ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

どちらが「異常事態」か

2008年10月28日 | 死刑制度
「国際世論に背」 死刑執行に議連・市民団体が声明(朝日新聞)

 法務省が2人の死刑を執行したことを受け、「死刑廃止を推進する議員連盟」(会長、亀井静香衆院議員)や死刑に反対する市民団体は28日、抗議声明を発表した。議連事務局長の保坂展人衆院議員は「今年になって5回目で、計15人が執行される異常事態。国際世論に背を向けている」と話した。
 ジュネーブにある国連規約人権委員会は近く日本政府に対し、死刑制度などについて勧告を出すとみられる。このため議連では、「国連から何を言われても関係ないという意思表示にみえる」と政府を批判する声も出た。
 国連規約人権委員会の10月の審査では、日本の死刑や代用監獄制度などをめぐり、「10年前の前回審査時から問題提起に十分対応していない」などといった批判が相次いでいた。



 死刑制度の是非等を含めた検討は「死刑制度についてのまとめ」において詳細に行ったのでここでは死刑制度の詳細にまで立ち入らないが、保坂氏の言う「異常事態」という言葉が全く解せないので、この批判に再批判を加えたい。

 最新の情報によれば、今回の死刑執行によって、死刑確定者の数は101人になったという。まず、この数字を見て、何か違和感を覚えないだろうか。そう、刑が確定しているにもかかわらず、その刑が執行されずにいる者が101人もいる、ということについてだ。

 刑事訴訟法475条2項には、死刑の執行は「六箇月以内にこれをしなければならない」と規定されているにもかかわらず、これまで10年間での死刑執行までの平均期間は8年という。まず、こちらのほうが「異常事態」ではないのか。



 ところで、日本は法治国家である。法治国家は法の支配(rule of law)が貫徹されてなければならないのは当然である。法による支配の貫徹は、その法に付与された効果も現実になって、はじめて達成され得るものであるはずだ。だから、規定が作用していないザル法は、法の支配の実現に寄与しない産物である。そのような法は可及的速やかに廃棄されるか改正されなければならない。

 死刑制度(各法に規定されている死刑という刑罰)の効果は、死を伴う制裁である。この効果が現実に移されて、つまり、死刑囚に死刑が執行されてはじめて死刑制度が法の支配の一翼を担うたるに値するものになるということである。規定のみ存在し、それが実際に効力を発揮していない制度など、あってないようなものと同じである。よって、死刑の執行停止(モラトリアム)は、法の支配を揺るがすものであり、許されないと考えるものである。

 死刑制度について書くたびに何度も繰り返しているが、死刑を宣告された者達は、適正な法手続(due process of law)を経て、その刑を決定された者であって、決して無法な復讐劇の被害者ではない。国家が何の罪もない人間を突然連行して拘束し、死を与えるのならば当然問題だが、たとえ冤罪の可能性を考慮しても、裁判上で「クロ」と確定した以上、その者に制裁を与えなければ、法の支配が揺らぐことになる。

 死刑制度賛成派の私から言わせれば、「死刑制度」があるにもかかわらず、ましてや、その制度によって刑が確定している人間がいるにもかかわらず、死刑が執行される度に抗議することこそが「異常事態」なのであって、理解できない。そして、法務大臣という立場は、わが国法制度の中枢の存在であり、このポストにある人物が、既存の法の規定に背き、死刑の執行に反対するほうが「異常事態」であり、法制度に「背を向けている」ことになる。

 それにこれも以前述べたことなのだが、国際世論がどうであろうと、そんなものは関係なく、「国連から何を言われても関係ないという意思表示にみえる」ということでいいのである。というのは、死刑制度は「死」を扱うものであって、その国や地域のもつ死への考え方が如実に表れるものであり、その国や地域の死生観にかかわることである。そういった問題を、文化や宗教の異なる海外の国が死刑を廃止しているからといって、これに従うべきと考えるべきではないと思うのだ。死刑制度を存続させるか廃止するかを決定する基準は、海外の動向ではなく、死刑という法制度を有している国の国民の考え方であるはずだ。死刑とは人の生命を奪う制度である。他所の国がこうだからとか、国際世論の流れだからとかいった理由で存廃を決めるようなことは、絶対にあってはならない。



 思うに、死刑という制度があり、実際に現場では死刑を言渡され確定した者もいる。それにもかかわらず刑が執行されないというのは、法の支配を骨抜きにしているだけでなく、ある意味死刑囚にとっても無用の苦痛を与えることになっているのではないか。

 死刑が確定し、あとは死を待つのみとなった身。その者はいつ自分の「番」になるか気が気ではない思いで生きていかねばならない。生きた心地もなく、生き地獄であろう(だからこそ死刑囚には適度な運動(縄跳び)などをさせ、精神的に破綻することを防止している)。その生き地獄が今までは8年も続いたのだ。見方によっては、このほうが残酷であり、人権を蹂躙しているように思われる。少なくとも自分が死刑囚ならば間違いなく発狂してしまうだろう。死刑執行に抗議する者たちは、死刑囚の置かれたこのような精神状態に思いを馳せることはないのだろうか。



 それに、実は死刑を宣告され、死刑を待つ身になったほうが、贖罪意識は高まるとの実務家からの報告もあるのだ。死刑を宣告されたことによって、相手を殺めた者がはじめて「死」を意識するようになり、自分の犯した罪の重大さに気づき、反省するということらしいのだ。死刑制度は思わぬところで効果を発揮していたと言えよう。

 死刑執行の数の多さを「異常事態」だと非難する前に、死刑制度の意義をもう少し丁寧に考え直してみてはどうか。私は、人を殺した者は特別な事情のない限り、原則死刑でいいと思っている。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。