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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

情動

2005年11月16日 | 日々の泡
「情動の科学的解明と教育等への応用に関する検討会」という検討会報告に目を通す機会がありました。子どものこころを理解するキーワードとして【情動】という観点から議論を積み重ねた経過や、検討のポイントを【情動】に置くという発案に時代を読み解く先見性を感じました。検討結果に関する考察も通り一遍のものではないと、私には思えたのです。幾つかの研究成果がありますが、★子どもの対人関係能力や社会的適応能力の育成のためには適切な『愛着』形成が重要であることを提言している部分に、(今さら…という感じがしないでもありませんが)納得しきり…でした。以下は、その提言の内容を転記したものです。‘愛着とは、人と人との間で形成される相互の親和性(相手と一緒にいることを望み、一緒にいることで大きな安心感、満足感を感じられる関係)のことである。愛着には、「相互的な関係」、「情動的満足感」、「身体接触的関係」という要素が不可欠であり、「身体接触的関係」という点で友人関係とは異なるものとなる。子どものこころの健全な発育のためには適切な「愛着」形成が必要である。愛着は、」情動、さらには他人とのコミュニケーションや対人的適応能力を発達させるための機能的準備系になると考えられる。~後半の文章はすべて割愛~」ここで言う「身体接触的関係」とは母子あるいは子とその主たる養育者の関係を指しています。【健全】で【安定した】【危なげのない】【揺るぎない】情動の持ち主となるためには、その原型が形成されると考えられている誕生から5歳位までの間の養育者との関係のあり方が鍵になるようです。

情動の科学的解明と教育等への応用に関する検討会について [報告書]→【ダウンロード】という表示をクリックすると、報告書の内容の全文を読むことが出来ます。

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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情動か・・・ (Bliss)
2005-11-17 23:35:34
難しい言葉をつくり、定義しても、だから何?という感じがしてしまいます。

(風邪のため、頭が働いていないから余計にそう思えるみたいです。)

親の愛情をしっかり受けて育てば、自分が存在していいんだって思えるんだと思います。

そして、自分が親になったとき、同じように愛情を注ぐことができるでしょう。



一方、親の愛情を受けられなかった子は、自分が親になった時に、わが子にかける愛情表現がうまくできないことが多くなるでしょう。

その流れは、メビウスの輪のように繰り返されてしまいます。



最近の若い親は、愛情のかけ方が下手なようにみえます。愛情ではなく、自我の押し付けであったり、甘やかしているだけだったり・・・

どうすれば、次の世代を健全に育てていくことができるのか。悩ましい限りです。
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どうしたらいいの? (midnight_ray_polaris)
2005-11-18 17:53:05
情報は日々洪水のように押し寄せてきますが、新しい視点はなかなか盛り込まれていないし、読んでも、自分には必要ないからなのか、頭に入ってこないし、記憶にも残っていきません。なので、ほとんどの回覧物は内容のチェックもそこそこに、そのまま次の人に回してしまいます。そのように、一般的には、この手の報告書は、正しいことを、非の打ちどころのない論述でまとめあげているけれど、興味や関心は喚起されにくいという傾向にあります。けれど、この報告書に書かれてあることには、飛び飛びで部分的にではあっても、「読んでみたい!」と強く思わせられる内容が含まれていました。



親子間の情愛の交歓は、そのまま人間同士の愛情の交流にも置き換えることができるのではないでしょうか?たぶん、ヒトとヒトとの関係のあり方にも原型(元型)というものがいくつかあるのでしょう…。愛情をかけられた経験があれば、人への愛情のかけ方が分かるけれど、愛情をかけられたことが希薄だと人への愛情のかけ方が分からないというのでは、例えそれが真実だとしても、それでは、人間は体験したことがないことには、手の打ちようがないという理屈になってしまって、とても悲しいというか寂しい気持ちがしてしまいます。もし、親や養育者に十分な愛情を貰えなかったとしても、大人になる過程のどこかで、愛情の交換(交歓)の原型を学ぶ、あるいは知るチャンスがどんな人にも平等に与えられてしかるべきだという気がします。そうでなければ、私たちは親や子を選べない以上、どんな親の子として生まれたかによって、あらかたの要因が決められてしまうようでやり切れません。人間は、そうした自分ではどうにも出来ない事柄のために縛り付けられてしまうような不自由な存在ではないはずです。生きていく途上のどの時点でも、やり直しや学び直しのスタートが切れるのでなければ、運命や宿命という言葉に規定されたまま生きていかなければならないことになってしまいます。そんなバカなことはあってはならないことだと思います。
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