応仁の乱 呉座勇一著
中世の歴史を扱った新書としては珍しく、ベストセラー入りした話題の書。18万部まで部数を伸ばしたそうだ。著者には申し訳ないが、読み始めたのは買ってからすいぶん後。読み終えて、もう少し早く読んでおくべきだったと反省した。
著者の呉座氏は京都にある国際日本文化研究センターの助教をされている若手研究者。歴史の啓蒙書というと大家の手になるものが多く、それはそれで面白いが、本書は30代の若手が最新の研究成果や独自の視点を存分につぎこんだことがよくわかって、世評の高さに納得する。
応仁の乱というと、高校日本史の授業では、京を焼き尽くした大乱だったとか、大勢がはっきりしないまま10年以上も続いたとか、この戦乱で室町幕府の力が衰え、戦国時代が始まったとか、結局、よくわからない戦乱だったという印象が強かった。
そのやや不可解な戦乱を京都から少し離れた奈良・興福寺にいた経覚と尋尊という高僧の日記をもとに詳しく読み解く。興福寺というと国宝阿修羅像や五重塔をまず思い出すが、中世に奈良というと興福寺を指したのだという。
興福寺は藤原氏の氏寺で、前身は藤原氏の祖である鎌足が創建した山階寺にさかのぼる。院政が始まった平安時代の白河院の時代になると藤原氏の嫡流である摂関家の子息が寺に入るようになる。
経覚は関白左大臣九条経教の子として1395年に生まれ、12歳で出家した。当時の興福寺には100を超える院家や坊舎があったが、一乗院と大乗院のふたつが「門跡」と呼ばれ、格が高く、他の院家や坊舎はいずれかの傘下に入ったという。
当然のことながら、僧侶にも出自による明確な差別があって、摂関家から入った僧侶は「貴種」と呼ばれ、超スピード出世する。摂関家以外の名家出身は「良家」と呼ばれたが、その下にまだ「凡僧」がいた。貴族の出自でないと、たとえ寺に入っても出世はなかなか覚束ないのだと知った。
当時の興福寺は大和を中心に、越前など畿内の外にも広大な荘園を持ち、多くの僧兵を抱えて強大な武力を保持していた。興福寺の門主となることは莫大な財力を受け継ぎ、寺の強大な権力をわがものにすることでもあった。経覚は30歳の若さで興福寺の別当に就任している。
一方の尋尊は摂関家の一条兼良の子として1430年に誕生した。9歳で興福寺大乗院に入り、2年後に出家している。経覚とは35歳年が離れている。時代の隔たりと同時に、呉座氏は「能動的な経覚、受動的な尋尊」と2人の正反対の性格の違いも分析しつつ、自在に時代を読み解いていく。経覚は「経覚私要抄」、尋尊は「大乗院寺社雑事記」という詳細な日記を残した。呉座氏は奈良にいた高僧2人の日記を中心に、同時代の他の資料も付き合わせながら、応仁の乱に揺れた時代を解説する。尋尊の日記は戦前に活字化されていたが、経覚の日記は最近ようやく、刊行が完結したという。
歴史家の間では尋尊の日記への評価は低かった。それは「応仁の乱」を「天魔のしわざと言ったり、武士が公家・寺社を敬わず荘園を侵略したがうえの神罰だと言ったり」、応仁の乱について説得力ある見解を示していなかったからだ。これまでは「旧支配階級の一員として、この世相を苦々しく感じていただけ」と一蹴されていたという。
だが、著者は「尋尊への評価が低いのは戦後歴史学が階級闘争史観を基調としたことに一因がある」と異論を述べる。これには評者も同感だ。戦後、一世をふうびした階級史観(マルクス主義史観)は上部構造、下部構造という視点に立って歴史を整理するが、ここからこぼれ落ちてしまうものや見落としてしまうものがあまりに多い。最近の歴史学が階級史観から離れて、さまざまな記録や資料に基づく実証的な検証が進んでいるのは何より大事なことだと思う。
著者は2人を比較し、「経覚の判断は前例にとらわれない柔軟さを持っている。だが、その反面、長期的展望に欠け、その場しのぎのところがある」。一方、尋尊は「常に冷静沈着である。目の前で起こっている事象に対して軽々に判断を下さず、記録に当たり、過去の似た事例を調べたうえで方針を決定する」とその特徴を簡潔にまとめてくれる。著者の人間的な目が随所に光っているところが、本書の大きな魅力のひとつだろう。性格の異なる二人が同じ事象(たとえば戦乱の始まり方など)をどう見るかで、客観的な評価に近づく可能性が高まるということだと思う。室町時代の高僧は、600年近く後、こんな手厳しい評価にさらされるとは夢にも思わなかっただろうが。
応仁の乱自体の解説は到底、評者の手に負えるものではない。ご関心の向きは是非、本書を手にとっていただきたい。
ご存じの方が多いと思うが、応仁の乱では、西軍の総大将は山名宗全、東軍の総大将は細川勝元だった。そこに当時の有力大名だった畠山氏、斯波氏の一族がそれぞれの陣営に分かれて参加した。さらにそこに各地の守護大名が援軍として加勢する。周防、長門(山口県)の守護大名だった大内氏も後から西軍に加わっている。
京都で西陣という地名は西陣織で有名だが、これももとは西軍がここに本陣を置いたからだ。本書によると、細川勝元が細川一門と畠山、斯波氏内の細川派、反山名の勢力を糾合したのが東軍。一方、西軍は山名宗全が一族と斯波、畠山氏内の山名派を糾合した勢力だったという。
天下を2分した戦いだけあって、「応仁記」という当時の記録には東軍16万騎、西軍11万騎との記述がある。これはさすがにおおげさすぎるという研究者が多いそうだが、呉座氏は西軍についた畠山義就が7000騎といわれていて、この数字は意外に実数に近いかもしれないと述べている。といっても、このうち騎馬武者は20分の1程度、あとは雑兵といわれる足軽だったようだ。しかも、これはあくまで総動員した兵力で、開戦時の兵力は合わせて5万ほど。軍勢の招集が遅れた西軍は1、2万で、緒戦は苦戦を強いられたという。
当時の京都は国内最大の都市だったが、それでも10万程度だったというから、国を二分する大変な大いくさだったことは間違いない。両軍5万としても兵を維持する兵糧だけで大変なものだ。支配地から京に大部隊で運び込み、それが尽きるといったん退却し、また態勢を整えるといったことの繰り返しだったろう。西軍の増援にかけつけた大内政弘は京から500㌔以上離れた長門、周防が本拠地。3万の軍勢を率い、海路と陸路に分かれ、2カ月かけて京に着いたという。応仁の乱で10年ほど所領を空け、京周辺にいたというから大変な出費と労力だったはずだ。
大内氏というと山口市にある瑠璃光寺を思い出す。日本一美しいといわれる、15世紀に建てられた優美な国宝の五重塔が有名だ。大内氏は京文化にあこがれ、小高い山に囲まれた山口市を小京都にすべく、寺社や庭園をつくり、京から多くの文化人を招いたという。
当初、だれもがすぐ終わると考えていた応仁の乱が10年を超える大乱になったのは、戦法の変化も大きかった。井楼(せいろう)と呼ばれる物見櫓や構えと呼ばれる要害が各地につくられ、防御態勢が発達した。さらに足軽と呼ばれる甲冑を着けない軽装の歩兵が出現し、街を焼き払ったり、略奪したり、兵糧の集積地などを襲ったりして、敵に打撃を与えるだけでなく、京の街を完全に荒廃させた。
評者が、本書で面白いと思ったのは第一次大戦との対比だ。戦力が拮抗し、戦争はいたずらに長引き、犠牲はきわめて多大だった。相手の塹壕の下にさらに塹壕を掘るような消耗戦が続き、犠牲ばかりが増えていった。応仁の乱の両軍も戦力が拮抗し、容易に勝負のつかない消耗戦に入っていたようだ。
当時の有力大名、斯波氏一族は東西両軍に分かれて戦ったが、西軍の斯波義廉の部下に朝倉孝景の名前を見つけた。朝倉孝景は応仁の乱勃発から4年後、西軍から東軍に寝返り、戦況に大きな影響を与える。一乗谷朝倉氏遺跡というのは朝倉氏が福井市郊外につくった中世の城下町だ。2度訪ねる機会があったが、小川にはさまれた平らな土地に平屋の城主館と庭園、上級武士の屋敷と商家が整然と並んでいた。中世に約1万人が暮らす都市だったという。戦国末期に織田信長の軍勢に滅ぼされ、街は灰燼に帰する。400年以上経って発掘された遺構と資料をもとに復元された建物を見て500年前の栄華を想像した。ゆったり流れる小川の風情が何とも懐かしく感じられた。朝倉氏はここを小京都にする夢を持ち、多くの文化人を招いたという。
室町中期に始まった洛中洛外図を見ると、当時の人々が抱いた京への憧れがよくわかる。著者は「これは理想の京都を描いた『絵空事』で、実像と大きく懸け離れていた」と厳しいが、織田信長が描かせ、上杉謙信に送ったとされる狩野永徳の洛中洛外図上杉本や岩佐又兵衛の洛中洛外図舟木本(いずれも国宝)を見ると、当時の人々が京を理想の都として描き、そこに憧れたことがよくわかる。
応仁の乱は都を荒廃させ、後に秀吉が再興にあたるまで、荒れ果てたが、応仁の乱を戦った地方大名の目にはわが領地で、理想都市を築きたいという強い思いがあったのだろう。
結局、10年の長きにわたって戦われた応仁の乱はどちらが勝者なのかもわからないまま終わった。呉座氏は長い戦乱の間、疱瘡など疫病がはやって厭戦気分が広がったり、いくつかの終戦工作がもう一歩のところで頓挫したりしたことなどを紹介する。積極的にいくさを続けようという勢力は強くなかったものの、戦争終結の決定打がないまま、だらだら続いた戦乱だったのだろう。
応仁の乱が始まった当時の将軍、足利義政は側近の言葉を信じやすく、情勢に流されてしまう傾向があり、かなり無定見だったことも混乱に拍車をかけたという。が、本書を読んで少し驚いたのは足利将軍の多くが直接政務をとり、時には敵対勢力を討つため自ら兵を率いて出陣することもいとわなかったことだ。徳川幕府では将軍は政務を老中などに任せ、大事が起きても自ら出陣するようなことはまずなかったはずだ。
足利将軍は同朋衆に囲まれて、武芸よりも茶事や遊芸など文化的なたしなみに精を出していたというステレオタイプも正しくないのかもしれない。
応仁の乱によって将軍の権威は失墜した。だが、「応仁の乱」以後も将軍は決して飾り物ではなく、一定の権威・権力を備えていたという。ただ将軍の威令は京都周辺の畿内5カ国に限られていた。応仁の乱の後は、「従来の政治では日陰者だった守護代層や遠国の守護が、戦国大名として歴史の表舞台に登場してくる。既存の京都中心主義的な政治秩序は大きな転換を迫られ、地方の時代が始まる」。すなわち戦国の群雄割拠の時代の始まりなのだろう。
経覚は応仁の乱の終わる4年前の1473年に没する。一方の尋尊は戦乱から31年後の1508年に没している。呉座氏は二人の日記を底本にして本書を書いたことに、「今はただ戦乱の時代をしたたかに乗り切った経覚と尋尊に敬意を表したい」としめくくっている。
一冊を読み終え、文字の力の偉大さに感服するしかない、と感じた。興福寺の2人の高僧が自分の覚えなどのため、詳細な日記を残してくれたからこそ、後世の人間が戦乱に明け暮れた往時のことを知る手がかりができた。文字による証言の意味はとてつもなく大きい。
これは評者も少しかかわった東日本大震災の原発事故の検証の時にも感じたことだ。大震災が貞観大津波(869年)の再来と言われるのも、当時、多賀城の政庁に勤務していた役人が大津波の記録を日本三代実録という公文書に残してくれたから言えることだ。
膨大な日記を読み解き、関連資料をも渉猟するという大変な力業で、読者を応仁の乱の時代に誘ってくれた呉座氏に深く感謝したい。われわれにとって多くが未知の領域である中世を若手の研究者が詳しく解き明かしてくれるのはまたとない喜びだ。呉座氏の著作を読んだのはこれが初めてだが、既刊書を早く読まなければと思うとともに、さらなる研究の進展と新著の執筆に期待したい。
中世の歴史を扱った新書としては珍しく、ベストセラー入りした話題の書。18万部まで部数を伸ばしたそうだ。著者には申し訳ないが、読み始めたのは買ってからすいぶん後。読み終えて、もう少し早く読んでおくべきだったと反省した。
著者の呉座氏は京都にある国際日本文化研究センターの助教をされている若手研究者。歴史の啓蒙書というと大家の手になるものが多く、それはそれで面白いが、本書は30代の若手が最新の研究成果や独自の視点を存分につぎこんだことがよくわかって、世評の高さに納得する。
応仁の乱というと、高校日本史の授業では、京を焼き尽くした大乱だったとか、大勢がはっきりしないまま10年以上も続いたとか、この戦乱で室町幕府の力が衰え、戦国時代が始まったとか、結局、よくわからない戦乱だったという印象が強かった。
そのやや不可解な戦乱を京都から少し離れた奈良・興福寺にいた経覚と尋尊という高僧の日記をもとに詳しく読み解く。興福寺というと国宝阿修羅像や五重塔をまず思い出すが、中世に奈良というと興福寺を指したのだという。
興福寺は藤原氏の氏寺で、前身は藤原氏の祖である鎌足が創建した山階寺にさかのぼる。院政が始まった平安時代の白河院の時代になると藤原氏の嫡流である摂関家の子息が寺に入るようになる。
経覚は関白左大臣九条経教の子として1395年に生まれ、12歳で出家した。当時の興福寺には100を超える院家や坊舎があったが、一乗院と大乗院のふたつが「門跡」と呼ばれ、格が高く、他の院家や坊舎はいずれかの傘下に入ったという。
当然のことながら、僧侶にも出自による明確な差別があって、摂関家から入った僧侶は「貴種」と呼ばれ、超スピード出世する。摂関家以外の名家出身は「良家」と呼ばれたが、その下にまだ「凡僧」がいた。貴族の出自でないと、たとえ寺に入っても出世はなかなか覚束ないのだと知った。
当時の興福寺は大和を中心に、越前など畿内の外にも広大な荘園を持ち、多くの僧兵を抱えて強大な武力を保持していた。興福寺の門主となることは莫大な財力を受け継ぎ、寺の強大な権力をわがものにすることでもあった。経覚は30歳の若さで興福寺の別当に就任している。
一方の尋尊は摂関家の一条兼良の子として1430年に誕生した。9歳で興福寺大乗院に入り、2年後に出家している。経覚とは35歳年が離れている。時代の隔たりと同時に、呉座氏は「能動的な経覚、受動的な尋尊」と2人の正反対の性格の違いも分析しつつ、自在に時代を読み解いていく。経覚は「経覚私要抄」、尋尊は「大乗院寺社雑事記」という詳細な日記を残した。呉座氏は奈良にいた高僧2人の日記を中心に、同時代の他の資料も付き合わせながら、応仁の乱に揺れた時代を解説する。尋尊の日記は戦前に活字化されていたが、経覚の日記は最近ようやく、刊行が完結したという。
歴史家の間では尋尊の日記への評価は低かった。それは「応仁の乱」を「天魔のしわざと言ったり、武士が公家・寺社を敬わず荘園を侵略したがうえの神罰だと言ったり」、応仁の乱について説得力ある見解を示していなかったからだ。これまでは「旧支配階級の一員として、この世相を苦々しく感じていただけ」と一蹴されていたという。
だが、著者は「尋尊への評価が低いのは戦後歴史学が階級闘争史観を基調としたことに一因がある」と異論を述べる。これには評者も同感だ。戦後、一世をふうびした階級史観(マルクス主義史観)は上部構造、下部構造という視点に立って歴史を整理するが、ここからこぼれ落ちてしまうものや見落としてしまうものがあまりに多い。最近の歴史学が階級史観から離れて、さまざまな記録や資料に基づく実証的な検証が進んでいるのは何より大事なことだと思う。
著者は2人を比較し、「経覚の判断は前例にとらわれない柔軟さを持っている。だが、その反面、長期的展望に欠け、その場しのぎのところがある」。一方、尋尊は「常に冷静沈着である。目の前で起こっている事象に対して軽々に判断を下さず、記録に当たり、過去の似た事例を調べたうえで方針を決定する」とその特徴を簡潔にまとめてくれる。著者の人間的な目が随所に光っているところが、本書の大きな魅力のひとつだろう。性格の異なる二人が同じ事象(たとえば戦乱の始まり方など)をどう見るかで、客観的な評価に近づく可能性が高まるということだと思う。室町時代の高僧は、600年近く後、こんな手厳しい評価にさらされるとは夢にも思わなかっただろうが。
応仁の乱自体の解説は到底、評者の手に負えるものではない。ご関心の向きは是非、本書を手にとっていただきたい。
ご存じの方が多いと思うが、応仁の乱では、西軍の総大将は山名宗全、東軍の総大将は細川勝元だった。そこに当時の有力大名だった畠山氏、斯波氏の一族がそれぞれの陣営に分かれて参加した。さらにそこに各地の守護大名が援軍として加勢する。周防、長門(山口県)の守護大名だった大内氏も後から西軍に加わっている。
京都で西陣という地名は西陣織で有名だが、これももとは西軍がここに本陣を置いたからだ。本書によると、細川勝元が細川一門と畠山、斯波氏内の細川派、反山名の勢力を糾合したのが東軍。一方、西軍は山名宗全が一族と斯波、畠山氏内の山名派を糾合した勢力だったという。
天下を2分した戦いだけあって、「応仁記」という当時の記録には東軍16万騎、西軍11万騎との記述がある。これはさすがにおおげさすぎるという研究者が多いそうだが、呉座氏は西軍についた畠山義就が7000騎といわれていて、この数字は意外に実数に近いかもしれないと述べている。といっても、このうち騎馬武者は20分の1程度、あとは雑兵といわれる足軽だったようだ。しかも、これはあくまで総動員した兵力で、開戦時の兵力は合わせて5万ほど。軍勢の招集が遅れた西軍は1、2万で、緒戦は苦戦を強いられたという。
当時の京都は国内最大の都市だったが、それでも10万程度だったというから、国を二分する大変な大いくさだったことは間違いない。両軍5万としても兵を維持する兵糧だけで大変なものだ。支配地から京に大部隊で運び込み、それが尽きるといったん退却し、また態勢を整えるといったことの繰り返しだったろう。西軍の増援にかけつけた大内政弘は京から500㌔以上離れた長門、周防が本拠地。3万の軍勢を率い、海路と陸路に分かれ、2カ月かけて京に着いたという。応仁の乱で10年ほど所領を空け、京周辺にいたというから大変な出費と労力だったはずだ。
大内氏というと山口市にある瑠璃光寺を思い出す。日本一美しいといわれる、15世紀に建てられた優美な国宝の五重塔が有名だ。大内氏は京文化にあこがれ、小高い山に囲まれた山口市を小京都にすべく、寺社や庭園をつくり、京から多くの文化人を招いたという。
当初、だれもがすぐ終わると考えていた応仁の乱が10年を超える大乱になったのは、戦法の変化も大きかった。井楼(せいろう)と呼ばれる物見櫓や構えと呼ばれる要害が各地につくられ、防御態勢が発達した。さらに足軽と呼ばれる甲冑を着けない軽装の歩兵が出現し、街を焼き払ったり、略奪したり、兵糧の集積地などを襲ったりして、敵に打撃を与えるだけでなく、京の街を完全に荒廃させた。
評者が、本書で面白いと思ったのは第一次大戦との対比だ。戦力が拮抗し、戦争はいたずらに長引き、犠牲はきわめて多大だった。相手の塹壕の下にさらに塹壕を掘るような消耗戦が続き、犠牲ばかりが増えていった。応仁の乱の両軍も戦力が拮抗し、容易に勝負のつかない消耗戦に入っていたようだ。
当時の有力大名、斯波氏一族は東西両軍に分かれて戦ったが、西軍の斯波義廉の部下に朝倉孝景の名前を見つけた。朝倉孝景は応仁の乱勃発から4年後、西軍から東軍に寝返り、戦況に大きな影響を与える。一乗谷朝倉氏遺跡というのは朝倉氏が福井市郊外につくった中世の城下町だ。2度訪ねる機会があったが、小川にはさまれた平らな土地に平屋の城主館と庭園、上級武士の屋敷と商家が整然と並んでいた。中世に約1万人が暮らす都市だったという。戦国末期に織田信長の軍勢に滅ぼされ、街は灰燼に帰する。400年以上経って発掘された遺構と資料をもとに復元された建物を見て500年前の栄華を想像した。ゆったり流れる小川の風情が何とも懐かしく感じられた。朝倉氏はここを小京都にする夢を持ち、多くの文化人を招いたという。
室町中期に始まった洛中洛外図を見ると、当時の人々が抱いた京への憧れがよくわかる。著者は「これは理想の京都を描いた『絵空事』で、実像と大きく懸け離れていた」と厳しいが、織田信長が描かせ、上杉謙信に送ったとされる狩野永徳の洛中洛外図上杉本や岩佐又兵衛の洛中洛外図舟木本(いずれも国宝)を見ると、当時の人々が京を理想の都として描き、そこに憧れたことがよくわかる。
応仁の乱は都を荒廃させ、後に秀吉が再興にあたるまで、荒れ果てたが、応仁の乱を戦った地方大名の目にはわが領地で、理想都市を築きたいという強い思いがあったのだろう。
結局、10年の長きにわたって戦われた応仁の乱はどちらが勝者なのかもわからないまま終わった。呉座氏は長い戦乱の間、疱瘡など疫病がはやって厭戦気分が広がったり、いくつかの終戦工作がもう一歩のところで頓挫したりしたことなどを紹介する。積極的にいくさを続けようという勢力は強くなかったものの、戦争終結の決定打がないまま、だらだら続いた戦乱だったのだろう。
応仁の乱が始まった当時の将軍、足利義政は側近の言葉を信じやすく、情勢に流されてしまう傾向があり、かなり無定見だったことも混乱に拍車をかけたという。が、本書を読んで少し驚いたのは足利将軍の多くが直接政務をとり、時には敵対勢力を討つため自ら兵を率いて出陣することもいとわなかったことだ。徳川幕府では将軍は政務を老中などに任せ、大事が起きても自ら出陣するようなことはまずなかったはずだ。
足利将軍は同朋衆に囲まれて、武芸よりも茶事や遊芸など文化的なたしなみに精を出していたというステレオタイプも正しくないのかもしれない。
応仁の乱によって将軍の権威は失墜した。だが、「応仁の乱」以後も将軍は決して飾り物ではなく、一定の権威・権力を備えていたという。ただ将軍の威令は京都周辺の畿内5カ国に限られていた。応仁の乱の後は、「従来の政治では日陰者だった守護代層や遠国の守護が、戦国大名として歴史の表舞台に登場してくる。既存の京都中心主義的な政治秩序は大きな転換を迫られ、地方の時代が始まる」。すなわち戦国の群雄割拠の時代の始まりなのだろう。
経覚は応仁の乱の終わる4年前の1473年に没する。一方の尋尊は戦乱から31年後の1508年に没している。呉座氏は二人の日記を底本にして本書を書いたことに、「今はただ戦乱の時代をしたたかに乗り切った経覚と尋尊に敬意を表したい」としめくくっている。
一冊を読み終え、文字の力の偉大さに感服するしかない、と感じた。興福寺の2人の高僧が自分の覚えなどのため、詳細な日記を残してくれたからこそ、後世の人間が戦乱に明け暮れた往時のことを知る手がかりができた。文字による証言の意味はとてつもなく大きい。
これは評者も少しかかわった東日本大震災の原発事故の検証の時にも感じたことだ。大震災が貞観大津波(869年)の再来と言われるのも、当時、多賀城の政庁に勤務していた役人が大津波の記録を日本三代実録という公文書に残してくれたから言えることだ。
膨大な日記を読み解き、関連資料をも渉猟するという大変な力業で、読者を応仁の乱の時代に誘ってくれた呉座氏に深く感謝したい。われわれにとって多くが未知の領域である中世を若手の研究者が詳しく解き明かしてくれるのはまたとない喜びだ。呉座氏の著作を読んだのはこれが初めてだが、既刊書を早く読まなければと思うとともに、さらなる研究の進展と新著の執筆に期待したい。