ひとり井戸端会議

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どうして「乗っ取られる論」は駄目なのか?―補足

2010年04月10日 | 外国人の人権
 前回「乗っ取られる論は使えない」において、外国人参政権付与反対の根拠として、付与をしたら日本が外国人に乗っ取られるという「乗っ取られる論」は使えないと述べたが、これの補足説明をしておく。



 たとえば、「乗っ取られる論」に基づく考え方として、外国人であれば、その本人の意思とは別にして常に日本乗っ取りの可能性は付いて回るという危惧が存在すると思われる。しかしながら、これを言い出せば、帰化した「外国人」も同様である。つまり、帰化したからといっても「安心できない」ということになる。しかし、私としてはこうした「差別的」な発想に基づく反対論が、一般的に受け入れられる可能性は著しく低いと思う。

 だいたい、「乗っ取られる」危険性というのであれば、現在、日本での帰化の条件において、日本国への忠誠義務を誓わせたり、アメリカのように日本のために武器を持って立ち上がれるかといった質問がない以上、それこそ表面上は日本人、しかし内面は他国の工作員のような人間だっていないとは言えない。よって、乗っ取られる論を貫徹するのならば、帰化した「外国人」にも、参政権を付与するのは危険という主張をしなければならないはずだ。


 そして、これこそが本旨なのだが、、「乗っ取られる論」を出すと、憲法違反論を引っ込めないと整合性が取れないということになり、これは(一応は)強力な反対論のうち、一方を捨てるということになる。

 これらがどうして両立しないかと言うと、「乗っ取られる論」は危険性からのアプローチであるので、これは換言すれば、そのような危険性がなければ、もしくはなくせれば外国人にも参政権を与えることが許されるという結論を甘受しなければ成り立たない。

 しかし、本来参政権というのは、国民「固有の」権利であるので、危険性の有無に関係なく、外国人には与えることのできない権利なのである。これは前回も書いたように、最高裁の見解とも合致する。

 したがって、外国人参政権違憲論は、「外国人であるという時点で」参政権の付与は許されないという立場を採用することになる。

 しかし、「乗っ取られる論」では、その危険性さえ払拭できれば、究極的には外国人であっても参政権を容認できる余地があるということになり、両者は矛盾するのは明白でありる。

 よって、実益という面から言えば、「乗っ取られる論」は賛成派に付け入られる隙を与えることになり、違憲論よりも遙かにデメリットが大きいと言える。



 以上のことから、私は「乗っ取られる論」は使うべきではないと考える。

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