イルカ漁映画『ザ・コーヴ』が記録的スタート!全国で劇場が超満員で入場できないほどの盛況に - goo 映画
日本でのイルカ漁を描いた映画『ザ・コーヴ』が、一時は抗議による上映中止に追い込まれながらも、7月3日に全国6か所で公開され、渋谷・シアター・イメージフォーラムでは7月3日(土)初日と4日(日)の2日間、全6回がすべて満席になる記録的なスタートとなった。
配給元のアンプラグドによると、平日になっても動員は落ちず、月曜日の初回も90%以上の入りとなっている。各回とも開始時間の30分程度前から満席になり、常に数十人がチケットを購入できない状態だという。
観客の年齢層は比較的若く、20代~30代がメイン、男性・女性の比率は、半々だという。カップルの姿も目立ち、デートムービーになっていることが特徴。初日には抗議活動も懸念されたが、その後はトラブルもなく、静かに上映が行われているそうだ。
また大阪・第七藝術劇場でも立ち見の回が続出し、土日の全6回で充席率は96%となった。物販の売り上げも非常によく、パンフレットの平均購買率は観客の30%以上となっている。アンプラグドでは、急きょ公開が決まったこともあり、しばらくの間は変則的なタイムスケジュールになっているが、ロングランが見込める出だしとなったコメントしている。
そのほか京都でも満席が続いており、ローカルでも映画『ザ・コーヴ』の認知度の高さが実証されたこととなった。今後、トークショーやティーチインなどを各劇場で実施が予定されている。全国での上映決定劇場は、7月5日時点で北海道・シアターキノが加わり25劇場となっている。
私は上映自体には反対しないし、イルカ漁を否定するのも構わないと思う。それこそ「言論の自由」だからだ。よって、この映画を「反日だから許すな」という意味不明の主張にも与しない。しかし、この映画の製作者たちの根底に流れる独善性だけは断じて許すことができない。
まず、私が腹が立ったのは、被写体の承諾さえも得ず、盗撮をし、挙句不法侵入まで犯すという、モラルが問われることはもとよりれっきとした法に抵触する行為をしておきながら、上映中止を求める声に対し、「言論の自由への冒涜」(リック・オバリー氏)とこれを批判することだ。
言論の自由は確かに大切である。だからこそ私も、イルカ漁へ異議を唱える言論活動をやめろと言うつもりは毛頭ない。しかし、自らの自由を主張する前に、一方的に盗撮をし、不法侵入まで犯した自分たちの愚行を詫びるのが先なのではないか?言論の自由と言うのであれば、その権利を行使する代わりに迷惑を被る人たち(太地町の漁民ら)に配慮をまず見せるのが筋というものだ。
次に、彼ら製作者サイドは、太地町のイルカ漁を「伝統でも文化でもない」(前出のオバリー氏)と言うが、これはあまりにも撮影対象への配慮の欠けるというものだ。それならば彼らは一体何をもって「文化、伝統」というものを定義するのか、教えてもらいたい。
また、太地町のイルカ漁について「わたしの国(米国)では奴隷制度を伝統文化と主張してきた。伝統文化を変えることを恐れないでほしい」(オバリー氏)と和歌山での講演会で言ったらしいが、これはわが国の伝統、文化への最大の冒涜でしかない。(そもそも、彼は気付けてないようだが、すでに前者と後者の発言が矛盾している。)
太地町の人たちの捕鯨は沖から離れて活動することは技術的に無理であったため、したがって乱獲することは不可能であるので資源の枯渇という問題は考えられないものである。このように、まさに自然と共生してやってきた捕鯨を、悪名高き奴隷制度と同列に並べてやめろというこのデリカシーのなさは許し難い。
捕鯨文化論が専門の高橋順一教授によれば、教授が太地町を調査した研究結果について、太地のアイデンティティ認知の根幹に「捕鯨文化」があることを論証している。要するに、太地の人たちにとってイルカ漁は切っても切れない関係であり、それこそ帰属意識の根幹をなすものなのである。
ここでもし、太地の人たちが捕鯨を中止「させられたら」、それは単に経済的な問題だけにとどまらず、アイデンティティ喪失、社会構造の崩壊という極めて深刻な事態を生じさせることになるが、彼ら製作者たちはそこまで考えが及んでいるのだろうか。
そのような「文化」を、奴隷制度と同列に並べることは、彼らがこの映画を、自分たちのプロパガンダを垂れ流すための道具にしているということを証明する。要するに、最初から自分たちのイデオロギーが結果ありき的に存在し、それを都合よく垂れ流すための映画なのだから、被写体への理解もイルカ漁への配慮も全くないのは当然ということになる。だからこうした失礼な発言が口をついて出てくる。
なので、水銀値がどうのという主張も、全く説得力を持たない。おそらく、こうした主張も、ただイルカ漁反対の姿勢に終始するとプロパガンダ映画丸出しになるので、少しでもその意図を紛らわすために科学を装ってるにすぎず、こんなものは二次的な理由に過ぎない。
だいたい、本当に水銀値が危険ならば、それを主張すればいいだけであって、こんな映画を製作する必要はないだろう。それに、太地の人たちは彼らが心配するまでもなく、長生きなのである(笑)。
ところで、今回の「騒動」を過去の「YASUKUNI」と同じものとする議論があるが、それは全く的外れだ。
というのは、私は「YASUKUNI」を観てきたが、それはもう確かに酷いメチャクチャな映画だった。しかし、少なくとも被写体に撮影許可は得ていたし、不法侵入したりすることなく、最低限のマナーというか法に抵触するような真似はしていなかった。また、監督も左翼染みていたが、被写体への配慮はそれなりにしていた。
これに対して今回のは、全くそうしたことがないのは既に述べたとおりだし、「YASUKUNI」のときは、この作品が文化庁が税金を出すに値するものなのか、という点が争点だったのに対し、今回のは製作者側のあまりに一方的な態度と、異なる文化に対し土足で踏み入り、自分たちのエゴを押し通そうとするという、このデリカシーのなさが問題なのであって、全く事情が異なる。
私は製作者側のデリカシーの無さと、そこから垣間見える文化帝国主義的な独善とに、心底嫌悪感を覚えるものである。
日本でのイルカ漁を描いた映画『ザ・コーヴ』が、一時は抗議による上映中止に追い込まれながらも、7月3日に全国6か所で公開され、渋谷・シアター・イメージフォーラムでは7月3日(土)初日と4日(日)の2日間、全6回がすべて満席になる記録的なスタートとなった。
配給元のアンプラグドによると、平日になっても動員は落ちず、月曜日の初回も90%以上の入りとなっている。各回とも開始時間の30分程度前から満席になり、常に数十人がチケットを購入できない状態だという。
観客の年齢層は比較的若く、20代~30代がメイン、男性・女性の比率は、半々だという。カップルの姿も目立ち、デートムービーになっていることが特徴。初日には抗議活動も懸念されたが、その後はトラブルもなく、静かに上映が行われているそうだ。
また大阪・第七藝術劇場でも立ち見の回が続出し、土日の全6回で充席率は96%となった。物販の売り上げも非常によく、パンフレットの平均購買率は観客の30%以上となっている。アンプラグドでは、急きょ公開が決まったこともあり、しばらくの間は変則的なタイムスケジュールになっているが、ロングランが見込める出だしとなったコメントしている。
そのほか京都でも満席が続いており、ローカルでも映画『ザ・コーヴ』の認知度の高さが実証されたこととなった。今後、トークショーやティーチインなどを各劇場で実施が予定されている。全国での上映決定劇場は、7月5日時点で北海道・シアターキノが加わり25劇場となっている。
私は上映自体には反対しないし、イルカ漁を否定するのも構わないと思う。それこそ「言論の自由」だからだ。よって、この映画を「反日だから許すな」という意味不明の主張にも与しない。しかし、この映画の製作者たちの根底に流れる独善性だけは断じて許すことができない。
まず、私が腹が立ったのは、被写体の承諾さえも得ず、盗撮をし、挙句不法侵入まで犯すという、モラルが問われることはもとよりれっきとした法に抵触する行為をしておきながら、上映中止を求める声に対し、「言論の自由への冒涜」(リック・オバリー氏)とこれを批判することだ。
言論の自由は確かに大切である。だからこそ私も、イルカ漁へ異議を唱える言論活動をやめろと言うつもりは毛頭ない。しかし、自らの自由を主張する前に、一方的に盗撮をし、不法侵入まで犯した自分たちの愚行を詫びるのが先なのではないか?言論の自由と言うのであれば、その権利を行使する代わりに迷惑を被る人たち(太地町の漁民ら)に配慮をまず見せるのが筋というものだ。
次に、彼ら製作者サイドは、太地町のイルカ漁を「伝統でも文化でもない」(前出のオバリー氏)と言うが、これはあまりにも撮影対象への配慮の欠けるというものだ。それならば彼らは一体何をもって「文化、伝統」というものを定義するのか、教えてもらいたい。
また、太地町のイルカ漁について「わたしの国(米国)では奴隷制度を伝統文化と主張してきた。伝統文化を変えることを恐れないでほしい」(オバリー氏)と和歌山での講演会で言ったらしいが、これはわが国の伝統、文化への最大の冒涜でしかない。(そもそも、彼は気付けてないようだが、すでに前者と後者の発言が矛盾している。)
太地町の人たちの捕鯨は沖から離れて活動することは技術的に無理であったため、したがって乱獲することは不可能であるので資源の枯渇という問題は考えられないものである。このように、まさに自然と共生してやってきた捕鯨を、悪名高き奴隷制度と同列に並べてやめろというこのデリカシーのなさは許し難い。
捕鯨文化論が専門の高橋順一教授によれば、教授が太地町を調査した研究結果について、太地のアイデンティティ認知の根幹に「捕鯨文化」があることを論証している。要するに、太地の人たちにとってイルカ漁は切っても切れない関係であり、それこそ帰属意識の根幹をなすものなのである。
ここでもし、太地の人たちが捕鯨を中止「させられたら」、それは単に経済的な問題だけにとどまらず、アイデンティティ喪失、社会構造の崩壊という極めて深刻な事態を生じさせることになるが、彼ら製作者たちはそこまで考えが及んでいるのだろうか。
そのような「文化」を、奴隷制度と同列に並べることは、彼らがこの映画を、自分たちのプロパガンダを垂れ流すための道具にしているということを証明する。要するに、最初から自分たちのイデオロギーが結果ありき的に存在し、それを都合よく垂れ流すための映画なのだから、被写体への理解もイルカ漁への配慮も全くないのは当然ということになる。だからこうした失礼な発言が口をついて出てくる。
なので、水銀値がどうのという主張も、全く説得力を持たない。おそらく、こうした主張も、ただイルカ漁反対の姿勢に終始するとプロパガンダ映画丸出しになるので、少しでもその意図を紛らわすために科学を装ってるにすぎず、こんなものは二次的な理由に過ぎない。
だいたい、本当に水銀値が危険ならば、それを主張すればいいだけであって、こんな映画を製作する必要はないだろう。それに、太地の人たちは彼らが心配するまでもなく、長生きなのである(笑)。
ところで、今回の「騒動」を過去の「YASUKUNI」と同じものとする議論があるが、それは全く的外れだ。
というのは、私は「YASUKUNI」を観てきたが、それはもう確かに酷いメチャクチャな映画だった。しかし、少なくとも被写体に撮影許可は得ていたし、不法侵入したりすることなく、最低限のマナーというか法に抵触するような真似はしていなかった。また、監督も左翼染みていたが、被写体への配慮はそれなりにしていた。
これに対して今回のは、全くそうしたことがないのは既に述べたとおりだし、「YASUKUNI」のときは、この作品が文化庁が税金を出すに値するものなのか、という点が争点だったのに対し、今回のは製作者側のあまりに一方的な態度と、異なる文化に対し土足で踏み入り、自分たちのエゴを押し通そうとするという、このデリカシーのなさが問題なのであって、全く事情が異なる。
私は製作者側のデリカシーの無さと、そこから垣間見える文化帝国主義的な独善とに、心底嫌悪感を覚えるものである。