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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

メロンパン

2006年04月12日 | 日々の泡
メロンパンには懐かしい響きがあります。メロンパン好きな人は隠れファンも含めて意外に裾野が広いのではないでしょうか。私も一時期、メロンパンにハマっていたことがあります。朝日新聞の「読者と」という人生相談のコーナーで、明川哲也さんがメロンパン屋さんの専門店の開業を薦める…という変わったたとえ話を使って、巧みに相談者の悩みに対応されていました。相談内容は、寂しがり屋で、友人を失うことを恐れている32歳の女性が、「友人に対して自分ばかりが連絡を取ることが多く、それに対して、返事が来ないこともあったりするため、バカをみているような気分になってしまう。自己嫌悪や人間不振に陥りがちなので、友人に頼らずにもっと強く生きるべきか?」というものでした。明川さんは、寂しがり屋で友人を失うことを恐れているような人には、メロンパン屋さんがぴったりという導入で読者を引きつけていきます。以下にその回答の内容を転記します。『早朝から大忙しの仕事ですが、お客さんはほんのり笑ってくれるので苦労が吹き飛びます。それぞれのメロンパンに名前を付けていくのも楽しいです。「恋のメロンパン」「合格メロンパン」「セレブのメロンパン・シロガネーゼ風」「ちょいワル親父のちょいモテメロンパン」と色々あった上、それらをすべて開発していかなければならないので、いつもメロンパンのレシピで頭がいっぱいです。年賀状の返事をくれない人のことなんか、いつの間にか忘れてしまうでしょう。いえ、それだけではなく、あなたはメロンパン街道を歩んでいくうちに新しい人たちと出会います。お客さん、パン職人、ひょっとすると、あなたのことを陰で見守るアンパンマン(BYやなせたかし)が現われないとも限りません。それでね、たまには大切な人たちにメールではなく、メロンパンを贈ってあげましょう。みんな喜びますよ。ハッピーな人生です。』といった具合です。メロンパン屋さんでなくても、イチゴ屋さんでもバナナ屋さんでもOKと続きます。『今必要なことは、あなたなりの自立です。まだ見ぬ友人たちが、街道の向こうで待っていますよ。』と締めくくられています。

この相談者のような悩みを持っている人は意外に多いように思います。こういう悩みを持つということは即、自立していないと、人からは判断されることになってしまうのでしょうか?いくら仕事に忙しくしていても、そのことと、人恋しいと感じてしまう気持ちとは同時に並存するもののようにも、私には思われますが、どうなんでしょう。何でも結果は後からついてくるもののようです。けれど、つい「あれが欲しい。これも欲しい。」と考えてしまうのが人間ですよね。夢中になれるものを持って、その事に没頭して、自分らしく生きていれば、その姿を見ていてくれる人もいるかもしれない。その過程で、友人も出来るかもしれない…明川さんは、そういうことを言ってくれているのでしょうか?でも、見ていてくれる人がいない場合もあるかもしれませんし、友人も容易くは出来ないかもしれません。こう生きれば上手くいくとか、ああ生きれば青い鳥が手に入るとか、あらかじめ先が見通せる生き方なんて、どこにもないのでしょうね。何事もやってみなければ分からないし、何がいいかもその時点だけのことでは判断できないものです。明川さんが言われるように生きてみても、結果はどうなるか分からないのが人生ですよね。自分が納得のいくようにやってみるのが一番ですネ。少なくとも後悔だけはしたくはありませんものネ。

コンビニが危ない!!

2006年04月11日 | 日々の泡
24時間営業の力持ち。コンビには今や、街のキーステーションともなる場所です。危険が一杯の地域社会において、子どもたちの安全な逃げ場所としての役割も担ってくれる場所なのに、その経営実態には実に厳しいものがあることを知りました。年商たかだか350万円位なのだそうです。汗水たらして夫婦揃って働いて、それでは…生きることの過酷さを知るだけで、生きることの喜びや楽しみを味わう暇もないではありませんか!こんなことがあるなんてシステムが悪いとしか言いようがありません。システムが整っていなければ、どんなに頑張っても、人は幸せにはなれないのです!!!フランチャイズ・コンビニの裏側(1)

Win-Winの魔法

2006年04月10日 | 日々の泡
人間関係のパラダイムには6つの種類があるという考え方を始めて知りました。①Win-Win:自分も勝ち、相手も勝つ。それぞれの当事者が欲しい結果を得ること。②Win-Lose:自分が勝ち、相手は負ける。③Lose-Win:自分が負けて、相手が勝つ。④Lose-Lose:自分も負けて、相手も負ける。⑤Win:自分だけの勝ちを考える。⑥Win-Winあるいは、Win-Winでないのなら、No Deal:Win-Winの合意に至らなければ、取引はしないことに合意する。

勝ち組、負け組という言葉が盛んに使われていたことがあります。何か、とても不快な気分を誘う言葉ですが、私の率直な思いとしては、やはり、自分が負け組になることには耐えられないという実感を持っていましたので、せめて、勝ち組とはいかないまでも、負け組にだけは転落したくはないという切実な願いを抱いていました。ですから、このWin-Winの思想に出会うまでは、私も、人生を結局は勝つか負けるかの2極分化でしか捉えることが出来ていなかったということになります。これではどう考えても、人生が窮屈で実りのないものになって行くばかりです。言葉とはつくづく怖いものだと思います。言葉が与えられると、その言葉の持つ意味や概念が、(言葉を持たなかった時には、思いも寄らなかった意味や概念のはずなのに、)自分の思考の中に、元々存在してかのようなものとして、自然に定着してしまっているのですから…一旦、そうなると、新しいはずの考え方も、ずっと以前から、自分の中にあった思想のように馴染み深く感じられるものとなっているから不思議です。

この考え方のすごいところは、Win-Winがすべての場合や場面において優れているとは言い切れないと説明しながらも、結局は、Win-Win以外のパラダイムを選択したところで、真の問題解決や双方の心の安定には結びついていかない、Win-Win以外に現実的な解決方法は有益ではないという判断に基づいているところです。

さらに、人間の持つ‘動機’の問題にも触れていきます。ヒトの基本的な欲求の一番の土台にあるものは生命維持に関わるものですので、まずは、なんびとたりとも、死ぬか生きるかの危機に直面している場合には、命の安定以外のことに目を向ける余裕は生まれませんが、ひとたび、その部分の安全が保障されれば、ヒトは直ちに精神的な部分の潤いを求め始め、自分以外の人に、自分の価値を容認され、T-upされ、感謝され、愛され、必要とされ、常に信頼されることを願うようになるという事実に着目しています。

けれど、揺るぎない‘信頼’は美辞麗句によっては獲得することの出来ない‘何ものか’です。その人の、平素の、言葉だけではない行動や雰囲気がもたらす‘何ものか’です。「あの人は信じられる!」と思ってもらえるための要素とはどこからやってくるのでしょう?

私とあなたが関わる時、あなたが、私に関して経験する‘何か’です。私は常に、自分がコントロールしようのない‘何か’を周囲に発信しています。それは、言葉にすれば、「人格」とか「人柄」とかで表現される性質のものになるのでしょうが、それは秤にかけて重さや値打ちを数値では測ることの出来ない何ものかです。けれども、人は直感的に感覚的に、それを感知することが出来る存在のような気もします。

「満たされた欲求は動機付けにはならない」「満たされていない欲求こそが動機付けになる」という心理学的研究による実証結果があります。自分の枠組みを超えて、人の話を聴くことが出来るようになった時、相手に‘精神的な空気’を与えることが出来るようになるということです。一見、「あれ?」と意外に感じるようなことですが、人に影響を及ぼされる位の人間でないと、人にも影響を与えられないということの説明があります。ここでも、私は大きな思い違いをしていることに気づきました。人に影響を及ぼされるということは自我の弱さに起因しているように捉えていましたし、人に影響を与えるなどということが出来るはずはないことと考えてもいました。むしろ、影響を与えるなどということは、まるで洗脳の一種の行為のようにも思われ、少々邪悪な雰囲気を含むものとすら考えてもいました。でも、もしも真剣に、人との生き生きとした交流を求めるのならば、影響を受けたり与えたりすることはあまりにも基本的で当たり前のことと思えるようになってきたのです。

人との関わりにおいて、相手から精神的に満たされるものを受け取れていると感じられてこそ、初めて影響力が行きかい始める関係が醸成されていきます。 

私は長いこと、精神療法の勉強をしてきましたが、‘精神的な空気’という表現に出会ったのは初めてのことです。言葉は何でもいいのですが、その空気感というかニュアンスがとてもよく分かるような気がして、ひどく感動しました。

人をどう見るか?そんなことにも、この、パラダイムというものの概念・いかなるパラダイムを自分が持つか…ということが極めて重要な役割を果たしてくれるかということを知ったのです。あなたが私をどう見てくれるか?あるいは、私があなたをどう見るか?私の中に、あなたの中に、私を私らしく、あなたをあなたらしく機能させるパラダイムさえ出来上がれば、私たちは、真に信頼しあえる同志になれるかもしれません。少なくとも、もう、人間関係が今までのように重苦しいものではなくなっていくはずです。ここには、現実的な成長の可能性が存在しています。そして、それは留まるところを知らず拡大していく可能性を孕んだものでもあります。大いなる希望に出会えて、心はかすかに揺れながらも、静かで安定した凪のような状態にあります。

転機

2006年04月09日 | 日々の泡
「朝が来ないか!朝が来ないか!と朝が来るのを今か今かと待ち焦がれていたのに、いざ本当に、朝が来てみると、そのあまりのまぶしさに、思わず目を閉じてしまいそうになる!」というセリフが耳に入ってきた時、心から望んでいても、本当にその願望に向かい合う覚悟が出来ていないうちは、やはり幸せの予兆に対して、自ら目を閉じてしまうものなのかもしれない…と思い、改めて考えさせられました。そうしてみると、私は今まで、自然にやって来る幸運をは、避けられないものだから有難く受け取ることは出来ても、自らの力で、幸せを求めることには密かに畏れの気持ちを抱いていたのだろうと思わざるをえなくなりました。

一見、不運に見える出来事の後ろには、実は、真に、自分を待ち受けていてくれるものが隠れている場合もあるようです。失意とも言えるささくれ立った心境を体験してみなければ、これまでの価値観に大幅な変更を加えたりすることは、通常は大変に難しいことです。人生の、思いも寄らなかった成り行きが、私にもたらしてくれたものの大きさは、その失意の大波が引けた時、これもまた、気がついたら…あまりにも巧妙な近づき方で一つの転機が忍び寄り、私の身の上に劇的な変化をもたらしてしていたことを知るほど…思いがけないないものでした。

ですから、本当に、人生の運不運・幸不幸を人智で安易に判断してしまうことは要注意です。幸せと思えるものも、不幸の種になりうるし、不幸と嘆くような辛い出来事にも、本人や運の動き方次第では、幸運の芽となるものが潜在していることがあるからです。

けれど、自分の目の前に待っているものが、幸運なのか不運なのかを、人はあらかじめ知ることは出来ませんので、しつこく何度も、このブログでも書いてきたように、私たちは、自分に正直に、自分の直感を信じて、自分の内なる促しに従って生きていくしかしかありません。私は友人の数もそんなに多くはありませんので、私の守り神ともいえるアロマのことを伝えていくための人脈を持っていません。それに、どうやってアロマの良さを伝えていったらいいのかも分からない時期が長かったので、人に会う機会があっても、そのことの話題に触れることはまったくありませんでした。触れることが出来なかったのです。ところが、私の意識が少しずつ変化していき、頭で考えることをやめて、直感のままに、自分の素直な気持ちのままに行動できるようになっていくにつれて、仕事で会った人とでも、偶然の会話から、話題が自然にアロマのことになっていったり、友人にも後ろめたさなしに、このことを話せるようになってきたのです。ここ数日、毎日のようにアロマについての情報が行き交うという不思議な体験をしています。とは言っても、アロマの感動を伝えるだけで、はらはらドキドキの連続なので、深い話にまでは、いまだに入っていけないので、まだ一つもクロージングに至ってはいません。それに、情報が入ってくると言っても、2~3日、そんなことが続いただけで、そんなことがいつまでも続くことではないでしょうし、明日にはなくなってしまうことなのかもしれません。

詳しいことは書き出したらきりがないので、ここでは触れませんが、ただ、どこかのチャンネルが開くと、宇宙のおおもとの情報源から、情報がダイレクトに私の元に届いてくるのだろうか?と思えるような不思議な体験をこの数日の間にしたのです。魔法はいつまで続くのでしょうか?誰にでも幾つかの顔があるように、私にも、幾つかの側面があります。そのどれをメインとして生きていくのか、思いはその時々で微妙に変化します。どの自分が一番自分らしいのかも分かりません。その日によって、気分は少しずつ異なります。でも無理をしないでいれば、きっと、自然が、私をより‘自然な’方向に導いていってくれると今では信じられるようになってきてもいます。待ち焦がれていた朝の光のまばゆさに、目を閉じてしまう…ということにだけはなりたくないと思っています。朝の光を怖がらずに、朝の光に向かって歩き出せる自分になりたい…そう願ってもいます。

絵門ゆう子さんの死

2006年04月08日 | 日々の泡
 昨年の6月の半ばのある日の午後、縁あって、絵門ゆう子さんのお話を、間近でお聴きする機会に恵まれました。とても、病を抱えている方には見えない笑顔と余裕で、長時間にわたって、お話しをしてくださったので、いつか本当に病が癒えて、出産をされるかもしれない(「50歳になったら、子どもを産みたい。」と半分は本気で言われていましたので、)と、私自身も半分は本気で思ったほどでした。それからは、朝日新聞のコラム「がんとゆっくり日記」に目を通すことも多くなりました。いつも前向きで、ほのぼのとしたタッチで綴られている文章を読むたびに絵門さんの健在振りを確認出来ていました。ところが、3月30日付けのコラムの内容に触れた時、私は今までには感じたことのなかった強い緊張感と胸騒ぎを覚えたのです。池や沼に小石を投げれば、必ず、描かれることになる静かな波紋が、私の心の中にもゆっくりとではあっても確実に拡がっていったのです。とはいえ、その時の私は、だからといって、まさかこんなにも早く絵門さんの死を知ることになろうとは露ほども考えてもいませんでした。彼女があんなに元気で精力的に活動しておられるからには、今までもそうだったのだから、これからだってその事に相違があるはずはないと思えていたからです。だからこそ、3月30日付けのコラムの最後の言葉が、今となっては胸に突き刺さります。【先生は前向きに前向きに、私が治療に向かえるように励ましてくれた。しかし、私の心の中には素朴な叫び声があった。「『1年後には別れることになるけれど結婚しよう』というプロポーズに乗れるだろうか?」経過報告は、次回も続きます。】経過報告は次回も続きます…とあるからには、絵門さんご自身もそのコラムが絶筆になろうとは考えてもいなかったということになりますが、何故、絵門さんはあの日から、突然、ストレートな表現を恐れなくなったのだろうか…と、不思議な気持ちに襲われます。ともあれ、絵門さんの究極の‘心の叫び’に触れて、私がただならぬ気配を感じ始めた時、絵門さんは永遠に帰らぬ人となってしまいました。絵門さんは、ある時から、「死ぬことは怖いことではないのだ。」という心の構造を作って歩き始めたのだそうです。私の知人の住職さんは、「死ぬことと生きることは同じこと。」と言っています。「死ぬことは怖いことではない」と思い定めても、やはり強烈な孤独と道連れの、決して楽ばかりではない日々の連続だったことと思われます。絵門さん!この世では、本当にお疲れ様でした。絵門さんが行かれた世界がどんなところか、今の私にはまだ分かりませんが、やがては私もその世界に招かれることになります。その世界でも、相変わらずのチャーミングさで、楽しく幸せな気持ちで生きてください。ご冥福を心よりお祈りいたします。合掌!がんとゆっくり日記

世界の約束

2006年04月07日 | 日々の泡
本来業務に従事するだけだった、ほんの少し前までの私の日々には、新鮮な物事との出会いというものがほとんどなかったため、生活のメリハリや起伏というものもほとんどありませんでした。それが、アロマのお仕事に出会ってからは、まだ、種を蒔いているだけの段階で、具体的な動きは何も起こり得てはいないものの、自分の意識も何かの動きがある度にいろいろに変化していきますし、これまでとは毛色の変わった人たちと交流することも多くなったため、楽しい日もあれば、私のありきたりの固定観念が揺さぶられて、心が千路に乱れ、疲労困憊しきってしまう日もあります。自分の中に潜在する、保守的だけれど、だからこそ安心できるこれまでの使い古しのあり方にしがみついていこうとする傾向と、革新とまでは行かないまでも、新しい未知の躍動に触れていきたいと願う感情の芽吹きとが激しく交錯しあっています。ヤットこさの思いで、ここまで歩いてきてみると、危険に満ちた創造的な足跡を消してしまうわけにはいかない…とは思うものの、ここから先の道のりの行く末が見えてこないのでとても困っています。こうした地点まで来てしまうと(分岐点に立つと…ここから先は道なき道になるので)、論理も直感も何かあまり役に立たないのです。

自分の中の既存の知識や引き出しの中の持ち合わせの情報が機能不全状態であるにも拘わらず、何故か不思議と、「シンクロニシティ」(=意味のある偶然の一致)的な出来事に遭遇することが続いています。自分ではまったく意図していないのに、(意図したところで、物事はそうは上手くは回っていくものではなありませんが…)偶然が偶然を呼んで、不思議なめぐり合わせにびっくりすることが続いているのです。(尤も、いつそんな不思議が突然、途絶するかは分からないことですが…)どんな観念も役に立たないこんな時に、テレパシーのような符号を体験するというのも奇々怪々ではありますが、何かが私を守ってくれているような感覚も伴っています。とは言え、ある種のドグラマグラ的迷宮に入り込んでいるような寄る辺のない心もとなさも道連れです。宮崎駿監督の『ハウルの動く城』ではありませんが、「世界の約束」が背後で動いている、そんな感じなのです。

人生の黄昏

2006年04月06日 | 日々の泡
一般的には、子どもは子ども、女性は女性、大人は大人という風に、年代や見た目の印象で、人は何者であるかを判断されてしまいます。けれど、子どもの中にも老賢人がいることもありますし、女性や男性の中に異性が存在することも当たり前のことです。大人というものは、私はそれまでの年代の心や知恵をすべて背負って大人になっていくものだと思っていますので、大人の心の中にはナイーブな子どもや年若い青少年の心も当然のこととして備わっていると思っています。人生の黄昏…といってしまうと大変侘しい心持になるかもしれませんが、人生のゴールデンタイムとも言えるこの時期を豊かに生きることの見本がこれから、いくつかの姿をなして現れてくるような予感があります。というのも近々、団塊の世代の人々が続々と定年を迎えるからです。年金で暮らしていく人。現役世代よりも多くの収入を得て豊かに暮らしていく人。ボランティアとしての生活を主流にしていく人などさまざまでしょうが、今までにはなかった生き方のパターンも出現してくるかもしれません。ニートという言葉や現象が今という時代が生んだものであるように、これからは今までにない、大人としてのさまざまな生き方や独特の言葉が登場する社会の幕開けになるかもしれません。日本では、‘成熟’ということの価値がもっと重んじられてもいいように思います。それには、年齢を重ねても魅力的である人々が大多数を占めるようなうねりが必要になってくるのでしょうね!

さよならの季節

2006年04月02日 | 日々の泡
春は寒暖の差が激しい上に風の強い日も多く、梅や桜は咲くものの、桜はあっという間に咲いては散っていくので、気分的には桜の美しさを愛でるよりは、その移ろいの儚さに、胸がちりちり痛む感じの方が増したりもします。しかも、学校では入学式や卒業式が…、職場では異動の辞令が交付されて、悲喜こもごもの出会いと別れがあちらこちらで繰り広げられます。「またね!」の別れもあれば、もう二度とは会えない別れもあります。こうした環境の変化や人との別れにはメッポウ弱い私です。

人生は無常。人の心も無常。変わらない信頼や友愛を望んでも、人間関係は一人で営めるものではありませんので、私一人が力んでも仕方のないことという諦観を徐々に身につけていくようになりました。そして少しずつではありますが、いつの間にか、離れていく人の心には深追いは禁物と自戒するようにもなっていました。

ところが、そうは容易く移ろうものではない人間関係や集団と関わるようになって、私は人との関わりには、システムや仕組みが、その存続にとって大事な要素であるということを知るようになったのです。

学校や職場というシステムは、短いサイクルでシャッフルされ、そこに居る人々を他の場所に移動させます。社会という仕組みの中で、マンネリを防ぎ、集団に新鮮な空気を吹き込む為には、それは必要な仕掛けでもあります。ずっと同じ顔をつき合わせて生活するのでは息が詰まるというものですから、極めて精巧な良く出来た仕組みだとも言えます。

宗教団体などの形態に言えることですが、自ら望んで、ある集団に帰属し、そこでの人間関係を心の拠り所や支えとして生きていく…というようなあり方も、生きる上での大きな支えを作り出す仕組みで成り立っている…と考えるようにもなりました。ある住職さんが、「真の宗教心とは母親の胸に無心で抱かれている赤ん坊に象徴されるようなものだ。」と表現されていました。「騙されているのではないか?」「この教えは本当のものだろうか?」などという邪推や疑心暗鬼に捉われることなく、「安心しきって己を委ねられてこそ得られるものだ。」と説明してくださいました。けれど、宗教というものにも人間が介在する以上、宗教に対する帰依も無心な心一辺倒では済まされないでしょうから、とても難しい問題です。

私利私欲(完全に私的な利益がないということとは別)に捉われない一つの目的(社会性を保持した内容を持つ)に向かって、そのことに対するパイオニア精神を持った人たちの、自然発生的な(そこに集まる前は最初は見ず知らずの他人であった)集団が持ちうるパワーというものの大きさは、そこに所属する人間に、厳しい孤独と共に、一人ではないという真の安定感をももたらすものだということを今頃になって知ったのです。が、これももしかしたら、私の幻想かもしれません。

人間は元来弱いものでもありますので、仕組みを上手く取り入れた生き方を知り、これを活用することは人間関係を単なる消費で終わらせないための大いなる智恵をもたらしてくれそうです。結婚や家族という仕組みは、今の社会では上手く機能することが非常に難しいからくりになってしまっているような気もしていますが、私は残念ながら、必ずしも、この問題を声高に語れる立場にはいません。社会の変化にも打撃を受けない仕組み作りがこれからの時代の(人が健やかに生き残るための)鍵になって行くような気もするのですが、どんな風雪にも耐えて生き残れる真実というものがこの世に存在するものなのかどうかということすら、私には分かりません。いずれにしても、伝統的なあり方のみではもはやこの謎を解くことは困難な時代がやってきていると私は感じています。新しい発想…時には破天荒で突拍子もないものの見方や考え方の方が、一陣の風となって、閉塞的なこの時代のやり切れない淀んだ空気を一掃してくれるような気がしてなりません。みなさんはどのように思われますか?

ガチョウと黄金の卵

2006年03月31日 | 日々の泡
イソップ物語の中の寓話の教訓のお話です。ある貧しい農夫が、飼っていたガチョウの巣の中に、ある日、キラキラと輝く黄金の卵を見つけます。毎日毎日、ガチョウは純金の卵を産み続けてくれたために、やがて農夫は大金持ちになりますが、富が増すにつれて、欲も出て、せっかちになっていったため、一日一個しか生まれない黄金の卵が待ちきれずにガチョウを殺し、ガチョウのお腹の中の卵を一気に手に入れようと決心しますが、いざガチョウの腹を開けてみるとお腹の中は空っぽだったという事実に愕然とします。黄金の卵を生み出してくれるガチョウをとうとう殺してしまったからには、黄金の卵を手に入れる手段をも永遠に失ってしまったということになります。

目標を達成すること・または結果を手に入れることが【黄金の卵】ならば、その結果を手に入れるための資源あるいは目標を達成するための能力は【ガチョウ】ということになります。ガチョウを疎かにし、黄金の卵ばかりを追い求める生活様式を取り入れていれば、やがては黄金の卵を生み出してくれる資源をなくしてしまうことにもなりかねませんが、ガチョウの世話ばかりをしていて黄金の卵が生み出す価値のことに全く気づかなければ、自分自身とガチョウを潤す資源を失ってしまうということにもなります。【黄金の卵】と【ガチョウ】の両者の二つの側面のバランスを有効に保ててこそ、問題は最大の効果を発揮して解決されていくそうです。

【黄金の卵】という結果ばかりを求める行動に走ると、【ガチョウ】というかけがえのない存在を失いかねません。この比喩は人間関係にも当てはまります。あらゆる人間関係において、お互いの関係を維持することよりも、相手にして欲しいこと【黄金の卵】ばかりを要求していると、感受性や思いやりがなくなり、深い人間関係を保つための不可欠な要素(愛する気持ちや優しさ・思いやりに満ちた自然な雰囲気など)が失われていきます。日に日に【ガチョウ】の容態が悪化していくということになるわけです。

【ガチョウ】の気持ちや現在の状況への配慮なしに、「会いたい」一心で、【黄金の卵】を追い求めても、それでは、たとえ、【黄金の卵】が手に入っても、何故かあまり嬉しくないし、楽しくない…というようなことにもなりかねません。【ガチョウ】への真のコミットなしに、【黄金の卵】を欲しても、それは土台無理な要求に過ぎない…ということになるからなのでしょうか?何だかちょっと変な比喩ですかね…トホホ

インサイドアウト

2006年03月30日 | 日々の泡
自分自身の内面(インサイド)を変えることから始めるということであり、自分自身の根本的なパラダイム・人格・動機などを変えることから始めるという考え方を指します。インサイドアウトの考え方では、私的成功が公的成功に先立ちます。他人に対して何かを約束をし、それを守る前に、まず自分自身に対する約束をし、その約束を守ることから始めなければならない。自分自身を改善せずに他の人との関係を改善しようとすることは意味のないことだという考え方を指しています。

逆説的ではありますが、他人が私のことをどう考えているかということを気にしなくなるにつれて、却って、彼らの気持ちや自分との関係をもっと大切にするようになるというのは本当のことだと思います。また他人の存在が私の生活や私の感情を支配しなくもなります。自分の心の奥底に確固たる中心を持つようになり、周りの世界の変化に振り回されず対応できるようにもなれると思います。要するに、まず初めに【自分ありき】なのですね。扉を開ける鍵穴は外側にはないのだそうです。鍵は、それぞれの人間の内面からしか開けられないのだとしたら…どんなに他人からの助力があったとしても、最後は、自分の手で扉を開けない限りは、永遠に扉は開かない…ということになりますね。

分かるような気がします。自立という言葉は簡単に使われていますが、人が本当に自立を手に入れるためには、ある種の環境やある種の、自立を促すためのシステムの中に入り込む必要がありそうだと、この頃では思い始めています。幾つになっても、何かをやりたいと思うことに遅いということがないように、自立という態度や実質も年齢を重ねれば自動的に得られるというものでもありません。だから、漫然と生きていても、自立は容易くは手に入らないということになります。そう考えると、人間が自立していくためには、やはり、ある種の仕組みの中に入り込んでいく必要があると、どうしても感じてしまいます。けれど、そんな仕組みは誰の前にも簡単に現れるというものでもなさそうなので、これもまた難しい問題です。インサイドアウトの姿勢を大事にし続けていくしかない。自分に正直に生きていくしかない…と思っています。ただ、‘逆境’という言葉が一つのキーワードになりそうな気がしています。