ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

「君が代」伴奏拒否判決の研究

2007年12月20日 | 憲法関係
 国旗・国歌の教育現場における対応は、最高裁が「君が代」のピアノ伴奏を拒否した教師に対して校長が行った処分を合憲と判示した以降も収まる気配がない。そこで今回はこの最高裁判決(平成19年2月27日)を検討することによって、国旗・国歌の教育現場での普及を図ることが本当に憲法に反することなのか、まずは関連規定を鳥瞰し、次に関連判例や学説を挙げ、国旗・国歌の由来を検証し、最後に私見を述べることによって、以下自分なりに考えてみたい。



①憲法19条、23条・26条に関して

19条について・・・

 人間が人間らしく生きるための精神的活動を保障するのが、憲法19条。
思想の自由は表現の自由と結びつく。良心の自由は信仰の自由と結びつく(又は同一のもの)。19条の言う「思想・良心」とは、人間の心の中に蓄積されていることがらのうちの、一定の限定された部分を指す。したがって、その一定の部分が保障される(内心における考え方ないしは見方=思想・良心)。思想と良心の区別は不要(判例・通説)。思想・良心には、世界観・人生観・主義・主張などの個人の人格的な内面的精神作用も含む(信条説)。
 思想・良心の自由は、内面にとどまる限り、公共の福祉による制約は受けない(いかなる思想・信条をもとうとも、内心にとどまる限りは絶対的に自由)。


23条・26条について・・・

 学問の自由(23条)には、学問研究の自由、研究発表の自由、教授の自由の三つがある。学問の自由は内面的精神作用の要素も含むのであり、その意味で思想の自由の一部を構成する。
 教育を受ける権利(26条)は、その性質上、子供に対して保障される。そして、国家に対し合理的な教育制度と適切な教育の場を提供することを請求する権利も内包している(旭川学テ事件判決において、憲法26条は「自ら学習できない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在している」と述べていることからも窺えよう)。その意味で、教育を受ける権利は、自由権的側面と社会権的側面を併有していると言える(教育を受ける権利=自由権、教育施設等の提供を請求する権利=社会権)。ただし、26条は抽象的権利であるので、法規範性は有するも、裁判規範性までは有していないとされる(=抽象的権利説、通説)。



②判例

、旭川学テ事件最高裁判決(最高裁大法廷判決昭和51年5月21日)
 →教育権は、一体誰に帰属するものか?

 本件は、1961年、文部省の実施した全国学力テストに反対する教師が、学テの実施を実力をもって阻止しようとして、公務執行妨害罪で起訴された事件で、その中で教育内容決定権は誰に帰属するのか争われた事件である。

 最高裁は、当時対立していた「国民教育説(子供の教育は親を中心とした国民が責務を負うもので、子供の教育の内容及び方法は、その実施にあたる教師が専門家としての立場から国民全体に対して責任を負うかたちで決定すべきものであり、国の教育へのかかわりは国民による教育遂行を側面から助成するための諸制度の整備に限定される)」と「国家教育説(教育内容は国民全体の関心事であるので、これに関して、民主的なプロセスを経て構成された国会で法律を制定することによって、教育内容に介入でき、よって教育は国が関与、決定できるものである)」の双方を「極端かつ一方的」とし、両者を否定した上で、「普通教育においては、児童生徒に・・・教育内容を批判する能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また・・・子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請がある」ので、「普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されない」と判示した。

 その上で、国は「子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する」とした。ただし、国が子供に対し「誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定からも許されない」とも述べている。


、伝習館高校事件(最高裁判決平成2年1月18日)
 →学習指導要領に法的拘束力を認めることはできるか?

 この事件は、教育委員会が教科書を使用せずに授業を行うなどした教師ら3人を懲戒免職にしたことに対し、当該教師らが、教師は憲法23条に基づき独自の教育の自由を有することなどから、学習指導要領は法的性質を有せず、それに基づく処分が違法であると争ったものである(なお、原告らは授業において、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』や、エンゲルスの『空想から科学へ』を指定図書にして感想を書かせたり、日本史の試験では「スターリン思想とその批判」などという問題を出したりしており、これは特定のイデオロギーを生徒に注入しようとしていたことは明らかである)。

 最高裁は、旭川学テ判決で示された、教師の教授の自由の範囲は完全に自由ではないとの理解に立ちつつ、国には「教育の一定水準を維持しつつ、高等学校教育の目的達成に資するために、高等学校教育の内容及び方法について遵守すべき基準を定立する必要があり、特に法規によってそのようなそのような基準が定立されている事柄については、教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量にもおのずから制約が存する」とし、当該教師らの行った授業は「教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量を前提としてもなお、明らかにその範囲を逸脱して」いると判示した。


 
③学説

、憲法19条に関して・・・

 19条の言う「思想・良心」とは、人間の心の中に蓄積されていることがらのうちの、一定の限定された部分を指す。したがって、その一定の部分が保障される(内心における考え方ないしは見方=思想・良心)。思想と良心の区別は不要(判例・通説)。思想・良心には、世界観・人生観・主義・主張などの個人の人格的な内面的精神作用も含む(信条説)。
 思想・良心の自由は、内面にとどまる限り、公共の福祉による制約は受けない(いかなる思想・信条をもとうとも、内心にとどまる限りは絶対的に自由)。芦部教授は、内面にとどまる限り、民主主義を否定する思想も許されると説いている。
 なお、憲法19条から導き出される「沈黙の自由」は、今回の判決の場合問題にならないと思われる。何故ならば、藤田裁判官が反対意見の中で述べられているように、この教師自身が、君が代について、否定的な価値観を持っていると予(かね)てから吐露しているからである。


、憲法23条に関して・・・

 23条に関して本件で問題となる部分は、教授の自由についてであろう。教授の自由をはじめとした学問の自由は、国家権力がそこに介入し、特定の学問的活動を弾圧、禁止することは許されない、とされている(芦部『憲法』156頁)。
 かつての学説は、普通教育における教授の自由を、教材や教科内容の画一化の要請を理由に否定する傾向にあったが、最近では、これを肯定する説が有力である。教授の自由を23条に基づいて肯定する説は、大学生と児童生徒では心身の発達度合いが異なるため教育への批判能力に差があるとしても、それをもって普通教育における教授の自由を否定することはできないと説く。
 なお、判例は23条によって一定の範囲で教育の自由が保障されるとして、23条から教授の自由を肯定する立場をとっている(旭川学テ事件最高裁判決)。


、憲法26条に関して・・・

 まず、憲法23条と関連して、26条から教授の自由を肯定する説を紹介しておく。これは、23条は主に「学問の自由」を規定しているが、普通教育で必要なのは「教育を受ける権利」であって、23条から教授の自由を肯定するのではなく、教育を受ける権利を規定した26条からこれを肯定するべきと言う。
 その内容は、普通教育では教育の機会均等を実現するために合理的範囲で教材等の画一化が要求されるのは否定できず、よって普通教育における教授の自由は、23条には含まれず、それは26条によって国家の一定の範囲での教育内容への介入の下に認められるとしている。
 この他にも、13条の「憲法的自由」を根拠に、教授の自由は13条によって保障される憲法上の人権であると説く説もある。


、学習指導要領に関して・・・

 学習指導要領に関しては、教育基本法が立法化を予定しているのは、「学校制度的基準」をなす各学校段階の、教育編成単位である教科目等の法定にほかならないのであって、よって、学習指導要領は助言指導的なものにすぎず、法的拘束力までは認められない(学校制度的基準説)



④君が代、日の丸の由来

 まず、国旗・国歌という概念が登場してきたのは、近代国民国家が登場してきてからであるという。よって、国旗・国歌の歴史自体は200余年ぐらいである。なお、日本という国名ができあがったのは、浄御原令(きよみはらりょう)という法律が全国に公布された689年であると考えてよい。
 国旗にはおおよそその国の国柄、国民性に則って作成される。日本の場合、その根拠は国民性(文化)であると言われている。たとえば、イスラム教の国では、イスラム教の象徴である三日月のかたちの新月を国旗のデザインに採用したりしている。

 ところで、日の丸という現在の国旗のデザインが登場したのは、平安末期にまでさかのぼる。木曾義仲(1154~84)は、先陣の真ん中にいるときは「日の丸」の扇を手に持っている。源氏に追われた平家も、日本という天下を統一していることの証明として日の丸の描かれた扇を手にしている。そして明治3年(1870年)10月3日に、明治政府は太政官布告第651号(だじょうかんふこく)で、郵船・商船・軍艦に「日の丸」を「御国旗」として掲げるよう通達している。
 このように、日の丸は建国のイデオロギーなどによって定められたものではなく、日本人が1000年以上前から伝統的に使用し、文化として馴染んできたものを、幕末から明治にかけて太政官布告などによって法的に追認してきたのである。

 「君が代」の国歌へのみちのりは、薩摩藩の大山巌という人物が、薩摩で賀歌として使われている「君が代」の歌詞を選び出し、これに曲をつけようと提案したのがはじまりと言われている。「君が代」は、「古今和歌集」に収録されている詠み人知らずの和歌のうちのひとつである。現在演奏されている「君が代」の前に、イギリス軍楽隊のフェントンという人物が作曲した「君が代」があったが、これは日本語を知らないフェントンが和歌のテンポを無視して作曲したため、評判はすこぶる悪く、そこで林広守という作曲家が現在演奏されている「君が代」を作曲したとされる。「君が代」が国歌とされた背景には、日本が明治新政府のもと近代国家としてスタートしたにも関わらず、外国の使節や軍隊が訪れる際に、両国は自国の国歌を演奏するのが儀礼になっているのに、日本には国歌がないのはまずい、ということもあったと言われている。

 余談だが、確かに、「君が代」が昭和の一時期の軍国主義思想と親和性の高かったことは否定できない。しかし、そのことのみをもって「君が代」を否定するのはいかがなものか。たとえば、君が代を否定する者達も、ダッフルコートがノルマンディー上陸作戦の際にイギリス軍が着用していたから軍事色の強いものとして着用を拒否しないだろうし、レジメンタルタイの「レジメンタル(regimental)」が軍服を意味しているからといって締めるのを拒否はしまい。

 「君が代」の「君」がたとえ天皇を指すものであっても、日本国は天皇を象徴した平和主義国家なのだから、「君が代」を歌うことによって、平和が長く続くように祈る、という解釈も十分に成立しうると思われる。

 なお、「君が代」を学校行事で演奏することを定めたのは、昭和52年(1977年)の学習指導要領であった。そこには、「君が代」を国歌とし、学校行事では国歌斉唱することが望ましい、と記されていた。しかしながら、国旗・国歌法制定以前に、国歌を「君が代」と定めた公的文書は存在しない。



⑤私見

 国歌の斉唱とは、その国に所属する国民のアイデンティティを確認し、国民の一体感を感じる行為であって、これは全世界共通のことがらだと理解してもいいと思う。たとえば、麗澤大学教授の松本健一氏は、海外の映画館を訪れたとき(氏によれば、新興国の場合、映画館で国歌が流れ、スクリーンに国旗が映し出され、観客はそれに向かい起立し、国歌を斉唱するということはよくあることらしい。)その国の国歌が流れているにも関わらず起立をせずにいたら、隣のその国の人から「立て」と声をかけられたという。中村粲獨協大学名誉教授によれば、青年海外協力隊に参加した日本人の青年が、他国の国旗掲揚・国歌斉唱が行われているときに、他の作業をしていてそこに集まらなかったのを見て、他国の協力隊の隊員が彼らを殴ったという。

 このように、国際社会では他国の国旗や国歌ですら、それに敬意を表すのは常識だと考えているのである。ところで、本件は小学校の入学式であるので、入学してくる子供はまだ6歳である。当然ながら大人の行為に感化され易い。そこで、このような教師の行動を見たら、教育現場で国旗・国歌に敬意を払うという国際常識を養うことはできるのだろうか。

 よって、この意味において、「君が代」の斉唱が、子供の「教育を受ける利益の達成」に寄与していると解することも可能であろう(「グローバル化」が叫ばれて久しい現在では、上記のような事情を鑑みれば、なおのことである)。換言すれば、子供が、グローバル化する国際社会において、一人前の「国際人」として羽ばたくためにも、式典での国歌の斉唱は必要ではないか(式典等で国歌を斉唱するときに起立し、静粛かつ厳かなムードの中で国歌を斉唱することによって、子供がそれに敬意を払うということを学習することができる。子供の手本である大人が、それの範を示すのは教育上当然であって、教師であれば言わずもがなである)。

 ところで、当該判決で唯一反対意見を述べられた藤田裁判官は、校長の職務命令の行使と、それによって侵害される教師の基本的人権とを比較衡量しなければならないと説くが(判決文15~16頁参照)、校長の職務命令の行使は、この教師の内面における信条(国歌に対しての否定的評価)にまで介入し、これを否定して国歌の伴奏を命じたものではないし、当該教師が教員生活上常時このような職務命令を受け続けなければならないわけではなく、ただ年に数回行われる式典においてのみ、国歌を伴奏すればよいのであって、したがってこのように考えると、教師が制約される人権の範囲も期間も大きく長期に亘るものではなく、一時的な制約にとどまるので(君が代の演奏時間など、多めに考えても1~2分がいいところだろう)、式典を滞りなく進行させ、もって子供の教育を受ける利益の増進を図ろうとする校長の職務命令によって得られる利益のほうが、大きいと考えられる。

 それから、処分の相当性についても、これは合憲であると言える。何故ならば、ピアノ伴奏拒否という職務命令違反に対して行われた戒告という処分は、処分の中でも一番軽いものである。教師の行った職務命令違反と、それに対して下された戒告という処分による教師の人権への侵害の度合いとのバランスは、職務命令違反による利益の侵害を考慮しても、失していないと考えられるからだ。

 加えて、義務教育では一律公正な教育を施すのがその趣旨である。そして、入学式等の式典において、公立小学校では(建前上は)国旗を掲揚し、国歌を斉唱するということになっている。この点からも当該教師が処分対象となったのは当然である。ましてや、それを明記している学習指導要領に法的拘束力のあることを、最高裁は認めているのだから(伝習館高校事件判決)、当該教師は当然にこれに従うという法的義務を負っていたと解するのが自然である。

 上告人たる教師が、国旗や国歌にどのようなイメージを持っていても、それは自由であるし、国家がそこに介入し、考えを押し付けるのは論外であるのは言うまでもない。しかし、思想の自由は「内面においては」絶対的に保障されるのであって、それが行為となって表出すれば、保障の対象とはならないのは、たとえば、ある人を殺したいと「内面で」考えていても罰せられることはないが、それが「行為」となって表出すれば、殺人罪に問われるということを考えれば、当然に導き出される結論である。この教師の場合も同じだ。

 繰り返すが、この教師がいくら内面で国旗・国歌に関して拒否感を抱いていても自由だが、それが今回のように行為と結びついて現れれば、(しかも、地方公務員法32条には、「職員は・・・上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」と規定されているのだから)処分を受けるのはむしろ自然のことである。更に、謝罪広告事件際高裁判決が、「謝罪広告を新聞紙上に掲載することを命ずる原判決は、上告人に屈辱若しくは苦役的労務を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられない」と判示していることからして、当該職務命令が当該教師の信条を侵害し違憲であるとは言えない、とも言うことができる。

 学習指導要領の法的拘束力の有無に関しては、学習指導要領全てに一律に法的拘束力を認めてしまうと、教師による弾力的・創造的な教育の余地や、地方毎の特殊性を反映した教育を行うことを制約してしまうので、それは適切ではないが(この解釈は、旭川学テ判決の趣旨にも適うと思う)、今回の事件の場合、国歌の演奏というどこの地域でも普遍的である行為で、そこに地域毎の特殊性を考慮する必要は乏しいものと思われるし、教師による弾力的・創造的教育の余地を見出すこともできない行為を命令しているので、これら事情を考慮する類のものではないのと思われる。よって、今回の事件で問題となった小学校学習指導要領第3(特別活動)の部分に、法的拘束力を認めても憲法上差し支えないと考えられる。この解釈もまた、伝習館高校事件一審判決の示した学習指導要領を、法的拘束力のあるものと指導助言文書たる条項とに分け、これを正当としたという解釈にも適っていると思われる。那須裁判官が補足意見の中で、「個別具体的な教育活動がすべて教師」による「裁量に委ねられるということでは、学校教育は成り立たない面がある」と述べているのも、ここに繋がるものと言える。

 ここでは、藤田裁判官が本件において最も重要な問題点として挙げられた「教師といえども、自らの意思に反して特定の行為を強制されることは、憲法上許されるか否か」という点に絞って考えていきたい。

 これについて多数意見は、公務員は全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではなく(憲法15条2項)、加えて学習指導要領に法的拘束力が認められ、しかも公務員は校長などの上司の職務命令に従う義務が法律をもって定められている(地方公務員法32条)ことを挙げつつ、当該教師の「君が代」に抱く信条と、「君が代」のピアノ伴奏を拒否することは一般的に不可分に結びつくものではないので、国歌斉唱時に当該教師にピアノ伴奏を求めることを職務命令として発しても、その教師の信条を否定するものではないから、19条違反にはならないとしている。
 このような見解に対し藤田裁判官は、「本件における問題の本質は・・・入学式においてピアノ伴奏をすることは、自らの信条に照らし上告人にとって極めて苦痛なことであり、それにも関わらずこれを強制することが許されるかどうか」と問題提起をしている。この藤田裁判官の問題の本質とした点について、常識的観点に立ちつつ私見を交えながら論じてみる。

 思うに、常識的に考えて、社会生活を営むにおいて自身の信条に反しることなど、かなりあると思われる。たとえば共産主義を嫌悪する学生でも、「マルクス経済学」が必修科目になっていれば受講せざるをえないだろう。
 しかし、だからといってこれを「憲法違反だ」と主張することが、果たして社会通念上是認できることだろうか。すなわち、このようなことを主張することが、社会通念からして「確立されたもの」と言えるかどうか、ということである。この見方は、さきに示した謝罪広告強制事件判決の趣旨にも適っているだろう。

 この話は、民間のレベルに置き換えて考えてみると分かりやすいのではないか。たとえば、自身の信条に照らし、絶対に頭を下げたくない取引相手に、社の業務命令上仕方なく謝罪するという場合、三菱樹脂事件最高裁判決にしたがい、この業務命令に憲法19条を間接適用して解釈しても、民法上の公序良俗などに反するので無効、という結論にはならないだろう。なぜならば、そのような社会的コンセンサスが確立していなからだ。
 よって、当該教師が国歌に対し否定的な見解を抱いていても、国歌の伴奏を職務命令として発することは許されると考えられる。



 これは法的議論を離れた国旗・国歌に関しての個人的な意見だが、国旗・国歌とは、国家を家に喩えるならば、その家の表札のようなものであると思う。国家を家族で喩えるなら、苗字であると思う。表札だって苗字だって、その家族が外界と接することなく、家族内で生きていく上では不要であろう。しかし、そうはいかないのが現実だ。人は他人に対し、自己の名前を名乗ることによって、自分という存在(アイデンティティ)を他者に認識させるように、国家も海外諸国と関係をもつとき、国旗や国歌がその国の表札なり存在を他国に認識させ、「こういう国があるのだぞ」ということを示すものになっているのだと思う。つまり、国旗・国歌は、その国の存在証明をするのに不可欠なものであるということだ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。