ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

知的文章術入門 理系文章の達人が明かす知的な文章の書き方

2021年10月29日 | 読書日記
知的文章術入門 知的文章はどうやったら書けるのか、懇切丁寧な入門書

  黒木登志夫氏はがん遺伝子の研究で有名な基礎医学者。東大名誉教授で元岐阜大学長。国内だけでなく、アメリカなど海外での研究経験も豊富で、英語の専門論文も300を超える。すでに古典となっている「がん遺伝子の発見」をはじめ、「新型コロナの科学」(21年2月3日付本ブログ参照)、「研究不正」(16年5月3日付本ブログ参照)など80代半ばにして執筆意欲はきわめて旺盛だ。文章術についても著作があり、「科学者のための英文手紙の書き方」(共著)はロングセラーになっている。

 評者は参考文献や索引を先に見てしまう癖がある。付いていないのはそれほどちゃんとした本ではないという先入観があるからだ。今回も先に参考文献を見ると、評者が関係した「新型コロナ対応 民間臨時調査会調査・検証報告書」が取り上げられている。興味を持って読み始めたが、残念ながら、これは文章に問題のある例だった。評者は報告書のエディターを務めていたので、恥ずかしい思いをした。

 「だらだらと長い文章」として例に出ているのは、「しかしながら、国内においては、すでに感染経路の不明な患者の増加している地域が散発的に発生しており、引き続き、持ちこたえているものの、一部の地域で感染拡大が見られ、今後、地域において、感染源が分からない患者数が継続的に増加し、こうした地域が全国に拡大すれば、どこかの地域を発端として、爆発的な拡大を伴う大規模な流行につながりかねない状況にある」(下線は筆者による)。「これがわかりにくいのは、句読点を入れて173字に及ぶ一つの文のなかに、主語が四つも入り、だらだらとつながっているためである」と指摘する。筆者は書き換えも提示する。

 書き換えは、「しかし、国内においては、感染経路の不明な患者の増加地域が散発的に発生している。そのなかの一部の地域で感染拡大が見られる。今後、このような地域が全国に拡大すれば、爆発的な感染拡大による大規模な流行につながりかねない」。こちらの方がはるかにわかりやすい。ここは弁解の場ではないが、すでに決まった出版の締め切りを厳守するため、編集に与えられた時間がほとんどなく、問題の多い文章でも明らかな誤り以外ほとんど手を加えなかったのが原因だ。手数をおかけした筆者には申し訳ない。と同時にこうした「悪文」(筆者は悪文とは言っていないが)をきちんと読み込み、「文章術」の題材にしてしまう筆者の力量に感服した。

 コロナ臨調報告書はもうひとつ実例を提供している。「(感染症対策の)『日本モデル』を『法的な強制力を伴う行動制限措置を採らず、クラスター対策による個別症例追跡と罰則を伴わない自粛要請と休業要請を中心とした行動変容策の組み合わせにより、感染拡大の抑止と経済ダメージ限定の両立を目指した日本政府のアプローチ』と定義する」。

 こちらも「個別症例追跡と」の後に、読点(、)と「罰則を伴わない自粛要請と休業要請の後にを入れると少しわかりやすくなると書き換え例を示した後、別の書き換え案も示す。「日本政府は、クラスター対策により感染者の追跡を行い、さらに、罰則を伴わない自粛要請と休業要請を中心とした行動変容策によって、感染拡大の抑止と経済ダメージを最小限に抑えようとした。このアプローチを『日本モデル』と定義する」。格段にわかりやすくなっている。この部分は報告書では最初の部分に登場する。この原稿を最初に読んだとき、「何たるわかりにくさ」と頭を抱えたが、報告書の進行を最優先させて書き換えは放棄した。これは第1章の冒頭部分だが、この章だけで25頁もある。この「悪文」に付き合っていただいた報告書の読者には大変申し訳ない。ただ約20人の筆者が締め切りぎりぎりに、あるいは締め切りを過ぎてから長大な原稿を次々に放り込んでくると、個人の能力でできることは限られてしまう。それにしてもここまで読み込んで、批判的に検証を進める筆者の努力には脱帽する。

 本書は巷にあふれるさまざまな文章を題材に、その問題点と、どうすればそれがわかりやすくなるかを具体的に指摘する。第1章は「日本語を大切に」。日本語について、主語を省くことが多い、文法のしばりが緩い、あいまいな表現を好む、とその特徴を指摘したうえで、こうした問題点を過去に述べている谷崎潤一郎、三島由紀夫、ドナルド・キーンの文章論と本多勝一による反論を紹介する。そのうえで、「正しく理解できる日本語を書いているか」を確かめるチェックリストを提示する。チェックリストでは、主語がはっきりと書いてあるか、明確な述語を用いているか、あいまいな表現はないか、論理的に考え論理的に表現しているか、が挙げられている。

 このあと、第2章の「分かりやすい文章を書こう」で、臨調の報告書が取り上げられた。ここで簡潔・明解・論理的という筆者の「知的三原則」が登場する。最初が短い文を書く。短い文がいいことの理由は四つある。①短い文には一つのテーマ、最大でも二つのテーマしか入らないので、分かりやすい、②文が短いと、表現がコンパクトになり、冗長な説明とならない、③文が短いと。修飾句、修飾節も簡単になり、その構造が分かりやすい、④逆に長い文では、日本語の場合、文末にある述語が主語から遠くなるので、理解しにくくなる。

 ④は外国語に通じた筆者ならではの指摘だろう。科学者の筆者は自分の文章をも分析の対象とする。「ちなみに私の日本語文(第1章最初の57文)の平均字数は35.3字(標準偏差16.9字)。A4判の文書でおよそ1行弱である{最短7字、最長83字」。筆者は一つのの文は「日本語では30~60字程度、英語では20~40words 程度は必要であろう」という。そのあと、歯切れのよい文章を書く、明解な文章を書く、やさしく書く、ことを勧める。次がパラグラフの使い方だ。パラグラフは論理単位で、ひとつの「パラグラフは5~10行が目安」といった基準を紹介する。ここから先が「悪文」の実例の紹介だ。まず登場するのがわかりにくい文章の代表例ともいえる行政文書。その次が「だらだらと長い文書」で、ここに臨調報告書が登場した。新聞の文章もやり玉にあがっている。これは共同通信の配信記事だった。さらに日本人に多い表現として「思う」「思われる」の多用をあげる。若い時に京大に留学していたノーベル物理学賞受賞者のレゲットは「『であろう』『といってよいのではないかと思われる』『と見てもよい』のような日本語は、英語に訳しようがなく、『である』に変えるべきだ、と指摘している」。確かにそうだろう。

 先に挙げた「日本モデル」は修飾語に問題がある例だ。もちろん、実例はこれだけでなく、「亀田の柿の種 お好み焼味」まで登場する。「野菜や果物がたっぷり入った、コクのある甘さが特徴のオタフクお好みソースを使用したお好み焼き味の亀田の柿の種です」。確かに修飾語が重なって意味がとりにくい。筆者は「しばらく『柿の種』を食べ続けながら考えないと意味が分からなかった(それが狙いかも)」とユーモアたっぷりに書く。ここでも書き換えの実例を紹介する。「お好み焼き味の『亀田の柿の種』には、野菜や果物のコクと甘さが特徴のオタフクお好みソースが使われています」。もうひとつの書き換えも出ているので読み比べることも可能だ。

 カタカナの使いすぎという指摘もある。「カスタマーからのクレームの一つのパターンとして、プロダクトのパッケージがある」。これは「消費者からの苦情の一つの典型例として、製品の包装がある」。英語に通じた筆者は「『クレーム』というカタカナ英語は、ここでの意味では英語として通じない。クレーム"claim"はもともと『主張する』という意味である」。

 タブーを持たない筆者は日本国憲法についても元の英語原文が悪かった、とずばり指摘する。俎上に上がるのは憲法の前文だ。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。たしかに最初に憲法を読んだとき(中学生だったか?)、ずいぶんわかりにくい日本語だな」と思った記憶が今も残っている。筆者は、「分かったのは、英語の原文そのものが悪文であることだ。それを忠実に翻訳せざるを得なかったであろうことを考えると、日本語が悪文であっても仕方がない」と述べる。この日本国憲法について、「丸谷才一は『どう見ても褒めるわけにはゆかない』文章だが、明治憲法に比べるとはるかにましだ」と言ったそうだ。

 第2章のチェックリストは、一度読んだだけで、素直に頭に入る文章か、主語があるか、主語を省略しているときは、主語が自明か、『と思われる』『と見てもよい』などのあいまいな表現はないか、文が長すぎないか。3行以上、100字を超えるような文は二つに分け、短くする、声に出して読んだときに、すらすらと読めるような歯切れのよい文か、などを挙げている。もっともな指摘だ。

 第3章が「さあ、書き始めよう」。第1節は「なぜ、書くのか、何を書くのか」。第2節は「一貫した筋書きで書く」。第3節は「論文の構造と注意点」となっている。とくに第3節は学術論文を書く上で非常に参考になる。

 その次は「コピペ(=盗用)をしない」。ここで例示されているのは2014年に科学界を揺るがしたSTAP細胞事件の論文だ。著者の小保方晴子は論文が「捏造」だったと認定されて科学界を追放されたが、筆者は彼女の学位論文自体が米国立保健研究所(NIH)のホームページからの「盗用だった」と断じる。「彼女は自分で考えたことではなく、他人の文書をまるごと写して学位論文をつくり、あたかも自分で書いたかのようにごまかして発表した。この学位論文を審査した人は、素晴らしくよく書けていると思ったであろう。しかし、彼女はアメリカ国立研究所のレポートを盗んだのである。このような行為は『盗用』や『剽窃』と呼ばれ、『ねつ造』『改ざん』と並んで、重大な研究不正の一つとされている」。

 本書には盗用の例としてプーチン・ロシア大統領の学位論文の表紙の写真も掲載されている。この論文の第2章は「アメリカの経営学教科書からの盗用であることがアメリカのBrookings研究所の調査で明らかになった。プーチン自身は自分の学位論文を恥じていて、学位の話に触れるのを避けているという」。Brookingsはアメリカの著名なシンクタンクだ。この話はどれくらい知られているのだろうか。論文の表紙には彼の署名が入っている。今では盗用検出ソフトが普及し、「多くの大学では、盗用検出ソフトにより、学位論文や投稿論文の盗用を事前に検出している。学術論文誌の編集部も、論文の投稿があると盗用検出ソフトを用いてチェックしている。たとえば、ウィキペディアをコピペして論文を書けば、たちまち検出されるであろう」。

 次に紹介されているのが自己盗用だ。「自己盗用とは、自分の書いた過去の文章を再利用することである」。これには評者にも苦い経験がある。以前、別の報告書のエディターをしたとき、ある筆者が別の章に書いた文章の相当部分をそのまま「再利用」していた。これは膨大な量の報告書の校閲を依頼していた専門家が発見してくれた。もちろん、重複部分はすぐに全文、削除した。そのプロジェクトの中心になっていた有名大学の中堅研究者だったので非常に驚いた。

 第4章は「情報を探す、賢く使う」。情報の入手の仕方が具体的に紹介されている。「図書館に行く、書籍の購入、データベース、行政が発信するデータ」などだ。その次が「ウィキペディアを賢く使う」。書き換えが可能なウィキペディアの仕組みを説明したあと、賢い活用法として、最初の手がかりにする、ウィキペディアを引用しない、ウィキペディアのコピペをしない、引用文献を読む、英語版を見るなどの方法を勧めている。外国人の事績や科学的事象などを調べるとき、日本語版に比べて英語版の方がはるかに優れているのは事実だ。次に出てくるのは「スマホ脳」にならない。スマホは便利だが、それに頼りきりにならないということだろう。

 その次が「フェイク・ニュースに引っかからない」。筆者はまず情報源を確認するように勧める。発信源が確認できるのかどうか。「日本の公的機関、メディアの発表には情報源の記載のないものが大部分である。このため、情報源にさかのぼって、記事の真偽、詳細を確認できない。一方、欧米諸国の発表では、ほとんどの場合、情報源を明記、あるいは情報源URLにつながるようになっているため、信頼性が高い」。「SNSの発信する情報は、注意して扱う必要がある」といった注意喚起もある。

 「批判的に考える」ことの勧めも強調されている。「フェイク・ニュースに騙されないために、一番大事なのは『批判的に考えること』である」「新しい情報に出会ったら、次のような見地から、批判的に考える必要がある」。そのチェックリストが出ている。

・その情報に科学的根拠(エビデンス)があるか。
・実証された根拠があるか。
・理論的根拠があるか。
・ほかの考え方ができないか。
・単純すぎないか。
・正義に反していないか。
・情報源は信頼できるか。
・情報源をネットで調べられるか。
・情報源は公的機関か、個人か、それとも匿名か。
・情報は公開されているか。
・情報は審査のあるジャーナルに掲載されているか。

 最後は学術論文を意識したものだろう。それ以外も情報源をチェックするうえで大事なものばかりだ。最近、よく言われるエコーチャンバーに入らないというくだりもある。エコーチャンバーとは、閉鎖的なコミュニティのなかでコミュニケーションを繰り返すことにより、特定の考えが増幅される現象のことだ。同じような意見や考えかたをもった人の多いSNSのなかで起きやすいと言われている。

 評者が面白いと思ったのは「スマホだけでなくパソコンも使う」というパソコン利用の勧めだ。「スマホはいわば、持ち主に寄生した一人称的存在になっているため、依存しがちである」。パソコンの方がスマホより冷静に付き合えるという指摘だ。これは年代によって受け止め方の差が大きいかもしれない。そのあとは科学者らしく、「数字で考える」ことの大切さを強調する。確率や有意性の検討も勧めている。有意性というのは統計的に意味があるかどうかだ。ここではノーベル賞受賞者数とチョコレート年間消費量の関係という論文が批判的に引用されている。チョコレート消費量が多いほどノーベル賞受賞者数が多いという「大発見?」が存在する。そのグラフを見ると、北欧諸国がいずれも上位に来ているが、スウェーデンは受賞者の割に消費量が少ない。論文の著者は「チョコレートの消費の割にスウェーデンの受賞者が多いのは、自国に有利な選考をしているためだと主張している」。評者には、これは言いがかりとしか思えないのだが。

 第5章はプレゼンツールとして活用されているパワーポイント利用の勧め。筆者はパワポが登場し始めてから650以上のタイトルの資料をすべて自作した。「平均して10日に一つ、相当の時間をパワーポイントのスライドづくりにかけたことになる」「なぜ、自分自身でつくるのか。それは、最も有効な講演の準備になるからである。スライドをつくる過程で、自分の考えが整理されてくる。単純化する過程で大事なことのみが残ってくる。(中略)スライドつくりを終えた頃には、頭の中は整理され、原稿なしでもよどみなく話せるようになる」。だが、筆者は調子にのってパワポにスライドを詰め込むことは禁止する。スライド1枚を1分から1分半で説明し、10枚程度におさめるのが一番いいという。

 第6章からは英語での発信に関するものだ。英語を学ぶ、英語を読み、書き、話し、書く、英語でメールを書こうといった内容だ。評者もアメリカにいたときは毎日、苦手な英語のメールを読み書きしていたが、こうした本があれば助かったなという気がする。筆者は親切にも、さまざまなメールの書き出しや返事の書き出し、返事が遅れたときの文例なども紹介してくれる。必要な人には大いに役立つだろう。

 コロナ臨調報告書が2度も「悪文」の実例として取り上げられた評者に、本書の評価をする資格はないが、本書を読んで「天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさず」という老子の言葉を思い出した。「天道は厳正で悪事には必ず報いがくる」といった意味だろう。「悪事」を働いたとまでは思わないが、世の中にはそれぞれの仕事に厳しい目を光らせている人がいることは間違いない。

 ただもう一方で、評者が痛感したのは筆者のこの猛烈な知的エネルギーに向き合っていくのは容易なことではないということだ。大学で指導を受けた学部生や大学院生は論文の書き方だけでなく、テーマの選び方、実験の仕方、結果の評価などあらゆる面で、厳しい指導や叱責を受け続けたに違いない。それにしても1936年生まれの筆者のエネルギーには本当に驚嘆する。あとがきを読むと、本書のもとになったのは慶応大学理工学部の1年生に向けた「これから一生レポートを書き続ける君たちへ」という新入生向け講義だという。毎年4、5月の講義で、入学したての若い学生たちとの30分間の討論が大きな刺激になったそうだ。「慶応大学の講義経験から、新たな構想のもとに執筆したのが、本書である」。このブログを書いていて、ふと気づいたのは新聞記者経験30数年で海外にも2度勤務した評者も入社以来、文章術をきちんと教えてもらったことは一度もなかったことだ。取材の仕方や写真の撮り方といったノウハウは幾度も教わったが、一番の基本である文章の書き方の指導はなかった。先輩やデスク(次長)からのオン・ザ・ジョブ・トレーニング(実地訓練)で十分ということだったのだろうか。だが、それでは大きな限界がある。本書などを教材に、組織的、体系的で、丁寧な指導をすることが重要ではないだろうか。現在の新聞の文章を読んでいてもそう思う。文章を書くことに関心のある人すべてに広く勧められる内容だ。英語で文章を書く機会のある人は、是非第6~8章を読んで、自分の英語に磨きをかけてほしい。


















歴史のなかの地震・噴火 加納靖之ほか著 日本列島の地震・噴火の歴史から未来への教訓を探る

2021年10月22日 | 読書日記
歴史のなかの地震・噴火 加納靖之ほか著 歴史地震・噴火研究の現在と未来


 巨大地震、巨大噴火など日本列島は有史以来、さまざまな自然災害にさいなまれてきた。過去の地震、噴火の実態を探り、未来に役立てようよするのが歴史地震、噴火の研究だ。2011年3月11日に起きた東日本大震災を契機に過去の地震、噴火災害への関心は高まっている。本書は東大地震研究所、地震火山史料連携研究機構に所属する4人の研究者が研究の到達点を示したものだ。地震火山史料連携研究機構とは、東日本大震災を機に、歴史地震、噴火を文理融合の視点から調査・研究するため、2017年に東大に設置された組織だ。理系の地震研究所と文系の史料編纂所の研究者が協力して史料収集や、地震史料のデータベース化、歴史地震・噴火の研究を進めている。本書は2019年から東大教養学部で開講されている「歴史資料と地震・火山噴火」の講義の内容をまとめたものだ。
 
 10年前に起きた東日本大震災はマグニチュード9.0という日本列島周辺では最大の巨大地震だった。震度は震源に近い地域では7に達し、青森から宮城までの三陸海岸と福島、茨城、千葉の太平洋岸に大津波が押し寄せた。この津波で全電源が停止し、原子炉冷却が不可能になった福島第一原発の原子炉の炉心溶融と水素爆発、大規模な放射能漏れが地震、津波、原発事故の三重苦ともいえる巨大災害をもたらした。

 しかし、同様な大地震、大津波は平安時代の貞観(じょうがん)11(869)年に起き、「日本三代実録」という朝廷の正史に記述されている。評者は地震から10日ほど後、福島県南部から宮城県北部にかけての津波被災地と原発周辺を車で見て回った。宮城県多賀城市にある多賀城政庁跡に建つ「多賀城碑」を見ると感慨深いものがあった。当時の政庁の役人が京都の朝廷に大地震と大津波の発生を知らせ、1100年以上前に起きた惨害が発生日時も含めて正確に記録されたからだ。

 東日本大震災は気象庁によって「東北地方太平洋沖地震」と命名されている。東北地方沖合の日本海溝では、太平洋プレートが年間8㌢ほどの速さで日本列島の下に沈み込んでいる。蓄積されたひずみが一気に解放されることで大地震が発生する。国土地理院のGPS観測によると、この大地震に伴って太平洋側は最大5㍍東向きに動き、沿岸は最大1㍍沈降した。また海上保安庁や大学などの海底観測によると、震源の真上の海底は東南東方向に約24㍍移動し、最大約3㍍隆起した。さらに海洋研究開発機構による海底測深データの比較から、日本海溝は東向きに約50㍍移動したと推定されている。この海底の大変動が大津波の原因となった。津波の波高は海底や海岸の地形によって影響を受けるが、岩手県北部にある田野畑村島越地区では海抜20㍍の高さまで津波が這い上がった。それより南の石巻平野や仙台平野での波高は10㍍程度だったが平地のため海岸から約5キロの内陸まで津波が押し寄せた。「東北地方では、高さ10㍍以上の津波が400キロ以上にわたって沿岸を襲い、その浸水域は約560平方キロ」に達した。東京23区の面積は約620平方キロでその広さに匹敵する。「浸水域内の人口は約60万人であったが、このうち約1万8千人が犠牲となった」。昼間だったため、比較的避難しやすかったはずだ。「避難が困難な夜間に津波が発生していたら、犠牲者の数はもっと多かったかもしれない」。

 本書には読者の理解を助けるコラムが用意されている。「津波の発生・伝播と津波警報」のコラムでは、津波の伝わる速度について水深4000㍍の深海では、伝播速度は秒速200㍍、時速にすると約720キロとジェット機並みの速さで伝わる。水深が40㍍になると、伝播速度は秒速20㍍、時速72キロと自動車程度まで落ちる。一方で、津波の高さは水深が浅くなると高くなる。水深が100分の1になると津波の振幅は約3倍となる」。東日本大震災では地震発生3分後に気象庁が津波警報を発表したが、この時点では地震の大きさを示す「マグニチュードは7.9と過小評価された。このため、沿岸で予想された津波の高さも3~6㍍と低かった。沖合の波浪計で記録された津波データなどに基づいて津波の高さ予測を修正したが、停電の影響やすでに避難を開始していたことから、津波警報の更新情報は沿岸住民には完全には伝わらなかった」。これは重大な問題だと思う。技術的な困難は多いだろうが、津波警報はささやかにでも改善されたのだろうか?

 東日本大震災で改めて注目を集めた貞観地震だが、文字の記録に加えて津波の物的証拠も残されている。「津波が内陸まで浸水すると、海や海岸から砂が運ばれ、内陸で堆積する」。これが津波堆積物だ。津波堆積物の調査から貞観津波と東日本大震災の津波の浸水域は非常によく似ていることが明らかになった。宮城県岩沼市の遺跡の調査から貞観津波によると思われる堆積地層、そのうえに915年に起きたとみられる十和田噴火による火山灰、さらにその上に享徳年間(1454年)か慶長年間(1611)に起きたとみられる津波の堆積地層が見つかった。最上層が東日本大震災の津波の堆積物だ。十和田噴火は堆積物の調査から「明治の磐梯山噴火や大正の桜島噴火の噴出量をはるかにしのぐ、『日本史上最大級の噴火』といっていいだろう」。推定噴出量は6.5立方キロ㍍で磐梯山の噴火(1888年)の約4倍、富士山の宝永噴火(1707年)の約10倍だ。「現在の十和田湖は静かで美しい姿であるが、湖の一画には半島状になった火口の痕跡があり、ここがこの白い火山灰の噴出源であると考えられている」。

 次のコラムも興味深い。「京都や奈良を除く、地方社会での災害に関する史料は、鎌倉時代や室町時代よりも平安時代前期の9世紀の方が多い」。これはその時期に災害が多かったことを意味するわけではない。8世紀の初めに成立した律令制のもと、地方で起きた事件では、諸国の国司を通じて朝廷に報告することが定められていた。また朝廷では国家の正史を編纂する事業を行っていた」「しかし9世紀の終わりになると国家の正史は編纂されなくなり、さらに平安後期になると地方からの報告も朝廷にあがってこなくなる」。このため、「鎌倉~室町時代になると京都、奈良、鎌倉以外で体験された地震や噴火に関する情報は極端に少なく、平安前期の方がむしろ多いという」逆転現象が起きてしまった。

 十和田噴火の約50年前の貞観6(864)年には富士山の北側斜面で大きな割れ目噴火が起きた。貞観地震の5年前だ。この大噴火は大量の溶岩を流出し、「富士五湖」と「青木ヶ原樹海」を誕生させた。この噴火の様子も駿河と甲斐の国司から京都の朝廷に伝えられ、日本三代実録に記録された。それまでは「富士四湖」だったが、元あった湖が溶岩流で二分され、精進湖と西湖が誕生した。2003年に行われたボーリング調査では、噴火以前の湖底面は地表から約135㍍の深さで、その上が溶岩で覆われていた。溶岩流の量は過去3000年ほどの富士山の噴火では最大規模という。

 第二章は「南海トラフの地震」だ。「南海トラフは、駿河湾から紀伊半島沖、四国沖にかけて海底に存在する水深4千㍍程度の深い溝である。ここでは、海側のフィリピン海プレートが、その北側、すなわち陸側にあるユーラシアプレートの下に沈み込んでいる。このような沈み込むプレート境界では巨大地震が発生する」。ここでは白鳳(684年)、仁和(887年)、永長・康和(1096・1099年)。康安(1361年)、明応(1498年)、慶長(1605年)、宝永(1707年)、安政東海・南海(1854年)、昭和東南海・南海(1944・1946年)の地震が知られている。いずれも津波によっておびただしい犠牲者が出た。

 明応東海地震による津波の痕跡は東海道新幹線でも目にすることができる。東京から浜松を過ぎると浜名湖の南端を渡る。浜名湖と太平洋を結ぶ湖口部の水路は明応東海地震の津波によってできたものだ。一方、宝永4(1707)年10月に起きた宝永地震は東日本から西日本にかけて大きな被害をもたらした。南海トラフを震源とする地震と推定され、マグニチュード8.6の巨大地震だった。津波は伊豆半島から伊勢湾、紀伊半島、四国南岸、九州東岸に押し寄せている。幕府側用人の柳沢吉保の日記にも各地の大名や代官からの被害の報告が記されている。この地震の49日後には宝永の富士山噴火が起きている。貞観の噴火では北西斜面の割れ目からマグマが噴出したが、宝永噴火では南東斜面の火口から噴火で破砕されたマグマが高く噴き上げられ、偏西風で東に運ばれた。火山灰は約100キロ離れた江戸や房総半島に達し、富士山ろくの小山町須走は3㍍の高さまで砂礫が積もった。発掘調査では焼け焦げた家屋の柱も見つかっている。江戸の状況は新井白石の日記のほか、旗本・伊東祐賢の日記に記録されている。噴火は京にも伝えられた。公家の近衛基煕には、将軍家宣の正室だった娘・煕子からの江戸での降灰や鳴動の様子を伝えた記録が残っている。この噴火では、様子を伝える絵図も残されている。火山灰は関東一円に降り、約150キロ離れた下総国佐原村(千葉県香取市)では村の名主が採取した火山灰が残されていた。伊能忠敬の義理の祖父にあたる人物で、火山灰が紙包に包まれ、富士焼灰、焼砂と書かれ、採取した日付も記録されている。噴火の進行に伴い、灰の色は白から黒に変化したが、伊能家には両方が保存され、非常に貴重な記録になっている。当時の人々の知的好奇心の強さには驚かされる。古代から文字が広範に普及していたこともあって、こうしたかけがえのない記録が今に伝えられている。

 嘉永7(1854)年の地震は幕末のあわただしい時期に起きた。12月23、24日と2日続きで大地震が起き、マグニチュードはいずれも8.4と推定されている。この直後に安政に改元され、二つの地震は安政東海、安政南海地震と呼ばれている。この年はペリーの再来航(1月)に始まり、日米和親条約の締結(3月)など日本の大転換期だった。幕府はイギリスとも日英和親条約(8月)を結んでいる。さらにロシア使節も下田に来航し、地震発生当時、幕府はロシアと交渉中だった。安政東海地震では下田に大津波が押し寄せ、100人以上の犠牲者が出た。ロシア使節プチャーチンを乗せたディアナ号も津波被害を受けて大破した。修理のため伊豆半島西岸の戸田に向かったが、強風で漂流、大波で沈没したが、約500人の乗員はすべて救助された。

 第三章は「連動する内陸地震」。最近起きた熊本地震や阪神大震災(兵庫県南部地震)を取り上げている。熊本地震は2016年4月14日と16日に最大震度7を記録した。最初の震度7のあとに、さらにマグニチュードの大きな地震が発生したことでも注目を集めた。熊本県から大分県に向けて走る布田川断層と日奈久断層という二つの断層帯が地震を引き起こした。1995年に起きた阪神大震災は淡路島を南北に走る野島断層が地震を引き起こした。野島断層は六甲・淡路島断層帯の断層だ。本書はほかにも天正13(1586)年に起き、近畿地方に大きな被害をもたらした天正地震や伏見城の天守閣が倒壊した文禄畿内地震(1596年)、文禄豊後地震についても紹介している。文禄畿内地震は伏見城の被害が大きかったが、文献記録を見ると、京都の西側に被害が大きく、中心部や東側では比較的被害が少なかった。伏見城は東側に位置するが、近年の発掘調査で、このときは大がかりな土木工事が行われていたことがわかっている。造成地で地盤が弱かったことが大被害を出した原因らしい。

 第四章は「首都圏の地震」だ。江戸と東京で発生した江戸時代以降の大地震は元禄関東地震(1703年)、安政江戸地震(1855年)、大正関東地震(関東大震災、1923年)がある。このうち安政江戸地震はマグニチュード7クラスの関東直下型で、それ以外はマグニチュード8クラスのプレート境界地震と考えられている。関東地方の直下は東から太平洋プレート、南からフィリピン海プレートが沈み込む複雑な地形だ。「東京都から真下に掘削していくならば、最初に30キロ程度の深さでフィリピン海プレートの上面に到達し、次には80キロ程度で太平洋プレートの上面に達する。(中略)首都の地下に2枚のプレートが沈み込んでいる場所は世界中でも東京だけである」。

 関東大震災では10万5000人の犠牲者が出た。「犠牲者数からすると日本で最大の被害地震であった。江戸や東京で数日以下の短期間でこれほど多くの死者を生じたできごとは、明暦3年1月(1657年3月)の明暦大火と1945年3月の東京大空襲があり、ともに10万人近い死者を生じている」。死者のうち約7万人は東京、約3万人は神奈川で出た。だが、地震による最大震度の7を記録したのは小田原市から三浦半島にかけてと房総半島南部で、東京都内の震度は震度5から6程度でだった。「これらの死者の大部分はそれぞれ旧東京市、横浜市で発生した火災による焼死者であった。犠牲者の9割以上が地震によって発生した火災によるものであったことが、関東大震災の特徴である」。地震によって、「湘南海岸、三浦半島や房総半島の南端で最大2㍍近く隆起し、湘南海岸の山側で最大1㍍近く沈降した」。津波も起きた。「熱海や伊豆大島までは最大12㍍、房総半島南端の館山付近で最大9㍍の津波が報告されている」。東京のほか関東の広い範囲で液状化も起きた。埼玉県の中川低地(春日部市・越谷市など)では、古利根川や元荒川などの河川が形成した沖積低地において、地割れや噴砂が多く発生、激しい液状化により用水路が砂で埋まり、洪水が発生した」。

 関東直下型の安政江戸地震は最大震度6強と推定されている。建物の倒壊で、江戸では7000人を超える死者が出た。当時の江戸は百万人以上が暮らしていた。「青山、麻布、四谷、本郷、駒込などの台地より、埋立てによって造成された日比谷から丸の内周辺、本所、深川や、下谷、浅草など地盤の弱い低地での揺れは大きく、火事も発生して被害が拡大した。死者の多かった町では人家が立て込み、その日暮らしの者も多い借家人の割合が高かったことから、被害の階層性という問題も指摘されている」。安政江戸地震では島津家に伝わる「江戸大地震之図」など絵巻や絵図も残されている。このときは幕府が「御救小屋」という救援施設を設置、救援にあたった。

 日本の史料で明らかになった北米の地震もある。アメリカ西部のカリフォルニア州にあるサンアンドレアス断層は大地震を引き起こすが、この地域で記録が残るのは1850年頃から。先住民には、「昔、冬の夜に地震と洪水が発生した」という言い伝えがあった。津波堆積物の調査からこの地震は約300年前に起きたと考えられた。太平洋をはさんだ日本で津波被害を調査したところ、1700年1月27日の夜、岩手県から静岡県、和歌山県などの6か所で津波被害が観測されていることがわかった。「地震もないのに津波が来た」「津波による流出に加えて火事で焼失」などの記載があった。津波が伝わる時間を考慮すると、米西海岸時間の1700年1月26日午後9時ごろ、マグニチュード9クラスの巨大地震が発生していたと推定された。これは先住民の言い伝えや立ち枯れた巨木の年輪の調査の結果とも符合している。

 第五章は「歴史地震研究の歩みとこれから」。関東大震災の後、明治24(1891)年に起きた濃尾地震はマグニチュード8クラスという最大規模の内陸地震で7000人を超える死者が出た。この地震を機に政府に震災予防調査会が発足した。関東大震災の後、調査会は廃止され、東大に地震研究所が設立された。

 歴史地震学の成果として地震史料のデータベース化が進んでいる。2003年に始まった「『古代・中世』地震・噴火史料データベース」には416年から1607年2月までの約3000件の地震・火山噴火の史料が掲載され、2009年に一般公開された。引用する史料の信頼性も等級をつけて評価している。地震火山史料連携研究機構ではこの取り組みを引き継いで、近世史料のテキストデータベース化を進めている。さらに同機構では既刊の地震史料集に載っていない地震の記事の収集や調査にも取り組んでいる。こちらは比較的小さな地震に関する史料を集めるのが目的だ。

 評者は科学記者時代、地震や火山噴火の現場に多く足を運んだ。1995年の阪神大震災はワシントンで経験し、帰国した5月に神戸市内の被災状況を見た。三宮駅周辺で傾いたビルを見て愕然とした。米国滞在時にも1994年にロサンゼルス郊外で起きたノースリッジ地震の現場を見た。整然とした住宅街が街路の筋ごとに大被害とそれほどでもない被害の地域に分かれているのを見て複雑な気持ちになった。地下におわん状の硬い岩盤があり、地震波が集中して増幅された地上で大被害が出たようだ。1990年の雲仙普賢岳の噴火では2週間ほど現地で過ごしたが、普賢岳の前面に位置する前山を島原市内から見上げ、もし前山が崩壊すれば、とても助からないなと暗澹とした気分になった。「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれる1792年の災害では噴火に誘発されたとみられる地震で前山が崩壊し、有明海(島原湾)に山体が流れ込んで大津波が発生、長崎だけでなく、対岸の熊本と合わせて約1万5000人もの死者が出た。これは有史以来、日本列島最大の噴火災害だった。

 先月、東日本大震災で甚大な津波被害を受けた岩手県と宮城県を回った。岩手県田野畑村で泊まった宿は太平洋に面した景勝地に建つが、3階まで津波が押し寄せたという。三陸海岸を南下し、途中、陸前高田市で「奇跡の一本松」を見た。震災前は何万本もの松林だったのが一本だけ残った。映像では何度も見たが、実際の一本松は樹高20メートル以上もある立派な松だ。ただ松は塩害で立ち枯れ、今は保存措置がされ、記念碑のようになっている。近くの川のそばには津波で破壊されたユースホステルが無残な姿をさらしている。それを見て、福島県新地町の被災地で漁船が何隻も内陸の遠くまで津波に運ばれ、畑に横倒しになっているのに驚いたことを思い出した。宮城県北部にある北上川沿いの石巻市大川小学校では、海から5キロも川を遡上した大津波によって校庭に集合していた児童、教員80人以上が犠牲になった。校庭のすぐ裏には木の生い茂った小山がある。裏山に逃げれば助かったのでは、と無念に思った。だが評者も大津波が川や運河に沿って減衰せずに遡上し、内陸部に大被害をもたらすことは知らなかった。災害への無知は自分の命を脅かす。ブログを書いていた昨日(10月20日)も阿蘇山で大きな噴火があった。貞観時代のように富士山が大噴火すれば、火砕流や火山灰の被害はむろん、列島の交通が分断されるなど影響はさらに甚大になる。自然災害が頻発する日本列島に住むには地震や火山災害の知識が不可欠だと痛感した。本書を拾い読みするだけでも地震や火山の知識は大きく増える。一定の専門知識がないとやや理解しにくいところもあるが、多くの人に勧めたい良書だ。




 


















日韓関係史 木宮正史 こじれきった日韓関係は修復できるのか

2021年10月08日 | 読書日記
日韓関係史 木宮正史 日韓関係を振り返り多角的な分析から関係打開の道筋を探る


 日韓関係が最悪というべき相互不信の状態に陥っている。関係はなぜこれほどこじれてしまったのだろうか。その原因を歴史から振り返りつつ、打開の道を探ろうとするのが本書だ。筆者は東大大学院総合文化研究科教授。韓国の名門・高麗大学大学院政治外交学科博士課程を修了した知韓派だ。帯の写真は金大中大統領と小渕恵三首相が握手する場面。1998年10月の金大中大統領訪日時の日韓共同宣言発表時のものだ。この20年余りで、両国の関係はずいぶん後退した。評者は韓国に対して特別な感情を持っていない。米国には仕事で2度駐在し、韓国系の人とも知り合った。ニューヨークのマンハッタンにはコリアタウンがあり、レストランによく行った。だが、初めて韓国に行ったのは4年ほど前。釜山からソウルに抜け、その途中、名所旧跡を見るほか、おいしいものを食べるツアーだ。ここで韓国料理のおいしさを再発見したが、400年以上前の豊臣秀吉の朝鮮半島侵攻の傷跡の大きさにも触れた。文禄の役、慶長の役といわれる2度の侵攻は韓国では倭乱と呼ばれ、秀吉軍が破壊した寺や宮殿にはその歴史を証言する記録が残されている。今はユネスコの世界文化遺産に指定される旧跡も多いが、もし京都や奈良が異国軍に蹂躙されたらと思うと胸が痛んだ。

 序章「日韓関係の現状とそのダイナミズム」では現状が手短かに説明される。「日韓国交正常化から50年にあたる2015年末、懸案であった『慰安婦』問題に関する日韓政府間合意が発表されることで、関係改善の兆しが見えたかに思われた。しかし、この合意に関しては、被害者自身に何の了解もなく行われたということで、韓国の支援団体、そして韓国社会において、それを認めるよりも批判が高まった」「進歩リべラル派の文在寅政権は合意を破棄することはしなかったが、『合意では問題解決にはならない』ので合意を履行しようとはせす、合意に基づき創設された『和解・癒やし・財団』も解散された」「それに追い打ちをかけるように2018年10月30日、韓国大法院は、日本企業に元『徴用工』への損害賠償支払いを命じる確定判決を出した」「日本政府は(中略)日韓請求権協定に反する『国際法違反』だとして、判決への批判を強めており、もし現金化措置が実施され日本企業に被害が及ぶことになれば、それに対して報復する構えである」。

 1980年代から日韓関係を観察してきた筆者も、こここまで関係が悪化したことは記憶にないという。それを再考する必要に迫られたのが本書誕生のきっかけだ。筆者はその経過を多角的に考察する。近年の韓流ブームに見られる韓国発文化の急速な受容。「これほどまでに日本社会、さらには国際社会に受け入れられるようになったことは、率直に言って驚き以外の何ものでもない」。

 評者が新しい視点だと感じたのは日韓関係を二国間だけでなく、多角的に読み解こうとする姿勢だ。「日韓関係の相当部分は日米韓関係を構成する。したがって、対米関係の共有が日韓関係にどのような影響を及ぼしたのか、そしてそれが時期的にどのように変容してきたのかに焦点を当てることは、日韓関係の分析にとっては必須である」。筆者はさらに北朝鮮と中国の存在を指摘する。「韓国は南北分断体制下、北朝鮮に対する体制優位を求めることを外交目標として設定し、そのために日本の協力を必要とした。日本も、アジアにおける反共陣営を強化し、日本の安全保障を確実なものとするために韓国に協力してきた」。一方、中国は「北朝鮮を助けるために朝鮮戦争に参戦して国連軍と戦ったように、日韓にとって『敵性国家』であった。しかし、1972年には日中国交正常化、92年には中韓国交正常化によって、関係を深化することで、政治経済において重要なパートナーとなった。ところが、中国の大国化、そして米中関係が対立へと変化する中、日韓がそれにどのように対応するのかの選択を迫られている」。

 第一章は「日韓関係の『前史』ー1875~1945年」。19世紀後半、欧米列強はともにそれまで鎖国していた日本と朝鮮に開国を迫る。日本は1853年のペリー来航が契機となったが、「朝鮮の『開国』はそれより20年以上も遅れた1876年、しかも日本による開国要求を受け入れたものであった」「朝鮮の相対的に遅い開国は、弱い開国圧力と強い抵抗によって説明されるのである」。

 明治維新以降、日本では「日本の安全保障のためには、朝鮮半島に敵対的な勢力が影響力を持つことのないようにすることが重要であると認識した」。「朝鮮は中国、ロシアという大国と直接的に対面していたわけであり、その対応に関して日本の協力を得られるかどうかという点は死活的に重要であった。換言すれば、日本にとって朝鮮の存在それ自体が重要であったのに対して、朝鮮にとっては日本との協力の可否が重要であったと見ることができる」。その後、日本は日清戦争、日露戦争を戦い、ともに勝利または優位を確保した。その結果、日本は朝鮮に対する排他的影響力の確保を目指すことになった。しかし、これは朝鮮半島から見ると、「近代化を通した自立の可能性を摘み取った張本人が、まさに日本であった」「日本は元来、朝鮮に対する侵略欲を持っており、そうした欲望にしたがって計画的に朝鮮を侵略し支配下においたのだと解釈される」。「自国が追求した安全保障政策のやむを得ざる帰結であったとみなす日本は、その違法性如何といった問題意識を微塵も持たなかった」「それに対して、南北朝鮮から見ると、日本の植民地支配過程における道義に反する側面を問題視し、それを『違法性』として批判するのである」。

 第二章は「冷戦下における日韓関係の『誕生』ー1945~70年」。「日本の敗戦に伴って朝鮮は日本の支配から解放された。と言っても、朝鮮半島には約70万人の日本人が、さらには満州にはそれ以上の200万人弱の日本人が居住しており、そうした人の一部は陸路、朝鮮半島を通って日本への引き揚げを行った」「朝鮮人政府が成立して即時独立が達成されたわけではなかった。既に、連合国である米ソの間で朝鮮に関して北緯38度線を挟んで、以南を米国が、以北をソ連が、それぞれ分割占領することが合意されていたからであった」「1948年8月15日に大韓民国、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国という分断国家がそれぞれの占領地域に成立した」「その後1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発、日本は米軍を主軸とする国連軍の出撃基地、兵站基地となる中、51年に米国の仲介によって日韓国交正常化交渉が開始された」「北朝鮮における『親日派』の清算や土地改革などは、ソ連占領行政の支援も受け、それほど大きな摩擦もなく比較的順調に行われた」「韓国では、米軍政が自らの支配を効率的に行う目的で既存の政治経済エリートを利用しようとしたこともあり、政治経済エリートは、日本の植民地期と独立後とで相当程度の連続性を保つことになった。初代大統領になった李承晩は抗日独立運動の英雄であったが、それを支えていた主要な国内勢力は、植民地期における政治経済エリートであった」。

 「当初、米国の対アジア政策の主軸は、連合国の一員であった蒋介石国民党政府の『中華民国』になることが予定されていたが、日中戦争終結後の国共内戦の結果、国民党政府は敗北し、台湾に拠点を移した。そして、大陸では1949年10月に毛沢東率いる中国共産党が『中華人民共和国』を建国した。(中略)冷戦体制下、東西両陣営の対立が激化する中、米国の対アジア政策の中心は日本に移っていった」。

 「1950年6月25日、北朝鮮軍が北緯38度線を越えて南侵することで、朝鮮戦争が勃発した。(中略)スターリンが、自国の原爆開発と中華人民共和国の成立を契機に南侵のゴーサインを出したことで、金日成は念願であった南侵による朝鮮半島統一を実現しようとしたのである。(中略)毛沢東は中国軍の参戦を決断した」。その前年、1949年6月、米国は在韓米軍の撤退を発表していた。「米国としては李承晩政権が掲げる『北進統一』に『巻き込まれる』ことを回避するという思惑もあった。(中略)しかし、朝鮮戦争の勃発は、それまで曖昧であった韓国防衛に対する米国の関与を明確なものにした。(中略)この戦争遂行のために占領下の日本を出撃基地として利用するのみならず、日本は国連軍の戦争遂行に必要な物資を生産する兵站基地にもなった。太平洋戦争に際して『戦争国家』であった日本は、敗戦を契機に、戦後、日本国憲法下で『平和国家』として再出発することになったが、結局、朝鮮戦争によって『基地国家』になったのである」。

 米国にとっても日韓関係を正常化させ、経済協力を促進することが重要になった。1952年には国交正常化のための日韓会談が始まる。ただ両国の思惑は隔たっていた。日本にとっては戦後も朝鮮半島に戻らず、日本にとどまった在日コリアンの処遇や日本漁船を締め出すために一方的に日本海に引かれた「李承晩ライン」の扱いが重要だった。一方、韓国にとっては「過去の共有された歴史を清算し、脱植民地化を事実としてのみならず法的にも完成させる必要があった」「朝鮮戦争に伴って、反共陣営の軍事力を強化するためにも、米国は、日本を徹底的に『非軍事化』させるという目的を放棄した。日本の保守政権もそれに呼応、(中略)『再軍備』へと舵を切った」。

 「朝鮮戦争の真っ最中に日韓会談は開始されたのである。ただし、全く白紙の状態から交渉が開始されたわけではなかった。なぜならば、第二次世界大戦を終結させるために、戦勝連合国と敗戦国日本との間で締結されたサンフランシスコ平和条約が、日韓会談の枠組みをあらかじめ設定したからである」。サンフランシスコ講和会議に韓国は招聘されていない。署名国でもない。そうした事情が日韓会談にも複雑な影を落とす。課題は多岐にわたったが、「対日請求権」と文化財返還が大きなテーマになった。「対日請求権」は「日本の政府や個人が植民地朝鮮から『強制的に』移転した経済的価値の内訳とその総額を金銭的に評価したうえで、原状回復としてその返還を求めることであった」「もう一つ日韓間の争点となったのが、1910年の『併合』に至る過程の法的性格であった」。日本は「事実として『併合』が行われただけに法的にも成立していたとみなした」。韓国は「『併合』は違法なものであり、したがって、支配自体も違法状態がずっと続いていただけだと見た」。

 評者が意外に思ったのは岸信介政権の登場が会談に微妙な影響を与えたことだ。1957年に登場した岸政権は米国のアイゼンハワー政権の仲介を受けて日韓会談再開にこぎつけたが、「在日朝鮮人」の北朝鮮への帰還事業の開始によって、日韓対立が再燃した。帰還事業に李承晩政権は猛反対するが、岸政権は推進を表明した。帰還事業は、「在日朝鮮人」自身の意思による帰国運動、韓国に対する北朝鮮の体制優位を示したいという北朝鮮の思惑、日本国内において左翼の支持基盤にもなっている「『在日朝鮮人』を本人の希望に沿う形で日本から『出て行ってもらおう』とする日本政府の思惑」(中略)などが複雑に作用した」。

 日韓交渉は1965年になってようやく妥結し、国交正常化が実現する。筆者は60年代に入り、日米韓すべてで政権交代によって新政権が登場したことが影響したとみる。韓国では李承晩政権が打倒され、61年には朴正熙を中心とする軍事クーデターによる政権が誕生した。日本では60年の安保改定による混乱のあと、池田勇人政権が誕生する。61年には米国でもケネディ政権が登場、6月の日米首脳会談では日韓国交正常化を早期に妥結することで合意した。同じ年、朴正熙は訪日後に訪米し、「植民地支配に起因して韓国から日本に移転させられた経済的価値を、法的根拠があるものにかぎって日本が韓国に支払うという基本線で合意した」。62年11月には、「無償3億ドルを供与、低金利の公共借款2億ドルを貸し付け、民間投資を1億ドル以上行うことに合意した」。その後、民間投資は5年間で3億ドル以上行うよう変更された。

 65年、日韓請求権協定で、請求権問題は「完全かつ最終的に解決した」と合意した。「しかし、未解決のまま棚上げにされた問題もあった。その代表的なものは領土問題である。竹島について、日本は「竹島は日本固有の領土」と主張したが、韓国は「韓国固有の領土を日本は不法に占拠しただけ」と解釈した。米国はどちらにも肩入れせず、日韓の間に領土問題が残った。こう見てくると、日韓間に横たわる懸案は国交正常化段階での処理が明確でなかったために起きたことがわかる。敗戦国日本を占領統治し、韓国をも支配下においた米国も紛糾しそうな課題はその処理を放置した。

 第三章は「冷戦の変容と非対称的で相互補完的な日韓関係ー1970年代・80年代」。この時期の最大の出来事は米中和解と日中国交正常化だ。朝鮮戦争で激しく戦った米中が中ソ対立や米国のベトナム戦争敗北という国際情勢の変化を受けて和解に向けて舵を切った。72年9月には日中国交正常化が実現する。朝鮮半島でも大きなうねりがあった。79年10月には軍事独裁体制を率いていた朴正熙が部下に暗殺される。次の政権は光州民主化を弾圧した全斗カン政権だ。日本は鈴木善幸政権。81年には米国でレーガン政権が誕生する。レーガン政権は内乱陰謀罪で死刑判決を受けていた金大中の死刑執行停止と全大統領の国賓訪米をセットにして韓国との関係修復を図る。87年6月には韓国で大統領直接選挙と基本的人権尊重を盛り込んだ民主的な憲法が成立、12月に大統領選が実施される。88年にはソウル・オリンピックが開催された。

 第四章は「冷戦の終焉と対称的な日韓関係の到来ー1990年代・2000年代」。筆者は「第二次世界大戦終結後、75年以上を経過する日韓関係の変化を一言で表現すると、それは『非対称から対称へ』という変化」と総括する。第一が国力の均衡化。1970年の時点で日本の一人当たりGDPは韓国の7倍だったが、2018年には1.3倍に。第二は」体制価値観の均質化。「1980年代までは、日本は先進資本主義国であり民主主義体制であったが、韓国は開発途上国であり権威主義体制であった。ところが、それ以後は、日韓共に、先進資本主義市場経済と民主主義体制を共有するようになった」「しかし、その後の展開を見ると、日韓両社会で受け入れられる価値観の解釈が完全に一致しているわけではなさそうである」「同じ『正義』という価値観に関しても、日本では『約束や合意を守る』というような『手続き的正義』が相対的に重視されるのに対して、韓国では『弱者、被害者も含めた関係当事者が納得し、その同意を得たという意味で正義に適うものである』というような『実質的正義』が相対的に重視される」。第三に挙げられるのが日韓関係の「多層化・多様化」。「1980年代までの日韓関係は、政府間関係と経済関係だけにほぼ集約されていた。しかし、90年代以後は、中央政府間の外交関係のみならず、地方自治体間の交流も活発になり、(中略)市民社会の交流も盛んになった」。第四に、日韓関係の「双方向化」。「1980年代まで、韓国の対日関心は高かったのに対して、日本の対韓関心は低かった。(中略)日本への反感を持つ人は多かったが、何よりも経済的に日本は米国に次ぐ重要な国であった。(中略)関心、情報、その他の価値なども、日本から韓国へという一方向の流れが支配的であった。しかし、1990年代に入ると、そうした一方向だけの関係から双方向への関係へと変容してきた」。筆者は、1990年代以降の日韓関係のキーワードは「競争」だと指摘する。「質的にも量的にもわずかな差しかない『対称化』する状況の中、相手よりも少しでも優位に立とうとする『競争』である」「問題は、そうした『競争』が『対立』にまでエスカレートするのは必然的ではないにもかかわらず、日韓関係の現状はそうした対立関係に陥りやすいことである」。

 第五章は「対称的で相互競争的な日韓関係へー2010年代」。日韓の対称化がさらに進み、中国の大国化が顕著になった。第一節は「歴史問題の『拡大再生産』ー『慰安婦』問題と『徴用工』問題」。「双方の政府や社会において、妥協路線よりも非妥協的な強硬路線が優位を占めるようになり、対立がエスカレートすることになる」。ここで筆者は「異なる歴史観を分有する国家間の対話において『何を言い合ってもいい』ということにはならないだろう。むしろ、『互いに相手を尊重しながら、相手の欠点を正す』ことこそが、本物の友人ではないかと思う」と指摘する。

 筆者は、日韓関係を一層険しいものにしている「慰安婦」や「徴用工」問題にも言及する。互いに強硬な世論を背景にするだけに急激な進展は望みにくい。「冷戦期には、歴史問題があったとしても、日韓は『いずれにしても安全保障上、協力しなければならないのだから』、しかも『経済協力という手段をうまく使うことによって協力できるのだから』、こうした論理に基づいて対立の激化を封じ込めることができた」「歴史問題をめぐる対立が、経済領域、安全保障領域における対立、緊張に拡散するという兆候を示し始めているのである」。

 終章は「日韓の『善意の競争』は可能か?』」。筆者は、日韓双方の関係の進化の必要性を説く。「現在の日韓両政府、社会の対応を見ると、非対称から対称へという変化に、十分に適応できていない点を指摘することができる。非対称な関係に基づく日韓関係の下で形成された日韓両政府と社会の思考や行動様式と、対称化された関係に基づく思考や行動様式とが混在することで、相互に、関係強化の責任を相手にだけ負わせることで自ら進んで妥協のイニシアティブを取ろうとはしないのである」「まずは、日韓関係が対称関係になっていることを双方が十分に考慮することで、歴史問題という非対称な関係時に形成されたアイデンティティをめぐる葛藤を、現在の時点の価値観や規範意識に照らし合わせ、お互いの考えの違いを接近させていくという不断の努力が要請される」。

 日韓関係に疎い評者は、本書に教えられるところが多かった。この間の出来事の大部分を知っているはずなのに、多くを忘れていることを恥じるしかない。日韓関係に関心がある人も、それほど関心のない人も、広く読むべき書物だと思う。本書を丁寧に読みこんだうえで、複眼的で冷静な議論と思考を通じ、両国関係が少しでも好転することを強く望みたい。


















.