知的文章術入門 知的文章はどうやったら書けるのか、懇切丁寧な入門書
黒木登志夫氏はがん遺伝子の研究で有名な基礎医学者。東大名誉教授で元岐阜大学長。国内だけでなく、アメリカなど海外での研究経験も豊富で、英語の専門論文も300を超える。すでに古典となっている「がん遺伝子の発見」をはじめ、「新型コロナの科学」(21年2月3日付本ブログ参照)、「研究不正」(16年5月3日付本ブログ参照)など80代半ばにして執筆意欲はきわめて旺盛だ。文章術についても著作があり、「科学者のための英文手紙の書き方」(共著)はロングセラーになっている。
評者は参考文献や索引を先に見てしまう癖がある。付いていないのはそれほどちゃんとした本ではないという先入観があるからだ。今回も先に参考文献を見ると、評者が関係した「新型コロナ対応 民間臨時調査会調査・検証報告書」が取り上げられている。興味を持って読み始めたが、残念ながら、これは文章に問題のある例だった。評者は報告書のエディターを務めていたので、恥ずかしい思いをした。
「だらだらと長い文章」として例に出ているのは、「しかしながら、国内においては、すでに感染経路の不明な患者の増加している地域が散発的に発生しており、引き続き、持ちこたえているものの、一部の地域で感染拡大が見られ、今後、地域において、感染源が分からない患者数が継続的に増加し、こうした地域が全国に拡大すれば、どこかの地域を発端として、爆発的な拡大を伴う大規模な流行につながりかねない状況にある」(下線は筆者による)。「これがわかりにくいのは、句読点を入れて173字に及ぶ一つの文のなかに、主語が四つも入り、だらだらとつながっているためである」と指摘する。筆者は書き換えも提示する。
書き換えは、「しかし、国内においては、感染経路の不明な患者の増加地域が散発的に発生している。そのなかの一部の地域で感染拡大が見られる。今後、このような地域が全国に拡大すれば、爆発的な感染拡大による大規模な流行につながりかねない」。こちらの方がはるかにわかりやすい。ここは弁解の場ではないが、すでに決まった出版の締め切りを厳守するため、編集に与えられた時間がほとんどなく、問題の多い文章でも明らかな誤り以外ほとんど手を加えなかったのが原因だ。手数をおかけした筆者には申し訳ない。と同時にこうした「悪文」(筆者は悪文とは言っていないが)をきちんと読み込み、「文章術」の題材にしてしまう筆者の力量に感服した。
コロナ臨調報告書はもうひとつ実例を提供している。「(感染症対策の)『日本モデル』を『法的な強制力を伴う行動制限措置を採らず、クラスター対策による個別症例追跡と罰則を伴わない自粛要請と休業要請を中心とした行動変容策の組み合わせにより、感染拡大の抑止と経済ダメージ限定の両立を目指した日本政府のアプローチ』と定義する」。
こちらも「個別症例追跡と」の後に、読点(、)と「罰則を伴わない自粛要請と休業要請の後にとを入れると少しわかりやすくなると書き換え例を示した後、別の書き換え案も示す。「日本政府は、クラスター対策により感染者の追跡を行い、さらに、罰則を伴わない自粛要請と休業要請を中心とした行動変容策によって、感染拡大の抑止と経済ダメージを最小限に抑えようとした。このアプローチを『日本モデル』と定義する」。格段にわかりやすくなっている。この部分は報告書では最初の部分に登場する。この原稿を最初に読んだとき、「何たるわかりにくさ」と頭を抱えたが、報告書の進行を最優先させて書き換えは放棄した。これは第1章の冒頭部分だが、この章だけで25頁もある。この「悪文」に付き合っていただいた報告書の読者には大変申し訳ない。ただ約20人の筆者が締め切りぎりぎりに、あるいは締め切りを過ぎてから長大な原稿を次々に放り込んでくると、個人の能力でできることは限られてしまう。それにしてもここまで読み込んで、批判的に検証を進める筆者の努力には脱帽する。
本書は巷にあふれるさまざまな文章を題材に、その問題点と、どうすればそれがわかりやすくなるかを具体的に指摘する。第1章は「日本語を大切に」。日本語について、主語を省くことが多い、文法のしばりが緩い、あいまいな表現を好む、とその特徴を指摘したうえで、こうした問題点を過去に述べている谷崎潤一郎、三島由紀夫、ドナルド・キーンの文章論と本多勝一による反論を紹介する。そのうえで、「正しく理解できる日本語を書いているか」を確かめるチェックリストを提示する。チェックリストでは、主語がはっきりと書いてあるか、明確な述語を用いているか、あいまいな表現はないか、論理的に考え論理的に表現しているか、が挙げられている。
このあと、第2章の「分かりやすい文章を書こう」で、臨調の報告書が取り上げられた。ここで簡潔・明解・論理的という筆者の「知的三原則」が登場する。最初が短い文を書く。短い文がいいことの理由は四つある。①短い文には一つのテーマ、最大でも二つのテーマしか入らないので、分かりやすい、②文が短いと、表現がコンパクトになり、冗長な説明とならない、③文が短いと。修飾句、修飾節も簡単になり、その構造が分かりやすい、④逆に長い文では、日本語の場合、文末にある述語が主語から遠くなるので、理解しにくくなる。
④は外国語に通じた筆者ならではの指摘だろう。科学者の筆者は自分の文章をも分析の対象とする。「ちなみに私の日本語文(第1章最初の57文)の平均字数は35.3字(標準偏差16.9字)。A4判の文書でおよそ1行弱である{最短7字、最長83字」。筆者は一つのの文は「日本語では30~60字程度、英語では20~40words 程度は必要であろう」という。そのあと、歯切れのよい文章を書く、明解な文章を書く、やさしく書く、ことを勧める。次がパラグラフの使い方だ。パラグラフは論理単位で、ひとつの「パラグラフは5~10行が目安」といった基準を紹介する。ここから先が「悪文」の実例の紹介だ。まず登場するのがわかりにくい文章の代表例ともいえる行政文書。その次が「だらだらと長い文書」で、ここに臨調報告書が登場した。新聞の文章もやり玉にあがっている。これは共同通信の配信記事だった。さらに日本人に多い表現として「思う」「思われる」の多用をあげる。若い時に京大に留学していたノーベル物理学賞受賞者のレゲットは「『であろう』『といってよいのではないかと思われる』『と見てもよい』のような日本語は、英語に訳しようがなく、『である』に変えるべきだ、と指摘している」。確かにそうだろう。
先に挙げた「日本モデル」は修飾語に問題がある例だ。もちろん、実例はこれだけでなく、「亀田の柿の種 お好み焼味」まで登場する。「野菜や果物がたっぷり入った、コクのある甘さが特徴のオタフクお好みソースを使用したお好み焼き味の亀田の柿の種です」。確かに修飾語が重なって意味がとりにくい。筆者は「しばらく『柿の種』を食べ続けながら考えないと意味が分からなかった(それが狙いかも)」とユーモアたっぷりに書く。ここでも書き換えの実例を紹介する。「お好み焼き味の『亀田の柿の種』には、野菜や果物のコクと甘さが特徴のオタフクお好みソースが使われています」。もうひとつの書き換えも出ているので読み比べることも可能だ。
カタカナの使いすぎという指摘もある。「カスタマーからのクレームの一つのパターンとして、プロダクトのパッケージがある」。これは「消費者からの苦情の一つの典型例として、製品の包装がある」。英語に通じた筆者は「『クレーム』というカタカナ英語は、ここでの意味では英語として通じない。クレーム"claim"はもともと『主張する』という意味である」。
タブーを持たない筆者は日本国憲法についても元の英語原文が悪かった、とずばり指摘する。俎上に上がるのは憲法の前文だ。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。たしかに最初に憲法を読んだとき(中学生だったか?)、ずいぶんわかりにくい日本語だな」と思った記憶が今も残っている。筆者は、「分かったのは、英語の原文そのものが悪文であることだ。それを忠実に翻訳せざるを得なかったであろうことを考えると、日本語が悪文であっても仕方がない」と述べる。この日本国憲法について、「丸谷才一は『どう見ても褒めるわけにはゆかない』文章だが、明治憲法に比べるとはるかにましだ」と言ったそうだ。
第2章のチェックリストは、一度読んだだけで、素直に頭に入る文章か、主語があるか、主語を省略しているときは、主語が自明か、『と思われる』『と見てもよい』などのあいまいな表現はないか、文が長すぎないか。3行以上、100字を超えるような文は二つに分け、短くする、声に出して読んだときに、すらすらと読めるような歯切れのよい文か、などを挙げている。もっともな指摘だ。
第3章が「さあ、書き始めよう」。第1節は「なぜ、書くのか、何を書くのか」。第2節は「一貫した筋書きで書く」。第3節は「論文の構造と注意点」となっている。とくに第3節は学術論文を書く上で非常に参考になる。
その次は「コピペ(=盗用)をしない」。ここで例示されているのは2014年に科学界を揺るがしたSTAP細胞事件の論文だ。著者の小保方晴子は論文が「捏造」だったと認定されて科学界を追放されたが、筆者は彼女の学位論文自体が米国立保健研究所(NIH)のホームページからの「盗用だった」と断じる。「彼女は自分で考えたことではなく、他人の文書をまるごと写して学位論文をつくり、あたかも自分で書いたかのようにごまかして発表した。この学位論文を審査した人は、素晴らしくよく書けていると思ったであろう。しかし、彼女はアメリカ国立研究所のレポートを盗んだのである。このような行為は『盗用』や『剽窃』と呼ばれ、『ねつ造』『改ざん』と並んで、重大な研究不正の一つとされている」。
本書には盗用の例としてプーチン・ロシア大統領の学位論文の表紙の写真も掲載されている。この論文の第2章は「アメリカの経営学教科書からの盗用であることがアメリカのBrookings研究所の調査で明らかになった。プーチン自身は自分の学位論文を恥じていて、学位の話に触れるのを避けているという」。Brookingsはアメリカの著名なシンクタンクだ。この話はどれくらい知られているのだろうか。論文の表紙には彼の署名が入っている。今では盗用検出ソフトが普及し、「多くの大学では、盗用検出ソフトにより、学位論文や投稿論文の盗用を事前に検出している。学術論文誌の編集部も、論文の投稿があると盗用検出ソフトを用いてチェックしている。たとえば、ウィキペディアをコピペして論文を書けば、たちまち検出されるであろう」。
次に紹介されているのが自己盗用だ。「自己盗用とは、自分の書いた過去の文章を再利用することである」。これには評者にも苦い経験がある。以前、別の報告書のエディターをしたとき、ある筆者が別の章に書いた文章の相当部分をそのまま「再利用」していた。これは膨大な量の報告書の校閲を依頼していた専門家が発見してくれた。もちろん、重複部分はすぐに全文、削除した。そのプロジェクトの中心になっていた有名大学の中堅研究者だったので非常に驚いた。
第4章は「情報を探す、賢く使う」。情報の入手の仕方が具体的に紹介されている。「図書館に行く、書籍の購入、データベース、行政が発信するデータ」などだ。その次が「ウィキペディアを賢く使う」。書き換えが可能なウィキペディアの仕組みを説明したあと、賢い活用法として、最初の手がかりにする、ウィキペディアを引用しない、ウィキペディアのコピペをしない、引用文献を読む、英語版を見るなどの方法を勧めている。外国人の事績や科学的事象などを調べるとき、日本語版に比べて英語版の方がはるかに優れているのは事実だ。次に出てくるのは「スマホ脳」にならない。スマホは便利だが、それに頼りきりにならないということだろう。
その次が「フェイク・ニュースに引っかからない」。筆者はまず情報源を確認するように勧める。発信源が確認できるのかどうか。「日本の公的機関、メディアの発表には情報源の記載のないものが大部分である。このため、情報源にさかのぼって、記事の真偽、詳細を確認できない。一方、欧米諸国の発表では、ほとんどの場合、情報源を明記、あるいは情報源URLにつながるようになっているため、信頼性が高い」。「SNSの発信する情報は、注意して扱う必要がある」といった注意喚起もある。
「批判的に考える」ことの勧めも強調されている。「フェイク・ニュースに騙されないために、一番大事なのは『批判的に考えること』である」「新しい情報に出会ったら、次のような見地から、批判的に考える必要がある」。そのチェックリストが出ている。
・その情報に科学的根拠(エビデンス)があるか。
・実証された根拠があるか。
・理論的根拠があるか。
・ほかの考え方ができないか。
・単純すぎないか。
・正義に反していないか。
・情報源は信頼できるか。
・情報源をネットで調べられるか。
・情報源は公的機関か、個人か、それとも匿名か。
・情報は公開されているか。
・情報は審査のあるジャーナルに掲載されているか。
最後は学術論文を意識したものだろう。それ以外も情報源をチェックするうえで大事なものばかりだ。最近、よく言われるエコーチャンバーに入らないというくだりもある。エコーチャンバーとは、閉鎖的なコミュニティのなかでコミュニケーションを繰り返すことにより、特定の考えが増幅される現象のことだ。同じような意見や考えかたをもった人の多いSNSのなかで起きやすいと言われている。
評者が面白いと思ったのは「スマホだけでなくパソコンも使う」というパソコン利用の勧めだ。「スマホはいわば、持ち主に寄生した一人称的存在になっているため、依存しがちである」。パソコンの方がスマホより冷静に付き合えるという指摘だ。これは年代によって受け止め方の差が大きいかもしれない。そのあとは科学者らしく、「数字で考える」ことの大切さを強調する。確率や有意性の検討も勧めている。有意性というのは統計的に意味があるかどうかだ。ここではノーベル賞受賞者数とチョコレート年間消費量の関係という論文が批判的に引用されている。チョコレート消費量が多いほどノーベル賞受賞者数が多いという「大発見?」が存在する。そのグラフを見ると、北欧諸国がいずれも上位に来ているが、スウェーデンは受賞者の割に消費量が少ない。論文の著者は「チョコレートの消費の割にスウェーデンの受賞者が多いのは、自国に有利な選考をしているためだと主張している」。評者には、これは言いがかりとしか思えないのだが。
第5章はプレゼンツールとして活用されているパワーポイント利用の勧め。筆者はパワポが登場し始めてから650以上のタイトルの資料をすべて自作した。「平均して10日に一つ、相当の時間をパワーポイントのスライドづくりにかけたことになる」「なぜ、自分自身でつくるのか。それは、最も有効な講演の準備になるからである。スライドをつくる過程で、自分の考えが整理されてくる。単純化する過程で大事なことのみが残ってくる。(中略)スライドつくりを終えた頃には、頭の中は整理され、原稿なしでもよどみなく話せるようになる」。だが、筆者は調子にのってパワポにスライドを詰め込むことは禁止する。スライド1枚を1分から1分半で説明し、10枚程度におさめるのが一番いいという。
第6章からは英語での発信に関するものだ。英語を学ぶ、英語を読み、書き、話し、書く、英語でメールを書こうといった内容だ。評者もアメリカにいたときは毎日、苦手な英語のメールを読み書きしていたが、こうした本があれば助かったなという気がする。筆者は親切にも、さまざまなメールの書き出しや返事の書き出し、返事が遅れたときの文例なども紹介してくれる。必要な人には大いに役立つだろう。
コロナ臨調報告書が2度も「悪文」の実例として取り上げられた評者に、本書の評価をする資格はないが、本書を読んで「天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさず」という老子の言葉を思い出した。「天道は厳正で悪事には必ず報いがくる」といった意味だろう。「悪事」を働いたとまでは思わないが、世の中にはそれぞれの仕事に厳しい目を光らせている人がいることは間違いない。
ただもう一方で、評者が痛感したのは筆者のこの猛烈な知的エネルギーに向き合っていくのは容易なことではないということだ。大学で指導を受けた学部生や大学院生は論文の書き方だけでなく、テーマの選び方、実験の仕方、結果の評価などあらゆる面で、厳しい指導や叱責を受け続けたに違いない。それにしても1936年生まれの筆者のエネルギーには本当に驚嘆する。あとがきを読むと、本書のもとになったのは慶応大学理工学部の1年生に向けた「これから一生レポートを書き続ける君たちへ」という新入生向け講義だという。毎年4、5月の講義で、入学したての若い学生たちとの30分間の討論が大きな刺激になったそうだ。「慶応大学の講義経験から、新たな構想のもとに執筆したのが、本書である」。このブログを書いていて、ふと気づいたのは新聞記者経験30数年で海外にも2度勤務した評者も入社以来、文章術をきちんと教えてもらったことは一度もなかったことだ。取材の仕方や写真の撮り方といったノウハウは幾度も教わったが、一番の基本である文章の書き方の指導はなかった。先輩やデスク(次長)からのオン・ザ・ジョブ・トレーニング(実地訓練)で十分ということだったのだろうか。だが、それでは大きな限界がある。本書などを教材に、組織的、体系的で、丁寧な指導をすることが重要ではないだろうか。現在の新聞の文章を読んでいてもそう思う。文章を書くことに関心のある人すべてに広く勧められる内容だ。英語で文章を書く機会のある人は、是非第6~8章を読んで、自分の英語に磨きをかけてほしい。