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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

どうしたらいいの?

2006年06月05日 | 日々の泡
無理をせずに、自分の限りある資源と能力を生かして生きていきたい…そのことを絵空事としてではなく、すぐ目の前にある実現可能な現実として感じられるようになったのは、今のビジネスに出会ったからにほかなりません。でもここへ来て、このビジネスの教育のあり方に大きな戸惑いを覚えるようになりました。週1回の定期的な外部にも開かれた無料講習会や月に1回のビジネスに関するこの会社独自の考え方に基づいた専門的な有料講習会の内容に危険な雰囲気を感じてしまっているのです。人を騙そうとか、法の目を潜ろうとかいうような内容は一切ないですし、あくまでも最短での成功法を教育しようとしているだけなのですが、それでもはやり、投資を勧めているわけですし、もうすでに成功している人たちの論理に乗っ取った視点での方法論が強調されすぎていることを強く感じるばかりで、そうなると、私のように、人に拡める作業がなかなか思うようには進んでいかない人間やそんなに簡単にはお金を工面できない事情がある人の場合には関係のない話に聞こえてきてしまうのです。飛ぶ鳥を落とす勢いの成功者たちに、いくら声高らかに力強く講義を伝授してもらっても、心の芯に白けた気分が漂ってしまうのです。本当に素晴らしいビジネスのはずなのに、自分の身近なことには感じらなくなってしまい、気持ちは煽られるばかりで、落ちついた自分なりの行動がとれなくなってしまうのです。

私は組織の中で生きることの苦しさにがんじがらめになっているとばかり思い込んできましたが、要は、自分で考えるのではなく、人の出来上がった価値観の中で、疑問に思うことや自分の感覚が馴染まないことに素直に同調していくことがとても苦手な人間なのだということに、事の真相が集約されていることに気づきました。

きっと、この会社の雰囲気に馴染めない人は静かに去っていってしまっているのでしょう。この中で、やれる人だけが残っていて、その人たちが目立つから、皆が一丸となって突き進んでいるかのように見えてしまうのだと思います。それに、ある程度、実力者の方針に従っていないと、協力が得られなくなるので、成功もやはり遠ざかってしまいます。だから無理をしてでも、そうした雰囲気であってもついていこうとしている人も少なくはないのかもしれません。

この会社自体も製品やシステムもとても素晴らしいものなので、このところ、あっという間に集まる人の数も増えてきています。その中で、どれくらいの人が、私と同じような思いを抱いているのかは分かりませんが、仲間で、チームで進める仕事と言われている割には、本当の仲間やチームがどこにいるのかも判然としません。ただうまくいった話しばかりが目の前をちらつき、耳に入ってくるのはどうしてなのでしょう?

この会社のエッセンスとこの磁場をばねにして、後は、私がそれらをいかに活用できるかどうかにかかっているのでしょう。人の力を借りるにも、借りられるまでの算段は自分がつけなければ始まりません。そこまでの段取りにこそ、この仕事の真髄が隠されているのだと思います。この核の部分の秘儀を自分なりに体得しなければ成功はいつまで経っても「絵に描いた餅」のままになってしまいます。この真の核となる行動の部分に触れる講義内容を是非、用意して欲しいし、お金のない人も成功するビジネスだとうたうからには、成功例(お金がなくても確実に成功できた事例)のケーススタディを是非、提示して欲しいと思っています。最低の条件やまず初めの一歩の動き方を伝授してくれてこそ、多くの人の心を掴めるのだと思います。

シンクロニシティ

2006年06月04日 | 日々の泡
私が、私の愛用しているアロマを多くの人にも知って欲しいと考えるようになってから、意識のあり方がこれまでとは随分と違ってきて、日々の生活の中でも、今までとは物事に対する見方が(どこがどうとは表現しずらいものの…)微妙に変化するようになりました。

意識の持ち方が変わってくると、自分が常日頃、考えていることとどこかでリンクするような出来事が意味のある情報となってどこからかふっとやってくるようになりました。通常だったら会うことなどありえないような人に会ったり、ある人の状況が自分の需要と合致していたり…というようなことがしばしば起こるようになったのです。

ところが、そうした流れや動きが一段落してみると、結果的には、意味深い現象と思われたことも、結局は大きな成果には繋がってはいきませんでした。けれど、ここでくじけては、私の行く手は阻まれてしまう…と思い直しています。

冷静に考えてみると、やはり、私の内部には調子のいい下心が潜んでいたのです。「成功できたらいいなぁ!」などと表面だって考えていたわけではないのですが、どうしても邪念が邪魔をしていたようなのです。バランスを欠いた気持ちからは絶対に成功は生まれない…ということのようです。

最近、私にしてみれば最大級の投資をしてしまいました。投資額のサイズに応じてビジネスの大きさも決まる。そのボリュームに見合った回収が期待できると聞いていました。一般的にはそうなのかもしれません。あながち根も葉もない大風呂敷ともいえない真実味も感じます。けれど、私の場合はどうなのでしょう?ここでもやはり、私は異端としての道を歩きそうな予感がしています。「それだけは出来ない。」と思っていたことなのに、行動を起こしてみると、意外にも、私の心からは一切の奢りや焦りの衝動が消えてしまっていたのです。後悔の念にも駆られませんでした。あらかじめ、すべてを失ってスタートしたのだから、失うものはもうこれ以上何もないという静謐な気持ちなのです。もう誰も、これ以上は、私に投資の話は持ちかけてこないでしょう。後は、静かに、私は私の出来る事だけをするばかりなのです。もし出来なければ、それは全部、自分の責任として、自分に返ってくるだけのことです。成功なんて、私に出来るわけがない…と思えば、その通りになるでしょう。けれど、人生の難しいところは、「絶対に出来る!」などと思えばいいというものでもないところにあります。

中途半端に投資していた時の方が、うまくいかないことへの焦りに汲々としてきりきり舞いの状態でした。今では、アロマのことを聞いてもらえるだけでいいという謙虚で敬虔な気持ちがあるだけです。それが、友人や知人であるならば、相手に何かを受け取って欲しいという気持ちが増しただけで、それ以上のことを要求しようという欲求はなくなってしまいました。営業は、営業用の相手にだけすればいいと思うようになったのです。そういう意味では、きちんとした仕事は、仕事としてきちんとやっていきたいという願望が強くなったということだとも思っています。

私は今まで、本当に、人を大事にしてきただろうか?人と繋がるということはどういうことなのだろうか?世の中の人の目は節穴ではありません。私の邪気は直ぐに見抜かれてしまいます。私は今までのように、どこか気楽に、あなた任せで生きていくことはもう出来なくなってしまっているのです。

シンクロニシティにもいろいろあります。雑魚のようなものもあれば、きっと「これぞシンクロ!」といえるような実質の確かなものもあると思います。真の変化に繋がるシンクロニシティに遭遇したいと願っています。それには、自分がそれに見合った意識を持てるようになることが先決でしょうネ。

映画「初恋」に寄せて

2006年06月03日 | 日々の泡
「初恋を思い革命を偲ぶ」と題した最後の物語は映画監督でありドキュメンタリー作家でもある森達也氏の手になるものです。

本文のほとんどを割愛して、ごく一部だけを引用させていただきます。「かつてないほど息苦しく、統制や監視が強まってきているというのに、立ち上がるべき青臭いエネルギーの兆しなどまったく現れない時代に、僕らはいるのだから、~中略~ 初恋と革命の共通項が、決して成就しないことなのだとしたら、だからこそ限られた短い時間に、精一杯濃密であるべきだ。そうでなければ、薄くなり、やがて絶える

私たちは(少なくとも私は)、統制や監視や管理から自由になりたいと切望しています。例えば会社での昇進という問題一つをとってみても、建前はすべての社員に平等に開かれた権利であるかのごとく掲げられていますが、人事管理の一環としての制度であるかのごとく言う人もいます。そうでないにしても、そんな伝聞がまことしやかに伝わるような現状もあるのです。己を抑えて、そうした、ルートに乗れるよう頑張れることは、ひとつの特殊で貴重な能力となります。そんな非人間的な努力も短期間で実を結ぶならば傷は浅いのかもしれませんが、挑戦しても挑戦しても、それが結果的には徒労として終わるだけになってしまうとしたら、失われた時間の重みはあまりにも大きなものです。昇級試験のための勉強は生きる上では何の役にも立ちません。本当の創造性が求められているわけではないからです。ある種のテクニックと非常に限られた分野の知識に長けるワザが要求されるだけです。受かるためには、傾向と対策に精通しなければなりません。真に文章を組み立てる能力があったとしても、内容的には無味乾燥で、ある意味、一人よがりなことをとうとうと述べた上で、自分としては頑張っていくのだという決意表明をしなければならないわけですから、出世に対する上昇志向や特定のポストにつくことへの動機がよほど強い人ならばともかく、論文の内容に白々しさを感じてしまうような人にとっては、勉強に勤しむ日々は、自分の本当の気持ちと、職業上の要請とがどんどんスプリットしていく過程と繋がっていくことにもなってしまいます。

多くの優秀な人が、そのための勉強に日夜、大事な時間を割き続けているのでしょうが、私にはもうそんなことに人生を費やす気力もそうした苦行に価値を見出す志もなくなってしまいました。けれど、そのような姿勢に甘んじるのであれば(組織の中にありながら、組織の目指す目標の流れに乗れないばかりか、それに逆行していくというあり方)今の社会の中では、落伍者としてあるいは脱落者として生きていくしかなくなります。烙印は押されても、私という人間の価値を貶めるものではありませんが、この組織の価値の中で生き続けていく限り、私はどんどん無力化されていくことでしょう。それでもそれは仕方のないことと、やっと思えるようにもなりました。ここに至るまでの道のりは、私にとってはあまりにも長く苦しいものでした。そして、もうこれ以上、自分を脱価値化していくことは出来ない相談になってきています。

不良少女

2006年06月02日 | my favorite・・・
「初恋」が描かれている時代には、確かに不良少女というものの存在があったようです。

大人になんかなりたくない。大人たちは屑だ。心の中でそう呟きながら、触れれば斬れるような殺意を抱いている少女たち。決して軽口を叩くわけでもなく、世界そのものに対して武装しているような少女たち。~中略~目の前に存在しているすべてのものを拒否していまいたいという「純粋なる否定性」(バタイユ)を行動原理としていた。私は彼女たちに、ある種、畏敬の気持ちを感じていた

人生のあらゆる出来事に対して、処女として立ち向かうこと。自ら苦痛を引き受けること。過去も未来も何も考えず、ただ己の内側の虚無だけを信じること

初恋』の冒頭で、白いヘルメットを脱ぎ捨てた宮崎あおいの長く黒い髪がパラリと垂れるショットを観て、私は悲しみの原型に立ち会ったような印象を持った

人生には、それを通過してしまえば、後はすべてが余生となってしまうような絶頂の至高点なるものが存在している

宮崎あおいの演じるヒロインは~中略~永遠に完結を阻まれた人生を生きる者だけが見せる悔恨の甘さと苦さを体現している

映画評論家の四方田犬彦氏の「I SAW HER STANDING THERE」という文章です。映画評というよりは、映画を観て、湧き上がってきたこの時代への愛惜を込めたオマージュのようにも、私には感じられました。所々を抜粋しただけなので、何のことなのかは全然分からないと思いますが、私の心の琴線に触れてきたフレーズを羅列してみました。

「あなたとなら時代を変えられると信じていた」

2006年06月01日 | my favorite・・・
今をときめく宮崎あおいさん主演の映画「初恋」のキャッチコピー(?)です。朝日新聞の日曜日の朝刊にちょっとした特集が組まれていました。この映画そのもののことは、私にはよくわかりませんが、三億事件の新説にまつわる3人の文化人の、この映画に寄せる‘物語’に鮮烈な興味を喚起されました。

この映画の中で描かれている青春群像は、もうすでに過去のものであり、ノスタルジックな世界観にしか見えないかもしれませんが、それはかつて現に存在していたものである以上、しかも、せいぜい、たかだか数十年前のものに過ぎない以上、現代を生きる人間にとっても、まったく未知のものではないはずです。ある意味、ルーツに繋がるものでもあるわけですから、それを知れば、きっと既視感(デジャヴ)すら覚えるはずです。

当時の一群の若者たちは「ひたすらジャズを聴き、クスリをやり、かつあげをし、学生運動に首を突っ込み、そして詩や小説をかくこと」を日常としていました。誰もが「孤児」で告白されるまでもなく相手の傷のありかを互いに分かり合っている関係がその当時には本当に存在していたのでしょうか?NHKの朝ドラの「純情きらり」の中に出てくるマロニエ荘にはそうした時代を髣髴とさせる雰囲気が漂っています。そんな時代があったのですよね。おせっかいを焼きながら、互いの苦境を思いやり、お互いの人間的成長に関与していく人間関係。たてつけも悪く、防音装置もない長屋のような、下宿のような集合住宅に暮らしながら、青春を生きる日々。。そんなふうでも泥棒なんかに襲われることはなかったのでしょうか?その時代には地縁などの意識が人々の間に連帯感を築かせるようなこともあったのでしょうか?文化の香りを漂わせながら、お互いを啓発し合えるような関わり。今は、すべてにおいて、人間関係を促すような装置や仕組みがなくなってしまっているから、当たり前のこととして、お互いのことを思いやりあえる人間関係を築くことが至難のワザになってしまっています。

あなたとなら時代を変えられると信じていた」…そんな熱い思いを抱けるような状況を、あなたは持ちえていますか?そんな関係を、例え限られた期間でも手にすることが出来れば、それは人生の珠玉のような時間となることでしょうネ。生きることが、毎日が、秘密めいた冒険と開拓の旅となることでしょう。三億円事件が起きた頃、そこにはそんな世界観が渦巻いていたようです。

ひとひとり傷つけずに三億円が強奪された。それから40年もの月日が過ぎているのに、私の中の喪失感は今も消えない。心の傷に時効はないから。」映画の中の説明はこのように続いています。私が、人には自分のことの多くを語れない。この特質には、恐らく前世というものがあるのならば、その時の生き方に由来している部分が大きく関与しているのだと思っています。今生で経験したことなのか、前世からの因縁が関係しているものなのかはよくは分かりませんが、いずれにせよ、きっと私にも‘心の傷’というものが今も深くケロイド状に残っていて、それが私の口を貝にしてしまっているのだと、この頃では考えるようになっています。ずっとずっと、‘心の傷’には時効はないのでしょう。そういう事情があるから、だから、きっと私は未だに、何も語れないのでしょう。匿名でしか生きることが出来ないのかもしれません。

だから、匿名ではない、生の私を許してくれる‘あなた’の存在は、私にとっては、神の‘救済’にも匹敵するほどの重みのあるものなのです。肝心なことは、心を許した人にしか伝えられない…という私の‘癖’はこれからも変わらないでしょう。でも、世阿弥も言っています。「秘すれば花」と。口が重いということも、楽しい人生の大事な要素なんだと、この頃では、私は本当にそう思えるようにもなっているのです。自分の属性のあれやこれやを、もう短所という概念で捉えるということがなくなりました。短所も長所もありません。私はここにこうして存在しているだけなのです。

武者小路実篤

2006年05月31日 | 日々の泡
「君は君 我は我也 されど 仲よき」
依存でもない、癒着でもない、真に仲の良いからっとした関係を端的に表現した言葉だと思います。「君子の交わりは水の如し」というと淡白をモットーとし、相手の内面には立ち入らないでいる害のない関わりを想起します。少し前までは、私も、こういう関わり方を一つの理想形としていましたが、今では気持ちが少し変わってきています。

どんな関係にも、適切な距離感というものは必要です。でも距離が必要だからといって、親密さを遠ざける必要はないんだということを、ある人に教えられました。のんべんだらりと精神的に依存しあいさえしなければ、うんと親しくしてもいいんですね。そう考えられるようになってからは、人と関わる時に、大上段に構えるということがなくなりました。人と何らかの関わりを持てることを有り難くも楽しいことと思えるようになったからです。

もしも、お互いが依存しあう関係を求めたいのならば、依存し合ってみるという体験も悪いことではないかもしれません。両者がそれで満足ならば、うっとおしい…と感じないならば、しかもそれでも、その人との関係に安定感や安心感を覚えられるような間柄ならば、本当は、関係のあり方は、人それぞれに、どうあってもいいのだと思います。

自分が、相手との関係に重苦しさや負担を感じるようなら、私ならさっさとその関係から遠ざかってしまうでしょうが、関係を切りたくない相手に対しては、その人が望むような関係のあり方を模索して、自分がそれに合わせて沿っていくようにします。が、我慢は続きませんので、無理だと思えば、どこかの時点で、失いたくない関係でも断念するようなこともあるかもしれません。

けれど、ただ何となくのつきあいならともかく、自分を成長させてくれる器量を備えた人の存在に対しては、全力を注いで関わっていく姿勢を持たなければ、そこから先の人生の可能性が途絶してしまいます。生活も人生も、どういう人と関わったかによって、その質も拡がりも膨らみも全然違ったものになっていくからです。豊かに楽しく生きていきたいから…。一人でも二人でもいいです。「君は君 我は我也 されど 仲よき」こんな関係を持って歩いていきたいと思います。

昔の友人

2006年05月30日 | my favorite・・・
高校生の頃、たまたま私の隣の席に座っていた友人はとても破天荒な人でした。当時の彼女が何を思ってそんな行動を取ったのか、深い思想も持たずに生きていた私には、今となっても知る由もありません。

勉強が出来ない人ではなかったのですが、ある時、答案用紙を白紙で提出したのです。彼女の勇気に、私はただただ唖然とするばかりでした。彼女は、当たり前に出来ることを当たり前にはしない人でした。朝は遅刻ギリギリで学校に来るのです。多分、決まった時間に起きることが苦手だったのでしょう。当時の私が通っていた高校では、髪が長ければ、三つ編みにするのが決まりでしたので、朝はいつも、私が彼女の髪を結ってあげていました。

「白紙の答案」事件の後、教師から呼び出され、「○○さんとは付き合わないように…」との指導を受けました。教師にそのように言われたからといって、「はい。そうですか。」と従順に従うような私ではなかったので、彼女との付き合いに変更はありませんでした。むしろ、朝の身支度の手伝いはさらに嬉々として手伝うようになってもいました。私には、逆立ちしても出来ないことを平然とやってのける友人を、まぶしいものを仰ぎ見るように尊敬していたのだと思います。

その後も、私が、自分の思いや正直な考えを文章にして書いたりすると、呼び出されては、随筆や論文を読むのではなく、小説を読むようにしたらどうかとの指摘を受けたりもしていました。恐らく、教師から見ると、私の考え方は偏屈で歪んだものにしか映らなかったのでしょう。正直で率直であることは管理監督をするものの不安を喚起し、異分子として扱われるきっかけになることを知りました。この学校で、私の内面世界を理解し、私の味方になってくれる大人がいないということは、これから船出する世の中という大海にも理解者は現れないということの布石に違いないという確信は、私の身の内に世界没落感を呼び覚ましました。あの時、これから訪れる私の人生はきっと前途多難に満ちたものになるのだろうという茫漠とした不安に気が遠くなり、身が縮まる思いがしたものです。

振り返れば、あんなに繊細な心の襞を抱えながら、よくここまで、私は生き延びてきたものだと思います。

その友人とは、卒業後も、一時期、毎日のように行動を共にしていたことがありました。けれど、人生に対して筋金入りの彼女とは(私は自分に正直なだけで、その友人ほどには、超然とはしていなかったために)自然に縁が切れる時がやってきてしまいました。彼女がかつて立ち上げた喫茶店は長い時を経て、今も健在であることを最近知りました。何があっても、自分を生きることの出来る友人がかつて、私の傍にいてくれたことは、今、思い返しても有り難いことだったと感謝しています。

終生の関わり

2006年05月29日 | my favorite・・・
もう、本の題名も忘れてしまっているのですが、心に残った印象的な部分をは忘れないようにしたいと思う興味深い記述に出会いました。ビジネス関係の翻訳本でしたので、初めから終わりまでを読みこなすことはとても難しく、ほとんど拾い読みで終わるしかなかったのですが、ある一章に書かれてあった知見に触れて、私は、この書籍のすべてを認めてもいいような気になったものでした。その内容は以下のようなものです。

私たちがビジネスに着手する時、立ち上げを草創期とすれば、その事業が成功する場合には、通常は、模索期→発展期→爆発期→安定期という経過で進んでいくものです。企業全体の経過もこのように進んでいきますし、個人としての行動も、同じような経過を辿っていくものと思われます。成功者へのインタビューから分かったことは、発展期から爆発期に移行する時期というものが一番楽しく充実した時期なのだということでした。成功した事業家たちの内部で、例外なく生じる共通の体験群として報告されています。事業が発展に移行していく時期に味わう感覚や感触は、本当にワクワクするほどのものだそうですが、私が思うに、たぶんそれは人智を超えた勢いで、まるで生き物のように、成長や発展が自動的に促進されていくからなのでしょう。

ただ、私の唯一の懸念は、どんな関係にも終わりがあるように、蜜月を共にした関係であればあるだけ、その終焉は、想像以上に寂しく悲しい悲哀の時を迎える運命にあるのではないかということでした。ライブドア事件を例にとるまでもなく、一丸となって、発展に燃えた者同士が、結局は公の場で、袂を分かち、争わなければならない状況は、たとえ悪事に手を染めなくとも、あまりにも大きな幸運の見返りとして、やがては襲ってくる避けられない運命のようなものに思えたからなのです。

ところが、現実の検証結果はそのようなものではありませんでした。苦楽を共にして、人生の荒波に立ち向かい、協力し合った人々の関わりというものは、自分たちが個々に独立した後も、その戦友ともいえる対象との関係を、かけがえのないものとして暖めあっていき、関係を終生終わらせることはないということが報告されていたのです。彼らの話をインタビューすると、まるで恋愛の話を聞かされているように、楽しそうに生き生きと語られることが特徴だそうです。常に情報を交換し合い、終生の付き合いが続くという恐るべき事実を知り、「そうか!」と私の予想は嬉しい結果で裏切られたのです。

仲がいいほど、何かあったときの決別の仕方の熾烈さは厳しいものだという事実が、この世のあちこちでしばしば散見されるものです。そうした、人生の摂理のようなものに思いを馳せる時、この道を歩き出すことを恐れためらわせる、もう一つの要素のことに気づかざるを得なかったのですが、その限りではない事実も存在することを知って、何事も自分次第、自分の心がけ次第と思い定めることが出来ました。終生に渡って信頼し続けられる人を得られる幸せは何ものにも変えがたいものです。そして、信頼され続けてもらえる人間でありたいとも願うのです。

ぼやけていたはずの輪郭が…

2006年05月28日 | 日々の泡
この世に生を受けてからこの方、自分が生きることに、自分の努力や持てる力がきちんと反映されていると実感出来ていたことが何度あったでしょうか?ある成果や結果が出せた時があったとしても、確かに、これだけ頑張ったのだから当然だとか良かったと思えた時もあるにはありましたが、大抵の場合は、それでも、それは割の合わない報酬だったようにも思えます。割りは合わないけれど、人生は自分の思うようには行かないものだし、成功手形は、いつの時も私のために用意されているものではないのだから仕方がないと、諦めて歩いてきたような気がします。それでも、何とか一番手でやっていきたいとがむしゃらに頑張っていた時期もありましたが、人にはそれぞれに、この人生で与えられている役割というものがあって、私の場合は、そんなに納得のいく人生が与えられているわけではないのだろうから…それはそれでやむをいえないことなのだと観念してもいました。

それが、突然、私の生が、私にとってリアルなものになってきたのは、今のビジネスに出会ってからです。が、現在は、生業を持って、その生業の合間を縫って、ビジネスの真似事に取り組んでいる状態なので、今まで投資してきた大金を無にする覚悟さえ持てれば、すべてが夢幻だったのだとして、元の世界に戻っていくことも不可能ではない状態にあります。

こんな、ある意味中途半端な境遇にあるからなのか、私は二つの世界の境界域で、二つの世界の価値の両方を眺めながら、それらを比較検討できる稀有な立場に身を置けています。今の仕事は、人から見れば、一応安定したものに見えるでしょうし、面白味はないものの、そのまま生きていけば、それは多くの人がそうであるような道筋を辿った生活を保障するものにもなっていくと思います。

ビジネスの道もほとんどの時間はどうしたらうまく進んでいくのだろうと思案に暮れることばかりで費やされていきますが、ここには非常に原始的な、人間としての営みが存在するのです。私が苦しむことは即、私だけの私の苦しみとなり、私の心が広がって、壁を越えることが出来れば、それは即、非常にストレートに私の人間的な成長の喜びに直結していくのです。何度も何度も挫折しそうになりました。これからだって、随所随所に、挫折の種は、嫌というほど転がっているはずです。あまりの厳しさに、明日にでも、「いち抜けた!」という気持ちにならないとも限りません。けれども、この世界には、‘私が確かに生きている!’という実感が横たわっているのです。この手応えを失わない限り、私はきっとここに留まり続けることでしょう。

ここにいると、今までにはぼやけてしか感じられなかった、私という存在の輪郭がハッキリと感じられてくるのです。こんな感覚も今までには知ることはありませんでした。たった一人で大海原に漂っているはずなのに、その時の恐さも、当初、感じたような恐さとは少しずつ違ったものになってきています。こんな時に、私の力になろうとしてくれているような人は、本当に大切な、生涯に渡っての恩人ともいえる存在の人のはずです。そう思うと、いくら感謝しても感謝し尽くせるものではありません。最終的には、一人ひとりがどうしようもなく一人なのですけれど、それでも、力を合わせて・分け合って、一人が100点を取るのではなく、信じあって行動を共にする私とあなたが合計で100点を取れるように(上下関係や支配関係ではなく、同列の者同士として、収穫を共に自分たちのものとして喜びあえる関係の中で)歩んで生きたいと思っています。

私の真実

2006年05月27日 | my favorite・・・
人は潜在意識下に沈めてしまったイメージを現実として見ています。真実とは無関係に、あなたが覚え込んだイメージが現実として立ち現れてくるだけです。」という言葉をどこかで読みました。そうすると、事実が現実を創っているわけではなく、自分があれこれ空想している非現実的な事柄が現実を創っている場合もあると言えます。自分が抱え込んでいるイメージが、真実か否かには関係なく、現実に影響を与えるということもありそうです。「自分を幸せにすること。それこそがあなたの仕事だと思ってください。自分だけの真実を探してください。自分で発見した真実を、自分の中心に置いてください。そのために、あなたは「今・ここに」いるのです。」この言葉もその通りですね。自分の真実のために生きていけば、それで十分ですよね。人の真実がその人だけのものであるのと同様に…。