ローマはギリシャより少し遅れて、前8世紀ごろインド-ヨーロッパ語族のラテン人により建国された都市国家で、古代ギリシャのポリスと似たような都市の構成でした。
元々、王が納める王政でしたが、前6世紀には王政を廃し共和制に移行されます。
初期の共和制は、貴族が完全に政治を運営し、平民は政治に参加する事が出来ませんでしたが、次第に平民の権利が拡大し、最終的に身分闘争はなくなります。
ローマは周辺の都市国家を征服し、前3世紀にイタリア半島を統一しました。
ここまではあくまでイタリア半島内での勢力争いでした。
征服された都市国家はローマの“服属都市”となりました。
そしていよいよ海外に目を向け、まずは地中海周辺に覇権を伸ばします。
前146年、カルタゴ、マケドニア、ギリシャがローマに征服されました。
これら征服された海外の土地はローマの“属州”とされ、前述しましたイタリア半島の“服属都市”とは待遇が全く違っていた事がポイントです。
つまり、海外の“属州”はローマから税金を搾取されました、又、奴隷もローマへ送られました。
奴隷の扱いは極めてひどいもので、家畜小屋の側に住まわされたり、競技場での奴隷同士の殺し合いをさせられました。
一方、イタリア半島内の“服属都市”は、自治を認められ、しかもローマに税金を納める必要もありません、ただし、ローマがどこかと戦争をする時には兵隊を派遣する義務が生じました。
さて、属州から送られてきた奴隷に農作業をさせると本来の農民が失業する事になります。
農民の数は多いですので、その分社会に噴出される不満も少なくない状況となり、共和制初期は混乱が続いていましたが、2世紀から帝政に移行し、とりわけ五賢帝時代(後96~180年)にローマは安定していき、五賢帝の一人トラヤヌス帝の統治下で支配領域が最大になりました。
古代ローマ末期に制定された重要な事項は、前380年キリスト教の国教化、そしてさらに前392年キリスト教以外の宗教の信仰の禁止です。
その後のヨーロッパ諸国がキリスト教の影響を受けていく発端となる出来事と言ってもよいと思います。
又、ローマの支配領域が依然として広大でしたので、後395年にローマを中心とする西ローマ、そしてコンスタンティノープル(今のトルコのイスタンブール)を中心とする東ローマに分割されました。
古代ローマ市民たちは大いに生活を楽しんでいました。
ローマは属州から搾取した富で潤い、しかも奴隷も送られてきますので、市民達は働く必要も無く、娯楽に徹する生活でした。
大規模な公衆浴場では、運動をして汗をかく空間、疲れたらマッサージを受け、汗を流す蒸気風呂、さらにはプールもありました。
貴族の食事は飽食、食べては吐き、さらにご馳走を食べるというものでした。
学問や文学については、ギリシャを模倣、踏襲し、ローマ独自のものはあまりなかったようです。