モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。

世の中のすべての製品には歴史があり、現在に至ります。
製品の歴史、変遷、デザインを辿りたいと思います。

アール・ヌーヴォー(近代建築運動・芸術運動-2)

2013年08月05日 | 歴史

産業革命後、19世紀初頭に至る間、ヨーロッパでは、古代のモチーフを使う『リバイバル様式』、あるいはそれらを組み合わせる『折衷様式』により各地に建物が建てられましたが、社会は、大衆が平等を求め、個人の生活の質の向上が追及され始めました。
『リバイバル様式』、『折衷様式』 について

運動の先駆けとし、イギリスで『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』が始まり、運動は海を越え、ヨーロッパ大陸に影響を与えました。
そして、大陸の各地では、“新しい時代に合った新しいスタイルの創造”をモットーとする『アール・ヌーヴォー(1880-1910 Art Nouveau 新しい芸術)』が誕生しました。
『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』 について

チューリップ アール・ヌーヴォー『アーツ&クラフツ運動』が、機械生産を否定し、中世ゴシック時代の手工芸を理想としたのに対し、『アール・ヌーヴォー』は、機械を否定せず、機械生産に適合した上で新しい美の創造を目指した事、そして過去の歴史的様式から脱却し、時代にあった新しい造形、新しい様式の創造を目指しました。

運動は、建築、室内装飾、家具、絵画、版画、広告、ポスター、雑誌、日用品など広範囲に渡って行われ、芸術家はそれぞれ自身の専門は元より、専門外の分野においても幅広く活動をしました。

そして、そのように各人が広範囲に活動を行う事が出来た事自体が、当時の社会において大衆の自由、平等が尊重し始められていた実証にもなります。

 

エミール・ガレ アール・ヌーヴォー『アール・ヌーヴォー』は、まずベルギーで始まり、フランスに影響を与えます。
その後、ヨーロッパの各国が互いに影響を与え合い、その風土や風習に応じた各国独自のスタイルを確立していきます。

しかし、『アール・ヌーヴォー』にはそもそも装飾性が多分に備わっている事、そして、とりわけ『後期アール・ヌーヴォー』では構造を無視し個人の趣向で限りなく自由にデザインされた事などが原因で、機械による大量生産には向かなくなりました。
しかも、その結果、低価格で製造できず、最終的には富裕層が手にする高価な製品を作る事にもなり、1900年を頂点に、急激に衰退していきました。

まさにそれは世紀末、ヨーロッパ各地でほんの一瞬開花した可憐な花のように感じます。


産業革命

2013年07月29日 | 歴史

18世紀のイギリスは、海外に広大な植民地を持っていました。

産業革命 機織り広大な世界市場には商品の需要があり、その結果、手工業では供給に間に合わず、手工業に変わる各種機械の発明が始まりました。

そして、イギリスで始まった“産業革命”は、それまでの人間の“手”で行う生産システムを工場にて“機械”で生産するシステムに置きかえました。

しかし、実際には、外観は手工芸品であるかに見える商品が工場で模倣して製造されるに過ぎなかったのです。
と言うのは、当時、職人が丹念に作っていた製品とまるっきり同等のものを機械化して作る技術はまだありませんでした。
極論すると粗悪品の大量生産をしていたとも言えます。

又、産業革命により一部の中世の職人たちは単に工場で働く労働者となり、伝統的な技術と誇りを失っていく事にもなり、結果、ものづくりは、無教養な製造業者に委ねられていたと言っても過言ではないかと思います。

さて、手作業なら、それにふさわしい構造、架構法があり、結果として形態が出来上がります。
構造はその構成美を演出し、手の込んだ造形や装飾に職人ひとりひとりの心がこもります。

一方、工場であれば、製品の形態やその構造が過度に複雑でなく、シンプルに構築されていればこそ、短時間で製品を大量生産できる生産システムのメリットが最大限に活かせるはずです。

果たして、“生産力は高いけれど粗悪品を生み出す工場は豊かさを求める近代生活にとって有効なのか、あるいは、中世の手工業がやはり良いか”という葛藤の中、ヨーロッパ各国で様々な“運動”が始まっていく事になります。


近代ヨーロッパ

2013年07月26日 | 歴史

近世ヨーロッパの時代、ルネッサンスにより、古代ローマや古代ギリシャ時代のような人間らしい生活を取り戻す運動が試みられましたが、実のところ、それは一部の貴族や領主たちが享受できた程度で、押しなべて多くの平民の生活は自由ではなく、さらに平等にはほど遠い状態でした。

そんな状況下、イギリスでは1688年に名誉革命が起こります。
又、王宮では贅沢三昧、浪費三昧だったフランスでも1789年にフランス革命が起こります。

レ・ミゼラブル名誉革命、フランス革命は共に“市民革命”と呼ばれますが、その目的とは貴族と平民の身分の差をなくす事でした。
すなわち、貴族と平民の身分の差がなくなる“市民社会”が成立する時期をもって近代ヨーロッパの始まりと言えます。

左は、フランス革命を背景に個人の自由の獲得、そして愛を題材に描かれたビクトル・ユゴーの文学“レ・ミゼラブル”のミュージカル版ポスターの一部ですが、多くの国で、そしてオリジナルの英語以外に各国版も上演されています。

私は、ニューヨークのブロードウェーで観ましたが、皆様にも是非ご鑑賞をお薦めしたい作品のひとつです。

 

俗に言う“近代的○○”という表現は、あてはまる言葉がどんなものであるにせよ、人間的な進歩、自由の獲得といった進歩を示す感じが強く、ホッとします。

ナポレオンの戴冠式フランス革命後、ナポレオンがヨーロッパ全土に革命の波を及ばせ、ヨーロッパ各地域で市民が自由を獲得し始めます。

そして、国境がはっきりしなかったヨーロッパで、いよいよそれぞれの国家の領域が明確になり、それぞれ“主権国家”が誕生します。

 

国家の主権が明確になり、市民が自由に生活を開始するにしたがって、物が必要になってきます。
さらに各国間の交易が盛んになり、産業が栄えます。

イギリス産業革命とりわけ当時海外に数多くの植民地を持っていたイギリスでは、製造業、加工業が他国よりも一足早く活発になり、“産業革命(1760年~1830年)”が始まりました。
左は昨年のロンドンオリンピックの開幕式で当事の産業革命を演出した場面ですが、イギリスが世界に先駆けて起こした産業革命はその後の世界に工業化、生産技術の革新をもたらしました。

 

最後に余談ですが、“市民革命”は、資本主義から社会主義・共産主義社会の実現を目指した“プロレタリア(賃金労働者)革命”とは性格を異にします。

つまり、市民には“資本家”“労働者”の区別があります。
同じ市民でも、資本家は労働者を使用しますので、身分は不平等です。

つまり、“市民革命”が目指したのは、市民の“自由(貴族と市民を対等にする事。)”ですが、さらに“市民の平等(資本家と労働者を平等にする事)”までもを目指したのが“プロレタリア革命”なのです。


近世ヨーロッパ-1(生活様式)

2013年07月24日 | 歴史

近世ヨーロッパは“ルネッサンス”から始まります。

中世ヨーロッパは、封建主義、宗教戦争等、人を抑圧する要素が多く、その結果社会全体が閉鎖的になり、混沌としていました。
極論しますと、古代ギリシャ、古代ローマが長きにわたり築いてきた文明が破壊された時代であるとも言え、そういう状況下、徐々に古代ギリシャ、古代ローマ時代に培われた学問、哲学、芸術、そして人間らしい生活様式などを見直していく運動“ルネッサンス”が始まったのは不思議ではありません。

“ルネッサンス(Renaissance)”とは、“「再生」(re- 再び + naissance 誕生)”を意味するフランス語ですが、その単語が意味するごとく、“再生、復興(古典古代文化の再生、復興)”が近世ヨーロッパでの大きな社会的目標になりました。

そして、ルネッサンスと同時期に、“宗教改革”“大航海時代”が始まります。

まずは、“宗教改革”の骨子について。

前5世紀にユダヤ教が成立しました。
“総論賛成各論反対”は、物事を遂行する上で必ず付きまとってきます。
ユダヤ教も同様で、極論すると信仰する人間の数だけ考え方も多岐にわたるのではないでしょうか。
そんな状況下、イエスがユダヤ教の教義の改革を試みましたが、反対するユダヤ教徒に捕まり処刑されました。
その後イエスの弟子たちがキリスト教を発足させ、ヨーロッパに根付いていきます。
そして、時は中世、キリスト教も発足してから相当の時間が経過しました。 又、ヨーロッパも狭くはありません、それぞれの国、風土に沿って新しい考え方が芽生えてきます。

ルター カルヴァンそのような状況下、ルター、カルヴァンなどが“宗教改革”を始めます。
つまりローマ時代から続くキリスト教のあり方、教皇の世俗化、聖職者の堕落などに対し意義を唱え、新教が芽生え始めます。
特にカルヴァンの考え方は、蓄財、商業を推奨するなど経済的、合理的精神に基づいた考え方で、当事商業が活発化し始めていたヨーロッパで広範囲に広まりました。
言わば、中世の画一的な信仰精神からの脱却ですが、“宗教改革”が始まった後近代に至るまで、宗教に関する戦争がヨーロッパのあちこちで起こります。

そして、西ヨーロッパでは他の国より遅れて国が形成されていくスペインとポルトガルによる“大航海時代”の幕明けです。
長きにわたりイスラムが統治していたこれら2つの国は、フランスとスペインの国境付近に住むキリスト教徒たちが“レコンキスタ(再征服運動)”により、徐々にイスラム勢力を排除して成立します。

大航海時代航路図両国はイベリア半島に位置しますが、地理的に海に囲まれた特殊性から、対外貿易に目を向け、“大航海時代”が花開くのです。

そもそも危険を冒してまでする航海の目的とは、肉料理に欠かせない香辛料の入手でした。
当事の香辛料の流通はイタリア商人、イスラム商人に牛耳られており、香辛料を輸出するインドとの直接取引を目指し、インドに至る航路を模索し始めた事がきっかけだったのです。

大航海は、アメリカ大陸の発見、又、その後、近代に向けてヨーロッパ各国が競って海外植民地を作る結果になります。

余談ですが、アメリカ大陸発見について、ヨーロッパ人からすれば“新大陸”発見で、実際に私が高校生の歴史の授業でもそう学びましたが、実のところアメリカ大陸には元から先住民族スー族が住んでいましたので、“新大陸”という言い方はあくまでもヨーロッパを主体に考えた表現であり、必ずしも適切な表現ではないと思ったりもします。

又、ヨーロッパ人が苦労して到達したアメリカ大陸をインドと信じていたからこそ、先住民族のスー族たちを“インディアン”と呼んだ事も、早とちりだったのですね。


中世ヨーロッパ-1(生活様式)

2013年07月22日 | 歴史

ローマ帝国が栄えていた頃、その北方にはゲルマン民族が住んでいました。
ゲルマン民族の社会は当時のローマの社会構造と比較するとまだ随分遅れていたと言えます。
ヨーロッパの中世は、ゲルマン民族がローマ帝国に向けて南下、いわゆる”ゲルマン民族の大移動”から始まったと言えます。

東西ローマ帝国版図西暦395年にローマ帝国が東西に分裂します。
一方、ゲルマン民族は、ローマ帝国が東西に分裂する以前から進んでいたローマ帝国での生活を望む者が少なくはなく、ローマ帝国と適時小競り合いがあったようです。
ゲルマン民族が本格的に西ローマ帝国内へ大移動を開始するに伴い、西ローマ帝国の社会体制は崩れはじめ、西暦476年西ローマ帝国は滅亡します。

 

その後、かつてローマ帝国が征服した土地のあちこちでゲルマン民族の農村社会が作られ始めます。

ユスティニアヌス帝時代のローマ帝国版図一方、東ローマ帝国は、西暦530年頃のユスティニアヌス帝(西暦527~565年)の時に、ゲルマン民族からイタリア半島を取り戻し、東西分裂前のローマ帝国の版図、つまり、イタリア半島、アフリカ北部、古代メソポタミア、古代ギリシャ、現在のトルコまでを含む領域を支配します。
左は、ローマ帝国最大版図を築いた5賢帝の一人トラヤヌス帝(西暦53~117年)時代の版図との比較です。

さて、滅亡した西ローマ帝国内では、西暦800年カール大帝のフランク王国が、散らばっていたゲルマン民族の国家を征服し、西ヨーロッパ全域を統一する事で、徐々にヨーロッパに安定がもたらされはじめます。
そして、西ローマ滅亡後、一時東ローマが支配していたイタリア半島は勢力を拡大するフランク王国が支配する事になります。

カール大帝の死後はフランク王国が分裂し、その後のイタリア、ドイツ、フランスの原型となります。

一方、東ローマ帝国は、ギリシャと現在のトルコあたりを版図とし、西暦1453年に滅ぼされるまで主としてギリシャ文化を受け継ぎ、独自の発展をしていきました。

十字軍中世ヨーロッパの特徴は、国、政府の力が非常に不安定で、強いものが上に上がれる、土地を持つことが出来る社会状況で、常に戦争がつきまとっていたとも言え、結果、領主とそれに従う者で構成される社会体制、つまり、“封建主義”が成立する事。
そして、キリスト教が大衆に浸透する事で、“宗教社会”が成立する事。
さらに、勢力を持ち始めたキリスト教は、イスラム教に対して十字軍を遠征させ、“宗教戦争”が始まる事。
このように中世ヨーロッパの社会は混沌とした様相で、“暗黒”の時代と言われたりします。

又、中世初期のフランク王国のカール大帝のように、ローマ時代の復興を望み、教育を推進、教会を建設するといった文化的な動き(“カロリング・ルネッサンス”と言います。)もありましたが、極論すると中世ヨーロッパと言われる1000年間(西暦476年西ローマ帝国の滅亡~11~13世紀十字軍~西暦1453年東ローマ帝国の滅亡まで)は、キリスト教支配の元、古代ローマ、ギリシャの文化が完全に破壊され、世界に貢献できるような文化的展開が出来なかった時代と評価される事も少なくありません。

事実、この時期のヨーロッパは、文化的にイスラムには遠く及ばない状態で、むしろ皮肉にも十字軍遠征により、当事進んでいたイスラム圏と接触し、哲学、天文学、医学、そして生活様式を学んだと言えます。
又、ユダヤ人からは、商業や金融等の技能を学び、その後の職人、商人を母体とするヨーロッパ近世の都市社会を構成していく下地になりました。


古代ローマ文明-1(生活様式)

2013年07月18日 | 歴史

ローマはギリシャより少し遅れて、前8世紀ごろインド-ヨーロッパ語族のラテン人により建国された都市国家で、古代ギリシャのポリスと似たような都市の構成でした。
元々、王が納める王政でしたが、前6世紀には王政を廃し共和制に移行されます。
初期の共和制は、貴族が完全に政治を運営し、平民は政治に参加する事が出来ませんでしたが、次第に平民の権利が拡大し、最終的に身分闘争はなくなります。
ローマは周辺の都市国家を征服し、前3世紀にイタリア半島を統一しました。
ここまではあくまでイタリア半島内での勢力争いでした。
征服された都市国家はローマの“服属都市”となりました。

トラヤヌス帝時のローマ帝国版図そしていよいよ海外に目を向け、まずは地中海周辺に覇権を伸ばします。
前146年、カルタゴ、マケドニア、ギリシャがローマに征服されました。
これら征服された海外の土地はローマの“属州”とされ、前述しましたイタリア半島の“服属都市”とは待遇が全く違っていた事がポイントです。
つまり、海外の“属州”はローマから税金を搾取されました、又、奴隷もローマへ送られました。
奴隷の扱いは極めてひどいもので、家畜小屋の側に住まわされたり、競技場での奴隷同士の殺し合いをさせられました。
一方、イタリア半島内の“服属都市”は、自治を認められ、しかもローマに税金を納める必要もありません、ただし、ローマがどこかと戦争をする時には兵隊を派遣する義務が生じました。

さて、属州から送られてきた奴隷に農作業をさせると本来の農民が失業する事になります。
農民の数は多いですので、その分社会に噴出される不満も少なくない状況となり、共和制初期は混乱が続いていましたが、2世紀から帝政に移行し、とりわけ五賢帝時代(後96~180年)にローマは安定していき、五賢帝の一人トラヤヌス帝の統治下で支配領域が最大になりました。

古代ローマ末期に制定された重要な事項は、前380年キリスト教の国教化、そしてさらに前392年キリスト教以外の宗教の信仰の禁止です。
その後のヨーロッパ諸国がキリスト教の影響を受けていく発端となる出来事と言ってもよいと思います。

又、ローマの支配領域が依然として広大でしたので、後395年にローマを中心とする西ローマ、そしてコンスタンティノープル(今のトルコのイスタンブール)を中心とする東ローマに分割されました。

カラカラ大浴場想像図古代ローマ市民たちは大いに生活を楽しんでいました。
ローマは属州から搾取した富で潤い、しかも奴隷も送られてきますので、市民達は働く必要も無く、娯楽に徹する生活でした。

大規模な公衆浴場では、運動をして汗をかく空間、疲れたらマッサージを受け、汗を流す蒸気風呂、さらにはプールもありました。
貴族の食事は飽食、食べては吐き、さらにご馳走を食べるというものでした。

学問や文学については、ギリシャを模倣、踏襲し、ローマ独自のものはあまりなかったようです。


アレキサンダー大王

2013年07月17日 | 歴史

古代ギリシャが繁栄していた頃、北方にマケドニアという小さな国がありました。
古代ギリシャの都市国家ポリスでは民主政治が行われており、それら諸ポリスを民主的な国家と考えるならば、マケドニアは王政で、しかもアテネなど古代ギリシャの中心地域に住むギリシャ人に比べてなまりのあるギリシャ語を話す事もあって、遅れた地域と見なされていました。
ところが、ポリス間の争いが続くさなか、マケドニアは徐々に力をつけ、フィリッポス2世が王に就いていた前338年、ギリシャのポリス連合軍との戦いでマケドニアは勝利し、ギリシャはマケドニアの支配下に入ることになりました。
マケドニアに支配を開始されたギリシャは、半マケドニア派、親マケドニア派の人々が入り混じっていた状況でしたが、そんな不安定な社会状況の元、フィリッポス2世が暗殺されます。

アレクサンドロス大王フィリッポス2世には息子がいて、名前はアレクサンドロス(英語でアレクサンダー)、当時まだ20歳でした。

彼こそが後に広大な領土を征服するアレキサンダー大王です。

アレクサンドロスは父フィリッポス2世の死後、王位に就き、反抗的なポリスをすぐさま制圧しました。
その後、東方遠征に出発しました。

東方遠征とは、ギリシャにとって宿敵とも言えるペルシアとの戦いでした。
ペルシアとは数回戦争をしますが、その間にフェニキア、エジプトを支配下に入れます。
前338年、ペルシアとの最後の戦いで勝利し、ペルシア帝国の領土を手にします。
この時点で、アレクサンドロスが征服したのは、古代文明の発祥の地とも言える古代メソポタミア、古代エジプト両文明の範囲、さらにギリシャと広大な領域でした。
さて、宿敵を破り、アレクサンドロスの目的は達成できたかのように思えるのですが、さらに東、インドへ向かいます。
しかし、故郷を離れてすでに久しい兵士たちはもう国に帰りたいと思っています。そのような事情もあって、アレクサンドロスは遠征に終止符を打ちました。
ところが、その後、まもなくアレクサンドロスは亡くなります。

総じて、アレクサンドロスが地中海世界に与えた影響はとてつもなく大きかったと思います。
アレクサンドロスは古代ギリシャ文明とオリエント地方(古代メソポタミアと古代エジプト周辺の地域)の文明の融合を目指していました。
例えば、支配する範囲が拡大するにつれ、支配都市に連れてきたギリシャ兵士を住まわせます。 そして、兵士と地元の女性との結婚を奨励しました。
アレクサンドロスの死後は、帝国がそれぞれ分裂しますが、分裂した各国家ではヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ風の文化が花開きます。


古代ギリシャ文明-1(生活様式)

2013年07月15日 | 歴史

地中海に花開いたミケーネ文明、トロヤ文明が前12世紀頃に滅んだ後の数百年、地中海周辺は混沌としていたようです。
そして、ようやく前8世紀頃に古代ギリシャ文明が形成され始めます。
古代ギリシャでは、アテネやスパルタなどポリスと呼ばれる都市国家が各地に作られ、それぞれの都市国家に人が集まって住みました。
しかし、ポリスが統一される事はありませんでした。

ポリスの小高い丘ポリスの多くは、中心に小高い丘があり、神殿が建てられました。
神殿から見下ろした位置にアゴラと呼ばれる政治、経済の中心となる広場が作られ、さらに市民の娯楽のための劇場、競技場が近辺に作られました。
市民は、アゴラに集まって交易、運動、団欒などの活動をしました。
アゴラの周囲には市民たちの住まいが建てられ、最外部には城壁が築かれ、周辺は農地でした。

現代のヨーロッパの都市は、大聖堂を町の中心に配置し、その周囲を囲むかのように広場があり、さらに外周に民家が築かれ、最外周を城壁で囲い込む構成が少なくありませんが、いわば古代ギリシャのポリスの都市計画、あるいは後の古代ローマ文明の都市計画を模範にしたと言っても過言ではありません。

 さて、ポリス同士はよく戦争をしたようです。
そして、数々の戦争を経た結果、人権の平等を理想とする民主政治が実践される事になります。
古代ギリシャ時代に栄えた哲学、民主政治の理念は、その後のヨーロッパの学問、文化の発展に強い影響を与えていきます。

最後に、ギリシャは民主政治だったとは言うものの、そもそもギリシャは奴隷制、しかも女性には参政権がなく、結局は男性だけが参政権を持つ民主制でした。

現在の世界の状況も踏まえて考えるに、公平、平等というのは、人類永遠の課題ですね。


古代ヨーロッパの幕開け

2013年07月12日 | 歴史

エジプトが反映していた頃、地中海に交易圏が生まれました。 そして、紀元前2600年頃にはトロイの木馬で有名なトロヤ文明、紀元前2000年頃にクレタ文明が花開きました。

クノッソス宮殿特にクレタ文明は古代エジプトとも交易を行っていました。 クレタ島にあるクノッソス宮殿のボリューム感のある柱は私たちにエジプトの神殿を想起させ、壁画の描画法、鮮やかな彩色法など双方の文明の類似点を感じ取る事が出来ます。 クレタ文明は前15世紀頃に滅びましたが、その時期に前後してミケーネ文明が花開きました。

これら3つの文明は、いずれも地中海にギリシャ文明が開花する以前に始まりました。 そして、ギリシャ神話の舞台として神秘的なイメージもあります。 一方、古代メソポタミア文明、古代エジプト文明に比較すると狭い範囲で、規模も小さかったようです。 ミケーネ文明、トロヤ文明はいずれも紀元前1200年頃に滅亡します。

そしていよいよヨーロッパの基礎を形作る古代ギリシャ文明と古代ローマ文明が花開きます。


古代エジプト文明-1(生活様式)

2013年07月10日 | 歴史

古代エジプト文明はメソポタミア文明のように時代に伴って語族が入れ替わり新しい王朝が立てられたというのではなく、周囲を砂漠で取り囲まれていることもあり、独特の単一文化が古王朝、中王朝、新王朝にわたって花開いたと言えると思います。

古代エジプトでは、紀元前5000年頃からすでに農耕が始まっていたと考えられています。 ナイル川は毎年にように氾濫し、上流から栄養分をたっぷり含んだ土を流します。 氾濫が治まればナイル川沿岸は、農業に適した肥沃な土地となります。 まさに“エジプトはナイルの賜物”といわれるように、ナイル川沿岸の肥沃な土地で農作物が生産され、古代エジプト文明が開化したと言えます。

エジプトは、現在と同じく地球が太陽の周りを1周するのを1年とする太陽暦を採用しました。 1年は365日です。

ヒエログリフエジプトでは文字が使われましたが、状況、場所、場面により、神聖文字(ヒエログリフ)、神官文字、民衆文字と使い分けられました。

壁画や王の棺などの遺跡に描かれる事が多い鳥や道具の絵文字は、最も格式の高い神聖文字(ヒエログリフ)です。

神聖文字について、例えば左の写真のように鳥が表示されていれば、その文字が表意文字として早いとか飛ぶとかいう意味があるのではないかと感じてしまいますが、実は表音文字です、つまりそれぞれの絵文字はアルフェベット同様音を持っているのです。

そこで、現代のエジプトの街中では、自分の姓名をヒエログリフに置き換えたおみやげを作ってくれたりします。古代の文字を使ってのデザインですので、モダンデザインと言えるかどうかは判断が難しいですが、おもしろい試みだと思います。

古代エジプトの人々にとって来世(あの世)は非常に重要でした。 人は死後、神によって現世での行いに基づいて裁かれます。 現世でまっとうに生きてきたならば、来世の生活を保障されます。 極論しますと、現世の生活での行いは来るべき来世の為に誠実に行う必要があると言い換えてもいいかもしれません。 このように来世が重要でしたから、裁く権限を持つ神々に対して人々は深く信仰心を持ちました。