ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

暴走する森山真弓①

2008年12月17日 | 二次元(児童ポルノ規制)
 文藝春秋編「日本の論点2009」に、森山真弓氏の論考「世界に恥ずべき日本の児童ポルノ文化―倫理なくして何が表現の自由なのか」は、読んでいて呆れてしまった。このような考え方の持ち主が法務大臣まで務めていたというのだから、世も末である。今回はこの森山真弓の、歪んだ思考を論駁していきたい。

 まず、彼女の発想の根底には、とにかく何か問題が発生したら、問題となったものは規制ないしは禁止すればいいという、安易かつ短絡的な規制・禁止指向があることは間違いない。しかし毎回、安易な規制・禁止論者は、それによって生じる弊害を往々にして看過する傾向にある。

 森山が、児童ポルノを規制・禁止すれば、子供の人権が保障され健全な成長を確保できるというのであれば、私は、逆に規制・禁止をすることによって生じる、アンダーグラウンドでの少女らの密売等の横行といった事態を危惧する。

 残念ながら、人間は欲望に忠実な生き物で、聖人君子のように自らを律することのできる者などそう多くはない。禁止されればされるほど、その禁止されたものが欲しくなるというのが人間の性である。禁止や規制による封じ込めが激しくなればなるほど、その反動として禁止や規制されたものを欲しようとする人間の欲望も高まる。



 ところで森山の性癖やフェチズムはどういうものなのだろう。森山にたとえば人には言えないような、顔を赤らめてしまうような性癖なりフェチズムがあったとしよう。もし仮にその性癖やフェチズムを禁止する法律が試行されたとして、森山は直ちにその性癖やフェチズムをやめることができようか。そもそもどうして国家権力によって、自分の性癖やフェチズムにまでいちいち口を挟まれ干渉されねばならんのだ。



 行為の自由は規制できるが、内心の自由は規制できない。これは憲法における人権概念のあたりまえの前提である。だからこそ、強姦罪も強制わいせつ罪も、それがはじめて行為という、内心を現実化させる段階において処罰をしているのである。森山は児童ポルノが、「異常な性欲を持つ大人を刺激する」と言うが、国家権力が、こちらは正常な性欲であちらは異常な性欲だ、と決めることに、何ら違和感を覚えないのだろうか。

 「異常な性欲」の持ち主から、児童ポルノを取り上げ、これを遠ざけたところで児童を標的にした性犯罪がなくなることはない。なぜならば性欲は変えられないからだ。むしろ児童ポルノは、「異常な性欲」の持ち主を、現実の犯罪に走らせず、これを抑制する役目を果たしているのではないか。



 ところで、「所持」という「行為」にまで規制の網を広げるということは、その所持の対象となる目的物が、明確かつ客観的に定義されねばならない。たとえば現在所持を禁止されているものとして刃物があるが、銃刀法22条において禁止の対象となる刃物を「刃体の長さが6センチメートルをこえるもの」とし、客観的明確に定義している。

 では児童ポルノはどうか。児童ポルノ法改正案では児童ポルノの定義が同法2条3項の各号においてなされいるが、どれも客観的かつ明確な定義ではなく、具体性を欠く。そもそも誰がどう見ても「これは児童ポルノだ!」と言えるものは実はそう多くはない。人によって判断がまちまちになる「児童ポルノ」なるものを、一律に規制することは、法を運用する者にとって都合のいい解釈が可能となり、国家権力の暴走を招く虞れもある。



 児童ポルノを所持するなり、これを鑑賞することによって児童への人権侵害が発生しているというのなら、そのことを証明してごらんよ。できやしないからさ。

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2 コメント

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Unknown ()
2008-12-18 23:47:34
爆弾の作り方とか自殺の仕方について書かれた本も規制すべきでないと思われますか?
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あさん (管理人)
2008-12-20 18:20:03
コメントありがとうございます。

私は基本的に表現の自由は重視したい立場ですので、あさんがご指摘したこれら本についても規制はしないほうがいいと思っています。

ただし、そこには当然に限界があるのであって、何でもかんでも自由に発表していいという野放しには賛成しませんが。
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