モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。

世の中のすべての製品には歴史があり、現在に至ります。
製品の歴史、変遷、デザインを辿りたいと思います。

鉄とガラスとコンクリートの発明

2013年07月31日 | 建築・芸術

近代には建築材料の革命的な発明がありました。

“鉄”“ガラス”“コンクリート”です。

パリ エッフェル塔“鉄”は古代より利用されてきました。
しかし、それは主として建物の構造を補強する部材として使われるに過ぎませんでした。

そして、近代に入り、いよいよ柱・梁など主要構造部としての使用が始まります。
つまり、鉄骨構造の建築物の誕生です。

写真はパリ万博時に建設された『エッフェル塔(1889年)』です。

当事はそれまでにない無骨な鉄骨の塔の建設につき賛否両論があったようですが、近代において鉄骨が主要構造部に使用する事が可能となった事、つまり近代の技術革新を象徴する建物と言えます。

 

 

ガラスの回廊“ガラス”は、ゴシックの大聖堂などで使用されてきたステンドガラスはあくまで色ガラスで、透明ガラスが使用され始めるのはこの時期からです。

そして、無色透明のガラスが建物に使用されることで、外装は軽快に、又、室内空間を明るくする事が可能になりました。

 

ル・コルビュジェ ロンシャンの礼拝堂“コンクリート”は、古代ローマから使用されてきた材料ですが、古代ローマ時代のように火山灰や砂利などを混ぜ合わせて材料を硬化させるのではなく、人工的にセメントを作り、骨材と混ぜ合わせるいわゆる今日のコンクリートが発明されたのです。
さらには、鉄筋と組み合わせてより建築物の強度を向上させる試みも始まりました。

コンクリートは型枠に流し込んで一体整形される特質より、自由な形状の造形を可能にしました。

写真は近代建築の三大巨匠の一人、ル・コルビュジェが設計した『ロンシャンの礼拝堂(1955年)』ですが、コンクリートの彫塑性を利用してデザインされた建築物の一例です。

これらの建材の登場により、これまでの建築生産方式、構造の架構法に大きな変化が生じます。
そして、その結果、建物の外装表現の可能性が広がり、俗に言う“モダニズム建築(近代建築)”が後に確立される事になります。


歴史様式のリバイバル

2013年07月30日 | 建築・芸術

産業革命後、近世以前のヨーロッパでは貴族たちなど上位に位置する人達しか所有できなかった品々が一般の人々の手にも渡るようになり、又、物の種類も増え、人々が豊かになり、生活様式も変化してきます。

生活様式の変化に伴い、それに見合う建築物の構築が望まれるのですが、それまでの建築物に対する考え方がすぐに変化することはありませんでした。

ウィーン 国会議事堂19世紀初頭までは過去の様式を模倣する“リバイバル様式”、あるいはルネッサンス期のような厳格なオーダーやモチーフの使用でなく自由自在にそれらを組み合わせる様式、つまり“折衷様式”で各国の主要な建築物が建てられました。

“リバイバル様式”“折衷様式”が流行した時期は、古典様式から学ぶべきものを学び、利用するべきものを利用し、次世代に飛躍して行くために試行錯誤された時期だったと言ってもよいかと思います。

 

ロンドン 国会議事堂そして、この時期の建物が、現在でもヨーロッパ各国の重要な建築物として使用され続けているという事実により、この時期の建築物の生産が表面的な古典様式の模倣だけではなかったと言えます。

左は“ビッグ・ベン”の通称で親しまれているイギリスの国会議事堂ですが、“リバイバル様式”の代表作です。

しかしながら、生活様式が変化するに伴って、これまでの建築物、装飾品、日用品の本来のあり方を模索する “近代建築運動・芸術運動”が19世紀前後各国で始まり、“リバイバル様式”“折衷様式”もいよいよ終焉を向かえます。


産業革命

2013年07月29日 | 歴史

18世紀のイギリスは、海外に広大な植民地を持っていました。

産業革命 機織り広大な世界市場には商品の需要があり、その結果、手工業では供給に間に合わず、手工業に変わる各種機械の発明が始まりました。

そして、イギリスで始まった“産業革命”は、それまでの人間の“手”で行う生産システムを工場にて“機械”で生産するシステムに置きかえました。

しかし、実際には、外観は手工芸品であるかに見える商品が工場で模倣して製造されるに過ぎなかったのです。
と言うのは、当時、職人が丹念に作っていた製品とまるっきり同等のものを機械化して作る技術はまだありませんでした。
極論すると粗悪品の大量生産をしていたとも言えます。

又、産業革命により一部の中世の職人たちは単に工場で働く労働者となり、伝統的な技術と誇りを失っていく事にもなり、結果、ものづくりは、無教養な製造業者に委ねられていたと言っても過言ではないかと思います。

さて、手作業なら、それにふさわしい構造、架構法があり、結果として形態が出来上がります。
構造はその構成美を演出し、手の込んだ造形や装飾に職人ひとりひとりの心がこもります。

一方、工場であれば、製品の形態やその構造が過度に複雑でなく、シンプルに構築されていればこそ、短時間で製品を大量生産できる生産システムのメリットが最大限に活かせるはずです。

果たして、“生産力は高いけれど粗悪品を生み出す工場は豊かさを求める近代生活にとって有効なのか、あるいは、中世の手工業がやはり良いか”という葛藤の中、ヨーロッパ各国で様々な“運動”が始まっていく事になります。


モダンデザインが確立されていく近代

2013年07月27日 | モダンデザイン

ヨーロッパの文明の始まりから近代へ至る歴史を辿ってきましたが、おしなべて多くの人が自由に物事を述べ、自由に物を選択でき、自由に生活する事が可能となったのは、“近代”以降ではないかと私は考えております。

私たちは日本に住んでいますが、現代の生活において、近代以前つまり明治以前の先人の方々が営んできた衣食住のスタイルをそのまま踏襲している事はもちろんあるものの、変化してきたスタイルも少なくないのではないかと思います。

むしろ、衣食住の各分野において、ヨーロッパやアメリカの生活様式が、近代以降に日本へ伝来し、当事それらが合理的で衛生的だと判断し、その結果現在の私たちの生活様式の標準になっている事が少なくないと思います。
例えばジーンズを履いたり、冬に毛織物をはおったり、フォークとナイフを使って食事をしたり、食事にナプキンを使ったり、座式から椅子式への転換などです。

さて、私たちの生活の身の回りには建築、家具、機器、日用品など“物”であふれています。

そして“物”が私たちの生活をより便利に、そして快適にしてくれています。

そして“物”は見てくれが悪いよりは良いに越したことが多いと思います。

そして極論しますと、“物”は、“デザイン”とその“機能”により評価する事が出来ます。

言わば“物”は、いかに“機能”性を高め、みてくれ良く“デザイン”されるかがポイントです。

さて、私たちの今日の生活様式にとりわけ大きな影響を与えてきたと考えられるヨーロッパ、そして、アメリカの近代において、“ものづくり”、そして、“デザイン”、とりわけ、“モダンデザイン”がどのように確立されてきたのか、これからはその過程を辿っていきたいと思います。


近代ヨーロッパ

2013年07月26日 | 歴史

近世ヨーロッパの時代、ルネッサンスにより、古代ローマや古代ギリシャ時代のような人間らしい生活を取り戻す運動が試みられましたが、実のところ、それは一部の貴族や領主たちが享受できた程度で、押しなべて多くの平民の生活は自由ではなく、さらに平等にはほど遠い状態でした。

そんな状況下、イギリスでは1688年に名誉革命が起こります。
又、王宮では贅沢三昧、浪費三昧だったフランスでも1789年にフランス革命が起こります。

レ・ミゼラブル名誉革命、フランス革命は共に“市民革命”と呼ばれますが、その目的とは貴族と平民の身分の差をなくす事でした。
すなわち、貴族と平民の身分の差がなくなる“市民社会”が成立する時期をもって近代ヨーロッパの始まりと言えます。

左は、フランス革命を背景に個人の自由の獲得、そして愛を題材に描かれたビクトル・ユゴーの文学“レ・ミゼラブル”のミュージカル版ポスターの一部ですが、多くの国で、そしてオリジナルの英語以外に各国版も上演されています。

私は、ニューヨークのブロードウェーで観ましたが、皆様にも是非ご鑑賞をお薦めしたい作品のひとつです。

 

俗に言う“近代的○○”という表現は、あてはまる言葉がどんなものであるにせよ、人間的な進歩、自由の獲得といった進歩を示す感じが強く、ホッとします。

ナポレオンの戴冠式フランス革命後、ナポレオンがヨーロッパ全土に革命の波を及ばせ、ヨーロッパ各地域で市民が自由を獲得し始めます。

そして、国境がはっきりしなかったヨーロッパで、いよいよそれぞれの国家の領域が明確になり、それぞれ“主権国家”が誕生します。

 

国家の主権が明確になり、市民が自由に生活を開始するにしたがって、物が必要になってきます。
さらに各国間の交易が盛んになり、産業が栄えます。

イギリス産業革命とりわけ当時海外に数多くの植民地を持っていたイギリスでは、製造業、加工業が他国よりも一足早く活発になり、“産業革命(1760年~1830年)”が始まりました。
左は昨年のロンドンオリンピックの開幕式で当事の産業革命を演出した場面ですが、イギリスが世界に先駆けて起こした産業革命はその後の世界に工業化、生産技術の革新をもたらしました。

 

最後に余談ですが、“市民革命”は、資本主義から社会主義・共産主義社会の実現を目指した“プロレタリア(賃金労働者)革命”とは性格を異にします。

つまり、市民には“資本家”“労働者”の区別があります。
同じ市民でも、資本家は労働者を使用しますので、身分は不平等です。

つまり、“市民革命”が目指したのは、市民の“自由(貴族と市民を対等にする事。)”ですが、さらに“市民の平等(資本家と労働者を平等にする事)”までもを目指したのが“プロレタリア革命”なのです。


近世ヨーロッパ-2(建築)

2013年07月24日 | 建築・芸術

近世ヨーロッパは、中世の封建主義、教会を中心とする社会体制から個人を解放する意識が強まるにつれ、人々が社会や個人のあり方について模索し始める時期と言えます。
そして、古代ローマ時代の学問や芸術の復興によって、古代ローマ時代にあった人間らしい、世俗的な世界を再現していく運動(ルネッサンス)が始まりました。
近世のヨーロッパは、もっぱら教会建築に力が注がれていた中世とは対象的に、公共施設、宮殿、邸宅等多様な用途の建物が建設されました。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂特にイタリアの都市フィレンツェは学問、芸術が奨励され、結果、建築、美術、芸術の傑作が集まったと言っても過言ではありません。

左の写真はフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ですが、ブログ開始した日の記事 「歴史のおもしろさ」 に記述しましたブルネッスキがその象徴ともいえる美しいドームを設計しました。

 

 

ヴェンドラミン邸商業を通じて資産家は莫大な富を得ました。
資産家は、建築家、芸術家たちのパトロンとなり、彼らが模索する創作願望を実現する推進力にもなりました。

対外的に反映したイタリアの商業都市ヴェネツィアには、ルネッサンス様式の邸宅が多く残っており、左は、現在ではホテルとして利用されているヴェンドラミン邸(1481年)です。

 

 

ブルネレスキ捨子保育院ルネッサンス時代の建物の多くは、外部に向かって古代のオーダーを使用する事で古典的な威厳と秩序を保ち、内部は個人の為に開放性、快適性を重視する空間作りがなされたました。

オーダーは、建物をいかに視覚的に美しく仕上げるか、古代ギリシャ時代に考案された比例体系です。
つまり、縦横比、材料、装飾のボリュームなどを、建築家それぞれが美しいと考える比例理論に基づき、より美しい建物の創造を目指し切磋琢磨した時代でもありました。

中世ヨーロッパでは、親方が建築生産を一手に担う方式でしたが、近世からは、設計者と施工者の分離も明確になってきます。
そして、画家、彫刻家などの芸術家が活躍し始める事で、都市に彩り、華やかさがもたらされます。
いわば、社会が近代、現代に向けてより高度化していく過程の中で、分業の考え方が芽生え始めた時期とも言えます。


近世ヨーロッパ-1(生活様式)

2013年07月24日 | 歴史

近世ヨーロッパは“ルネッサンス”から始まります。

中世ヨーロッパは、封建主義、宗教戦争等、人を抑圧する要素が多く、その結果社会全体が閉鎖的になり、混沌としていました。
極論しますと、古代ギリシャ、古代ローマが長きにわたり築いてきた文明が破壊された時代であるとも言え、そういう状況下、徐々に古代ギリシャ、古代ローマ時代に培われた学問、哲学、芸術、そして人間らしい生活様式などを見直していく運動“ルネッサンス”が始まったのは不思議ではありません。

“ルネッサンス(Renaissance)”とは、“「再生」(re- 再び + naissance 誕生)”を意味するフランス語ですが、その単語が意味するごとく、“再生、復興(古典古代文化の再生、復興)”が近世ヨーロッパでの大きな社会的目標になりました。

そして、ルネッサンスと同時期に、“宗教改革”“大航海時代”が始まります。

まずは、“宗教改革”の骨子について。

前5世紀にユダヤ教が成立しました。
“総論賛成各論反対”は、物事を遂行する上で必ず付きまとってきます。
ユダヤ教も同様で、極論すると信仰する人間の数だけ考え方も多岐にわたるのではないでしょうか。
そんな状況下、イエスがユダヤ教の教義の改革を試みましたが、反対するユダヤ教徒に捕まり処刑されました。
その後イエスの弟子たちがキリスト教を発足させ、ヨーロッパに根付いていきます。
そして、時は中世、キリスト教も発足してから相当の時間が経過しました。 又、ヨーロッパも狭くはありません、それぞれの国、風土に沿って新しい考え方が芽生えてきます。

ルター カルヴァンそのような状況下、ルター、カルヴァンなどが“宗教改革”を始めます。
つまりローマ時代から続くキリスト教のあり方、教皇の世俗化、聖職者の堕落などに対し意義を唱え、新教が芽生え始めます。
特にカルヴァンの考え方は、蓄財、商業を推奨するなど経済的、合理的精神に基づいた考え方で、当事商業が活発化し始めていたヨーロッパで広範囲に広まりました。
言わば、中世の画一的な信仰精神からの脱却ですが、“宗教改革”が始まった後近代に至るまで、宗教に関する戦争がヨーロッパのあちこちで起こります。

そして、西ヨーロッパでは他の国より遅れて国が形成されていくスペインとポルトガルによる“大航海時代”の幕明けです。
長きにわたりイスラムが統治していたこれら2つの国は、フランスとスペインの国境付近に住むキリスト教徒たちが“レコンキスタ(再征服運動)”により、徐々にイスラム勢力を排除して成立します。

大航海時代航路図両国はイベリア半島に位置しますが、地理的に海に囲まれた特殊性から、対外貿易に目を向け、“大航海時代”が花開くのです。

そもそも危険を冒してまでする航海の目的とは、肉料理に欠かせない香辛料の入手でした。
当事の香辛料の流通はイタリア商人、イスラム商人に牛耳られており、香辛料を輸出するインドとの直接取引を目指し、インドに至る航路を模索し始めた事がきっかけだったのです。

大航海は、アメリカ大陸の発見、又、その後、近代に向けてヨーロッパ各国が競って海外植民地を作る結果になります。

余談ですが、アメリカ大陸発見について、ヨーロッパ人からすれば“新大陸”発見で、実際に私が高校生の歴史の授業でもそう学びましたが、実のところアメリカ大陸には元から先住民族スー族が住んでいましたので、“新大陸”という言い方はあくまでもヨーロッパを主体に考えた表現であり、必ずしも適切な表現ではないと思ったりもします。

又、ヨーロッパ人が苦労して到達したアメリカ大陸をインドと信じていたからこそ、先住民族のスー族たちを“インディアン”と呼んだ事も、早とちりだったのですね。


中世ヨーロッパ-2(建築)

2013年07月23日 | 建築・芸術

中世初期のヨーロッパは、ゲルマン民族が作る農村社会の集合体で、同時期のイスラムの方がずっと先進的だったようです。

ミラノ大聖堂西暦800年に、ローマ文明の復興を願ったカール大帝が、西ヨーロッパを統一すると、ようやく秩序だった社会が形成されはじめ、同時にキリスト教が広範囲に広まり、壮麗で大規模なゴシック建築の教会が各地に次々と建てられました。
ゴシック様式の大聖堂は、垂直方向が強調された立面が多く、象徴として立てられる塔はまるで各地で高さを競い合っているかのようです。

 

 

アルハンブラ宮殿そして11世紀以降、十字軍の遠征でイスラムとの接触が強まる事で、幸いにもイスラムの進んだ学問や生活様式が取り入れられ、その後のヨーロッパの発展の礎にもなりました。
特にスペインのゴシック建築は、イスラム建築の特徴とする幾何学的文様、アーチ、文字の装飾化などの建築構成要素が多用されています。

 

又、ユダヤ人から商業、金融など経済的技術を学ぶ事で、中世ヨーロッパ、特にイタリア、ドイツでは商人が活躍する都市社会が創られていきました。

総じて中世は、もっぱら教会や修道院などの宗教建築の建造に力を費やされた時期と言えます。

ピエルフォン城一方、封建制が強かった事から、権力を有する領主の館が各地に建造されました。
特にフランスでは、堅牢で優美な城郭が建てられました。
左は、代表的な中世のフランスの城郭“ピエルフォン城”で、19世紀に抜本的に改修され、当事の様子を忠実に再現しています。

 

一般の人々の住居の多くは木造、レンガ造と簡素でした。


中世ヨーロッパ-1(生活様式)

2013年07月22日 | 歴史

ローマ帝国が栄えていた頃、その北方にはゲルマン民族が住んでいました。
ゲルマン民族の社会は当時のローマの社会構造と比較するとまだ随分遅れていたと言えます。
ヨーロッパの中世は、ゲルマン民族がローマ帝国に向けて南下、いわゆる”ゲルマン民族の大移動”から始まったと言えます。

東西ローマ帝国版図西暦395年にローマ帝国が東西に分裂します。
一方、ゲルマン民族は、ローマ帝国が東西に分裂する以前から進んでいたローマ帝国での生活を望む者が少なくはなく、ローマ帝国と適時小競り合いがあったようです。
ゲルマン民族が本格的に西ローマ帝国内へ大移動を開始するに伴い、西ローマ帝国の社会体制は崩れはじめ、西暦476年西ローマ帝国は滅亡します。

 

その後、かつてローマ帝国が征服した土地のあちこちでゲルマン民族の農村社会が作られ始めます。

ユスティニアヌス帝時代のローマ帝国版図一方、東ローマ帝国は、西暦530年頃のユスティニアヌス帝(西暦527~565年)の時に、ゲルマン民族からイタリア半島を取り戻し、東西分裂前のローマ帝国の版図、つまり、イタリア半島、アフリカ北部、古代メソポタミア、古代ギリシャ、現在のトルコまでを含む領域を支配します。
左は、ローマ帝国最大版図を築いた5賢帝の一人トラヤヌス帝(西暦53~117年)時代の版図との比較です。

さて、滅亡した西ローマ帝国内では、西暦800年カール大帝のフランク王国が、散らばっていたゲルマン民族の国家を征服し、西ヨーロッパ全域を統一する事で、徐々にヨーロッパに安定がもたらされはじめます。
そして、西ローマ滅亡後、一時東ローマが支配していたイタリア半島は勢力を拡大するフランク王国が支配する事になります。

カール大帝の死後はフランク王国が分裂し、その後のイタリア、ドイツ、フランスの原型となります。

一方、東ローマ帝国は、ギリシャと現在のトルコあたりを版図とし、西暦1453年に滅ぼされるまで主としてギリシャ文化を受け継ぎ、独自の発展をしていきました。

十字軍中世ヨーロッパの特徴は、国、政府の力が非常に不安定で、強いものが上に上がれる、土地を持つことが出来る社会状況で、常に戦争がつきまとっていたとも言え、結果、領主とそれに従う者で構成される社会体制、つまり、“封建主義”が成立する事。
そして、キリスト教が大衆に浸透する事で、“宗教社会”が成立する事。
さらに、勢力を持ち始めたキリスト教は、イスラム教に対して十字軍を遠征させ、“宗教戦争”が始まる事。
このように中世ヨーロッパの社会は混沌とした様相で、“暗黒”の時代と言われたりします。

又、中世初期のフランク王国のカール大帝のように、ローマ時代の復興を望み、教育を推進、教会を建設するといった文化的な動き(“カロリング・ルネッサンス”と言います。)もありましたが、極論すると中世ヨーロッパと言われる1000年間(西暦476年西ローマ帝国の滅亡~11~13世紀十字軍~西暦1453年東ローマ帝国の滅亡まで)は、キリスト教支配の元、古代ローマ、ギリシャの文化が完全に破壊され、世界に貢献できるような文化的展開が出来なかった時代と評価される事も少なくありません。

事実、この時期のヨーロッパは、文化的にイスラムには遠く及ばない状態で、むしろ皮肉にも十字軍遠征により、当事進んでいたイスラム圏と接触し、哲学、天文学、医学、そして生活様式を学んだと言えます。
又、ユダヤ人からは、商業や金融等の技能を学び、その後の職人、商人を母体とするヨーロッパ近世の都市社会を構成していく下地になりました。


古代ローマ文明-2(建築)

2013年07月18日 | 建築・芸術

古代ローマの建築は、古代メソポタミア、古代エジプト、古代ギリシャが育んできた建築技術を結集した集大成と言ってもよいかもしれません。

パンテオンつまり、古代エジプト、古代ギリシャ同様、巨石を用い、古代メソポタミアで多用されたレンガ造に化粧貼りをする技術を習得しました。
この前「「古代ギリシャ文明-2(建築)」で、柱頭部のデザイン“オーダー” についてお話しましたが、ローマではギリシャのオーダーをさらに発展、応用しました。
そして、コンクリート技術を飛躍的に発展させる事で堅牢で大規模な建築物を作るのを可能にし、又、自由な建築形態の発想を促しました。
ローマのパンテオンは代表的なコンクリート建築物です。


古代ローマの水道橋又、 “アーチ” はローマが生み出した建築技術です。
石を積んでアーチを築きますが、当然それぞれの石は下向きの重力を発生します。
なぜ最上部の石が重力にしたがって落ちずに安定しているのでしょうか?
実は石の形状が単純な直方体ではなく、正面から見ると扇子を広げた場合の手で持つ所を除いた部分に似たような形状になっており、そうする事で力を横方向に流し、次の横の石、さらに次の横の石へと重力が地面に流されていくのです。
イタリア半島だけでなく、多くの植民都市にもアーチ構造の水道橋が建てられましたが、いかにローマの治世がシステマティックに行き届き、そして、いかに建築技術が進んでいたかの証です。

建築物の用途は、神殿、宮殿、劇場、競技場、浴場、水道橋等多くの公共建築、又、住宅、市場等個人の建築物と多種多様でした。