南の島で幼稚園の先生になろう!

帰国しました。日本で元気に職場復帰しています。

クリスマスに携帯「通知不能先」から連絡

2008年12月25日 | ミクロネシアのおじいちゃん
今日から、幼稚園は冬休み、職員室でアルバム作りをしていると、突然鳴る僕の携帯。通話先を見ると「通知不能」。

また間違い電話か、何処かの業者かな?と思って電話に出ると、通信状態があまりよくないあとに、あの懐かしい声が「OOさん、元気にしているか?」。

そう、僕が南の島で1年9ヶ月お世話になった86歳のおじいさんからの電話でした。

職場だがら、普通にしたけど、誰もいなかったら間違いなく泣いてたはず。
おじいさん「今、朝のクリスマスの礼拝が終わったんだ」

僕「今日でクリスマスの礼拝が終わられたんですね、お疲れ様でした」

おじいさん」「そうだ、今日で終わったんだ」

僕「おじいさん、お元気ですか」

おじいさん「ハワイの息子から薬を送ってくれて、足が少し悪いけど、元気だ。O      Oさん(僕の名前)は元気にしているか?」

僕「元気ですよ」

と、職員室に会話が響きます。

これは、日本語に訳したのではなく、そのまま、実況中継。

なぜなら、僕のおじいさんは、日本統治時代を経験されていたので、日本語が普通に喋られるんです。南の島でもずっとこんな調子で日本語で話をしていました。

最後に「また、会いましょうな」って。

本当に絶対また、元気な顔をおじいさんに見せたい。

僕は、父方の祖父とは会えない環境だったので、ずっと心残りだったので、
南の島でおじいさんと暮らせたのは、僕の本当のお祖父さんの代わりに僕に素敵なおじいさんを神様が与えてくださったのだと心からも思い、心から尊敬し、心から慕い、僕の精神的支柱でした。今でもその気持ちに変わりはありません。

国際電話なんてするの大変だったろうけど、僕からしないといけなかったのに、
家族が電話のカードを買いに行って、国際電話の番号をかけてくれたのだと、電話する光景が目に浮かびます。

また、絶対におじいさんに会いに行くぞ。
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南の島に帰ってきました。

2008年01月04日 | ミクロネシアのおじいちゃん
今日9日間の南の島の旅行を終えて、無事南の島に戻りました。

結局この2年間は南の島から抜け出すことはできないのだけど。

旅行に行くのも南の島、帰る家も南の島ですから。

僕の住むミクロネシアは4州から成り立っています。

僕の住む島、ヤップ・コスラエはすでに行ったので、残る旧トラック諸島へ。

そしてなんちゃって日本のグアム。

とても熱い暑い旅でした。

海と空の自然を体で感じました。

また、珍道中?ブログに掲載します。

とりあえず、無事に南の島の旅を終えて、南の島に帰ってきました。
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南の島でおじいさんが病気だと僕は太る。

2007年12月05日 | ミクロネシアのおじいちゃん
僕のホームステイは85歳のおじいさんと一緒。

先週入院をしていて、無事帰宅して家にて療養中。

家族はみんな心配して、おいしいご馳走をいっぱい持ってきてくれます。

だから、最近おじいさんのために家族が作った料理を僕も同じように食べているので、料理だけでなくフルーツの缶詰がでてきたりで、かなり満腹度が高いです。

おじいさんの食欲もかなり出てきたので、今日は久しぶりに僕が料理を作ることに。

料理は親子どんぶり。

おじいさんの奥さんが健在だったころ、凄く上手でよく作られていたと聞いていたので、今回2度目の挑戦。

前は少しやわらかめに作ったので、今回は硬めにしました。

今回チキンが骨付きのしかなくて、骨からほぐすのが少し手間でしたが、ローカル卵もゲットしていたし、最近いえにとまる家族もたくさんいたので、15名分くらいつくったら、かなりあまりました。

僕の家族は南の島の人にしては、かなり食べません。
それは僕の料理が嫌いというのではなく、みんな太っていなくて、細いのです。
特に子どもたちは。

今日は小学生の男の子がたくさん食べてくれました。彼は恥ずかしがりやですが、僕が料理をすると分かるとそっとのぞいて、何を作るのかチェックしています。

今日はハワイからきている息子さんが「君は料理が上手だね」って褒めてくれて、米粒一粒残さず食べてくれました。

お母さんが帰ってきたときに中華パーティーをしようと買いためた食材があるので、これから機会を見て、どんどん作っていかないと

おじいさんは自分の部屋で夕食を取られているので、味の感想はまだ聞いていません。

たくさん食べてくれているといいなあ。


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南の島で一番心配なこと&サプライズ&スープいっぱい

2007年12月01日 | ミクロネシアのおじいちゃん
南の島とはいえ、ここは開発途上国。
だから僕たち、協力隊が派遣されているわけですが、南の島で暮らす上で一番心配なことはもちろん健康。

それは自分の健康ももちろんですが、僕を受け入れてホームステイをさせてくださっているおじいさんの健康。

実は木曜日から肺の調子が悪くて入院をされていたのですが、今日無事に退院されました。

僕のこの南の島の生活は、おじいさんが健康だからこそ、家に住まわせてもらうことができています。
おじいさんが一緒に住んでいるから、おじいさんの世話をしてきている家族も僕の面倒を見てくれているので、おじいさんが入院生活が長引いたり、もしのことがあったら、僕のホームステイ生活はTHE ENDになってしまいます。

そして、もちろん僕を受け入れ、この南の島のことはもちろん、人間として何を大切にしていくかを教えてくださった尊敬するおじいさんには、いつまでも健康でいてほしいと思っています。

僕には祖父も祖母ももういませんし、片方の祖父とは会うことなく一生を終えてしまったので、こうして南の島でおじいさんと出会えたことは、神様が僕にもう一度おじいさんを与えてくださったのだと思っています。

今日はサプライズ続きで、おじいさんの長男が突如ハワイから遊びに来ました。

その長男の息子さんは以前一緒に暮らしたことがあるのですが、サプライズにしようと息子さんの長男(おじいさんのお孫さん)しか知らずにみんなびっくり。

でもこの息子さんとあって、僕はおじいさんの子どもさん(当然全員僕より年上ですが)に全員会うことができました。よかった。

今日は隣の家もバースディーだし、おじいさんが早くよくなるようにって料理をいっぱい作ってくれたので、なんと夕食は、チキンスープ・豚のスープ、それにこの島一番のリゾートホテルのスープ(おじいさんのお孫さんはそこのチーフコックなので)、それに豚の丸焼き、犬の丸焼きなどなど。スープはどれもおいしく、お腹いっぱいです。

今日は仕事もしたかったので、村で週末を過ごそうと思っていましたが、おじいさんも帰ってきてくれたし、息子さんも遊びに来てくれたし、いい週末になりそうです。
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南の島で豆腐のみそ汁を作るとタイムトリップできる

2007年09月12日 | ミクロネシアのおじいちゃん
僕は本当にホームステイのおじいさんやそのお世話をする家族のお世話になっています。
朝昼晩の食事はもちろん、精神的にも。

活動で大変なことがあっても、こうして現地の方と一緒に住んで、その人達の心に残ることだけでも、自分がここにいる意味があると自分で自分を納得させることもあります。

もちろん、文化や習慣の違いがありますが、それがあるからこそ、ホームステイをする意味があるのではないかと思っています。


そんな家族にできることは、食事の後に皿洗いなどをすること、おじいさんと日本語色々な話をして情報交換すること、それを通して家族が日本のことを知ることなど限られていますが、その一つが僕が日本人が食べる料理を作ること。

今まで、ざる蕎麦・温かい蕎麦・素麺・焼きそば・焼きうどん・お好み焼き・親子どんぶり・チャーハン・肉じゃが・すき焼き・麻婆豆腐など作ってきました。日本食を作るのは限界があるので、中華も入っています。

この間、大きな味噌を買ったので、2回続けておみそ汁を作りました。
具は豆腐。

こうして僕が食事を作ると、普段は別々に食べるポンペイの家族もおじいさんの「集まりなさい」の声と共に集まって、みんなでお祈りをして食事をします。

ポンペイでもみそ汁は定番ですが、もっと味が薄くて、スパイス程度にきかすだけ。

おじいさんは日本統治時代にいろいろな日本食を食べてこられたので、味も内容もごまかせません。
前に肉じゃがを作ったときに説明しにくいので、僕が「これはすき焼きみたいなものです」と言ったら、「うそだ、すき焼きはこうして鍋を囲んで肉をつついて食べるんだ」と言われてしまいました。

今回、豆腐のみそ汁を作ると「昔は豆腐屋さんが豆腐豆腐って言いながらラッパをならして売りに来て、入れ物をもって買いに人が集まったもんだ」と話してくださいました。

豆腐屋さんがラッパを吹いて売りに来ていたことなんて、今の日本人でもどれくらいの世代だと理解できるのでしょう。
私ももちろんリアルタイムでは知らずに、話をきいただけですが。

おじいさんの話を聞くと、このポンペイには兵隊だけが駐留したのではなく、たくさんの日本人が日本の町を形成して、当時の日本そのものの暮らしをしていたことがわかります。

日本が南の島を占領していたというと、どうも日本兵のみが頭に浮かびますが、それはこのポンペイの実情とは違うようです。

こうして、日本食を作ることでまるでおじいさんが運転するタイムマシーンにのって、60数年前の日本統治時代のポンペイへと僕らはタイムトリップできます。

これからも料理を作る度に昔の日本そのままのようなポンペイへタイムトリップできることを楽しみたいと思います。

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ポンペイに鳴り響き?ハト時計

2007年06月04日 | ミクロネシアのおじいちゃん
今、僕の家で時を刻むのは、ハト時計。

4月におじいさんの誕生日に僕がプレゼントしたものです。

もちろん、鳩時計なんてポンペイには売っていないので、日本の家族に頼んで送ってもらいました。

何故?ハト時計。

昔僕の祖父が健在だったとき、その祖父の家には鳩時計がありました。

おじいさんの家にホームステイを始めたときから、いつかこの家に鳩時計がおけたらいいなあと密かに思っていました。

そして3月の合唱コンクールで「大きな古時計」を家族でおじいさんのために歌い、
ますます時計が送りたくなって、今は家の食堂の真ん中に飾られています。

ポンペイはポンペイタイムというのがあって、時間が1-2時間遅れるのは平気です。
でも僕のおじいさんはいつも時間に正確。

ですから、鳩時計も飾られた当初は、おじいさんは自分の時計をみながらいつも時間があっているか気にされていました。

今はすっかり家族の一員のように、毎時間美声で時を告げてくれています。

僕も毎日この時計を見ながら食事をし、「うん、やっぱりおじいさんの家には鳩時計だな」と満足しながらポンペイのローカルフードを食べています。
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大きな古時計 収録

2007年03月14日 | ミクロネシアのおじいちゃん
今日は「大きな古時計」の収録日

というのは、私の住んでいるミクロネシアでは協力隊が日本語で学校の生徒などに日本語の歌を歌い、それをビデオで収録し、コンテストに出場するというもの。

私の家には85歳のお祖父さんがおられます。僕の本当のホストファミリーはお祖父さんお一人で、あとはお祖父さんの子どもやお孫さんが住み込みで1-3ヶ月単位で家に一緒に住みながら世話をしてくれます。

そこで考えたのが、「大きな古時計」の歌をお祖父さんにあった歌詞にかえて家族で歌うこと。そのためにこのコンテストのメンバーに替え歌にすることをOKしてもらいました。

みんなで練習を重ねて、今日のビデオ撮りまでこぎつけました。

学校などでの練習も大変ですが、家族の練習も子どもが多いとなかなか予定が合わず大変です。

お祖父さんはもちろん歌を歌いませんが、日本語を理解されているので、この歌の意味はよく分かられています。

「大きなのっぽの古時計、おじいさんの時計、85年動いているご自慢の時計さ、
~これからも元気に動いてね、お祖父さんの時計、僕たちの宝物さ、お祖父さんの時計」という風にかえてます。

こうして何か行事をすることで僕が家族と仲良くなれるのももちろんですし、かぞくのなかでも新たな絆が深まると良いなあと思います。

そしてこの歌の大きな古時計という意味はお祖父さんがとても大きく偉大だという意味での「大きな」古時計にあっているのだと改めて感じました。
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バナナからにじみ出る暖かさ

2006年11月13日 | ミクロネシアのおじいちゃん
土日はコロニア(ポンペイでメインの町ですが首都ではありません)で会議をしたり、仲間とテニスをしたりすることが多いです。

最近までは、土曜日の夜にコロニアに泊まっても、日曜日の朝はホストファミリー達が通う家の横の教会に通っていたのですが、日曜日の朝は、コロニアからウー村へ向かうタクシーが1時間以上待っても来なくて、結局教会に間に合わないことが多くなり、断念しがちになっています。

なので家に帰るのは、日曜日の夜。それもやはりタクシーがなかなか捕まらずに、1時間から2時間は絶対待つので、遅くになります。

家に戻って部屋の明かりをつけると、テーブルにバナナが一房ありました。おじいさんが僕のために部屋においてくれたものです。

ホストファミリーでも多くのメンバーが部屋の鍵は、自分しかもっておらず、「家族には入ってほしくない」という考えもあるようですが、僕は用事があるときは、おじいさんが僕の部屋に入られることがたまにあります。僕はぜんぜん平気だったのですが、「それはおかしい」と仲間に言われたこともありましたが、もともとおじいさんの家だし、鍵を自分だけ持つのは、僕はホストファミリーにうまく説明できないと思っています。

バナナを見ながら、日曜日最近教会に行けていないことを心配してくださっているのかな?やはり週末は家にいて欲しいのかな?などなどいろいろと思いを巡らしました。

ホストファミリーと暮らすことは、ひとり暮らしと違って時には煩わしいことがったり、制限があったりしますが、ひとりでは味わえない暖かさにも出会えるなあと改めて感じました。
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お金の貸し借り

2006年11月10日 | ミクロネシアのおじいちゃん
昨日お祖父さんに家族がサカオをするのでお金を貸して欲しいと言われてお金をお貸ししました。最初お祖父さんは息子に「サカオは、明日にしなさい」と言っていましたが、お祖父さんも子ども達に世話になっているので、聞いてあげないといけないかな?と思われたのかも知れません。そして今日朝、お祖父さんは早速お金を返してくださいました。

お金の貸し借り。
これは、日本でもトラブルになることが多い問題です。
ポンペイの人は、日頃からあまりたくさんの現金を持っている方は少ないようです。

僕のお祖父さんもたまに「お金持っている?」と聞いてこられます。「持っていますよ」と答えると「20ドル貸してくれないかな?明日かえすから」と頼まれることがあります。

色々な考え方があると思いますが、僕は「わかりました」と言ってお金をお貸ししています。
それにお祖父さんは一度お貸しした時にすぐにその日か次の日に「これありがとう」と言ってお金を返してくださいました。
それ以後も借りたら遅くても2-3日中には返してくださいます。

その話を仲間にすると「それは辞めた方がいいよ」「お金は貸さない方がいいよ」という意見が多数を占めました。

こういう開発途上国では、お金の貸し借りはしないというのが一般的な日本人の考え方だと思います。

確かにお金を貸す理由は、息子さんが遊びに行く時とかサカオのお金が足りないというようなときもあります。本当に困っているときだけ貸せればいいのでしょうが、そこまで踏み込んで聞くことは出来ません。
でもお祖父さんが僕に「お金を貸してください」っていうのは、少し勇気のいることではないかな?と思っています。
僕が思っている急を要するお金と現地の方が思っている急を要するお金は違って当たり前かも知れません。

私は、ホストファミリーは家族なんだから(本当の家族ではないですが)、日本でもし親や兄弟が「ごめん、今お金ないんだけど、遊びに行くからお金かして」と言われたら間違いなく貸すのに、現地の人には貸さないって言うのは、ちょっと違うかな?と思っています。

現地の人へのお金の貸し借りの話を仲間としている時に、私の仲間の1人が出かけることになってお金が足りなくて仲間が「足りないから貸して」と何気なく言うことがありました。
その瞬間仲間は「あっ、そうだね私たちはすぐにお金貸し借りしていますね」と気づいてくれました。
そうだからといって、日本人には貸すから現地の人にも同じように貸すかどうかは、もちろん個人の判断です。

ただ、貸して欲しい人の気持ちも考えて、自分の中で判断できればそれでいいのではないかと思います。


お金の問題はシビアだし、あとあと残るし、貸した方は覚えている、借りた方は忘れるという鉄則?があるので、非常に難しいです。

僕の中でもルールを作っています。
①一度お金を貸したら、そのお金がかえってくるまで次のお金は貸さない。
(そんなに頻繁に貸し借りをしているわけではありません。この1ヶ月に1回くらいです)
②一度にお貸しする金額を上限20ドルとする。
③お祖父さん以外の家族から頼まれたら、お祖父さんに聞いてみてお祖父さんが貸して欲しいと言ったら貸すと伝える。

お金のことでトラブルを起こすことは、とても嫌なことですし、できたら避けたい。
それには貸し借りをしないのが一番です。
貸し借りは、返してもらって当たり前、返してもらわなければ嫌な気持ちが残りますから。

でも、家族として、こうした方がいいとは分かっていても、そういう気持ちを超えてしまうことって、合っても良いのではと思います。

トラブルが起こらないようにすることが一番だと思いますが、そればかりをさけていては近づけない部分もあるように思います。

それはひとそれぞれ、お金だけではなく他のことでも言えると思います。

こうした方が良いという一般論を超えて、一緒に暮らす者として「こうしてあげたい」「きっと相手はこう思っている」と相手の気持ちと自分の気持ちを照らし合わせて、自分なりのつきあい方を作っていくことが良いことだと思います。
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不運が続く家族

2006年10月18日 | ミクロネシアのおじいちゃん
一昨日、食事を取ろうと食堂に行くとお祖父さんが「足が痛いから病院に行ってきたんだ」と話してくれました。

朝豚小屋に行くときに、急にいたくなり、倒れそうになったそうです。

病院で薬をもらい、出来るだけ足を動かして、その後に休むというのを繰り返すのがいいようです。


今まで以上にお祖父さんの手となり足となり頑張らないと。


今家族には不運なことが続いています。

豚の赤ちゃんは10匹生まれたのに、今育っているのは1匹だけ。
こんなことは滅多にないようです。

あと先日はお孫さんのお嫁さんのマルガリさんの足が急に痛んで、僕が持ってきた湿布を貼って「絶対に動かしたら駄目」って話、一日安静にしていると元気になりましたが・・・
(この時は、いつもみんなのために働いてくれているマルガリを気遣い、僕も昼ご飯を作ったり、夕食で出かけた所の食事をテイクアウトして届けたりしました。
あまりにみんながたくさん料理をマルガリーにもってくるので、僕が「マルガリは、ナンマルキ(村の酋長)でたくさんの貢ぎ物があるなあ」って話すと家族に大受けで、そのごなにかあると「今日は君がナンマルキだ」なんてジョークに使ってくれています)

先々週は、洪水で家が床下浸水するし・・・
本当についていません。

昨日お孫さんのコスタンさんとお嫁さんとその親戚で、サカオで話をしていて、「次はhiroの番だな」って言われました。

「えっ」って思いながら、少し嬉しい気持ち。

なぜならの不幸なことの順番ながら、家族の中に僕が入っているのだから。

「2008年の3月に帰るんだね」「絶対泣いちゃうよ」って言ってくれました。

僕もお祖父さんとの暮らしは楽しいし、お祖父さんと2人きりだったらとても寂しい気持ちになっていたけど、コスタンさん家族がいてくれて本当に嬉しいよとはなしました。

なかなか普段は言えないことですが、習慣や言語などが違う私たちが一つ屋根の下で暮らして行くには、こうした言葉での感謝や素直な思いをしっかりと伝えていくことが必要だと思います。

言葉だけに頼るのはよくないですが、逆にいくら思っていても言葉にしないときっちりと相手に伝わらないことがあります。

ここはポンペイ。日本のように「物事を察する」というのは、難しい面があるようにも思います。だからこそ、自分がここにいる喜びをしっかり言葉にそして態度にして伝えなければと思います。
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どうにもできないものを背負って

2006年09月17日 | ミクロネシアのおじいちゃん

今日は朝一番にコロニアから自宅に帰り、教会へ。
事務所の方や仲間が教会に来たいと3名同伴で。

今日の教会は特別でした。
洗礼式で、たくさんの赤ちゃんがお母さんに抱かれて助祭さんから頭に水をかけられ?式がありました。赤ちゃんがほとんどでしたが、時々小学生もまざっていました。
みんなとてもかわいい服を着せてもらっていましたよ。

こうして、みんなに祝福されるミクロネシアの赤ちゃんは幸せだと思いました。
そして、頭に水を掛けられても誰も泣かないことが不思議でした。
その後仲間と近くのビレッジでブランチをして帰りました。

家に帰ると「おじいさんは、ゆっくり休みなさい、でも誰かが鍵をあけて欲しいって言っても、勝手にあけて入らせてはいけないよ、必ず私に聞いてから他の人を入らせないように」と言いました。

お祖父さんが何故そんな話を僕にしたのか、少し不思議でした。

その後、お祖父さんのお孫さんのドミニクがやってきて「大変だよ、イケナシとレオンがけんかをして大変なことになった」と話しかけてきました。でもちょっとあきれ顔&笑い顔。よくあることなのかもしれません。しかしドミニクが言うには「イケナシさんはほとんど死にかけているし、レオンは警察に捕まったよ」とのこと。
ドミニクがお祖父さんに話をしに行くので、僕も一緒についてお祖父さんの部屋に。

ドミニクがお祖父さんに話をするとお祖父さんはもうそのことを知っておられました。
そしてぼくが「お祖父さん病院に行かなくて良いのですか?」と聞きましたが、「もう人を病院に行ってもらうように頼んだし、病院にはお医者さんがいるから。僕が言っても何も出来ないからね、あれだけ仲良くするようにはなしていたのになあ」と残念そうでした。

9人もお子さんがおられるといろいろなお子さんがおられるし、いろいろなことが起こるのだと思います。

そしてお祖父さんは、迎えに来た車に乗って、近くのサカオに出かけられました。

帰って来られたお祖父さんのご飯をよそったり、お水をくんだりして静かに部屋を出ました。

近くにいたお孫さんに「お祖父さんは大丈夫?」と聞くと「わからないけど、ケンカが起こったのはこれで3-4度目だからね」と。

そして、先ほどぼくにこの事件を知らせてくれたドミニクも「お父さんはサカオが大好きでね」とちょっぴり寂しそうな気がしました。
ドミニクもお父さんが大好きだけど、変わって欲しいけどどうにもならないことがあります。
そしてお祖父さんも子ども達が大好きで、変わって欲しいけれどどうにもならないものがあります。

みんな、どうにも出来ない、いろいろなものを背負って生きていくのだと思いました。
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家族の継承・生きているだけが

2006年09月16日 | ミクロネシアのおじいちゃん
今日は昼からMATH PLAN で ポンペイ最大の人口密度を誇るPICS(ポンペイ アイランド セントラル スクール)で先生をしている仲間の算数の授業を見にいくつもりで、準備をしていたら、中止になりました。

お昼におじいさんと二人きりで話をしていたら、今日は人生について話しました。

最初は、家族を継承する話から

おじいさんのお父さんが亡くなられたときは、長男がすべてを相続する法律だったので、おじいさん一人がこの土地を相続されたそうです。

日本が戦争で負けて去り、今は子どもたち皆に相続する権利があるそうです。

おじいさんはまだお元気ですが、継承する(相続)ことについて家族ですでに話し合いをもたれているとのこと。

おじいさんには息子さんが6名・娘さんが3名おられますが、継承するのは息子さん6名のみだそうです。娘さんはそれぞれご主人がいるから必要ないと。でももし困ったことがあったら、住むことができるくらいの土地は上げるからそのときは言いに来なさいといってある話されているそうです。

そしておじいさんと今一緒に(離れに別棟に)すんでいるお孫さんは、おじいさんの長男の長男になります。

おじいさんのご長男は今でもハワイに在住で、その息子さんたちもハワイに住んでおられます。それだとポンペイのウー村でおじいさんの家族を継承することができなくなるので、
長男であるお孫さんがポンペイに住まれているそうです。

ここではちゃんと長男の家の継承が行われているし、おじいさんのしっかりとしたお考えが、家族に受け継がれているのだと感じました。

また、相続するときに、子どもがいないと、お嫁さんの家のものになってしまうこともある話しになると、「それはしょうがないことだ、人生は思い通りにならないし、まわっていくものだから、そのときはそのときでいいんだよ」と話されておられました。

そんなしっかりとしたお考えをお持ちになりながら、決して自分だけという考えを持たず広い心でおられるおじいさんらしいお考えだと思いました。

またそこから、おじいさんが「人は生きていることが大切だ」「生きてさえいればいい」「例えば人のことが嫌いになったとするだろう、でもその人が一週間後に死んでしまえばもうそれきりで仲直りもできないだろう」と話してくださいました。

おじいさんの言葉の中には日本語だけでは語りつくせない、ものがいっぱいつまっていると感じ取りました。

「生きているだけでいい」というのは、私が人生で大切にしている言葉の一つです。それは震災のときに「生きてさえいればいい」と心から思ったからです。

簡単に仲たがいをしてはいけない、生きている間に精一杯のことをしなくてはいけない、生きていることに感謝すること、おじいさんはポンペイの人の中では飛びぬけて上手な日本語を話しますが、それでも言葉の壁はあります。しかし言葉の壁があるからこそ、お互いに相手の言葉をしっかりと心に刻んで、受け止め理解しようとする。そのことで、単に言葉だけでは伝えきれない、言葉の壁のおかげで新たなものが見えてくるように思います。

写真は僕のおじいさんのトイレです。においがいいようにお花が今飾られています。
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敬語や漁業の話

2006年09月14日 | ミクロネシアのおじいちゃん
おじいさんとの話

朝、お祖父さんが少し怪訝そうに教会から帰ってきました。
内容は、ポンペイでは朝の挨拶は友達など
親しい人には「メイセン(朝)」
目上の人やリスペクト(尊敬)を表すときは「メイセン(朝)・マウ(良い)」
わかりやすく言えば、友達にはモーニング 丁寧に言えばグッド・モーニング
と言うのと一緒です。

それがお祖父さんに対して「メイセン」という人がいると。
それは僕も感じます。
現地の人からすれば、単なる日本人ですが、小学校の生徒も僕のことを先生と分かっているのに、ぼくが「メイセン・マウ」といっても、子どもは「メイセン」と返してきます。
前にも学校で敬語のレクチャーがありました。
とても難しいと先生達は言っておられました。
ポンペイには日本から影響を受けた素晴らしい年長者を敬うという文化があるのですが、
日本同様少しずつ言葉だけでなく、心の変化も見られるのかなと思って心配しています。

いつものように昼ごはんを食べに家に帰ります。
学校から家までは歩いて1-2分です。

お孫さんのコスタンさんはコロニアへ、そのお嫁さんは釣りに行っているので留守です。
お嫁さんは釣が上手だし、いつもその後においしい魚を作ってくれるので楽しみです。

2種類の魚のフライです。ひとつは鰯です。

鰯の話をおじいさんとしていると、「これは魚が大好きで、よくえさにして大きな魚を釣るんだ」と話してくれました。

そして、昔日本人がいたときは、漁船がたくさん出て、毎日たくさんの魚を取ってきていたことも。
まず、朝に鰯など鰹のえさになる魚をとって、それから9時か10時ごろ漁に出て夕方に帰ってきていたと。そして船が帰ってくるときには汽笛がなって、その音が聞こえると村の皆が一斉に漁船が帰ってくるところに集まると。

汽笛の音の回数によって、大漁かどうかも分かるようになっていて、1回の汽笛で100匹、2回で200匹。昔は多くて600匹、少なくても200匹くらいは取れていたそうです。

そして船に子ども達が集まると、魚の頭を切ってくれて、それを家に持って帰ることができたそうです。
お祖父さん曰く「鰹の頭もおいしかったよ」と

もちろん、鰹節なども作っていたそうです。

こんな風に昔の話をするときは、おじいさんは魚の大きさを表すのも手を広げて大きなジェスチャーと笑顔で話してくださいます。

敬語のことにしても、鰹節のことにしても昔の大切な文化を伝え、継承することが日本でもポンペイでも難しくなってきているのだと思いますが、しっかりお祖父さんとお話しする機会を自分の肥やしにしたいと思います。
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解放記念日

2006年09月12日 | ミクロネシアのおじいちゃん
開放記念日
(9月11日は、第二次世界大戦終了後、日本が撤退した日本からの解放記念日です。)
(ミクロネシアは4州がそれぞれ異なった休日があります)

日本からの開放記念日なんて言われると日本人としてはちょっと緊張しますが、本当に普通の祝日でしたし、戦争経験者であるおじいさんでさえ「今日はなんで休みなの?」とおっしゃるくらいなので、本当に今はただの休日になっています。

おじいさんは、前にこんな話をしてくれました
おじいさんが「昔日露戦争のときに使った大砲を日本からポンペイに運んできたことがあったんだ。それを高い山まであげるために、大砲の下に丸太を並べて転がしたり、紐をテコの原理でひっぱたりしたんだよと。

僕はそんな時、日本人だけでそんな大変なことをしたんですか?日本人はポンペイの人にも手伝わせたりしなかったですか?と聞きました。
するとおじいさんは「日本人だけでしていたよ」「その大砲を使ったのは、戦争が終わりかけのときに始めて使ったよ」と。

毎日いろいろなお話を聞くのは難しいですが、おじいさんと二人きりの生活ならではの学びをたくさんしたいですし、このブログでもそんな貴重な体験を書いていきたいと思います。

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お祖父さんへの肩もみ

2006年09月12日 | ミクロネシアのおじいちゃん
今日は二人でゆっくりと食事をしました。
夕食はマグロのお刺身・茹でたジャガイモ・魚を揚げて、ガーリックとタルタルソースをまぜた特性のソース・サラダ。
それは、僕のお祖父さんのお孫さんがこの島で一番のリゾートホテルのチーフコックをしているからです。

もちろん、お孫さんはたまに作られるだけですし、こんな夕食は珍しいですが、きっと僕は今ポンペイで暮らす仲間の中で最もおいしいご飯を食べていることは間違いないで」とす。
なんせお祖父さんのためにみんなが料理を作っていますので。
(僕はお祖父さんのおこぼれをちょうだいしています)

今日は食事の後、お祖父さんが肩や首を動かしておられたので、肩を揉ませてもらいました。お祖父さんは「ありがとう」といいながら「こうして日本人の先生が毎日生徒に肩を揉ませていたなあ」と懐かしそうに振り返られました。

また「毎朝号令をかけて「前に進め」っていって2列なって行進するんだ」「こうして体操もしたよ」と立って動きながら教えてくださいました。

他にも「巡査さんがそれぞれの村にいたよ」「ネッチは前はナット村という名前だったんだ」などなど。

週末家を不在にしていたので、久しぶりに話ができ、こうして互いのことを思いやりながら生活が送れればと思いました。

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