについて報告書を書いたことは一度もありませんでした。誰かを傷つけたこともありません。研究活動を続けるために、国をあとにするしかありませんでした」。

 著者はカリコ氏のインタビューの後、この事実を知ったので、彼女に直接確認したわけではないという。ただ「逃げも隠れもせず、事実を伝える姿勢」がいかにも彼女らしいと感心したとの感想を記している。1945年~89年までの社会主義体制下にエージェントとして採用された人は16~20万人にのぼるという。ソ連やソ連の影響下にあった国々では至るところでこうした「悲劇」が起きていたのだろう。今のロシアはもちろん、中国でも似たようなことがあることは間違いない。インタビューの後から知った事実なので、著者は比較的さらりと書いているが、時間があればこの事実をもとに本書全体を再構成することができたかもしれない。もうひとつ評者が後味が悪い話だなと感じたのは暴露本の著者が秘密情報機関の幹部だったということ、本を売りたいのか、成功への道のりを歩んでいる人の暗部を明るみに出して評判を落としたいのか。いずれにせよ悪意に満ちている。

 最後にカリコ博士の業績を高く評価する京大iPS研究所教授の山中伸弥博士のインタビューが巻末に掲載されている。「先日、リモートでしたが、カリコ先生との対談をさせていただきました。カリコ先生は、これまで非常に粘り強く研究を続けてこられた方です。(中略)アメリカでも手厚いサポートがあったわけではなくて、かなり厳しい状況の中で、何とか今日まで、ご自身の研究をずっと続けてきてこられたと。私自身、人生のモットーを「VW」と言っています。ビジョン(Vision)とワークハード(Work hard)の頭文字を取ったものです。カリコ先生はまさにしっかりしたビジョン、自分のぶれない研究テーマをずっともっておられて、それを達成するために、いろいろな困難にも負けずに打ち勝ってここまでこられた。そんな姿は、私たちにとっても目標というか、まさにお手本です。そして同時に、研究というのは、そんなにいつもうまくいくわけではないと。やはりいろんな困難を乗り越えていかないとだめなんだということを再認識させてくださった。改めてそんなことを教えていただいた、と思っています」。

 新型コロナワクチン開発に関しては、科学的側面、研究開発に携わった人々の奮闘物語などこれからも何冊もの本が出ることだろう。本書がその一冊として読まれることは間違いない。著者はもともとこの分野に詳しい人ではないので、科学的に言えば、別の著作を読むほうがいいのかもしれない。だが、取材対象に肉薄するエネルギーはなみなみならぬものがある。アメリカ、ハンガリーと場所を選ばず、取材対象にリモートで突撃していく勇気は大変なものだ。ただその取材手法に関して、海外はともかく、国内でもリモートインタビューという手法はどうなのだろうか。旧来型の新聞記者である評者は、現役の新聞記者がリモートを多用し、かなりの部分をそれに頼っていると聞くとやや懸念を感じる。筆者が長く在籍した新聞社で、良心的な記者として知られるある名物記者が、「最近は現役世代がリモート中心の取材になっていると聞いて、さすがにどうかなと思っています」と述懐するのを聞いて深くうなずいた。実は彼とのインタビュー自体が、お互いの都合からリモートになってしまったのだが……。

 本書ではほんの少ししか触れられていないが、カリコ氏の夫はどういう人なのだろうか。これはちょっとバイアスのかかった見方かもしれないが、妻の研究を支えるのに徹した人生として取り上げてもよかったのではないだろうか。ちなみに彼はハンガリーではエンジニアだったそうだが、アメリカではすぐに職に就くことができず、一時は深夜の清掃労働で妻や家族を支えていたという。できることではないなと思いつつ、そのくだりを読んだ。


 




 

 

 



子犬の絵画史 金子信久 かわいい子犬の日本画はいつ生まれたか

2023年01月10日 | 読書日記
子犬の絵画史 金子信久 かわいい江戸絵画の専門家が詳しく解説する日本絵画史



 子犬はかわいい。評者は長年、犬と暮らしているが、子犬が最初に家に来たときは無条件にかわいい。だが、そのかわいさは数か月しか続かない。どんな犬種の犬も1年も経つとすっかり大きくなって成犬になってしまうからだ。評者が飼っているラブラドル・レトリバーの場合、成犬だと30キロを超えることが普通だ。今、飼っているのはメスなので30キロには届かないが、それまで飼っていたオスでは優に30キロを超えてしまう。生後2、3カ月ごろに飼い始めると数キロしかないので抱き上げるのも簡単だが、30キロ弱になった今は、腰を落としてヨイショと抱き上げるしかない。

 本書は子犬のかわいさを発見し、子犬を描き続けた絵師(画家)を日本美術史の観点からひもとくユニークな試みだ。著者は東京の府中市美術館学芸員の金子信久氏。府中市美術館はユニークな展覧会を企画することで知られている。たとえば2022年のゴールデンウィークには「春の江戸絵画まつり ふつうの系譜」を開催した。ここでは江戸時代の京都の巨匠・円山応挙の狗子(子犬)図が出展された。金子氏はこうした企画展の仕掛け人だ。毎年のようにかわいいを中心にした江戸絵画の企画展が開催されるので、それを楽しみにしている絵画ファンは多い。評者もそのひとりだ。東京西郊に住み、府中市美術館へは1時間足らずなので、毎年1、2度は足を運んでいる。

 応挙やその弟子・蘆雪の狗子図は広く知られているが、そのルーツはどこにあるのだろうか。かわいい子犬を最初に描いたのは中国だという。12世紀に北宋の文人皇帝として知られる徽宗(きそう)や南宋時代の宮廷画家毛益(もうえき)らがかわいい子犬を描いている。それが朝鮮半島に伝わり、「16世紀の画家李厳が、独特のスタイルの子犬を描いた。そしてそれらの作品が海を渡って日本にやってきたのである」「中国の子犬の絵には、ある特徴がみられる。目の周りを白く表すことと、頭から鼻にかけて白くて太い直線の模様を表すことだ」。

 「日本でこうした子犬を真似たのが、江戸時代の狩野派の画家たちや俵屋宗達、伊藤若冲らである」。俵屋宗達は京都・建仁寺の国宝・風神雷神図で知られる江戸初期の画家。若冲は精密な筆致で鶏や動植物を描いた「動植綵絵」などで知られている。

 だが、かわいい子犬に取りつかれ、多くの狗子図を描き続けたのは江戸時代中期、18世紀後半に活躍した京都の画家・円山応挙だ。応挙の画業は40年以上におよび、円山派と言われて優秀な弟子を輩出したことでも知られる。その応挙がもっとも早く書いた狗子図は35歳の時の「時雨狗子図」だとされる。ただ初期の応挙の狗子図は京都で活躍した先輩絵師、渡辺始興の絵を真似たものだという。「応挙は、山水画などでも始興の作品にヒントを得たものを描いているが、それから察するに、子犬の絵も始興を真似ることから出発して、その後自分の力で、よりリアルで、絵姿としても美しい応挙の子犬の世界を育て上げていったのではないだろうか」。

 応挙の狗子図はどれもかわいいが、本書はそれを一堂に会してくれる。13頁にある「応挙の子犬のさまざまなポーズ」がそれで、15枚の狗子図が一挙集合している。子犬の色は白か黒、茶だが、いずれも生後2、3カ月ほどの子犬を観察して書いたものだろう。子犬がじゃれあう姿、子犬同士で遊ぶ姿が生き生きと描かれている。応挙は写生画の天才と言われるが、自宅に犬を飼い、じっくり観察して書いたのだろう。どれもかわいくてじっと見ていたくなる。



 もう一点、応挙の狗子図を紹介しよう。こちらはユキノシタと5匹の子犬。下の2匹はすやすやと寝ているようだ。かわいさも格別だ。寝ている子犬の下にいる白い子犬は起きているのだろうか。



 こうした子犬のかわいさはじっくり時間をかけた観察の中から発見されたのだろう。当時、京都で超人気絵師だった応挙は殺到する注文をさばくのに追われていたはずだ。「忙中閑あり」で、一息ついた時間に描いたのだろうか。

 勤勉な著者は、「明治時代の末から昭和の初めにかけて、各地の古書画の所蔵家が蔵品を競売にかける『売り立て』が盛んに行われた」ことに着目、作品のモノクロ写真が掲載された「売り立て目録」をもとに応挙の描いた狗子図を調べた。売り立て目録の図録を集めた「古画総覧」(国書刊行会、2000‐2005年)で調べた結果、贋作も含まれているはずだが、応挙作品とされた2822点中、約21点に1点が子犬だったという。当時の京都の人名録を見ると、「応挙は京都一の売れっ子だったらしい。その人気者の21点に1点が子犬なのだから、応挙の子犬の人気は大変なものだ」と著者も感心している。「日々、注文に応じてせっせと描く応挙せんせい。21日仕事をしたとすると、そのうち1日は子犬三昧だったかもしれないのである。いつもは難しい顔で山水画や人物画に取り組むせんせいが、その日ばかりは頬をゆるませながら筆をとる……そんな姿を思い浮かべた」。これには評者も深く共感する。

 応挙は優れた弟子を多く育てたことでも知られる。円山派とか四条派と呼ばれている。著者が古画総覧をもとに調べたところ、応挙の長男応瑞は掲載された76点中、子犬は1点もない。次男の木下応受は18点中1点、弟子の源キ(王へんに奇)は228点中9点、同じく山口素絢は400点中3点だった。その中で一人異彩を放っていたのが長沢蘆雪だった。986点掲載されているうち、14点に1点が子犬だったという。子犬比率は師匠の応挙をも上回っている。

 「応挙と蘆雪の共通点は、恐らく根本的に『かわいいもの好き』だったことだろう。応挙は本物の子犬の動きから『かわいいもの好き』の心に訴える瞬間を見て取る天才だし、蘆雪は子犬でも雀でも人間の子供でも、とにかく小さくて弱いものに向ける心を持った画家だ。そんな根っからのかわいいものへの愛が、二人の子犬の絵から溢れている」。下は蘆雪の狗子図だ。


 評者は蘆雪の動物画が大好きだ。彼の代表作である「虎図襖」(本ブログの一番下の写真)を見に、和歌山県串本町にある無量寺に行ったこともある。虎というよりは大きな猫なのだが、なにぶん当時の人は実物の虎を見たことがないので仕方がない。中国や朝鮮半島から伝わった虎の絵を手掛かりに、身近にいる猫を組み合わせたのだろう。無量寺の「虎図襖」は応挙の名代として、京都から南紀の串本まではるばる師匠の絵を届けに行った際、逗留先の寺で酒の勢いに任せて一気に描いたものだという。実際に見ると、確かにそうかもしれないという勢いのある筆さばきで、虎が今にも飛び出してきそうな迫力にみなぎっている。46歳で亡くなっているが、子犬や虎だけでなく、猿や鹿など多くの動物画の秀作を残している。山陰の兵庫県香実町にある大乗寺にも障壁画の秀作があり、評者はそこにも蘆雪作品を見に行った。ここも忙しい師匠に代わって代理で派遣された場所だ。蘆雪の一生は謎が多い。なぜ、46歳で生涯を終えたかについても諸説ある。酒好きだったことは間違いないので、謹厳実直だった師匠とは異なり、なかなか奔放な人だったのだろう。

 応挙は後世の画家にも大きな影響を与えた。柴田是真は明治時代に活躍した漆工芸の職人だが、若い時に京都で四条派の画風を学んだ。この狗子図は明治時代になって描かれたものだが、子犬の姿は応挙風だという。


 せっかくなので、近年大変な人気の伊藤若冲の「百犬図」(写真下、部分)も挙げておこう。若冲作品は「動植綵絵」はじめ、かなりの数を見ているつもりだが、「百犬図」は知らなかった。いかにも若冲らしい凝りようだ。京都・錦市場の青物屋の旦那だったが、絵を書きたくて家督を人に譲った。今でいえば、大変なオタク絵描きだったのだろう。



  本書を読んで、今年の美術展はどんなものがあるのだろうかと調べてみたら、蘆雪生誕270年を記念した「長沢芦雪」展が今年の10月、大阪中之島美術館であることを知った。東京在住の筆者もできれば大阪に出かけて芦雪展を見たいものだ。おそらく彼の代表作である無量寺の「虎図襖」(写真下)も出展されるのだろう、何度か見ているが、できれば何年ぶりかで再会したいものだ。今回のブログはふだんとかなりスタイルが異なるが、正月に免じて許していただきたい。本書からは何枚も絵の写真を使わせていただいたが、これも内容紹介としてお許しいただきたい。興味のある方は是非、本書を直接手に取って、子犬のかわいさを存分に味わっていただきたい。