ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

経済学者たちの日米開戦 牧野邦昭 圧倒的な国力の差を知りながら、なぜ開戦に踏み切ったのか

2019年10月25日 | 読書日記
牧野邦昭 経済学者たちの日米開戦 俊秀経済学者たちの分析はなぜ開戦判断に生かされなかったのか

 

 数か月前に買ってそのままにしていた。2018年5月の発行だが、2019年6月でもう9刷。評判のいい本だと思ったが、今年の吉野作造賞受賞作とは知らなかった。牧野氏は1977年生まれ。東大経済学部を卒業し、現在は摂南大経済学部准教授。近代日本経済思想史が専門だ。副題は「秋丸機関『幻の報告書』の謎を解く」とある。

 秋丸機関とは太平洋戦争開戦直前の1939年9月、関東軍参謀部から陸軍省に転任した秋丸次朗・主計中佐がつくった経済研究班の別称だ。彼は関東軍で満洲国の経済建設を担当していた。宮崎県出身で、陸軍経理学校を卒業し、主計将校として勤務した後、東大経済学部に入学し工業政策を学んだ。彼が在籍した関東軍参謀部第4課は、「関東軍の頭脳」。「第4課の任務は満洲国に対する国政指導と産業関係を担当すること」で、陸軍でもエリート中のエリートだったようだ。当時の満洲国は岸信介など日本政府から満州国に派遣された「革新官僚」による経済政策の実験場だった。本書には岸信介(当時は満洲国総務庁次長)と隣り合わせの写真が載っている。

 秋丸は上司から、「貴公が本省に呼ばれたのも経済戦の調査研究に着手したいからである。既に活動している軍医部の石井細菌部隊に匹敵する経済謀略機関を創設してほしい」と打ち明けられた。1939年5月、関東軍は対峙するソ連軍と満州国西北のノモンハンで激突したが、ソ連の重火器に一蹴される。陸軍が兵器近代化や国力充実の必要性を痛感していた時期だった。秋丸はすぐ陸軍省戦争経済研究班(秋丸機関)の創設に着手した。このとき頼ったのが東大経済学部時代の人脈。すぐ名前が挙がったのが東大経済学部にいた有沢広巳。当時、第二次人民戦線事件で、他の労農派マルクス経済学者とともに治安維持法違反で検挙され、休職中だった。有沢は秋丸に、「いま起訴保釈中の身分である。それをご承知の上なら、ひとつやりましょう」と応じた。有沢は陸軍内部でも優秀さを評価されていた。秋丸の上司も、「科学的客観的調査の必要性を強調した」ので、引き受けたという。

 評者は、猪突猛進のイメージが強い陸軍が労農派経済学者の起用を決めたことに驚いた。秋丸機関は有沢を主査に委嘱したばかりか、中山伊知郎(東京商大)や川上肇門下の宮川実(立教大)らも参加した。多くは有沢が人選した。「こうして有沢を中心とする英米班、武村の独伊班、宮川のソ連班、中山の日本班、蝋山および木下の国際政治班という体制が整った」。武村は当時慶應大学にいた武村忠雄、蝋山は蝋山政道、木下は木下半治だ。「こうした個別の研究班と共に『謀略的個別調査』のため、『各省の少壮官僚、満鉄調査部の精鋭分子』が集められる」「秋丸機関は、いわば『陸軍版満鉄調査部』として多くの学者や官僚などを集めて活動を始め、(中略、昭和)15年1月末に設立され、5月にその陣容が整った」。だが、研究は遅延する。詳細は不明だが、班員の一部が治安維持法違反事件に絡んで検挙されたことが原因らしい。

 それでも昭和16年3月には中間報告ともいうべき、「経済戦争の本義」が刊行されている。これと内容がほぼ同じ「経済戦の本質」が現存している。ここでは経済戦争とは「交戦両国の経済に対する抗争が戦争に於ける最重要なる手段の一つとなること当然である」「一国の国防経済力の強さは之を構成する諸力の最弱力に依って定まる」とし、「一国の国防経済力を増強するためには最弱点を補強し、経済動員の準備計画を整え、経済力の培養・育成・節約をしなければならばならない」と説く。筆者は有沢の筆になるものとみている。

 報告書は1941年中に完成し、陸軍内部で報告会が行われたらしい。しかし、報告書そのものが行方不明になったうえ、記録も残されていないため、完成時期ははっきりしない。だが、最近、発見された報告書の日付から昭和16年7月中に完成したらしい。

 幻の報告書は発見の経緯がすこぶる面白い。報告書は長年、秘密にされ、有沢ら参加者も陸軍上層部の命で、すべて焼却されたと考えていた。だが、有沢の死後、その旧蔵資料の中から報告書の主要部のひとつ、「英米合作経済抗戦力調査(其1)」が見つかった。これと対をなす「英米合作経済抗戦力調査(其2)は筆者が2014年、古書店のデータベースから東京の古書店が持っていることを発見、購入して東大経済学部資料室に寄贈した。報告書の主要部のひとつ「独逸経済抗戦力調査」も筆者のオンライン検索で2013年、静岡大付属図書館に所蔵されていることが判明した。オンライン検索を通して資料が「発見」されるのは、資料探索の新たな可能性といえるだろう。古書データベースから、探していた資料が見つかった喜びはどれほど大きかったことか。「独逸経済抗戦力調査」の「判決(結論)」は筆者自身が文字起こしし、経済史学会HPで公開したという。

 さて、その内容はどういったものだろうか。英米合作抗戦力調査の結論によると、
①英米が合作すれば米国の供給余力により、英国の供給不足を補い、想定規模の戦争遂行に対して耐え得る経済抗戦力がある
②英米の合作は70億ドル余の軍備資材の供給余力がある
③ただし最大供給力の発揮には、開戦後1年ないし1年半の期間が必要、などとなっている。

 一方、「独逸経済抗戦力調査」ではさらに踏み込んだ結論が述べられている。
「独逸は今後対英米長期戦に堪え得る為にはソ聯の生産力を利用することが絶対に必要である。従って独軍部が予定する如く、対ソ戦が2ケ月くらいの短期戦で終了し、直ちにソ聯の生産力利用が可能となるか、それとも長期戦となり、その利用が短期間になし得ざるか否かによって、今次大戦の運命も決定さる」「ドイツは既に労働力の限界に達しており、また食糧不足に悩んでおり、このままでは占領地の不満も高まっていく。したがってドイツにとってソ連の労働力とウクライナの農産物を利用することが絶対に必要である。(中略)また石油も不足しており、(中略)年産2300万トンのバクー油田を有するソ連に求めざるを得ない」「つまり『長期戦になればアメリカの経済動員により日本もドイツも勝利の機会は無い』ことを明示している一方で、『独ソ戦が短期で終われば少なくともイギリスに勝つことができるかもしれない』という見方を示しているともいえる」。

 報告書の内容が明らかになると、「秋丸機関が強調したかったのは特にアメリカと日本の国力の差による対米開戦の無謀さだった(それゆえに対米開戦を決意していた陸軍上層部には都合の悪いものだったので報告書は焼却された)」という議論が支配的になった。筆者はこれを報告書に関する「通説」とみる。これには異説があるが、両説とも「共に『秋丸機関の報告書に書かれた情報は当時の一流の経済学者が分析した高度なものなので一般には知られていなかった』という前提に立っている。しかし、本当にそうなのだろうか」と筆者は強い疑問を発する。当時の新聞や雑誌を詳しく分析し、こうした内容が当時も秘密ではなかったことを突き止めていく。秋丸や「独逸」班主査の武村は新聞や雑誌で報告書の内容を発表しており、関係者の間では既知の事実だった。とくに武村は雑誌「改造」の時局版(16年7月2日発行)で、「独ソ開戦と日米関係」と題し、報告書の骨子をほぼそのまま載せている。このあたりの筆者の綿密な調査には圧倒される。

 筆者は次いで秋丸機関の報告書の効用について、新たな角度から迫る。当時はドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)直前だった。駐ドイツ大使から事前に侵攻確実の極秘情報がもたらされ、陸軍は北進(ソ連侵攻)を主張する参謀本部と南進(ソ連の脅威が薄れるからこそ資源目当てに南方進駐)を主張する陸軍省との間で激論が戦わされていた。筆者は報告書には「北進させない」ための主張が込められているとみる。実際、「独逸」の結論には「我国の経済抗戦力の現状からして北と南の二正面作戦は避く可し」「北に於ける消耗戦争は避け、南に於いて生産戦争、資源戦争を遂行す可し」と書かれている。

 「秋丸次朗がどこまで意図していたかは別として、秋丸機関の報告書は当時の文脈でいえば、陸軍省軍務局の『南進』を支持し『北進』を批判するための材料としての色彩を帯びたのである」「北進について根強い反対論がある中、資源確保及び南進基地の確保のための南部仏印進駐については陸海軍内部で特に異論は無く、(中略、7月)28日から進駐が開始された。これにアメリカは直ちに反応し、7月25日に在米日本資産が凍結され、8月1日には日本に対する石油輸出が停止された」。

 「結局、北進しても南進してもアメリカ、イギリスとの戦争は避けられなかったと考えられるが、ただ一つ言えるのは、北進しなかったことによって日本が昭和20年8月まで、アメリカ、イギリス、ソ連と同時に戦うことだけは避けられたということである。終戦時に鈴木貫太郎内閣の書記官長となって終戦に尽力した迫水久常は、戦後の江藤淳との対談で、『日本の陸軍のたった一つのとりえは、ソ連の実力を正当に評価しておったことである、もし正当に評価してなかったら、おそらくあのときに兵隊を出しただろう』『そうすれば、明らかに日本は北日本と南日本に分割されていた』」と述べる。ソ連が戦後、北海道の分割統治を要求したことは知られている。

 秋丸機関創設を命じた秋丸の上司、岩畔豪雄大佐は開戦直前の日米交渉に加わるため渡米した。彼が持ち帰った「米国の経済調査報告」は衝撃的だった。報告は日米経済力を詳細に比較し、製鋼能力は1対20、石油産出量は1対数百、石炭産出量は1対10、電力は1対6、飛行機の生産計画量は1対5、船舶保有量は1対2など日本の劣勢を冷静に分析している。岩畔はこの資料をもとに、第一案は対米開戦論、第二案は日米国交回復論、第三案は情勢観望(日和見)論を考えたという。この中では第二案が「交渉妥結のためには仏印と中国から全面撤兵する必要があるため容易ではないが」一番現実的と執着していた。8月15日に帰国した岩畔はすぐに政府大本営などで帰朝報告会を開いた。近衛首相や木戸内大臣らは熱心に話を聞いたものの、陸海軍で話を真剣に受け止めたのはごく一部だった。岩畔にはその直後、南部仏印に進駐する近衛師団連隊長の辞令が出る。「岩畔はこれを対米戦回避を訴えたための左遷であると考えた」。陸軍部内ではこの報告書に、「商社マンからの情報にほとんど全部おぶさっていた」という厳しい批判が出ていたという。

 だが、筆者は日米抗戦力の圧倒的な差は当時の常識だったとみている。「秋丸機関の研究だけでなく、(中略)、『対英米開戦の困難さ』を示す研究は無数にあった。対英米開戦をすれば短期的には何とかなっても長期戦(二ー三年)になれば日本は困難な情勢に陥るということは、日本の指導者は皆知っていた」「にもかかわらず、開戦に至ったのぜなのだろうか。それは当時の指導者の『非合理的な意思決定』『精神主義』が原因なのだろうか」。

 ここからが本書の本領だ。現役研究者らしく筆者は最新の行動経済学で当時の指導者の心理を分析する。行動経済学は「経済学では『人間は合理的に意思決定をする』と考えられてきたが、実際には非合理的に見える行動をとることがよくある」と考える。ギャンブルなどで、人間はときにまったく合理的とは見えないリスク愛好的(追及的)な行動をとることがあるという理論だ。行動経済学は2002年のノーベル経済学賞を受賞している。

 筆者は当時の政府や軍部要人の発言を子細に検討し、長期戦になれば勝つ見込みはないが、国際情勢がどう変化するかわからない流動的状況では、状況が日本に有利に変化するそのわずかな可能性に賭ける心情に傾いたのではないかと推測する。実際、真珠湾攻撃後の大本営陸軍部戦争指導班の日記(12月8日)には「作戦の急襲と言い全国民戦意の昂揚と言い理想的戦争発起の成功せるを確認し戦争指導班として感激感謝の念尽きざるものあり。然れども戦争の終末を如何に求むべきや是本戦争の最大の難事」と書かれていた。

 「結局のところ、日本は『戦争の終末』の見通しなく、そしてそれゆえに戦争を始めたのである」。これが筆者の結論だ。当時の文献や指導者の発言をもとにした綿密な例証と大胆な推論には評者も大筋で納得できる。あの無謀な戦争は、実は戦争終結の見通しなく、無謀であるがゆえに始められたというべきなのだろう。

 次章では、「日米英開戦はどうすれば避けられ、経済学者は何をすべきだったのか」と問いかける。この中では開戦当時、陸軍省軍務局長だった武藤章の発言に注目する。彼は開戦が決まった時、「これですべてはっきりしました。蟠(わだかま)りがみな解けて結構ですな」と言う部下に「そうじゃないぞ、戦はしない方がいいのだ。俺は今度の戦争は国体変革までくることを覚悟している」「然しそれではこのシャッポを脱いでアメリカに降参するか。(中略)仮令噛みついて戦に敗けても、こういう境地に追い込まれて戦う民族は、再び伸びる時期が必ずある」と語った。一見、強がりともみえる発言だが、実は当時の戦争指導者の本音だったのかもしれない。武藤はA級戦犯として1948年に巣鴨プリズンで処刑されている。

 筆者はさらに秋丸機関の報告書がなぜ、幻の報告書とされたか、その謎にも迫る。「報告書は開戦を決定していた陸軍の意に反するものだった。国策に反するものとして焼却された」というのが通説。有沢など主要メンバーも戦後、それに沿う証言をした。報告書が行方不明だったので、その見方が一人歩きした面もあるだろう。だが、発見された内容をみると「当時の『常識』に沿ったものであり、あまり陸軍内で大きな問題になるようなものではなく、『数多くの情報の中の一つ』でしかなかった」。

 ここからの推論がまた興味深い。筆者は報告書完成とほぼ同時期に起きたゾルゲ事件の影響を重視する。ゾルゲ事件は開戦直前の1941年9月、ソ連のスパイだったドイツ紙記者リヒャルト・ゾルゲと日本人協力者尾崎秀実らが逮捕された事件だ。有沢はこれを機に左翼経歴を警戒され、首相だった東条英樹の厳命で、秋丸機関を追われる。ゾルゲには陸軍から大量の情報が流れており、陸軍は左翼関係者を一掃し、関係を断絶する必要に迫られていた。これが「都合の悪い資料の焼却」につながった、と推測する。

 秋丸は開戦とともに大本営野戦経理長官部の仕事に忙殺されるが、1942年12月にフィリピン派遣軍の経理部長として派遣される。その後インドネシアに転属したが、本土決戦を前に内地に帰還し、特攻基地建設などの業務に携わった。戦後、秋丸は地元宮崎に戻り、出身地の町長を務めるなど地元に尽くした。1992年、93歳で死去したが、「敗軍の将は兵を談ぜず」とあまり体験を語ることはしなかった。

 治安維持法事件の被告だった有沢は1944年の二審判決で無罪となったものの、すぐに東大には復職できなかった。戦後、第一次吉田内閣で初代の経済安定本部長官に推挙されるが固辞し、吉田の私的ブレーンとして重用された。有沢は戦後の産業やエネルギー政策にかかわって戦後復興に貢献し、1988年に92歳で死去した。本書には有沢以外にも脇村義太郎、中山伊知郎、大来佐武郎など著名な経済学者の名前が次々に登場する。こうした人たちが戦後の復興にどうかかわっていたかを知るのは興味深い。

 だが、経済思想史の専門家がどうして秋丸機関の研究に深く入り込んだのか。それは脇村義太郎の回想録で、秋丸機関の存在を知ったのと、政治学者の丸山真男が有沢の没後、回顧録を読んで、「海軍や陸軍というのは、もともと組織的に頭のいいのがいたというせいもあるけれど、よほど合理的だったのではないかな。(中略、秋丸機関に参加した)有沢さんは人民戦線事件で保釈中なのです。保釈中の被告を使うというのは、かなり大胆です」と発言していたことなどがきっかけになったようだ。「愚かな軍部が無謀な対米開戦に踏み切った」というのは通説だが、本当にそうだろうかという疑問が研究への強い動機になったに違いない。筆者は「当時のエリートである日本の指導者たち(特に軍人)が格別に『愚か』『非合理的』であったわけではない」と冷静に見ている。

 先入観を排除し、事実を見きわめることはきわめて重要だ。日米開戦をめぐっては数多の書物が上梓されている。戦後、70年以上を経て本書が注目されるのは既成の価値観や先入観を排除し、当時の文献や証言をもとに、指導者の心情や判断を丁寧に再現しようと試みた点だろう。大学研究者ながらジャーナリスティックな手法を用い、手間暇をいとわず、真相に迫っていく努力には感動した。歴史の核心に触れる問題だけに内容は必ずしもわかりやすいとはいえないが、昭和史最大の謎、「日米開戦の真相」に迫る貴重な研究だ。





 

 


 
 









 

 


 
 


 







 

 


生命科学クライシス リチャード・ハリス 寺町朋子訳 生命科学は危機に瀕している 科学ジャーナリストの鋭い告発

2019年10月08日 | 読書日記

生命科学クライシス リチャード・ハリス 寺町朋子・訳 篠原彰・解説 新薬開発の現場から見た生命科学の重大な危機

 クライシスというのは危機のこと。「新薬開発の危ない現場」という副題がついている。筆者はアメリカの公共放送ナショナル・パブリック・ラジオの科学記者。科学・医療・環境が専門で、この道30年以上のベテラン。科学誌として有名な「サイエンス」の発行元AAAS(アメリカ科学振興協会)の科学ジャーナリズム賞を3回受賞している。

 表紙を見ると、原題は「RIGOR MORTIS」(死体硬直)とあり、「ずさんな科学が無益な治療を作り出し、患者の希望を打ち砕き、何十億ドルもの金を無駄にしている」と書かれている。世界で進む生命科学研究のありようを痛烈に批判し、それを死後すぐに始まる死体の硬直にたとえている。邦題はそれに比べると、タイトルも副題もはるかに穏やかだ。

 書き出しから激しい。「医療の進歩を伝える記事を読むと、がんやアルツハイマー病、脳卒中、変形性関節症をはじめ、数々のまれな病気の治療にまもなく待望のブレークスルーがもたらされるような気がしてくる。それこそ、目指すものが、すぐそこの角を曲がれば見つかるかのようだ。(中略)大ていの場合、曲がった先には目的地ではなく、別の角が現れるのだ」。
 
 筆者は1986年からこの仕事に入り、「医学の話題を数え切れないほど報告してきたが、思い返せば過度な望みをかけていたこともあった。そして最近、医学研究の進展が悲惨なほど遅いのは、研究が大変なのは確かだとしても、それだけが理由でないことに気づいた。さらに科学者たちが、自らを欺くことを防ぐために本来なら踏むべき手順をはしょってきたこともわかった。(中略)はっきり言えば、これまでに発表された論文のなかで、間違っているものがあまりにも多すぎる」。
 
 「アメリカの納税者は、アメリカ国立衛生研究所(NIH)に提供する資金として毎年300億ドル以上を支払っている。私たちが服用する薬や受ける治療に織り込まれる研究費なども加えると、平均的なアメリカの世帯は生物医学研究を支えるために毎年900ドル(約10万円)を費やしている」「それでも、転移がんは今なお数十年前と変わらずほとんど抑制できない。アルツハイマー病も治せないままだ。(中略)筋委縮性側索硬化症(ALS)は、効果的な治療法がない数々の深刻な神経疾患の一つだ。じつは、7000種類にのぼる既知の病気のうち、治療法があるのはわずか500種類にとどまる」。
 
 厳しい表現だが、評者が現役だった10数年前にはこの表現がぴったり当てはまるように思えた。評者も現役の医学記者時代、「がんに有望な新療法」とか「アルツハイマー病の原因物質に迫る新研究」といった記事を書いた。ALSについても、「治療法につながる新発見」といった記事はよく見かける。筆者は有効な治療法のない病気の患者や家族が、わらにすがる思いで望みを託すものの、期待を裏切られ続ける現実を指弾する。評者もワシントンDC近郊のNIHに通った。NIHの研究所長や研究者にもよくインタビューした。
 
 ワシントンで当惑したのは研究者からの売り込みだった。日本メディアなので、日本人研究者からの連絡だ。「こんな成果を上げた」とか「論文が有力誌に載った」とか。門外漢の目からも「ちょっと些末ではないか」と思えるものもあったが、研究者の熱心さ、ひたむきさは伝わってきた。多くはアメリカの大学や研究所に留学中のポスドク(博士研究者)で、ボスに仕える働きアリのような生活を送り、雇用は不安定。日本に帰ってもポストの保証はない。大手紙に紹介されれば、誰かの目に留まるかもしれないという期待からだったと思う。
 
 そうした一人にじっくり話を聞く機会があった。東海岸の名門イェール大で、生命科学の最先端研究に取り組む優秀な人だった。研究の話も詳しく聞いたが、彼が熱心に話したのはアメリカの大学の研究システムとそのからくり。彼はこの分野の有力教授を頼って留学したが、最大の問題は研究資金の獲得競争だった。生命科学の場合、最大の出し手はNIHで、専門家による審査を経て可否が判定される。この審査に通らないと大変だ。ボスが分けてくれる研究費では研究はできない。彼は自前で研究費が調達できたので、余裕があったが、研究者間の競争はすさまじく、世界から集まる若手の中で頭角を現すことがいかに大変かを説明してくれた。評者が驚いたのはテニュア(終身雇用権)が保証されている有力教授でさえ、何年も研究資金が獲得できないと、研究室のスペースや人員が縮小され、最後には事実上追い出されてしまう現実だった。さらに、やっと獲得した研究資金も大学側に一部を上納(ピンハネ)させられる。大学側は多額の資金を獲得してくる教授を優遇する。学部運営や間接部門の雇用もかなりの程度、上納によって維持されている。大学側が研究費を負担するわけでなく、獲得した資金の中から、さまざまな便益の使用料を払い、人件費の一部も負担する。こうした厳しい環境のなか、多くの若手が「奴隷」に似た扱いで酷使されている。本書に詳述される生命科学研究はこうしたフィルターを通すと、よく理解できる。
 
 筆者は手始めに、新薬開発にしのぎを削る製薬業界の目を通して、生命科学研究の現実を告発する。依拠するのはバイオ企業として著名なアムジェンで、がん研究を率いていたグレン・ペグリー博士の証言。25年の研究経験があり、アムジェンに招聘された。
 
 「製薬企業では新薬の種となるアイデアを得る際、ほとんどの研究資金が税金でまかなわれる学術研究機関の研究室が発表した成果に頼るところが大きい。企業はそのようなアイデアに飛びつき、新薬候補を開発し、新しい治療薬として世に出す。(中略)期待できそうなものが見つかるたびに、詳細を調べるプロジェクトが開始された。(中略)だがほとんどの場合、アムジェンの研究所では実験結果を再現できなかった」。
 
 アムジェンでの10年間を終えて次の職に進む直前、彼は「自分の研究チームが再現できず棚上げにした数々の研究を調べたかった。そして特に、よい結果が出ていたら重要な新薬になった可能性もあるものに着目した」。53本の論文を選び出し、論文の研究者本人に助力を求めた。ほとんどの研究者が協力に応じてくれた。「ペグリーは科学者たちに、元の実験で用いたとおりの材料を提供してほしいと依頼した。その材料を使って実験を再現できなかったとしても、アムジェンはあきらめなかった」。20件ほどについては、部下の研究者を派遣して研究者本人に実験に協力を求めた。「ただしこのときは実験のどの群が肯定的な結果を期待できるのか、どの群が比較する群(対照群)なのかを科学者たちに伏せておいた。すると、このように盲検化した条件では、再現はほとんど失敗した」「ペグリーが追試させた53件の独創的で興味深い研究のうち、結果を再現できたのは6件にとどまった」。
 
 驚くべき内容だが、取締役会はこの結果を論文で発表するよう勧めた。ペグリーは別の著名ながん研究者の協力を得て、2012年3月に著名な科学誌「ネイチャー」に発表した。「ペグリーによれば、二人が学会で発表すると、科学者が立ち上がって、『あなたがたは研究費が削られたりするようなひどい仕打ちを科学界にしているじゃないですか』と非難してくることがよくあったそうだ」。ところがホテルのバーでは様子が違った。「再現性のなさは生物医学分野にとって破滅的な問題だと科学者がそっと認める。『それは周知の事実でした。ただ、口に出せないことでした。私たちがそれを公然と言ったことが、衝撃を与えたのです』」。
 
 この論文を端緒に、筆者は本格的な取材を始める。この論文は科学界に衝撃を与えた。「アメリカ細胞生物学会が2014年、会員にアンケート調査を実施したところ、回答した会員の71パーセントが、発表された研究結果をいずれかの時点で再現できなかったことがあると答えた」。ただし細胞生物学会は「調査した8000人の会員のうち、回答したのは11パーセントだけだった」のを根拠に、「調査結果の数値に説得力はない」という重要な但し書きを加えたそうだ。筆者はこれに対して、「『ネイチャー』誌は2016年に1500人以上の科学者を調査し、よく似た結果を得た。回答した科学者の70パーセント以上が実験を再現しようとして失敗し、約半数が再現性の『重大な危機』があるということに同意したのだ」と反論する。研究資金を提供するNIHの所長と副所長も2014年、ネイチャー誌にコメントを書き、再現性に関する「この懸念をわれわれも抱えている」と表明した。食品医薬品局(FDA)の担当者は「『科学界は全面的にめちゃくちゃだと思います』」と話したという。
 
 まったく由々しき事態だ。さらにこれに追い打ちをかけるように、生物医学の分野に多額の税金がつぎ込まれているにもかかわらず、最近は研究の進化の鈍化が明白になっているという。ある専門家の推測によると、「1950年から1980年までの医学の進展は、それ以降の30年間よりはるかに大きかった。血圧降下剤や抗がん剤、臓器移植、そのほかの世の中を変える数々の技術を考えてみるといい。それらはすべて、1980年以前に登場した」。
 
 新薬の承認率が1950年代から下がり続けている事実をもとに、ある研究者は「イールーム(Eroom)」の法則という新語を作った。イールームはムーア(Moore)の綴りを逆にしたものだ。「ムーアの法則は、コンピューター・チップの性能が指数関数的に向上することを示しているが、製薬産業は逆行している」という痛烈な皮肉だ。
 
 NIHの国立がん研究所副所長からアリゾナ州立大に移籍したアナ・バーカー博士はNIH時代に、「がん研究に伴う一つの大きな問題を見た。科学者たちが多くの研究で、十分な厳密性をもって取り組んでいなかったことだ。それぞれの科学者が自分なりのやり方で研究していたが、それは標準化されておらず、実験が再現できないこともしばしばあった。それが今日の生物医学の文化だ。(中略)バーカーは、残念ながら研究の質はピンキリだと話す」。
 
 ペグリー博士がネイチャーに発表した論文は大きな反響を呼んだ。彼は若いポスドクから「欠陥のある実験をした研究者が誰なのか教えてほしいと泣きつかれた」という。相手との守秘義務があるので名前を明かすことはできないが、続報としてネイチャーに、「疑わしい研究を見分けるための6つの危険信号」という記事を書いた。
 
 ①実験は盲検でおこなわれたか? つまり、科学者は実験をしているときに、どの細胞や動物群が試験群で、どれが対照群なのかを知らない状態だったか?
 ②基本的な実験は再現されたか?
 ③すべての結果が提示されているか? 研究者は、よさそうに見える結果だけを選んで失敗したほかの実験を無視し、結果をゆがめることがある。
 ④陽性対象群と陰性対象群が設けられていたか? これは、比較のために実験を並列でおこなうことを意味する。
 ⑤適正な材料が確実に用いられていたか?
 ⑥統計的検定は適切だったか? 生物医学の研究者は、データ解析に間違った方法を選ぶことがよくあり、そのせいで研究全体が台無しになることもある。
 
 この6項目は不正な研究を排除するためにきわめて重要だ。②の再現性は科学実験の根幹をなすものだ。⑥も意外なことかもしれないが、統計の基本知識が十分でない研究者が少なくない。再現性についていえば、2014年のSTAP細胞事件では、理研の若手研究者が簡単な方法で、どの細胞にも分化する能力を持つ幹細胞をつくることに成功したと大々的に発表した。だが、世界のどの研究機関も追試ができず、研究への重大な疑問が噴出した。第8章「壊れた文化」では、このSTAP細胞事件が取り上げられている。「理化学研究所はその論文を撤回し、筆頭著者が不正行為を犯したと判断した。この件が社会の注目を浴びて明らかになるなか、その著者が尊敬していた教授は自殺した」。本書は巻末の脚注で、問題の筆者小保方晴子の論文のURLを掲載している。この事件はアメリカでも広く知られているようだ。
 
 こうした科学不正が起きる大きな原因が若手がインパクト・ファクターという評価の高い雑誌に論文を載せようと血眼になっている事実だ。2013年にノーベル生理学・医学賞を受けたランディ・シェックマン博士は受賞の機会に、インパクトファクターが研究を誤らせていると、「セル」「ネイチャー」「サイエンス」の3科学誌の暴虐ぶりを強く非難した。彼は「インパクトファクターは再現性の問題と関連しています。なぜなら、研究者は論文をこれらの雑誌のどれかに載せてもらうために何が必要なのかを知っていて、それに合わせるために真実をねじ曲げかねないからです。なにしろ、キャリアが懸かっていますからね」と述べた。

 「状況はアメリカでもひどいが、アジアではもっとひどい」と話した。「『数値(インパクトファクター)が神聖視されています。中国ではそれがすべてです』」。彼はトップレベルの生物医学研究の提案を評価する韓国の委員会で委員を務めているが、「韓国の科学者たちは、インパクトファクターの高い雑誌に一定数の論文を発表することを個人的な目標として挙げる。『何を発表しているかはどうでもいいのです』(中略)。どの雑誌に発表するかが最も重要なのだ。中国の科学者は『サイエンス』誌、『ネイチャー』誌、『セル』誌に論文が載ると、現金のボーナスをもらえる。シェックマンの話では、彼らは現金と引き換えに、論文に共著者として名前を入れてあげるそうだ。そのような慣行は、アメリカの科学的公正性からすれば認められまい」。
 
 論文の共著者の権利を金で買うというのは日本では聞いたことがない。だからといって、日本の研究が中国よりも倫理的だということにはならない。この話題の直後、筆者は科学論文の撤回を監視するリトラクション・ウォッチという運動について触れている。二人の科学者がなかば趣味で始めたが、論文撤回は近年激増し、2001年には約40本の撤回だったのが、「2010年には400本、それ以降は毎年500本から600本の論文が撤回されている」。
 
 不名誉なことに撤回本数ナンバーワンは日本人研究者だった。「一位は日本人麻酔学者の藤井善隆で、180本を超える論文を撤回した。それは事実上、彼がこれまでに発表したすべての論文だ。その記録は圧倒的にほかを引き離している」。藤井は東海大医学部を卒業後、東京医科歯科大で学位を得て、筑波大で講師、東邦大で准教授をしていた。日本麻酔科学会が学会からの除名を検討したが、本人から先に退会届が出された(ウィキペディアによる)。
 
 著名研究者も例外ではない。「マサチューセッツ工科大のロバート・ワインバーグはこれまで5本の論文を撤回しており、そのなかには引用回数が500回を超えるものもある。ワインバーグの研究室は拡大を続け、激しい内部競争が起きている。そのなかにいたある大学院生が、撤回した論文のうち4本の筆頭著者だった」。博士はがん遺伝子研究で知られている。
 
 こうした研究不正には、いったいどう立ち向かえばいいのだろうか。筆者は最終章の「規律をつくり出す」で、研究を研究する試みを紹介する。スタンフォード大メタ研究イノベーションセンターのスティーヴン・グッドマン博士は生物統計学者で、医学研究が失敗する道筋を研究している。このセンターの共同所長を務めるジョン・ヨアニディス博士は主要な医学雑誌に載っている論文で1000回以上引用された49件の論文を選び出し、調査したが、7件はその後の研究で内容が完全に否定された。彼は2005年、「発表された研究成果のほとんどが誤りである理由」というタイトルの大胆な論文を発表した。それは純粋に統計学的な主張を展開する小論で、「基本的に、科学研究のデザインや実施の仕方を見るだけで、多くの論文の結果は偽陽性にすぎないと言える、と結論づけている」。
 
 迂遠ながらもこうした活動が、生命科学研究の道筋を正していく方向だと筆者は考えているようだ。残念ながらまだ、生命科学研究の主流になっているとは思えないが、さまざまな機会を通じて、顧みられるべき方向のひとつなのだろう。膨大な研究論文を量産し、問題も少なくないアメリカの生命科学研究だが、一方で自浄作用も始まっているのだろう。研究者の協力が得られにくいこの種の問題を執拗に追い続ける筆者のエネルギーと持続力には感心する。だが、意外なことながら、筆者には多くの研究者から協力が得られたという。その事実自体が一線研究者の問題意識を示しているのかもしれない。猛烈な勢いで取材を進める筆者が、まともな研究を促し、怪しげな研究を淘汰していく原動力にもなっているのだろうか。

 巻末には大阪大蛋白質研究所の篠原彰教授が日本の現状について解説を書いている。「科学の進展は小さな研究成果の積み重ねであり、そうして初めてパラダイムシフトという大きな発展が生まれる。つまり、数多くの小さな『正しい』成果なしには成り立たない」「願わくは、研究者の卵である大学生も本書を読み、生命科学は健全に発展してこそ、医療や医学に貢献できるのだということを認識し、行動してもらいたいと強く思う」と記している。本書の内容はやや専門的だが、翻訳は丁寧でわかりやすい。研究者から見ると、やや刺激的な記述もあるが、生命科学を志す若手研究者や大学生にとっては必読の一冊といえるだろう。