ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

クリスパー CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見 ジェニファー・ダウドナ、サミュエル・スターンバーグ ノーベル賞間違いなしの革命的遺伝子編集技術の光と影

2018年02月21日 | 読書日記

CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見 ジェニファー・ダウドナ、サミュエル・スターンバーグ  櫻井祐子訳 革命的な遺伝子編集技術はわれわれをどういった世界に連れて行くのか!?

 CRISPR(クリスパー)については何の知識もなかったが、読了して本当に驚いた。2012年、アメリカの科学誌「サイエンス」に発表され、またたくまに世界を席巻した革命的な遺伝子編集技術。その発見とこの技術がもたらす光と影への考察だ。ダウドナ氏はこの技術を開発したカリフォルニア大バークレー校の生化学専攻の教授。実際に本書を書いたのは研究室にいる若手のサミュエル・スターンバーグ氏だ。

 CRISPRというのはClustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeatsの頭文字をとったもの。日本語でもクリスパーと呼ばれている。細菌のゲノムにはところどころに回文(Palindrome、上から読んでも下から読んでも同じ言葉)のような同一配列とそれをはさむ短いスペーサー配列と呼ばれる行列の繰り返しでできている。発見当初、こうした構造の役割は不明だったが、この配列は細菌の免疫の仕組みに深く関わっていることがわかった。実は、細菌が一度ウイルスに感染すると、ウイルスのDNAの一部を保存しておき、次に感染したときには保存したDNAを使ってウイルスDNAをばらばらにする酵素を作り出す仕組みがある。酵素の働きでウイルスDNAはばらばらにされ、働かなくなる。細胞自身が備えている精巧な免疫システムだった。

 この仕組みをうまく利用すると目的のDNAを任意の場所で切断することができ、別のDNAを入れてつなぐこともできるという。DNAを任意の場所で切り出し、新たなDNAをつなぐ。これがダウドナ博士らが発見した革命的な遺伝子編集技術「クリスパー・キャス」法だ。

 著者はもともと動物の感染防御にかかわるRNA(リボ核酸)の研究が専門だった。それがある日、プエルトリコで開かれた学会で、フランス生まれの微生物学者エマニュエル・シャルパンティエ博士からクリスパーの共同研究をしないかと誘いを受け、この研究に踏み込んだ。ともに女性研究者の共同研究はノーベル賞間違いなしといわれる素晴らしい成果を上げた。2012年6月、サイエンスに発表された論文は投稿からわずか20日で掲載という異例のスピードだった。いかにこの研究が衝撃的だったかを象徴している。

 本書の第一部はこの技術の開発の歴史。後半の第二部はこの技術の光と影の問題だ。

 本書の課題はプロローグ「まったく新しい遺伝子編集技術の誕生」に要約されている。「生命は過去数十億年間、ダーウィンの理論通りの形で進化してきた。ランダムな遺伝的変異が生存や競争、生殖に有利な形質を与え、多種多様な生物を生み出した。人類を今に至るまで形成してきたのもこのプロセスだ。(中略)だが遺伝的バリエーションを生むランダムなDNA変異という『原料』は、まだ自然発生的かつ偶発的に生じていたため、自然をつくり変えようとする人間の取り組みには限界があり、目立った成果は得られなかった」。

 「今日、事情は様変わりしている。科学者はこの原始以来のプロセスを、人間の完全なコントロール下におくことに成功したのだ。いまや生体細胞のDNAを操作するバイオテクノロジーの強力なツールを用いて、人類を含む地球上のすべての生物を生物たらしめている遺伝子コードを操作し、合理的に変更することができる。そして最新の、またおそらく最も有効な遺伝子編集ツールである『CRISPR-Cas9(クリスパー・キャス9)』を使えば、ゲノム(全遺伝子を含むDNAの総体)を、まるでワープロで文章を編集するように、簡単に書き換えられるのだ」。

 まったく驚くべき発見だ。筆者は応用の実例として、「科学者はCRISPRを用いて、筋肉発生を制御する遺伝子の塩基配列をたった一文字変えるだけで、シュワルツネッガーのような筋肉むきむきの遺伝子強化ビーグル犬をつくり出した。別のチームは、ブタゲノムの成長ホルモンに反応する遺伝子を不活性化することにより、大型ネコほどの大きさのマイクロピッグをつくり、ペットとして売り出そうとしている。(中略)CRISPRを使ってアジアゾウのDNAをケナガマンモスのDNAに近づけ、この絶滅種を復活させる計画までが進行中である」。

 読んでいて、めまいがしてくるような気がする。この究極の遺伝子編集技術を手にした人類は、いずれ「進化の神」の役割を演じることになるのだろうか?

 筆者はこう続ける。「動植物界への応用も胸躍るが、人類の未来に対する最大の希望と、おそらく最大の脅威をはらんでいるのは、ヒトの遺伝子編集が与えるインパクトだろう」。

 「最近ではCRISPRでブタの遺伝子を『ヒト化』する実験が行われていて、動物の臓器を人間に移植する、異種間移植の実現が期待されている。またCRISPRを蚊の細胞に注入して、新しい系統の蚊を作製する実験も行われている」。

 医療への応用としては深刻な遺伝病がこの技術で治療できないか、研究が急ピッチで進められている。

 「たとえば変異遺伝子の損傷部位だけを取り除き、それ以外の必要な部分を残すことによって、デュシエンヌ型筋ジストロフィーを引き起こすDNAの異常を修復する実験が成功している。また研究者は血友病Aの治療として、CRISPRを使って患者のゲノムの逆位した50万字以上の領域を修復することに成功している」。

 こうしたブレークスルーを可能にしたのが、「ノーベル賞間違いなし」と言われる理由である。だが著者はこの遺伝子編集技術をさらに宣伝するために本書を書こうとするわけではない。 

 論文が発表されるやいなや、世界各地の大学や研究機関で応用の実例が次々に報告された。

 「CRISPRをサルの胚に用いて作製した世界初の遺伝子編集サルが誕生すると、異端の科学者がヒトで同じことを試みるまで、あとどれくらいの猶予があるだろうと考えた。生化学者の私は、それまでモデル動物やヒト組織、人間の患者を扱ったことはなかった。(中略)そんな私が共同で生み出した技術が、今や人間や人間の暮らす世界を根底から変えうる方法で利用され始めていたのだ。この技術は社会格差や遺伝格差を期せずして広げたり、新たな優生学運動を招くのだろうか?」。

 そんな疑問にとらわれた著者は、多忙な身でありながら、カリフォルニア大バークレー校の運営母体であるカリフォルニア州知事、大統領府科学技術政策局、CIAなどとCRISPRについて話し合い、連邦議会にも説明した。もちろん、出席したセミナーや会議では大勢の記者に聞かれるままに答えた。そしてCRISPRが生殖生物学や人類遺伝学、農業、環境、医療の分野について投げかける倫理的問題について話し合う、初めての会議を主催し、ヒトの遺伝子編集に関する国際サミットを共同開催した。

 筆者が本書の執筆を決意したのは、この革命的な遺伝子編集技術について、発見の歴史や経緯だけでなく、その影響や影の部分を広く社会と共有したいと考えたからだ。そのために、開発の歴史を詳述した第一部に続き、ほぼ同じ分量の第二部ではこの技術の応用と課題について詳しく記されている。

 評者が本書で見た白眉は、「核兵器の轍は踏まない」と題した第7章だ。この章の冒頭、本書を執筆した研究員のサム・スターンバーグ氏(共著だが氏が実質的に執筆したことは謝辞にきちんと書かれている)が起業家を名乗る女性から、「クリスパー・ベビー」とも言える遺伝子疾患の発症リスクがゼロになるデザイナー・ベビーの計画に手を貸すよう頼まれるところで始まる。高級メキシコ料理店で食事をしながらの提案だったが、「遺伝子組み換え人間」を作り出すフランケンシュタインのようなおぞましい計画につながることを懸念した氏は食事の途中で席を立つ。

 そんなある日、ダウドナ教授は夢を見る。ひとつは津波の夢。教授はハワイ州の中でもとくに自然に恵まれたハワイ島育ち。きれいな海と緑豊かな自然が自慢だが、島はときに太平洋を襲う津波に襲われる。教授自身は津波の経験はないというが、津波が襲来すると、海岸に近い地域は浸水域になることを知っていた。夢で大津波に襲われ、目覚めると、そこはハワイ島から数千㌔も離れたカリフォルニア州バークレーの自宅の寝室だったという。

 もうひとつの夢はまさに悪夢だった。同僚に遺伝子編集技術の仕組みを説明してほしいと頼まれ、ついていくと、そこにはブタの顔をしたアドルフ・ヒトラーが座っていた(そのころはCRISPRで編集されたブタゲノムのことばかり考えていたのでブタ顔だったのだろうと想像する)。夢の中のヒトラーはメモをとるためのペンと紙まで用意して、「君が開発したすばらしい技術の利用法や意義をぜひとも知りたいのだよ」と話しかけてきたという。

 「あまりに恐ろしい容貌と気味の悪い要求に、ゾッとして飛び起きた。暗闇の中で動悸を抑えながら、悪夢が残した不吉な余韻をいつまでもぬぐえなかった。人間のゲノムを書き換える能力は、とてつもない力だけに、よからぬ者の手に渡れば大変なことになる。この頃になるとCRISPRは世界中の利用者に普及していたため、なおさら恐怖を感じた」。

 「私たちは何をしてしまったのだろう? エマニュエル(シャルパンティエ博士)と私、研究仲間は、CRISPRの技術が遺伝性疾患の治療に用いられ、人の命を救うことを思い描いていた。でもいまや、私たちのこれまでの努力が悪用される事態ばかりが頭に浮かんだ。何もかもが猛烈な速さで進んでいて、いったん歯車が狂い出すと一気に大変な事態になりそうなことに圧倒され、自分がフランケンシュタイン博士になったような気さえした。私は怪物を生み出してしまったのだろうか?」。

 「CRISPRに関していえば、公の議論は科学研究の猛烈なペースにまったくついてきていなかった。もしも遺伝子編集がオープンに検討されないままヒトでの実験が行われれば、激しい反発が起きかねない。そしてそのせいで遺伝子疾患に苦しむ成人患者の治療などの、より喫緊で異論の少ない応用が阻まれ、棚上げにされるおそれがあった。そんなことを考えるうちにさらに不安は募り、今後の指針となるものを求めて奔走した」。

 「私がCRISPRの問題を核兵器になぞらえて考えるようになったのも、この頃である。原子力は、とくに第二次世界大戦中、科学が秘密裏に前進し、またその利用法に関する議論が十分に行われないまま研究が推進された分野だ」。元バークレー教授で、原爆の父と称された物理学者のオッペンハイマーがマンハッタン計画の責任者だったことも教授の危機感を強めたに違いない。

 オッペンハイマーは第二次大戦後、安全保障に関する公聴会でこう述べたという。「(科学者は)技術的に甘美なものを見つけたら、まずやってみる。それをどう使うかなどということは、成功した後の議論だ、と考えるものです。原爆ではまさにそうだった。原爆の製造自体に反対した人は誰もいなかったように思います。つくられた後で、それをどう扱うかについての議論が多少なされただけです」。彼は核兵器開発競争の自制を呼びかけたが、逆に政治家の強い怒りを買った。

 「オッペンハイマーの言葉を知って、さらに良心が痛んだ。私たちはいつかCRISPRと遺伝子組み換え人間について、同じことを述べるのだろうか。ヒトの遺伝子編集が、原爆投下ほど壊滅的な影響をおよぼさないのはほぼまちがいないが、研究を性急に進めることには弊害があるだろう。少なくとも、社会の信頼を失うことだけはたしかだ」。

 強い危機感のもと、筆者が前例として参考にしたのは1970年代に開発された遺伝子組み換え技術(ジーン・スプライシング)をめぐる議論とその後の展開だった。遺伝子組み換えとは異種の生物から取り出した遺伝物質の断片を化学的に組み換え、まったく新しい合成DNAを作成することをいう。

 この技術をつくりだしたのはスタンフォード大の生化学者ポール・バーグ博士。彼はこの研究が予測不能で重大な危険性をはらんでいることに気づくと研究を中断し、研究による利益と代償を検討する会議の開催を呼びかけた。カリフォルニア州にある開催地の名前をとって、アシロマ会議と呼ばれる1973年の議論にもとづき、アメリカ科学アカデミーは新技術を検討する委員会を設置した。議長に任命されたバーグ博士によって、委員会がもっとも危険とみなした実験の世界的モラトリアム(一時停止)を要請するという思い切った内容の報告書がまとまった。翌年、やはりアシロマで2回目の会議(アシロマⅡ)が開かれた。ここには科学者だけでなく、法律家や政府関係者、報道関係者も参加した。

 「アシロマⅡは科学者と一般市民とのつながりを築いたという点でも意義深かった。会議に参加した報道関係者は、科学者の議論を読者や視聴者に広く伝えた。この透明性のおかげで、一部の科学者が恐れた猛烈な反対や大混乱、研究の足かせとなる制約を招くこともなく、最終的にコンセンサスが生まれ、研究は世論の支持のもとで継続されたのである」。

 2015年1月に、カリフォルニアワインで有名なナパバレーで教授が主宰する会議が開かれた。アシロマ会議で重要な役割を果たしたバーグ博士やアシロマ会議でモラトリアムを呼びかけたカリフォルニア工科大教授のデイビッド・ボルティモア博士も出席した(2人はともにノーベル賞受賞者)。出席者は17人と少数だったが、生命倫理の専門家や映画プロデューサーなど多彩な顔ぶれの人々が参加した。教授は会議で得られたコンセンサスを今後の展望を見通す形の論文としてサイエンスに発表する。この論文はニューヨーク・タイムズの一面に取り上げられ、大きな反響を呼んだ。

 だが、ほどなく教授が危惧していたことが起きる。2015年4月、中国の研究グループがオンライン学術誌上で、ヒト胚に対してCRISPR技術を使った論文を発表した。出産を目的としたものではなかったのがわずかな救いだった。

 アメリカ政府の諜報機関は2016年2月、上院軍事委員会に提出した「世界の脅威に関する評価報告書」で、国家ぐるみで開発され、アメリカに脅威を与える恐れのある「第6の大量破壊兵器」として遺伝子編集技術を挙げた。ちなみに残る5つはロシアの巡航ミサイル、シリアとイラクの化学兵器、イラン、中国、北朝鮮の核兵器開発計画だった。この事実に教授はショックを覚えた。

 教授はエピローグ「科学者よ、研究室を出て話をしよう」で、科学者と一般の人々との対話の重要性を強調する。

 「CRISPRの物語は、画期的発見が思いもよらない場所から生まれることを、そして自然を理解したいという強い思いに導かれるまま歩むことの大切さを教えてくれる。だがそれだけではない。科学的プロセスとそれがおよぼす影響に対して、科学者と一般市民がともに大きな責任を負っていることも思い知らせてくれるのだ。(中略)歴史がはっきり示しているように、私たちが受け入れる準備ができていようがいまいが、科学的進歩はいやおうなしに起こる。自然の秘密を一つ解明するたび、一つの実験が終わり、そしてほかの多くの実験が始まるのだ」。

 評者は、本書をいま、科学の世界にいる人、これから進もうとする人、科学に関心を持つ人すべてに強く勧めたい。科学者の華麗な成功物語として読むことはもちろん可能だが、それだけではなく、人類の未来に責任を感じる科学者の強い決意表明として読むことができる。また、現実には科学研究の世界でも見えない壁の存在に悩まされることが多い女性研究者の奮闘の物語として読むことも可能だ。この道に進もうとする女性に大きな勇気を与えてくれることは間違いない。教授と共同研究者のシャルパンティエ博士がともに女性というのも素晴らしい組み合わせだ。シャルパンティエ博士は現在、ベルリンにあるマックス・プランク微生物学研究所の所長を務めている。

 教授はフェアな人で、CRISPR研究の発端になった細菌が奇妙な回文のつらなりを持つことを発表した1987年の日本人科学者の論文も巻末に参考文献として掲載している(この時は回文の意味は不明だった)。巻末の解説(毎日新聞科学環境部の須田桃子記者=STAP細胞事件を取り上げた『捏造の科学者』の著者)によるとこれは九州大学教授の石野良純博士の業績だという。教授とシャルパンティエ博士は日本版ノーベル賞といえる日本国際賞を2017年に受賞している。

 もうひとつ感心したのは教授も博士も、自分の発見を事業化するためのベンチャー企業を立ち上げていることだ。最先端の研究は大学と企業という二項対立の図式では理解できないことがよくわかる。

 訳者あとがきを読むとわずか2ヶ月という超特急で翻訳したそうだが、専門的な記述が多い(第一部はやや専門的内容)本書を文系出身の訳者がよくこなれた日本語に翻訳したものだと感心する。原著を発掘し、いち早く日本で出版した文藝春秋社と編集者の熱意にも深く敬意を表したい。

 実質的な著者のスターンバーグ氏は研究を1年間中断して本書を執筆したという。これからという若手が日進月歩の研究を一休みし、執筆に専念するのには相当な勇気が必要だったはずだ。ダウドナ教授は謝辞で、「最後に共著者のサム(スターンバーグ氏)に、職業人生の貴重な一年間をこのプロジェクトに捧げてくれたことに本当に感謝している。サムの文才と科学的洞察、この革新的な技術の広範な影響に対する関心がなければ、プロジェクトは決して実現しなかった」と最大限の賛辞を贈っている。サイエンス・ノンフィクションの書き手としても大変な能力だ。アメリカの科学はどの部分をとっても、きわめて層が厚いことを改めて思い知らされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大学病院の奈落 高梨ゆき子 群馬大学病院事件の真相と救いのない展開

2018年02月13日 | 読書日記

大学病院の奈落 高梨ゆき子 難しい腹腔鏡手術に猛進した医師とチェック機能の不在が生んだ悲劇

 何とも悲惨な話である。前橋市にある群馬大医学部付属病院で難易度の高い消化器内視鏡(腹腔鏡)手術の「失敗」から8人もの患者が術後すぐの短かい期間に次々に命を落とした「医療過誤」事件。読売新聞医療部取材班のキャップとして事件を発掘した記者の著書である。記事は2014年11月14日朝刊の一面トップに掲載され、同紙はその後も特ダネを連発し、2015年の新聞協会賞に輝いた。他紙の追随を許さない立派なスクープだった。

 問題の執刀医は事件が明るみに出てほどなくして退職したが、その後、懲戒解雇相当と判断され、退職金は不支給となった。監督責任を問われた上司の第2外科教授は諭旨解雇相当として退職金の減額を受けた。ほかに直接の当事者ではない医師数人が比較的軽い処分を受けている。当時、事件の全容について詳しくは知らなかったが、悲惨な事件だなと思った記憶がある。

 これより少し前、千葉県がんセンターでも腹腔鏡を使った手術で患者の死亡が相次ぎ、同紙を含め、メディアで大きく取り上げられた。またかと思った人が多かっただろう。

 海外のことは知らないが、消化器内視鏡による手術は日本で数多く行われている。大きな話題になったのは2006年、ソフトバンク・ホークス監督だった王貞治氏が胃がんとわかり、胃を全摘するのに腹腔鏡手術を選択したことだろう。これは名手の手で成功した。

 ふつう胃の全摘だとお腹を大きく切開するが、腹腔鏡手術だといくつかの比較的小さな穴を開け、そこから器具を入れて手術する。手術の傷跡が小さくすむうえ、身体の負担も比較的少なく、回復が早いのが利点だという。ただそれぞれの手術法には利点と欠点がある。腹腔鏡手術は開腹手術に比べ、手術を行う医師の視野が大きく制限され、細かい処置がしにくくなるのは欠点だろう。手術中に大出血など予期せぬトラブルが起きた場合、対応が難しくなる。医師の技量に大きく左右される手術でもある。

 群馬大病院の場合、消化器の中でも、肝臓を中心とした肝胆膵の手術が腹腔鏡で行われていた。肝臓は血管の塊のような臓器で、出血しやすく、もともと手術の難易度は高い。自覚症状が出にくいため、沈黙の臓器とも言われる。体内の解毒作用を担うため、肝臓が機能不全(肝不全)に陥ると全身に有害な物質がまわり、肝性昏睡という状態に陥る。こうなると肝臓移植以外には助からない。海外では脳死者から提供を受ける肝移植が一般的だが、ドナーの絶対的不足から日本では肉親から肝臓の一部の提供を受ける生体肝臓移植が広く行われている。肝臓には再生機能があるので、提供者の肝臓も再生するが、手術の失敗などから、健康だった提供者が死亡する悲劇もまれに起きている。

 群馬大の場合、第2外科の助教(助手)だった40代の医師が腹腔鏡による肝臓手術を実施していた。この医師は、腹腔鏡手術での患者の死亡のほか、開腹手術でも5年間に84人中10人が術後3カ月以内に死亡していた。術後3カ月以内という早期の死亡は手術自体がうまく行かなかった可能性が高い。これからみても到底、肝臓手術の名手とはいえない。

 肝臓の開腹手術の死亡率が12%と他の施設に比べ、異常に高いことを報じたのも読売新聞だった。続報は12月22日朝刊で、初報で遅れをとった他紙は呆然としたに違いない。

 著者は腹腔鏡手術による死亡例を遺族から丹念な取材で詳しく取材している。多くは血管や臓器の縫合や処置が不完全で、腹腔内に出血したり、感染症を起こして敗血症になったり、腹腔内での多量の出血によるショックで死亡していた。患者が最後まで苦しみ、家族もいたたまれない状況の悲惨な死だった。いずれも手術の失敗、不完全さが主な原因だったといえそうだ。

 著者は技量の適格性を欠いた医師によるこうした手術が病院内部で、何のチェックもないまま、漫然と続いた群馬大病院の体質を鋭く告発する。上司の教授は最後まで監督やチェックをせず、部下の医師の「暴走」を放置していた。驚いたことに、同大には消化器外科をも担当分野としている第一外科があったが、第2外科とは激しいライバル関係にあり、協力どころか反目するだけで何の対応もしなかった。後に第一外科教授も処分を受けている。

 著者は第2外科助教の暴走をとめられなかった理由をいくつかの観点から分析する。ひとつは群大病院が群馬県内最高峰の病院で、地元ではだれもその権威を疑っていなかったこと。もうひとつはきわめて複雑で激しい学内抗争の存在だ。

 医学部の臨床系教授のポスト争いをめぐっては山崎豊子の「白い巨塔」はじめ、小説やノンフィクションでさまざまに取り上げられている。小説そのままの事例が起きているわけではないが、教授選をめぐるゴタゴタや遺恨による反目は今でもいたるところで耳にする。

 評者が医学担当だったひと昔前、医療機関や大学病院の医師名簿は必携だった。どちらも結構な値段で市販され、製薬会社の営業担当者や新聞社の医療担当取材部門は最新版をとりそろえていた。一番の情報は教授や准教授、講師、助教の名前ではなく、その人物の出身大学と卒業年次だった。名簿にはむろん、専攻領域も記載されている。大学や病院によってはそうした情報を公開しないところもあったが、ほとんどの病院ではそうした項目が重要情報として掲載されていた。

 評者にはそのころまでの知識しかないが、群馬大の場合、東大系という認識が強かった。つまり医学部や病院の主要ポストを東大や旧帝大出身医師が占め、そこに地元群馬大学や他大学の医師が割って入るという構図だ。医療過誤の起きた当時、第一外科教授は旧帝大の九州大学出身、一方の第2外科は群馬大出身で、問題の手術をした医師は教授の後輩だった。

 今でもそうだと思うが、旧帝大医学部の場合、臨床系教授で母校出身者以外が入るのは珍しい。逆に群馬大のように母校出身者の比率が比較的少ない(おそらくは半数以下)ところには旧帝大系の出身者が割り込むことが多い。その名簿を見て、ここは東大系とか、やはり私学の雄で影響力の強い慶応系などと判断していたわけだ。大病院の場合も同じで、東京・虎ノ門病院は東大系、済生会中央病院は慶応系などと色分けされている。大病院は院長も臨床系教授を経て着任する場合が多い。そうした病院だと各科の医師も大半が院長出身の大学から派遣されている。

 群馬県内のことは知らないが、腹腔鏡手術で懲戒免職相当とされた医師は群馬大出身で前橋赤十字病院から呼び戻されていた。教授のお気に入りの後輩だったことは間違いない。

 こうしたシステムは、母校のツテをたどれば若手や中堅医師を安定的に派遣してくれるシステムとなって、大学病院にも派遣先にも好都合だ。今は臨床研修制度が実施されているので大きく変化していると思うが、評者が取材していた当時はまさにそうだった。意外かも知れないが、大学病院や大病院に勤務する医師ほど人事情報に敏感な人もいない。つまらない話だが、評者もこうした類の害のない話を耳に入れ、見返りにささやかな情報をもらったことも少なくない。

 前橋市は県庁所在地だが、医学部が県内のほかにあるわけではなく、大学病院は屹立した存在だ。患者や家族が大学病院に何の疑問も感じず、大学病院で手術を受けられること自体に感謝していたのは事実だろう。死亡した8人のうちには群馬大病院に勤務していた20代の若い看護師も含まれている。彼女も自分が勤務する病院の手術に問題があるとは思わなかったに違いない。

 こうした悲劇が伝えられるたびに感じるのは、大学病院の風通しの悪さと何かトラブルや事件が起きたときの「隠蔽体質」である。群馬大の場合はそれが最悪の形になってあらわれた。

 患者や家族は手術の必要性と腹腔鏡による手術なら傷も小さく、回復も早いと腹腔鏡手術のメリットだけを伝えられ、手術を承諾したという。大半の患者は肝臓やその周辺のがんで手術の必要性はあっただろうが、それを腹腔鏡下で行う必然性はあまりなかったようだ。

 東京など大都市ではがんで手術する場合、手術方法の選択や、そもそも手術が必要かどうかについてセカンドオピニオンをとることがかなり一般的になってきた。積極的にセカンドオピニオンをとるよう勧めている病院もある。専門医によるセカンドオピニオンがとれれば、手術のリスクについて詳しく説明を受けたり、場合によっては別の治療法を選択したりすることもできる。患者や家族が十分納得している方が、治療効果が上がることは間違いない。

 ただ群馬大では腹腔鏡手術のメリットが強調されただけで、失敗のリスクなどネガティブな情報はいっさい説明されなかったという。術者が難易度の高い手術を行うだけの十分な技量を持っていなかった場合、それは「人体実験」とも言うべき危険を伴う。

 評者も医学記者時代、親しくなった医師に頼んで手術の現場を何度か見せてもらった。生体腎移植、肝臓がんの手術、日本から出張してドイツで、まだ日本では実施されていない肝臓移植を見せてもらったこともある。肝移植は手術開始から終わるまでが約10時間、手術を担当する4人ほどの医師と数人の看護師だけでなく、見学した評者も立ちっぱなし。トイレにも行けず、水も飲めず、食事も抜きで、これは本当に大変な仕事だなと痛感した。

 医師でタバコを吸う人は珍しいが、当時の外科医には喫煙者が多かった。手術前の緊張を和らげるため、何本も吸う人も珍しくなかった。多くの外科医は手術となると燃えて、難手術ほど体内からアドレナリンが多く出るような印象があった。

 多くの患者を死なせた問題の助教も手術好きだったようだ。患者の死亡は伏せて学会発表もしていた。その意味ではどこにもいるタイプの手術好きの消化器外科医だったのかもしれない。

 その暴走をなぜ食い止められなかったのか。これは誰しもが感じる疑問だ。

 これは本書が詳しく書くところだが、最大の問題は院内や診療科内のチェック体制の不備だろう。群馬大第2外科の場合、肝胆膵の手術を実施していたチームは第2外科のうちでも、問題の医師を中心とする2、3人で、他の医師は腹腔鏡手術の状況をまったく知らなかった(あるいは見て見ぬふりをしていたのかもしれない)。監督責任を負う教授は手術が得意ではなかったようで(外科系教授で手術が不得手という人は意外に多かった)、助教はやりたい放題だったようだ。通例、大学病院の医局では手術前や術後、カンファレンスと呼ばれる症例検討会を開き、内部で意見交換する。主に中堅やベテランが若手を指導する場だが、風通しのいい医局ほど頻繁に開かれ、率直な意見交換がされる。たとえば「手術の適応」というが、その患者をがんと診断した理由、今回、その手術を選択する理由を主治医はきちんと説明できなければならない。だが、本書ではこうした意見交換についてはまったく記述がない。カンファレンスが開かれなかったのだろうか。

 取材は遺族や大学から事後の検証を引き受けた専門家が中心なので、残念ながら第2外科内部の情報はほとんどない。加えて第2外科以外の病院内の様子もはっきりしない。他科が第2外科など外科系をどうみていたのかも分からない。これが閉鎖社会の大学病院への取材の限界なのか、群馬大特有の問題かもはっきりしなかった。その一方で、筆者は今回の医療事故を日本の医療、とくに大学病院の医療の問題に一般化し、広げようとしている。そうした側面は確かにあるだろうが、本書に出ている例証だけでは不十分なようにも見える。

 評者がやや疑問に思ったのは今回の医療過誤の場合、どこまでが群馬大特有の問題で、どこまでが日本の医療、とくに大学病院の医療に共通する問題かが判然としなかったことだ。その意味で、少し問題を広げすぎたのではないかという気がしないでもない。大学病院の診療体制は厚生労働省の方針にかかわるところが大きいが、そこも残念ながらはっきりしない。消化器外科、とくに腹腔鏡手術は大学病院と大病院のほとんどすべてで実施されているはずだが、実績を上げている専門家が今回の事件を本音ではどう受け止めているのか、そのあたりも今ひとつはっきりしなかった。

 やや苦言を呈することになったが、そうした根本的、構造的な問題はいかに個人が優秀でも、ひとりの記者には負えないような大きな問題だ。本書は新聞協会賞を受けた取材班の代表となった記者の手になるが、新聞記事としてはその力を発揮したはずの取材班のチームワークが、本書の内容には十分に生かされなかった恨みがあるのかもしれない。

 あとがきにも筆者が本書を書くに至った経緯は書かれていないので、状況はわからないが、評者の経験だと、こうした問題は記事を執筆した取材班がそのまま単行本化にも取り組むのが一番、チームワークの力や情報が生きる。巻末に取材協力者として前橋支局の4人、医療部の同僚3人の名前が出ているが、具体的な貢献は書かれていないので、分担はわからない。ややうがった見方をすれば、筆者は自分の著書として本書を送り出すことにこだわりがあったのかもしれない。

 本書では執刀医は早瀬医師、第2外科の教授は松岡教授と実名を伏せ、名前を変えて掲載されている。だが、これは実名でよかったと思う。執刀医は須納瀬豊医師、教授は竹吉泉教授だ。ネットで検索しても実名が出て来るし、刑事事件になってもおかしくないくらい深刻な医療過誤だった。ほかの登場人物はすべて実名なので、匿名にした理由を疑問に思った(当然ながら患者の名前はすべて伏せられている)。単著として世に送り出した以上、筆者にはこの問題に引き続き、全力で取り組んでもらうよう強く希望しておきたい。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦争がつくった現代の食卓 アナスタシア・マークス・デ・サルセド アメリカ陸軍の驚くべき戦闘糧食開発の歴史と食卓の支配

2018年02月07日 | 読書日記

戦争がつくった現代の食卓 アナスタシア・マークス・デ・サルセド 田沢恭子訳 アメリカの軍隊の本当の強さは戦闘糧食にあった?!

 「腹が減っては戦(いくさ)はできぬ」というフレーズはよく耳にするが、アメリカ陸軍が戦闘糧食開発専門の研究所まで持っているというのには驚いた。本書には「軍と加工食品の知られざる関係」という副題がついている。

 著者のサルセド氏はアメリカのフードライター。食品専門の雑誌やボストンの地元紙ボストン・グローブにも寄稿し、PBSという公共放送にも出演しているそうだ。小さい頃から料理が好きでたまらず、子どもたちのランチボックス(弁当)もすべて手作り。料理好きがこうじてフードライター(食品評論家?)になったそうだ。冷凍食品を温めるだけというアメリカの多くの家庭から見れば垂涎の的の料理好きに違いない。

 腕っこきのフードライターが取材を深めていくうち、今は多くの家庭で食卓を支配するようになった工場製の加工食品に関心を持ち、どういった製造方法が用いられているのか、賞味期間を長くするためにどういった食品加工技術が用いられているかを調べていくうち、地元のボストン郊外にあるアメリカ陸軍ネイティック研究所という研究機関の存在を知った。

 ネイティック研究所は主に陸軍兵士のために戦闘糧食(レーション=Ration=という)を開発する研究組織。第2次大戦後まもなく前身の組織が設立され、今では30ヘクタールという広大な敷地に研究者や多数の技術者を擁している。アメリカ国内の大学の食品科学関係学部や大手からベンチャー企業まで多数の食品メーカーと共同研究や技術提携をしている。

 といっても何のことやら見当がつかないが、NASA(航空宇宙局)の先端科学技術が民間に開放され、通信技術や断熱素材などでいくつものブレークスルーを生んだように、食品の世界ではレトルト食品からフリーズドライ(凍結乾燥)、濃縮還元ジュース、成形肉など、われわれがふだん食卓で目にしている食品加工技術の多くがこの研究所から世に出たのだという。筆者は自宅近くのスーパーを歩いて、もしネイティック研究所発の技術がなければ店の棚の半数以上は空っぽになっている、とびっくりするようなことを言う。

 著者は「アメリカのフードライター界の悪女」を自認し、軍の研究所は当初、相当身構えていたという(これは著者の強がりのような気がするが)。ところが、何度かの取材の結果、「悪女」はまるでネイティック研究所に恋でもしたように考え方を180度変えてしまう。

 「私は新たに獲得した食品科学のリサーチ能力を駆使して、今度は子どもの弁当について調べてみた。すると、うれしくない驚きが待っていた。私が子どものためにせっせと"用意”していた弁当は、環境への負荷、栄養価、鮮度などのいずれの基準でも、さんざん悪者扱いされている学校給食に及ばなかった」「クラッカー、エナジーバー、サンドウィッチ、ニンジン、ブドウの入った弁当を、標準的な給食と比べてみた。給食のメニューは、ソースのかかったチキンテンダー、玄米、冷凍ニンジンをゆでたもの、缶詰の桃のシロップ漬け、牛乳。結果は給食の圧勝だった。給食で使われる食材の多くは大型の袋や缶で納入されるので、容器や包装のごみが抑えられる。一度に調理する量が多いので、一食あたりの燃料消費量はゼロに近くなる。これと比べて、祖父母や曾祖父母の世代が今どきの手作り弁当から出るゴミの量を見たら、びっくりして心臓が止まってしまうのではないだろうか」。

 やや大げさな表現だという気はするが、著者はきっと非常に純粋で正直な人なのだろう。ここまで驚きを素直に表現できる人は多くない。

 だが、評者もアメリカ陸軍が戦闘糧食の開発にかける持続的な熱意と努力に驚いた。戦闘糧食はその名のとおり、兵士が戦地で食べる食事である。軍隊の活動地域は灼熱の中東の砂漠から熱帯の湿原やジャングル、冬のアラスカや朝鮮半島の凍てつく寒冷地まで気候も場所もさまざまだ。

 こうした前線に展開する兵士のためにMREとファースト・ストライク・レーションという戦闘糧食を準備している。MREというのはMeal Ready-to-Eat(すぐに食べられる食事)、ファースト・ストライク・レーションというのは最前線で銃を持ったままでも食べられるような高カロリーの食事だ。これが兵士一人一人に一食ずつ配られる仕組みだ。

 驚くのはこれがコッペパンのような乾いた食事ではなく、戦地の塹壕の中でも、水をいれるだけで化学反応で加温する温かい食事まで食べられることだ。品数もあり、デザート的な付け合せまでそろっていて、栄養だけでなく、兵士の嗜好まである程度は満足できるようになっている。

 もちろん余裕があるところではキッチンカーで調理したステーキのような食事があるようだが、イラクやアフガンの前線でそんなぜいたくは言ってはいられない。兵士はそれぞれが携行した糧食を手早くプラスチックやアルミの包装を破って、口に入れることになっている。

 これがまた驚くべきすぐれもので、温帯(27度)の気候なら3年以上、熱帯の極端な暑さ(50度)でも半年は持つように作られている。さらにパラシュートで上空から落としても壊れないばかりか、たとえ兵士を直撃したとしても傷つけないような包装だというからちょっとびっくりする。

 戦闘糧食についてまったく知識のなかった著者はネイティック研究所の研究成果の素晴らしさと、科学者、技術者の熱意と努力にすっかり惚れ込んでしまった。

 糧食にはまったく知識のない評者は、200年前のナポレオンの時代、遠征するフランス軍兵士のために缶詰が開発されたというエピソードくらいしか知らない(当初は缶でなく瓶だった)。あるいは日露戦争当時、白米ばかり食べていた日本陸軍がビタミンB1欠乏症のひどい脚気に悩まされ、戦力低下に悩んだ(多数の死者が出た)という程度だ(糧食も含めた健康管理の総責任者だった軍医総監は森林太郎=鴎外)。海軍は麦飯を食べていたので、陸軍のような悲劇は起きなかった。

 軍隊にとってそれだけ糧食は大事なのだが、第2次大戦で兵站を軽視した旧日本軍はとくに南方の前線で食料の欠乏やマラリアなどの風土病に苦しむ。南方では戦死者の大半が戦闘によるものでなく、いわゆる戦病死、とくに悲惨な餓死者が多かった。中国戦線では食料を狙った農村部での略奪が横行した。それでは安定した支配はできない。余計なことだが彼我の差を痛感せざるを得ない。

 著者が感激したのは研究所に配属されている広報担当将校の誠実で手際のよい対応によるところも大きいようだ。デイヴィッド・アクセッタ中佐で、いつもメールには「全力投球! デイヴィッド」とあるという。職務に忠実で、いかにも米軍にいるタイプのエネルギッシュな将校だと思う。

 評者もワシントンでの勤務中、2、3度米軍基地を取材する機会があった。一回は西部にある空軍基地で、最先端ミサイル開発についての取材だったが、応対してくれた空軍大佐は穏やかで実に感じのいい人だった。米軍は広報担当にこうした人材を配置するようにしているのかもしれない。沖縄の海兵隊などはちょっと違うような気もするが。

 それはさておき、日本人として読み進むと本書には時折、気になる表現が見つかる。戦闘糧食の開発の歴史を概観する中、第2次大戦のくだりでは「1945年7月にはアメリカ軍がフィリピンを奪還していたが、日本に対する最終攻撃で多数の死傷者が出ると予測された。これ以上の流血を避けたいと考えたアメリカは、戦争のための科学研究プログラムが生み出した死の花を咲かせる決定を下した。第2次世界大戦は2つの巨大な爆発音とともに終結した。8月6日に広島、9日には長崎の街が原子爆弾によって消滅したのだった」。

 これはアメリカで「公式の物語」として語られている原爆投下正当化のストーリーである。評者は第2次大戦終結50年の1995年にワシントンに居合わせたが、アメリカでは良識派の奮闘にもかかわらず、この神話を覆すことはできなかった。ワシントンにある国立スミソニアン航空宇宙博物館が原爆投下の悲惨さを含め、その実像を明らかにしようと原爆展を企画したが、退役軍人会や空軍OBの強い反対で挫折した。賛成、反対の両派が激しい議論を交わす中、地元紙ワシントン・ポストが第2次大戦当時の日本軍の残虐さに焦点を当てるキャンペーンを連日、張った。ある朝、1面トップにフィリピンで日本軍の捕虜になった米軍兵士が炎天下、収容所までの長い道のりを歩かされ、多数の犠牲者が出た「バターン死の行進」の写真が大きく掲載された。ポストの意図は明白で、こうした残虐行為を続ける日本に原爆を投下するのは当然というわけだ。この記事を見て、「原爆展はもうだめか」とため息が出た。展示を企画した博物館の館長はそれから間もなく更迭された。

 サルセド氏は原爆投下の経緯にそれほど関心があるように見えないが、その人がごく自然にこうした表現をするのは公式の物語を疑わないからだろう。余計なことだが、本書にはもう一箇所リトルボーイとファットマンという表現が出てくる。広島と長崎に落とされた原爆にアメリカ軍がつけた「ニックネーム」である。別のところでも「バターン死の行進」が記述され、「その行程で少なくとも5200人のアメリカ兵が死亡した」と記されている。

 本題に戻ると、本書に紹介されている興味深いエピソードは評者ばかりか、アメリカ人の多くが知らないことばかりだろう。だからこそアメリカでそれなりの支持を得て、日本語にも翻訳されたはずだ。ただ評者が読んでいてやや気になったのは食品科学の専門家の査読を経たためかもしれないが、食品加工や処理の技術に関する記述がまるで、高校の化学や物理の教科書を読むように生硬で、こなれていないのと、見たまま、聞いたまま、調べたままを、そのまま書き連らねているので全体があまり整理されていない印象を強く受けた。

 たとえばネイティック研究所の広さはすぐに出てくるが、そこにどれくらいの人がいるのか、研究職は何人、技術職はどれくらい、学位を持った人は何人、組織はどうなっているかがわからない。読み進むうち、「あれ!これはどうなっているんだっけ?」と思い返すことが幾度もあった。

 読了した後、少し頭を整理しようとネイティック研究所について調べてみた。

 US Army Natick Soldier Researchというのが正式名称(Natickは地名)で、ネットで検索すると研究所のホームページが出てくる。研究所が開発した戦闘糧食がいかに戦地の兵士に貢献しているかが豊富な写真とともにわかりやすく紹介されている。灼熱の戦地、寒冷の戦地、果ては海軍兵士の胃袋にも大いに貢献していることがよくわかる。評者は読み飛ばしたが、糧食のメニューも紹介されている。本書に関心を持つ方は、このページを先に読むと本書を理解しやすいと思う。

 評者が昔、雑誌の編集者だった経験から言えば、原著の編集者がもう少し、内容を整理してくれているとわかりやすかったのになと思う。翻訳の段階でそうした作業は無理なので、これはひとえに著者と編集者の責任だ。翻訳はこなれていて読みやすいが、食品や戦闘糧食関係の専門用語が頻出するので、どこかにまとめて注記があった方が親切だった。原著の参考文献や引用の注釈が丁寧に入っているのには感心したが(これは著者の生真面目さの現れだろう)、日本の読者向けには簡単な索引や用語集があると理解の助けになったと思う。

 いずれにせよ、類書はほとんどないはずだから、この分野に関心を持つ人には必読の書物に違いない。紹介されているエピソードはいずれも実に面白い。だが、著者も気になったとみえて、最後に少し触れているが、最新の食品加工技術の紹介にこだわる余り、必ずしも安全性が検証されていない食品がすでに世に出回っている問題をもう少し取材しても良かったのではないだろうか。とくに食品の場合、便利さ手軽さと引き換えにせざるを得ないものもあるはずだ。それが戦地ならともかく、便利さや手軽さゆえに、われわれの日常に入り込んで、すでに食卓のかなりの部分を支配しているというとなおさらのことだからである。