ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

アフガニスタンの診療所から 中村 哲 凶弾に倒れた中村哲医師の思いとその無念

2020年03月30日 | 読書日記
アフガニスタンの診療所から 中村 哲 中村医師の旧著復刊に込められたその思い



 昨年(2019年)12月4日、アフガニスタン・ジャララバードで凶弾に倒れ、73歳の生涯を閉じた中村哲医師の旧著の復刊。こうした事件に遭遇すると、自分の無知を思い知らされる。中村医師がハンセン病(本書は「らい」と表記する)治療のためパキスタンに入り、さらに隣国アフガニスタンに移って、治療だけでは人々を助けることは不可能と知り、井戸を掘り、荒れ地を耕地に変えようと自らブルドーザーを運転していたことは知っていた。200頁ほどの小著だが、われわれが知らないアフガニスタンの状況がわかりやすく紹介されている。ペシャワールは中村さんが最初に医療支援活動の拠点をつくったパキスタン北西部の都市。このあたりは高地で、カイバル峠(1070㍍)を越えるとアフガニスタンに抜けることができる。

 1979年12月のソ連軍の侵攻以来、アフガニスタンはソ連軍と激しく抵抗するゲリラとの戦いの舞台となった。侵攻と同時に峠は閉鎖され、大量の難民がパキスタンに避難した。1992年6月、中村医師らペシャワール会一行は同会による「アフガニスタン復興のための農村医療計画」の進捗を見るため、アフガニスタンに入った。避難民帰還と一緒だった。

 「この大移動が、国連や欧米難民援助団体をあざわらうように、その『帰還救援活動』が停止した直後に生じたのだから、まったくの皮肉といわねばならない。(中略)外部の者が手をだせばだすほど、『難民帰還』が困難となり、泥沼の混乱を生じてひきあげざるをえなかったからだ。もはやだれも国連を信じなかった」。激しい表現だが、これが事実だろう。十数年の内乱で、アフガニスタンでは百数十万人の死者と600万人の難民が生まれた。

 中村医師はメディアへの強い不信も記す。「1988年のジュネーブで調印されたアフガン和平協定の時も、今にも難民帰還が実現するようなあやまった報道で世界がわきかえったではないか」「しかしその後も米ソの武器援助は続き、混乱はさらに拡大した。(中略)莫大な金を浪費した国連主導の『難民帰還計画』もまた、山師的なプロジェクトの横行と金による民心の荒廃のあげく、事実上終息した」「世界の報道機関はうわべの政治的動きにまどわされ、カブール以外の全地域で展開している大きな平和へのうねりを伝えることができなかった」。内容は大筋で、事実に違いないのだろう。欧米やアジアの主要国以外では、言葉の壁もあって取材の振れ幅が大きく、事実認識を大きく誤まることも少なくないからだ。

 次の章は「縁(えにし)--アフガニスタンとのかかわり」。「私を最初にこの地と結びつけたのは、雄大なカラコルムの自然と私の好きな蝶であった。何もはじめから『海外医療協力』などという大仰な考えがあったわけではない」。1978年6月、中村医師は山岳会の一員としてこの地に入る。ヒンズークッシュ山脈の最高峰ティリチ・ミール(7708㍍)に登頂するためだった。入山する際、「連邦政府の観光省から住民の診療拒否をしないよう申しわたされていたので、道々、病人たちを診ながらキャラバンを続けていた。進むほど患者たちの群れはふえたが、とてもまともな診療はできなかった」「みちすがら、一目で病人とわかる村人に『待ってください』と追いすがられながらも見捨てざるを得なかった。(中略)職業人としてこれは深い傷になって残った」。

 「その後なぜだかわからない。私はつかれたように機会をみつけては現地をおとずれた」。79年12月には夫人とともにペシャワールからカイバル峠を訪れている。その直後、ソ連軍の侵攻が始まって峠は閉鎖される。このころサウジアラビアにあるイスラム教の聖地メッカのカーバ神殿占拠事件があり、CIA謀略説が流れ、欧米人が拉致された。このころ、「(夫人が)『まさかこんな所で生活をすることはないでしょうね。おもしろそうな所だけど……』。私も『何をバカな』と打ち消して笑った。うそではなかった」。夫婦仲のよさを物語るエピソードだと思うが、このとき夫人には本心を明かさなかったようだ。

 「この三年後、ペシャワール・ミッション病院の院長が、ふとした思いつきで日本に立ちより、ある海外協力団体に日本人医師派遣を要請することなど知る由もなかった」。これがペシャワールとの偶然の縁(えにし)だった。「1983年9月に私は家族を引き連れて英国の熱帯医学校に留学し、1984年5月、パキスタン北西辺境州の『らい根絶計画』に民間側から側面援助をうちこむために、ペシャワールに着任した」「当地への赴任は最初にヒンズークッシュ山脈を訪れたときのひとつの衝撃の帰結であり、あまりの不平等という不条理にたいする復讐でもあった」。

 アフガニスタンに関するわかりやすい説明もある。われわれの世界観がヨーロッパからの借り物だと指摘したうえで、「アジア世界では日本や韓国など、単一の言語で比較的等質化された人びとをまとめうる国家は例外中の例外である」「西欧型近代国家は、まさに明瞭な国境・領土と国民の均質化を要求するという点で、『非アジア的』であり、その国家観でアジア諸国を論ずるのがそもそも無理なのである。理解しにくい中近東の複雑なもめごとも、これを『国家』とみるからこそわけがわからない」。

 次節の表現には少なからず驚いた。「アフガニスタンのどまん中をつきぬける巨大な山脈、『ヒンズークッシュ』という名は、『インド人殺し』という物騒な意味である。近代になって英国とロシアの抗争の舞台となるまで、インド亜大陸の住民にとって『アフガニスタン』は、そこからつねに征服者と略奪者がたち現れる、恐怖と未知の世界だった」「アフガニスタンは、ペルシア世界とインド世界が中央アジアでおりかさなる地域であり、独特の世界を現出している。(中略)アフガニスタン一帯こそ、昔は世界の主要交通路であり、海路が主力にかわる18世紀まで、もっとも繁栄をほこる世界貿易の要衝だったのである」「民族的には、スレイマン山脈を根城にするパシュトゥン部族が支配的民族で、母語はパシュトゥ語である。国際語として通用力のあるのはペルシア語で、北西辺境州ではパキスタンの国語であるウルドゥ語と拮抗している」。山岳地帯の少数民族を入れると、民族の数は30以上にのぼる。「住民の99パーセント以上がイスラム教徒で、『イスラム』はこの複雑な民族構成をまとめるきずなとして重要な役割をはたしている」「私をひきつけるアフガニスタンの魅力のひとつは、その壮大な多様性にある。歴史的な重層性は古代から現代にまでおよび、民族集団も全ユーラシアの種族を網羅する」。

 次の説明が評者の腑に落ちた。「現在のパキスタン北西辺境州とアフガニスタンとの国境線はデュランド・ラインとよばれ、1893年、英国とロシアの対立のはざまで住民の都合を無視してひかれたいわば暫定的な軍事境界線である。当時インド防衛を至上命題とする英国は、南下してくるロシアに対抗するためさかんにアフガニスタン征服をくわだてたが、パシュトゥン諸部族の抵抗で敗退した。(中略)いっぽうロシアもまた、積極的な南下政策で(中略)アフガニスタンにせまったが、トルコ系諸部族のはげしい抵抗でアム川をこえることができなかった。そこで英露の間でアフガニスタンを緩衝地帯とする機運がたかまり、かってな国境画定作業が地元民を無視して次つぎと行われた」。

 ここで、「らい根絶計画」が紹介される。「1982年12月、私の初期の派遣団体であったJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)の意をくんで、ペシャワール・ミッション病院を視察したことがある」。病院側は外科医や内科医派遣を希望したが、「私の目をひいたのは、病院の片隅におかれている貧弱な20床のらい病棟だった」「内科や外科ならば(中略)多くの医師が現地にはいる。しかし、らいとなれば、パキスタン全土で数万の患者をかかえながら全国で専従医師五名、うち外国人医師三名という状態で、当時北西辺境州には皆無であった」。

 「『らい』とは結核に似た好酸菌、らい菌による慢性の細菌感染症である。(中略)古来から特殊な差別・偏見の対象とされた病気である。最近ではその差別的なイメージをきらい、とくに報道関係者の間では発見者の名を冠する『ハンセン病』のよび名が用いられるが、『らい』という正式の医学名を用いることにしよう。差別の根底にふれずに、代用語でうわべをとりつくろうのはよくない風潮である」。評者も現役時代、「狂牛病」をBSE、「精神分裂病」を統合失調症と言い換えることを決めた経験がある。本質が変わらないのはそのとおりだが。

 「らい菌はおもに皮膚と末梢神経をおかす。それゆえ、さまざまの皮膚症状と感覚障害、時に運動麻痺が主症状となる。(中略)温痛覚が失われると火傷や怪我をしてもわからない。足の裏には足底穿孔症という、いわば足に穴があくやっかいな合併症も生じる」「らい菌にたいしては現在では治療薬が開発され、早期に治療を始めればほぼ完治する。しかしいったん生じた神経障害は回復しにくく、機能回復のためのリハビリテーションや手術が行われる」。日本では患者はほとんどみられないが、WHOの1990年の発表では推定患者数1150万人。「多発地帯は発展途上国に集中している。本病は気候ではなく貧困と比例する」。

 中村さんは、らいセンターの充実に着手する。その奮闘は大変なものだったはずだが、記述は良質なノンフィクションになっていて、治療に献身しながらも、医師としての醒めた目が光っている。仕事は医療にとどまらない。「そのひとつに足底穿孔症対策があった。これはきわめてありふれたらいの合併症で、日本では『うらきず』の呼称で関係者によく知られている。これがなかなかの難物で、病棟の仕事の半分以上はこの『うらきず』との戦いに明け暮れたといってよい」。問題は治った患者が数か月後にまた、舞い戻ってくることだった。

 そこで中村さんは患者のサンダルに着目する。「たいていは固い革に釘をふんだんにうちこんで修理を重ねたサンダルをはいており、ひどい代物であった」。だが、貧しい住民には買い替えることもできない。先行して支援していたグループは問題を把握し、技術的に完ぺきなものを作り上げていた。だが、そうしたサンダルは普及しない。「理由はきわめて明解であった。主な理由は、彼らペシャワールの住民とパシュトゥン部族は強い伝統指向があって、地元スタイルのサンダル以外のものを受けつけないことである」「靴屋のバザールをうろついて地元のサンダルを次つぎと買いこみ、自分ではいてまわって分解し、快適さ、工夫の余地、耐久性、革の質、素材、コストその他を調べた」「こうして得た結論はすばらしいものだった。パシュトゥンの伝統的スタイルのサンダルは、丈夫でやわらかい革を選び、釘を使用せず、足底に接する面にラバー・スポンジをおけば、そのまま立派なうらきず予防用のサンダルとなる」「一足につき4~500円程度の材料のみを我われが現物寄付し、患者には200円程度の値段で売り、この売上をワークショップで働く者に労賃としてあたえることにした」。

 この後、中村さんはアフガニスタンでの診療所の設置に現地スタッフとともに精力的に取り組んでいく。現地代表として活動したペシャワール会についても、終わりの方で触れられている。正式発足したのは1983年9月だ。「30名前後の事務局員が、それぞれ自分の職業をもちながらも週に一度集まって膨大な量の事務をこなしているようすを見る者は、その熱気におどろく」。1980年代後半からブームのように日本で多くのNGOが立ち上げられてきたが、中村さんはこうした動きとは一線を画していた。

 「一般に日本のNGOは、欧米のそれに比べて歴史の浅いせいか、日本での対内宣伝が派手なわりにかんじんの現地活動の中身が少なく、サロン的な色彩が強いことが多いものである」「ペシャワール会が堅持したのは、あくまで現地を中心に活動を展開することであって、『国内活動は現地活動に従属する』とわざわざのべるのはこのためである」「外国人のおちいりやすい過ちは、理念にしろ事業にしろ、自国で説得力のあるものを作成して、現地とかかわろうとすることである。(中略)それは現地でほんとうに役立つよう修正されねばならない。そうでなければ、現地活動が外国人を満足させるために存在するという本末転倒になってしまう」。

 中村さんは皮肉屋であるらしく、こうした一節もある。「会の理念などをたずねられることがあるが、冗談の通じる者にたいしては、私は『無思想・無節操・無駄』の三無主義である、と答えて人をケムにまく」「『無思想』とは、特別な考えや立場、思想信条、理論にとらわれないことであり、どだい人間の思想などタカが知れているという、我われの現地体験から生まれた諦観に基づいている」「第二の『無節操』とは、だれからも募金をとることである。(中略)年金ぐらしの人の1000円も、大口寄付の数百万円も、等価のものとして一様に感謝してお金をいただくことにしている」「第三の『無駄』とは、あとで『無駄なことをした』と失敗を率直にいえないところに成功も生まれないということである」「この不器用なぼくとつさは、事実さえ商品に仕立てるジャーナリストからもしばしばけむたがられた。だが、こうしてこそ、我われは現地活動の初志を見失うことなく活動を継続できたのである」。

 最終章では、「1990年5月、子どもの教育問題にいきづまった私は、七年間のペシャワールでの家族生活に別れを告げた。仕事は軌道にのりはじめたばかりであったが、まずは家族を日本で安定させ、長期の継続態勢をしかねばならなくなった。(中略)家族とともにいったん帰国し、しばらくは『日本適応』にいそがしい毎日がつづいた」。あわただしさと拝金主義に明け暮れる日本への批判は実に厳しいが、これは関心のある読者に任せよう。それにしてもペシャワールに家族を帯同されていたとは驚いた。

 あとがきに、「私は一介の臨床医で、もの書きでも学者でもありません。ただ、生身の人間とのふれあいを日常とする医師という立場上、新聞などでは伝わらぬ底辺の人びとの実情の一端を紹介することができるだけです。時に『極論』ととられたりすることもありますが、これは私自身が現地に長くいすぎて、西欧化した日本の人びとと距離を生じているせいかもしれません」「とくに国連の評価などは、日本と現地とでは180度異なっています。ただ私が意図したのは、国連やODA(政府開発援助)をこきおろしたり、ジャーナリズムや流行の尻馬に乗って国際貢献を議論することではありません。(中略)日本列島のミニ世界だけで通用する安易な常識を転覆し、自分たちだけ納得する議論や考えに水を差し、広くアジア世界を視野に入れたものの見方を提供することです」。これは1992年8月に書かれた。

 2004年10月付けの「文庫版あとがき」では、2001年9月の米国での同時多発テロ多発事件に触れ、「しかし、アフガン民衆を苦しめたのは、決して国際政治ばかりではなかったことを強調しておきたい。その元凶は、世紀の大旱魃であった。元来アフガニスタンの8割が農民、1割が遊牧民といわれる。乾燥した中央アジアに位置する同国で、2000万人もの生存を可能にしてきたのは同国の大部分を占める険峻な大山脈、ヒンズークッシュの白雪で、夏にとけ出すことで川沿いに沃野を提供してきた」「ところが、温暖化によって、年々この雪が減少、全土で砂漠化が進みつつあった」「私たちは、東部の限局された地域ではあったが、全力を傾けて飲料水源と灌漑用水の確保を開始した。その努力は継続され、2004年10月現在、飲料水源(井戸)は1300か所を超え、(中略)数十万の流民化を防止する事業となった。しかし、国際社会の関心は、政治問題に終始した。旱魃のアフガニスタンにやって来たのは2001年1月、国際救援ではなく国連制裁であった。100万人が餓死に直面するなか、国連制裁発動の初期、『食料制裁』まで含まれたのは忘れがたい」。中村さんの悲憤が聞こえる。

 「今、内外を見渡すと、信ずべき既成の『正義』や『進歩』に対する信頼が失われ、出口のない閉塞感や絶望に覆われているようにも思える。10年前、漠然と予感していた『世界的破局の始まり』が現実のものとして感ぜられ、一つの時代の終焉の時を、わたしたちは生きているように思えてならない」。15年以上前に書かれたものとはまったく思えない。今、あらためて多くの人に読まれるべき書物だ。中村医師の冥福を心よりお祈りしたい。

 



 

 
 

 















 
 

 



 


 





 

 

 



 




 



 


 
 






  






 






「家族の幸せ」の経済学 山口慎太郎 若手経済学者が確かなデータで分析する「家族の幸せ」

2020年03月22日 | 読書日記
「家族の幸せ」の経済学 山口慎太郎 経済学者が解き明かした家族に関する「常識」の正しさ



 ありそうでなかった一冊だと思う。山口慎太郎氏は東大経済学部・政策評価研究教育センター教授。1999年に慶應義塾大学を卒業しているから40代前半の経済学者だろう。アメリカ・ウィスコンシン大で経済学の学位をとり、カナダ・マクマスター大で准教授を務めた。

 2019年7月の初版だが、評者は新聞や雑誌の書評で知った。まえがきに、「経済学というとお金にまつわる学問だから、結婚、出産、子育てはもとより、『家族の幸せ』などとは関係ないのではないかと思われるかもしれませんが、決してそんなことはありません。経済学は、人々がなぜ・どのように意思決定し、行動に移すのかについて考える学問ですから、そこで得られた知識を活かすことで、家族の幸せにより近づくことができるのです」(太字は原文)。

 第1章は「結婚の経済学」。50歳時での男女の未婚率をつい最近まで生涯未婚率と呼んでいたという。「戦後間もない1950年の50歳時未婚率はわずか1.5パーセントですから、当時はほとんどすべての人が結婚していました」。男性は1990年頃から急速に上がり始め、2010年には20パーセントあまり、女性は2000年頃までは緩やかに上昇し、2010年には10パーセントほどに達している。「現代では、男性の5人に1人、女性の10人に1人は50歳時点で未婚ですから、たしかに非婚化が進んでいると言っていいでしょう。ちなみに50歳時未婚率で男女に大きな差があるのは、男性のほうが再婚する人が多いためです」。厚生労働省の「第15回(2015年)出生動向基本調査」によると、「再婚男性と初婚女性」の組み合わせは「再婚女性と初婚男性」の組み合わせの1.7倍にのぼる。「男性は、自分の相手には結婚歴がなく、自分よりも若い女性を好む傾向がある一方、女性は相手の結婚歴や年齢をそれほど気にしないといった理由がこの背景として考えられます」。これは非常に常識的な推論だ。本書には「常識」をデータで裏付ける手法が徹底され、通奏低音になっている。

 次に初婚年齢の上昇が登場する。「1950年には、女性の平均初婚年齢が23.0歳で、男性は、25.9歳でした。そこから次第に上昇し、2009年には、女性28.6歳、男性30.4歳へと、男女とも4歳以上、大幅に晩婚化が進んだことがわかります」。なぜ、非婚化、晩婚化が急速に進んだのだろうか。著者はそれを「人々は結婚に何を求めているのか、結婚にはどんなメリット、デメリットがあるのか」をもとに分析する。政府の「出生動向基本調査」(2015年)によると、「結婚相手には『家事・育児の能力』を重視すると答えた男性は5割近くいる一方、相手の『経済力』を重視すると答えた女性は4割近くに上ります」。その一方で、「結婚相手の『家事・育児の能力』を重視すると答えた女性は6割近くに上り「さらに、自分の仕事を理解してくれることを重視すると答えた女性は5割近く」いた。

 ここまでは公的な調査の結果に基づいている。評者が興味深く感じたのは著者が公的調査だけでなく、最新の海外の民間調査のデータも使って分析を進めていることだ。もちろん、調査の質に関する慎重な検討は欠かせないはずだ。最近の経済学では、「普段はなかなか明らかにならない、恋愛と結婚に関する人々の本音」を知るため、「インターネット上で出会いの場を提供する『マッチングサイト』に注目する」。日本ではいまだに援助交際の温床といった偏見があるかもしれないが、アメリカやカナダでは偏見なく利用されているという。

 アメリカなどのマッチングサイトでは、「利用者は年齢、人種、学歴、結婚歴、収入、身長、体重などを登録し、自分の写真もアップロードします」。ただしこれはすべて自己申告だ。サバを読んだり嘘をつく人も出てくるはずだが、「会ってすぐにバレるような極端な嘘をつくことはないようです」。体重を少なめにしたり、身長を少し高くしたり、年齢を少しサバ読みするような「小さな嘘」はよくあるそうだ。アメリカのあるサイトによると、年収10万ドル(約1000万円)を自称する人の数は、実際の人数の4倍にも上る」という。

 「マッチングサイトでは、利用者のサイト上での行動がすべてデータ化されています」。誰が誰のプロフィールを見たのか、誰に「いいね!」やメッセージを送ったのか、実際にデートに至ったかどうかまで把握されている。もちろん個人のプライバシーはしっかり保護されている。こうしたデータの分析から、「やはり、容姿は重要な要素で、見た目のいい人ほど多くの人に好まれます。背の高い男性は女性から好まれる一方、背の高い女性は男性からは不人気のようです」「収入は、男女とも高いほうが人気を集めますが、女性の方が相手の収入を重視する傾向が強いようです。学歴については、男女とも自分と近い人を好むのが一般的であるものの、女性は男性により学歴を求め、男性は学歴のある女性を避けるような傾向も見られます」「おそらく、ほとんどの人にとって、『当たり前』だと感じられるような結果だと思います。でも、『当たり前』をデータできちんと確認しておくことはとても重要です。『当たり前』だと思っていたことがデータで確認できない、つまり、実は『当たり前』ではなかったというのは、社会科学の研究者ならば何度も体験しています。事実関係を正しく踏まえるのが、私たちの社会の正しい理解への第一歩につながるのです」。ネット社会では、極端で奇異な言説になびいたり、影響されたりする傾向があるようだが、これは好ましいことではない。

 第2節は「お見合い結婚から恋愛結婚へ」。「出生動向基本調査」ではこの割合も調査している。戦前は圧倒的だったお見合いは減り続けており、「2010~2014年」には約5パーセントにまで減少した。逆に恋愛結婚は約88パーセントと圧倒的だ。この調査では「出会いのきっかけ」も調べていて、「友人・兄弟姉妹を通じて」がおよそ31パーセント、次が「職場や仕事で出会った」で約28パーセント、その次が「学校」で、約12パーセントとなっている。

 デンマークの研究では、職場に異性が多いと、その結婚相手が職場の人であることが多いことがわかった。ただし異性が多いからといって、独身者が結婚しやすくなるわけではない。一方、職場に異性が多いと、離婚しやすいことは裏づけられた。「離婚した人がのちに再婚した場合、再婚相手が同じ職場の人である場合は20パーセントほどに上ります」。初婚の人の結婚相手が同じ職場である場合は10パーセントほどなので、「かなりの数の人が、職場の同僚と新たに結婚するために離婚しているようです」。

 こうした分析を通じ、「似たもの同士」の結婚が世界共通であることもわかってきた。夫婦の学歴を調べると、大卒同士、高卒同士の組み合わせが一番多い。アメリカ、イギリス、ドイツ、デンマーク、ノルウェーといった国々でも同じだという。これには「出会いの機会が似たもの同士に限られている」というのと、「出会いの機会は十分にあるけれど、人々が自分の好みに従ってパートナーを選んだ結果、似たもの同士で結婚している」という両面があるそうだ。近年、こうした研究が急速に進んでいることはまったく知らなかった。

 著者は、信頼できる膨大な量のデータと妥当な推論をもとにして、次々と「家族の幸せ」を検証していく。第2章は「赤ちゃんの経済学」。まず検証されるのは低出生体重児。WHOの定義では2500グラム未満の赤ちゃんをこう呼ぶそうだ。意外なことに日本では低出生体重児の割合が世界的にもかなり高い。OECD加盟国でデータのある35カ国のうち2番目だ。もちろん、これにはさまざまな要因が絡んでいる。一方で、働く女性の子どもは低出生体重児になりやすいという傾向が世界的にみられる。ここで、著者はさりげなく、「ご本人やご家族はもちろんのこと、職場など周囲の人々が、妊娠中のお母さんに対して特別な配慮をしなければいけません。妊娠中のお母さんの健康状態は、生まれてくる子どもの一生に関わっていますから、電車で席を譲るといった小さなことにも大きな意義があるのです」と書いている。

 そのあとに登場してくるのが「母乳育児」だ。母乳育児でもっとも信頼性が高い科学的研究は、ベラルーシで1996年に行われた大規模な調査で、カナダのマギル大学が実施した。この調査は母乳育児に参加する病院を抽選で選び、その病院の医師や看護師には事前に母乳育児に関する研修を行うという徹底ぶりだった。ベラルーシは医療水準も高く、衛生状態も良好なため、調査に適していたという。今ではこうした大がかりな調査を行うことは実質的に不可能だという。1万7046人の子どもとそのお母さんが対象で、最新の追跡調査は子どもが16歳になった時点で行われた。その結果、母乳育児では生後1年間の胃腸炎と湿疹が減少したが、肥満やアレルギー、喘息防止の効果は確認できなかった。さらに、知能・行動面における長期的な効果も確認できなかった。「母乳育児には乳児にとって健康面のメリットがあることは疑いがありません。しかし、一部で喧伝されているメリットは、必ずしも科学的に信頼性の高い方法で確認されたわけではないことは知っておいてよいでしょう」。

 第3章は「育休の経済学」。著者は育休に関する各国の制度を簡単に紹介したうえで、自分のカナダでの経験にも触れる。研究に専念できるサバティカルだったので、育休は取らなかったそうだが、「そうした事情がなければ、少なくとも1カ月程度は育児休業を取っていた」という。そのうえで政策評価の専門家として、「『育休3年制』は無意味。1年がベスト」と結論づける。さらに、育児休業制度の方向性については、「お母さんの就業と子どもの発達を考えるならば、育休よりも保育園の充実にお金を使うべき」だと主張する。評者はこうした議論には詳しくないが、「給付金額は、育休前に得ていた所得に比例するため所得の高い人ほど、給付金額も多くなります。こうした制度を大きくしてしまうと、貧富の格差を拡大してしまうことにつながりかねません」と述べる。これも大事な論点だろう。

 最近は保育園に子どもを預けることへの批判は少ないと思うが、著者は「母親が子どもを育てるべきだ」という意見にも、その根拠はまったくないと指摘する。ドイツの研究で、「生後、お母さんと一緒に過ごした期間の長さは、子どもの将来の進学状況・労働所得などにはほぼ影響を与えていないことがわかりました」。これはオーストリア、カナダ、スウェーデン、デンマークの政策評価でも裏づけられている。「子どもにとって育つ環境はとても重要であるけれど、育児をするのは必ずしもお母さんである必要はないということです。きちんと育児のための訓練を受けた保育士さんであれば、子どもを健やかに育てることができるようです」。

 第4章は「イクメンの経済学」。父親が育休をとる「イクメン」は急速に増えているようだが、育休をとりたくても取れない人も多いはずだ。ここでも著者は「育休は伝染する」という。ノルウェーでは育休改革が1993年に実施されたが、「(育休をとった)勇気あるお父さんが、同僚あるいは兄弟にいた場合、育休取得率が11~15パーセントポイントも上昇した」。さらに興味深いことに、「会社の上司が育休をとったときの部下に与える影響は、同僚同士の影響よりも2.5倍も強いことがわかりました」。日本では、知事や市長などトップが育休を取ることがニュースになるが、こうした報道にはそれなりの意味があるということかもしれない。

 第6章は「離婚の経済学」だ。最近は「3組に1組が離婚する」といわれる。評者のいた職場でも、年若い部下に「離婚しました」と突然、報告されて面食らったことが何度かあった。それにしても「3組に1組は多い」と思っていたが、本書を読んで少し謎が解けた。1年間の離婚件数で、その年の結婚件数を割るとそうなるが、これには少し問題がある。つまり、「分母にある夫婦の結婚は今年行われたものですが、分子にある(今年離婚した)夫婦の結婚は過去に行われたものだからです」。結婚件数が安定していた時代なら、これでも全体の趨勢はつかめるが、最近のように結婚件数自体が減っていると、「真の離婚率が全く変化していなくても、結婚件数が減るのにともなって、離婚率が上昇してしまうのです」。その欠点を補うため、厚生労働省の人口動態調査では、「標準化有配偶離婚率」という統計が発表されている。「この統計によると、1990年には結婚している人1000人あたり、8.1件の離婚があったようです。そこから離婚率は着実に伸び、2000年には15.2件と倍近くに達しています。(中略)基本的には離婚率は上がる傾向ですが、そのペースは落ち着いていて、2015年時点で16.7件となっています」。世界的な比較をするとどうだろうか。人口1000人あたりの離婚件数をみると、OECD平均は1.9件で、日本はやや少ない1.7件。トップはロシアの4.7件で、次いでアメリカの3.2件。イギリス、フランスはOECD平均よりやや少なく、日本よりはやや多い。

 この数字もなかなか興味深いが、評者には離婚の要件の変化が何をもたらすかの考察が面白かった。欧米では1970年以降、大幅な離婚法改革が行われてきた。この結果、離婚件数はヨーロッパでは3割程度増えたが、極端な増加にはつながらなかった。「離婚手続きにおける破綻主義評者注:結婚が破綻状態にあれば離婚を認めるの導入で、最も救われたのは配偶者からの暴力(DV)に苦しむ人々だったのかもしれません」「重要なのは、実際に離婚するかどうかはともかく、『いざとなれば離婚することができる』という選択肢があるということです離婚という選択肢の存在自体が夫婦間の力関係に大きな影響を及ぼします」。

 1970年代から80年代なかばにかけてのデータを分析したアメリカの研究では、離婚法改革によって、「ある年に夫が妻に暴力を振るった割合は3.4パーセントでしたが、これを1.1パーセントポイント減らしました。また、妻が夫に暴力を振るった割合は4.6パーセントでしたが、これも離婚法改革で2.9パーセントポイント減りました」「離婚法改革後20年間で評価すると、(女性の)自殺を10パーセント以上も減らしていることがわかりました。一方、男性の自殺率への影響は見られませんでした」。国によって家族のあり方は大きく異なるが、評者にはこれも意外な結果に思えた。

 著者はさらに、離婚が子どもに与える影響に踏み込む。「親の離婚を経験した子どもはさまざまな困難に直面している」としつつ、「離婚そのものが子どもの発達に悪影響を及ぼすというよりも、離婚が生み出す貧困が、子どもの発達に悪影響を及ぼしているという構図です」。こうしたことから、「子どもの幸せという観点から考えても、離婚の手続きを厳しくするよりは、離婚が生み出す貧困の悪影響を避けるような社会の仕組みが必要です」と指摘する。これは卓見だろう。こうした提言が具体的な政策に生かされていくといいのだが。

 あとがきを読んで、少し反省させられた。データ分析には信頼性の高いデータが重要と指摘したうえで、「残念ながら、アメリカやヨーロッパの国々と比べると、日本のデータは質量ともに劣っていることが少なくありません」「しかし、そうした研究の最大の障壁になっているのが、データ不足と質の低下です。人々のプライバシー意識の高まりから、年々調査に協力してくれる人の割合が低下し続けています。また、公的な調査においても、予算が割かれなくなるようになり、その質に重大な疑念が抱かれるようになってきました」「私たちの社会をより良いものに近づけていくためにも、あなたが調査を依頼されるようなことがあればぜひ、協力をお願いします」。どうしても億劫に感じがちな調査依頼だが、きちんとした内容には応じないといけない。本書はデータが豊富で、例証はきわめてわかりやすい。表現も簡明で、非常に読みやすい。本書は2019年度のサントリー学芸賞(政治、経済部門)を受賞している。多くの人が読むべき良書だと思う。

 





















 




 











時間は存在しない カルロ・ロヴェッリ 富永 星訳 量子重力理論の第一人者が説く時間とは何か

2020年03月19日 | 読書日記
時間は存在しない カルロ・ロヴェッリ 富永 星訳 時間とはいったい何なのか、理論物理学者が明かす研究最前線


 タイトルを見て面食らった。理論物理学研究の最前線にいる物理学者が「時間は存在しない」と断言するのだから。カルロ・ロヴェッリ氏は1956年、イタリア北部のヴェローナに生まれ、ボローニヤ大学を出た後、イタリアやアメリカの大学に勤務し、現在はフランスのエクス-マルセイユ大学の理論物理学研究室で、量子重力理論の研究チームを率いている。「ループ量子重力理論」の提唱者の一人だ。200頁あまりの冊子で、分量的にはさほど多くない。ただ至るところに古今東西の哲学者や文豪、詩人からの引用があって、理論物理学者というだけでなく、古典に通じた博学博識の人だと認識させられる。各章の扉には古代ローマの詩人ホラティウスの「歌集」からの引用が掲げられている。前書きは「もっとも大きな謎、それはおそらく時間」と題されている。うかつなことに読了してから気づいたのだが、ロヴェッリ氏の著作は2017年8月11日付けの本ブログ「すごい物理学講義」で紹介している。当然のことながら同じような感想を書いているので、その点はご容赦願いたい。

 本文はこう始まる。「動きを止めて、何もしない。何も起こらず、何も考えない。ただ、時の流れに耳を澄ます。これが、わたしたちが親しみ馴染んでいる時。わたしたちを荒々しく運ぶ時。秒、時間、年の流れはわたしたちを生へと放り出し、無へと引きずってゆく……。(中略)わたしたちは、時間のなかの存在なのだ。時の子守歌はわたしたちを育み、世間を開いてみせる。(中略)宇宙も時間に導かれて未来へと展開し、時間の順序に従って存在する」。

 「だが、事はそう単純ではない。現実は往々にして見かけとまるで違っている。地球は平らに見えるが、じつは丸い。太陽は空を巡っているように見えるが、回っているのはわたしたちのほうだ。そして時間の構造も見かけとは違い、一様で普遍的な流れではない。当時大学生だったわたしは、物理学の本にそう記されているのを見てあっけにとられた。時間のありようが、見かけとまるで異なっているとは」「それらの本にはまた、時間がどのように機能するのか、ほんとうのところはまだわかっていないと記されていた。時間の正体は、おそらく人類に残された最大の謎なのだ。そしてそれは奇妙な糸によって、精神の正体や宇宙の始まり、ブラックホールの運命や生命の働きといったほかの大きな未解決の謎とつながっている」。

 「驚嘆の念こそがわたしたちの知識欲の源であり、時間が自分たちの思っていたようなものでないとわかったとたんに、無数の問いが生まれる。時間の正体を突き止めることは、これまでずっとわたしの理論物理学研究の核だった。これからみなさんに、わたしたち人類が時間について知り得たこと、時間への理解を深めるためにたどってきた道、そしてまだわからない点もあるが、かすかに見え始めたと思われることを、紹介していきたい」。

 語り口はやわらかいが、内容は深遠だ。第一部は「時間の崩壊」と題されている。第一章は「所変われば時間も変わる」。やや緊張して読み始めると、「簡単な事実から始めよう。時間の流れは、山では速く、低地では遅い。その差はほんのわずかだが、今日インターネットで数千ユーロ〈数十万円〉も出せば買える正確な時計を使えば計ることができる。(中略)専用の実験室に据えられた時計を使うと、数センチの高さの差によって生じる時間の減速も検出できる。床に置いた時計の方が、卓上の時計よりほんの少し時間の刻みが遅いのである」「遅くなるのは時計だけではない。低いところではあらゆる事柄の進展がゆっくりになる。二人の友が袂を分かち、一人は平原で、もう一人は山の上で暮らし始めたとしよう。数年後に二人が再会すると、平原で暮らしていた人は生きてきた時間が短く、年の取り方が少なくなっている。(中略)低地では、高地より時間がゆっくり流れているのだ」。

 このあたりまでは何とか理解できる。相対性理論が明らかにするところだ。「測定に使える精度の高い時計ができる100年も前に、このような時間の減速に気づいた人物がいたことに驚くべきだろう。その名は、アルベルト・アインシュタイン」。

 「実際に観察する前に理解する力、それが、科学的思考の核にある。古代ギリシャの哲学者アナクシマンドロスは、地球を一周する航海が行われるずっと前に、頭の上の空がさらにずっと広がって、自分たちの足下のはるか下へと続いていることを理解していた。近代黎明期に生きたコペルニクスは、月に降り立った宇宙飛行士がその目で回転する地球を目の当たりにするずっと前に、地球が回っていることを知っていた。同様にアインシュタインは、精密な時計ができて時間の流れの差を計れるようになる前に、時間が至る所で一様に経過するわけではないことを理解していたのだ。わたしたちはこのような歩みのなかで、自分たちには当然と思える事柄が実は先入観であることを知った」。

 「アインシュタインは、わたしたちの多くが重力について研究する際に頭をしぼってきた一つの問いを自らに投げかけた。太陽と地球が互いに触れることなく、中間にあるものもまったく使っていないとしたら、この二つはどうやって互いを重力で『引き合っている』のか。そして、妥当と思われる筋書きを見つけた。太陽と地球が直接引き合っているのではなく、それぞれが中間にあるものに順次作用しているのではなかろうか。だとすると、この二つの間には空間と時間しかないから、ちょうど水に浸かった物体がそのまわりの水を押しのけるように、太陽と地球がまわりの時間と空間に変化をもたらしているはずだ」

 「では、この『時間の構造の変化』とはいったい何なのか。じつはそれが、先ほど述べた時間の減速なのだ。物体は、周囲の時間を減速させる。地球は巨大な質量を持つ物体なので、そのまわりの時間の速度は遅くなる。山より平地の方が減速の度合いが大きいのは、平地のほうが地球〈の質量の中心〉に近いからだ」「物が落ちるのは、この時間の減速のせいなのだ。惑星間空間では時間は一様に経過し、物も落ちない。落ちずに浮いている。いっぽうこの地球の表面では、物体はごく自然に、時間がゆっくり経過するほうに向けて動くことになる」。

 「物理学では、個別の現象を測定したときに個別の時計が示す時間のことを『固有時』と呼ぶ。(中略)アインシュタインはわたしたちに、固有時が互いに対してどう展開するかを記述する方程式をもたらした。二つの時間のずれの計算方法を示したのだ。『時間』と呼ばれる単一の量は砕け散り、たくさんの時間で編まれた織物になる」

 「これが、アインシュタインの一般相対性理論による時間の描写である。相対性理論の方程式には、単一ではなく無数の『時間』がある。二つの時計がいったん分かれてから再会する場合と同じで、二つの出来事の間の持続時間は一つに定まらない」「こうして時間は、最初の層である『単一性』という特徴を失う。時間は、場所が違えば異なるリズムを刻み、異なる進み方をする。この世界の事物には、さまざまなリズムの踊りが編み込まれている」。

 納得できるかどうかは別として、なかなか鮮やかな説明だ。孫悟空がお釈迦さまの手のひらで踊らされたように、読者は著者の掌のうえで踊っているような気分になってくる。

 「アインシュタインは、質量によって時間が遅れることを理解する10年前に、速度があると時間が遅れるということに気づいていた。そしてこの発見は、わたしたちの直感的で基本的な時間の感じ方に壊滅的な結果をもたらした。事はいたって簡単で、二人の友を(中略)片方にはじっとしているように、もう片方には歩き回るように頼む。すると動き続けている人間にとっては、時間がゆっくり進むのだ」。

 「このような動きの影響を実際に目で見るには、うんと速く動く必要がある。この差がはじめて測定されたのは、1970年代のことだった。飛行機に正確な時計を載せたところ、その時計が地上に置かれた時計より遅れたのだ。速度による時間遅延は、今ではさまざまな物理実験によって直接観察することができる」。

 こうした事実をもとに、筆者は「今」には何の意味もないことを論証する。「たとえば、みなさんの姉が太陽系外惑星プロキシマ・ケンタウリbにいるとしよう。これは最近見つかった惑星で、地球から約四光年離れた恒星のまわりを回っている」。

 ここで、お姉さんは今、プロキシマ・ケンタウリbで何をしていますかという質問が発せられる。「正解は『その質問には意味がない』」「もしもお姉さんが同じ部屋にいて、『今きみのお姉さんは何をしているの?』と尋ねられたら、ふつうは簡単に答えることができる。実際にお姉さんを見ればすむ話で、遠くにいるのなら、電話で何をしているか尋ねればよい。そうはいっても注意が必要で、お姉さんを見るということは、お姉さんから自分の目に届く光を受けるわけだが、光がみなさんのところに届くには、たとえば数ナノ秒〈ナノ秒は1秒の10億分の1〉の時間がかかる。したがってみなさんが目にしているのは、お姉さんが今行っていることではなく、数ナノ秒前に行っていたことなのだ」。

 プロキシマ・ケンタウリbに戻ろう。光が届くのに四年かかるので、「望遠鏡でお姉さんを見ようが、無線で連絡がこようが、わかるのは四年前にしていたことであって、『今』お姉さんがしていることではない」「それなら、こちらが望遠鏡でお姉さんの姿を確認した四年後にお姉さんがすることが、『今姉さんがしていること』になるのでは? いや、そうは問屋が卸さない。望遠鏡で姿が確認されてから、お姉さんにとって四年経ったときには、本人はすでに地球に戻っていて、地球時間でいうと10年後の未来になっているかもしれない」。

 結局、「この問いを発することをあきらめるしかない。それが事の真相だ。プロキシマ・ケンタウリbには、今ここでの『現在』に対応する特別な瞬間は存在しない」

 「『現在』という概念と関係があるのは自分の近くのものであって、遠くにあるものではない。わたしたちの『現在』は、宇宙全体には広がらない。『現在』は、自分たちを囲む泡のようなものなのだ。では、その泡にはどのくらいの広がりがあるのだろう。それは時間を確定する際の精度によって決まる。ナノ秒単位で測定する場合の『現在』の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら、数キロメートル。わたしたち人間に識別できるのはかろうじて10分の1秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡に含まれることになり、そこではみんながある瞬間を共有しているかのように、『現在』について語ることができる。だがそれより遠くには、『現在』はない。遠くにあるのは、わたしたちの過去(今見ることができる事柄の前に起きた出来事)もある。そしてまた、わたしたちの未来(『今、ここ』を見ることができるこの瞬間の後に起きる出来事)もある。この二つの間には幅のある『合間』があって、それは過去でも未来でもない。火星なら一五分、プロキシマ・ケンタウリbなら八年、アンドロメダ銀河なら数百万年の『合間』、それが『拡張された現在』なのだ。これはアインシュタインの発見のなかでももっとも奇妙で重要なものといえるだろう」。

 「宇宙全体にわたってきちんと定義された『今』という概念が存在するというのは幻想で、自分たちの経験を独断で押し広げた推定でしかない。ちょうど虹の足が森に触れるところのようなもので、ちらっと見えたような気がしても、探しに行くと、どこにもない」。

 第一部が現代理論物理学の到達点の紹介だとすれば、第二部「時間のない世界」は量子重力理論のごく簡単な紹介だ。このあたりになってくると直感的に理解しようとするのはかなり難しくなる。

 第三部は「時間の源へ」。第10章は「視点」と題されている。「わたしたちがこの世界で見るものの多くは、自分たちの視点が果たす役割を考えに入れてはじめて理解可能になる。視点の役割を考慮しないと理解ができない。何を経験するにしても、わたしたちはこの世界の内側、すなわち頭のなか、脳のなか、空間内のある場所、時間のなかのある瞬間に位置している。自分たちの時間経験を理解する際には、自分たちがこの世界の内側にいるという認識が欠かせない。早い話が、『外側から見た』世界の中にある時間構造と、自分たちが観察しているこの世界の性質、自分たちがそのなかにいてその一部であることの影響を受けているこの世界の性質とを混同してはならないのだ」。

 第一三章「時の起源」は全体のまとめになっている。「始まりは、わたしたちに馴染みのある時間像、宇宙の至る所で等しく一様に時が流れ、すべての事柄が『時』の流れのなかで起きるというイメージだった。宇宙のあらゆる場所に現在、つまり『今』があって、それが現実だと思っていた。過去は誰にとっても過ぎ去ったもの、定まったものであり、未来は開かれていて、まだ定まっていない」「お馴染みのこの枠組みは砕け散り、はるかに複雑な現実の近似でしかないことが明らかになった。宇宙全体に共通な『今』は存在しない。すべての出来事が過去、現在、未来と順序づけられているわけではなく、『部分的に』順序づけられているにすぎない。わたしたちの近くには『今』があるが、遠くの銀河には『今』は存在しない。『今』は大域的な現象ではなく、局所的なものなのだ」。

 「現在わかっているもっとも根本的なレベルでは、わたしたちが経験する時間に似たものはほぼないといえる。『時間』という特別な変数はなく、過去と未来に差はなく、時空もない。それでも、この世界を記述する式を書くことはできる。(中略)わたしたちのこの世界は物ではなく、出来事からなる世界なのだ」「ここまでが外へ向かう旅、時間のない宇宙への旅だった。そして帰りの旅では、この時間のない世界から出発して、わたしたちの時間の知覚がどのように生じるのかを理解しようとした。すると驚いたことに、時間のお馴染みの性質が出現するにあたって、わたしたち自身が一役買っていた。この世界のごく小さな部分でしかない生き物の視点、つまりわたしたちの視点からは、この世界が時間のなかを流れるのが見える。この世界とわたしたちの相互作用は部分的で、そのためこの世界がぼやけて見える。このぼやけに、さらに量子の不確かさが加わる」。

 こういった内容をわかりやすく紹介することは評者の手にあまる。だが、全体を通じて著者の語り口はわかりやすくなめらかだ。著者独特の語り口や理論物理学の最先端に触れたい方は一読すれば、その雰囲気をよく味わうことができる。内容から見ればかなり難解な本書が版を重ねている(手元にあるのは第7刷)のに驚いた。気がつくと表紙の帯には「詩情あふれる筆致で、時間の本質を明らかにする、独創的かつエレガントな科学エッセイ」とある。原語はイタリア語だが、英語版も参照して翻訳されたらしい。韻文も多く、内容もかなり専門的なので翻訳は大変な苦労だったと思うが、訳文は非常に読みやすい。素粒子論専攻で理学博士の吉田伸夫氏が解説と校正を担当している。理論物理学に詳しくない評者には、「『時間とは何か』という問題意識の下に、人々の通念を鮮やかに覆し、現代物理学の知見を駆使して時間の本質をえぐり出す、魅惑的な書物だ」という解説が参考になった。解説には、「今日、物理学者の間では、量子論と重力理論を統合した『量子重力理論』の構築が大きな目標とされているが、『ループ量子重力理論』は、日本でも有名な『超ひも理論』と並んで、その有力候補である」と書かれている。

 評者には理論物理学というと、ワシントンの科学特派員だった四半世紀前、シカゴ大教授の南部陽一郎博士にお目にかかった印象が強い。南部博士は20代で大阪市大教授に就任された「天才」だ。東大物理学科出身だったが、「素粒子論は湯川秀樹博士のような天才のやるもので、おまえがやるものじゃないと言われたんですよ」と笑顔で話されていたのが印象的だった。失礼を承知で、「ノーベル賞の候補に挙げられていますね」と聞くと、「ぼくは理論屋で、理論は実験に比べると50年くらい進んでいますから、生きてるうちにはとても無理でしょうね」と謙遜されていた。1952年の渡米直後、プリンストン高等研究所で、「(所長だった)オッペンハイマーにはあまり好かれなかった」「アインシュタインは本当に雲の上の人でした」と物理学の巨人たちの印象もうかがうことができ、科学記者冥利に尽きる取材だった。

 先生は2008年、日本の小林誠、益川俊英博士とともに「素粒子・原子核物理学における自発的対照性の破れの機構の発見」でノーベル賞を受賞された。このとき、益川博士が記者会見で、「南部先生と一緒の受賞で本当にうれしい」と感激の涙を流されたのを見て、本当に感動した。高齢の先生は授賞式には出席されず、日本に戻った後の2015年、94歳で他界された。先生は超ひも理論の提唱者としても著名だが、ループ量子重力理論をどう見ておられたのだろうか。温顔の先生に一度聞いてみたかった。