わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

イラク開戦5年

2008-03-19 | Weblog

 米テキサス州中央部のアビリーン市の約80キロ南にコールマンという町がある。夏の暑い午後、そこのある家族がゲームを楽しんでいると、一人が言った。「そうだ、みんなでアビリーンに夕食を食べに行こう」。

 「それはいい」。みんなはそう言って車で出かけた。だが道中は暑く、ほこりっぽい。夕食もひどかった。疲れ果てて家に帰ると、誰もが口々に言った。「みんなが行きたいようだったから行ったけれど、私は本当は家にいたかったんだ」。

 この「アビリーンのパラドックス(逆説)」として知られる小話は集団思考の危うさを示すたとえだ。「やめよう」の一言が出ず、周囲に流されて愚行に走るのは日本人だけでもない。我の強そうなテキサス人も集団の空気で身を誤るらしい。

 ならばテキサス出身のブッシュ大統領は、9・11同時テロ後の熱病のような空気の中で決意したイラク戦争開戦を5年後の今どう振り返っているだろう。「大量破壊兵器発見」も「中東民主化構想」も「アビリーンでの楽しい夕食」と同じような夢想と分かった現在のことである。

 大統領らはフセイン独裁打倒を成果と強調するが、それに代わったのはテロの温床となったイラク社会と、米国が嫌うイランやシリアと近しいマリキ政権だ。一国の秩序をアメ細工のように自在に変えようとした思い上がりの結果がこれだ。

 はなからこの成り行きを予想するのが難事ではなかったのもアビリーンへのドライブと同様だ。しかしこと戦争における指導者たちの浅慮は、容赦なく市民や兵士の生命をのみ込んでいく。その重く悲しい現実をなお目の当たりにせねばならぬ中で迎える開戦5年の節目だ。



毎日新聞 2008年3月19日 0時02分


オーダーメード=磯崎由美(生活報道センター)

2008-03-19 | Weblog

 スカイブルーの愛車が届いたのは去年の秋だった。坂之上優也君(14)にとって、この世にたった一つの、自分だけの自転車。「でもぶつかると痛いんだ」と言いながら、風を受けて走る少年の笑顔は見る者の顔まで緩ませる。

 母親の千賀子さん(42)は早産で大量出血し、優也君は脳の一部の機能を失った。医師からは「良くて一生寝たきり」とも言われた。

 親子の目標は歩けるようになること。ペダルをこげば足の機能訓練にもなるが、普通の自転車では危ない。「この子に合ったものを作ってください」。千賀子さんは長崎県南島原市でオーダーメードの自転車を作っている中村耕一さん(41)に頼んだ。

 中村さんに障害者の自転車を作った経験はなかった。大阪に住む優也君を訪ねて体に触れ、試行錯誤を繰り返す。体を支える背もたれやベルトを付け、緊急時に同行者が停車できるよう、後部にもブレーキレバーを設けた。

 中村さんは6年前、廃業を考えていた。量産された商品を大型店が安売りし、町の自転車屋は衰退していく。ある日、ゴミ出しに苦労するお年寄りを見て、軽量のリヤカーを作ってみた。少しずつ売れ始めた。「みんなの希望を聞いて、オレが自分の手で作ればいいんだ」と気づいた。

 優也君は自転車に乗り始めて、自力で4歩、歩けるようになった。「10歩までいったら、東京に行って山手線に乗る」と母と約束している。

 自転車に乗る優也君の姿を撮ったDVDが中村さんの元に届いた。店を訪れる人たちに、つい見せたくなる。「ほら、いい笑顔だろ?」




毎日新聞 2008年3月19日 0時01分


万里をおもう=玉木研二

2008-03-19 | Weblog

 「一国皆私欲世界となりぬれば、勘定も帳面も名のみにて、何の用にも立たぬなり」と警世の書「東潜夫論(とうせんぷろん)」(岩波文庫所収)に記したのは帆足万里(ほあしばんり)である。江戸後期、豊後(大分県)日出(ひじ)の学者。儒学から独学の蘭学まで広く修め、教えた。「一国」とは幕藩体制の役人世界を指す。

 社会保険庁、国土交通省、防衛省と、つい重ねて読みたくなる。確かに、これが机上論や観念的な説教ではないのは、彼自身、ガタガタにむしばまれた日出藩の財政立て直しを命じられ、3年間苦闘したからに違いない。

 その筆鋒(ひっぽう)描くところ、リアルである。例えば、江戸の留守居や大坂蔵屋敷に派遣された者たちの不届きぶり。遊興のために「九十両の払ひには百両と請取をかゝせて十両を私(わたくし)し、八十銭の米は七十九銭と入札させて、千石売れば一貫目の銀を盗む」。町の金貸しからの借金は元利とも踏み倒し、それが手柄になる。

 万里は社会経済の視点から田畑荒廃も憂える。村単位にあるはずの土地台帳「水帳」が現実の変化と一致せぬまま放置され、用をなさない。水帳と実際の田地を引き合わせるチェックを「坪押し」(何だか「名寄せ」を想起させる)というが、長年ほったらかしではままならない。

 「利口になりて、骨折りて利少き事はせず、薪(まき)を売り、日傭(ひやとひ)をとり、米を買つて食ふ方勝手よき」ゆえ辺地のやせた土地は次々に放棄され、人々は城下町へ流れた。

 万里はペリー来航の前に没し、幕末の動乱や新社会を見ることはなかった。だが、その先哲の目、今の世まで見通していたかのようである。(論説室)



毎日新聞 2008年3月18日 東京朝刊