モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。

世の中のすべての製品には歴史があり、現在に至ります。
製品の歴史、変遷、デザインを辿りたいと思います。

古代ローマ文明-1(生活様式)

2013年07月18日 | 歴史

ローマはギリシャより少し遅れて、前8世紀ごろインド-ヨーロッパ語族のラテン人により建国された都市国家で、古代ギリシャのポリスと似たような都市の構成でした。
元々、王が納める王政でしたが、前6世紀には王政を廃し共和制に移行されます。
初期の共和制は、貴族が完全に政治を運営し、平民は政治に参加する事が出来ませんでしたが、次第に平民の権利が拡大し、最終的に身分闘争はなくなります。
ローマは周辺の都市国家を征服し、前3世紀にイタリア半島を統一しました。
ここまではあくまでイタリア半島内での勢力争いでした。
征服された都市国家はローマの“服属都市”となりました。

トラヤヌス帝時のローマ帝国版図そしていよいよ海外に目を向け、まずは地中海周辺に覇権を伸ばします。
前146年、カルタゴ、マケドニア、ギリシャがローマに征服されました。
これら征服された海外の土地はローマの“属州”とされ、前述しましたイタリア半島の“服属都市”とは待遇が全く違っていた事がポイントです。
つまり、海外の“属州”はローマから税金を搾取されました、又、奴隷もローマへ送られました。
奴隷の扱いは極めてひどいもので、家畜小屋の側に住まわされたり、競技場での奴隷同士の殺し合いをさせられました。
一方、イタリア半島内の“服属都市”は、自治を認められ、しかもローマに税金を納める必要もありません、ただし、ローマがどこかと戦争をする時には兵隊を派遣する義務が生じました。

さて、属州から送られてきた奴隷に農作業をさせると本来の農民が失業する事になります。
農民の数は多いですので、その分社会に噴出される不満も少なくない状況となり、共和制初期は混乱が続いていましたが、2世紀から帝政に移行し、とりわけ五賢帝時代(後96~180年)にローマは安定していき、五賢帝の一人トラヤヌス帝の統治下で支配領域が最大になりました。

古代ローマ末期に制定された重要な事項は、前380年キリスト教の国教化、そしてさらに前392年キリスト教以外の宗教の信仰の禁止です。
その後のヨーロッパ諸国がキリスト教の影響を受けていく発端となる出来事と言ってもよいと思います。

又、ローマの支配領域が依然として広大でしたので、後395年にローマを中心とする西ローマ、そしてコンスタンティノープル(今のトルコのイスタンブール)を中心とする東ローマに分割されました。

カラカラ大浴場想像図古代ローマ市民たちは大いに生活を楽しんでいました。
ローマは属州から搾取した富で潤い、しかも奴隷も送られてきますので、市民達は働く必要も無く、娯楽に徹する生活でした。

大規模な公衆浴場では、運動をして汗をかく空間、疲れたらマッサージを受け、汗を流す蒸気風呂、さらにはプールもありました。
貴族の食事は飽食、食べては吐き、さらにご馳走を食べるというものでした。

学問や文学については、ギリシャを模倣、踏襲し、ローマ独自のものはあまりなかったようです。


アレキサンダー大王

2013年07月17日 | 歴史

古代ギリシャが繁栄していた頃、北方にマケドニアという小さな国がありました。
古代ギリシャの都市国家ポリスでは民主政治が行われており、それら諸ポリスを民主的な国家と考えるならば、マケドニアは王政で、しかもアテネなど古代ギリシャの中心地域に住むギリシャ人に比べてなまりのあるギリシャ語を話す事もあって、遅れた地域と見なされていました。
ところが、ポリス間の争いが続くさなか、マケドニアは徐々に力をつけ、フィリッポス2世が王に就いていた前338年、ギリシャのポリス連合軍との戦いでマケドニアは勝利し、ギリシャはマケドニアの支配下に入ることになりました。
マケドニアに支配を開始されたギリシャは、半マケドニア派、親マケドニア派の人々が入り混じっていた状況でしたが、そんな不安定な社会状況の元、フィリッポス2世が暗殺されます。

アレクサンドロス大王フィリッポス2世には息子がいて、名前はアレクサンドロス(英語でアレクサンダー)、当時まだ20歳でした。

彼こそが後に広大な領土を征服するアレキサンダー大王です。

アレクサンドロスは父フィリッポス2世の死後、王位に就き、反抗的なポリスをすぐさま制圧しました。
その後、東方遠征に出発しました。

東方遠征とは、ギリシャにとって宿敵とも言えるペルシアとの戦いでした。
ペルシアとは数回戦争をしますが、その間にフェニキア、エジプトを支配下に入れます。
前338年、ペルシアとの最後の戦いで勝利し、ペルシア帝国の領土を手にします。
この時点で、アレクサンドロスが征服したのは、古代文明の発祥の地とも言える古代メソポタミア、古代エジプト両文明の範囲、さらにギリシャと広大な領域でした。
さて、宿敵を破り、アレクサンドロスの目的は達成できたかのように思えるのですが、さらに東、インドへ向かいます。
しかし、故郷を離れてすでに久しい兵士たちはもう国に帰りたいと思っています。そのような事情もあって、アレクサンドロスは遠征に終止符を打ちました。
ところが、その後、まもなくアレクサンドロスは亡くなります。

総じて、アレクサンドロスが地中海世界に与えた影響はとてつもなく大きかったと思います。
アレクサンドロスは古代ギリシャ文明とオリエント地方(古代メソポタミアと古代エジプト周辺の地域)の文明の融合を目指していました。
例えば、支配する範囲が拡大するにつれ、支配都市に連れてきたギリシャ兵士を住まわせます。 そして、兵士と地元の女性との結婚を奨励しました。
アレクサンドロスの死後は、帝国がそれぞれ分裂しますが、分裂した各国家ではヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ風の文化が花開きます。


古代ギリシャ文明-2(建築)

2013年07月16日 | 建築・芸術

古代ギリシャのポリスは前回述べましたように、小高い丘(アクロポリス)に建てられる神殿を中心に、そのふもとのアゴラには広場、劇場、競技場、市場等が作られたのが特色です。

パルテノン神殿その中でも、とりわけ神殿建築に力が注がれました。
それは、一重にゼウスやオリンポスなど神々を信じる信仰心が極めて強かったからと言えます。
柱と梁で構成される神殿は、柱と柱の間の距離(スパン)、柱の直径に対する柱の高さ、梁(アーキトレーブ)の高さ、梁上部の装飾要素(フリーズとコーニス)、さらには、柱を直線的に建てるのではなく一定のふくらみ(エンタシス)をもたせる等、視覚的に最大限に美しく見せる努力と工夫をしていました。
神殿で試みられたこれらの美的意識、造形的感覚はいかにギリシャ人の芸術的思考が進んでいたかを感じさせます。

 

3種のオーダーそして、オーダー”と呼ばれる柱頭部の装飾を生み出しました。
オーダーは、ドリス式、イオニア式、コリント式の3種類があります。
オーダーは、以降のヨーロッパ、とりわけルネッサンス以降の建築で多用され、その後もヨーロッパだけでなく世界中で使用され続けています。
オーダーが今から2000年以上も前の古代ギリシャにおいて生み出された事を考えると、現在言うところの意味は若干違いますが、英語の“普遍的”という意味において、“ユニバーサルデザイン”だなあとつくづく感じます。

一般庶民の住居はオリエント地域(古代メソポタミア及び古代エジプトを包括する地域)同様日干し煉瓦造で、残念ながら遺構は非常に少ないです。


古代ギリシャ文明-1(生活様式)

2013年07月15日 | 歴史

地中海に花開いたミケーネ文明、トロヤ文明が前12世紀頃に滅んだ後の数百年、地中海周辺は混沌としていたようです。
そして、ようやく前8世紀頃に古代ギリシャ文明が形成され始めます。
古代ギリシャでは、アテネやスパルタなどポリスと呼ばれる都市国家が各地に作られ、それぞれの都市国家に人が集まって住みました。
しかし、ポリスが統一される事はありませんでした。

ポリスの小高い丘ポリスの多くは、中心に小高い丘があり、神殿が建てられました。
神殿から見下ろした位置にアゴラと呼ばれる政治、経済の中心となる広場が作られ、さらに市民の娯楽のための劇場、競技場が近辺に作られました。
市民は、アゴラに集まって交易、運動、団欒などの活動をしました。
アゴラの周囲には市民たちの住まいが建てられ、最外部には城壁が築かれ、周辺は農地でした。

現代のヨーロッパの都市は、大聖堂を町の中心に配置し、その周囲を囲むかのように広場があり、さらに外周に民家が築かれ、最外周を城壁で囲い込む構成が少なくありませんが、いわば古代ギリシャのポリスの都市計画、あるいは後の古代ローマ文明の都市計画を模範にしたと言っても過言ではありません。

 さて、ポリス同士はよく戦争をしたようです。
そして、数々の戦争を経た結果、人権の平等を理想とする民主政治が実践される事になります。
古代ギリシャ時代に栄えた哲学、民主政治の理念は、その後のヨーロッパの学問、文化の発展に強い影響を与えていきます。

最後に、ギリシャは民主政治だったとは言うものの、そもそもギリシャは奴隷制、しかも女性には参政権がなく、結局は男性だけが参政権を持つ民主制でした。

現在の世界の状況も踏まえて考えるに、公平、平等というのは、人類永遠の課題ですね。


古代ヨーロッパの幕開け

2013年07月12日 | 歴史

エジプトが反映していた頃、地中海に交易圏が生まれました。 そして、紀元前2600年頃にはトロイの木馬で有名なトロヤ文明、紀元前2000年頃にクレタ文明が花開きました。

クノッソス宮殿特にクレタ文明は古代エジプトとも交易を行っていました。 クレタ島にあるクノッソス宮殿のボリューム感のある柱は私たちにエジプトの神殿を想起させ、壁画の描画法、鮮やかな彩色法など双方の文明の類似点を感じ取る事が出来ます。 クレタ文明は前15世紀頃に滅びましたが、その時期に前後してミケーネ文明が花開きました。

これら3つの文明は、いずれも地中海にギリシャ文明が開花する以前に始まりました。 そして、ギリシャ神話の舞台として神秘的なイメージもあります。 一方、古代メソポタミア文明、古代エジプト文明に比較すると狭い範囲で、規模も小さかったようです。 ミケーネ文明、トロヤ文明はいずれも紀元前1200年頃に滅亡します。

そしていよいよヨーロッパの基礎を形作る古代ギリシャ文明と古代ローマ文明が花開きます。


古代エジプト文明-2(建築)

2013年07月11日 | 建築・芸術

カルナック神殿古代エジプトでは、神を崇拝する事が毎日の生活の中で非常に重要な行為でしたので、エジプト全土に神々を祭る神殿がたくさん建てられました。 神殿は、長期間にわたって朽ちる事が少ない石材が多用されましたので、現在でも遺構は沢山残っています。 又、古代エジプトで使用された石材は、その後の時代に比べ大きいのが特徴で、古代の建築事業に投入されていた労働力は相当のものであった事を連想させます。

さらに墳墓も重要な建築事業の一つでした。 なぜなら、死後、来世で生活を送るには現世同様に肉体が必要です。 その為には、死後の肉体を保存する、つまりミイラ化し保存する為の場所が必要だったからです。 そして、墳墓は、立派であればあるほど良かったに違いありません。 墳墓は、一部の王族の場合、葬祭殿を併設するもの、岩山をくり抜いて作る岩窟墳墓など内部には壁画が書かれたりする大規模なものでしたが、一般の人々の場合は、ごくごく質素なものでした。

ピラミッドエジプト建築のうち、いまだに謎が多いピラミッドについて、何の為に作られたかは沢山の学説があり、そもそもピラミッドがどのように作られたかも謎がいっぱいです。 一方、ピラミッド建設事業は、ナイル川が氾濫する間の農民たちの格好の失業対策となった事、そして農民たちの労働に対する報酬としてパンとビールが支給された事等が明らかになっています。 農民たちにとって肉体労働は大変だったかもしれませんが、1年間を安定して生活する手段の一つとなっていた事は喜ばしいことだと思います。

一般の人々の住居は耐久性の低い日干し煉瓦造でしたので、あいにく現在では保存状態の良い遺構は多くありません。


古代エジプト文明-1(生活様式)

2013年07月10日 | 歴史

古代エジプト文明はメソポタミア文明のように時代に伴って語族が入れ替わり新しい王朝が立てられたというのではなく、周囲を砂漠で取り囲まれていることもあり、独特の単一文化が古王朝、中王朝、新王朝にわたって花開いたと言えると思います。

古代エジプトでは、紀元前5000年頃からすでに農耕が始まっていたと考えられています。 ナイル川は毎年にように氾濫し、上流から栄養分をたっぷり含んだ土を流します。 氾濫が治まればナイル川沿岸は、農業に適した肥沃な土地となります。 まさに“エジプトはナイルの賜物”といわれるように、ナイル川沿岸の肥沃な土地で農作物が生産され、古代エジプト文明が開化したと言えます。

エジプトは、現在と同じく地球が太陽の周りを1周するのを1年とする太陽暦を採用しました。 1年は365日です。

ヒエログリフエジプトでは文字が使われましたが、状況、場所、場面により、神聖文字(ヒエログリフ)、神官文字、民衆文字と使い分けられました。

壁画や王の棺などの遺跡に描かれる事が多い鳥や道具の絵文字は、最も格式の高い神聖文字(ヒエログリフ)です。

神聖文字について、例えば左の写真のように鳥が表示されていれば、その文字が表意文字として早いとか飛ぶとかいう意味があるのではないかと感じてしまいますが、実は表音文字です、つまりそれぞれの絵文字はアルフェベット同様音を持っているのです。

そこで、現代のエジプトの街中では、自分の姓名をヒエログリフに置き換えたおみやげを作ってくれたりします。古代の文字を使ってのデザインですので、モダンデザインと言えるかどうかは判断が難しいですが、おもしろい試みだと思います。

古代エジプトの人々にとって来世(あの世)は非常に重要でした。 人は死後、神によって現世での行いに基づいて裁かれます。 現世でまっとうに生きてきたならば、来世の生活を保障されます。 極論しますと、現世の生活での行いは来るべき来世の為に誠実に行う必要があると言い換えてもいいかもしれません。 このように来世が重要でしたから、裁く権限を持つ神々に対して人々は深く信仰心を持ちました。


古代メソポタミア文明-2(建築)

2013年07月09日 | 建築・芸術

メソポタミア文明の人々の生活には宗教が密接していました。

メソポタミアのジグラッド 現代のように一定の安全性を確保できるわけではない古代だからこそ、自分の将来、自然に対する脅威等について不安も多かったのではないでしょうか。
メソポタミアでは、土着の神、自然界にある神等、各自が信じる神を自由に信仰する事が出来ました。
しかし、その最高神は国家の守護神で、守護神を祭るための"ジグラッド"と呼ばれる神殿や祭壇が国家の重要な事業の一つで、それぞれ統治した各王朝で独自の建築様式で建てられました。
又、段状にデザインされた"ジグラッド"は、旧約聖書に記載されている"バベルの塔"のモデルと考えられています。

 

ペルセポリス宮殿遺跡又、後年になるにつれ、王の権威誇示の為、宮殿建築事業に費やされる度合いが高まりました。
とりわけ統治範囲が広まったアケメネス朝ペルシア時代のペルセポリスは後にマケドニアのアレクサンダー大王が焼却し廃墟にしてしまいましたが、壮麗で大規模な宮殿でした。

 

一般の人々の住まいについては、日干し煉瓦を泥や粘土をこねたもので接着した構造で壁を作り、そのような構造上、あるいは気候風土などの要因もあったでしょうか窓は小さく、屋根は植物の葉を重ね合わせた程度の簡易な構造で作られましたので、現在ではあいにく遺構が乏しいです。


古代メソポタミア文明-1(生活様式)

2013年07月08日 | 歴史

古代四大文明は、いずれも川の流域で育まれたという共通点があります。 “メソポタミア”という言葉そのものが“川のあいだ”という意味で、その名のとおり、メソポタミア文明はティグリス・ユーフラテス川流域で花開いた文明でした。

メソポタミアで最も初期に文明を育んだのはシュメール人です。 シュメール人は、潅漑農業の技術を持ち、それは文明を育む事が出来た大きな要因のひとつだったと思います。 食が豊富な地域には人が集まります。 紀元前3500年頃から人口の急増が始まり、紀元前3000年頃には周辺にたくさんの都市国家が形成されました。

ハンムラビ法典しかしながら、シュメール人が活躍していた時代にメソポタミア流域を統一する王朝は建てられませんでした。

 前2400年頃、アッカド人により、統一王朝アッカドが建てられました。

以後、ハンムラビ法典で有名なバビロニア、アッシリア、アケメネス朝ペルシアと統治国が替わりました。

 

 

 

メソポタミア文明時代の人々の生活については、現代の我々と同様、労働し、その対価として食料(後年には貨幣)を得る事が基本だったようです。

ボールクロック時間に対する感覚について、月の満ち欠けの周期を1ヶ月とし、1年は12ヶ月とする太陰暦を用いていました。

太陰暦は、世界で初めて用いられた暦の考え方です。

又、60進法、つまり1分は60秒で、1時間は60分である事。 時計の秒針が60回動くことで1分進み、時間が12分割されたデザインが、実ははるか昔にシュメール人が残した遺産で、今日まで何千年も受け継がれてきた事を考えると、感慨深くなります。

 

 

さらに、男女不平等であった事。 例えば男が浮気をした場合についての法律の規定は特にありませんが、逆に女性が浮気をした場合は死刑に近い処分がされていたようです。 又、ローマ時代ほど悲惨ではなかったようですが身分制度があり、奴隷もいた事です。


四大文明

2013年07月05日 | 歴史

日本で育ってきた私達は、メソポタミア文明エジプト文明インダス文明中国黄河文明をいわゆる”古代四大文明”とし、歴史教育を受けてきたかもしれません。

しかし、この考え方は初期の文明が4つの地域のみで育まれたという誤解を生じることもあり、欧米ではあまり受け入れられていないようです。

肥沃な三日月地帯欧米では、後に自身に強く影響を与えてきたと考えられるエジプト文明、メソポタミア文明を包含する地域、つまりメソポタミア文明のチグリス・ユーフラテス川からエジプト文明のナイル川周囲を包含するエリアを“肥沃な三日月地帯”と呼び、“文明の発祥の地”とする認識が強いようです。

では、次回からは、古代文明のうち、よりヨーロッパに近く、後に与えた影響も強かったと考えられる古代メソポタミアと古代エジプトの文明について考えていきたいと思います。