のらねこ一家の旅日記

遠くの旅から近くの散歩で気になった、ちっちゃな事件から大きな事

群馬県太田市の山城「新田金山城」、(昔の画像)。

2023年08月24日 | 
この夏は酷暑つづきで出かける気力がわきません(この暑さは老人は死に直結しますからね?)。
そんな訳で、今回も以前に出かけた「お城」ネタを掲載いたします(こまった時は城だのみ♪)。

   
こちらの城郭も訪問したのは2回♪、1回目は何事もなく登れた山城も2回目は死にかけました。
人って15年でこんなに老いるとは思ってもみませんでした(さらに若い頃の山城は絶対無理?)。

   
さて「金山城」ですが、お城ブームなんですかね 山城にしては若い方が多く見受けられます。
昔は、有名な観光地でないかぎり こんな山頂まで登ってくる人なんていませんでしたね。

   
新田金山城は東日本の戦国城郭としては珍しく「石垣の城」でごっつい感じです。
おそらく年齢的に3回目の登城はないでしょうね(目に焼き付けて下山しました)。
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武田氏VS家康 攻防の城郭、(昔の写真)。

2023年08月22日 | 
大河ドラマで「どうする家康」が放送されていることを思い出したので静岡の城郭を掲載します(ネタ切れかですね)。
こちらの田中城は2度訪問しています、最初は30年ほど前、2度目は御殿らしき物件が復元移築されたときでした。

   
初めて訪問した時は、平城ということもあり城の正確な位置がわからず住宅街を彷徨い歩いた記憶があります。
2回目は明確な案内板も設置されていて彷徨うこともありませんでしたね(スマホのナビ機能のフル活用♪)、

   
田中城は今川氏の時代に整備されその後、徳川と武田の攻防の最前線となったそうです(城将は武田の依田氏)。
依田信藩は武田家滅亡まで城を猛攻から守りぬいたそうです(穴山梅雪のとりなしで降伏し開城したそうです)。
家康は依田信藩をスカウトしようとしたそうですが、誘いを断り武田の旧所領へ戻り他勢力と戦い続け戦死。
田中城はというと、その後 江戸期になると田中藩がおかれ おもに徳川家の譜代大名が治め明治を向かえました。
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後北条氏の城郭要塞「八王子城」、(少し昔の画像)。

2023年06月14日 | 
八王子の山岳に築城された八王子城跡、こちを訪れたのは2度目(添付画像は2回目のものになります)。
初回の画像は夕方に到着し登ったため枚数も少なく、その画像もPCトラブルですべて消失してしまいました。

   
夕方から夜にかけて一人で訪れたことを知人に話したところ「バカじゃないの」と言われましたね。
有名な「心霊スポット」らしい?、オヤジは鈍感なんで何も感じませんでしたけどね(問題ありません)。
て言うか、城巡りをしていた頃 何処とは言えないけど「かなりやばい感じ」のとこ幾つかありましたよ。

   
さてと「八王子城」が本格的に築かれたのは後北条の頃で、それまで近くにあった滝山城では大軍勢を防ぎきれないと判断したため。
しかし、豊臣連合軍(上杉、真田、前田)の猛攻を防ぎきれず陥落、まぁ~攻め手側のメンバーを見るだけで無理かなと思いますよね。
それに当時、城守であった名将「北条氏照」は主力をつれて小田原籠城戦に向けて小田原城へ移動していたので守り切れる訳ありません。

   
3000VS15000の無益な戦い、攻守側はわずか1日で陥落してしまいました(主力がいれば少しは・?)。
さて2回目の訪問は、本丸まで登る体力も無くなってしまいましたので「御主殿跡」周辺を散策し下山しました。
また今回も鈍感なオヤジは何も感じませんでした♪(昔から注意していたのは「くまさん」と「マムシ」くらい)。
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水運の要の城「関宿城」、(少し昔の画像)。

2023年05月19日 | 
利根川と江戸川が分かれる場所に建つ関宿城、ここを訪れるのは約24年ぶりかな。
以前、PCトラブルで資料のほとんどを失ったため再訪いたしました(泣きました↓)。

   
初めて訪れた当時と変わらぬ風景(少し樹木が成長した以外)、当時を思い出します。
当時、大雨のあとということもあり そこかしこに「マムシ注意」の看板の思い出が。

   
当時、城郭を堪能した帰り道、近くに「城跡の碑」!、こちらが本当の城跡らしい。
関宿城の遺構は のちの河川改修でそのほとんどが失われてしまったそうです(残念)。
その時の思い出をかみしめつつ、いまだに当時の資料を捜索中のオヤジです(終活?)。
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利長の隠居城「高岡城」、(昔の画像)。

2020年05月02日 | 
感染症の影響で、休日の{お出かけ}ができていません↓(自宅に軟禁状態なのです?)。
そんなわけで、ネタもないので久しぶりの{お城ネタ}、今回は「高岡城」にしますね♪。

   
高岡の街に築かれた「高岡城」を最後に訪れたのは十数年前です・(その時のデータはPCトラブルでパ~↓)。
その城内は公園となっており、当時の遺構は堀や土塁くらいでしょうかね?(敷地内には資料館もありました♪)。
一国一城令により城としての機能はわずかでしたが、のちに米蔵などが置かれ「隠れ城」として残されたらしい?。


今 オヤジは、必死に復元できた数枚の画像を眺めながら 遠い昔に思いをはせています♪(懐かしか~)。
今回 会社の連休も大幅に増えたのに自宅軟禁中のオヤジ(妻が監視番?)・早い終息を待つばかりです👏。
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西海の城郭「平戸城址」、(昔の画像)。

2019年09月13日 | 
久しぶりの「平戸城」訪問♪、過去に何度か訪れているのだけど なぜか写真が1枚も残っていません、(なぜじゃ?)。
ともかく今回の画像だけは大事にとっておこうと思い専用ホルダーに保管していました、(大事にせんといかんばい)。

   
さてこの地平戸は国替えもなく はるか昔から松浦氏が幕末まで治めてきた地だそうです(元寇にその名があります)。
さらに国際貿易港として栄え、島内にはポルトガルやイスパニアなどの領事館が置かれていたそうです・(はるか昔)。

   
その後、国際貿易港としてのちいは長崎へと移されましたが、その後も長崎と他の港街とを結ぶ中継港として栄えました♪。

   
そんな城址にたたずむオヤジ♪、ただただ川のように流れの早い「平戸の瀬戸」を{ぼんやり}眺めるのみでした♪。
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肥前の古城「釜蓋城跡」、(昔の画像)。

2019年09月10日 | 
島原半島のつけねに築かれた城郭、その城跡に建つ天守を模した展望台からの風景は絶景です♪。
眼下には千々石湾が広がり、湾と城との間には国道が通っています・(有馬氏を守る要衝の地です)。
この地を粘り強く守ったのが千々石氏ですが有馬氏と龍造寺氏の戦いのなかで滅んでしまいました。

   
その城跡は、現在公園としてよく整備されているため、素人目には遺構が分かりにくかったですね。
そして千々石氏の子孫の一人が「千々石ミゲル」と言われています(歴史の教科書に出てました?)。
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中世の城郭「肥前山田城」、(昔の画像)。

2019年07月19日 | 
長崎県は島原半島の付け根に築かれた中世の城郭・当時私は、島原鉄道「吾妻駅」に降り立ち{てくてく}歩いて向かっています。
さて、目指す城跡は何処でしょう?(当時スマホなんて無いですからね)・おそらく あの小山じゃないかなとの予想です(ほぼ感です)。

   
到着した山田城、築城は1300年代 肥後の「田原氏」、その後 有馬氏に仕えた「山田一族」の居城となったらしい?。
のちに、有馬氏が岡本大八事件にからみ日向「延岡」へと転封となり山田城は廃城になったそうな?(遠~い昔話しでした)。
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北陸の古城「大聖寺城」、(昔の画像)。

2018年12月31日 | 
北陸石川県に築かれた「大聖寺城」、記録に残る築城者は鎌倉時代の「狩野氏」らしい。
その後、城主はめまぐるしく代わり江戸時代に加賀藩から立藩し「大聖寺藩」が誕生!。

   
まぁ~、にわか城マニアにわかるのはここまで↓、なにせ当時、暗くなった城跡に登城する勇気などありませんでした。
川の側の「長流亭」と時の鐘を見学して帰りました、最後に訪れたのは約8年前かな?(懐かしい思い出の一つです)。
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通称「朝日城」博物館!、(昔の画像)。

2017年09月22日 | 
朝日城と言う博物館、正式名称は「鶴来博物館」♪、もともとは地元の名士「山田勘太郎氏」が建てた別荘だそうだ。
その後、白山市に寄贈され博物館になりました、正直ここを城ジャンルにいれるか迷うところですがね・(微妙?)。

   
すぐ裏には「清沢願得寺」という砦もあるし、それにどこの城跡にも模擬天守が建ち博物館になっているので仲間入りかな・(無理くり?)。
少し清沢願得寺砦も見てきましたが公園の中に石碑のみ、付近の散策もせず次の城郭へと移動しました(当然の様に博物館もスルーです)。
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