ひとり井戸端会議

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夫婦別姓の根拠に人格権を据えること

2010年04月10日 | 民事法関係
民主、政策集作成を中止 リベラル色薄め批判回避(産経新聞) - goo ニュース

 民主党は8日、毎年公表してきた党の総合的な政策集「INDEX」の平成22年版(インデックス2010)の作成を見送る方針を固めた。従来のインデックスには、永住外国人の地方参政権の早期実現などリベラル・左派色が濃い政策が数多く盛り込まれており、民主党は昨夏の衆院選マニフェスト(政権公約)でこれらの政策を除外した経緯がある。7月の参院選を前に22年版の作成を見送ったのは、リベラル色を薄めることで自民党などの批判をかわす狙いがあるようだ。
 民主党はマニフェストだけを「国民との約束文書」としており、インデックスは公約とは位置づけていないが、党内で検討された政策であることは間違いない。
 昨年のインデックス2009には、政治改革、財務・金融など21分野350項目を列挙した。「クマ被害対策」などの項目もあるが、イデオロギー色の強い政策も数多く含まれており、永住外国人の地方参政権については「早期実現の方針を維持」と明記。選択的夫婦別姓は「民法を改正し、導入」とした。靖国神社については「A級戦犯が合祀(ごうし)されていて公式参拝には問題がある」とし、「特定の宗教性を持たない新国立追悼施設の設置の取り組みを進める」と記した。先の大戦の真相究明を目的に「国会図書館に恒久平和調査局を設置」も掲げている。



 夫婦別姓に関する議論を俯瞰していると、別姓賛成論者は、その根拠を人格権に求めるようである。たとえば、「氏名を人格権として捉えるならば、氏名の一部である氏について、本人の意思に反して改姓を強制することは、人格権の侵害として許されない。」と述べる者もいる(二宮周平『家族と法』岩波新書、2007年)。そこで今回は、(選択的)夫婦別姓の根拠として「人格権」を据えることにより生じる結果について考えてみたい。


 そもそもとして「人格権」とはいかなる内容の権利なのであろうか。同権利を要領よく定義することは非常に難しいが、人格権とは人格的な諸権利の総体であり、具体的には生命・身体や健康はもとより、自由や名誉やプライバシーなどの人格的属性を有する法益すべてが含まれる(五十嵐清『人格権法概説』有斐閣、2003年)。この中でもとりわけ人格権は精神的人格について、これを保護法益とみなしていると言える。

 そうすると、確かに夫もしくは妻の氏を名乗るかは、その者の人格権に関する問題であるように思われる。要するに、人格権の保護を貫徹するならば、夫婦どちらの氏を名乗るかについて、個人が自由に決定できなければならないし、自分の氏に愛着等を抱く者に、相手方の氏を強制することは人格権の侵害になろう。よって、夫婦どちらの氏を名乗るかを夫婦で自由に選択できる選択的夫婦別姓は、人格権の保護に欠かせない制度である。


 しかしながら、本当に個人の人格権の保護を貫徹しようとするならば、これでは甚だ不十分ではないか。

 まず、現在の政府案では、子の氏については夫婦どちらかの氏に統一するというが、これは子の人格権の侵害である。

 というのは、子からしてみれば、夫婦どちらの氏も受け入れ難い場合があろうと考えられるからだ。子によっては日本人なのに、キムやチャーチル、アレックスと名乗りたがるかも知れない。芸能人と同じ苗字がいいと言い出すかも知れない(笑)。現実的な事例で考えてみても、たとえば子がその苗字でいじめられて精神的苦痛を受けた場合、その回復手段として氏の変更もありうる。

 二宮周平教授は政府案では不十分だとして、「一定の年齢、たとえば、15歳以上になったときに、自己の意思でいずれかに変更できる権利を保障するのが望ましい」としている(前掲書29頁)。しかし、人格権というのであれば、毎日の服装のように、氏も名も好きに変えられるのが理想ではないのか。


 次に、人格権の思想に基づくならば、たとえば、欧米のように「ミドル・ネーム」や、モンゴルのように「実父の名前+子の名前」といったような氏名のつけ方や、果てはイスラム圏の一部の国のように氏自体不要とまで言い切らなければ、人格権も看板倒れである。

 だいたい、苗字の存在自体を人格権の侵害と考える者がいないなどと、一体誰が証明できようか。これこそ、別姓論者が常に唱える「家族の多様化」の精神と合致するものであるはずだ。

 要するに、人格権の保障を全うするならば、氏の統一など図る必要は全くないし、名でさえも、親から一方的に与えられたものを名乗るのではなく、自分で好きな名をつけて、好きなように名乗ればいい。なぜならば、別姓派の言うように、「氏が違う程度で家族が崩壊することはありえない」からだ。



 ここまで述べてきて何が言いたかったのかと言えば、夫婦別姓の根拠に個人の人格権を据えることは、家族の枠組みをどのようにも変えることができ、非常に危険だということだ。

 別姓派の言うように、夫婦別姓を実施した程度で家族の崩壊が起こらないとしても、バックボーンに人格権という思想が存在する限り、いくらでも家族制度など解体することができるのである。

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