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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

さよならの季節

2006年04月02日 | 日々の泡
春は寒暖の差が激しい上に風の強い日も多く、梅や桜は咲くものの、桜はあっという間に咲いては散っていくので、気分的には桜の美しさを愛でるよりは、その移ろいの儚さに、胸がちりちり痛む感じの方が増したりもします。しかも、学校では入学式や卒業式が…、職場では異動の辞令が交付されて、悲喜こもごもの出会いと別れがあちらこちらで繰り広げられます。「またね!」の別れもあれば、もう二度とは会えない別れもあります。こうした環境の変化や人との別れにはメッポウ弱い私です。

人生は無常。人の心も無常。変わらない信頼や友愛を望んでも、人間関係は一人で営めるものではありませんので、私一人が力んでも仕方のないことという諦観を徐々に身につけていくようになりました。そして少しずつではありますが、いつの間にか、離れていく人の心には深追いは禁物と自戒するようにもなっていました。

ところが、そうは容易く移ろうものではない人間関係や集団と関わるようになって、私は人との関わりには、システムや仕組みが、その存続にとって大事な要素であるということを知るようになったのです。

学校や職場というシステムは、短いサイクルでシャッフルされ、そこに居る人々を他の場所に移動させます。社会という仕組みの中で、マンネリを防ぎ、集団に新鮮な空気を吹き込む為には、それは必要な仕掛けでもあります。ずっと同じ顔をつき合わせて生活するのでは息が詰まるというものですから、極めて精巧な良く出来た仕組みだとも言えます。

宗教団体などの形態に言えることですが、自ら望んで、ある集団に帰属し、そこでの人間関係を心の拠り所や支えとして生きていく…というようなあり方も、生きる上での大きな支えを作り出す仕組みで成り立っている…と考えるようにもなりました。ある住職さんが、「真の宗教心とは母親の胸に無心で抱かれている赤ん坊に象徴されるようなものだ。」と表現されていました。「騙されているのではないか?」「この教えは本当のものだろうか?」などという邪推や疑心暗鬼に捉われることなく、「安心しきって己を委ねられてこそ得られるものだ。」と説明してくださいました。けれど、宗教というものにも人間が介在する以上、宗教に対する帰依も無心な心一辺倒では済まされないでしょうから、とても難しい問題です。

私利私欲(完全に私的な利益がないということとは別)に捉われない一つの目的(社会性を保持した内容を持つ)に向かって、そのことに対するパイオニア精神を持った人たちの、自然発生的な(そこに集まる前は最初は見ず知らずの他人であった)集団が持ちうるパワーというものの大きさは、そこに所属する人間に、厳しい孤独と共に、一人ではないという真の安定感をももたらすものだということを今頃になって知ったのです。が、これももしかしたら、私の幻想かもしれません。

人間は元来弱いものでもありますので、仕組みを上手く取り入れた生き方を知り、これを活用することは人間関係を単なる消費で終わらせないための大いなる智恵をもたらしてくれそうです。結婚や家族という仕組みは、今の社会では上手く機能することが非常に難しいからくりになってしまっているような気もしていますが、私は残念ながら、必ずしも、この問題を声高に語れる立場にはいません。社会の変化にも打撃を受けない仕組み作りがこれからの時代の(人が健やかに生き残るための)鍵になって行くような気もするのですが、どんな風雪にも耐えて生き残れる真実というものがこの世に存在するものなのかどうかということすら、私には分かりません。いずれにしても、伝統的なあり方のみではもはやこの謎を解くことは困難な時代がやってきていると私は感じています。新しい発想…時には破天荒で突拍子もないものの見方や考え方の方が、一陣の風となって、閉塞的なこの時代のやり切れない淀んだ空気を一掃してくれるような気がしてなりません。みなさんはどのように思われますか?

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