さて、もう8月。時間の経つのは早い早い。
「遊雲さん父さん」を読み終えました。
読み終えたのだけど、 まだ、本棚にしまう気持ちになれません。
弟の闘病中に、言い表せなかった気持ちが、 この本の中でうまく言葉にされていて、 「そうそう!こういうことだったのよね~」と思うことがたくさんありました。
だからなのかな、 いつでも手に取る場所に置いておきたいのです。
読み終えて一番印象に残ったこと。
…「遊雲さん父さん」より…
~遊雲さんは当たり前に生きていた。ものごとが順調に進んでいくという意味での当たり前ではなくて、互いに激しくぶつかり合うものをひっくるめたところに見えてくる、もっと大きな当たり前があるのを父さんは知っている。遊雲さんも当然それに出会ったはずだ。
もっと大きな当たり前とは、別な言い方をすると、あきらめたときに見えるようになるものだ。あきらめるとは無気力になったり投げやりになったり、ましてや絶望することなどではない。「明らむ、諦む」というのがほんとうの意味だ。「諦」は、「全体を取りまとめて見通した真相」を表す。もっと簡単に言えば、父さんは「まかせる」ことだと思っている。もうまかせるしかなくて、まかせたときに感じられるほんわかとした心地に浸って、大きなものにゆったりと包まれるのが、あきらめるとこだ。
…………
私はこれまであきらめる”とは、「思い切る 見切る 見限る 見捨てる 見放す 放り出す 見放しにする 匙(さじ)を投げる」という『断念(=悪いこと)』っぽいことだけをイメージしていました。
でも、あきらめる”には「事情や理由を明らかにする。はっきりさせる。 心を明るく楽しくする。気持ちを晴れやかにする。」という意味もあると知り、なんだかホッとしました。
遊雲さんのお父さんは、あきらめる”ことで、「人は当たり前に生きることができる」とおっしゃっている。逆な言い方をすると、「あきらめられないと(手放せない想いがあると)、当たり前には生きれない」ということですね。
ん~でも、こうなると、「当たり前とは何か…?」ということになるけれど、ま、それは人それぞれの考えでしょうね。
でも、この本を読んだおかげで、私はあきらめる”ことは大切なことだと思えた。
ちゃんとあきらめる”ことができるようになりたいなぁと思う。