ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

終戦記念日に考える 2 ー 属国根性について

2023-09-02 14:00:00 | やまとごころ、からごころ
日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実【真・日本の歴史】


知人に教えてもらったのだが、普通あまり見られない視点の考察が随所に鏤められている良質の動画なので、ここで紹介したい。2時間半弱の長尺ではあるが、全くダレることなく、非常に多くの事実や知見が緊密に凝縮して述べられているのは、作成者の見識とプレゼン能力の高さを示していて間然する所がない動画である。いや、素晴らしい。

少し難しい話になるが、前にも少し述べたことがあるように、近代以降の世界規模の歴史的現象は「資本ー民族ー国家」という三位一体のシステムの面から考えてみる必要があると考えている。

<柄谷氏は現在出来上がっている体制を「資本=ネーション=ステート(国家)」とする。この概念は、資本とネーションとステートという異質なものがハイフンで繋がれている訳だが、この見立ては、私には誠に的を得ているように思われる。勿論、この三つは重ならないので、そこからさまざまな現代的な問題が噴出して来ると言うことが出来る。思想的には、この三つが我々の頭の中に内面化されたものとして、それぞれ様々な「経済思想」、「ネーション思想」、「国家思想」などの主義やイデオロギーが考えられるが、大雑把に言えば我々個々人の世の中に対する考え=世界観の違いというものは、この三つの「思想」の微妙な濃淡の違いによる組み合わせのヴァリエーションの違いに過ぎないと言っても言い過ぎではないだろう。従って、政治においてはこの三つの勢力の鬩ぎ合いの結果が、その時々の各国政府の政策的な性格を決めることになると言っても良いだろう。>

一般に、こういった戦争に関する考察や解説というのは、主に「国家」の面から、即ち政治やら外交やら地政学の面からのみなされるのが普通だが、それだけではなく「資本」や「民族」の面からも考えてみることも必要だと言いたいのである。ここで「資本」というのは、平たく言えば「経済」の面から、「民族」というのは、比較文化論的な行動様式の面からであるが、この動画にはそれらの興味深い考察がいくつかなされている。私としては、特に後者について、少し掘り下げてみたいと思うのである。


なお、前回述べた山本五十六については、01:17:50 「 "ちゃぶ台返し”の真珠湾奇襲と連合艦隊司令長官・山本五十六」と説明されているが、実に言い得て妙である。


そして、「経済」面については、一般に日米の国力の違いと言った静態的な説明がなされるのを常とするが、さらに深く踏み込んで、01:28:50 「軍事サービスの供給能力の差が開いたのはなぜか」という動態的な問題設定から、当時日本がインフレであったのに対し、アメリカはデフレであって、軍事的生産能力に対する余力という点でアメリカに分があったという説明は、他ではあまり聞くことの出来ない明快な考察・説明で、これも素晴らしい。

それから、比較文化論的な行動様式の面については、01:05:55 「 米国の”フェア”な要求」ということで、アメリカという国は、”フェア”であると述べているのも、なかなかと興味深い。

これは、いわゆる日本”属国”論にも通ずる話なので、ここで掘り下げてみたいのだが、ここで言われているようにアメリカは交渉に当たって、要求を隠し立てすることなく、”フェア”に臨んできている訳だから、日本側の主体的な問題というものも大きいと言わなければならない。結局、突き詰めると、これは日本人通有の”属国根性”に帰結するのではないかと私は考えるのだが、どう思われるであろうか。

日本人通有の”属国根性”というと、なんだか雲を掴む話のように思われるかもしれないが、この点を明らかにするには、行動様式の帰納法的プロファイリングといった方法が有効ではないかと私は考えている。一般にこういったトピックについては、その是非だけが論じられることが多く、「なに?属国根性?卑屈だ、けしからん!」と言って、いわゆる”遺憾砲”と同じで断罪するだけでは、何ら解決がつかないのは、その背後にあるものを抉り出さない限り、この後も何度も繰り返されることになるからである。

そして、さらにこれに加えて比較文化論的というアプローチを持ち出すのは、こういった視点を考慮に入れないとなかなか我々自身の行動様式に対する見方というものは、相対化出来ないからである。

例えば、日米開戦に当たって日本は、英語・アメリカ語を敵国語として禁止した訳だが、前回の動画でも言われているように、海軍では異なり普通に使われていた。だから海軍は素晴らしいという是非論に陥り勝ちだが、日本の取った行動と、アメリカの取った行動と比べると、また別の面ー文化的な行動様式の違いというものが浮かび上がってくる。

ではアメリカはどうしたのかというと、国中から日本語の出来る人材をかき集めて日本語学校を作り、日本語使いを量産して、彼らに日本を、文化・産業等あらゆる面から徹底的に研究させたのである。孫子の「敵を知り己を知れば百戦危うからず」を地で行った訳であるが、これ以降、アメリカのジャパノロジー(日本学)は相当に進歩した訳で、実際にどのようなやり取り行われているのかはわからないが、現在の日米の様々な交渉の場においても、恐らく日本人特有の交渉態度における弱点を、アメリカ側は相当に熟知した上で、交渉に臨んでいるものと推察される。

と言ったようなことで、話を”属国根性”に戻すと、これはエンターテイメント作品を帰納法的にプロファイリングすれば容易にわかることである。

例えば、国民的アニメである「ドラえもん」である。問題があると、何かに付けてドラえもんにすがるのび太は、アメリカ大統領が代わるたびに、安保第5条が尖閣諸島にも適用されることの確認をいちいち取り付ける日本政府と瓜二つである。



また、例えば広辞苑に名前が載っているほど、日本人の人口に膾炙している「ウルトラマン」である。日本(設定は地球ということになっているが、なぜかいつも日本)の平和を脅かす宇宙怪獣や宇宙人に対して、日本(これも同様に設定は地球ということになっているが)の守護者として、どこからともなく飛来したウルトラマンが無償で戦うという、全くもって善意の守護者としてのウルトラマンという設定は、全くもって善意の守護者としての「ドラえもん」と同型である。その理由付けとしては、一応ハヤタ隊員を事故によって死なせたからだと言う設定になっているが、この設定は全くの善意の守護者たる理由としては、いささか弱いと言わざるを得ない。無理があるのは誰もが感ずることで、それが最終回での「ウルトラマン、そんなに地球人を好きになったのか?」というゾフィーのセリフを入れざるを得なかった理由であろう。



日米安保条約に関しては、果たしてアメリカは有事の際には、日本を守るために出動するのかどうか、という日本側の議論があるが、これは結局のところ、在日米軍は全くの善意の守護者なのかどうかという議論に帰着すると私には思われる。従って、この問いは、問いの仕方を変えて「在日米軍、そんなに日本人を好きになったのか?」という問いに変えてみれば、この議論の答えは明らかであろう。

まあ、実際には、在日米軍は、無償でもなんでもなく、日米開戦時に日本語学校を作ったように、アメリカ自身の行動規範に則って動いているので、先の尖閣諸島の件も同様だが、そもそもこういった議論をすること自体が不毛だと言わなければならない。アメリカが出動しない可能性があるならば、その事態に備えてさっさと日本は行動すれば良いだけのことである。結局のところ、こうした対米日本政府の行動様式に透けて見える、いわゆる「親米保守」の抜きがたいアメリカ依存性癖というものが、”属国根性”の正体であろうと私は考えるのだが、どう思われるであろうか。

例えば原爆投下などを考えてみても、「保守」と「親米」がくっ付くというのは、おかしな話だが、これは「終戦記念日」という、これまたおかしな記念日の背後にある考えと底で繋がっていると思われるので、次回には、このあたりの事について考えてみたい。


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