
「子どもというものは天からの授かりものではなく天からの預かりもの。」と言った人がいました。「そうだなぁ。」と私でも思います。小さい時は養育者なしには成長できない(生物学的には)弱い存在ですが、時期が来れば、当然のことながら、一人でも生きていけるようになります。またそうでなければまわりも本人も大変に困ったことになるでしょう。助け合い共存しあうことと、パラサイトとなって人に依存しながら生きていくこととは別問題ですから。子どもが親の持ち物でないことは誰でもが知っていることです。でも驚いたことに、気功の先生は、「何一つ自分のものではない。」と言われるのです。与えられたものなのだそうです。私自身のものは一つもない。私の身体でさえ私のものではないのだそうです。ならば、私以外の人が私のものであるはずはありません。でも巷では、「俺の彼女が…」とか「私の彼が…」と言い合って、恋人同士がお互いをお互いの、まるで所有物みたいにして仲良く睦みあっているではないですか?本当に羨ましい光景ですよね。そのことを気功の先生はどう説明されるのでしょうか?でも、有難いことに、唯一つ自分のものといってもいいものがあるそうです。それは「感謝する気持ち」だそうです。物事や誰かに感謝する気持ちだけは紛れもない自分のものなのなのだそうですヨ。自分のものが一つでもあって心底ほっとしました。
『無』ということを説いているのではないでしょうか?
自分のもの、他人のものという概念自体が無いってわけです。ある意味理想的な状態かも知れませんが、そうすると、『欲』というものも否定されちゃいますよね。
でも、僕は『欲』があるからこそ、人という種の繁栄があると考えてます。
そもそも今日の繁栄がなかったら、仏教というイデオロギーだって存在しなかったはずなのです。『欲』は、すべての産みの親なのかも知れません。
あと大切なのは、『欲』を『理性』によってコントロールすること。
最近は、この理性が弱い人が増えているように思えます。危機感を覚えます。
先生は次のように言われました。凡人が抱くのはただの感情に過ぎないが(感情というものを卑下して表現されているわけではなさそうでした。)…菩薩ともなると慈悲心、すなわち理性のある感情を抱けるようになるのだとのことです。十分にコントロールのきいた理性的な判断の伴った感情。でもそんな感情がこの世に存在するのかどうか…私には分かりません。菩薩になれば慈悲心を持つことが可能になるのでしょうネ。どうもこのあたりに、この謎を解く鍵がありそうな気がしますが、いかがなものでしょう?