ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

至極妥当な判決

2009年07月16日 | 憲法関係
国歌起立斉唱、教職員は義務…横浜地裁(読売新聞) - goo ニュース

 卒業式や入学式で、教職員に国旗に向かっての起立や国歌斉唱を強制するのは思想の自由を妨げ、憲法違反だとして、神奈川県立学校の教職員ら135人が県を相手取り、いずれの義務もないことの確認を求めた訴訟の判決が16日、横浜地裁であった。
 吉田健司裁判長(深見敏正裁判長代読)は「教職員らには生徒への国歌斉唱の指導や式の円滑な進行のため、起立斉唱の命令に従う義務がある」と述べ、請求を棄却した。原告は控訴する方針。
 判決は、式典での起立斉唱は儀礼的な行為だと指摘し、起立斉唱の命令は特定の思想の強要ではない、とした。
 同県教委は2004年、県立学校長に対し、起立斉唱の指導の徹底を求める通知を出した。同県の松沢成文知事は「極めて妥当な判決」とコメントした。



 至極妥当かつ当然の判決として歓迎したい。公務員たる教職員についての国旗・国歌に対する私の見解は「上田知事の発言について」ならびに「『君が代』伴奏拒否判決の研究」において詳述したのでそちらに譲るとして、今回は別の視点からこの問題について論じてみようと思う。

 上記読売新聞の記事では少し情報が不足するので、毎日新聞の記事と東京新聞の記事を参考にしたい。

毎日新聞「国旗国歌訴訟:県立学校教職員の請求棄却 横浜地裁

 判決は、国歌ピアノ伴奏を拒否した音楽教諭への処分を「合憲」とした最高裁判決(07年2月)を踏襲。学校行事での起立斉唱は出席者にとって「通常、想定・期待される儀礼的行為」で、通知に基づき校長が出す起立斉唱の職務命令は「教職員の世界観・歴史観・信念を否定するとは言えない」と判断した。
 問題とされた通知(04年11月30日付)は、教育長名で各校長にあてた「国旗の掲揚及び国歌の斉唱の指導の徹底について」。教職員側は「起立斉唱は『敬意』という内心を表明する行為。それを命じるのは自由を不当に制約する」と主張したが、判決は「内心に影響を与え得ることは否定できないとしても、公務員として適法な職務命令に従う義務がある」などと退けた。
 会見した大川隆司・弁護団長は「最高裁判決をなぞった月並みの猿まね判決。国民の常識と正反対だ」と批判した。


東京新聞「『違う考え認める学校に』 原告教諭通知で現場息苦しく

 湘南地区の県立高校で社会科を教える竹下雅悦教諭(50)は、そんな思いから裁判に参加した。高校教師になったのは一九八三年。赴任先の入学式や卒業式で、君が代斉唱の際に不起立を貫いてきた。
 日の丸への違和感を抱いたきっかけは、父の戦争体験。戦時中、父がスパイと思い込み処刑した中国人が、無実の農民だと学生時代に読んだ文献で知った。父は事実を知らず、最期まで日の丸や君が代を愛した。竹下さんは「父のような人を多く生んだ教育の象徴である日の丸・君が代を敬うことはできない」と話す。
 裁判で県側は「起立斉唱は儀式的行為にすぎず、個人の内心に踏み込むものではない」と主張する。
 しかし、竹下さんは県教委の通知後、現場の雰囲気が変わったと感じる。県教委は不起立教員の氏名収集を、県の審査会で二度も不適当とされたにもかかわらず続ける。現場には息苦しさが漂う。
 竹下さんの学校には日本国籍以外の生徒も少なくない。生徒には国旗国歌を敬う自由と、そうでない自由が許されることを教える。
 「生徒に画一的な思想を押しつける意図が、個人の権利を保障する憲法や民主主義の基本を学ぶ学校にあってはならない。判決もそうあってほしい」



 唐突だが、最高裁と下級審の関係とはどのようなものか。

 わが国はイギリスやフランスなどと異なり、判例に法規範性を認められないと考えているのが支配的な見解である。つまり、判例は法とイコールではない。しかし、下級審と最高裁の関係は、下級審は原則として最高裁(上級審)の判例に拘束される。だからこそ判例違背を理由に上告ができる。

 ところが、原告側の弁護団長は「最高裁判決をなぞった月並みの猿まね判決。」と言う。これは上記の理解からすれば到底容認できない発言だ。

 まず、先例としての類似事件に関する判例が最高裁から既に出ているのだから、下級審たる横浜地裁はこれに拘束される。したがって、この最高裁判例に反する法解釈は許されない。それから思うに、この横浜地裁の判決に対し、「最高裁判決をなぞった月並みの猿まね判決。」という程度のコメントしか弁護団長ができないとすれば、原告側が負けるのも不思議はないだろう。



 次に東京新聞の記事だが、「日の丸への違和感を抱いたきっかけは、父の戦争体験。戦時中、父がスパイと思い込み処刑した中国人が、無実の農民だと学生時代に読んだ文献で知った。父は事実を知らず、最期まで日の丸や君が代を愛した。竹下さんは「父のような人を多く生んだ教育の象徴である日の丸・君が代を敬うことはできない」」から、国旗を掲揚し、国歌を斉唱できないというのは、滅茶苦茶な主張であり、この理由によって不起立をすることは、これもまた到底容認できない。

 私は以前も述べたが、個人が内心において国旗・国歌に対してどのような思想を持っていてもいいし、それに国家が干渉できないのは当然のことである。しかし、彼らは「公務員」なのである。これを忘れてはならない。

 しかもこの教師の主張のおかしさは、国の国旗・国歌に対する指導方針を「生徒に画一的な思想を押しつける」と言うが、それでは、上記のような「思想」を根拠に、式典において不起立をすることは、生徒に対して「画一的な思想を押しつける」ということにはならないのか。

 さらに、この教師の父親の体験と国旗・国歌とは、実は全く関係のない話であろう。無実の中国人を殺害したことと、その父親が日の丸を愛していたこととは、国旗・国歌を否定するにあたり、一体何のつながりがあるのか、全く分からない。そもそも、日の丸が父親に無実の中国人を殺せと命じたのではなかろう。それなのにどうしてこうした論理の飛躍甚だしい解釈ができるのだろうか。

 この教師の脳内論理に従うと、国旗・国歌に敬意を表するようになると、戦争をしたくなり、罪のない人を殺したくなるということになるが、そのような事実は証明されている、いや、証明できるのであろうか。それでは、国旗・国歌が世界中からなくなれば、世界は平和になるのか。このように、この教師の不起立の理由は、取り合うだけ馬鹿らしくなる荒唐無稽な主張でしかない。

 むしろ私としては、こうした教師こそ、密室の教室において、自己のイデオロギーを授業の名の下垂れ流し、生徒に「画一的な思想を押しつけて」いるのではないかとすら思う。



 毎度毎度のことで申し訳ないが、こういう類の訴訟を起こす人たちは往々にして、「自由」や「権利」の意味を履き違えている。彼らは自分たちの都合のいいときだけ自由や権利を継ぎ接ぎして主張し、普段は声高に自由や権利を主張するのに、自分たちと相容れない相手には途端に偏狭なスタンスを取る。

 自由、権利は大切。それを言うならどうして「つくる会」の歴史教科書には反対するのか。憲法改正の国民投票法案にどうして反対したのか。この裁判において彼らが主張した意味で「自由」や「権利」を解釈すれば、当然これらも自由や権利の下、許されなければならなくなるはずだ。

 ご都合主義の二枚舌の連中は、自由や権利を騙る資格はない。これだけは肝に銘じておかねばならない。



 最後に、横浜地裁は、起立や斉唱は「式典の出席者にとって通常想定され、期待される儀礼的な行為」で、県教委が起立や斉唱を命じても「原告らの世界観や歴史観を否定するものではない」(朝日新聞)と判示したそうだが、これこそむしろ「国民の常識」に適った判断ではないかと思う(「常識」とはどういうものなのか、という問題があるが)。

 公務員であるならば、国家の方針に従うのが筋だ。それが嫌なら上田知事ではないが、辞めればいいのである。己の立場を忘れて自由を振りかざすのは、傍から見ていて滑稽でしかない。

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4 コメント

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疑問 (haru)
2009-07-17 13:15:18
ちょっと視点が異なるが、違和感があったのでコメントします。
専門家ではないので、細かい点は分かりません。
ご了承ください。

公務員は国家の方針に従うべき
ということは、公務員は国家のロボット?
私は公務員ではないし、ましてや高校の教員とかではないが、この考えには違和感を覚える。
国家ではなく、国民のために働くのが公務員ではないのか?
国家の組織は国民が生活する上で必要なサービスを提供する立場にあるのでは?
会社もそうだが、会社の利益を追求することはつまるところ、サービスを受ける側が欲しいと思うサービスを提供することで利益につながる。
根本的に視点が異なるような気がする。
国があっての国民ではなく、国民あっての国では?

その上で、国が公務員をまとめる上で必要な規則があるならば、それに従うべきだと思う。
ところで、起立しない教員の名簿を集めているのは神奈川県以外にどこがあるのでしょうか?
これが国家の方針ならば、他の県も従っているのでは?
名簿を集めることは国家の方針なのですか?
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Unknown (えまのん)
2009-07-17 22:38:41
「国民の常識」というよりは、「国際的な儀礼慣習としての常識」でしょう。

マナー・プロトコール検定の標準テキストにも載ってますわな。

もちろん、卒業式に国歌斉唱、国旗掲揚を行うことの是非については、議論があってよいでしょうし、日の丸、君が代が日本の国旗、国歌にふさわしいか否かの議論もあってしかるべき。否と出たら、法律を改正するように働きかければよろしい。
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haruさん (管理人)
2009-07-18 00:23:16
コメントありがとうございます。

確かにそうですね。しかし、私の中では、国家のために働くということが、民主主義国家においては、ひいては国民のために働くということに繋がるものだと考えていますので。

そして、国民あっての国家ですし、同時に国家あっての国民であるとも考えており、これは対立的というよりは、相互補完的な関係として把握しています。とは言うものの、国家と国民とでは、いかに民主主義国家といえども、力関係では圧倒的に前者のほうが上ですから、そこで憲法をもって国家権力に縛りをかける、という考えです。

最後のご質問ですが、私にはそれを知るツテを持っていないので、お答えいたしかねます。
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えまのんさん (管理人)
2009-07-18 00:26:21
コメントありがとうございます。

そうですね。国際的な儀礼ですね。
学校が社会に出て活躍できる人間に子供を育てる場だとしたら、国旗を掲揚し、国歌を斉唱することを教えることも、れっきとした「教育」だと思いますね。

是非があることと、不起立があることとは別問題として捉える必要があると言えるでしょうね。
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