アフガニスタンの診療所から 中村 哲 中村医師の旧著復刊に込められたその思い
昨年(2019年)12月4日、アフガニスタン・ジャララバードで凶弾に倒れ、73歳の生涯を閉じた中村哲医師の旧著の復刊。こうした事件に遭遇すると、自分の無知を思い知らされる。中村医師がハンセン病(本書は「らい」と表記する)治療のためパキスタンに入り、さらに隣国アフガニスタンに移って、治療だけでは人々を助けることは不可能と知り、井戸を掘り、荒れ地を耕地に変えようと自らブルドーザーを運転していたことは知っていた。200頁ほどの小著だが、われわれが知らないアフガニスタンの状況がわかりやすく紹介されている。ペシャワールは中村さんが最初に医療支援活動の拠点をつくったパキスタン北西部の都市。このあたりは高地で、カイバル峠(1070㍍)を越えるとアフガニスタンに抜けることができる。
1979年12月のソ連軍の侵攻以来、アフガニスタンはソ連軍と激しく抵抗するゲリラとの戦いの舞台となった。侵攻と同時に峠は閉鎖され、大量の難民がパキスタンに避難した。1992年6月、中村医師らペシャワール会一行は同会による「アフガニスタン復興のための農村医療計画」の進捗を見るため、アフガニスタンに入った。避難民帰還と一緒だった。
「この大移動が、国連や欧米難民援助団体をあざわらうように、その『帰還救援活動』が停止した直後に生じたのだから、まったくの皮肉といわねばならない。(中略)外部の者が手をだせばだすほど、『難民帰還』が困難となり、泥沼の混乱を生じてひきあげざるをえなかったからだ。もはやだれも国連を信じなかった」。激しい表現だが、これが事実だろう。十数年の内乱で、アフガニスタンでは百数十万人の死者と600万人の難民が生まれた。
中村医師はメディアへの強い不信も記す。「1988年のジュネーブで調印されたアフガン和平協定の時も、今にも難民帰還が実現するようなあやまった報道で世界がわきかえったではないか」「しかしその後も米ソの武器援助は続き、混乱はさらに拡大した。(中略)莫大な金を浪費した国連主導の『難民帰還計画』もまた、山師的なプロジェクトの横行と金による民心の荒廃のあげく、事実上終息した」「世界の報道機関はうわべの政治的動きにまどわされ、カブール以外の全地域で展開している大きな平和へのうねりを伝えることができなかった」。内容は大筋で、事実に違いないのだろう。欧米やアジアの主要国以外では、言葉の壁もあって取材の振れ幅が大きく、事実認識を大きく誤まることも少なくないからだ。
次の章は「縁(えにし)--アフガニスタンとのかかわり」。「私を最初にこの地と結びつけたのは、雄大なカラコルムの自然と私の好きな蝶であった。何もはじめから『海外医療協力』などという大仰な考えがあったわけではない」。1978年6月、中村医師は山岳会の一員としてこの地に入る。ヒンズークッシュ山脈の最高峰ティリチ・ミール(7708㍍)に登頂するためだった。入山する際、「連邦政府の観光省から住民の診療拒否をしないよう申しわたされていたので、道々、病人たちを診ながらキャラバンを続けていた。進むほど患者たちの群れはふえたが、とてもまともな診療はできなかった」「みちすがら、一目で病人とわかる村人に『待ってください』と追いすがられながらも見捨てざるを得なかった。(中略)職業人としてこれは深い傷になって残った」。
「その後なぜだかわからない。私はつかれたように機会をみつけては現地をおとずれた」。79年12月には夫人とともにペシャワールからカイバル峠を訪れている。その直後、ソ連軍の侵攻が始まって峠は閉鎖される。このころサウジアラビアにあるイスラム教の聖地メッカのカーバ神殿占拠事件があり、CIA謀略説が流れ、欧米人が拉致された。このころ、「(夫人が)『まさかこんな所で生活をすることはないでしょうね。おもしろそうな所だけど……』。私も『何をバカな』と打ち消して笑った。うそではなかった」。夫婦仲のよさを物語るエピソードだと思うが、このとき夫人には本心を明かさなかったようだ。
「この三年後、ペシャワール・ミッション病院の院長が、ふとした思いつきで日本に立ちより、ある海外協力団体に日本人医師派遣を要請することなど知る由もなかった」。これがペシャワールとの偶然の縁(えにし)だった。「1983年9月に私は家族を引き連れて英国の熱帯医学校に留学し、1984年5月、パキスタン北西辺境州の『らい根絶計画』に民間側から側面援助をうちこむために、ペシャワールに着任した」「当地への赴任は最初にヒンズークッシュ山脈を訪れたときのひとつの衝撃の帰結であり、あまりの不平等という不条理にたいする復讐でもあった」。
アフガニスタンに関するわかりやすい説明もある。われわれの世界観がヨーロッパからの借り物だと指摘したうえで、「アジア世界では日本や韓国など、単一の言語で比較的等質化された人びとをまとめうる国家は例外中の例外である」「西欧型近代国家は、まさに明瞭な国境・領土と国民の均質化を要求するという点で、『非アジア的』であり、その国家観でアジア諸国を論ずるのがそもそも無理なのである。理解しにくい中近東の複雑なもめごとも、これを『国家』とみるからこそわけがわからない」。
次節の表現には少なからず驚いた。「アフガニスタンのどまん中をつきぬける巨大な山脈、『ヒンズークッシュ』という名は、『インド人殺し』という物騒な意味である。近代になって英国とロシアの抗争の舞台となるまで、インド亜大陸の住民にとって『アフガニスタン』は、そこからつねに征服者と略奪者がたち現れる、恐怖と未知の世界だった」「アフガニスタンは、ペルシア世界とインド世界が中央アジアでおりかさなる地域であり、独特の世界を現出している。(中略)アフガニスタン一帯こそ、昔は世界の主要交通路であり、海路が主力にかわる18世紀まで、もっとも繁栄をほこる世界貿易の要衝だったのである」「民族的には、スレイマン山脈を根城にするパシュトゥン部族が支配的民族で、母語はパシュトゥ語である。国際語として通用力のあるのはペルシア語で、北西辺境州ではパキスタンの国語であるウルドゥ語と拮抗している」。山岳地帯の少数民族を入れると、民族の数は30以上にのぼる。「住民の99パーセント以上がイスラム教徒で、『イスラム』はこの複雑な民族構成をまとめるきずなとして重要な役割をはたしている」「私をひきつけるアフガニスタンの魅力のひとつは、その壮大な多様性にある。歴史的な重層性は古代から現代にまでおよび、民族集団も全ユーラシアの種族を網羅する」。
次の説明が評者の腑に落ちた。「現在のパキスタン北西辺境州とアフガニスタンとの国境線はデュランド・ラインとよばれ、1893年、英国とロシアの対立のはざまで住民の都合を無視してひかれたいわば暫定的な軍事境界線である。当時インド防衛を至上命題とする英国は、南下してくるロシアに対抗するためさかんにアフガニスタン征服をくわだてたが、パシュトゥン諸部族の抵抗で敗退した。(中略)いっぽうロシアもまた、積極的な南下政策で(中略)アフガニスタンにせまったが、トルコ系諸部族のはげしい抵抗でアム川をこえることができなかった。そこで英露の間でアフガニスタンを緩衝地帯とする機運がたかまり、かってな国境画定作業が地元民を無視して次つぎと行われた」。
ここで、「らい根絶計画」が紹介される。「1982年12月、私の初期の派遣団体であったJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)の意をくんで、ペシャワール・ミッション病院を視察したことがある」。病院側は外科医や内科医派遣を希望したが、「私の目をひいたのは、病院の片隅におかれている貧弱な20床のらい病棟だった」「内科や外科ならば(中略)多くの医師が現地にはいる。しかし、らいとなれば、パキスタン全土で数万の患者をかかえながら全国で専従医師五名、うち外国人医師三名という状態で、当時北西辺境州には皆無であった」。
「『らい』とは結核に似た好酸菌、らい菌による慢性の細菌感染症である。(中略)古来から特殊な差別・偏見の対象とされた病気である。最近ではその差別的なイメージをきらい、とくに報道関係者の間では発見者の名を冠する『ハンセン病』のよび名が用いられるが、『らい』という正式の医学名を用いることにしよう。差別の根底にふれずに、代用語でうわべをとりつくろうのはよくない風潮である」。評者も現役時代、「狂牛病」をBSE、「精神分裂病」を統合失調症と言い換えることを決めた経験がある。本質が変わらないのはそのとおりだが。
「らい菌はおもに皮膚と末梢神経をおかす。それゆえ、さまざまの皮膚症状と感覚障害、時に運動麻痺が主症状となる。(中略)温痛覚が失われると火傷や怪我をしてもわからない。足の裏には足底穿孔症という、いわば足に穴があくやっかいな合併症も生じる」「らい菌にたいしては現在では治療薬が開発され、早期に治療を始めればほぼ完治する。しかしいったん生じた神経障害は回復しにくく、機能回復のためのリハビリテーションや手術が行われる」。日本では患者はほとんどみられないが、WHOの1990年の発表では推定患者数1150万人。「多発地帯は発展途上国に集中している。本病は気候ではなく貧困と比例する」。
中村さんは、らいセンターの充実に着手する。その奮闘は大変なものだったはずだが、記述は良質なノンフィクションになっていて、治療に献身しながらも、医師としての醒めた目が光っている。仕事は医療にとどまらない。「そのひとつに足底穿孔症対策があった。これはきわめてありふれたらいの合併症で、日本では『うらきず』の呼称で関係者によく知られている。これがなかなかの難物で、病棟の仕事の半分以上はこの『うらきず』との戦いに明け暮れたといってよい」。問題は治った患者が数か月後にまた、舞い戻ってくることだった。
そこで中村さんは患者のサンダルに着目する。「たいていは固い革に釘をふんだんにうちこんで修理を重ねたサンダルをはいており、ひどい代物であった」。だが、貧しい住民には買い替えることもできない。先行して支援していたグループは問題を把握し、技術的に完ぺきなものを作り上げていた。だが、そうしたサンダルは普及しない。「理由はきわめて明解であった。主な理由は、彼らペシャワールの住民とパシュトゥン部族は強い伝統指向があって、地元スタイルのサンダル以外のものを受けつけないことである」「靴屋のバザールをうろついて地元のサンダルを次つぎと買いこみ、自分ではいてまわって分解し、快適さ、工夫の余地、耐久性、革の質、素材、コストその他を調べた」「こうして得た結論はすばらしいものだった。パシュトゥンの伝統的スタイルのサンダルは、丈夫でやわらかい革を選び、釘を使用せず、足底に接する面にラバー・スポンジをおけば、そのまま立派なうらきず予防用のサンダルとなる」「一足につき4~500円程度の材料のみを我われが現物寄付し、患者には200円程度の値段で売り、この売上をワークショップで働く者に労賃としてあたえることにした」。
この後、中村さんはアフガニスタンでの診療所の設置に現地スタッフとともに精力的に取り組んでいく。現地代表として活動したペシャワール会についても、終わりの方で触れられている。正式発足したのは1983年9月だ。「30名前後の事務局員が、それぞれ自分の職業をもちながらも週に一度集まって膨大な量の事務をこなしているようすを見る者は、その熱気におどろく」。1980年代後半からブームのように日本で多くのNGOが立ち上げられてきたが、中村さんはこうした動きとは一線を画していた。
「一般に日本のNGOは、欧米のそれに比べて歴史の浅いせいか、日本での対内宣伝が派手なわりにかんじんの現地活動の中身が少なく、サロン的な色彩が強いことが多いものである」「ペシャワール会が堅持したのは、あくまで現地を中心に活動を展開することであって、『国内活動は現地活動に従属する』とわざわざのべるのはこのためである」「外国人のおちいりやすい過ちは、理念にしろ事業にしろ、自国で説得力のあるものを作成して、現地とかかわろうとすることである。(中略)それは現地でほんとうに役立つよう修正されねばならない。そうでなければ、現地活動が外国人を満足させるために存在するという本末転倒になってしまう」。
中村さんは皮肉屋であるらしく、こうした一節もある。「会の理念などをたずねられることがあるが、冗談の通じる者にたいしては、私は『無思想・無節操・無駄』の三無主義である、と答えて人をケムにまく」「『無思想』とは、特別な考えや立場、思想信条、理論にとらわれないことであり、どだい人間の思想などタカが知れているという、我われの現地体験から生まれた諦観に基づいている」「第二の『無節操』とは、だれからも募金をとることである。(中略)年金ぐらしの人の1000円も、大口寄付の数百万円も、等価のものとして一様に感謝してお金をいただくことにしている」「第三の『無駄』とは、あとで『無駄なことをした』と失敗を率直にいえないところに成功も生まれないということである」「この不器用なぼくとつさは、事実さえ商品に仕立てるジャーナリストからもしばしばけむたがられた。だが、こうしてこそ、我われは現地活動の初志を見失うことなく活動を継続できたのである」。
最終章では、「1990年5月、子どもの教育問題にいきづまった私は、七年間のペシャワールでの家族生活に別れを告げた。仕事は軌道にのりはじめたばかりであったが、まずは家族を日本で安定させ、長期の継続態勢をしかねばならなくなった。(中略)家族とともにいったん帰国し、しばらくは『日本適応』にいそがしい毎日がつづいた」。あわただしさと拝金主義に明け暮れる日本への批判は実に厳しいが、これは関心のある読者に任せよう。それにしてもペシャワールに家族を帯同されていたとは驚いた。
あとがきに、「私は一介の臨床医で、もの書きでも学者でもありません。ただ、生身の人間とのふれあいを日常とする医師という立場上、新聞などでは伝わらぬ底辺の人びとの実情の一端を紹介することができるだけです。時に『極論』ととられたりすることもありますが、これは私自身が現地に長くいすぎて、西欧化した日本の人びとと距離を生じているせいかもしれません」「とくに国連の評価などは、日本と現地とでは180度異なっています。ただ私が意図したのは、国連やODA(政府開発援助)をこきおろしたり、ジャーナリズムや流行の尻馬に乗って国際貢献を議論することではありません。(中略)日本列島のミニ世界だけで通用する安易な常識を転覆し、自分たちだけ納得する議論や考えに水を差し、広くアジア世界を視野に入れたものの見方を提供することです」。これは1992年8月に書かれた。
2004年10月付けの「文庫版あとがき」では、2001年9月の米国での同時多発テロ多発事件に触れ、「しかし、アフガン民衆を苦しめたのは、決して国際政治ばかりではなかったことを強調しておきたい。その元凶は、世紀の大旱魃であった。元来アフガニスタンの8割が農民、1割が遊牧民といわれる。乾燥した中央アジアに位置する同国で、2000万人もの生存を可能にしてきたのは同国の大部分を占める険峻な大山脈、ヒンズークッシュの白雪で、夏にとけ出すことで川沿いに沃野を提供してきた」「ところが、温暖化によって、年々この雪が減少、全土で砂漠化が進みつつあった」「私たちは、東部の限局された地域ではあったが、全力を傾けて飲料水源と灌漑用水の確保を開始した。その努力は継続され、2004年10月現在、飲料水源(井戸)は1300か所を超え、(中略)数十万の流民化を防止する事業となった。しかし、国際社会の関心は、政治問題に終始した。旱魃のアフガニスタンにやって来たのは2001年1月、国際救援ではなく国連制裁であった。100万人が餓死に直面するなか、国連制裁発動の初期、『食料制裁』まで含まれたのは忘れがたい」。中村さんの悲憤が聞こえる。
「今、内外を見渡すと、信ずべき既成の『正義』や『進歩』に対する信頼が失われ、出口のない閉塞感や絶望に覆われているようにも思える。10年前、漠然と予感していた『世界的破局の始まり』が現実のものとして感ぜられ、一つの時代の終焉の時を、わたしたちは生きているように思えてならない」。15年以上前に書かれたものとはまったく思えない。今、あらためて多くの人に読まれるべき書物だ。中村医師の冥福を心よりお祈りしたい。