これまで、近代のイギリスの産業革命以後の近代建築運動・芸術運動の流れをみてきました。
中世までは、職人たちが丹精をこめてものづくりをしていましたが、産業革命後、機械による工場生産へとものづくりの方式が格段に変化しました。
そして、産業革命の発祥地イギリスでは、機械生産を否定するウィリアム・モリスがアーツ&クラフツ運動を始めます。
さらに、ヨーロッパ大陸では、古典様式にとらわれない近代にあった様式の確立を理想としてアール・ヌーヴォーが始まります。
しかしながら、アール・ヌーヴォーは製造コストが高くなる特性上、結果、不特定多数の大衆が製品を手にする事は出来ませんでした。
ウィーンで始まったゼセッションはアール・ヌーヴォーほどの装飾性は付帯しませんでしたが、必ずしも機能的で合理的な空間を創造出来たわけでもありませんでした。
同時期にアメリカで流行したアール・デコも量産というよりは、むしろ一品生産でした。
このように、アール・ヌーヴォー、アール・デコに至る時期までは、装飾が主体となり、機能性、合理性はその次だったのではないか、どちらかと言うと装飾優先のものづくりであったのではないかと考えられます。
そして、いよいよ、機能性、合理性を重視するモダニズムの思想がヨーロッパ各地で芽生え始めます。
“世紀末”と表現すると、何かこの世の終わりか、世界の滅亡かと言ったどちらかと言うと“退廃的”なイメージが強いかもしれません。
つい10年ほど前に世紀末がありました、西暦2000年に至る以前、つまり20世紀末ですが、今回考えたいのはそれよりもまだ1世紀以前、1900年に至る19世紀末です。
19世紀末とは、これまで概観してきましたように、産業革命が一段落した後、『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』、『アール・ヌーヴォー(1880-1910 Art Nouveau)』といった近代建築運動・芸術運動が全盛を迎え、建築や絵画、日用品など幅広い分野に対して、建築家、芸術家たちが理想的なライフスタイルを確立しようと活発に創作活動をしていた時期です。
『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』について
『アール・ヌーヴォー(1880-1910 Art Nouveau)』について
そもそもなぜ、それらの運動が起こったかというのは、実のところ、冒頭で申し上げましたように世紀末が“退廃的”だったのではないかと思います。
つまり、古来より長らく続いてきた伝統に従い物を製造し続けたところで、個人の自由の意識が拡大し、活動範囲、生活範囲、生活様式が急激に変化し始めていった社会状況に対応できるはずがなかったのではなかろうかという事です。
いわば、退廃的だった世の中を何とか改善しようという動きが起こったと言えると思います。
そして、ヨーロッパでは、当事折りよく万博博覧会が開催される機会もあったパリとバルセロナに建築家や芸術家が集まり活動を始めるようになりました。
写真はバルセロナにある『4 Gats(Quattro Gatsクアットロガッツ)』というレストラン・バーなのですが当時ピカソやダリたちが集っては、芸術だけでなく、思想や社会などいろんな分野に関しての議論をかわしていたそうです。
現在でも非常に人気のあるレストランで、夜はしょっちゅう満席になるようで、事前に予約をするのが妥当のようです。
このレストランの内装は、 『モデルニスモ(Modernismo)』 時代に、ガウディ同様に活躍した建築家ジョセップ・プッチ・カダファルク(1867-1956 Josep Puig I Cadafalch)が設計しました。
『モデルニスモ(Modernismo)』について
プッチは多数の建築物を設計しましたが、現在それらの作品を目にすると、大胆に曲線を使い華やかさを感じさせるガウディとは違い、どちらかというと直線で構成され、最終的に仕上がりが地味な作品が多く、その事が、プッチがガウディほど知名度を持つにいたらなかった理由のひとつと言えるかもしれません。
製品は、ある人物が図(アート)を描いた後、本人自身の手で製作(クラフト)までするのが理想だと考えられる事があります。
図(アート)が完璧である事は極めてまれで、あくまで製品を作るための情報と考えます。
図(アート)を描いた時点では、その製品の製作(クラフト)に最も適する架構、製造方法の判断が必ずしも容易ではありません。
そう考えますと、図(アート)に基づき実際に製作(クラフト)し始める事で、はじめて図(アート)の問題点が認識でき、仮に製作(クラフト)が困難になるならば、元図(アート)を製作(クラフト)しやすいように変更、改良等をすればよいのです。
もし、図(アート)の作成者と製作(クラフト)者が同一人物であれば、製品に対する理念は踏襲され、結果、製品の品質は維持されるだろうと考えられます。
一方、図(アート)の作成者と製作(クラフト)者が違えば、出来上がった製品は、図(アート)の作成者の理念と食い違う可能性が少なくありません。
一方、イギリスの建築史家で建築家でもあるニコラス・ペブスナーは、
『工業は、大量に同一の製品を生産することであり、デザイナーは実用品の考案や作図をする人だと考える。自分で考案、作図したものを自分で製作までしてしまう場合には、デザイナーとは呼ばない。が、ある人がたったひとつだけ作られるものを考案、作図する場合でも、その人はデザイナーであると言える。』と語っています。
つまり、アートとクラフトの分離が理想だとする考え方を持っていました。
又、ニコラス・ペブスナーは、機械生産を肯定するモダニズムの賛成者でもありました。
さて、現代の世の中は、建築、工芸品や美術品などの製品につき、同一人物がアートからクラフトまで一貫して携われる環境であるとは必ずしも言えないと思います。
むしろ、プロジェクトがより巨大化、細分化し、又、生産される製品の品質が各段に向上してきた事、そして、同一人物がアートからクラフトまで一貫して作業をする場合のコスト上昇などの要因により、分業体制が主流であると言えなくもないと思います。
一貫しての作業、あるいは分業のどちらが正だとかを断定するのが骨子ではなく、工業製品に関わる人たちそれぞれがそのような課題を常に認識する事で、今日、そして今後、より良い工業製品の製造が可能になるのではないかと思います。
古代エジプト、ギリシャ、ローマ時代には、“クラフトマン”、つまり、手工芸技術を持ち、手作業で製品を製作する人たちが存在しました。
一方、“アーティスト”、つまり自身の手を動かして製作行為はせず、デザインや意匠に特化する立場の人たちは明確には存在しませんでした。
クラフトマンが何らかの物を製作するには、その為の下絵や構想図が必要になりますが、今日で言うところの設計図や意匠図のような明確なものではなかったと考えられています。
中世になると宗教色が強まりました。
ゴシックの大聖堂のように大規模な建築物が各地に次々に建てられた事から分かるように、クラフトマンが活発に活躍していた時代といえます。
そして、クラフトマンは、親方、職人、従弟という形でチームワークが育成され、そして、親方が、自身の頭の中で製作物を計画し、同時に下位の者を監督し、製作にあたっていました。
さらには、“ギルド”と呼ばれる職人組合の設立で、組織立った製作活動がされていました。
このように、中世ヨーロッパ時代もアーティストの存在は明確ではありません。
近世はルネッサンスにより、ブルジョアの大頭、人文科学、思想、哲学の発達と共に、知識人が出てきます。
その結果、クラフトマンは、それまでの単なる製作、つまり肉体労働に携わるのではなく、自身で綿密な立案や計画を始めます。
つまり“アーティスト”が誕生しました。
しかし、“アーティスト”と“クラフトマン”の明確な分離ではなく、クラフトマンの延長で、知的なアート作業をしている状況でした。
近代になると、クラフトマンの“ギルド”に対して、アーティストの“アカデミー”と呼ばれる組織ができ、アーティストは自身の身分を保護されるようになります、
そして、産業革命後、機械の発達で、クラフトマンの立場にかげりが出てきます。
手工業の衰退と、モチベーションの低下がそれに拍車をかけます。
そして、いよいよ知識作業主体のアーティスト、肉体労働主体のクラフトマンの職能分離が明確になり、現代に至ります。
近代には建築材料の革命的な発明がありました。
“鉄”と“ガラス”と“コンクリート”です。
“鉄”は古代より利用されてきました。
しかし、それは主として建物の構造を補強する部材として使われるに過ぎませんでした。
そして、近代に入り、いよいよ柱・梁など主要構造部としての使用が始まります。
つまり、鉄骨構造の建築物の誕生です。
写真はパリ万博時に建設された『エッフェル塔(1889年)』です。
当事はそれまでにない無骨な鉄骨の塔の建設につき賛否両論があったようですが、近代において鉄骨が主要構造部に使用する事が可能となった事、つまり近代の技術革新を象徴する建物と言えます。
“ガラス”は、ゴシックの大聖堂などで使用されてきたステンドガラスはあくまで色ガラスで、透明ガラスが使用され始めるのはこの時期からです。
そして、無色透明のガラスが建物に使用されることで、外装は軽快に、又、室内空間を明るくする事が可能になりました。
“コンクリート”は、古代ローマから使用されてきた材料ですが、古代ローマ時代のように火山灰や砂利などを混ぜ合わせて材料を硬化させるのではなく、人工的にセメントを作り、骨材と混ぜ合わせるいわゆる今日のコンクリートが発明されたのです。
さらには、鉄筋と組み合わせてより建築物の強度を向上させる試みも始まりました。
コンクリートは型枠に流し込んで一体整形される特質より、自由な形状の造形を可能にしました。
写真は近代建築の三大巨匠の一人、ル・コルビュジェが設計した『ロンシャンの礼拝堂(1955年)』ですが、コンクリートの彫塑性を利用してデザインされた建築物の一例です。
これらの建材の登場により、これまでの建築生産方式、構造の架構法に大きな変化が生じます。
そして、その結果、建物の外装表現の可能性が広がり、俗に言う“モダニズム建築(近代建築)”が後に確立される事になります。
産業革命後、近世以前のヨーロッパでは貴族たちなど上位に位置する人達しか所有できなかった品々が一般の人々の手にも渡るようになり、又、物の種類も増え、人々が豊かになり、生活様式も変化してきます。
生活様式の変化に伴い、それに見合う建築物の構築が望まれるのですが、それまでの建築物に対する考え方がすぐに変化することはありませんでした。
19世紀初頭までは過去の様式を模倣する“リバイバル様式”、あるいはルネッサンス期のような厳格なオーダーやモチーフの使用でなく自由自在にそれらを組み合わせる様式、つまり“折衷様式”で各国の主要な建築物が建てられました。
“リバイバル様式”、“折衷様式”が流行した時期は、古典様式から学ぶべきものを学び、利用するべきものを利用し、次世代に飛躍して行くために試行錯誤された時期だったと言ってもよいかと思います。
そして、この時期の建物が、現在でもヨーロッパ各国の重要な建築物として使用され続けているという事実により、この時期の建築物の生産が表面的な古典様式の模倣だけではなかったと言えます。
左は“ビッグ・ベン”の通称で親しまれているイギリスの国会議事堂ですが、“リバイバル様式”の代表作です。
しかしながら、生活様式が変化するに伴って、これまでの建築物、装飾品、日用品の本来のあり方を模索する “近代建築運動・芸術運動”が19世紀前後各国で始まり、“リバイバル様式”、“折衷様式”もいよいよ終焉を向かえます。
近世ヨーロッパは、中世の封建主義、教会を中心とする社会体制から個人を解放する意識が強まるにつれ、人々が社会や個人のあり方について模索し始める時期と言えます。
そして、古代ローマ時代の学問や芸術の復興によって、古代ローマ時代にあった人間らしい、世俗的な世界を再現していく運動(ルネッサンス)が始まりました。
近世のヨーロッパは、もっぱら教会建築に力が注がれていた中世とは対象的に、公共施設、宮殿、邸宅等多様な用途の建物が建設されました。
特にイタリアの都市フィレンツェは学問、芸術が奨励され、結果、建築、美術、芸術の傑作が集まったと言っても過言ではありません。
左の写真はフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ですが、ブログ開始した日の記事 「歴史のおもしろさ」 に記述しましたブルネッスキがその象徴ともいえる美しいドームを設計しました。
商業を通じて資産家は莫大な富を得ました。
資産家は、建築家、芸術家たちのパトロンとなり、彼らが模索する創作願望を実現する推進力にもなりました。
対外的に反映したイタリアの商業都市ヴェネツィアには、ルネッサンス様式の邸宅が多く残っており、左は、現在ではホテルとして利用されているヴェンドラミン邸(1481年)です。
ルネッサンス時代の建物の多くは、外部に向かって古代のオーダーを使用する事で古典的な威厳と秩序を保ち、内部は個人の為に開放性、快適性を重視する空間作りがなされたました。
オーダーは、建物をいかに視覚的に美しく仕上げるか、古代ギリシャ時代に考案された比例体系です。
つまり、縦横比、材料、装飾のボリュームなどを、建築家それぞれが美しいと考える比例理論に基づき、より美しい建物の創造を目指し切磋琢磨した時代でもありました。
中世ヨーロッパでは、親方が建築生産を一手に担う方式でしたが、近世からは、設計者と施工者の分離も明確になってきます。
そして、画家、彫刻家などの芸術家が活躍し始める事で、都市に彩り、華やかさがもたらされます。
いわば、社会が近代、現代に向けてより高度化していく過程の中で、分業の考え方が芽生え始めた時期とも言えます。
中世初期のヨーロッパは、ゲルマン民族が作る農村社会の集合体で、同時期のイスラムの方がずっと先進的だったようです。
西暦800年に、ローマ文明の復興を願ったカール大帝が、西ヨーロッパを統一すると、ようやく秩序だった社会が形成されはじめ、同時にキリスト教が広範囲に広まり、壮麗で大規模なゴシック建築の教会が各地に次々と建てられました。
ゴシック様式の大聖堂は、垂直方向が強調された立面が多く、象徴として立てられる塔はまるで各地で高さを競い合っているかのようです。
そして11世紀以降、十字軍の遠征でイスラムとの接触が強まる事で、幸いにもイスラムの進んだ学問や生活様式が取り入れられ、その後のヨーロッパの発展の礎にもなりました。
特にスペインのゴシック建築は、イスラム建築の特徴とする幾何学的文様、アーチ、文字の装飾化などの建築構成要素が多用されています。
又、ユダヤ人から商業、金融など経済的技術を学ぶ事で、中世ヨーロッパ、特にイタリア、ドイツでは商人が活躍する都市社会が創られていきました。
総じて中世は、もっぱら教会や修道院などの宗教建築の建造に力を費やされた時期と言えます。
一方、封建制が強かった事から、権力を有する領主の館が各地に建造されました。
特にフランスでは、堅牢で優美な城郭が建てられました。
左は、代表的な中世のフランスの城郭“ピエルフォン城”で、19世紀に抜本的に改修され、当事の様子を忠実に再現しています。
一般の人々の住居の多くは木造、レンガ造と簡素でした。
古代ローマの建築は、古代メソポタミア、古代エジプト、古代ギリシャが育んできた建築技術を結集した集大成と言ってもよいかもしれません。
つまり、古代エジプト、古代ギリシャ同様、巨石を用い、古代メソポタミアで多用されたレンガ造に化粧貼りをする技術を習得しました。
この前「「古代ギリシャ文明-2(建築)」で、柱頭部のデザイン“オーダー” についてお話しましたが、ローマではギリシャのオーダーをさらに発展、応用しました。
そして、コンクリート技術を飛躍的に発展させる事で堅牢で大規模な建築物を作るのを可能にし、又、自由な建築形態の発想を促しました。
ローマのパンテオンは代表的なコンクリート建築物です。
又、 “アーチ” はローマが生み出した建築技術です。
石を積んでアーチを築きますが、当然それぞれの石は下向きの重力を発生します。
なぜ最上部の石が重力にしたがって落ちずに安定しているのでしょうか?
実は石の形状が単純な直方体ではなく、正面から見ると扇子を広げた場合の手で持つ所を除いた部分に似たような形状になっており、そうする事で力を横方向に流し、次の横の石、さらに次の横の石へと重力が地面に流されていくのです。
イタリア半島だけでなく、多くの植民都市にもアーチ構造の水道橋が建てられましたが、いかにローマの治世がシステマティックに行き届き、そして、いかに建築技術が進んでいたかの証です。
建築物の用途は、神殿、宮殿、劇場、競技場、浴場、水道橋等多くの公共建築、又、住宅、市場等個人の建築物と多種多様でした。
古代ギリシャのポリスは前回述べましたように、小高い丘(アクロポリス)に建てられる神殿を中心に、そのふもとのアゴラには広場、劇場、競技場、市場等が作られたのが特色です。
その中でも、とりわけ神殿建築に力が注がれました。
それは、一重にゼウスやオリンポスなど神々を信じる信仰心が極めて強かったからと言えます。
柱と梁で構成される神殿は、柱と柱の間の距離(スパン)、柱の直径に対する柱の高さ、梁(アーキトレーブ)の高さ、梁上部の装飾要素(フリーズとコーニス)、さらには、柱を直線的に建てるのではなく一定のふくらみ(エンタシス)をもたせる等、視覚的に最大限に美しく見せる努力と工夫をしていました。
神殿で試みられたこれらの美的意識、造形的感覚はいかにギリシャ人の芸術的思考が進んでいたかを感じさせます。
そして、“オーダー”と呼ばれる柱頭部の装飾を生み出しました。
オーダーは、ドリス式、イオニア式、コリント式の3種類があります。
オーダーは、以降のヨーロッパ、とりわけルネッサンス以降の建築で多用され、その後もヨーロッパだけでなく世界中で使用され続けています。
オーダーが今から2000年以上も前の古代ギリシャにおいて生み出された事を考えると、現在言うところの意味は若干違いますが、英語の“普遍的”という意味において、“ユニバーサルデザイン”だなあとつくづく感じます。
一般庶民の住居はオリエント地域(古代メソポタミア及び古代エジプトを包括する地域)同様日干し煉瓦造で、残念ながら遺構は非常に少ないです。