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小さな応援歌

集団ストーカーの被害者の方々に小さな応援の言葉と、ささやかな祈りをお届けします。Amebaブログへ引っ越し中です。

シラ書から 「屈辱のかまどで陶冶される」

2012年06月02日 | 聖書
前項「人間性を試される」で旧約聖書のシラ書から引用いたしました。
その箇所をもう少し長く、ご紹介します。

シラ書 2章

1 子よ、主に仕えるつもりなら、
自らを試練に向けて備えよ。

2 心を引き締めて、耐え忍べ。災難のときにも、取り乱すな。

3 主に寄りすがり、決して離れるな。そうすれば、豊かな晩年を送ることになる。

4 身にふりかかる艱難は、すべて甘受せよ。たとえ屈辱を受けても、我慢せよ。

5 金は火で精錬され、
人は屈辱のかまどで陶冶され、
神に受け入れられる。〔病気のときも貧しいときも、主に依り頼め。〕

6 主を信頼せよ。そうすれば必ず助けてくださる。お前の歩む道を一筋にして、主に望みを置け。

7 主を畏れる人たちよ、主の憐れみを待ち望め。わき見をしてはならない。さもないと、道を踏み外す。

8 主を畏れる人たちよ、主を信頼せよ。そうすれば必ず報われる。

9 主を畏れる人たちよ、主が賜るすばらしいこと、
すなわち、永遠の喜びと憐れみを待ち望め。〔主は喜びに満ちた永遠の賜物を
報酬として与えてくださる。〕

10 昔の人々のことを顧みて、よく考えてみよ。主を信頼して、欺かれた者があったか。主を敬い続けて、見捨てられた者があったか。主を呼び求めて、無視された者があったか。

11 主は、慈しみ深く、憐れみ深い方、
わたしたちの罪を赦し、
苦難のときに助けてくださる。



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敵のために祈る

2012年05月23日 | 聖書

聖書に「敵を愛しなさい」(マタイ5章)とあるが、今の自分なら、敵とは加害者のことになる。

今まで敵などいなかった。苦手な人ならいたが。しかし加害者は明らかな敵だ。やっと敵が現れた。

被害者なら、「敵のためになど祈るな」と言うでしょう。しかし敵のために祈ったからと言って、加害がひどくなることはないと思います。そんなことは神がお許しにならない。

敵のために祈ったら、おそらく、その加害者は悪から離れるのではないか。反省する、あるいは痛い目にあう。

彼らの中には、日本で居場所のない人もいるかもしれない。そんな彼らに、居場所を与えたのが加害者団体だとすれば、彼らは加害をすることに、唯一の生きがいを感じているのかもしれない。それはかわいそうな人たちだ。

日本でもっと生きがいを感じられる居場所が見つかりますように。そう祈ることも加害者のために祈ることだと思います。

加害参加者が反省して、「自分は悪いことをしていた」と認め、内部告発するなら、それはありがたいこと。

私だって、もしかしたら生まれや環境によって、加害者団体の一員になっていた可能性がある。しかしたまたま、違うものに出会った。

私の友人も、「もし加害でお金がもらえるのだったら、確かに誘惑になる」と言っていました。確かな友です。しかし経済的に苦労した人なので、もし誘いがあれば、経済的苦しさゆえに、加害に参加する誘惑に駆られるかもしれない、と言っていました。

敵にもいろいろ事情がある。悲しい過去、苦しい現在がある。その人々のために祈るならば、神が彼らを救い出して、正しい道を歩めるよう助けてくださるかもしれない。それはすばらしいことだ。

私だって嫌がらせを受けているのだから、彼らのためになんか祈れないときが多い。しかし時おり訪れる平和なときに、祈るようにしている。

キリスト者にとっての本当の敵は、きっと人間ではなく悪魔だ。そしてもしかしたら自分自身の罪だ。

「敵を愛しなさい」この教えをありがたく思います。

キリストも、自分を十字架につけ、あざける人々のためにこう祈りました。「神よ彼らをお許しください。彼らは何をしているのか知らないのです」(ルカ23章)。

そして初めての殉教者であるステファノは、石打の刑を受けながらこう祈りました。「神よ、彼らにこの罪を負わせないでください」(使徒言行録7章)。

敵にも事情がある。哀れみを受ける資格がある。敵のために祈るなら、むしろ加害システムの崩壊につながるだろう。

キリストはおっしゃった。「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ9章)。もちろん正しい人は救われる、しかし罪びとが改心して救われるためにこそ、私は来た、とおっしゃる。

私もこれにあやかりたいと思い、敵のために祈っております。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章)。厳しい教えだが、ありがたい教えでもある。

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詩篇64章の紹介

2012年05月19日 | 聖書
詩篇には、敵からの救いを求める祈りがいくつかあります。昔から、人間の状況というのは基本的に同じなのでしょうか。

詩篇は旧約聖書の中にある文書で、150章から成ります。今から約3000年前から祈り継がれてきたものです。

キリスト信者は、この昔からの祈りを、現代の状況の中で祈るわけです。

さて、最近、詩篇64章を読みました。ちょうど被害者たちの状況にあっていると思い、紹介したいと思います。


「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。

神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。
敵の脅威からわたしの命をお守りください。
わたしを隠してください
さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。

彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え
突然射かけて、恐れもしません。

彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け
「見抜かれることはない」
と言います。
巧妙に悪を謀り
「我らの謀は巧妙で完全だ。
人は胸に深慮を隠す」
と言います。

神は彼らに矢を射かけ
突然、彼らは討たれるでしょう。
自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。

人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚めるでしょう。
主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。」

新共同訳より。読みやすいように、私がブロックに分けました。

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祈りは聞き入れられる

2012年05月15日 | 聖書
この被害を受けると、人間的には何の希望もなくなります。しかし天の世界を考えると、さまざまなものが見えてきます。前項では「死後の裁き」をみました。ここでは「祈り」を見たいと思います。

人は何かあれば自然と祈ります。人間特有のものです。そしてこの祈りに関して、キリストの教えでは、けっこう神様は聞いてくださる、と考えます。

「求めよ、さらば与えられん」という有名な箇所があります。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7章)

続けて、

「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

キリストは神のことを私たちの父親と呼びます。父親は子供の必要なものを知っており、子供が手を出せば与えてくださる。余計なもの、もらったらけっきょく自分のためにならないようなものは、祈っても下さらないかもしれません。

しかし人と神の関係は親子関係であって、必要なものは下さる、というのが基本にあります。私たち被害者が日々耐え抜く力は必要なものです。願えばきっと下さるでしょう。

なかなか聞き入れられなくても、「あきらめず、執拗に祈りなさい」とキリストは教えます。

ルカ18章です。

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
それから、主は言われた。
「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」

このたとえ話の裁判官は、やもめの頼みなど眼中にない冷たい人です。しかし「しつこさ」ゆえに、「こいつのために裁いてやらないとうるさくてかなわない」と思います。

この世で、こんなに冷たい輩でさえ、とうとう根負けして動いてくれる。ましてや父である神はなおさらではないか、という内容です。

何度も何度も祈ることです。あきらめてはいけません。

私自身は、いつかこの加害のシステムは崩壊すると信じています。祈っておりますし。

そして今の自分自身に関しては、確かに日々、助けをいただいていると思います。平和と希望がいつも心にあるのです。それだけでなく、この苦しみを捧げております。世の人の救いのために苦しまれたキリストの十字架に合わせて、日々。

苦しい中にも、苦しみの意味を見出しているので、耐える力もよけいに湧くのだと思います。こう言ってよければ、誇りのうちに耐えています。誇りを持つと、敗北感と怒りのうちに嫌がらせを受ける場合と大きく違って、耐えやすくなるのです。


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