モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。

世の中のすべての製品には歴史があり、現在に至ります。
製品の歴史、変遷、デザインを辿りたいと思います。

ドイツ工作連盟(近代建築運動・芸術運動-11)

2013年08月30日 | 近代建築運動・芸術運動

20世紀になり、大衆の生活が次第に豊かになるに従って、不特定多数の大衆に、迅速な日用品、製品の提供が求められました。
その為には大衆の手が届く範囲の価格帯で大量生産できる必要があり、機械による合理的な生産方式が必須となりつつありました。

しかしながら、ウィリアム・モリスが否定するところの工場生産の製品については、依然として粗悪品が少なくはありませんでした。

さて、ドイツは20世紀初頭、急速に他国並みの工業国へと発展していく過程で、装飾過剰に対する批判が強まり、一方、機能性、合理性重視の社会機運が高まりました。

モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。-ドイツ工作連盟( Deutsche Werkbund)工場生産の必要性は大前提となりつつある世の中の風潮の中でしたので、であれば工場で製造される製品の品質を向上できればいいのではないかと考えられはじめました。

そして、1907年、ミュンヘンにて、ヘルマン・ムテジウスを中心に、芸術、工芸、工業の相互協力によって、工業製品の品質を高める事を目標とされる『ドイツ工作連盟(1907-1934 Deutsche Werkbund)』が結成されました。

連盟内では、良質な製品の製造には、モリスのようにアートクラフトも同一人物が一貫して製造するべきだと考える派閥、逆に、近代以降の工場による生産方式を推進する派閥が対立しましたが、最終的には、アートクラフトが分離されても、工場で無理なく生産ができるのであれば良い、つまり、無理なく製造(クラフト)できる形状(アート)の探求が進められました。

つまり、合理的、普遍的、標準的な製品の製造を追及する事、その考え方こそが、モダニズムの思想の原点と言えます。

1933年に、ナチスに解散させられましたが、ドイツ工作連盟の思想は、後のバウハウス(Bauhaus)に多大な影響を与えました。


アール・ヌーヴォー、アール・デコまでと、その後

2013年08月28日 | 建築・芸術

これまで、近代のイギリスの産業革命以後の近代建築運動・芸術運動の流れをみてきました。

中世までは、職人たちが丹精をこめてものづくりをしていましたが、産業革命後、機械による工場生産へとものづくりの方式が格段に変化しました。

そして、産業革命の発祥地イギリスでは、機械生産を否定するウィリアム・モリスがアーツ&クラフツ運動を始めます。

さらに、ヨーロッパ大陸では、古典様式にとらわれない近代にあった様式の確立を理想としてアール・ヌーヴォーが始まります。
しかしながら、アール・ヌーヴォーは製造コストが高くなる特性上、結果、不特定多数の大衆が製品を手にする事は出来ませんでした。

ウィーンで始まったゼセッションはアール・ヌーヴォーほどの装飾性は付帯しませんでしたが、必ずしも機能的で合理的な空間を創造出来たわけでもありませんでした。

同時期にアメリカで流行したアール・デコも量産というよりは、むしろ一品生産でした。

このように、アール・ヌーヴォー、アール・デコに至る時期までは、装飾が主体となり、機能性、合理性はその次だったのではないか、どちらかと言うと装飾優先のものづくりであったのではないかと考えられます。

そして、いよいよ、機能性、合理性を重視するモダニズムの思想がヨーロッパ各地で芽生え始めます。


アール・デコ(近代建築運動・芸術運動-10)

2013年08月26日 | 近代建築運動・芸術運動

フランスでは、アール・ヌーヴォー以後、結果的にアール・ヌーヴォーが達成できなかった機械による大量生産に適した意匠、造形が求められました。

アール・デコ(Arts Decoratifs)1925年、後に 『アール・デコ(1910-1939 Art Deco)』 の語源となる 国際装飾美術展(L’Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels Moderns) がパリで開催されました。

アール・ヌーヴォーは、植物や動物、昆虫などをモチーフに曲線で構成される意匠が多く、結果的に工場生産に向かない生産方式となり、一般大衆の意向に沿えず、30年程度で流行が終わりました。

一方、アール・デコは直線、幾何学的なモチーフで構成され、工業生産に適する形態でしたが、後のドイツで始まる バウハウス(Bau House) 同様、シンプルな形態、意匠を求めつつも、一定の装飾を用い、華麗だったとも言えます。

又、アール・デコは建築、工芸、絵画、日用品、ファッションと、アール・ヌーヴォーに比べて、身の回りにある広範囲な製品を対象としていました。

アメリカは1925年のパリ国際装飾美術展に不参加でしたが、翌年にパリ国際装飾美術展出展作品を展示する巡回展がアメリカ各地で開催され、多くの人々がアール・デコの意匠、造形を目にする機会となりました。

クライスラービル(Chrysler Building)そして、当時のアメリカは摩天楼の時代で、ニューヨークのクライスラービル(1930 Chrysler Building )エンパイアーステートビル(1931 Empire State Building )など多くの高層建築は、アール・デコの造形をまとう事となります。

アール・デコは、20世紀前半の芸術運動の最後のスタイルと言えますが、世界恐慌、1933年のナチス政権の成立、又、同時期、 ル・コルビュジェ やドイツの バウハウス(Bau House) が提唱する機能主義の活発な動きとなども影響して、徐々に衰退していきました。

そして、いよいよ モダニズム(modernism) が確立されていきます。


ウィーン工房(近代建築運動・芸術運動-9)

2013年08月23日 | 近代建築運動・芸術運動

モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。-ウィーン工房(Wiener Werkstatte)『ウィーン工房(1903-1932 Wiener Werkstatte)』 は、1903年、一般大衆、デザイナー、そして工芸職人との親密な関係を作り、簡潔で質の高い家庭用品を製作する事を目的に、 『ウィーン分離派 ゼセッション(1897-1920 Secession)』 の一員だったヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーが、分離派の作品を製作、販売する為、そして、分離派の理念をさらに発展させる組織として設立されました。
『ウィーン分離派 ゼセッション(Secession)』について
ヨーゼフ・ホフマンについて

ウィーン工房のデザインは、分離派のスタイルを踏襲して主として直線、幾何学的な要素で構成されますが、後期は、装飾的で幻想的な色合いを帯び始めました。

とりわけ、ヨーゼフ・ホフマンが品質面で妥協をせず、結果的に高品質なものを追求する事で、手ごろな価格でできる製造を阻む結果となり、元来目指すべき大衆向けデザインの可能性が狭められました。

そして、元々の理念とはうらはらに、富裕層向けの装飾品を製造する事になりました。

1932年に工房は倒産しました。


ウィーン分離派 ゼセッション(近代建築運動・芸術運動-8)

2013年08月22日 | 近代建築運動・芸術運動

万を持して民衆が主体となる近代が始まったはずのヨーロッパでしたが、オーストリアの首都ウィーンの中心部リングシュトラーセには、1880年代になってもなお威厳を保つ 『新古典主義建築』 が建て続けられていました。
『新古典主義建築』について

グスタフ・クリムト(Litzlberg am Attersee)そのような状況の元、旧来の保守的な形態構築方式から離脱し、美術、文学、音楽などのあらゆる芸術を一つの総合的芸術作品に融合する事を目的とする 『ウィーン分離派 ゼセッション(1897-1920 Secession)』 が、1897年、ヨーゼフ・ホフマンを中心にヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ、コロマン・モーザ-、グスタフ・クリムトたち建築家、芸術家、工芸家たちにより設立されました。
ヨーゼフ・ホフマンについて

『分離派』 とは、旧来の古典主義を重点とする思想性から離脱して、近代の生活によりふさわしい創作物を創出する運動を推進した建築家、芸術家たち、あるいはグループを示しますが、活動はオーストリア、ドイツを中心に展開され、そのうち最も強い影響力を持っていたひとつが、 『ウィーン分離派 ゼセッション』 です。

 

ウィーン分離派 ゼセッション(Secession)ゼセッションの活動の拠点は、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ設計の 『分離派館(1898 Secession)』 で、正面ファサードには、分離派のモットーとして、 『DER ZEIT IHRE KUNST DER KUNST IHRE FREIGHT(時代にその芸術を 芸術にその自由を)』 の文章が掲げられました。

ゼセッションは、フランスやベルギーの 『アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)』 とは本質的に相違点があります。
といいますのは、形態を重視し、曲線、植物、動物、昆虫などのモチーフを多様する事で動的な印象を与えるアール・ヌーヴォーに対して、ゼセッションはチャールズ・レニー・マッキントッシュたちグラスゴー派、つまり 『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー(Scotish Art Nouveau)』 の影響を強く受けた事、さらには、不特定多数の大衆の近代生活を目標とした事より、平面・立面の構成、構造形式において実用性を重視した事、又、曲線より明確で合理的な直線や幾何学的な文様が使用される事で静的、質実剛健、均整のとれた様相となっている事などが特徴です。
『アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)』について
『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー(Scotish Art Nouveau)』について
チャールズ・レニー・マッキントッシュについて

ゼセッションは、1905年、中心的人物だったヨーゼフ・ホフマンたちが脱退する事で、次第に前衛性を失っていく事になります。


ヨーゼフ・ホフマン(世紀末の建築家-2)

2013年08月21日 | 建築家・デザイナー

画像名称ヨーゼフ・ホフマン(1870-1956 Josef Hoffmann)は、1870年、現チェコ共和国の東部モラヴィア地方に、生まれました。
モラヴィア地方は東ローマ帝国やフランク王国の影響、共産化の経験など、外部からの影響を多分に受けてきた地域です。

ホフマンの父は紡績工場の経営者で、よく工場を出入りしていたホフマンはおのずと装飾に対する感覚を養う事が出来たようです。

工芸学校で建築教育を受けた後、20代の頃、ウィーンのリングシュトラーセに立ち並ぶ新古典主義の建築物の数々を設計した建築家カール・フォン・ハーゼナウアー、その後、オットー・ワーグナーに師事しました。
オットー・ワーグナーについて

1897年、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ、コロマン・モーザ-、グスタフ・クリムトなど建築家、芸術家、工芸家たちと共に、オットー・ワーグナー賛助の元、 『ウィーン分離派 ゼセッション(1897-1920 Secession)』 を設立しました。

1903年、コロマン・モーザ-と共に、 『ウィーン工房(1903-1932 Wiener Werkstatte)』 を設立し、建築、家具、日用品など生活に関わる広範囲にわたる製品につき創作活動を開始します。
ウィーン工房での活動時期、ホフマンは品質面で妥協をせず、あくまで高品質なものを追求し、結果的に本来目指すべき手ごろな価格の大衆向け家庭用品の製造と市場への供給が困難となりました。
そして、元々の理念とはうらはらに、富裕層向けの装飾品を製造する事になり、1932年にウィーン工房は倒産しました。

画像名称ホフマンは 『芸術家には2種類ある。物を理性的に構築し、体系的に発展させるタイプと、何かを突然思いつくタイプである。』 と述べた事があり、さらに 『私は後者だ。』 と付け加えています。
この表現こそ、ホフマンが始終自由な創造性を目指していた裏づけと言えます。

左はホフマンが設計した ストックレー邸(1904 Le palais Stoclet) ですが、建築の外装、内装、家具、日用品、食器に至るまで、ホフマンの理念に基づき総合的に設計された作品のひとつです。

ホフマンは、1956年ウィーンにて亡くなるまで、工芸品を製作し続けました。


オットー・ワーグナー(世紀末の建築家-1)

2013年08月20日 | 建築家・デザイナー

オットー・ワーグナー(Otto Wagner)オットー・ワーグナー(1841-19 Otto Wagner)は、1841年にウィーン郊外に生まれました。

学生時代はウィーンとベルリンで建築を学びますが、いずれの都市も 『新古典主義建築』 が立ち並ぶ街だった事もあり、卒業後には、古典様式の理念を踏襲する仕事に携わる事が多かったようです。
『新古典主義建築』 について

しかし、1890年代に大規模な都市計画に携わる機会が訪れ、近代の都市に必要とされる要素について深く思考します。

そして、ワーグナーは、 『芸術は必要にのみ従う。』 と主張し始めます。

 

ウィーン郵便貯金局(Österr Postsparkasse)『芸術は必要にのみ従う。』 とは、つまり、装飾は必要に応じ配されるべきで、空間の機能性、合理性を妨げてはならないという考え方です。
左の 『ウィーン郵便貯金局(1906 Österr Postsparkasse)』 は、過度な装飾を廃止、吹き抜けを設け、その上部はトップライトとする構成で今日でも違和感のない開放的で機能的な空間が演出されています。

 

アム・シュタインホーフ教会(Kirche am Steinhof)オットー・ワーグナーの作品の多くは、アールヌーヴォーほど曲線を多用せず、どちらかと言うと、線と面、そして幾何学的な文様で構成され、左右対称の空間構成が多かったと言えます。
又、外観は上品な装飾、文様が配され、オットー・ワーグナーの作品の特徴ともいえる配色、つまり、白、若草色、金色等の色合いで着色され、内部は機能性、実用性を重視しました。

左は 『アム・シュタインホーフ教会(1907 Kirche am Steinhof)』 ですが、ウィーン郵便貯金局同様、ワーグナーの晩年の作品で、彼の理念がよく表現されています。

オットー・ワーグナーの設計理念は、その後の 『モダニズム建築』 に受け継がれていきます。


アール・ヌーヴォー ドイツ編(近代建築運動・芸術運動-7)

2013年08月19日 | 近代建築運動・芸術運動

モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。-ユーゲント(Jugend)1896年、ドイツで、パステルカラーや、時にはヴィヴィッドな色彩で草文様や文字のレタリングで表紙をデザインする雑誌 『ユーゲント(Jugend)』 が発刊されました。
雑誌の内容は、民衆が必要とする日用品、服飾、デザイン用品などの広告や各種情報が盛り込まれました。

ユーゲントは、旧来の古典様式から一変させた表現で構成され、内容も当時ようやく自由を獲得し始めた民衆の為の情報が豊富にあり、当時、非常に斬新で画期的な雑誌でした。
そして、雑誌ユーゲントにちなんで、ドイツで起こったアール・ヌーヴォーを『ユーゲント・シュティール(1890-1910 Jugendstil 青春様式)』と呼びます。

さて、19世紀のドイツでは、国内での統一国家の形成が他のヨーロッパ諸国に比べて遅れていた事もあり、どちらかというと他国からの影響を受けてドイツ独自のアールヌーヴォーが発展していったと言えます。

つまり、隣国フランスの『アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)』、そして、熟成段階に入っていた『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー(Scotish Art Nouveau)』の影響を強く受けた結果、花柄などの曲線、直線、幾何学的な構成等、各国の要素が集積された独特の様式に発展していきました。
『アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)』について
『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー(Scotish Art Nouveau)』について

モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。-ダルムシュタット(Darmstadt)ドイツの中部、ダルムシュタットに芸術家たちが集える芸術家村 『マチルダの丘』 が設立され、ユーゲント・シュティールの活動が活発に行われました。
左は芸術家村です。

一方、芸術家や建築家は、自身の製造する製品に、独創性、つまり唯一無二の装飾を表現する傾向が強かった事などもあり、過度の装飾が成される事もありました。

合理性と装飾性の均衡、ユーゲント・シュティールの是非なども問われつつ、『ドイツ工作連盟(1907-1934 Deutsche Werkbund)』へと理念が発展していきます。


チャールズ・レニー・マッキントッシュ(アール・ヌーヴォーの建築家-4)

2013年08月16日 | 建築家・デザイナー

チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh)チャールズ・レニー・マッキントッシュ( 1868-1928 Charles Rennie Mackintosh)は1868年、スコットランド最大の都市グラスゴーに、警察官の息子として生まれました。
小さい頃、よく風景画を描いており、16歳の頃、建築家を志し、修行を開始します。

1890年、ジョン・ハニマン&ケペー事務所で建築活動を開始します。
マッキントッシュは当時、社会情勢が著しく変化し、又、科学技術の急速な発展を背景とするイギリスで、時代に沿った運動、つまり、新古典主義アーツ&クラフツ運動アールヌーヴォー、それら全てを体験していました。

 

ヒルハウス1(Hillhouse1)1893年にハーバード・マクネイアー、マーガレットとフランシス・マクドナルド姉妹の4人でデザイナーグループ 『ザ・フォー(The Four)』 を結成します。
結成当初は、ウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動に強い刺激を受けますが、数年後には、離反していき、『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー(Scotish Art Nouveau)』 、すなわち、ベルギーやフランスのように植物や動物をモチーフとした曲線ではなく、直線、幾何学文様で構成されるモチーフが特徴の別名 『グラスゴー・スタイル(Glasgow Style)』 を確立しました。

マッキントッシュの造形は白色、灰色、パステル色、そして正方形を中心とする幾何学文様で構成される事が多く、 『アール・デコ(Art Deco)』 に通ずる印象を受けます。

 

マッキントッシュハウス(Mackintosh House)『ヒル・ハウス(1902 Hill house)』、そしてその空間に設置された家具『ヒル・ハウス1(1902 Hill house1)』 、さらには、 『ウィロー・ティールーム(1903 Willow Tearoom)』 、そして同空間に設置された家具 『ウィロー1(1904 Willow1)』 はマッキントッシュの造形理念を顕著に表しています。
これらは、建築空間、内装だけでなく、その空間を装飾する家具、小物まで総合的にデザインされ、それは 『建築はあらゆる美術の総合であり、全ての工芸の集合である。』 と考えるマッキントッシュの理念が明確に表現されています。

1899年にマクネイアーがフランシスと結婚し、ザ・フォーは解散し、その翌年には、マッキントッシュとマーガレットが結婚しました。

1900年、『ウィーン分離派 ゼセッション(1897-1920 Secession)』から第8回分離派展への招待を受けました。
展覧会では、マッキントッシュの作品が展示されました。
当時曲線を使うアール・ヌーヴォー様式の風合いが強かったウィーン分離派が、その後直線や幾何学的文様を多用する方向にシフトしていく事からも、マッキントッシュの影響は少なくなかったと言えます。
展覧会の後、ウィーン分離派のヨーゼフ・ホフマンたちとの深い親交関係は、国際的な運動の発展に繋がり、各国に影響を与えていきました。

第一次世界大戦の始まる1914年に、ロンドンのチェルシーに移り、新たに事務所を設立します。
アール・デコの 『バセット・ローク邸(1916)』 はこの時期の作品です。

1923年以後、身体の健康状態の問題なども原因で、建築の仕事からはなれ、南フランスで水彩画に専念しました。
1928年、ロンドンで亡くなりました。


アール・ヌーヴォー イギリス編(近代建築運動・芸術運動-6)

2013年08月15日 | 近代建築運動・芸術運動

ベルギーやフランスで 『アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)』 と呼ばれていた運動は、イギリスでは、 『モダン・スタイル(Modern Style)』 と呼ばれる事が一般的だったようです。

イギリスは、そもそも近代建築運動・芸術運動の元祖とも言える 『アーツ&クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)』 が始まった事もあり、その理念の延長線上に 『モダン・スタイル(Modern Style)』 が開花します。

そして、とりわけイギリスが他のヨーロッパ各国とは海で隔てられていた事もあり、イギリス式アール・ヌーヴォー 『モダン・スタイル(Modern Style)』 は、他国の影響を受ける事も少なく、独自のスタイルに発展したと言えます。

マッキントッシュハウス(Mackintosh House)『モダン・スタイル』の初期段階は、他のヨーロッパ諸国同様、植物模様や曲線を用いる傾向が強かったのですが、スコットランド地方で展開された 『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー(Scotish Art Nouveau)』 は、他の国が曲線を多用していたのに対し、直線的で幾何学的な要素で表現される事が少なくなかったのが特徴です。

『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー』は、チャールズ・レニー・マッキントッシュ( 1868-1928 Charles Rennie Mackintosh)を中心として4人で結成されたグループ『ザ・フォー(The Four)』により積極的に活動が展開されました。
チャールズ・レニー・マッキントッシュについて

又、『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー』は、スコットランドのグラスゴーを中心に活動が展開されたことにちなんで、 『グラスゴー派(Glasgow Style)』 とも呼ばれます。

 

『グラスゴー派』は直線的な造形を特徴としますが、ドイツの 『ユーゲントシュティール(1890-1910 Jugendstil 青春様式)』 、さらに後のオーストリアの 『ゼセッション(1897-1920 Secession ウィーン分離派)』 に強い影響を与えます。